学問空間

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『西欧音楽史 「クラシック」の黄昏』

2015-11-30 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月30日(月)09時09分4秒

今年は年頭の漠然とした予定とはずいぶん違った展開となり、四月から憲法論議にやたらと時間を費やしてしまいましたが、もともとこれは自分の内発的な理由から始めた訳ではなく、シールズのようなあまり知性を感じさせない運動に親和的な憲法学者たち(以下、「アザラシ系憲法学者」という)が騒々しかったので、ちょっとお付き合いしてみようかな、と思ったら結果的に相当長引いてしまいました。
ま、そうはいっても全く無駄だった訳でもなく、アザラシ系憲法学者の中では有数の大物である石川健治氏の「窮極の旅」を読み解く中で、ドイツ・東欧の近現代史に多少詳しくなったことは今年の重要な成果です。
そして次第に田中耕太郎の存在の大きさを意識するようになる過程で、音楽に造詣の深かった田中を理解するために音楽史をやろうかなという超迂遠な、音楽的教養がほぼ皆無の私にとっては相当に無謀な思い付きが生まれ、ここ一ヶ月ほど、岡田暁生氏の『西欧音楽史 「クラシック」の黄昏』(中公新書、2005)と『CD&DVD51で語る西欧音楽史』(新書館、2008)を手がかりとして少しずつCDを聴き、勉強してきたのですが、まあ、それなりに何とか方向が見えてきたような感じもします。
岡田暁生氏は本当に優秀な方ですが、美術史については多少の疑問を感じさせる点もありますね。
例えば『西欧音楽史』の「第一章 謎めいた中世音楽」に、

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 中世後半の時代の中心となるのが、オルガヌムから生まれたモテットというジャンルである。これは三声から成るのが普通で、グレゴリオ聖歌を低音に置き、その上に自由に考案した旋律を置くのはオルガヌムと同じなのだが、上にのせられる旋律がフランス語で歌われる点が違う(「モテット」の語源はフランス語の「言葉〔mot〕」と言われる)。初期のモテットは、低音に置かれたグレゴリオ聖歌の内容を、俗語のフランス語で注解した歌詞をもった旋律を上からのせていたらしい。当時の一般大衆はラテン語が分からなかったからである。だが後になるとモテットは、今日の目からはほとんど荒唐無稽とも見えるパロディ芸術へと発展した。
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とあり(p24)、具体例による説明の後、まとめとして

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 川柳を持ち出すまでもなく、パロディとはある文化が爛熟した時期に生まれるものであるが、力や壮大さではなくミニチュア的繊細さや洗練を追求するという点でも、モテットは典型的な爛熟期の芸術だといえる。響きは非常に親密になり、技巧的でおそろしく凝った装飾的な動きが増え、妖艶な甘さが音楽に漂いはじめるのである。美術でいえばそれは、パリのクリュニー美術館にある一角獣〔ユニコーン〕を描いたタピストリーや、金や銀や青で彩られたため息が出るような細密画『ベリー侯のいとも豪華なる時祷書』などに比せられようか。
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とあるのですが(p25)、パロディの話が飛んでしまっていますね。
クリュニー美術館の一角獣のタピストリーや『ベリー侯のいとも豪華なる時祷書』には特にパロディー的要素はありません。
ま、パロディとは別に「ミニチュア的繊細さや洗練を追求するという点」を論じていると見ることはできるので、論理的に誤りと言う訳ではありませんが、ちょっとつながりが分かりにくいですね。
パロディの話を尻切れトンボにしないためには、ここで装飾写本に登場する滑稽な絵を論じれば良いような感じもします。
ま、そこは人それぞれですが、私としては美術史と音楽史の接点、あるいは隙間には入り込める余地がありそうかな、とも思います。
なお、細かいことですが、ランブール兄弟の豪華時祷書は普通は「ベリー<公>のいとも豪華なる時祷書」と呼ばれていて、2002年に出た岩波の大型本も『ベリー公のいとも美しき時祷書』というタイトルですね。
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緩募─仙台・江厳寺の石母田家墓地について

2015-11-28 | 石母田正の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月28日(土)10時20分18秒

この掲示板の投稿を保管しているブログ「学問空間」には閲覧者が多い記事上位10位までを表示してくれる機能があるのですが、一週間ほど前から一昨日まで、「石母田正氏が母に海に突き落とされかけた?」という記事(2014年3月2日付)が10位以内となっていました。
これは石母田五人兄弟の末弟、元衆議院議員(日本共産党)の達(たつ)氏が1968年に書いたエッセイに、共産主義運動に走った次兄の正氏に関して、

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母はたまりかねて、次兄を生まれ故郷の北海道につれて行き、その心をひるがえさせようとしたが、成功せず、ついに青函連絡船で兄を海につきおとして自殺しようと決心した。しかし母にはそれができなかった。
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f19bea7aac2b683a3883575c49695278

とあることについて、達氏の記憶の混乱ではないかと疑念を呈したものですが、いろいろ考えると、これは記憶の混乱ではなく、政治家である達氏が選挙目当てに作った格好良い物語の一部であって、自殺云々は意図的な創作と捉える方が自然ですね。
正氏が実践的な「運動」に関与していたのは東京帝大文学部哲学科に在籍していた3年間だけで、史学科に移ってからは勉強に専念し、卒業後は直ぐに出版社に就職して結婚も早く、表面的にはごく普通の市民でしたから、特高による継続的監視があったとしても、石巻の実家まで、

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特高警察が家のまわりをいつもうろうろし、“国賊、非国民“と、石を投げ込む者もいた。“愛国婦人会長“として、毎日のように紫のたすきをかけて、戦地に他人の息子たちをおくりだす母に、非難の声は集中した。
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というのは話を盛りすぎです。
当時は正氏程度の活動歴の人はいくらでもいて、特高だって人員に限りがありますからね。
ま、それはともかく、石母田家についてそれなりに熱心に調べた私にとって、母親のまつ氏はいったい何年生まれなのだろう、というプチ疑問が未解明のまま残っています。
父親の石母田正輔翁は1861年生まれですが、1908年から1924年までの間に五人兄弟を生んだ母親は、少し(当時としての)婚期に遅れて年の離れた夫と結婚したとして、1885年生まれくらいですかね。
石母田正輔翁の墓は仙台の古刹・江厳寺にあるそうなので、おそらく正輔翁の墓石の裏にはまつ氏の戒名・生没年も彫られているでしょうから、何かの機会に江厳寺付近に行かれる方があれば、探して教えていただけると有難いですね。

「石母田五人兄弟」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d21499ad28acdbaaa95fb037546497e
「石巻市史 第二十七篇 人物 石母田正輔」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d19416d66cbc10de95ee69cfc7c0799

「伊達家ゆかりの寺・微笑山江厳寺公式サイト」
http://kouganji.or.jp/index.htm

>筆綾丸さん
>出しゃばりな編集者
優れた本を沢山出している優秀な編集者で、講談社でも有名な人らしいですが、自分の意見をここまで主張するのだったら、やはり責任の主体を明確にしてほしいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

abbreviation 2015/11/27(金) 18:33:26
小太郎さん
『歴史と哲学の対話』は出しゃばりな編集者がいて面白そうですが、まだ入手していません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%A0%94
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6
西研氏の名を知らず、はじめ、西洋哲学研究所の abbreviation かと思いましたが、西研は abbreviate しようがなく、フッサールの「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst!)というべきなのかもしれませんね。

『第3次世界大戦の罠』は、オマーンやイエメンなどの事情もわかって助かりますね。 

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「その点を本郷さんにはより深く考えていただきたいですね」

2015-11-27 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月27日(金)10時11分47秒

昨日の投稿では「編集の方」=「友人の編集者、山崎比呂志さん」と書いてしまいましたが、19pの西研氏の発言の中に、

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本郷さんと二人で納得していても、あちらで僕らを見ている三人の編集部の方々が、僕らがありもしないものを指さしてあれこれ話している姿をみて、「本郷さんも西さんも大丈夫ですか? そこには何もありませんが」と言い始めれば、僕ら二人は幻覚を見ていたのかな、ということになりかねない(笑)。
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とあるので、二人とは離れたところに「三人の編集部の方々」がいて、「編集の方」(p24)=「三人の編集部の方々」(p19)みたいですね。
ただ、そうすると、二人から離れたところにいる三人の誰かが突然会話に入り込んできてしゃべりまくる、というのも随分奇妙な状況なので、実は二人の近くにもう一人、名無しの発言者=「友人の編集者、山崎比呂志さん」がいて、「三人の編集部の方々」はその部下で、少し離れた場所で録音とかの作業をしている、ということなのでしょうか。
謎は深まりますね。
ついでに名無しさんの発言をもう少し拾ってみると、

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現象学の「学」と、その元気になる、つまりエロスだと思いますけれども、それら二つの関係はどうなるのでしょうか。レベルが違う話なのだから、「学」は理性だけで話し合ってよい。エロスなしでやりましょう、でいいのでしょうか。現象学的にはどうでしょう。エロスは、あまり入っていないのでしょうか。(p43)

シンプルな理論のほうがエレガントだということは、歴史学でも成り立ちそうですか。(p47)

ただ、たとえば中世を見ると、天皇の力の大きさよりも武家の力の大きさのほうがここでは働いているよな、というようなファクターはいろいろと実例を挙げることはできるわけでしょう。そういうことを細かくやっていけばいいのではないでしょうか。(p48)
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などとあり、まあ、このあたりは発言内容の確認や論点の整理といった編集者の役割の範囲内でしょうね。
ただ、更に、

--------
「国主」だから、ともかく昔からおれがこの「国」の王様なんだからお前たちはつべこべ言わずに税金を払え、という理屈も、いちおうは考え方として成り立つわけじゃないですか。だから、そう言われたら、それはそうだな、と思うということはあり得ると思うんですね。でも一方では、ここはおれがつくった土地なんだからおれのものだ、という考え方のほうもまた、これはこれで成り立つわけですよね。これをルソーの思想に照らして見ると、どうなのでしょうか。お互いに言っていることの正当性を、どのように見て、どちらのほうがより正しいと判断することができるのか、ということを教えていただきたいのですが。(p67)
--------

となると、形の上では質問であっても、語気がずいぶん強いので、まるで「王様」が臣下に詰問しているような感じもしてきます。
更に、ここからは本郷氏の発言も交えて引用すると(p79)、

--------
本郷──そうしたら、たとえば秀吉の主体的な働きかけみたいなことを強調しようと思えば、先ほど編集さんが言ったみたいに、そこで秀吉が天皇をつくり直したと考えればいい、ということですかね。
──ヘンリー八世とカンタベリー大司教ですね。要るから一応つくっておくけれども、どちらが上かといったら、絶対に王様のほうがもう上になっているじゃないですか。
本郷──ヘンリー八世は、カンタベリー大司教を完全に否定はしませんよね。
──いや、むしろヘンリー八世にはカンタベリー大司教が要るのではないでしょうか。カンタベリー大司教はイギリス国教会の頂点に立って、カンタベリー大主教に衣替えする。権力にはこういう装置が必要なんじゃないですか? その点を本郷さんにはより深く考えていただきたいですね。
本郷──覇者とか実権力がだいすきな僕こそ、そういう「権威」を考えに入れて、理屈を組み立てろ、と。
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ということで、東京大学史料編纂所教授に向って「その点を本郷さんにはより深く考えていただきたいですね」=「お前の考えはまだまだ浅い」と指摘する編集者というのはなかなか興味深い存在ですね。
ヘンリー八世を編集者、カンタベリー大司教を本郷氏に見立てると、「どちらが上かといったら、絶対に王様のほうがもう上になっているじゃないですか」みたいな感じもします。
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「編集の方」

2015-11-26 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月26日(木)09時26分23秒

内容の問題ではないのですが、『歴史と哲学の対話』は少し奇妙な本ですね。
p39以下から引用してみると、

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本郷──現象学でも、やはり後世にゆだねるということになるんですか。
西──後世にゆだねる、というのは正確な言い方ではないですね。史料と史実を踏まえたより説得力のある史像がつくられるか、ということで決まる、というのがより正確です。でももしそういうものがつくられると、何か権力的な力が働かないかぎり、だんだんに認められて広がっていくと思うのですね。ですから「後世に」と言ったのですが。
──たとえば、今の清盛皇胤説ですが、この説に関しては、共通の信憑が成立する土俵はできないのではないでしょうか。そもそもが、事実として確定することができないですよね。
本郷──たしかに、史実としては確定できないものがありますね。
西──そう、まったくの思い描きですね。史実としては確定できない。
──事実として確定できないことを基盤にして史像を組み立てるのは、現象学的にはOKなんですか。そこが歴史の難しいところかな、と思いますので、お尋ねしますが。
西──そうですね。かなり無理な推論をしていると言えるかもしれません。
 しかしやはり、相手の説を打ち砕くためには、「武からする説明」のほうがより首尾一貫し、より歴史のダイナミックな動きを説明し得るということを、打ち出していかないといけないのではないでしょうかね。
──清盛皇胤説は、事実としてはどうしても確認しようのないことだから、今一つ弱いですね。
西──その点は弱いです。明らかに弱い。
──だからこれで説明できる清盛の出世の早さよりも、違うファクターで説明したほうが、より説得力があるとは言えないでしょうか。皇胤説を立てる人は、それが事実かどうかわからないけれども、これなら出世の早さなどを合理的に説明できると言うわけですよね。とすれば、こちらのほうがさらにいっそう合理的に説明できるという理論を立てられれば、そちらのほうが強いということになりますよね。
西──なります。そうだと思います。
──仮説というのは、そういうことではありませんか。要するに、理論の上での話ですから。
西──そうです、仮説の話ですね。
-------

ということで、明らかに本郷和人・西研氏以外の誰かが参加して相当の分量の発言をし、実質的には鼎談になっているのに、その人の名前があるべき場所には何も記されていない。
この幽霊のような存在は何かというと、p24の西氏の発言で、

------
西──やっとここで歴史学に移りますが、歴史学も基本は同じです。僕も本郷さんも、編集の方も、「だれもが同一の時間・空間を生きてきたはずだ」という信憑を持っている。その信憑があるからこそ、「共通の過去」としての歴史が問題となるわけですね。
------

と出てくる「編集の方」であり、「はじめに」に登場する「友人の編集者、山崎比呂志さん」なんでしょうね。
まあ、直ちに誤解を生むような書き方ではないにしても、責任の主体が不明確な発言が混在しているのは非常に気持ちが悪いですね。
p24だって、実際には「編集の方」ではなく、「山崎さん」みたいな言い方をしているはずで、「山崎さん(編集者)」てな具合に書けばいいだけじゃないですかね。
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「いちばん最低な国がギリシア」(by 山内昌之氏)

2015-11-25 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月25日(水)09時52分53秒

>筆綾丸さん
>反美学的な帯
はずして読んでいます。
山内昌之氏相手だと倣岸不遜な佐藤勝氏にも緊張感が漂い、なかなか充実した対談ですね。
トルコによるロシア機撃墜があったばかりなので、トルコに関する冷ややかな分析(p31以下)は参考になります。
また、山内氏のギリシア批評は面白すぎますね。

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「銀行が窒息状態にあるのにどうやって支払えと言うのか」と、デフォルトになっても他人事なのがすごい。どうも、「グリーク・キャラクター」(ギリシア人気質)とでもいう他ない特異体質があるらしい。〔p172〕

古典古代のギリシア史や文化を引き合いに出して、タカリやゴネを正当化する権謀術策だけは凄かった。その逆ギレ感覚だけは継承されています。〔p177〕

私はEU国民でもなく、歴史学者や社会学者なのに、何故か現代ギリシアのことになるとすぐに不快感がこみあげてきます(笑)。〔p178〕

歴史に戻れば、オスマン帝国からいろいろな国がバルカン半島で分離独立し、アラブも独立していきました。しかし、オスマン帝国から独立した国のなかで、いちばん最低な国がギリシアのような気がします。〔p178〕
--------

佐藤氏の発言かなと思って発言者を見直した箇所もありますが、山内先生もなかなか強烈なキャラですね。
そういえば以前、山内氏の『イスラムとロシア その後のスルタンガリエフ』(東大出版会、1995)の献辞が「勝俣鎮夫先生に」となっているのを見て不思議に思ったことがありますが、山内氏は他の著書でも内容と全然関係なさそうな人に献辞を書いているので、まあ、そういう趣味なんでしょうね。

「勝俣鎮夫先生に」(by 山内昌之氏)

>『鎌倉将軍・執権・連署列伝』
未読ですが、親王将軍については内容を確認してみたいですね。
宗尊親王・惟康親王は新しい情報が期待できそうですが、久明親王はちょっと難しいですかね。
守邦親王となると、以前調べた時はぺんぺん草も生えていないような状況でしたが、新しい史料が何か出ているのか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

琉球国王尚寧の花押 2015/11/24(火) 16:46:26
小太郎さん
本郷氏には、中世史の書のなかでザインとゾレンを論じたものがあり(書名は忘れました)、哲学にも関心があるのかな、と思ったことがあります。『歴史と哲学の対話』は、どこかで見かけた記憶があるのですが、探して読んでみます。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b209211.html
書店で『鎌倉将軍・執権・連署列伝』を見かけ、以前であれば、すぐ購入したのですが・・・。

佐藤優氏の本はいつも装幀が問題ですが、『第3次世界大戦の罠』は、反美学的な帯を引っ剥がして捨てると、シンプルで綺麗な本になりますね。

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 やはり織田政権は、天下統一のスタート台に立とうとした寸前で、あっけなく倒れてしまったというほかない。たしかに信長派の武将たちの書状には、文中で「天下一統」と記されたものもあるが、いずれも「一統」に向けて連携を強化するなどの文脈で使われているにすぎない。信長は「天下統一」の看板を掲げることすらできなかったのであり、その向こう側に用意されていた天下統一という政治課題に本格的に着手することなく、あの世へと旅立ってしまったのだ。
 では、秀吉は誰から天下統一のバトンを受け継いだのだろうか。それは、全国政権の前任者である室町幕府と考えるのが自然だろう。(黒嶋敏氏『天下統一』18頁)
---------------
黒嶋氏は、「天下」の範囲に関する神田千里氏の説を紹介しながらも「天下」について詳しく言及せず、また、「統一」と「一統」について使い分けているように読めながらも厳密には使い分けておらず、要するに曖昧なのですが、それはともかくとして、秀吉が天下統一のバトンを室町幕府から継承したと考えるのは、私には不自然に思われます。

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2014/10/post-b8b3.html
第三章の扉にある琉球国王尚寧の「日本風の花押」は初めて知りましたが、団子のような、おでんのような、雪見灯篭のような、五輪塔のような形なんですね。黒嶋氏の書で見るのと、ネットで見るのと、ずいぶん印象が違います。
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現象学的歴史学?

2015-11-24 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月24日(火)10時18分55秒

昨日、某図書館で本郷和人・西研・竹田青嗣氏の対談集『歴史と哲学の対話』(講談社、2013)を見かけ、本郷氏はこんな本も出しているのかと驚きました。
「はじめに」から少し引用してみると(p8)、

-------
【前略】
 私も石井先生にならって、中世史像を復元してみたい。できれば、先生とは異なる方法を模索しながら。天皇を安易に持ち出す「上から・外から」の歴史叙述は、ひとまず措いておこう。人間の内在的な欲求や成長しようとする精神など、「中から・内から」人の生を解き明かす学問は何だろうか。真剣に思い悩んだ結果、一つの結論に到達しました。それは、哲学に他あるまい、と。
 しかし、思い至ってはみたものの、中世史と哲学のコラボレーションなど、聞いたことがない。では、自分一人で一から哲学を学び直そうか。でも、表面だけなぞるならともかく、哲学の本体は難解をきわめます。ヘーゲル、マルクス、フッサールなど、とてつもなく高い山々が連なっていて、安易に近づくことを許しません。
 どうしよう。途方に暮れていると、友人の編集者、山崎比呂志氏さんが救いの手を差し伸べてくれました。竹田青嗣先生、西研先生に教えを請うのが良いのではないですか、と。お二人ともたいへん懐が深いから、本郷さんが真摯に問いかければ、答えてくれるに違いありませんよ。幸い私はお二人と懇意にしていますから、頼んであげましょう。
-------

という事情で出来た本だそうですね。
鼎談ではなく、本郷氏が西氏・竹田氏と個別に対談するという形式になっています。
そして「現象学という方法に助けをかりたらどういう地平が広がるのかなと、僕は前から思っていた」(p13)本郷氏の関心に基づき、現象学を中心とする「中世史と哲学のコラボレーション」が展開されるのですが、もともと哲学的素養のない私は、ちょっと前なら本郷さんは現象学などという難解な学問にも取り組んでいるのか、と感心したはずでした。
しかし、たまたまこの夏、石川健治氏の「窮極の旅」を検討する過程で法哲学者の尾高朝雄について調べる必要が生じたので、結果的に現象学についても少しだけ学ぶ機会がありました。
ま、周辺的なことを少し齧っただけですが。
そして、法哲学において尾高朝雄が生み出した成果を考えると、現象学的歴史学?の未来についても、まあ、袋小路とまでは言いませんが、けっこう厳しそうだな、とは思います。

>筆綾丸さん
歴史学を超えて華やかな社会的活動を展開する本郷和人氏と異なり、森茂暁氏は川添昭二氏の堅実な学風を受け継ぐ、ちょっと古風なタイプの研究者ですが、その森氏にして何で「赤裸々に告白した異色の日記」に簡単に誑かされてしまうんですかねー。
対象との知性のタイプの違い、ということでしょうか。

>フェルマーの式が引用され
この夏のアザラシ騒動でも新聞・雑誌で見かける保阪氏の発言はずいぶん硬直しているように感じたのですが、本当にボケてしまったみたいですね。

>『第3次世界大戦の罠』
カバーに佐藤優氏の写真が出ていたので美的な観点から購入を躊躇いましたが、勇気を振り絞って買ってみました。
これから読みます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

親不孝者 2015/11/23(月) 18:31:15
小太郎さん
『とはずがたり』や『増鏡』は歴史家が鼎の軽重を問われる試金石のようなもので、森氏のように言われたら、ふーん、そんなものですか、としか言いようがないですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%AE%9A%E7%90%86
『昭和史のかたち』の最終章(十章)には、xのn乗+yのn乗≠zのn乗というフェルマーの式が引用され、次のように書かれています。
-----------------
xを国民にし、yを天皇にたとえ、zを政治体制と考えるのである。nに「象徴」という字句をあてはめると、「平時体制」という天皇と国民の良好な関係が生まれる。ところがnに「主権者」とか「大元帥」「現人神」などをあてはめると、歪みのあるファシズム体制やら、軍事主導体制が生まれるのではないかと思えるし、本来なら天皇自身が拒否してこの数式は成りたたないとなるはずである。(180頁)
-----------------
冗談ならともかく、こんなアホなことを本気で書いたら、数学教師であった泉下の父君への冒瀆になるはずであって、救いようのない痛ましい駄本と言うべきですね。・・・人間、長生きしても、あまり意味はないのかもしれません。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062883436
黒嶋敏氏の『天下統一 秀吉から家康へ』を、そういうもんかなあ、などと疑問を抱きつつ、半分ほど読み進めました。
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「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者

2015-11-22 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月22日(日)11時08分55秒

>筆綾丸さん
『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」ということは、譬えて言えば某大学文学部M教授の研究室にいた女子学生が、自分はM先生の愛人でした、M先生は私にあんな猥褻なことやこんな異常なことをさせた純度100%の変態男でした、しかし私は今でもM先生を愛しています、心からお慕い申し上げています、という手記を週刊誌に発表したとして、その「証言内容はすこぶる信頼性が高い」と評価するようなものですからねー。
ま、森氏がその程度の「赤裸々に告白した異色の日記」を信頼されるのは自由ですが、氏が他の史料を扱う際の極めて慎重な態度とは随分異なるので、ちょっと妙な感じは否めないですね。

さて、森氏自身は『増鏡』の作者について特段の意見を持たれていないようですが、念のためと思って、森氏による小川剛生氏『二条良基研究』(笠間書院、2005)の書評(『日本歴史』703号=平成18年12月号)を見たところ、『二条良基研究』全体に対する評価は、

-------
 ひとことで言うと、本書はなかなか骨太の力作である。著者小川氏はあえていえば、中世の国文学研究を専門とする新進気鋭の若手学究であるが、本書の内容は、決して国文学の範疇に収まるものではない。そのことは、小川氏独自の専門的な学識はむろんのこと、繰り出される諸指摘が日本中世史に対するじつに的確にして深い理解に裏打ちされていることによろう。歴史研究の成果を十分に取り入れる格好で、みずからの新知見を随所にちりばめつつ、本書は執筆されている。
-------

という具合に極めて高いですね。(p115)
ただ、『増鏡』の作者に関する小川説については特に言及はありません。
ま、小川説自体が何とも曖昧なものなので、評価のしようがないのかもしれませんが。

『二条良基研究』
「なしくずし」(筆綾丸さん)
「牛」

>保阪正康氏の『昭和史のかたち』
七十過ぎた人が十代の頃の父親との葛藤をグダグダ書いているのは、ちょっとみっともない感じがします。
ちなみに保阪家は加賀百万石前田家の支藩、といっても僅か一万石足らずの小藩である上州七日市藩の家老の家柄だそうで、正康氏は43歳のとき、死が迫った父親とやっと和解したそうですね。
父親の回想によれば、正康氏の祖父の人生は、

--------
第一高等学校医学科の第一期生であったが、放蕩三昧の生活をし勘当同然になったこと、それでも内務省の役人になったがすぐにやめて新事業を興して失敗したこと、第十三代藩主になるはずだった利定と同年齢で親しかったために横浜の済生会病院に職を得たこと、しかし関東大震災で高女教師だった母や姉をはじめ家族が全員死亡したこと、
--------

といったものだったそうで、良い家柄に生まれただけに悩みも深かったようですね。

「酒井美意子は加賀百万石のお姫さまなの」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

昭和史と幾何学の不思議な関係 2015/11/21(土) 13:59:46
小太郎さん
『南朝全史 大覚寺統から後南朝』の前半を読み返してみると、小太郎さんの言われるようにまさに「殆ど『増鏡』の注釈書の趣」で、歴史学とは思えぬナイーヴさに羨望の念を禁じ得なくなりました。男を騙すなんて訳ないわね、と中世の頭脳明晰な性悪女の神々しいまでの微笑が仄見えるようですね。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784198639723
山内昌之・佐藤優両氏の対談『第3次世界大戦の罠』を、興味深く読みました。両氏は池内恵氏を厳しく批判し、中田考氏を擁護する池内氏の文章を引用したあとに、こんな対話が続きます。
---------------------
佐藤 例えば、<中田さんをめぐる疑惑と紛議の嵐が去って、本書がこの解説を要さなくなる日が早く訪れることを望んでいる。>というくだりを読んで私は、「人は二つの椅子に同時に座ることができない」というロシアの諺を思い出しました。
山内 その表現もありますが、別の言い方もあります。「問題なのは君が同時に二つの椅子に座れないことではない。君が二つの椅子に挟まれたうつろな空間に座ろうとするのが問題なのだ」と。
佐藤 そう。座る場所がないんだと。
山内 そういうことです。これはレーニンがベール・ボロボフに対して言った言葉ですよ。
佐藤 僕の率直な池内氏の印象は、怖がりなんだと思うんですよ。あの人は攻撃的な文を書きますが、実際のところは小心だと思うんです。ISについて激しく非難したので、この人たちから殲滅対象にされるかもしれないという恐れが出てきた。
山内 つまり、保険をかけたということですか。(51頁~)
---------------------
一つの量子は二つの場所に同時に存在することができる、と言えるので(朝永振一郎『光子の裁判』におけるディラックの夢)、池内氏は量子力学の不思議な存在論に通じているのかもしれない、とは佐藤氏も理解が及ばず、それで、山内氏は二つの間の空虚について言及したのかもしれない、とも思われない。・・・・・・

https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1510/sin_k850.html
保阪正康氏の『昭和史のかたち』は、まるで中学生の初歩的な幾何学の授業のような感じで、読むべきか、読まざるべきか、面食らっています。はしがきを読むと、まあ、そいう事情か、とは思うのですが。
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 父親は高校の数学教師だった。戦時下には大学で研究者の道を歩んでいた。関東大震災時に片耳が聴こえなくなったため、研究者として配属将校に愚弄されることがあり、結局旧制中学の数学教師に転じた。それが口惜しかったのか、私を数学者にと幼年期から数学を教えた。
 しかし私は読書が好きな少年で、中学卒業時に父親に自分の進む道を決められるのはたまらないと、徹底して反抗に転じた。高校時代にはまったく勉強しなかった。父への苛立ちからである。
 父親の亡きあと、その備忘録を見つけたが、その中で私に詫びる一文があった。
 数学についての具体的な知識はないのだが、数学的発想には魅かれる。昭和史に関心をもって調べているうちに、これを図式化するとこうなるのではと考える。あるいはフェルマーの定理にまつわる歴史的エピソードなどにも関心をもっている。
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『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)

2015-11-21 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月21日(土)09時31分16秒

三浦周行(1871-1931)・龍粛(1890-1964)くらいの論文しかなかった鎌倉後期公家社会の研究が進展したのは1980年代に入ってからで、私見ではその牽引車となったのは森茂暁氏と本郷和人氏ですね。
1990年代になると森氏が多くの論文を『鎌倉時代の朝幕関係』(思文閣出版、1991)に纏められ、本郷氏も『中世朝廷訴訟の研究』(東大出版会、1995)を出されますが、この二冊によって旧来の研究状況は一新され、鎌倉後期公家社会への関心が深まって若手研究者の論文も急に増えたように思います。
その後、森氏は多数の専門書・一般書を出され、私はその度に購入していたのですが、『南朝全史 大覚寺統から後南朝』(講談社選書メチエ、2005)は書店で手には取ったものの、未購入でした。
今回、恒明親王をきっかけに読んでみたら、「第一章 鎌倉時代の大覚寺統」において『増鏡』への言及が極めて多いのに驚きました。
まず、p13に、

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 持明院統・大覚寺統という言い方は、後世の研究者が考案した学術上の用語であり、当時の史料に登場する言葉ではない。当時それぞれの統派の主帥〔しゅすい〕の呼称としては、「持明院殿」「大覚寺殿」という言葉が用いられた。鎌倉時代を描いた歴史物語『増鏡』では、「持明院殿」と「大覚寺殿」の言葉が対比的に使用され始めるのは延慶元年(一三〇八)以降である(『増鏡』第一二「浦千鳥」)。むろん『増鏡』は一四世紀後半の成立とされ同時代史料ではないが、回想の中の歴史的表現として注意してよい。【後略】
-------

とあります。
そして、森氏は『増鏡』を次のように評価されます。(p17)

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後嵯峨院薨去直後の両統
 このポスト後嵯峨の地位をめぐる兄弟間の関係の推移をもっともよく伝えるのは、南北朝時代成立の歴史物語『増鏡』である。関白二条良基(一三二〇-八八)の作品ともいうが確証はない。この作品は後鳥羽・後嵯峨・後醍醐の三代の宮廷物語で、文学的な装飾を施してはいるが、史実を踏まえた歴史書としての内実を持つ。叙述の主体が後醍醐であるところからみると、この作品は後醍醐の物語たるを本質としているといってよい。その『増鏡』に両統の関係がどのように描かれているかをみてみよう。
-------

ということで、この後、「第八 あすか川」、「第九 草枕」、「第十 老のなみ」の引用と解説が10頁続き、殆ど『増鏡』の注釈書の趣です。
そして、その途中には『とはずがたり』への言及もあります。(p22以下)

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『とはずがたり』の証言
 右にみた後嵯峨院没後の、後深草─亀山両院間の「治天の君」をめぐる葛藤については『とはずがたり』の証言がある。『とはずがたり』とは、大納言久我雅忠の女〔むすめ〕、通称後深草院二条が記した鎌倉後期の女流日記で、後深草院および宮廷貴紳たちとの恋愛、本人が出家した後の諸国遍歴の体験など宮廷女性の恋愛と信仰を赤裸々に告白した異色の日記である。しかも、記主の二条という女性が後深草院の寵愛をうけた女官であっただけに、その証言内容はすこぶる信頼性が高い。『とはずがたり』巻一に、以下のようなくだりがある(講談社学術文庫本では第三一段)。
【中略】
 前掲の『増鏡』の記事と同様の内容で、『増鏡』はこの記事を素材にした可能性が高い。
【中略】
 右の文中の「御所さまにも世の中すさまじく」の部分には、後嵯峨院没後、亀山院側や鎌倉幕府との政治的交渉が思い通りにゆかない後深草院の厳しい立場をよくあらわしている。また「鎌倉よりなだめ申して」の部分は、鎌倉幕府の後深草院に対するスタンスが基本的にどのようなものであったかをよく表現している。この間の一連の後深草院の出家騒ぎを冷静に観察すると、それが幕府を動かすためのゼスチュアであった可能性も否定できない。
--------

森氏は『とはずがたり』と『増鏡』を「冷静に観察」した結果、『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」と評価されたのでしょうね。
10年前、都内某書店で『南朝全史』を立ち読みしていた私は、この「証言内容はすこぶる信頼性が高い」との記述を見て、そっとページを閉じ、書棚に戻して静かに立ち去ったのでした。







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井沢元彦氏について

2015-11-20 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月20日(金)07時59分27秒

>JINさん
>「逆説の日本史」(小学館)
ご紹介の森茂暁氏『南朝全史』と岡野友彦氏『院政とは何だったのか』、そして岡野氏の『北畠親房-大日本は神国なり』(ミネルヴァ書房、2009)を読んで、恒明親王の周辺はけっこう面白いなとは思ったのですが、伊沢ファンのJINさんとの間で議論するのは、率直に言って私には無理です。
JINさんが、例えば職業として歴史を研究している専門家の講演会、あるいは一般公開されている歴史学会のシンポジウム等で、質疑応答の時間に「井沢元彦氏はこうおっしゃっているが・・」と質問したら、発表者は困惑すると思います。
いわゆる井沢ファンと専門的な歴史研究者の世界には埋め難い溝があります。
私は別に専門的な研究者ではなく、単に研究者の論文を読むのが好きなだけの人間ですが、私が個人的に運営するこの掲示板での議論のレベルはある程度高いものに保ちたいので、井沢氏の見解の引用、あるいはそれに基づく新たな主張は勘弁してほしいと思います。

>筆綾丸さん
>永井路子氏の『変革期の人間像』
ご紹介、ありがとうございます。
鋭い人ですし、黒板勝美の親族として歴史研究者の世界にも詳しい方ですが、さすがに参照できる文献が三浦周行・龍粛あたりに限られる1970年代では何も書けないですね。

※JINさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「果てしなき遠心力」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8092
「蛇足で恐縮ですが・・・」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8090
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「自分のために苦労してくれた母への深い想い」

2015-11-18 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月18日(水)09時50分15秒

久しぶりに本郷和人氏の『天皇はなぜ生き残ったか』(新潮新書、2009)を読んでみたのですが、後宇多院と後醍醐天皇の父子関係について、本郷氏は村松剛氏(1929-94)の『帝王後醍醐』(中央公論社、1978)と全く同じように考えておられるのですね。(p163以下)

---------
 上皇と天皇の不和には、理由は二つあったように思う。一つは政治手法の違いである。上皇は歴代の治天の君の中でも、とくに幕府との融和を心がける人であった。先に記したように、上皇の腹心の六条有房は、幾度も鎌倉に下向している。文書では済まさず、交渉を密に行う。上皇はそれにより、皇位も東宮の地位も独占する(天皇は後醍醐、皇太子は邦良親王)など、大覚寺統の利益確保に多大な貢献をしていた。これに対し、天皇の幕府嫌いは有名であった。これでは父子がうまくいくわけがない。
 不和の理由の二つめは、情緒的なことである。後宇多天皇の妻の一人は、参議藤原忠継の娘で忠子という女性であった。二人の間には尊治親王が生まれたが、忠子は天皇の愛情を確信できなかったらしい。このままでは、自分が生んだ可愛い皇子が皇位を得ることは覚束ない。そう判断するや、何と彼女は後宇多の父、大覚寺統の統主であった亀山上皇のもとに奔った。実権を掌握する上皇の寵愛を得るために。やがて尊治親王はみごと皇太子の座を射止めたが、それが忠子に閨房でねだられ、相好を崩した亀山上皇の後援に拠っていたことは想像に難くない。
 忠子は亀山上皇に細やかに奉仕する。上皇が亡くなると、菩提を弔うため出家した。尊治親王には、自分のために苦労してくれた母への深い想いがあったのだろう。即位して後醍醐天皇となるや、直ちに母を女院に列し、談天門院の号を贈った。さしたる家の出ではない忠子は、女性としての栄誉を極めた。だがこうしたことは、事ごとに後宇多上皇に負の刺激を与えただろう。亀山と後宇多、後宇多と後醍醐。大覚寺統の父子はそれぞれに不和であった。やがて、これに後醍醐天皇と護良親王の対立が加わる。
--------

「やがて尊治親王はみごと皇太子の座を射止めたが、それが忠子に閨房でねだられ、相好を崩した亀山上皇の後援に拠っていたことは想像に難くない」とありますが、尊治親王が皇太子となったのは1308年で、亀山院はその3年前に亡くなっていますから、直接的な「後援」はありえないですし、最晩年の亀山院は尊治親王など全く無視して1303年に生まれたばかりの恒明親王の立坊を図っていた訳で、ちょっと奇妙な書き方ですね。
また、「母を女院に列し、談天門院の号を贈った」のが直接には後醍醐天皇の意向によるものだったとしても、それが「後宇多上皇に負の刺激を与えた」んですかね。
本当に忠子が無力な後宇多院の下にいることに嫌気がさして「大覚寺統の統主であった亀山上皇のもとに奔った」のなら、臣下の前で大恥をかかされた後宇多院は忠子を嫌って「女性としての栄誉を極め」させるようなことはやめさせるのではないかと思いますが、後宇多院政下であるにも拘らず、後宇多院は拒否・妨害はしていません。
同時期の女院号授与の例を見ると、忠子が談天門院の号を得た翌元応二年(1320)、談天門院と同年(1268)の生まれの一条頊子という女性が万秋門院の号を得て、「女性としての栄誉を極め」ていますが、この人は後醍醐天皇とは全く縁がありませんから、後宇多院の意向としか思えません。
談天門院も万秋門院も後宇多院政下で女院号を得た点は共通ですから、後宇多院の意向に程度の差はあっても、いずれも後宇多院の意思に基づくと考えてよいのではないですかね。
そもそも忠子が「大覚寺統の統主であった亀山上皇のもとに奔った」と考える史料上の根拠を求めると、本郷和人氏の場合も村松剛氏と同様に『増鏡』の叙述に行き着くはずですので、結局は『増鏡』がどれだけ信頼できるのか、という話になりそうですね。

村松剛「忠子の恋」

>JINさん
森茂暁氏の講談社メチエの本は、恒明親王に関する限り、氏が既に発表されていた論文に新しいことは付加していないはずですが、読み直してみます。
永井路子氏の『歴史の主役たち―変革期の人間像』は1978年刊行とのことなので、当時の公家社会研究のレベルを考えると、正直あまり期待できないのですが、探して読んでみます。

※JINさんの下記投稿へのレスです。
「南朝全史-大覚寺統から後南朝まで(講談社選書メチエ)」
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「彼の名はヨハネス・ブラームス」

2015-11-17 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月17日(火)08時57分47秒

今までクラシックにはあまり縁のなかった私ですが、田中耕太郎を調べて行く過程で自分の音楽的教養の欠如がかなり深刻な問題であることを自覚せざるを得なくなり、まあ、今更音楽そのものを深く極めるのは無理としても、音楽と国家・社会との関係についてある程度本格的に勉強しようかなと思い始めている今日この頃です。
漠然とそんな問題意識を持ちつつ、某図書館で書棚を眺めていたらニコラウス・アーノンクールの『古楽とは何か-言語としての音楽』(音楽之友社、1997)が目にとまったので借りてみたところ、さすがに今の私には全く無謀な選択で、全然理解できませんでした。
ま、これは数ヶ月後の課題だなと思ってあっさり断念し、アーノンクールという名前の共通性だけで一緒に借りてみたCD、『ブラームス:ドイツ・レクイエム』のライナーノーツを読んでみたところ、シューマンの文章が引用されていました。(ベンヤミン・グンナー=コールス、渡辺正訳)

-------
(前略)ブラームスとシューマン夫妻はデュッセルドルフで数週間をともに過ごすほど親しくなった。3人とも、一緒に過ごすことに高揚感に満ちた喜びを感じていたが、ブラームスが14歳近くも年上のクララに対して密かで見込みのない恋愛感情を抱いたことから面倒な事態となった。夫ロベルトの方はブラームスという若い才能の出現に熱狂しており、1853年10月28日付けの「音楽新時報」にブラームスを未来の救世主として絶賛する次のような記事を書いた。「私は確信している。(中略)時代というものに最も高度にして最も理想的な形で表現を与えるよう運命づけられている人間が突如として現われるはずだと。その人物は、徐々にではなく一気に熟練に達する─ユピテルの頭の中からすでにすっかり武装した姿で飛び出したというミネルヴァのように。今、その人間が現われた。幼い頃から女神と英雄たちに見守られて育った若者が。彼の名はヨハネス・ブラームス」。
-------

ショパンに感激して書いた文章とそっくりですが、シューマンの文体って、みんなこんなものなのですかね。
まあ、ショパンと違ってブラームスは「死ぬほど笑った」りはしないでしょうが、162年の時を隔てて、私はけっこう笑ってしまいます。

http://www.sonymusic.co.jp/artist/NikolausHarnoncourt/discography/SICC-1369
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「カラヤンなにくそと思って…」(by 小澤征爾)

2015-11-16 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月16日(月)12時34分27秒

>筆綾丸さん
それなりに近代史の本を読んでいるはずの自分が何で今まで朝日新聞の「不思議なレイアウト」に気付かなかったのだろうと思って、明治末から昭和前期を対象とする一般的な歴史書をいくつか見てみたら、朝日新聞の切り抜き自体は結構載っているものの、それらの多くは大阪朝日新聞であり、東京朝日新聞の場合は夕刊になっていますね。
執筆者・編集者が植物模様に囲まれた朝日新聞のロゴと一緒に記事を載せたいと思った場合、東朝の朝刊という選択肢は実際上なくて、大朝ないし東朝・夕刊を選ぶこととなり、結果的に読者も東朝・朝刊の第一面はあまり目にしないことになってしまうんですね。

>『小澤征爾さんと、音楽について話をする』36頁~
ご引用の直ぐ後の小澤征爾によるカラヤン評、「協奏曲でこれだけソリストのことを考えないで、シンフォニーとして堂々と演奏できる人って、まずいないですよ」も面白いですね。
帝王カラヤンの面目躍如ですが、『ボクの音楽武者修行』を見ると、カラヤンは小澤征爾に自分のやり方を押し付けた訳ではなく、意外に親切に指導していますね。(p151以下)

-------
 カラヤンという人は、だいたい魔法使いみたいな指揮で、あっという間に客を引きつける。そんな魔法など他人に理解できるわけがないので、こういう人の弟子になってもあまり益するところがないのではないかと、実はぼくも思っていた。ところが大違いだった。
 レッスンとなると、カラヤンは指揮台の真下の椅子に腰掛けて、ぼくらが指揮しているのを、じろっと睨むようにして見ている。ぼくは睨まれると、カラヤンの音楽そのものを強要されるような気がした。そこで考えた。こんなことをしているとカラヤンの亜流になってしまう。カラヤンなにくそと思って、ぼく流の音楽を作らなければいけないと固く心に誓った。
 しかし一方、カラヤンは教えることに非常に才能があった。睨みはするが、けっして押しつけがましいことは言わず、手の動かし方から始まってスコアの読み方、音楽の作り方という順序で、ぼくらに説得するように教えた。そしてぼくらの指揮ぶりを見た後では具体的な欠点だけを指摘した。また演奏を盛り上がらせるばあいには、演奏家の立場よりむしろ、耳で聞いているお客さんの心理状態になれと言った。方法としては少しずつ理性的に盛り上げて行き、最後の土壇場へ行ったら全精神と肉体をぶつけろ、そうすればお客も、オーケストラの人たちも、自分自身も満足すると言った。またシベリウスやブルックナーのように、今まであまり日本人には縁のない作曲家のものと取り組む時にはその作曲家の伝記を読むのがいい。なお、ひまと金があれば、その人の生まれた国、育った町をぶらつくのがいい。そうして音楽以前のものに直接触れて来いと説いた。
-------

ま、これもカラヤンが若き小澤征爾の才能を認めたからであって、普通の指揮者見習いだったら別だったかもしれませんが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Daech(ダーエシュ) 2015/11/15(日) 18:05:05
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3
漱石の連載小説の大半は、「第1面の全面が書籍雑誌の広告という不思議なレイアウト」時代の朝日新聞だったのですね。『虞美人草』の格調高い文体や『こころ』の先生の遺書などと俗悪な広告の対比はなかなかの見物だったでしょうね。『三四郎』の佐々木与次郎だけが広告的です。

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村上「カラヤンとグールドが共演しているべートーヴェンの三番のコンチェルト、今日はこの演奏を聴いていただきたかったんです。正規録音じゃないんだけど、一九五七年にベルリンでやった演奏会ライブです。オーケストラはベルリン・フィル」

   第一楽章、オーケストラの長い重厚な序奏が終わり、グールドのピアノが入ってきて、やがて両者の絡みになる。

村上「ここのところ、オーケストラとピアノが合ってないですよね」
小澤「ずれてますね。あ、ここも入り方が違う」
村上「前もって音合わせみたいなの、しっかりやってないんですかね?」
小澤「いやあ、そりゃやってるでしょう。でもこういうところはね、独奏者が弾いているところは、だいたいにおいてオーケストラの方が合わせてあげないといけないんだけど・・・」『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』36頁~
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https://www.youtube.com/watch?v=56jckbE3w4s
誠に便利な時代ですが、この曲をYouTubeで聴くことができますね。
https://www.youtube.com/watch?v=k46fdX_3xDM
他にも色々ありますが、バースタイン指揮でピアノはツィマーマンのものがいいですね。

http://www.rfi.fr/france/2min/20151114-attaques-paris-hollande-ei-etat-islamique-coupable-revendication-acte-guerre
フランスの国営ラジオ放送は Etat islamique と言い、日本のメディアもISとしていますが、オランド大統領の正式な演説では Daech ですね。 
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本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』

2015-11-16 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月16日(月)11時34分39秒

>JINさん
>「院政とは何だったか (PHP新書)」
未読ですが、これは岡野友彦氏の2013年の著書なんですね。


恒明親王のような極めてマイナーな存在に着目されたのは何故なのかな、と思いましたが、もう少し広く亀山・後宇多・後醍醐の関係あたりにご関心があるようですね。
本格的に勉強されるのであれば、前提として貴族社会をきちんと理解する必要があるので、本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東大出版会、1995)をお奨めします。
決して易しい本ではありませんが、朝廷を実際に支えている実務官人の動きを知らないと鎌倉後期の朝廷社会は全く理解できないですね。
この本が難しければ本郷氏の一般向けの著書、例えば『天皇はなぜ生き残ったのか』(新潮新書、2009)などを先に読んだ方がよいと思います。
私の過去の投稿を見たら『天皇はなぜ生き残ったのか』に少し批判的なものもありましたが、今見るとちょっと書き方がまずかったような感じもします。
ま、本郷氏自身が後宇多・後醍醐の感情的対立を前面に出しているので、それに引き摺られた書き方になってしまったのですが。

「後宇多・後醍醐は不仲?」

※JINさんの下記投稿へのレスです。
「後宇多の院政停止」
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「不思議なレイアウト」の存続期間

2015-11-15 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月15日(日)10時30分30秒

12日の投稿「第1面の全面が書籍雑誌の広告という不思議なレイアウト」で書いた疑問、即ち朝日新聞の第一面が全面広告であった期間は何時から何度までかについてですが、『朝日新聞社史 明治編』(朝日新聞、1995)を見たところ、明治38年(1905)から昭和15年(1940)まででした。
それも東京朝日新聞に限った話で、大阪朝日新聞は別ですね。
何故に日露戦争の最中の明治38年かというと、理由は経営状態の悪化で、「従軍記者の費用やその通信代など編集関係の出費が急増したのに加えて、戦争による広告界の萎縮で広告収入が激減、また部数増と号外頻発による用紙代がかさんだりして、朝日の経理は急速に悪化し」、また、「ロシア艦隊に撃沈された特別通信船「繁栄丸」への賠償金一万三千円の支払いがこたえた」こともあり、更に「三十七年七月一日から煙草専売法が施行され、これまで岩谷天狗をはじめタバコ業者から出されていた広告が姿を消したこともひびいた」のだそうです。(p487)
この経営危機に際し、当時の経営陣は大幅な人員整理を行う一方、広告料の増収を狙って紙面の大胆な刷新を図った訳ですね。
同書から直接関連する部分を引用してみます。(p488以下)

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東朝、第一面を広告ページに
 三十八年元旦から東朝は第一面を広告専用ページとした。第一面を広告にあてたのは時事新報が最初で、明治十九年後半から月、ニ、三回、同二十年元旦からは正式に第一面を広告ページとしている。したがって、東朝の新機軸とはいえないが、この時期これを断行したのは、なんとしても広告の募集効果を上げたいというねがいが強かったからだろう。また、これによって、新聞輸送中に第一面が損傷して、記事が読みにくくなるのを防ぐこともできた。これにともなって、紙面の編成も大きくかわり、第二面に内外電報、戦況、政治経済の重要記事をのせ、また、いわゆる三面記事といわれた社会面を第六面に移すなどした。第四面の内外電報や政治記事の下約一段にも社会記事の雑報を入れたが、これは今日おこなわれている「総合編集」のはしりともいえる。
-------

そしてこの改革の成果はどうかというと、

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 結果的に広告主から非常に好感をもたれ、三十八年上半期の東朝広告料収入は戦勝も手伝って四万七千三百七十四円の新記録(三十七年上半期は三万四千八百九十八円)をつくり、下半期にはさらに六万四千八百円にのびた。もっとも同下期の大朝の広告収入は、三十四日間の発行停止があったにもかかわらず、十四万四千七百円で圧倒的に多い。これは東朝にくらべて発行部数やページ数が多く、また、はやくから広告収入を重視して努力していたためである。
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ということで、経営面では素晴らしい改革だったのですが、反面、低劣な広告による紙面の品位低下も問題になり、明治38年9月からは広告の選別も行うようになったそうですね。
ま、どの程度選別されたかというと、「『処女懐胎』という、いかがわしい本の広告」や「月経帯」は全くOKという水準なんでしょうね。
そして、「東朝が、第一面を記事面に戻したのは昭和十五年九月一日、東朝、大朝の題号が「朝日新聞」に統一されたときである」(p489)とのことなので、「不思議なレイアウト」は明治38年(1905)から昭和15年(1940)まで、実に35年間も続いたことになりますね。
とすると、他の新聞の事情は分かりませんが、東京朝日新聞のような有力新聞がこのような状況であったのであれば、石川健治氏の「御用新聞だった『京城日報』は第1面の全面が書籍雑誌の広告という不思議なレイアウト」という感想は、昭和10年(1935)の時点での一般人の感覚とは全く異なることになりそうですね。

>JINさん
これから外出するため、レスが少し遅れます。
すみませぬ。
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小澤征爾『ボクの音楽武者修行』

2015-11-14 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月14日(土)09時38分9秒

『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社、1911)を読み終えましたが、留学当時の思い出が実に生き生きとしていて面白いエピソードに満ちているので、ついでに小澤氏の最初の著書、『ボクの音楽武者修行』も読んでみました。
1962年(昭和37)に音楽之友社から出た初版の冒頭には小澤征爾の若き日の写真が4ページ分載っていますが、髪型も顔の肉付きも別人のようで、ちょっとびっくりです。
最初のページの写真は、まるで片岡鶴太郎みたいな痩せ具合ですね。
痩身にお洒落な蝶ネクタイが似合う写真もある一方で、4ページ目には寅さんのようにジャケットを両肩にひっかけた香具師見習いみたいな妙な写真もあり、このファッションでパリを闊歩していたのかと思ったら、背景の橋の小さなプレートに漢字が書かれていて、じっと眼を凝らすとどうやら「多摩川大橋」という文字が浮かび上がってきたので少し安心しました。
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』と49年前の『ボクの音楽武者修行』を読み比べると、前者ではレナード・バーンスタイン(1918-90)の思い出が詳しく出ているのに、後者ではバーンスタインの存在は割とあっさりした感じで、分量的にはシャルル・ミュンシュ(1891-1968)の方が多いですね。
「ミュンシュ先生」も変った人です。(p127)

-------
 ぼくの念願がかなって、アメリカのボストンで六ヶ月間ミュンシュの教えを受け、その後またヨーロッパに来たのだが、その時、パリの飛行場でミュンシュに会った。そして一緒に飛行場で食事をした。何を話したか忘れたが、ともかくミュンシュは一人で夢中でしゃべっていた。その時、離陸する飛行機が猛烈にエンジンをふかし始めると、急に話を止めて飛行機の方を見た。そして飛行機が飛び立って、完全に雲か何かに見まちがうほど遠くに小さくなるまで、じっと見つめていた。その間、周囲の婦人連や秘書が何か話しかけても、全然反応を示さないのだ。そして飛行機が見えなくなると、今まで話を中断していたことなど忘れたように、また前の話の続きを始めた。ぼくは驚いたが、周囲の婦人連や秘書は当たり前な顔をしていた。それだけぼくより彼らの方がミュンシュの性質をのみ込んでいるのだ。ぼくはその時以来、ミュンシュとつきあう場合は、彼の興味を惹く物が消えるまでは、じっと待っていなければならないことを知った。こういうことは大人の世界にはない。子供の世界だけにあることなのだ。そうした子供の心が、彼の音楽をいつまでも純粋で若々しく、美しく輝かしているのに違いない。彼をよく知る者はそのことを音楽的な言葉で表現している。
「ミュンシュの目はフォルティッシモも作るし、ピアニッシモも作る。指揮をしている時の目には音楽以外の何物もない。彼は、真に純粋に音楽に生きられる最後の人かもしれない」



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