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「姈子立后はその前哨戦として位置付けられるのではないだろうか」(by 三好千春氏)

2019-04-30 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月30日(火)22時54分11秒

橋本芳和氏の「遊義門院姈子内親王の一考察」(『政治経済史学』283号、1989)一九八九年)に一言だけ触れておくと、これは「姈子内親王の専論としては唯一の先行研究」(p49)です。
しかし、姈子が実は亀山後宮ではないかという極めて大胆な推理を展開する橋本説には史料的根拠が皆無であり、学説の体をなしていません。
そこで、橋本論文に関する記述は省略して、その後の部分を引用します。(p49以下)

-------
 大覚寺統との婚姻でもなく准母立后でもないとなると、なぜ後宇多朝での立后であったのかという当初の疑問が残る。立后の事情を語る史料が無い以上、伴瀬明美氏が言う、「持明院統に対する配慮(ないし懐柔策)」と解するのが穏当だが、配慮(ないし懐柔策)の手段がなぜ不婚内親王立后という形で行われたのか、この点についてはもう少し検討すべき余地があると思われる。
 彼女が立后したのは弘安八年(一二八五)八月。弘安八年は、後深草譲位から二十六年、後宇多即位から十一年、煕仁立太子から数えても既に十年を経過していた。将来的には持明院統に政権が戻ることが予定されていたとはいえ、持明院統とその外戚・西園寺氏に大覚寺統長期政権への焦燥があったことは想像に難くない。例えば龍粛氏は、弘安三年(一二八〇)の飛鳥井雅有の東下を後深草院の命による煕仁践祚の働きかけであったと推測している。また、森茂暁氏は弘安五年(一二八二)から弘安十年(一二八七)の間に成立したとされる「宸筆御事書」が、後深草院の年来の不満と焦燥が表れたものと解している。加えて弘安八年は、後宇多に第一子・邦治(のちの後二条)が誕生していることから、煕仁廃太子─大覚寺統直系継承への転換という可能性が、現実的な脅威として持明院統側の深刻な危機感を募らせていたと考えられる。のちに伏見が即位すると、西園寺実兼女・鏱子が伏見の中宮となったが、その腹の皇子誕生を待たずに胤仁(のちの後伏見)を立太子させたのも、直系継承の確保が最優先事項として相当に意識されていたからであろう。姈子立后から二年後の弘安十年(一二八七)、突如として鎌倉幕府からの指示により伏見践祚が実現したことを考え合わせると、姈子立后はその前哨戦として位置付けられるのではないだろうか。
 つまり、天皇「家」のうち、天皇位は大覚寺統、后位は持明院統で折半する構図がここで現出している。本来は一対で王権を構成するはずの地位を、「二つの天皇家」が分割・保持することで、本命である皇位継承の攻防戦にとりあえずの折合いをつけた結果の姈子立后だったのではないだろうか。
-------

以上、長々と引用しましたが、私は立后が「前哨戦」であるという三好氏の基本的発想が全く理解できません。
三好氏は特に説明することもなく「天皇位」と「后位」が「本来は一対で王権を構成するはずの地位」であるなどと言われますが、そもそもかかる王権論を誰が主張しているのか。
私にはこのような王権論が歴史学界で共有されているとは思えず、三好氏の独自理論ではないかと邪推しますが、三好氏はかかる理論を前提に、「本来は一対で王権を構成するはずの地位」を持明院統・大覚寺統が奪い合っていて、「本命である皇位継承の攻防戦」の「前哨戦」が姈子の立后だと言われます。
しかし、立后は婚姻の一形態であり、当事者および関係者の合意があるのが通常であって、「尊称皇后」という特殊性を考慮しても、少なくとも婚姻の形式・外形を伴う儀礼ですから、争いよりも協調、戦争よりも平和をイメージさせるものであるはずです。
後深草院が姈子の立后を希望しようとも、亀山院側が嫌ならあっさり断れば良いだけの話で、立后が実現したのは両者間で合意があったからです。
それが円満な合意ではなく、後深草院側が亀山院側に事実上強要したのだと主張するのであれば、その史料的根拠を示す必要がありますが、そのような史料の提示ができないのであれば、三好説は橋本芳和説と同様の空論ですね。

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「姈子立后の最大の疑問は、なぜ彼女の立后が後宇多朝において挙行されたのか、という点である」(by 三好千春氏)

2019-04-30 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月30日(火)09時22分1秒

続きです。(p48以下)

-------
 姈子内親王に関する史料は僅少だが、その半生を端的に語る同時代史料として唯一のものが、後深草院一周忌に際して作られた姈子の願文である。

就中弟子忝稟貴種、頻誇恩華、婦範是疎、雖慙梁武帝之公主、后位尤尊、謬慣魏文皇之息女、早出椒芳之宮、久臨芝英之砌、而自備 姑射同躰之儀、聊雖隔 禅居従容之礼、于晨于昏、莫不通音問矣、云小云大、莫不蒙頤眄焉、
国母之徽号者、
天子之所重也、准陰麗之跡、恐坤教之徳、是匪下愚之徽併依
先院之餘慶、報詶之志寤寐難休、

 ここから解ることは、父・後深草院との絆の深さから「頻誇恩華」の結果、「尤尊」とされる后位についたこと、更に「天子之所重」の国母の地位を得たことである(この願文作成時は後二条朝であり、姈子は後二条国母に擬せられていた)。彼女の半生における重大事が、「後深草の「餘慶」によるもの」という形で列挙されている。
 まずはその重大事の一つ、立后が問題となる。彼女が史料上、本格的に姿を現すのもこの十六歳の時の不婚内親王立后である。
 姈子立后の最大の疑問は、なぜ彼女の立后が後宇多朝において挙行されたのか、という点である。それまでの不婚内親王立后は、治天の君の娘もしくは姉妹というごく近親から選ばれていた。しかし、姈子は治天の君・亀山の姪であり、天皇・後宇多とは従兄妹である。これは不婚内親王立后全十一事例を通して姈子のみのことであり、立后をめぐる原則が全くあてはまらない、異例の立后である。その事情を明確に物語る史料は無い。のちに彼女が後宇多の妃となったことから、後宇多後宮としての立后と誤解されることがあるが、天皇時代の後宇多と皇后・姈子は断絶状態であり、『続史愚抄』が「于時非今上妃」と注釈するとおり、不婚内親王立后であったことは明白である。また、『女院小伝』に「後二条准母」とあることから後二条准母立后とされることもあるが、姈子立后当時の後二条は生まれたばかりで親王宣下もされておらず、これも立后そのものとは無縁である。彼女が後二条准母と称されたのは、のちに後二条の父・後宇多の正妻となったからで、継母の立場から後宇多嫡子の母に準えられたものと思われる。
-------

注記は省略しますが、遊義門院の願文は「『公衡公記』「後深草院一周忌御仏事記」嘉元三年七月十六日条。前後省略」とのことです。
また、「なぜ彼女の立后が後宇多朝において挙行されたのか」についての私の意見は後で述べます。
三好氏はこの後、橋本芳和氏の見解を紹介して批判されていますが、省略します。

橋本芳和氏と『政治経済史学』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9bbad38363c3de0aa302010ab0c63e81

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「その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり」(by 三好千春氏)

2019-04-29 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月29日(月)22時15分29秒

前投稿で引用した部分で、三好氏は、

-------
 だが、後深草・亀山の次世代において成人した西園寺氏の外孫は、実に姈子内親王ただ一人であった(8)。その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり、「東二条院の御心のうちおしはかられ、大方もまた、うけばりやむごとなき方にはあらねば、よろづ聞しめし消つさまなり(皇子に恵まれなかった東二条院の心情を思い、また煕仁はやんごとなき方ではないので、皆、さほど大切に気を遣わなかった)」(9)という。皇子ではなかったものの、後深草の血統を最も正しく受け継ぐ、しかも唯一の存在である姈子は、西園寺氏にとってかけがえのない掌中の珠であった。
-------

と言われていますが、『増鏡』の引用の仕方にはかなり問題がありますね。
「その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり」との評価の根拠として『増鏡』が引用されているので、公家社会における一般的評価として煕仁より姈子の方が注目されていたと誤解する読者が多いのではないかと思いますが、巻七「北野の雪」を見ると、当該記事では別に煕仁と姈子が比較されている訳ではありません。
この文章は姈子が生れる三年前の文永四年(1267)、洞院佶子が世仁親王(後宇多)を生んだ記事の中にありますが、

-------
 上も限りなき御心ざしにそへて、いよいよ思すさまに嬉しと聞しめす。大臣も今ぞ御胸あきて心おちゐ給ひける。新院の若宮もこの殿の御孫ながら、それは東二条院の御心のうちおしはかられ、大方もまた、うけばりやむごとなき方にはあらねば、よろづ聞しめし消つさまなりつれど、この今宮をば、本院も大宮院も、きはことにもてはやし、かしづき奉らせ給ふ。これも中宮の御ため、いとほしからぬにはあらねど、いかでかさのみはあらんと、西園寺ざまにぞ一方ならず思しむすぼほれ、すさまじう聞き給ひける。

【私訳】
亀山天皇も皇后宮を限りなく寵愛されていたが、皇子が生まれていよいよ嬉しいと思われた。実雄公も今こそ胸中晴れ晴れとして心が落ち着かれた。後深草院の若宮(後の伏見天皇)も実雄公の御孫ではあるが、そちらは(皇子のいない)東二条院の御心中も推察され、だいたい、若宮はだれ憚ることのない尊い方という訳でもない方だから、後嵯峨院も大宮院も万事につけて軽く聞き流されておられるが、この新たに生まれた皇子は、後嵯峨院も大宮院も格別に大切になさる。これも中宮(嬉子)のためにはお気の毒でない訳でもないが、どうしてそんなに遠慮ばかりしていられようかと(実雄方は振舞い)、西園寺家の方では非常に不愉快で、興ざめなことだとお聞きになる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7dda16ba09f5989fc63ee20f418bcb06

ということで、ここで比較されているのは、洞院実雄の孫という点では共通の煕仁親王(伏見)と世仁親王(後宇多)ですね。
洞院実雄から見れば、洞院愔子が生んだ煕仁の場合、正妃の子ではないので東二条院への遠慮があるものの、洞院佶子が生んだ世仁は皇后の子という申し分のない立場です。
正妻として並び立つ中宮・西園寺嬉子はいるけれども、嬉子があくまで形式的な存在であることは世間周知であり、遠慮する必要は全くない、ということになります。
そもそも皇位継承の可能性のある男子と、それが全くない女子を比較すること自体あまり意味があるとも思えませんが、少なくとも「その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり」という評価の根拠として『増鏡』を引用するのは誤りですね。
なお、煕仁親王を生んだ愔子(1246-1329)には伏見即位の翌正応元年(1288)十二月十六日、准三宮宣下があり、同日、院号定があって玄輝門院となります。
愔子は『とはずがたり』には「東の御方」として登場し、「粥杖事件」では後深草院を羽交い絞めして二条に杖で打たせる手伝いなどをしています。
ま、「粥杖事件」に描かれた「東の御方」が愔子の実像といえるかについては、私は極めて懐疑的ですが。

http://web.archive.org/web/20150517011437/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm

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「亀山の在位中でありながら今出河院宣下を受けて中宮位を降ろされて」(by 三好千春氏)

2019-04-29 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月29日(月)14時49分21秒

本文に入ります。

-------
第一章 姈子内親王の立后
 第一節 出自と立后の背景

 姈子内親王は、後深草院を父、東二条院西園寺公子を母として文永七年(一二七〇)に誕生した。翌文永八年には内親王宣下を受けている。父・後深草の生母は後嵯峨中宮・大宮院西園寺姞子(公子の姉)であり、父母両方から西園寺氏の血を享けたことが、皇女としての順調な幕開けと、その後の経歴に大きく影響している。
 西園寺氏の外戚策は、本郷和人氏の指摘のとおり持明院統に集中している(1)。亀山中宮・西園寺嬉子が、亀山の在位中でありながら今出河院宣下を受けて中宮位を降ろされて以来、西園寺氏の外戚策は持明院統に集中せざるを得なかったと推測できるが(2)、その執拗ともいえる外戚へのこだわりの結果、伏見(3)、後伏見(4)、花園(5)、光厳、光明(6)と歴代持明院統国母の座、家長の正妻の座を見事に独占し続けている。公家社会における天皇家の外戚の地位は、当然のことながら摂関期とは様相を異にするものの、鎌倉期の西園寺氏を考察する上で、関東申次職と並ぶ重要な要素である(7)。
 だが、後深草・亀山の次世代において成人した西園寺氏の外孫は、実に姈子内親王ただ一人であった(8)。その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり、「東二条院の御心のうちおしはかられ、大方もまた、うけばりやむごとなき方にはあらねば、よろづ聞しめし消つさまなり(皇子に恵まれなかった東二条院の心情を思い、また煕仁はやんごとなき方ではないので、皆、さほど大切に気を遣わなかった)」(9)という。皇子ではなかったものの、後深草の血統を最も正しく受け継ぐ、しかも唯一の存在である姈子は、西園寺氏にとってかけがえのない掌中の珠であった。そしてそのことが、彼女の生涯を決定付ける重要な要素であった。
-------

いったんここで切り、注記も引用しておきます。

-------
(1)「西園寺氏再考」(『日本歴史』六三四号、二〇〇一年)、「外戚としての西園寺氏」(『季刊ぐんしょ』五一号、二〇〇一年)。
(2)夫帝在位中の女院号宣下(后位からの引退)は、配偶関係の否定であり(近藤成一「モンゴルの襲来」(『日本の時代史9』、吉川弘文館、二〇〇三年)参照。ただし、中宮から皇后への移行も配偶関係の否定とする近藤氏の見解には賛成できない)、西園寺氏の挫折感は相当に大きかったと思われる。
(3)伏見国母には継母・東二条院西園寺公子が当初擬されていたことが『勘仲記』弘安十一年正月一日条で確認できる。
(4)後伏見国母としては、継母・永福門院西園寺鏱子が既に立太子時に養子に迎えており(『公衡公記』正応二年四月二十五日条)、生母・五辻経子はついに女院には遇されなかった。
(5)花園は異父兄・後伏見の養子として即位したことから、その国母も後伏見の正妃・広義門院西園寺寧子であった(『院号定部類記』「実躬卿記」延慶二年正月十三日条)。花園に正后は不在。
(6)光厳・光明の生母は広義門院西園寺寧子。
(7)鎌倉期西園寺氏の特徴として、関東申次職の世襲と外戚の二要素を重要視する研究は、龍粛『鎌倉時代』(春秋社、一九五七年)、森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』(思文閣出版、一九九一年)等がある。
(8)『御産御祈目録』によると、東二条院は弘長二年六月二日、文永二年十一月十四日、文永七年九月(姈子)の三回出産しているが、姈子以外はいずれも文永年間に死亡したようである。西園寺相子所生の異母妹・陽徳門院媖子内親王が誕生するのは正応元年(一二八八)のことであり、姈子立后後のことである。
(9)『増鏡』北野の雪
-------

さて、三好氏は「亀山中宮・西園寺嬉子が、亀山の在位中でありながら今出河院宣下を受けて中宮位を降ろされて」と言われますが、このあたりは西園寺家の分家である洞院家との関係を見ないと事情が分かりにくいですね。
洞院家の祖である実雄(1219-73)は西園寺実氏(1194-1269)の25歳下の弟ですが、その実雄の娘の佶子(1245-72)は亀山天皇(1249-1305)より四歳上で、文応元年(1260)、女御として入内し、翌年一月、中宮に冊立されます。
改元後の弘長元年(1261)六月、佶子に対抗する形で西園寺実兼の同母妹・嬉子(1252-1318)が僅か十歳で女御として入内し、ついで同年八月に中宮となりますが、この時、佶子は皇后に転じます。
ただ、皇后となっても佶子はそのまま内裏に留まり、亀山天皇との関係は良好で世仁親王(後宇多)などを産みますが、他方、嬉子は天皇とは疎遠だったようで、結局、文永四年(1267)、父の西園寺公相が没したのをきっかけに宮中を出てしまいます。
今出河院の女院号宣下はその二年後で、「中宮位を降ろされた」というよりは、実質的に婚姻関係が破綻していたので、嬉子の体面を維持するため、女院号宣下をして別居を正当化した、といったあたりが実際ではないかと思います。
『増鏡』巻七「北野の雪」にはこうした事情がかなり詳しく描かれていますが、佶子の兄・公宗が妹に恋心を抱く、といった奇妙な記事が挟まれるなど、全体として洞院家に非常に冷たい書き方になっていますね。

「巻七 北野の雪」(その1)─亀山天皇即位
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3df252a4860cd095f3b31eca7106579d
「巻七 北野の雪」(その2)─洞院佶子と洞院公宗
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c1c2c8eec29b852e974736def4499e8
「巻七 北野の雪」(その3)─御雑仕・貫川
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/099e8eceb2f5caac3fdf3388b3f7ebc3
「巻七 北野の雪」(その4)─洞院佶子、立后
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c70935efc0465b67406a1d5f67f0afb9
「巻七 北野の雪」(その5)─西園寺嬉子
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/853053e3a64d9fb7a4655e1b35872dc0

更に巻十「老の波」にも嬉子に関連した記述があります。
ちなみに後深草院二条の父・中院雅忠(1228-72)は嬉子が中宮となった弘長元年(1261)八月以降、その女院号宣下のときまで一貫して中宮大夫であり、また叔父の四条隆顕(1243-?)は同じく一貫して中宮権大夫でした。
仮に嬉子への亀山天皇の寵愛が篤く、その間に皇子が生まれていたならば中院雅忠・四条隆顕の人生も良い方向に相当変わっていたのではないかと想像されます。

「巻十 老の波」(その7)─後宇多天皇の内裏
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/041ef86f1bb074813a9ca6fb8d3c2c1f

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「その経歴が、江戸時代末期まで続く長い女院史上の中でも特に異彩を放つもの」(by 三好千春氏)

2019-04-28 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月28日(日)10時06分18秒

伴瀬明美氏の論文により遊義門院の経歴の概要を確認できたので、次に歴史研究者が遊義門院について論じた稀有な論考である三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)を紹介し、その内容を検討したいと思います。
この論文は、

-------
はじめに
第一章 姈子内親王の立后
 第一節 出自と立后の背景
 第二節 皇后留任
第二章 後宇多後宮における姈子内親王の位置
 第一節 姈子内親王の婚姻
 第二節 姈子内親王の役割
おわりに
-------

と構成されていますが、最初に「はじめに」で三好氏の問題意識を確認します。(p46以下)

-------
   はじめに

 近年、鎌倉期公家社会の研究は急速な進展をみた。その成果の一つに、橋本義彦氏の提唱に基づいて、従来から「院政期」と称される平安末期~鎌倉初期のみならず、後嵯峨期以降も視野に入れて「院政」を考察する研究がある。
 しかし、後嵯峨期以降を対象とした院政研究において、女院、皇后、内親王といった存在に言及されているものはあまりに少ない。
 院政期女院に関する研究は、八〇~九〇年代に大きな成果を挙げ、結果、当該期女院の地位の高さ、政治的存在感、治天の君との深い関わりへの評価が、院政期王権論や院政期社会研究一般にも取り入れられつつある。
 しかし、鎌倉期女院に関する研究自体、女院領の伝領と経営実態に関心が集中し、院政期あるいは摂関期女院のような多様な視点で論じられているとは言い難い。女院の員数も、院政期に比して鎌倉期は格段に増加したにもかかわらず、個別の女院に関する研究もほとんど蓄積されていないのが現状である。
 乱立する女院数から個々の実態や全体像を把握することの難しさ、史料的限界、なにより、家長としての権限を増していく治天の君に女院の独立性が吸収され、その支配下のもと女院の地位そのものが低落していく時期であるとの認識が、取組みの遅れの一因として挙げられるだろう。
 鎌倉期に、女院領経営における治天の君(家長)の支配権限が大きくなっていったことは事実である。准三宮から直接女院となる方式が定着した結果、女院号が乱発され、女院の内実が空洞化していったことも指摘できる。しかし、鎌倉期は女院号を持つ全ての存在が、社会的・政治的意味を喪失してしまった時期とは言い難いのではないだろうか。まして女院は、院政という政治体制と密接に結びついて院政期に隆盛したことを考えあわせると、鎌倉期の院政下におけるその存在を検討することは不可欠な作業のはずである。
 そこで本稿においては、後深草皇女・遊義門院姈子内親王に的を絞り、彼女の生きた鎌倉中~後期公家社会の一断面を映し出すことを試みる。彼女を選択するのは、その時代範囲がほぼ両統迭立期をカバーしていることと、その経歴が、江戸時代末期まで続く長い女院史上の中でも特に異彩を放つものだからである。そしてそのことは、当該期の内親王が持つさまざまな要素が彼女に凝縮していることを指し示し、まさしくそこに「「二つの天皇家」の確執の歴史が秘められている」と思うからである。
-------

注は省略しますが、最後の「「二つの天皇家」の確執の歴史が秘められている」は先に紹介した伴瀬明美氏の「第三章 中世前期─天皇家の光と影」からの引用ですね。
もっとも伴瀬氏は「「二つの天皇家」の確執の歴史が秘められている」の後に「のかもしれない」とされていますが。

「女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう」(by 伴瀬明美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23a4bec8713917f5e8f008bee409f16c

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『とはずがたり』における遊義門院の登場場面、全九回

2019-04-27 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月27日(土)22時34分14秒

遊義門院が『とはずがたり』に何回登場するかを数えてみたら全部で九回でした。
巻一に一回、巻二無し、巻三に三回、巻四無し、巻五に五回ですから、巻五の比重が大きく、最後の方で遊義門院は特別な存在感を示しています。
もう少し具体的に見て行くと、巻一は誕生の場面で、「このたびは姫宮にてはわたらせ給へども」と出てきます。

http://web.archive.org/web/20061006210037/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa1-8-higashinijoinno-gosan.htm
http://web.archive.org/web/20101124103051/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa1-9-hitodama.htm
『とはずがたり』に描かれた遊義門院誕生の場面
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f3a0b0afa709498aaafb673a329dc02

巻三は冒頭、病気になった姫宮の祈禱のために御所に来た「有明の月」が二条を綿々と口説き、それを後深草院がこっそり聞いていて、怒るどころか二条に「有明の月」と関係を持つように積極的に勧める、という変態的なストーリー展開になる場面ですが、そこに「そのころ今御所と申すは、遊義門院いまだ姫宮におはしまししころの御事なり」とあって、姫宮は「今御所」という名前で登場します。

http://web.archive.org/web/20110116073115/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-1-ariake.htm

ついで、「有明の月」との密通を推奨したはずの後深草院がいろいろと嫌味を言う場面の中で、「宮の御方にて初夜勤めて」(姫宮の御方で初夜の勤行をして)とありますが、この「宮」が遊義門院のことです。
ま、ここは本当に名前だけですね。

http://web.archive.org/web/20061006210334/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-9-chakutai.htm

そして巻三の三番目が「北山准后九十賀」の場面で、ここも「両院・東二条院、遊義門院いまだ姫宮にておはしませしも、かねて入らせ給ひけるなるべし」と名前が出てくるだけです。

http://web.archive.org/web/20061006205733/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-26-mikado.htm

巻五に入って最初は東二条院崩御の場面で、「遊義門院御幸」の様子がかなり詳しく描かれています。

http://web.archive.org/web/20090629213131/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-7-kiraku.htm

巻五の二番目は後深草院崩御の場面の後、「伏見殿の御所さまをみ参らすれば、この春、女院の御方御かくれの折は、二御方こそ御わたりありしに、このたびは、女院の御方ばかりわたらせおはしますらん御心の中、いかばかりかとおしはかり参らするにも」云々とあります。

http://web.archive.org/web/20110129160222/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-10-hadashideou.htm

三番目は後深草院の一周忌の場面で、「遊義門院の御布施とて、憲基法印の弟、御導師にて、それも御手の裏にと聞えし御経こそ、あまたの御ことの中に耳に立ち侍りしか」とあります。(次田(下)、p416)

四番目は熊野・那智での夢の場面で、いささか不気味な夢の中に遊義門院が後深草院と共に登場します。

http://web.archive.org/web/20100911053936/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-16-kumano.htm

そして最後が石清水八幡宮での邂逅の場面ですね。

http://web.archive.org/web/20061006205632/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-17-yawata.htm
遊義門院 or 兵衛佐との贈答歌について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7809aefa13fee87761863e350aa362a7

以上、リンク先の旧サイトでは、今から見ると我ながらちょっと妄想が入っているかな、と思われる記述がありますが、それは今後、改めて検討することにします。

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遊義門院 or 兵衛佐との贈答歌について

2019-04-27 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月27日(土)19時13分48秒

昨日の投稿で伴瀬明美氏が「女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう」と言われていることについて若干の感想を述べましたが、あまりに細かい話になってしまったので、原文を見ないと何のことやら全然分からないと思われた方もいるかもしれません。
昨日はうっかりしていたのですが、自分の旧サイトを確認したら、石清水での遊義門院との邂逅の場面、次田香澄氏による翻訳と現代語訳を引用していたのでリンクしておきます。

http://web.archive.org/web/20061006205632/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-17-yawata.htm

次田氏の翻刻と久保田淳氏の翻刻を比べてみたら、「今日は八日とて、狩尾へ如法御参りといふ」以外にもけっこう細かな違いがありますね。
参考までに久保田氏の翻刻も引用しておきます。(『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』p525以下)

-------
〔三一〕石清水で遊義門院の御幸に参り合せる

 弥生初めつ方、いつも年の初めには参りならひたるも忘られねば、八幡に参りぬ。睦月のころより奈良にはべり、鹿のほか便りなかりしかば、御幸とも誰かは知らむ。例の猪鼻より参れば、馬場殿開きたるにも、過ぎにしこと思ひ出でられて、宝前を見まゐらすれば、御幸の御しつらひあり。「いづれの御幸にか」と尋ね聞きまゐらすれば、「遊義門院の御幸」と言ふ。いとあはれに、参り会ひまゐらせぬる御契りも、去年見し夢の御面影さへ思ひ出でまゐらせて、今宵は通夜して、明日もいまだ夜に、官めきたる女房のおとなしきが所作するあり。「誰ならむ」とあひしらふ。得選おとらぬといふ者なり。いとあはれにて、何となく御所ざまのこと尋ね聞けば、「みな昔の人は亡くなり果てて、若き人々のみ」と言へば、いかにしてか誰とも知られたてまつらむとて、御宮巡りばかりをなりとも、よそながらも見まゐらせむとて、したためにだにも宿へも行かぬに、「事なりぬ」と言へば、片方に忍びつつ、よに御輿のさま気高くて、宝前へ入らせおはします。

〔三二〕遊義門院に名乗る

 御幣の役を西園寺の春宮権大夫勤めらるるにも、太上入道殿の左衛門督など申ししころの面影も通ひたまふ心地して、それさへあはれなるに、今日は八日とて、狩尾へ如法御参りといふ。網代輿二つばかりにて、ことさらやつれたる御さまなれども、もし忍びたる御参りにてあらば、誰とかは知られたてまつらむ、よそながらも、ちと御姿をもや見まゐらする、と思ひて参るに、また徒歩より参る若き人二、三人行き連れたる。
 御社に参りたれば、さにやとおぼえさせおはします御後ろを見まゐらするより、袖の涙は包まれず、立ち退くべき心地もせではべるに、御所作果てぬるにや、立たせおはしまして、「いづくより参りたる者ぞ」と仰せあれば、過ぎにし昔より語り申さまほしけれども、「奈良の方よりにてさぶらふ」と申す。「法華寺よりか」など仰せあれども、涙のみこぼるるも、あやしとやおぼしめされむと思ひて、言葉ずくなにて立ち帰り侍らむとするも、なほ悲しくおぼえてさぶらふに、すでに還御なる。
 御名残もせん方なきに、下りさせおはしますところの高きとて、え下りさせおはしまさざりしついでにて、「肩を踏ませおはしまして、下りさせおはしませ」とて、御そば近く参りたるを、あやしげに御覧ぜられしかば、「いまだ御幼くはべりし昔は、馴れつかうまつりしに、御覧じ忘れにけるにや」と申し出でしかば、いとど涙も所せく侍りしかば、御所ざまにもねんごろに御尋ねありて、「今は常に申せ」など仰せありしかば、見し夢も思ひ合せられ、過ぎにし御所に参り会ひまししもこの御社ぞかしと思ひ出づれば、隠れたる信のむなしからぬを喜びても、ただ心を知るものは涙ばかりなり。

〔三三〕遊義門院との贈答歌

 徒歩なる女房の中に、ことに初めより物など申すあり。問へば、兵衛佐といふ人なり。次の日還御とて、その夜は御神楽、御手遊び、さまざまありしに、暮るるほどに桜の枝を折りて、兵衛佐のもとへ、「この花散らさむ先に、都の御所へ尋ね申すべし」と申して、つとめては還御より先に出で侍るべき心地せしを、かかる御幸に参り会ふも大菩薩の御心ざしなりと思ひしかば、喜びも申さむなど思ひて、三日留まりて、御社にさぶらひて後、京へ上りて、御文を参らすとて、「さても、花はいかがなりぬらむ」とて、
   花はさてもあだにや風のさそひけむ契りしほどの日数ならねば
御返し、
   その花は風にもいかがさそはせむ契りしほどは隔てゆくとも
-------

最後の贈答歌について次田香澄氏は後深草院二条と遊義門院の女房・兵衛佐との間に交わされたものと解していますが、久保田淳氏は遊義門院とのやりとりとしています。
他の注釈書を見ると、冨倉徳次郎は「門院からの御返歌」(『とはずがたり』、筑摩書房、p198)、三角洋一氏は「門院の意を体して、兵衛佐が代作したものか」(『新日本古典文学大系50 とはずがたり・たまきはる』、p245)としていますが、「御返し」ですから冨倉・久保田説で良さそうな感じがします。
ま、私はこの場面全体が後深草院二条の創作で、贈答歌もその一部ではなかろうかと思っている訳ですが、仮にそうだとしても、なかなかしみじみとした良い場面ですね。
ところで伴瀬氏は『とはずがたり』について、注57で、

-------
▼57『とはずがたり』
著者の二条は、後深草院御所を出された後、諸国を遍歴し各地の寺社に詣でる日々を送っていた。なかでも石清水八幡宮は、二条が毎年恒例のように参り、出家後初めて院と再会した思い出の地でもあった。この八幡宮で院の娘の遊義門院と参り合わせたことを、二条は深い感慨をもってつづっている。
-------

と書かれていて(p147)、まあ、この場面だけ見れば、こういうしみじみした感想ももっともなのですが、一~三巻の宮廷篇はもちろん、四・五巻の遍歴篇にも権力者と楽しく遊んでいる場面が多々あり、私は伴瀬氏の要約に若干の違和感を覚えます。
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「女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう」(by 伴瀬明美氏)

2019-04-26 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月26日(金)20時40分49秒

続きです。(p147以下)

-------
 しかし、もし盗み出したのが事実であったとしたら─そんな乱暴な手段に訴えでもしない限り、後深草院秘蔵の皇女を、対立統の後宇多院が正式に后に迎えることは至難の業であっただろうということは容易に想像される。いずれにせよ、この一件の背景にも、両統間の対立関係の構図を感じとらざるをえない。
 さて、盗み出された姈子内親王が後宇多院に対してどのような気持ちを抱いていたか、それについてははっきりとは分らない。だが、後宇多院の方は姈子に深い愛情を注いだようだ。
 『増鏡』は、「(後宇多院は)譲位なさったのちは、心のおもむくままにたいそう忍び歩きをなさったので、このころは院のご寵愛を争う方々が多くなられたが、やはり遊義門院への御思いの程に比べられるような方はけっしてなかった」と、後宇多院の数多い寵妃のなかで、姈子が特別な存在であったことを描いている。
-------

伴瀬氏が現代語訳されている『増鏡』の一節は巻十二「浦千鳥」の冒頭ですね。
原文は、

-------
院の上は位におはせし程は、中々さるべき女御・更衣もさぶらひ給はざりしかど、降りさせ給ひて後、心のままにいとよくまぎれさせ給ふ程に、この程はいどみ顔なる御かたがた数そひ給ひぬれど、なほ遊義門院の御心ざしにたちならび給ふ人は、をさをさなし。

http://web.archive.org/web/20150830053427/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-goudainno-koukyu.htm

というものです。
伴瀬論文に戻ると、

-------
 一三〇四年(嘉元二)一月二一日、姈子内親王は母の東二条院を失い、その喪も明けぬ七月一六日、今度は父、後深草院までが世を去った。生れたときから後宇多院の妃となるまでずっと父母の膝もとですごしただけに、彼女の哀傷は他の皇子女にまさるものがあったであろう。ねんごろに追善仏事を営む日々のなかでは、わが身の数奇な運命にあらためて思いをいたすこともあったかもしれない。
 『とはずがたり』には、一三〇六年(徳治元)ごろ、石清水八幡宮に御幸してお忍びで摂社・狩尾社に参っていた姈子内親王が、参り会わせた尼姿の二条にそれとは知らず親しく話しかける印象的な場面が描かれている。女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう。
 その翌年の一三〇七年(徳治二)七月二四日、姈子内親王は三八歳で没した。急な病いであったらしい。その二日後の葬送の日、後宇多院は彼女の死をいたんで出家した。
 なにかと謎が多い彼女の履歴には、「二つの天皇家」の確執の歴史が秘められているのかもしれない。
-------

ということで、これで終りです。
遊義門院との邂逅は『とはずがたり』巻五の最後の方に出てくる場面ですが、「女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう」というのは些かビンボー臭すぎて、ちょっと変ですね。
諸注釈書を確認したところ、久保田淳氏が「今日は八日とて、狩尾へ如法御参りといふ」(今日は八日というので、狩尾社へ作法どおりご参詣ということである)とされている箇所(『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』p526)の「如法」が底本では「女はう」で、これを次田香澄氏が「女房」とし、「今日は八日とて狩尾へ女房方の御参りがあるという」(講談社学術文庫版『とはずがたり(下)全訳注』、p431)と解釈されているようです。
伴瀬氏は次田氏の解釈に従われたのでしょうが、既に冨倉徳次郎が「如法」とし(『とはずがたり』、筑摩書房、1969)、三角洋一氏も「女法」としながら意味は「如法」と同じとされていて(『新日本古典文学大系50 とはずがたり・たまきはる』、p243)、まあ、ここは次田氏の誤解ですね。
場面全体を見れば「御幣の役を西園寺の春宮権大夫〔今出川兼季〕務めらるる」など、女院の御幸の格式は維持されていることが明らかです。
さて、遊義門院の死とその二日後の後宇多院の出家は、『増鏡』で先に引用した部分の後に「中務の宮〔宗尊親王〕の御女」瑞子(永嘉門院、1272~1329)と「一条摂政殿〔一条実経〕の姫君」頊子(万秋門院、1268~1338)への若干の言及の後、

-------
 露霜かさなりて程なく徳治二年にもなりぬ。遊義門院そこはかとなく御悩みと聞えしかば、院の思し騒ぐこと限りなく、よろづに御祈り・祭・祓へとののしりしかど、かひなき御事にて、いとあさましくあへなし。院もそれ故御髪おろしてひたぶるに聖にぞならせ給ひぬる。その程、さまざまのあはれ思ひやるべし。悲しき事ども多かりしかど、みなもらしつ。
-------

という具合に描かれます。
遊義門院はこのとき三十八歳ですから、まだまだ若いですね。
ところで伴瀬氏の描く遊義門院像は常に受け身の存在です。
行動するのは後宇多院の側であって、遊義門院は「盗み出された」存在であり、「盗み出され内親王が後宇多院に対してどのような気持ちを抱いていたか、それについてははっきりとは分らない」けれども、後宇多院は能動的に「姈子に深い愛情を注いだよう」であり、遊義門院は深い愛情を注がれたらしい存在と把握されています。
このような常に受け身の遊義門院像は三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)でも共通なのですが、果たしてそれでよいのか、というのが私の伴瀬氏、そして三好氏への根本的な疑問です。
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「『盗み出した』ということの真偽も含めて、実際のところ事の真相は不明なのである」(by 伴瀬明美氏)

2019-04-26 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月26日(金)12時49分53秒

続きです。(p145以下)

-------
 謎を解くためのかっこうの材料となるべき貴族の日記もこの日の前後は残っておらず、結局のところ、立后の理由といい、なぜこの時期におこなわれたのかという問題といい、諸説はあるが明確な答えを出すのは難しい。
 だが、一つ仮説を立てるとすれば─即位後一〇年以上もたっているという時期、そしてあえて対立統の皇女を皇后にしているということから考えて、大覚寺統の治世が長引くなかで不満をつのらせていたであろう持明院統に対する配慮(ないし懐柔策)としての意味があったのではなかろうか。
 一二九一年(正応四)八月、姈子内親王は遊義門院という院号を宣下され、女院となった。このころ二〇代の前半であった姈子は、あいかわらず父母のもとで暮らし、ともに寺社参詣などに出かける日々をおくっていたが、そのおだやかな生活に大きな転機が訪れたのは、九四年(永仁二)である。
 『増鏡』は次のように記す。
「皇后宮(姈子)もこの頃は遊義門院と申す。(後深草)法皇の御傍らにおはしましつるを、中院(後宇多院)、いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせたまひて、いと忍びがたく思されければ、とかく謀〔たばか〕りて、盗み奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿(後宇多院御所)におはします。またなく思ひきこえさせ給へること限りなし」
 つまり、何かの機会にほの見た姈子内親王に恋心をつのらせた後宇多院が、彼女を盗み出して自分の御所に連れてきてしまったというのである。
 一二九四年(永仁二)の夏から翌年一月までのあいだに姈子内親王は父母の御所である冷泉富小路殿から後宇多院の御所へ居所を移し、さらに後宇多院と一つ車で外出するようになっており、この時期に姈子が後宇多院の妃になったことはまちがいない。かりにも女院を盗み出すとはおだやかでないが、この一件についても同時代の史料がなく、「盗み出した」ということの真偽も含めて、実際のところ事の真相は不明なのである。
-------

伴瀬氏が引用されている『増鏡』の記事は巻十一「さしぐし」に出てきますが、「盗み出した」事件から四年も経った永仁六年(1298)、伏見天皇が後伏見天皇に譲位し、後宇多院皇子の邦治親王(後二条)が東宮となったという記事の後に、時期も明確にせずに述べられています。

http://web.archive.org/web/20150918073142/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-fushimitenno-joui.htm

さて、伴瀬氏は「姈子内親王は父母の御所である冷泉富小路殿から後宇多院の御所へ居所を移し」と書かれていますが、近藤成一氏の「内裏と院御所」(五味文彦編『都市の中世』、吉川弘文館、1992)等によれば、後深草院は伏見天皇の即位にあたり冷泉富小路殿を内裏に提供し、常盤井殿に移っているので、永仁二年(1294)時点での遊義門院の居所は常盤井殿じゃないですかね。
ま、冷泉富小路殿と常盤井殿、そして後宇多院御所の冷泉万里小路殿はごく近い位置関係にあり、冷泉富小路殿の北西隅と冷泉万里小路殿の南東隅は一町(約120m)離れているだけ、常盤井殿の南西隅と冷泉万里小路殿の北東隅は二町(約240m)離れているだけですから、歩いて数分程度の距離です。
『増鏡』は「盗み奉らせ給ひて」としていますが、その後、二人は仲良く同居している訳ですから、これは略取誘拐ではなく、予め二人で示し合わせた上で遊義門院が自主的に移動している訳ですね。
伴瀬氏は「実際のところ事の真相は不明なのである」に注56を付し、

-------
▼56「盗み出し」事件の謎 この事件の謎の一つに、彼女が盗み出された日付がある。後代に編集された史料は六月三〇日とするが、この年の六月は陰暦の小月、つまり二九日までしかない月であり、三〇日は存在しないはずなのである。したがって、少なくとも六月三〇日という日付が誤りであることはまちがいない。もっとも六月二八日とする編纂物もあるが、なにより問題なのは、この時代の基本的史料である『勘仲記』が六月二八・二九日・七月一日と連続して記事を残しているにもかかわらず、この大事件についてまったく記していないことである。とすると、彼女が後宇多院御所に移されたのはいつなのか。日付がはっきりしない点は、この事件全体の真相が明らかでないことと無関係ではあるまい。
-------

と書かれていますが、結果としては「大事件」であっても、前述のようにごく近い距離の御所間を遊義門院が自主的に移動したのであれば、その時点で事実を知り得た人はごく狭い範囲に限られ、『勘仲記』の著者、勘解由小路兼仲あたりは蚊帳の外、全く預かり知らなかった、ということも十分考えられそうですね。
いずれにせよ、密かに移動したことは間違いないので、「日付がはっきりしない点は、この事件全体の真相が明らかでないことと」特に関係はないんじゃないですかね。

藤原兼仲(1244-1308)(本郷和人氏「中世朝廷の人々」内)
https://www23.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/42.html
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遊義門院再考

2019-04-26 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月26日(金)10時43分23秒

姈子内親王(遊義門院)は「北山准后九十賀」が開催されたのと同年の弘安八年(1285)八月に十六歳で後宇多天皇の皇后となりますが、これは「尊称皇后」の一例で、この時点での婚姻関係はありません。
皇后であれば「御給」の主体となるのに何の不思議もありませんが、『宗冬卿記』によれば、「北山准后九十賀」の時点では単なる「姫宮」に過ぎない姈子内親王の「御給」で藤原光能が従五位下となっています。
非常に不思議なのですが、姈子内親王は「北山准后九十賀」の時点で既に特別な存在であり、そしてそれが宮廷社会において周知であったと考えざるを得ません。
この姈子内親王について、暫く検討してみたいと思います。

「勧賞」に関する記述の正確さとその偏り
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0cc49ddba7972accef2be4004370e047

そこで、最初に姈子内親王に関する基礎知識を確認しておきたいので、伴瀬明美氏の「第三章 中世前期─天皇家の光と影」(服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』所収、小学館、2002)から少し引用します。(p144以下)

-------
四 二つの王家に愛された皇女─姈子内親王

 二つの皇統が相並ぶことになった両統迭立は、皇女たちの生涯にもさまざまな影を落とした。持明院統の後深草院の皇女として生れながら、大覚寺統である後宇多院の妃になるという数奇な運命をたどった姈子内親王は、まさに両統迭立のはざまにその生涯を送った皇女である。
 姈子内親王は、一二七〇年(文永七)九月一八日、後深草院御所の冷泉富小路殿で誕生した。母は東二条院藤原公子。後深草院の最初の妃であり、院がもっとも尊重していた妃である。その東二条院を母にもつ彼女は誕生の翌年にはやくも親王宣下を受け、養君として廷臣の家へ預けられる皇子女が少なくないなかで、院の御所に母とともに住まい、父母の手もとで成長した。
 後見が弱いゆえに日影の身として育てられたり、院や廷臣たちの漁色の対象となったりした皇女たちに比べれば、姈子はしあわせな少女時代をおくった皇女といえるかもしれない。
-------

いったんここで切ります。
遊義門院の誕生の場面は『とはずがたり』に詳しく描かれるとともに、『増鏡』にも詳細な記事があります。
『増鏡』でその誕生が詳細に描かれるのは大宮院が生んだ後深草院と、大宮院の妹である東二条院が生んだ遊義門院の父娘二人だけです。

「巻八 あすか川」(その11)─遊義門院誕生
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1291f825075ced1c5162a98bbfcd7356
『とはずがたり』に描かれた遊義門院誕生の場面
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f3a0b0afa709498aaafb673a329dc02

-------
 そして姈子内親王が一六歳だった一二八五年(弘安八)八月、彼女は皇后となった。未婚の皇女のままの立后である。天皇と婚姻関係にない皇女が立后されるときの根拠は、ほとんどの場合は現天皇の「准母」であるが、彼女の場合、今上・後宇多天皇の准母として立后されたとは考えにくい。
 なぜなら、准母立后は、原則的に天皇即位にともなって、あるいは即位後二、三年のうちにおこなわれるのに対して、後宇多天皇は即位してすでに一二年めであった。また、准母とされるのはオバ・姉など天皇にもっとも近い尊属女性であるのに対して、姈子内親王は後宇多のイトコで、それも三歳年少なのである。もっとも、単に天皇の近親にあたる皇女を優遇する意味でも皇女が后に立てられることもあった。しかし、後深草院の娘である姈子は後宇多天皇にとっては近親どころか対立統の皇女であり、これにもあたるまい。
-------

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『とはずがたり』の妄想誘発力

2019-04-25 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月25日(木)11時18分37秒

>筆綾丸さん
『とはずがたり』は読者を様々な妄想に導く誘発力を持っていますね。
何故に『とはずがたり』の読者が妄想に導かれるかといえば、それはもちろん作者が読者にそうした方向に進んで欲しいと誘導しているからですが、では作者は誰を読者に想定していたのかというと、多くの国文学者は宮廷社会の人々を暗黙の前提にしているように思われます。
しかし、かつて外村久江氏の驥尾に付して早歌作者の「白拍子三条」を調べているときに感じた金沢貞顕と後深草院二条の接点について、小川剛生氏の『兼好法師』をきっかけに更に検討した結果、現在の私は、『とはずがたり』宮廷篇が直接狙った読者は金沢貞顕らの武家社会上層における親京都派、公家文化に憧れを持っている人々(女性を含む)ではなかろうかと考えています。
もともと宮廷篇は、二条が鎌倉を訪問し、武家社会上層の人々と交流する際に社交の道具として使った宮廷裏話を、虚実ないまぜにして膨らませ、繋ぎあわせたものではないか、というのが私の仮説です。
作者はあちこち膨らませた個別エピソードの風船を極めて巧みに繋げているので、普通に読んだだけでは特に不自然でもないように感じますが、それらの風船をベシャっと押し潰して平面に並べると相互に矛盾も出てきます。
それが国文学者による『とはずがたり』年表作成作業ではなかろうかと思います。

「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)
「白拍子三条」作詞作曲の「源氏恋」と「源氏」
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕

二条による妄想誘導の一番のカモは元・宮内庁書陵部図書調査官の八嶌正治氏を典型とする「赤裸々莫迦」タイプ、即ち作中の出来事が変態的であればあるほど、登場人物が変質者であればあるほど、作者の描写が赤裸々であればあるほど「リアル」に感じる人たちではないかと思いますが、宮廷事情に詳しくない武家社会の人々にも、この種のタイプはけっこう多かったのではないかと思います。

八嶌正治氏「頽廃の魅力」(その1)~(その3)

そうかといって私自身が妄想と無縁かというと全然そんなことはなくて、今から振り返ると旧サイトでの私の最大の妄想は後宇多院と遊義門院との関係についての推測でした。
『とはずがたり』の後半で遊義門院が極めて特別な存在として登場することを不思議に思った私は、『増鏡』巻十「老の波」の「北山准后九十賀」の記事に、姫宮(遊義門院)が「おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ」とあること、巻十一「さしぐし」に「皇后宮もこの頃は遊義門院と申す。法皇の御傍らにおはしましつるを、中院、いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍びがたく思されければ、とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて」とあること、そして巻十二「浦千鳥」の後宇多院の後宮の場面に万秋門院に関する不可解な記述があることから、あれこれ思案をめぐらして後宇多院と遊義門院は鎌倉時代のロミオとジュリエットだったのではなかろうか、などと考えてみたのですが、今ではさすがに無理筋だったなと反省しています。
遊義門院については、歴史学の方面からは三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)という論文以降、特に新しい論文は出ていないようですが、三好氏の到達点を批判的に検討した上で若干の私見を述べる予定です。

遊義門院とその周辺
『増鏡』巻十二「浦千鳥」 後宇多院の後宮

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話ー六波羅から鎌倉へ 2019/04/23(火) 17:17:00
小太郎さん
理由は不明ながら、二条に対しては敵愾心(?)のようなものがあって、ついつい、的外れなことを言ってしまう悪い癖があるようです。

http://www.radionikkei.jp/keiba/post_17637.html
http://keiba.radionikkei.jp/keiba/post_17657.html
最近、競馬に凝っていますが、六波羅特別(4/20 京都競馬場)と鎌倉ステークス(4/21 府中競馬場)というマイナーなレースがあり、前者の勝ち馬はサウンドキアラ(牝)、後者の勝ち馬はフュージョンロック(牡)でした(笑)。
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「勧賞」に関する記述の正確さとその偏り

2019-04-22 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月22日(月)23時01分50秒

『とはずがたり』巻三の掉尾を飾る「北山准后九十賀」、ほんの少しだけ残っているので、その部分を引用しておきます。(『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』p422)
巻三はこれで終りですが、巻四は正応二年(1289)二月の東国への旅立ちから始まるので、巻三と巻四の間には実に四年間の空白が存在しています。

-------
 まことや、今日の昼は、春宮の御方より、帯刀清景、二藍打上下、松に藤縫ひたり、「うちふるまひ、老懸のかかりもよしあり」など沙汰ありし、内へ御使参らせられしに違ひて、内裏よりは頭の大蔵卿忠世参りたりとぞ聞こえし。この度御贈り物は、内の御方へ御琵琶、春宮へ和琴と聞こえしやらむ。勧賞どもあるべしとて、一院御給、俊定四位正下、春宮、惟輔五位正下、春宮大夫の琵琶の賞は為道に譲りて、四位の従上など、あまた聞こえはべりしかども、さのみは記すに及ばず。
 行啓も還御なりぬれば、大方しめやかになごり多かるに、西園寺の方ざまへ御幸なるとて、たびたび御使あれども、「憂き身はいつも」とおぼえて、さし出でむ空なき心地してはべるも、あはれなる心の中ならむかし。
-------

久保田淳氏の現代語訳を参照しつつ、私訳を試みると、

-------
 そうそう、そういえばこの日の昼は、春宮の御方から、帯刀清景、二藍打の上下で、松と藤を刺繍してあるのを着て、「振舞い、老懸の具合もさまになっている」などと評判があった者だが、この者を内裏へのお使いとして参上させたのと入れ違いに、内裏からは蔵人頭大蔵卿平忠世が参ったとのことだった。今回の御贈り物は、御門へ御琵琶、春宮へ和琴ということだったろうか。この度の行事の賞として、一院の年給として、坊城俊定が正四位下に、春宮の年給として、平惟輔が正五位下に任ぜられ、春宮大夫・西園寺実兼の琵琶の賞は二条為道に譲って、為道が従四位上に昇進するなど、数多く聞きましたが、そう詳しく記すこともできません。
 春宮の行啓も還御なされたので、総じてしめやかに名残りも多かったが、後深草院は西園寺の方へ御幸になるとのことで、私に度々お誘いのお使いがあったが、「悲しいことの多い身はいつもと同じ」と思われて、とても出て行く気持ちにはなれなかったのも、我ながら哀れな心の中ではあった。
-------

といった具合です。
さて、中級貴族の事務官僚にとっては「勧賞」による昇進は一大事で、『宗冬卿記』にも二月三十日の記事の最後の方に詳しい記述がありますが、『とはずがたり』ではこの種の記事は非常に珍しいというか、たぶんここでの言及が唯一だと思います。
比較のため『宗冬卿記』の記述を引用してみると(小川論文、p262)、

-------
今日被行勧賞
正四位下 藤俊定<院御給> 従四上源通時<新院御給> 藤実明<東二条院御給> 同為通
<春宮大夫御比巴師賞譲>
従四下 橘知有<従一位藤原朝臣給>
正五下 藤光定<大宮院御給> 平惟輔<東宮御給>
従五下 藤光能<姈子内親王御給>
従五上 狛近康 豊原政秋
関白殿 兵部卿 花山院中納言<院司> 信輔朝臣<院司> 信経<院司>
多久資<舞人>
 已上逐可被仰
-------

ということで、『とはずがたり』に出てくる坊城俊定・平惟輔・二条為道に関する記述と一致しています。
ちょっと面白いのは、「御給」を与える主体は後深草院・亀山院・東二条院・北山准后・大宮院・春宮(伏見)・姈子内親王(遊義門院)の七人であるのに『とはずがたり』は後深草院と春宮の二人についてしか記していないことです。
西園寺実兼が琵琶の賞を二条為道に譲ったことを加えても、後深草院二条の関心は後深草院と春宮の周辺に著しく偏っていますね。
また、姈子内親王(遊義門院)が「御給」を与える側として院・女院等と並んでいる点も、彼女はいったいどういう立場であったのか、なかなか理解が困難です。
遊義門院について論じ始めるとまた長くなるので今は止めておきますが、高慢な二条が遊義門院に対してだけは奇妙なほど謙虚に対応しており、『とはずがたり』後半における謎の人物ですね。

遊義門院(1270-1307)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8C%E3%81%84%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yuugimon.html
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「変態繽粉タリ」(by 菅原道真)

2019-04-21 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月21日(日)11時51分16秒

>筆綾丸さん
少しレスが遅れてしまいましたが、『とはずがたり』の記述を疑い出したらキリがないのはおっしゃる通りで、どこで『とはずがたり』のリアルと虚構の区別をつけるべきか、という一般論に拡げて少し考えていました。
船上連歌の場面に限れば、私が小川論文で「両院無御乗船」を知った後も、この連歌全部を虚構と切り捨てることができず、それなりのリアルさを感じるのは、ここに「弘安源氏論議」の源具顕が出てくるからです。
この人は「北山准后九十賀」の二年後、伏見天皇即位の直前に病死してしまっており、春宮時代の伏見天皇周辺での文芸活動以外には特に事蹟はなく、また文芸における事蹟も没後七百年余りを経て岩佐美代子氏が「発見」するまでは歴史の中に埋もれていた人です。
こうした地味な人物をきちんと描いていることに私は『とはずがたり』、そして『とはずがたり』を受けた『増鏡』の記述にある程度のリアルさを感じるのですが、具顕を語り出すと長くなるので、別投稿で書こうと思います。

源具顕(?~1287)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tomoaki.html

>「二千里の外に来にけるにや」など仰せありて

-------
釣り殿遠く漕ぎ出でて見れば、旧苔年経たる松の枝さし交したる有様、庭の池水言ふべくもあらず、漫々たる海の上に漕ぎ出でたらむ心地して、「二千里外の外に来にけるにや」など仰せありて、新院御歌、
 雲の波煙の波を分けてけり

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6356a56ef4f8aa264cfa61871b26abe

私も中国の古典の話になると、とたんに弱気になってしまうのですが、久保田淳氏の注記によれば、「漫々たる海の上」(ひろびろした海上)は『白氏文集』新楽府「海漫々」を念頭に置いたもので、更に「雲の波煙の波を分けてけり」は「海漫々」に「雲濤煙浪最モ深キ処 人ハ伝フ中ニ三ノ神山有リト」とあるのによるそうで(p420)、この文章の流れの中では「二千里外の外」もそれほど不吉な連想を誘う訳でもないように感じます。
「海漫々」は今まで読んだこともありませんでしたが、徐福伝説に関係するものなのですね。
『源平盛衰記』巻二十八「経正竹生島詣 並仙童琵琶事」の中にも見えるそうなので、あとで確認してみます。

http://ikaebitakosuika.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/---1561.html
https://plaza.rakuten.co.jp/eiryu/diary/201206280000/

>「変態繽粉たり」

-------
兼行、「山又山」とうち出だしたるに、「変態繽紛たり」と両院の付けたまひしかば、水の下にも耳驚く物やとまでおぼえはべりし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/775c237ff40bb0006550e62e2160b2fa

久保田氏の注記(p420)によると、春宮(伏見)の近臣で「弘安源氏論議」の参加者の一人でもある楊梅兼行(1254-1317)が朗詠したという「山又山」は『和漢朗詠集』下・山水、大江澄明の「山復タ山 何の工カ青厳ノ形ヲ削リ成セリ 水復タ水 誰ガ家ニカ碧澗ノ色ヲ染メ出ダセル」によるものだそうです。
そして、これを受けて後深草・亀山院が付けたという「変態繽粉たり」は『菅家文章』巻二、「変態繽粉タリ、神ナリマタ神ナリ。新声婉転ス、夢カ夢ニ非ザルカ」(舞う姿は変化に富んですばらしく、まるで神技である。歌う声が美しく転ずる有様は夢かうつつか区別しがたい)によるもので、菅原道真作とはいえ、これ自体には不吉な要素はなく、また、「山又山」とのつながりもよさそうです。
そもそもこれは「両院」が一緒に謡い出したとのことなので、二人の創作ではなく、既存の朗詠のパターンのようですね。

「変態繽粉」で検索したら「秋の色種」という長唄が出てきました。

秋の色種
http://www.tetsukuro.net/nagautaed.php?q=1

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

妄想 2019/04/18(木) 13:18:35
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined24.1.html#paragraph1.1
九十賀の舟楽は、『源氏物語』「胡蝶巻」の舟楽を踏まえているのかもしれませんが、妄想ながら、よくわからないことを記してみます。
-----------------
「二千里の外の心地こそすれ」などのたまひて、新院、雲の波煙のなみをわけてけり(『増鏡』)
「二千里の外に来にけるにや」など仰せありて、新院御歌、雲の波煙の波をわけてけり(『とはずがたり』
-----------------
ですが、引き歌の理由がわかりません。『和漢朗詠集』(講談社学術文庫189頁)に、
----------------
『白氏文集』「八月十五夜、禁中ニテ月ニ対フ」。元稹と白楽天の交友は有名であるが、本句は、左遷されて遠く江州に日を送っている親友の心を思いやって詠んだものである。『源氏物語』須磨巻に「今夜は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊びこひしく、所々眺め給ふらんかしと思ひやり給ふにつけても、月のかほみまもられ給ふ、二千里外故人心と誦し給へる、例の涙も留められず」とあるほか、(後略)
----------------
とあるように、仲秋の名月に託して左遷された友の心を詠んだものだから、晩春の賀宴で朗詠するようなものではなく、亀山院はなぜこんな不吉な引き歌をあえてしたのか、という疑問が湧いてきます。
九十賀は弘安八年(1285)の二月三十~三月二日で、『増鏡』では、すぐあとに、後宇多天皇の譲位と春宮の践祚(弘安十年十月)、つまり、「・・・いとあへなくうつろひぬる世を、すげなく新院は思さるべし。春宮位につき給ひぬれば、天下本院におしうつりぬ。世の中おしわかれて・・・」と続くので、白楽天の引用は、まもなく治天の君ではなくなるという亀山院の胸中をひそやかに(伊語で云えば sotto voce )書き込んだもの、と読めるような気もします。そう考えると、直前の、
------------------
「変態繽粉たり」と両院あそばしたるに、水の底もあやしきまで、身の毛たちぬべく聞ゆ。(『増鏡』)
「変態繽粉たり」と両院の付け給ひしかば、水の下にも耳おどろくものやとまで覚え侍りし。(『とはずがたり』
------------------
という、おどろおどろしく不気味な描写には、大宰府で憤死した道真の詩を、両院揃って愚かにも吟じたがゆえに水底の龍王の怒りを買い、皇統の分裂をいよいよ決定的にしてしまったのだ、というような意味が、やはり sotto voce で込められていて、さらには、この年(弘安八年)の十一月、鎌倉で起きた血みどろの権力闘争(霜月騒動)は、覚醒した水底の妖しい変化の仕業ではあるまいか・・・などと妄想すると、十三世紀末の出来事がグッと身近になってきますね。
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「御賀次第」の作者・花山院家教

2019-04-18 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月18日(木)12時01分22秒

小川論文、「三 公家日記から見た『とはずがたり』」の「(1)御賀次第とその作者」も興味深い内容です。
グーグルブックスでは全部は読めませんが、とりあえず読める部分だけ引用してみると、

-------
(1)御賀次第とその作者

 二月三十日、御賀の第一日、北山殿に参仕した宗冬は「先見御所御装束儀」として、寝殿の室礼について記している。この室礼については、『実冬卿記』や『とはずがたり』にも同じように記されているところである。三者を比較した表Ⅰを参照されたい。
 波線部に示したような一致から、『とはずがたり』と『実冬卿記』との間には、たんに同一の儀式の記録として表現が近似したのではなくて、前者が後者を参考にして執筆されたとする「直接的関係」を認める説が有力である。しかし、ただちに依拠関係があったとするのは早計であろう。『宗冬卿記』を見ると、道場の室礼について傍線部のように、『とはずがたり』以上に、『実冬卿記』との文章との一致が見られる。全く同文といってよいほどである。
 だからといって『宗冬卿記』が『実冬卿記』を参照した可能性は殆どなく、両者が同じ資料に依拠していると考えるべきである。すると『宗冬卿記』の記事の最後に、「次第」は花山院家教が作進したものであり、詳しくはそちらに見える、という旨が示されているのが注意される。「次第」とは言うまでもなく、朝儀や典礼の進行を定めたもので、「次…。次…。」という形で記されていることからその名がある。室礼にしても指定があるのが普通である。有職の公卿があらかじめ参列者に配っておくものであった。宗冬も実冬も御賀次第を入手しており、それに基づいて記述したのである。同文と思えるのも家教作の次第にそのまま拠ったからである。その事情は『とはずがたり』の作者にも同様であったと思われる。
 もう一つ、七僧法会の始め、楽人・舞人が楽を奏するところを、表Ⅱに示して比較してみる。ここは『とはずがたり』が『実躬卿記』によったと考えられている部分であるが、それとまったく同文の記事が『宗冬卿記』にも現れる。儀式の進行については、もちろん実際に見聞した内
-------

ということですが、「「次第」は花山院家教が作進したものであり、詳しくはそちらに見える、という旨が示されている」に対応する部分を翻刻で見ると、「委旨見次第、<花山院中納言作□>」(p261、上段、左から5行目)とあります。
この花山院中納言・藤原家教が作進した「次第」を滋野井実冬・正親町三条実躬・中御門宗冬、そして後深草院二条もそれぞれ別個独立に所持しており、これを基礎に四人がそれぞれの記憶や他の資料も加味して別個独立に執筆した、ということになる訳ですね。

花山院家教(1261-97)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E6%95%99

私はこの花山院家教という人物に少し興味があって、それはこの人が『増鏡』「巻十一 さしぐし」において、西園寺実兼女(後の永福門院)が伏見天皇に女御として入内する場面に、些か奇妙な形で登場するからです。

-------
 出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相中将の女、大納言の子にし給ふとぞ聞えし。二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。右に近衛殿、源大納言雅家の女。三の左に大納言の君、室町の宰相中将公重の女、右に新大納言、同じ三位兼行とかやの女、四の左、宰相の君、坊門三位基輔の女、右、治部卿兼倫の三位の女なり。それより下は例のむつかしくてなん。多くは本所の家司、なにくれがむすめどもなるべし。童・下仕へ・御雑仕・はしたものに至るまで、髪かたちめやすく、親うち具し、少しもかたほなるなくととのへられたり。
 その暮れつ方、頭中将為兼朝臣、御消息もて参れり。内の上みづから遊ばしけり。

  雲の上に千代をめぐらんはじめとて今日の日かげもかくや久しき

 紅の薄様、同じ薄様にぞ包まれたんめる。関白殿、「包むやう知らず」とかやのたまひけるとて、花山に心えたると聞かせ給ひければ、遣して包ませられけるとぞ承りしと語る。またこの具したる女、「いつぞやは御使ひに実教の中将とこそは語り給ひしか」といふ。

http://web.archive.org/web/20150918011114/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-nyogojudai-1.htm

この場面については旧サイトであれこれ考えたことがありますが、今でも基本的にはその考え方を維持できるものと思っています。

http://web.archive.org/web/20150918011429/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/masu-nijosakushasetu.htm

ま、それはともかく、この女御入内の場面でも花山院家教は有職故実に非常に詳しい人物であることが前提となっていて、家教が「北山准后九十賀」の「次第」を作進したというのももっともな感じがします。
あるいは家教は女御入内の儀礼についても「次第」を作成していたのかもしれないですね。
また、家教は早歌の作者に比定されていて、その方面での後深草院二条との交流もあったのではないかと私は推測しています。

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2232c8d85546a8eedeb2b26d79a0d1e7
「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/668f1f4baea5d6089af399e18d5e38c5
早歌の作者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f49010df5521cc5aa7d50c242cec62c6
「撰要目録」を読む。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff69e365c35e0732e224f451e70fbc8f

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「船上連歌」の復元

2019-04-17 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月17日(水)11時54分56秒

小川剛生氏による『宗冬卿記』の翻刻を見ると、

-------
二日 伝聞、於北山殿妙音堂、有管絃興、笛<花山院大納言>、篳篥<兼行朝臣>、笙<左衛門督>、琵琶<春宮、同大夫>、箏、此条伺候人々可尋、時々有朗詠、兼行之云々、又及晩有御船楽、両院無御乗船、御聴聞云々、今夜春宮還御、
三日、両院以下御方々還御
-------

となっていますね。(p264)
「兼行之云々」の「之」には小川氏が「マゝ」と附しています。
二日前半の妙音堂での御遊について、『とはずがたり』では、

-------
 またの日は、行幸還御ののちなれば、ゑふの姿もいとなく、うちとけたるさまなり。午の時ばかりに、北殿より西園寺へ筵道を敷く。両院御烏帽子・直衣、春宮御直衣にくくりあげさせおはします。堂々御巡礼ありて、妙音堂に御参りあり。今日の御ゆきを待ちがほなる花のただ一木みゆるも、「ほかの散りなんのち」とは誰かをしへけんとゆかしきに、御遊あるべしとてひしめけば、衣被きにまじりつつ、人々あまた参るに、誰もさそはれつつ見参らすれば、両院・春宮、内にわたらせ給ふ。
 廂に、笛花山院大納言、笙左衛門督、篳篥兼行、琵琶春宮御方、大夫琴、太鼓具顕、羯鼓範藤、調子盤渉調にて、採桑老、蘇合三の帖破急、白柱・千秋楽。兼行「花、上苑に明らかなり」と詠ず。ことさら物の音ととのほりて、おもしろきに、二返終りてのち、「情なきことを機婦に妬む」と、一院詠ぜさせおはしましたるに、新院・東宮、御声加へたるは、なべてにやは聞えん。楽終りぬれば還御あるも、あかず御名残多くぞ人々申し侍りし。

http://web.archive.org/web/20150512051744/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-30-daisannichi.htm

となっていて、「伝聞」ではあるものの、中御門宗冬の記述は『とはずがたり』との間に矛盾はありません。
そして「又及晩有御船楽、両院無御乗船、御聴聞云々、今夜春宮還御」に対応する『とはずがたり』の記述を見ると、二条は最初、両院の乗った「小さき御船」に乗ってから「春宮の御船」に移ったことになっています。

後深草院との久しぶりの邂逅
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/775c237ff40bb0006550e62e2160b2fa

『宗冬卿記』によれば、晩になってからの「御船楽」自体は確かにあったものの、「両院無御乗船、御聴聞云々」だというのですから、「御船楽」は誰がやったのかというと『とはずがたり』にいう「春宮の御船」に乗った人々と考えてよさそうです。
そして、『とはずがたり』に描かれた「船上連歌」は、八つの句のうち、

雲の波煙の波を分けてけり(新院)
行く末遠き君が御代とて(二条)
昔にもなほ立ち越えて貢物(春宮大夫〔西園寺実兼〕)
曇らぬ影も神のまにまに(具顕)
九十になほも重ぬる老いの波(春宮の御方)

まではまともな内容ですから、「両院無御乗船、御聴聞云々」としても、連歌の全体が二条の虚構だと決めつける必要はなく、ここまでは一応、実際の連歌を反映していると考えることもできそうです。
その場合、発句が新院(亀山院)となっている点が気になりますが、「両院」は船に乗ってはいなくても「御聴聞」できる場所にいる訳ですから、特に不自然ではなさそうです。
ところで、この場面、『増鏡』では、

-------
【前略】「二千里の外の心地こそすれ」などのたまひて、新院、
  雲の波煙のなみをわけてけり
たれにかあらん、女房の中より、
  行末遠き君が御代とて
春宮大夫、
  むかしにも猶たちこゆるみつぎ物
具顕の中将、
  くもらぬかげも神のまにまに
春宮、
  九十になほもかさぬる老のなみ
本院、
  たちゐくるしき世のならひかな
-------

となっています(井上宗雄『増鏡 全訳注(中)』、p322以下)。
最後の「たちゐくるしき世のならひかな」は『とはずがたり』では新院、『増鏡』では本院(後深草院)の句とされていて、その齟齬とともに内容に祝意が乏しいところが気になりますが、久保田淳氏の言われるように「前句の「老いの波」から嘆老の述懐の句に取りなした」(『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』)と考えれば、これを含めてまともな連歌といえそうです。
あれこれ考えると、どうも『増鏡』に描かれた連歌が実際のやり取りであったのではないか、という感じがしてきました。
亀山院が発句、春宮関係者が間をつないで後深草院が挙句という構成も、なかなかバランスがよい感じがします。
ということで、『増鏡』に描かれた連歌が実際のやりとりであって、『とはずがたり』の叙述はそれを二条が自分を主役にすり替えて再構成したものであり、その際に氏名不詳の某「女房」と自分、そして「本院」と「新院」を交換したのではなかろうか、というのが私の暫定的な結論です。

>筆綾丸さん
私も「北山准后九十賀」についてきちんと検討したのは今回が初めてで、4月6日に筆綾丸さんが、

-------
賀宴の最後は連歌で終わっていますが、最後の句つまり挙句は祝言であるから目出度く言祝いで終えるべきところ、
   ---------------------------
 立居苦しき世のならひかな      (『とはずがたり』)
   たちゐくるしき世のならひかな    (『増鏡』)
---------------------------
としたのでは挙句にならず、連歌をぶち壊して九十賀に難癖をつけているようで、なんだ、この駄句は、という気がします。
【中略】
後深草院か亀山院かによって、連歌の余韻も賀宴の様子も変わってきますが、『増鏡』にあるように、弟の亀山院ではなく兄の後深草院が詠んだものとするほうが自然であるような気がします。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9845

と述べられた時点では、ご指摘の内容が今ひとつピンと来ませんでした。
小川剛生氏の『宗冬卿記』の翻刻というヒントを踏まえて、私の一応の結論を出してみました。

>貞子は「さだこ」ではなく「ていし」と音読みになるのですね。

古代・中世の女性名に詳しい角田文衛氏が訓読みに拘ってあれこれ言われていますが、あれもちょっと極端ですね。
本郷和人氏の本だったか、漢字二字の女性名は正式な文書が必要となったときに親などの名前から一字取って適当につけたもので、読み方など誰も気にしなかったのではないか、と書かれているのを見た記憶があります。
角田氏は当時の人々の読み方を復元したのではなく、自ら名付け親になって創作しているような感じがします。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

異常の二乗 2019/04/16(火) 19:11:30
小太郎さん
ご指摘のように、船上連歌の後半はきわめてアブノーマルで、なぜこんな莫迦なことをあえて記したのか、と考えると、二条は変な女だな、という以上に変な感じがしますね。

「従一位藤はらのあそんていし九十のよはひをかするうた」によれば、貞子は「さだこ」ではなく「ていし」と音読みになるのですね。
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