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リンディスファーンの福音書 (その2)

2014-09-29 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月29日(月)20時33分7秒

『美しい書物の話』の続きの部分も引用しておきます。

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 六五三年にオズワルド王は、宣教師団としてアイオナ島からノーサンブリアに来るように、聖エイダンを招聘した。彼はホーリー・アイランド、即ちリンディスファーン島にやって来て、本拠地とした。そして、そこに彼はアイルランド様式で修道院を建設した。七〇〇年になるほんの少し前に、ここで、ノーサンブリアの彩飾写本の現存する最も見事な例であるリンディスファーン福音書が製作された。約二百五十年後、アルフレッドとティルウィンの息子であるアルドレッドが、英語でそれに注釈をつけ加えている。私たちにとって幸いなことに、彼はその書物の起源についての記録も書きのこしてくれている。それは、あの嵐の吹きすさぶ島での生活をおおい隠しているカーテンを、ほんの少しの間わきに引いてくれるのである。

 リンディスファーンの教会の司教であるエド
フリスが、まず最初に神と聖カスバートと、そ
れから遺骨がこの島にあるすべての聖人たちの
ために、この書物を書いた。そして、リンディ
スファーン島の人々たちの司教であるエセルウ
ォールドが出来る限り上手に綴じて、外側にカ
バーをつけた。独居修道士のビルフリスが金属
細工師として外側の飾りを細工し、金や貴石や
金めっきされた銀、つまり合金ではない金属で
装飾をほどこした。それから、尊敬に値いしな
いもっとも哀れなる司祭であるアルドレッドが
神と聖カスバートのご加護のもと、英語で注釈
を付けたのである。
---------

「あの嵐の吹きすさぶ島での生活をおおい隠しているカーテンを、ほんの少しの間わきに引いてくれる」とありますが、「リンディスファーンの福音書」で最も有名な絵のひとつにマタイが福音書を書いている場面があって、そこでは「カーテンを、ほんの少しの間わきに引いて」いる様子も描かれているので、これを念頭に洒落た表現にしてみたのですかね。

http://en.wikipedia.org/wiki/File:Meister_des_Book_of_Lindisfarne_001.jpg

なお、前回投稿で引用した部分の最後に出てくるボビオ(ボッビオ)はウンベルト・エーコ『薔薇の名前』の舞台ですね。
検索したら種村季弘氏の書評が出てきました。

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とりあえずは僧院連続殺人ミステリーである。北イタリア、ボッビオの町にほど近い山上台地の修道院内で、7日間のうちにつぎつぎに6人の修道僧が殺害される。その謎(なぞ)ときを、さる重要会議のために修道院に立ち寄った、その名もバスカヴィルのウィリアムという、みるからにシャーロック・ホームズに縁のありそうな修道士が依頼される。・・・・
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011072806864.html

Bobbio Abbey
http://en.wikipedia.org/wiki/Bobbio_Abbey

ショーン・コネリー主演の映画『薔薇の名前』、久しぶりに観たくなってきました。
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リンディスファーンの福音書

2014-09-28 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月28日(日)21時48分20秒

>筆綾丸さん
10月6日、ちくま新書で神田千里氏の『織田信長』が出るそうですね。
楽しみです。

>王御嶽
ニュース映像を見ていると、やはり中高年登山者が非常に多いですね。
救出活動で二次災害が起こらなければ良いのですが。
登山に夢中になっていた若い頃、大抵の三千メートル級の山は実際に登るか山行計画を立てていたのですが、御岳山だけは信仰の山というイメージが強くてあまり行く気になれませんでした。

>la Parcheminerie
俄か勉強で中世後期のフランスには装飾写本の数々の傑作があることを知ったのですが、個人的には爛熟期ともいうべき中世後期のフランスより中世前期のイギリスの作品に惹かれます。
なかでも7世紀の「リンディスファーンの福音書」の美しさは驚異的ですね。

Lindisfarne Gospels

アラン・G・トマス『美しい書物の話』にも簡単な紹介があるので、メモとして少し引用しておきます。(p25以下)

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 ヨーロッパのどこもかしこもが暗黒時代の中でのたうちまわっていた頃、アイルランドは燃えるように輝いていた。野蛮人たちはイングランドを攻撃することでその勢力を使い果たしてしまって、アイルランドは平和のままおかれていたのである。その平和から、エリザベス一世治下のイギリス、あるいはメディチ家の支配下のフィレンツェに似た、歴史上理解しがたいほどの創造的な時代が出現した。学問は繁栄し、ヨーロッパの人々はギリシャ語を学ぶためにアイルランドにやって来た。暗黒時代にあって旅がどんなものであったかを考えると、ギリシャ語はアイルランドの文明にただならぬ貢献をしたのである。
 アイルランドのキリスト教宣教師団は、異教のヨーロッパを再びキリスト教に改宗させることに着手した。修道院を建設し、そこで写本を製作することで、宣教の旅の足跡を印していった。まずスコットランドのアイオナ島で、それから北部イングランドのリンディスファーン島に、それから、現在のドイツやスイスに当たる地域を通り、スイス東北部のザンクト・ガレン地方へ行き、アルプスを越えてイタリアへ向かった。そして彼らはイタリアで後に写本で有名になるボビオに修道院を建設した。
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※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

王御嶽 2014/09/28(日) 16:19:35
小太郎さん
http://en.wikipedia.org/wiki/Saint-S%C3%A9verin,_Paris
http://fr.wikipedia.org/wiki/Rue_de_la_Parcheminerie
パリ5区のカルチェ・ラタンにサン・セヴランという教会があり、その敷地を区切る通りの一つに「la Parcheminerie(羊皮紙製造・販売)」の名が今も残っていて、周辺はセーヌ左岸の川辺なので、羊の解体や皮紙の製造工場などがあったのでしょうね。ウィキには1287年から続く由緒ある通り名だそうで、ソルボンヌ大学の創立と同時期になりますね。

http://www.ovninavi.com/lengue
この通りに「れんげ」という日本人経営の居酒屋があり、蓮華に羊皮紙か、などと思いながら、二度ほど、酒(コルシカ産の白ワイン)を飲んだことがあります。

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明け方も、近うなりにけり。鳥の聲などは聞えで、たゞ、翁びたる聲に、ぬかづくぞ聞ゆる。起居のけはひ、堪へ難げに行ふ。いと、あはれに、「朝の露に異ならぬ世を、何をむさぼる、身の祈りにか」と、きゝ給ふに、御嶽精進にやあらん、「南無當来導師」とぞ、拜むなる。(『源氏物語』夕顔巻、岩波文庫版(一)127頁)
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これは夕顔が暮す京六条わたりの場末の描写で、「御嶽精進」の注(421頁)に、「御嶽精進は、大和の金峰山、即ち御嶽に入る前に、山伏が一千日の精進をして、弥勒菩薩に祈願することをいう。南無當来導師とは、弥勒菩薩のこと」とありますが、私は長い間、何か変だなと思いつつ、この御嶽とは木曽の御嶽山だと誤解してました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E5%B1%B1_(%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C)
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遠く三重県からも望め「王御嶽」(おんみたけ)とも呼ばれていた。古くは坐す神を王嶽蔵王権現とされ、修験者がこの山に対する尊称として「王の御嶽」(おうのみたけ)称して、「王嶽」(おうたけ)となった。その後「御嶽」に変わったとされている。修験者の総本山の金峯山は「金の御嶽」(かねのみたけ)と尊称され、その流れをくむ甲斐の御嶽、武蔵の御嶽などの「みたけ」と称される山と異なり「おんたけ」と称される。日本全国で多数の山の中で、「山は富士、嶽は御嶽」と呼ばれるようになった。
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アラン・G・トマス著『美しい書物の話』

2014-09-26 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月26日(金)22時08分29秒

>筆綾丸さん
牛皮山というのは、ちょっとドキッとするような山号ですね。
随心院の公式サイトには、

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古くは牛皮山曼荼羅寺と称されました。
仁海僧正一夜の夢に、
亡き母が牛に生まれ変わっていることを見て、
その牛を鳥羽のあたりに尋ね求めて、飼養しましたが、
日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を画き
本尊にしたことに因んでいます。


とありますが、仁海僧正が牛皮山曼荼羅寺を創建し、後にその子院のひとつとして随心院が建立され、本寺の方は滅んでしまったという事情からすると、牛皮山はあくまで旧曼荼羅寺の山号であって、今の随心院には山号はない、という理解でよいのですかね。

たまたま今日、アラン・G・トマス著『美しい書物の話』(小野悦子訳、晶文社、1997)を読んでいたのですが、「第一章 中世の彩飾写本」に次のような記述がありました。(p22)

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 最初、すべての書物はヴェラム、つまり普通には羊、山羊、仔牛などの皮を洗って、表面を整えてから、こすって柔らかくしたものに書かれていた。もっと小型の書物や優美な書物は、より上等なユートラム・ヴェラム、つまり牛や羊の胎児の皮に書かれた。ヴェラムはかつて書物の製作に使用された最高の素材の一つである。それは滑らかで、白く、丈夫で長持ちがするが、唯一の欠点は高価だということだった。一体、一冊の聖書のために何頭の羊が必要なのだろうか、と考えてしまう。
 〔この問いに、大英博物館所蔵の『アルクィン聖書』の複製本の序文で、ボニファティウス・フィッシャーが答えている。それによると、聖書一冊に二百十頭から二百二十五頭の羊が必要だということである。〕
---------

〔 〕内は翻訳者が自ら調べて注記したようですが、「聖書一冊に二百十頭から二百二十五頭の羊が必要」というのは初めて知りました。
ヴェラムの時代には聖書もいささか殺生な存在だったようですね。

最近、ツイッターの方では写本の世界にはまってしまって、日本と欧米の写本愛好家のアカウントを多数フォローしているのですが、私はキリスト教の素養に乏しいので、けっこう難しい面もありますね。
日本では西欧の中世写本を専門に研究している人は僅少であって、日本語の文献を読むだけだったら、それほどの負担でもなさそうな感じですが、いったん欧米の学者を追い始めたら、とんでもない深みが待っていそうです。

『美しい書物の話』:紀田順一郎氏の書評

>農村の土の匂いに対する消臭剤
『家と村 日本伝統社会と経済発展』が入手できていないので、代わりに渡辺尚志・五味文彦編『新体系日本史3 土地所有史』(山川出版社、2002)の坂根嘉弘氏執筆部分を読んでみたのですが、坂根氏は非常に固い、着実な議論をする人ですね。
苦手な分野ではありますが、もう少し坂根氏の研究を追ってみようと思っています。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

『舞妓はレディ』ー花の色はうつりにけりな 2014/09/24(水) 15:47:24
小太郎さん
http://www.maiko-lady.jp/
『舞妓はレディ』は佳い映画で、主役の上白石萌音は才能豊かな子ですね。
津軽弁と鹿児島弁のバイリンガルの田舎娘が京言葉を覚えて舞妓になるというストーリーでしたが、尾張弁(?)の信長は、京都弁に対してコンプレックスを感じていたろうか、などと思いながら見てました。
金子氏の描くような誠実な信長ならば、京都弁を真似て公家衆と話していたかもしれないのですが、そんな信長はちょっと想像しにくいですね。光秀などは、京都弁も尾張弁も器用に操ったのだろうな、という感じはします。「天下」とは、もしかすると、「京言葉」のことではあるまいか、などと思って、神田千里氏の「天下」の定義を見直すと(『織田信長<天下人>の実像』12頁)、歴史学者は言語学者ではないから、当たり前のことながら、「京言葉」への言及はないですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E5%BF%83%E9%99%A2
映画には、隨心院の書院(方丈?)にイタリア料理をケータリングして、小野小町と深草少将の伝説を語るシーンがありましたが、所在地の「小野御霊町」は小町の御霊を指すのでしょうね。百人一首にある小町の名歌の碑をさりげなく映していて、これは、妻の草刈民代をはじめとして、女優や舞妓への、周防監督のオマージュなんだろうな、思われました。導入部における緋牡丹博徒のお竜さんのパロディは若者にはわからないでしょうが、小町の歌は富司純子にも相応しいですね。
随心院の山号の由来は、パーチメント(parchment)ではなくヴェラム(vellum)に描いた両界曼荼羅を本尊としたからなんですね。

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らんしやたいは、東大寺のみつくらにおさめられたる物にて候。これは、ちやうしやせんの御はからひにはならぬ事にて候。(中略)これは勅ふうにて候まゝ、勅しをたてられ候はねは、ひらかぬみつくらにて候を、こうふく寺のはからひに、わたくしの御氏てらに、このたひなされ候へき事、しやうむてんわうの御いきとをり、てんたうおそろしき事にて候。(後略)(同書98頁~)
----------------
三条西実枝「蘭豪待香開封内奏状案」は同書の解釈が今後の定説になると思われますが、東大寺の三蔵は勅封であって長者宣如きでは開けられぬ、という初歩的なことを知らぬほど正親町天皇の知識は貧しかった、というようなことになり、これでは、公家一統どころではなく、なんだ、そんなことも知らぬのか、馬鹿な奴め、と誠実な信長に軽侮されたのだろうな、と思われました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E8%A5%BF%E5%85%AC%E6%9D%A1
以前、将棋のタイトル戦が温泉宿で行われて大盤解説会に行ったとき、将棋通の老人たちがモニターの画面を見ながら、(駒は)水無瀬かね、いや、錦旗だね、と話していたことがあります。錦旗は後水尾天皇の書体、水無瀬は水無瀬兼成の書体のことですが、この兼成は三条西実枝の弟なんですね。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG2300V_T20C14A9CR8000/
日経の記事の内、「豊臣秀吉に寄進されたもの」は、助詞の使い方が変で、「文禄は5年で改元されているが、秀吉の治世が続いているため、あえて「文禄」の年号を続けたとみられる」は、理由付けが変ですね。

坂根嘉弘氏の「地主制の成立と農村社会」は、ご引用の僅かな文章に、プレイヤー、アドバンテージ、コスト、カバー、マイナスという風にカタカナ英語がふんだんにばら撒かれていて、農村の土の匂いに対する消臭剤のような感じがしますが、これは、「わが国の伝統的な近代主義(丸山政治学、大塚史学など)やマルクス主義」への意識的な反発なんでしょうか。
私の英語の語感からすると、プレイヤー(「家」)という用語には馴染めないものがありますが、以下の文における「家」を「天皇」に置き換えてもあまり不自然ではなく、「不変の同じプレイヤー(「天皇」)」という概念も導き出せそうな気がしますね。
----------
日本の「家」制度の特徴は、単独相続にある。「家」のあとつぎ(長男が理想とされる)は、家長の地位をはじめ、動産・不動産などの家産をまるごと受け継いだ。日本以外のアジア諸地域はすべて分割相続地帯であったから、アジアで単独相続慣行をもつのは日本の「家」制度だけである。「家」は家長が先祖から受け継いだものであり、子々孫々まで受け渡していかなければいけないものと考えられていた。
----------
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坂根嘉弘氏「地主制の成立と農村社会」

2014-09-24 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月24日(水)09時25分45秒

まるで伊勢神宮の式年遷宮のように20年毎に新調される『岩波講座日本歴史』、何だかんだ言っても歴史学の最新の動向を鳥瞰できて、とても便利ですね。
ウィキペディアには、式年遷宮が20年ごとに行われる理由の一つとして、

--------
建替えの技術の伝承を行うためには、当時の寿命や実働年数から考えて、20年間隔が適当とされたため。建築を実際に担う大工は、10歳代から20歳代で見習いと下働き、30歳代から40歳代で中堅から棟梁となり、50歳代以上は後見となる。このため、20年に一度の遷宮であれば、少なくとも2度は遷宮に携わることができ、2度の遷宮を経験すれば技術の伝承を行うことができる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%BC%8F%E5%B9%B4%E9%81%B7%E5%AE%AE

とありますが、歴史学の場合、大工さんよりは修行の出発点が遅いので、20~30歳代で見習いと下働き、40~50歳代で中堅から棟梁、60歳代以上が後見という具合でしょうか。
『岩波講座日本歴史』の執筆者は概ね中堅ないし棟梁クラスですね。
さて、現在発行中のシリーズの中で、今のところ私が一番興味を引かれたのは坂根嘉弘氏の「地主制の成立と農村社会」(第16巻近現代2)です。
失礼ながら坂根嘉弘氏のお名前も知りませんでしたが、奥付の執筆者紹介を見ると「1956年生まれ 広島修道大学教授」だそうですね。
「はじめに」から少し引用してみます。

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(前略)
 第二に、本稿で手がかりとするその社会関係は、日本の「家」制度、およびその「家」制度を前提に形成された日本の「村」社会である。(中略)
 日本の「家」制度の特徴は、単独相続にある。「家」のあとつぎ(長男が理想とされる)は、家長の地位をはじめ、動産・不動産などの家産をまるごと受け継いだ。日本以外のアジア諸地域はすべて分割相続地帯であったから、アジアで単独相続慣行をもつのは日本の「家」制度だけである。「家」は家長が先祖から受け継いだものであり、子々孫々まで受け渡していかなければいけないものと考えられていた。(中略)
 このように日本の村落では、「家」制度により、不変の同じプレイヤー(「家」)が農業集落を舞台に、長期間にわたり生産や生活を営むことになったのである。(中略)
 本稿の基本的視座は、日本独特の「家」や「村」が、経済発展の様々な局面で日本経済に大きなアドバンテージを与えたのではないか、という点にある。とりわけ、本稿で重視したいのは、「家」や「村」が、経済取引において情報の非対称性ゆえに生じる経済コストの高騰をカバーする役割を担い、日本の近代経済発展の基底を支えたのではないか、という点である。この点は日本経済発展の様々な局面であらわれたが、本稿では、この諸相を、地主制(地主小作関係)を軸に描くことを課題としている。従来、わが国の伝統的な近代主義(丸山政治学、大塚史学など)やマルクス主義の立場からは、日本の「家」や「村」は、非民主的・封建的なものであり、日本社会の遅れた部分の象徴として一刻も早く排除・克服されるべきものとみなされてきた。それらの議論の枠組みは、かなり政治主義的で、「家」や「村」が「正常な」経済発展にマイナスの効果をもつことが強調されてきた。本稿の主張は、そのような議論に与するものではなく、それらとはまったく違う議論を展開することになる。(後略)
---------

私は基本的にマルクス主義の歴史理論は好きではありませんが、まあ、それでも地主制のような社会経済の基礎的な領域はやっぱり史的唯物論の独壇場じゃなかろうか、と思っていて、坂根氏の議論はちょっとショックでしたねー。
坂根氏が開拓した世界をもう少し知りたいと思っているのですが、手頃なのは『家と村 日本伝統社会と経済発展』(農文協、2011年)あたりみたいですね。

http://shop.ruralnet.or.jp/b_no=01_54011238/
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構想力のない男

2014-09-20 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月20日(土)09時10分30秒

金子拓氏が結論として描き出した信長像は「序章 信長の政治理念」にまとめられていますね。(p26以下)

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 信長が構想していた武家政権としてのあり方は、室町幕府の体制、つまり畿内を中心とした将軍権力と、地域の大名権力が並存してゆるやかな国家をかたちづくるというあり方からそれほど大きくかけ離れたものではなかった。信長が理想としていた統治の仕組みは、天正三年末の時点において彼が近い将来実現するだろうと描いていたようなものだったと考えればよい(第五章参照)。
 たとえば領国の支配体制にしても、近年の研究により明らかにされたように、柴田勝家や羽柴秀吉ら大身の家臣たちに分権的に領国支配を委ね、そのうえに天下人として信長が君臨するようなあり方であって、さして目新しいものではなく、領国統治のための行政制度や租税徴収制度といった面ではむしろ後進的であったという評価もなされている。天下静謐という高邁な理念と旧来的な領国統治のあり方が混じりあわずに併存しているのが、信長権力の基本的な性格であった。
 枠組みとして室町幕府の体制を大きく変えるものではなかったにしても、その中心となる人物が、将軍とは異なる論理でその立場にあった天下人であったという点で、それまで形式的にせよ将軍に従っていた諸大名が違和感を抱き、容易に従おうとしなくなったことは想像できる。最終的には朝倉氏や浅井氏、大坂本願寺のようにはっきりとした敵対行動をとる勢力もあらわれる。それぞれに個別的事情もあるにせよ、彼らはあたらしい武家権力者に対する拒否反応を起こして自己防衛本能がはたらき、逆に攻撃的になり信長に敵対することとなったと考えることができるだろう。
 天下静謐維持を第一義の目標とした信長は、このような敵対勢力を服属させようとして軍事行動を起こし、彼らを滅ぼしたり服属させたりすることにより、結果として、その領国がみずからの支配領域に組みこまれた。信長が全国統一に邁進し領国を拡大していったかのように見えたのは、実はこの行動の反復による結果論にすぎないのだ。
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今は昔、植木等と谷啓のコントに「主体性のない男」というシリーズがありましたが、金子説によれば、織田信長は「天下静謐という高邁な理念」の持ち主であるので主体性に欠けることはないものの、しかし、およそ構想力を持たない人物であった、ということになりますね。
「静謐」を維持してくれさえすれば信長には何の不満もなかったのに、周囲は信長の謙虚な性格を理解してくれなかった。そして信長には何故か他人に「拒否反応」を起させ「自己防衛本能」を喚起させる要素があったため、「はっきりした敵対行動をとる勢力」が次から次へと現われて、信長が「天下静謐という高邁な理念」に基づき、やむなく「敵対勢力」をひとつひとつつぶして行くと、結果的にけっこう広大な領域を支配するようになりましたとさ、ということですね。
まあ、非常に斬新な信長像ではありますが、小説家にとっては甚だ創作意欲を刺激しない人物像ですので、金子説に基づく小説はおそらく登場せず、大河ドラマにもならず、歴史学界においてのみ、ひっそりと地味に評価されることになるのでしょうね。
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誠実すぎる信長像

2014-09-17 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月17日(水)22時19分1秒

>筆綾丸さん
>3,000(部)程
筧克彦はつかみどころのない人ですが、一時は相当に人気があったらしいので、この数字は一桁、あるいはもしかしたら二桁違うかもしれませんね。

金子拓氏の『織田信長<天下人>の実像』、今頃やっと読み終えたのですが、確かに良い本ですね。
金子氏による新出史料の丁寧な分析の結果、信長と公家との関係は、一時的に公家側が信長の期待に十分応えられなかった時期があるにせよ、基本的には一貫して親和的であった考えてよさそうであり、これは金子氏の大きな功績なんでしょうね。
問題はやはり「天下」の意味で、これが終章の結論にも直接影響しますね。
金子氏が立脚する神田千里説で固まったかというと、堀新氏の「織田政権論」(『岩波講座日本歴史第10巻 近世1』)あたりを見る限り、まだまだ議論は続きそうですね。
また、「麟」については筆綾丸さんがおっしゃる通りの疑問を私も感じました。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのリンクあり。

信長のユーモア 2014/08/23(土) 21:50:36(筆綾丸さん)
小太郎さん
ロベスピエールはなんとなく優男のようなイメージがありましたが、強面のデスマスクからは、こいつ、何人くらい殺めたのだろう、という感じがしてきますね。
ちなみに、マラーの暗殺現場は、パリ6区、メトロのオデオン駅を出てすぐ、パリ第5大学の構内のどこかで、むかし探検したとき、何の案内版もなくて、歴史にうるさいパリにしては珍しいな、と思ったものです。この大学は通称ルネ・デカルト大学という医学校ですが、マラーの死と何か関係があるのか、医師マラーを踏まえたものなのか、これもわかりませんでした。

金子拓氏の『織田信長〈天下人〉の実像』は、ひさしぶりに良書に出会えた、という感じです。キーパーソンは三条西実枝で、この人物の分析はとても面白いですね。ただ、「終章 信長の「天下」」は残念ながら尻切れトンボのような気がします。
興福寺別当職相論に関して、信長が正親町天皇を叱責し、誠仁親王が天皇に代わって詫びる、という書状の中に「瓜」が出てきますが、本文を能とすれば、これは狂言に相当するのでしょうね。
信長「・・・さりながら冥加のために候あいだ、この瓜親王様へ進上候。些少候といえども、濃州真桑と申し候て、名物に候あいだ、かくのごとく候。・・・」
誠仁「・・・まずまずこの瓜名物と候えば、ひとしお珍しく眺め入り候。・・・」
信長のとぼけたユーモア感覚といい、親王の返しといい(すぐ食べないで眺め入る、というところがよく、ひょっとすると、ポンポンと鼓のように叩いている気配すらあります)、狂言の名場面のようです。この場合、親王はシテ、信長はアド、ということで君臣の秩序は保たれているのかな。
大蔵流あたりで、この話を適当に脚色し新作狂言として上演してほしい。題はもちろん、真桑瓜、です。
注記
金子氏は、「さりながら冥加のために候あいだ、この瓜親王様へ進上候」を「とはいえ冥加のため、この瓜を親王様に献上します」と訳していますが、「冥加」のニュアンスが掴みにくいですね。神の御加護を得るために、あるいは、神の御加護に謝するために、と理解したとしても、神の御加護に対して、名物とはいえ、なぜたかが瓜なんだろう、神の御加護と瓜ではバランスがとれまい、という気がします。

些末なことですが、「塙直政」に「はのう なおまさ」とふりがなしてありますが(81頁)、塙保己一は「はなわ ほきいち」、塙直政は「ばん なおまさ」と記憶している者としては、この「はのう」の根拠は何なのか、知りたいと思いました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E7%9B%B4%E6%94%BF
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E4%BF%9D%E5%B7%B1%E4%B8%80

天尽しの綸旨 2014/08/24(日) 17:36:00
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ところが最近、高木叙子氏によって、「麟」花押が示唆する聖人君主とは義昭であり、この花押は義昭による理想の世の中の達成を願望したものではなかったかという議論が提起された(「天下人『信長』の実像?」)。「麟」花押が見られるのは永禄八年(一五六五)頃に義昭から上洛への協力要請が届いた時期であることから、この頃の信長は義昭に仕え幕府に入りこもうと考え、「麟」花押を考案したというのである。信長が室町将軍による政治秩序の枠組みを継承して登場したことを考えると、高木氏の「麟」花押論はすこぶる納得のゆくものである。(「織田信長<天下人>の実像」267頁)
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天正改元の問題から、信長の天下静謐のための役割認識・考え方へと話が拡がった。これは、天正へと改元をうながしたことが、義昭追放後天下人の立場となった信長が最初に着手した行動であるとともに、かつてみずからが義昭に諫言した内容を誠実に履行したことを示す重要なできごとだからである。(同書55頁)
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高木説の論理によれば、義昭を追放した後、信長は「麟」花押を破棄し新たな花押にしてもよさそうですが、追放後も同じ花押を信長はなぜ使い続けたのか、という素朴な疑問が湧いてきて、「すこぶる納得のゆくものである」と金子氏はいうけれども、まったく納得がゆかないですね。当該論文を読むべきなんでしょうが、他人のために自らの花押を考案するなどというのは、非常識というか、私の感性にいたく抵触するものがあります。義昭追放直後、天皇に改元を迫った信長が、義昭のための「麟」花押をのんびりと使い続けますかね。人は何を信じてもいいけれども、私には寝耳に水のようなアンビリーバブルな話です。
一部の戦国大名が足利将軍家の武家花押のマネをして、似たような花押を使用していますが、この場合であれば、ひたすら将軍家の弥栄を念じたもので他意はない、と言えなくもないけれども、やはり牽強付会でしょうね。というような訳で、当該論文を読んでみようかしら、という意欲は湧いてきません。

-----------------
改元執行せられ、年号天正と相定まり候。珍重に候。いよいよ天下静謐安穏の基、この時にしくべからざるの条、満足に察し思し食さるるの旨、天気候ところなり。よって執達くだんのごとし。
   七月廿九日  左中将親綱
   織田弾正忠殿             (『東山御文庫所蔵史料』勅封三八函-六九)(同書56頁)
----------------
信長による蘭奢待の切り取りの時と同じように、『東山御文庫所蔵史料』の勅封も勅使派遣により開かれたのでしょうね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

思想的価値と経済的価値の相剋 2014/09/15(月) 16:18:04
小太郎さん
http://it.wikipedia.org/wiki/Cappella_Brancacci
むかし、マザッチョの『貢の銭』は、これがクワトロチェント初期の傑作だな、とブランカッチ礼拝堂で見上げたことがあります。

『大日本帝國憲法の根本義』の内容にさっぱり興味が湧かず、次のようなことを考えてみました。
? 旧蔵者(あるいは相続人)はなぜ破棄焼却せずに寄贈したのか
? 「昭和53年5月1日寄贈」の「寄贈」は図書館として「受贈」の方が良くはないか
? 「第三刷發行」を最後として全部で1,000×3=3,000(部)程の発行か
? 三千部を津々浦々に散華して一億総国民の頬をひっ叩く確率は如何
? 岩波書店のアーカイヴにデータは有りや無しや
? 帝大教授の月俸に占める「定價貮圓八拾銭」の割合は如何
? (約)参圓÷(月俸)参百圓×100=1%以下か
? 現在、月給500,000円の教職員が5,000円の専門書を買う程の負担(1%)か
? 岩波書店界隈の古本屋の親爺に尋ねれば直答を得るか
? 幾星霜の死蔵・退蔵で骨董的価値は発生するか
? 果たして紙魚(thysanura)の好物となるや否や
? 紙魚(thysanura)は闇米を峻拒した某裁判官を以て範とし餓死の道を択ぶか
・・・・・・・・・

追記
http://www.bsfuji.tv/primenews/
昨今のNHKの報道番組は駄目なので、BSフジのプライムニュースを見ることにしていて、今日(9月17日)は民法120年振りの大改正がテーマでしたが、丸山・松本・篠塚各氏の発言を聞いていると、別に法改正などしなくても今まで通りでいいんじゃないか、この三人には法に対して理念があるのだろうか、と思いました。
いつも感ずるのですが、反町・島田両キャスターはほんとに頭の良い人ですね。
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筧克彦著『大日本帝國憲法の根本義』

2014-09-15 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月15日(月)10時47分26秒

>筆綾丸さん
>「 Der Zinsgroschen(貢の銭)」
ありがとうございます。
英語だと"The Tribute Money"ですか。
マサッチオの同名の作品も有名なんですね。


『大日本帝國憲法の根本義』は国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で閲覧できますね。


なぜこのような本が岩波書店から出ているのか、ちょっと不思議な感じがしますが、「まへがき」には、

-------
本書は昨年七月中旬文部省開催の憲法講習会に於て為したる「大日本帝国憲法の根本義」と題する講演の速記を訂正補筆せしもので、文部省より憲法教育資料中の一書として上梓配布せられたる処、今回同省の同意を得岩波書店に託して発行することとなし(中略)

 紀元二千五百九十六年
  昭和十一年五月二十五日に
-------

とありますね。
岩波書店にしてみれば、文部省ないしその影響下の団体が確実に買い上げてくれるだろうから商売として確実な上に、ウチは特定の思想に偏った出版社ではなく、いろんなものを出してますよ、という当局向けのアピールに使えるからですかね。
ついでに最初の方も引用してみると、

--------
おほむね五つ

一 神ながらのこころ
我が憲法は 皇祖様 皇宗様の御遺訓を明徴になし給ひたるもので「まこと」を以てのみ之を正解し得しめ完全に運用し得しむる。「まこと」は皇国に在つては極めて具体的のもので、斎神・尊皇・愛国の二なく三なきこころである。神と君と国とが歴史上隔歴するものとして立ちつつある諸国に於ては、神はドグマの信奉と分つべからず、君は権勢を領有する俗人<独立単純人>に外ならずして、国は国民の集団以上に出でぬ。故に是等の国に於ては、敬神も愛国も必しも尊王ならず、尊王も愛国も必しも敬神とはならず、敬神も尊王も必しも愛国とは同じくない。しかのみならず、敬神・尊王・愛国の一つ一つも純真・精緻・宏大・永遠たり難き憾が在る。皇国に於ては、斎神・尊皇・愛国の心が本来相待つものとして同じ「まこと」のかく方面であり、神ながらの一つ心である。即ち、吾人生来の一心にして弥々純真にし、益々徹底せしめ更に更に拡張すべき永遠の心である。

二 ことあげせぬこころ
 (中略)
三 徳と力と二つならぬこと
 (中略)
四 「みこと」より出でて弥々「みこと」たるに油断なかるべきこと
 (中略)
五 本と末の分を以て始とする
 (中略)
--------

という具合で、何だか全体が祝詞のような文章ですね。
30・31コマなどに図も載っていますが、カラーでないのが残念です。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Der Zinsgroschen (貢の銭) 2014/09/13(土) 12:44:31
小太郎さん
九条家の黒姫様はなぜ筧克彦などに傾倒したのか、理知的な昭和天皇はどう思われていたのか・・・少し興味が湧いてきました。
「研究に用いる本物の頭蓋骨」ですが、ロンブローゾ的研究か、はたまた、立川流の髑髏か。
「国体の中身は『空(くう)』みたいなもので、なんだか知らんけれども紙袋みたいなものの中から、ぴょこぴょこ親鸞がとび出したり、道元がとび出したり、ゲーテのファウストまでとび出してくる」
頭蓋骨は、アマテラスもスサノオもプラトンもアリストテレスも親鸞も道元も松陰も・・・あらゆるものを包含して空である、という寓喩であるとすれば、現代の量子論的な真空概念に近いものがあるかもしれないですね。
(筧は貞明皇后だけでなく皇帝溥儀にも「神ながらの道」の講義をしていたのですね(『天皇と東大』下巻79頁)。

http://de.wikipedia.org/wiki/Gem%C3%A4ldegalerie_Alte_Meister
http://kotobank.jp/word/%E8%B2%A2%E3%81%AE%E9%8A%AD
http://it.wikipedia.org/wiki/Cristo_della_moneta
ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館所蔵「 Der Zinsgroschen(貢の銭)」が、「テイチアンのチンスグロッシェンのキリスト」のようですね。筧はドイツ留学中に訪れたのでしょうが、第二次世界大戦時の空爆を奇跡的に生き延びたらしく、イタリア語では「Cristo della moneta」と云うようですね。

図書館で、私も、法學博士筧克彦述『大日本帝國憲法の根本義』を眺めてみました。所々に鉛筆で傍線を引いて書き込みがしてあり、図書館が偉いのはこんな本でも保存していることだ、などと思いつつ頁を捲ると、「昭和53年5月1日寄贈」、昭和十三年十一月二十日第三刷發行、定價貮圓八拾銭、とありました。

追記
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1112
文藝春秋の『「昭和天皇実録」の衝撃』の鼎談を立ち読みして、明治天皇の胞衣塚は京都の吉田神社にある(磯田氏)、とはじめて知りました。

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教職追放にならなかった筧克彦

2014-09-13 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月13日(土)10時37分59秒

ついでにもうひとつ、筧克彦のエピソードを『天皇と東大』から孫引きしておきます。(下、p82以下)

--------
 筧克彦の不思議な人間性について、丸山真男は梅本克己との対談「日本の反動思想─戦前と戦後」(『丸山真男 座談6』岩波書店所収)の中で、こんなエピソードを紹介している。

「梅本 ところが、筧さんの方になると、その国体論は強烈なもので、天皇制からいえば極右といっていいものだけれども、それが通常の国粋主義にむすびつくかというと、そうでもない。国体の中身は『空(くう)』みたいなもので、なんだか知らんけれども紙袋みたいなものの中から、ぴょこぴょこ親鸞がとび出したり、道元がとび出したり、ゲーテのファウストまでとび出してくる。(略)一種の狂信者といっていいんだけれども、その狂信の内容が蓑田胸喜などとは全く違う。まったくうらうらとして、神道自由主義みたいなところがあって、つかまえどころがない。宣長のある面をそのまま継承している。自然主義的ナショナリズムとでもいうか、簡単に国粋主義とは重ならない。反動思想の原動力になっていることはたしかなんだが・・・・。

丸山 ですから、それを一番端的に示しているのは、筧さんは戦後も教職追放にならなかったんですよ。つまり、あの時、定年で辞めた人も含めて全教授の資格審査委員会が各大学に設けられた。パージに該当するかどうかについては一定の基準が定められていたんです。軍国主義を説いた者とか大東亜戦争を基礎づけた者とか、第一、第二、第三というふうにいくつかの基準があった。そして過去の言論及び学説を全部しらべて、一人一人審査したわけです。
 誰でも、常識的に考えて筧さんは当然どれかの該当項目にひっかかると思っていたわけですね。ところが一つ一つ基準をはめてゆくとどれにも入らないんです(笑)。それであの人は教職追放にならなかったんです。

梅本 筧さんという人はそういう人だ。そういう点でも日本の天皇制は融通無碍なんですね。どうしたって追放されなければならないのが、追放されないようにできてしまっている(笑)。無責任体制の理想型で、その象徴が天皇だ。
 私には経験があるんですが、大学を出てから文部省の教学局、当時のファシズムの思想生産というか、その中心みたいなところで雇員として月給五十円で十ヵ月ばかりおったんです。そこで、当時の学術振興会の会合があったときで・・・・。大正リベラリズムの尾を引いている日本主義者と最右翼の松永材(もとき)の一派とが、日本の国体問題で猛烈な激突をしたことがあったんです。どうなるかと思って、みていました。一方は京都学派流に、道元とか芭蕉とか、ああいうものをもってきて、日本精神論をやったわけです。それにたいして、そんなもんじゃない、日本精神は天皇をぬいては考えられない、というわけで、松永材が猛烈な勢いで喰ってかかり、同じような連中が応援しだした。
 どうなることかと思ってみていると、そこに筧さんがヒョコヒョコ出てきた。壇に上るといきなり、パン、パーンとかしわ手を打って、実にいい人相で(笑)、お二方とも、どちらもよろしい。道元さまも、親鸞さまも、それから吉田松陰さまも、みんな同じところから出た神さまです。それがヤオヨロズの神というものだ、というわけで、激突も毒気をぬかれて蒸発してしまった(笑)。
-------

まあ、梅本克己(1912-74)も少し胡散臭い、というかクセがある人なので、多少割引いて読む必要はあるでしょうが、少なくとも筧克彦のエピソードは事実の正確な描写なんでしょうね。

梅本克己
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%9C%AC%E5%85%8B%E5%B7%B1
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筧克彦の不思議な書斎

2014-09-13 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月13日(土)09時57分9秒

筧克彦は変な人ですねー。
立花隆『天皇と東大』では蓑田胸喜に影響を与えた人物としてかなり詳しい紹介があります。
ま、現代的な意味がある思想家とは思えないので、マニアックな方以外にはお勧めできませんが、妙に面白い人ではありますね。
孫引きで少し引用してみます。(『天皇と東大』下、p81以下)

----------
筧克彦の不思議な書斎

 筧の息子、筧泰彦が書いた「父筧克彦のことども」(『学士会会報』第六九〇号)によると、筧の書斎はもっとずっと不思議な光景を呈していた。
「その床の間には蓮華を船として波上に浮ぶ観音が置かれ、また大国主命の像もあったようです。机の正面の壁上にはミケランジェロのモーゼの像、テイチアンのチンスグロッシェンのキリスト、キリストの四大弟子等の額が掲げられてあり、他の壁にはラファエロのシステナのマドンナ、カント、ヘーゲル、ゲーテ、シラー、それにディルタイなど、本棚の上にはソクラテス、プラトン、アリストテレスの胸像、それに研究に用いる本物の頭蓋骨があり、本棚の脇にはラファエロのアテネの学校、カルビンの銅像の写真などが掲げてありましたが、書斎の入口の正面のところの本棚にはマルチン・ルターの肖像、その下にワルトブルグ城とワルトブルグ城内のルターの書斎の着色写真が額にして掲げてありました」
--------

学習院大学名誉教授の筧泰彦氏(1908-2000)は克彦の二男で、長命な筧、じゃなくて家系ですね。
日本思想史の研究者で、自分の父親の研究をしている人も珍しいと思います。

筧泰彦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%A7%E6%B3%B0%E5%BD%A6

「テイチアンのチンスグロッシェンのキリスト」というのがよく分からないのですが、「テイチアン」はたぶんティツィアーノ・ヴェチェッリオだとして、「チンスグロッシェン」は何なのか。

Titian
http://en.wikipedia.org/wiki/Titian
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筧克彦著『大日本帝国憲法の根本義』

2014-09-12 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月12日(金)23時08分22秒

>筆綾丸さん
筧克彦(1872-1961)の『大日本帝国憲法の根本義』(岩波書店、1943)を眺めてみましたが、実に奇妙な本ですね。
一種独特の悠然たる、というかのんびりした文体で明治憲法を語って行くのですが、普通の憲法学とはかけ離れた内容なので面食らいます。
また、筧はもともと理数系が得意で、自己の理論を図表化するのが好きだったらしく、『大日本帝国憲法の根本義』にも所々に和算の問題のような図形が多色刷りで載っていて、これまた面食らいます。
それなりに精緻な秩序を持った世界があるだろうことは伺えるのですが、じっと見ていても中世の修道士が書いたラテン語の写本を眺めるのと同程度しか理解が進まず、しばらくしてあきらめました。
また、『風俗習慣と神ながらの実習』(初版は1918年、清水書店)という本も見てみましたが、これは通俗道徳と年中行事の解説みたいな感じでした。
こちらはしばらくボーっと眺めているうちに頭の中にレディ・ガガの Summerboy の一節、"I'm a busy girl"が響いてきて、途中で断念しました。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

プラトンのイデア 2014/09/11(木) 21:58:25
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E8%AB%96
ご引用の箇所は誠に興味深いですね。ああ、やはり、プラトンのイデアに行きつくんだな、と思いました。「神ながらの道」は、もしかすると、筧のイデア論なのかもしれないですね。南原云うところの「学問が不可知の領域とした非合理的価値の領域」とは、プラトンのイデアであり、筧の神道(神ながらの道)である、と。

追記
http://www.yomiuri.co.jp/local/kanagawa/news/20140911-OYTNT50429.html
はじめて知りましたが、段葛は市道ではなく鶴岡八幡宮の境内なんですね。段葛両側の車道や二の鳥居以南の車道は市道ということのようですね。
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『高木八尺著作集』

2014-09-12 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月12日(金)22時24分51秒

図書館で『高木八尺著作集』全5巻(東大出版会、1971)をパラパラめくってみましたが、実に端正な文章を書く人ですね。
第1巻の「高木八尺年譜」によれば、高木は1889年(明治22)、神田乃武(英語学者)の二男として東京に生まれ、1902年4月に暁星中学校に入学、1905年1月に学習院中等科に転学したとのことで、学習院で木戸幸一と出合ったようですね。

高木八尺

>ザゲィムプレィアさん
『昭和天皇独白録』の性格については争いがあり、単なる回想ではなく東京裁判対策のための政治的文書という理解が有力ですが(吉田裕『昭和天皇の終戦史』等)、そのような立場の研究者であっても、戦争責任に関わらない部分は天皇個人の見解を概ね率直に反映していると考えている人が多いのではないかと思います。
久しぶりに同書を通読してみましたが、南原繁・高木八尺の木戸訪問に関する記事は天皇の戦争責任とは無関係な部分であり、その位置(8月9日深夜の最高戦争指導会議の直前)からすれば、昭和天皇が二人の木戸訪問から間もなく、木戸から南原・高木の意見を聞いたのは明らかだと思います。
また、別に私は立花隆を弁護しなければならない立場ではありませんが、立花隆も南原・高木の意見が昭和天皇の「確信」に直結したとは書いておらず、「その働きかけのポイントが要路の人々の頭の中に残像のように残っていた間接効果」としていますので、南原・高木の意見の筋の良さを考慮すると、これはあり得るのではないかと思います。

※ザゲィムプレィアさんの下記投稿へのレスです。

立花さん、天皇の言葉の根拠を確信できません 2014/09/10(水) 23:07:49
>小太郎さん

---------
 これだけプロセスが似たのは、教授グループの働きかけの直接効果というより、その働きかけのポイントが要路の人々の頭の中に残像のように
残っていた間接効果といえるのではないか。
(略)
 「この頃の与論に付一言すれば、木戸の所に東大の南原〔繁〕法学部長と高木八尺とが訪ねて来て、どうして〔も〕講和しなければならぬと意見を開陳した。」
(略)
 それでハハァと思ったことがある。それは、終戦時の御前会議における天皇の二度目の聖断の際に天皇が発した言葉の根拠がわかったと思ったからである。
(略)
 二度目の聖断を下すにあたって、天皇は、「これで本当に国体が護持されるのかどうか不安を持つ者の気持もわからないではないが、私は、
これで国体は守られると確信している。それがアメリカ側の真意だと確信している」と説明して、反対者をおさえた。
---------

昭和天皇独白録の元の聞き取りは昭和21年2~4月とのこと。天皇はそれまでに南原らの進言を知ったのであり、必ずしも木戸が直ちに伝えたとは限りません。
仮に直ちにだったとしても、昭和20年の日々の時間の流れはルーチンを繰り返す平時とは比較にならないほど濃かったでしょう。二か月前の
学者の進言が8月の息詰まるような政治プロセスに影響したか、疑問に感じます。
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「実定法学や実証主義政治学の彼方の領域」

2014-09-10 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月10日(水)22時20分39秒

>筆綾丸さん
『聞き書 南原繁回顧録』に掲載されている三谷太一郎氏の「解説─南原繁百歳」には、筧克彦が南原繁に与えた影響について、次のように書かれていますね。(p500以下)

---------
 南原にとって「国民共同体」は究極的には「神の国」によって根拠づけられるとしても、直接的にまた合理的にそれを根拠づけるものは、「価値哲学」(とくに「政治哲学」)である。南原自身、「たとえ政治も究極において宗教に導かれざるを得ず、『地の国』(civitas terrana)は『神の国』(civitas Dei)に連なるものではあるとしても、政治の価値原理は別に考えられなければならない」と書いている。そこで南原の精神的生涯における最も重要な契機の一つである「哲学」について、その意味を考えたい。
 まず南原が「世界観の学」としての「哲学」への関心を喚起させられたのは、明治末年から大正初頭にかけて、南原が大学在学中四年間にわたって聴講した筧克彦の講義であった。筧の講義は」「国法学」に始まり、「行政法」第一部・第二部、さらに「法理学」に及んだが、それらの中心的内容は、筧の著書『仏教哲理』(一九一一年)および『西洋哲理』上(一九一四年)に盛り込まれたものであった。後に筧の学問は特異な神道運動のイデオロギーに転化したが、南原が学生として聴講した当時の筧の学問は、南原によれば「全盛時代」にあり、南原はその独特な講義に魅了されるとともに、とくにプラトンへの関心を触発された。学問的立場や世界観のちがいにもかかわらず、南原は終生、筧の人となりを敬愛し、筧に対し師としての礼を忘れなかった。
 南原が筧の講義を通して覚知したものは、当時の法科大学の主流であった実定法学や、国家学の旧套を脱しつつあった実証主義政治学の限界であった。七年間の内務省勤務を経て、政治学者として立った南原は、実定法学や実証主義政治学の彼方の領域、そなわちそれらの学問が不可知の領域とした非合理的価値の領域についての学問の確立を志向した。(後略)
---------

私も筧克彦(1872-1961)の著書は読んだことがないのですが、「特異な神道運動」へ移行した後も、別にファナティックな性格に変わった訳ではなく、むしろ数えで90歳という長命な生涯を終えるまで、一種独特の人格者だったようですね。
険悪な雰囲気で対立するグループの間に筧克彦が入って来てにこやかに笑うと、何となくその場にいる人全員が争う気力をなくした、といった逸話があるそうです。(うろ覚え)
中島健蔵の『昭和時代』(岩波新書、1957)は未読ですが、「札付きの」は少し言い過ぎのような感じがします。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

札つきの神がかりの学者 2014/09/10(水) 17:53:30
小太郎さん
日経新聞の本文には、
-------------
氷川神社は1日が例大祭にあたっていた。宇佐、香椎は10年に1度の勅使祭だったが、通常は10月に行われるため、時期としては異例だ。
-------------
とあり、原武史氏の説を補強しているようにも読めますね。

原氏の『松本清張の「遺言」―『神々の乱心』を読み解く 』(文春新書)に、貞明皇后の思想に強い影響を与えたのは、東京帝国大学教授筧克彦が唱えた「神ながらの道」であり、一九二四(大正十三)年の歌御会始(歌会始)で、皇后は、
   あら玉の年のはじめにちかふかな神ながらなる道をふまむと
と詠まれた、とあります。そして、「神ながらの道」はアマテラスが中心で、自分は天皇に成ことができないにしても、「神ながらの道」を極めれば、女神である皇祖アマテラスと一体化できる、と考えていたのではないか、としています。(67頁~)
また、皇后は大正天皇が死去する直前の一九二六(大正十五)年十月に遺書を書き、その中には「筧博士ノ書物ヲ秩父宮ニアヅケルコト」という一文があり、反りが合わない昭和天皇ではなく、溺愛した秩父宮に「神ながらの道」を継承してほしかったのだろうが、親の心子知らずで、そんなものは要らないと秩父宮は思われたようだ、とあります(250頁)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%A7%E5%85%8B%E5%BD%A6
「神ながらの道」がどのようなものなのか、全く興味はありませんが、中島健蔵は筧克彦を、「「近代政治学から見れば、はしにも棒にもかからない」「神道に基づく祭政一致論」を唱える、「札つきの神がかりの学者」と評しているとのことです。
ウィキにはまた、「南原繁 は筧教授の講義によって「政治哲学」に目覚めた」とありますが、変人でも講義は明快だったのでしょうか。大正天皇の晩年を考えると、皇后が神懸りの人に惹かれてゆくのも止むを得んのかなあ、とも思われますね。おたあさまを見て、ああはなるまい、と東宮は思われた、というのは有り得るような気がします。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?code=258545
井上智勝氏の『吉田神道の四百年ー神と葵の近世史』をパラパラ眺めて、筧克彦の「神ながらの道」は吉田神道と何か関係はあるのかな、などと考えています。
毎日新聞の「「蛙(かえる)」の神様として「正一位蛙大明神」の称号を与えた」という記事ですが、これでは「かえる」大明神と読めてしまい、ここは「かわず(かはづ)」大明神と読むべきで、その方が「神位」に相応しいような気がしました。

http://hotonoha.blogspot.jp/2011/08/blog-post_1719.html
ほとんど全てが a frog なのに、ラフカディオ・ハーンのみ、なぜか frogs としているのですね。

ふるいけや かわずとびこむ みずのおと
http://sikaban.web.fc2.com/rakusin.htm
正一位の蛙が古池に飛び込む情景は、さながら、曹植の『洛神賦』のようですね。
黄初三年、余朝京師、還濟洛川。古人有言、斯水之神、名曰宓妃。感宋玉對楚王説神女事、遂作斯賦。其辭曰・・・
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「正一位蛙大明神」(by昭和天皇)

2014-09-10 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月10日(水)11時11分23秒

>筆綾丸さん
>ドトール
DOUTORが「医者・博士・獣医師」という意味なら、ポルトガル語を解する人は店名を見て少し落ち着かない気持ちになりそうですね。

>『昭和天皇実録』
原武史氏と同様、私にとっても『昭和天皇実録』の最大の謎は昭和天皇の宗教面ですね。

---------
昭和天皇実録:10歳で執筆「裕仁新イソップ」

(前略)
実録によると、学習院初等科4年生だった10歳の時、母の貞明皇后からイソップ物語を教えてもらい、童話を書くことを発案、自分の名前を付けた「裕仁(ひろひと)新イソップ」と命名した。第一作は「海魚の不平」という題で、ホウボウやタイが他の魚の才能をねたむのを、目の不自由な別の生き物がたしなめるという内容。「自分よりも不幸な者の在る間は身の上の不平を言ふな」との言葉を付けたという。
 生物学者としての顔も持つ天皇だが、幼い頃から生き物への興味は強かったようだ。5年生の授業でカエルを解剖して帰ってきた後、トノサマガエルの解剖に挑戦したこともあった。体内の器官を観察して箱に入れて庭に埋め、「蛙(かえる)」の神様として「正一位蛙大明神」の称号を与えた、と実録は記載している。

「正一位蛙大明神」と聞けば、多くの歴史研究者は、なぜ「蛙大権現」ではなく「蛙大明神」なのか、という疑問を抱くと思います。
「蛙大権現」は山王一実神道で、「蛙大明神」は吉田神道ですから、昭和天皇が「正一位蛙大明神」の称号を与えたということは、昭和天皇が主体的に吉田神道が正しいと判断されたことを意味するのか。
それとも、あるいは母の貞明皇后に吉田神道への信仰があって、幼少期の昭和天皇は「蛙大明神」に思い入れを持つ貞明皇后へ向けたパフォーマンスとして「蛙大明神」を選択されたのか。
謎ですね。

原武史氏の見解で少し変に感じるのは、<45年7月30日に大分県の宇佐神宮、8月1日に埼玉県の氷川神社、同2日に福岡県の香椎宮に勅使を派遣し、「敵国の撃破と神州の禍患(かかん=災い)の祓除(ばつじょ=払い除く)を祈念」した>(日経新聞)という事実関係の中から、原氏は8月1日の埼玉県氷川神社を全く無視している点ですね。
氷川神社の祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命だそうですが、この三神は貞明皇后と何か関係があるのか。
少なくとも、この三神は貞明皇后が格別の思い入れを持ったという神功皇后とは特に関係はないと思いますが、氷川神社は神功皇后ルート以外に貞明皇后と結びつく要素は何かあるのか。

氷川神社

原氏の見解に感じる疑問の第二点ですが、昭和天皇の宇佐神宮・香椎宮(プラス氷川神社)への勅使派遣は、天皇という公的資格に基づく公的行事であって、昭和天皇個人の宗教的信念の発露ではないんじゃないですかね。
前者はあくまでパブリックな行為であり、同じ宗教的行為であっても全くプライベートな性格を持つ「正一位蛙大明神」の称号授与とは異なりますね。
宇佐神宮・香椎宮(プラス氷川神社)への勅使派遣の詳しい事情は知りませんが、少なくとも原武史氏の疑問にはトンチンカンな響きを感じます。

ウィキペディアを見たら、原武史氏は1962年生まれで慶応義塾高校・早稲田大学政経学部卒業、国立国会図書館と日本経済新聞に勤務、特に日経記者時代は宮内記者会に所属し、昭和天皇の病状報道に従事したそうですね。
私は原武史氏の著書はあまり読んでいませんが、東島誠氏が絶賛されている『滝山コミューン一九七四』は、正直、あまり面白くはありませんでした。

「中世自治とソシアビリテ論的展開」再読
原武史

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Double Ninth Festival の 『昭和天皇実録』 2014/09/09(火) 13:09:21
http://en.wikipedia.org/wiki/Double_Ninth_Festival
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO76818440Z00C14A9MM8000/
『昭和天皇実録』の公開(9月9日)に関し、日経朝刊社会面には、明治学院大学教授原武史氏の見方として次のようにあります。
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終戦直前の45年7月30日と8月2日、空襲の危険を顧みず、九州の宇佐神宮と香椎宮に勅使を派遣し、御祭文ではかなり強い調子で敵国の撃破を祈っている。この時期、天皇の心は戦争終結で固まっていたはずなのに、なぜ戦勝祈願なのか。実録を読んでみて、この部分が最大の謎だと思った。
はたしてこれは天皇の主体的な判断だったのか。そうではなく、神功皇后に思い入れをもち、45年になっても戦勝を祈り続けた貞明皇后へ向けたパフォーマンスではなかったか。
7月27日には、内務省が貞明皇后の軽井沢疎開計画を作成している。疎開というのは本土決戦が前提。このために戦争継続のポーズをとった可能性もある。香椎宮は神功皇后、宇佐神宮は応神天皇が主祭神。神功皇后は応神天皇を妊娠したまま三韓征伐を行った伝説があるが、伊勢神宮ではなく香椎宮と宇佐神宮に戦勝を祈ったところに貞明皇后の影がちらつくのだ。
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そして、戦勝を祈願する終戦直前の御祭文の一例が掲載されているのですが、抑々古来、終戦を祈願する御告文(御祭文)や平和条約締結を祈願する御告文(御祭文)などという前例は宮中において絶無であり、形式的には戦勝祈願の形を取らざるを得ず、祭神に対し終戦だの降伏だの和平だのと死んでも言えず、戦勝祈願の形でなければ嘉納してくれないと考えられたのであるまいか、というような疑問が湧いてきました。
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辞別けて白さく今し例も有らや・・・敵国を撃破り事向けしめむとなも思ぼし食す厳しき神霊弥高に降鑑して神奈我良・・・大御旨を聞食せと恐み恐み白す
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貞明皇太后の神功皇后への敬慕の念がどのようなものだったのか、まったく知らないのですが、この文体に、降伏、終戦、和平、占領・・・などは、どうしても似合わない。貞明皇太后の影を深読みせずとも解釈は可能ではあるまいか。終戦の意思と祭文の趣旨は別次元の問題だ、と考えればいいんです。

小太郎さん
http://ja.glosbe.com/pt/ja/doutor
ドトールはポルトガル語なんですね。
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「七教授の終戦工作は自己満足か」(by立花隆)

2014-09-09 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月 9日(火)09時26分56秒

ザゲィムプレィアさんに教えてもらった『昭和天皇独白録』、南原繁等の終戦工作の意義を考える上で非常に重要な素材なんですね。
7月に立花隆の『天皇と東大 大日本帝国の生と死』(文藝春秋社、2005)を読んだときは、第66章「天皇に達した東大七教授の終戦工作」は『聞き書 南原繁回想録』(東大出版会、1989)と同じ内容なのだろうと思ってパラパラ眺めただけだったのですが、『昭和天皇独白録』への丁寧な言及がありました。
我ながら雑だなと思いますが、『天皇と東大』は上下巻合計で1500ページを超えるので、全部丁寧に読むのはしんどい本ですね。
ま、言い訳はともかく、少し引用してみます。(下巻、p679以下)

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 自己満足にすぎなかったというのだから、南原自身の終戦工作に対する評価は相当低かったということになる。
 しかし、現実にはどうだったのか。私はそれほど卑下すべきものではなかったのではないかと考えている。
 たしかに、その工作が契機になって、トントン拍子に終戦に向って一挙に事態が動きはじめたというようなことはなかった。
 しかし、それから数カ月後に実現した現実の終戦に向けての動きを見ていくと、東大の教授グループが考えていたさまざまな要素が、現実化していっているのである。たとえば海軍が決起して、宮中、重臣勢力と呼応して動き、陸軍の抵抗勢力をおさえつけるとか、天皇の聖断で決着をつける方式、詔勅を効果的に使って国民を納得させること、ソ連の仲介を頼むのはやめてアメリカとの直接交渉に望みを託すとか、降伏には条件をつけず、無条件降伏を受け入れるといった点である。
 これだけプロセスが似たのは、教授グループの働きかけの直接効果というより、その働きかけのポイントが要路の人々の頭の中に残像のように残っていた間接効果といえるのではないか。
 はじめ私は、南原のいう通り、彼らの終戦工作は現実には何の効果ももたらさなかった主観的自己満足にすぎなかったのだろうと思っていた。
 しかし、『昭和天皇独白録』(一九九一年、文藝春秋)を読んだとき、考えが変った。その、「『ポツダム宣言』を繞ての論争」の項に、天皇自身の言葉で次のように記されていたからである。
「外務大臣はこの案(立花注・バーンズ回答)ならば受諾出来るといひ、陸軍は出来ぬと云ふ、木戸は受諾すべしと解釈した。
 この頃の与論に付一言すれば、木戸の所に東大の南原〔繁〕法学部長と高木八尺とが訪ねて来て、どうして〔も〕講和しなければならぬと意見を開陳した。
 又有田八郎は直接英米に講和を申入れろといふ意見を木戸に云つて来た。(略)
 かくの如く国民の間には講和の空気が濃厚となつて来た」
 南原たちの働きかけが、ちゃんと天皇のもとにまで届いていたのである。そしてそれが天皇の心がポツダム宣言受諾の方向に最終的に動く理由の一つになっていたのである。
 それでハハァと思ったことがある。それは、終戦時の御前会議における天皇の二度目の聖断の際に天皇が発した言葉の根拠がわかったと思ったからである。
(中略)
 二度目の聖断を下すにあたって、天皇は、「これで本当に国体が護持されるのかどうか不安を持つ者の気持もわからないではないが、私は、これで国体は守られると確信している。それがアメリカ側の真意だと確信している」と説明して、反対者をおさえた。しかし実はその確信の根拠はそこでは何も明らかにされていなかった。
 しかし、東大教授グループが終戦工作にあたって使った説明の論理が天皇に伝わっていたとなると、その根拠は明らかである。教授グループのうち、高木八尺の説明はそこに力点が置かれていたからである。これまでの米当局者たちの発言を精査して、どの人がどのような考えの持ち主で、政府見解はどのような政治力学で動くかを説明し、いまアメリカ側に身を寄せれば、まちがいなく天皇制は守られる(天皇制に好意的な人々が要路にいる)が、ここで天皇制反対のソ連を引きこんだりしたら、天皇制は危くなる(混乱の中で革命が起きるかもしれない)ということである。(後略)
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「知識人」

2014-09-07 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月 7日(日)10時53分55秒

>筆綾丸さん
「ドトール」はサンパウロの地名だそうですね。


深谷克己・藪田貫編の 『展望日本歴史 15 近世社会』(東京堂出版、2004)を見たら、深谷氏はグランドセオリーがどーたらこーたらと「歴史学徒のいとなみ」と同じようなことを言われていますが、その20年前の『状況と歴史学』(校倉書房、1984)では、まだ「若者集団の雄叫びのような」話を、少し小さな声で語っていますね。
深谷氏の所謂「在野」については、まあ、そういう考え方もあるのだろうと理解しましたが、「歴史学徒のいとなみ」で一番変なのは、深谷氏が<同時に必然的に、「知識人」「大学人」と呼ばれる社会的外貌をずっと持ちつづけてきた>としている点ですね。
大学で教職についていたら「大学人」には間違いありませんが、それは「知識人」とはイコールではないですからね。
別にこれは早稲田大学を侮辱している訳ではなくて、他の一流と言われている大学を含め、現代日本の大学に存在するのは大半が狭小な個別分野に特化した「専門人」であり、「知識人」と呼びうる総合的知性の持ち主は僅少ではないですかね。
まあ、これも「知識人」の定義によりますが、少なくとも私にとっては、大勢が「若者集団の雄叫び」を上げていたときに一緒に雄叫びを上げていたような人は「大衆」そのものであって、およそ「知識人」の範疇に入れるべき人ではないですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ドトール珈琲店の鬼平 2014/09/06(土) 20:30:15
小太郎さん
「私は、保育園、病気長欠、浪人生活、予備校通いなど、およそはみ出たことを経験しないまま、一八才で東京の大学に入った。」
深谷氏の価値観では、「浪人生活、予備校通い」はともかく、「保育園、病気長欠」なども人生におけるあらずもがなの蛇足のようなものなのに、三年間の「浮遊的回路」は高等遊民の如く「はみ出た」ものではなく重要な体験らしいのですが、回路と言うと電気回路のようなものをイメージしてしまうので、「浮遊的回路」は「「浮遊的迂回路」としたほうが、文脈に相応しいような気がしますね。
https://www.doutor.co.jp/shopsearch/shop_list.html
高田馬場界隈には数軒のドトールがありますが、スペルは「DOUTOR]であって「detour」(迂回路)ではないのですね。ちなみに、フランス語で道草はle chemin des écoliers と言いますが、政経学部から文学部への変更がこれですね。語源は小学生の寄り道ですが、登校時をさすのか下校時をさすのか、いまだによくわかりません。

http://mainichi.jp/select/news/20140906k0000m040040000c.html
鬼丸という裁判長の名は火付盗賊改方の親分鬼平のようですね。
「2013年度末現在、1年以上の未払いは138万件、計1635億円で、うち5年を超える未払いは78万件、計678億円に上る」が、「受信料の時効を巡っては263件の訴訟が係争中」とのことですが、債権者として非常に怠慢ではないか、という印象を受けます。片っ端から訴訟を提起するのは合理的ではないでしょうが、「公平負担の徹底のため」というわりには、随分おっとりしてますね。数百億円ぽっちの端金なんぞ・・・。
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