今日、中澤俊輔氏の『治安維持法』(中公新書、2012)を読んでいたら、同法成立時の議会審議に関連して山口政二の名前が出ていました。(p55以下)
---------
国体とは何か
その後の運用を考えると、治安維持法案の最も重要な争点は国体の定義である。この二文字は、治安維持法に「悪法」のイメージをまとわせてきた。
そもそも、国体とは何だろうか。まず思い浮かぶのは、万世一系の皇統(天皇の血統)が継承され、天皇が政(まつりごと)を統(す)べるという、皇国史観的な国体論である。
(中略)
それでは、治安維持法案における国体とは何を意味したのだろうか。
内務省も司法省も起草段階では、万世一系の皇統という歴史的意味を強調していた。ただし議会の政府答弁は、あくまで憲法第一条にもとづく統治権の所在として国体を論じた。議員と政府の双方に、国体をタブー視する空気があったことは否めない。
そんななか、山口政二(まさじ、政友会)は、「国体変革」を企図するような国民は一人としていないのではないか、という鋭い質問を放った。山岡万之助はこれに対し、国民は「国体変革」を想像することさえできないし、政府も現実に「国体変革」が起こると予想するわけではない、と回答している。
山口が質問したように、当時の日本には果たして「国体変革」が起こる可能性はあったのか。たとえば小川法相は、二月革命から十月革命に至ったロシア革命のように、君主制の廃止から労農独裁政権の樹立への移行を警戒した。内務省もこの「無政府共産主義」を想定していた。しかし、当時は無政府主義の退潮が著しく、日本共産党は再建の途についたばかりであった。国体変革を目的とする結社は皆無であったといわざるをえない。(後略)
『治安維持法』
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2012/06/102171.html
著者の中澤俊輔氏は1979年生まれのまだ若い人だそうで、微妙に文章に甘さ、というか違和感を感じる部分があります。
上記引用でも山口政二は特に「鋭い質問を放った」とも言えないように思いますが、ま、それはともかくとして、山口政二とは何者かというと、この人は去年亡くなった東大史料編纂所元教授・山口啓二氏の父親です。
父子ともウィキペディアに立項されていますが、いずれも親子関係には触れていませんね。
山口政二
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E6%94%BF%E4%BA%8C
山口啓二
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%95%93%E4%BA%8C
山口政二(1887-1927)は旧制一高では応援団長で、「独眼流将軍」と呼ばれた名物男だったそうですが、思想的には大正デモクラシーを体現するリベラル派だったみたいですね。
山口啓二氏(1920-2013)は少壮代議士のお坊ちゃんとして幼少期は極めて裕福な暮らしをしていたのに、父親が40歳の若さで急死してしまった後、一家は銀行の厳しい貸付金取立てに苦労し、結局、母方の祖父のもとで暮らすことになったそうです。
この母方の祖父が一高教授の斎藤阿具(1868-1942)で、今では夏目漱石・正岡子規の友人として知っている人は知っているという存在ですね。
夏目漱石は斎藤阿具から借りていた千駄木の家で『我輩は猫である』を執筆したそうで、『山口啓二著作集』第5巻の「聞き書き-山口啓二の人と学問」には、この家の思い出が詳細に描かれていますね。
斎藤阿具
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%98%BF%E5%85%B7
山口啓二氏は歴史科学協議会設立の中心となり、また史料編纂所職員組合委員長・東大職員組合委員長として労働運動・社会運動にも熱心だった人ですから、正直、硬直的な運動家タイプの人なのだろうと思って「聞き書き-山口啓二の人と学問」にも全然期待していなかったのですが、実際に読んでみたら非常に良質の面白い読み物でした。
特に戦前の思い出が良いですね。