学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その58)─「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」

2023-06-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

慈光寺本では、北条義時が最初に登場する場面に、

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 爰〔ここ〕に、右京権大夫義時ノ朝臣思様〔おもふやう〕、「朝〔てう〕ノ護〔まもり〕源氏ハ失終〔うせをはり〕ヌ。誰〔たれ〕カハ日本国ヲバ知行〔ちぎやう〕スベキ。義時一人シテ万方〔ばんぱう〕ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍〔あらそ〕フベキ」【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ce17f2c51d4e775757e1a1365739939

とあり、この嗷然たる義時像は泰時からの勝利の報告を人々に見せびらかす義時像と完全に対応しています。
ただ、そこでは「果報」云々の表現はありません。
義時も以前に「果報」がどうのこうのと言っていたような微かな記憶があったので、確認してみたところ、慈光寺本ではなく流布本の「軍の僉議評定」の場面に、

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 明る廿日の早天に、権大夫の許〔もと〕へ、又大名・小名聚〔あつま〕りて、軍の僉議評定有けるに、武蔵守被申けるは、「是程の御大事、無勢にては如何が有べからん。両三日も被延引候て、片田舎の若党・冠者原をも召具候ばや」と被申ければ、権大夫、大に瞋〔いか〕りて、「不思議の男の申様哉。義時は、君の御為に忠耳〔のみ〕有て不義なし。人の讒言に依て、朝敵の由を被仰下上は、百千万騎の勢を相具たり共、天命に背奉る程にては、君に勝進〔まゐ〕らすべきか。只果報に任〔まか〕するにて社〔こそ〕あれ。一天の君を敵に請〔うけ〕進らせて、時日を可移にや。早〔はや〕上れ、疾〔とく〕打立」と宣ければ、其上は兎角〔とかく〕申に不及、各〔おのおの〕宿所々々に立帰り、終夜〔よもすがら〕用意して、明る五月廿一日に、由井の浜に有ける藤沢左衛門尉清親が許へ門出して、同廿二日にぞ被立ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64c7d8a7d233b802827b85946ddb2266

とありますね。
武蔵守(北条泰時)が、軍勢が集まってから出発しましょう、などとのんびりした意見を述べたので義時が激怒して発言した中に、「只果報に任〔まか〕するにて社〔こそ〕あれ」という表現があります。
ここでは別に義時の果報と「一天の君」の果報を比較している訳ではありませんが、ここと慈光寺本の「義時ノ果報〔くわほう〕ハ、王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ」は綺麗に対応しているような感じもします。
ま、「果報」は特異表現という訳でもないですから、これが慈光寺本作者は流布本を参照している証左の一つ、とまで言うのは無理かもしれませんが。
他方、慈光寺本における卿二位の「十善ノ君ノ御果報〔くわほう〕ニ義時ガ果報ハ対揚〔たいやう〕スベキ事カハ」は「義時ハ果報〔くわほう〕ハ、王ノ果報ニハ猶〔なほ〕マサリマイラセタリケレ」と余りにピッタリ対応しすぎていて、どうにも不自然ですね。
慈光寺本作者は個々の登場人物の個性を描き分けることができず、中身は誰も似たり寄ったりで作者の見解を代弁しているだけ、という感じがして、ストーリーテラーとしての未熟さを感じさせます。
ま、それはともかく、続きです。(p353)

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 去程ニ、七月二日、院ハ高陽院殿ヲ出サセ給ヒテ、押小路ノ泉殿ヘゾ御幸ナル。同四日、四辻殿ヘ御幸成。サラヌ御方々ニハ、是ヨリ皆我御所々ヘ帰リ入セ給フ。同六日、四辻殿ヨリシテ、千葉次郎御供ニテ、鳥羽殿ヘコソ御幸ナレ。昔ナガラノ御供ノ人ニハ、大宮中納言実氏、宰相中将信業〔のぶなり〕、左衛門尉能茂許〔ばかり〕也。
 同十日ハ、武蔵太郎時氏、鳥羽殿ヘコソ参リ給ヘ。物具シナガラ南殿ヘ参給ヒ、弓ノウラハズニテ御前御簾ヲカキ揚テ、「君ハ流罪セサセオハシマス。トクトク出サセオハシマセ」ト責申声〔せめまうすこゑ〕気色〔きそく〕、琰魔〔エンマ〕ノ使ニコトナラズ。院トモカクモ御返事ナカリケリ。武蔵太郎、重テ被申ケルハ、「イカニ宣旨ハ下リ候ヌヤラン。猶〔なほ〕謀反ノ衆ヲ引籠〔ひきこめ〕テマシマスカ。トクトク出サセオハシマセ」ト責申ケレバ、今度ハ勅答アリ。「今、我報〔むくい〕ニテ、争〔いかで〕カ謀反者引籠ベキ。但、麻呂〔まろ〕ガ都ヲ出ナバ、宮々ニハナレマイラセン事コソ悲ケレ。就中〔なかんづく〕、彼堂別当〔かのだうべつたう〕ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便〔ふびん〕に思食レツル者ナリ。今一度見セマイラセヨ」トゾ仰下サレケル。
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いったん、ここで切ります。
検討は次の投稿で行いますが、「伊王左衛門能茂」が久しぶりに登場していますね。
しかも、後鳥羽院の発言の中に、能茂が「彼堂別当ガ子」(行願寺別当法眼道提の子)などと、その出自についての丁寧な説明があったりします。

慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/870b1319bf4c43646f8d868ba2830b4b

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