学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

鈴木由美氏『中先代の乱』(その2):「源頼朝の再来として」

2021-09-18 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月18日(土)14時15分51秒

「序章」の征夷大将軍に関する記述は「終章」の最後の最後、「あとがき」の直前に置かれた次の記述に対応していて、これが鈴木由美氏にとって長年の北条時行研究の到達点ですね。(p190)

-------
源頼朝の再来として
 北条時行や彼を担ぐ者たちが当初目指したのは、鎌倉幕府と北条氏の再興であっただろう。北条氏が執権となり、持明院統の親王を将軍にいただく、鎌倉時代後期の体制をとった鎌倉幕府の復活を目的としていたと考える。中先代の乱で占領下にあった鎌倉で発給された文書の形式が得宗家公文所奉書に類似していたことから、北条時行自身が鎌倉幕府の将軍になるという発想はなかったことがわかる。
 中先代の乱に敗れた後、時行や北条一族の目的は打倒足利氏にシフトしたものと考えられる。足利氏が接近し担いだ持明院統と再び手を組むことは不可能であるからだ。時行たちに、南朝のもとで鎌倉幕府を再興するという明確な意図があったかどうかはわからない。
 一方、時行や尊氏の支持基盤である武士たちは、親王将軍を仰いで執権北条氏が権力を握る体制ではなく、尊氏を源頼朝になぞらえることで、鎌倉幕府開創者源頼朝の時代への回帰を求めたのではないか。そのため時行と尊氏の直接対決となった中先代の乱は、頼朝の再来である尊氏の勝利に終わったともいえるだろう。
-------

私自身は「時行や尊氏の支持基盤である武士たち」が「尊氏を源頼朝になぞらえることで、鎌倉幕府開創者源頼朝の時代への回帰を求めた」のではなく、むしろ南北朝の対立の中で、足利氏の軍事力が全国を制圧するほど圧倒的に強大ではなく、また足利氏が依拠する北朝に南朝を凌駕するほどの権威がなかったために、足利氏側には「支配の正統性」を補強する必要が生じ、その補強策のひとつとして「尊氏を源頼朝になぞらえる」プロパガンダが生まれたものと考えています。
つまり、「尊氏を源頼朝になぞらえる」プロパガンダは足利家が考案し、展開させたもので、一般の武士はプロパガンダの単なる受容者という考え方です。
山家浩樹氏は『足利尊氏と足利直義』(山川日本史リプレット、2018)において、足利氏が「支配の正統性」補強のために考案した様々なプロパガンダを丹念に拾い集めておられますが、その中には例の家時置文のようにロクに世間に広まらなかった失敗例もあります。
「尊氏を源頼朝になぞらえる」プロパガンダは、足利家が考案した複数のプロパガンダの中では最も成功したケースであり、しかも『太平記』という当時最強のメディアによって、足利家の統制を離れて異常に拡大され、結果的に『太平記』によって、征夷大将軍という存在が極めて重いものだ、という認識が普及することになった、というのが現時点での私の見通しです。

山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e8a490f48853111af52b74ef418ccbd

私はこのように考えるので、建武二年(1335)八月、「時行と尊氏の直接対決となった中先代の乱」の時点では「尊氏を源頼朝になぞらえる」・「頼朝の再来である尊氏」といった発想自体が生まれておらず、それはもう少し先、尊氏が北朝から征夷大将軍に任官された建武五年(暦応元、1338)八月までの間のいずれかの時点に生まれたものと想定しています。
中先代の乱では、僅か二年前に親兄弟・一族・友人・知人を皆殺しにされて復讐の念に燃える時行側にとって、尊氏は絶対に許すことのできない卑劣な裏切り者です。
従って、共に天を戴くことのできない仇敵同士の両者の間には「鎌倉幕府開創者源頼朝の時代への回帰」などといったのんびりした情緒が介在する余地は全くなく、実力で相手を粉砕・殲滅する以外選択肢がない殺伐とした世界だったと私は考えます。
総じて鈴木著は「支配の正統性」に関する理論的考察が弱く、それは鈴木著が大きく依拠している『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力』(日本史史料研究会、2007)等の細川重男氏の著作でも同様なので、必要に応じて細川著への批判も少し行う予定です。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
「いったんは成良を征夷大将軍に任じて、尊氏の東下を封じうると判断したものの」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64eae21672f1f4990d44ae4f277c59f5
「書評会」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3ae96ccb2823387e39cc2c6ef107347a
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信濃国伴野庄に関する二つの古文書(補遺):「民部卿局」は北畠具行母か。

2021-09-17 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月17日(金)13時20分46秒

(その4)で「民部卿局」が下総国遠山方御厨を大徳寺に寄附したことを承認する元弘三年七月一日付の後醍醐天皇綸旨を紹介しましたが、遠山方御厨に関しては『成田市史 中世・近世編』(成田市、1986)に次のような説明があります。(p107以下)

-------
大徳寺への寄進
 京都紫野の臨済宗竜宝山大徳寺は宗峰妙超の創建になる名刹で、たくさんの古文書を残しており、そのなかに遠山方御厨に関する五点の文書が含まれている。

  A 後醍醐天皇綸旨
下総国遠山方御厨、民部卿局寄付の旨に任せて、大徳寺の管領相違有るべからず。てえれば、
天気此くの如し。よって執達件の如し。
                        〔範国〕
  元弘三年七月一日               式部少輔(花押)
 宗峰上人御房

  B 後醍醐天皇綸旨
下総国遠山形御厨領家ならびに地頭職の事。申し入れ候のところ、永代知行候て、大徳寺ニ寄付の条、子細あるべからざるよし、
天気候うところなり。あなかしく。
〔元弘三年〕                   〔千種〕
  八月六日                   左中将忠顕
 民部卿とのへ

  C 後醍醐天皇綸旨
下総国遠山方御厨領家ならびに地頭職、具行卿菩提所として、民部卿局大徳寺に寄付するの由、聞こし食されおわんぬ。永代管領相違有るべからず。てえれば、
天気此くの如し。これを悉くせ、以って状す。
                         〔千種忠顕〕
   元弘三年八月十日               左中将(花押)
宗峯上人御房

  D 官宣旨
左弁官下す竜宝山大徳禅寺
 応に永く一円不輸の寺領として、国司守護使并びに役夫工米諸役を停止す
 べき、信濃国伴野庄、下総国遠山方御厨、播磨国浦上庄、同小宅三職方、
 同三方西郷、紀伊国高家庄等の事。
右、彼の寺の住持沙門妙超の今月日の奏状を得るに偁く。皇帝陛下伏して乞うらくは、儻ちに宣慈を蒙りて、これに官符を賜れば、妙超幸願に勝えず。所謂当寺は啻に(臺ハ啻ノ誤記カ)尋常たらず、聖運廓開の梵宇、宝祚万歳の勝槩なり。玆に因って、寺五山に冠し、位上藍たり。而るに令法久住、利済億劫は、偏えに食輪を以て最となす。昔日吾仏、仏法を以て国王、大臣、有力の檀越に付嘱す。実に是ゆえあるところなり。妙超専ら要す。信州伴野庄・下総国遠山方御厨・播州浦上庄・同小宅三職方・同三方西郷・紀州高家庄四箇村等、各国司守護使并びに役夫工米諸役を停止し、一円不輸の寺領として、未来際に至るまで、転変の儀なく、須く僧衆の止住を資くべし。早く公拠を下され、将来の亀鑑に備えられんことを。然らば即ち、王法と仏法と永く昌え、皇風と祖風と鎮に扇ん。てえり。権中納言藤原朝臣公泰宣す。勅を奉わるに請うに依れ。寺よろしく承知し、宣によりてこれを行え。
                      〔冬直〕
  建武元年八月廿一日         大史小槻宿祢(花押)
   〔正経〕
右中弁藤原朝臣(花押)

  E 光厳院院宣
大徳寺領下総国遠山方御厨、知行相違有るべからず。てえれば、
院宣此くの如し。よって執達件の如し。
                      〔柳原資明〕
  建武三年十月廿五日            参議(花押)
宗峯上人禅室

 いかなる経緯を経たのか、遠山方御厨の領家・地頭職は鎌倉時代末に北畠具行の領掌するところとなっていた。具行は村上源氏流で、南朝勢力の主柱として活躍した北畠親房とは三歳年長の同族に当たる。具行は後醍醐天皇が即位する以前から近侍にあり、天皇の抜擢により、嘉暦元年(一三二六)三七歳で参議となり、幕府によって捕えられた元弘元年(一三三一)に従二位となった。正中の変で一度は失敗した天皇が笠置城に臨幸して再度討幕の挙兵を行なったこの年八月、天皇に供奉し落城後、召し捕えられたのである。翌年、天皇の重臣として関東に送られることになった彼は、途中近江国柏原で斬首された。六月十九日、四三歳であった。
 元弘三年五月幕府が滅亡し、六月後醍醐天皇が京都に帰り建武政権が成立すると、北畠具行の母民部卿局は息子の菩提を弔うため遠山方御厨の領家・地頭職を大徳寺に寄進した。A・B・C三通の後醍醐天皇綸旨は、天皇がこの寄進を許可するため民部卿局と大徳寺の宗峰上人妙超にあてて発給した綸旨(蔵人が天皇の命を奉じて出す奉書形式の文書)である。翌建武元年(一三三四)に妙超は遠山方御厨を含む六か庄を一円不輸の寺領として、国司・守護使の入部や役夫工米以下の諸役賦課を停止されるよう申請した。Dはこの妙超の申請を認めた朝廷からの官宣旨である。【後略】
-------

長々と引用しましたが、本当に「遠山方御厨の領家・地頭職は鎌倉時代末に北畠具行の領掌するところとなってい」て、「北畠具行の母民部卿局は息子の菩提を弔うため遠山方御厨の領家・地頭職を大徳寺に寄進した」のかはかなり疑問です。
まず、『公卿補任』・『尊卑分脈』には北畠具行の母の名は記されていません。
また、領家職はともかく、地頭職を後醍醐近臣の北畠具行が有していたというのも不自然であって、実際には領家職・地頭職とも旧幕府側の誰かが有していて、幕府崩壊で没収されたと考えるべきではないかと思います。
そして、『尊卑分脈』を見ると従三位北畠親子は北畠具行の従兄妹なので、やはり「民部卿局」は北畠親子であり、後醍醐は北畠具行の菩提を大徳寺に弔わせるために、北畠親子を名目的な寄進者としただけではないかと私は考えます。
『講座日本荘園史5 東北・関東・東北地方の荘園』(吉川弘文館、1990)でも、下総国を担当した伊藤喜良氏は、「当御厨は元弘三年、後醍醐天皇によって領家職、地頭職ともに大徳寺に寄進され、一円不輸領とされた」(p161)としていて、「民部卿局」の名前もありません。
伊藤氏も、実質的には後醍醐が寄進者だ、と考えておられるようです。
なお、『増鏡』巻十六「久米のさら山」には北畠具行の妻の悲劇が丁寧に描かれ、そこに「内にさぶらひし勾当の内侍は、つねすけの三位女なりき」とあります。

http://web.archive.org/web/20150918011329/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu16-tomoyuki1.htm

しかし、「つねすけの三位」が誰かははっきりせず、『増鏡(下)全訳注』(講談社学術文庫、1983)において、井上宗雄氏は、

-------
「つねすけの三位」は尾張本ほか「経朝の三位」とする本も多い。ただし経朝は建治二年に没した人であって、その女子が後醍醐に愛される年齢にはなりえない。<大系>補注の考証によると、この世尊時経朝男の経尹〔つねまさ〕の娘に、『分脈』には「女子 後醍醐院 勾当内侍」とみえ、これではないか。ただし『分脈』にはこの「女子」の上に「新田義貞朝臣室」とあるが、これは後の注記の可能性がある。義貞が後醍醐から勾当内侍を賜った有名な話が『太平記』巻二十にみえるが、これはむしろ『増鏡』のこの話の派生ではないか、と推察している。妥当な説と思われる。
-------

とされています。(p309以下)
『増鏡』の話がどこまで史実を反映しているのかは分かりませんが、世尊寺経尹の周辺に「民部卿」がいるかは一応調べる価値がありそうです。
ただ、仮に「民部卿」が存在したとしても、「民部卿局」はあくまで形式的寄進者と考えるべきではないかと思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴木由美氏『中先代の乱』(その1)

2021-09-16 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月16日(木)10時19分53秒

吉井功兒氏の『建武政権期の国司と守護』(近代文藝社、1993)に戻ろうかとも思いましたが、信濃に関しては吉井著の記述に若干の混乱が窺われ、また内容も多少古くなってしまっているので、近時の論文で修正を加えつつ検討して行くと非常に分かりにくい話になりそうです。
現在の私の関心は中先代の乱後の僅か二ヶ月で後醍醐と尊氏の関係が破綻した原因の解明にあり、建武新政期の信濃の動向は重要なヒントになりそうな感じはするのですが、信濃の中世史はなかなか複雑で、このまま信濃だけに焦点を合わせているといたずらに細部に嵌り込んでしまう不安を感じます。
そこで、改めて視野を拡大するために、暫くは中先代の乱に関する最新の研究成果である鈴木由美氏の『中先代の乱』(中公新書、2021)の内容を検討しつつ、その間に信濃中世史に関する最新の文献を読み込んで、必要があれば吉井著の検討に戻りたいと思います。

-------
『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢』

鎌倉幕府滅亡から二年後の一三三五年、北条高時の遺児時行が信濃で挙兵。動揺する後醍醐天皇ら建武政権を尻目に進撃を続け、鎌倉を陥落させた。二十日ほど後、足利尊氏によって鎮圧されるも、この中先代の乱を契機に歴史は南北朝時代へと動き出す――。本書は、同時代に起きた各地の北条氏残党による蜂起や陰謀も踏まえ、乱の内実を読み解く。また、その後の時行たちの動向も追い、時流に抗い続けた人々の軌跡を描く。

https://www.chuko.co.jp/shinsho/2021/07/102653.html

同書の構成は、

-------
序章  鎌倉幕府と北条氏
第1章 落日の鎌倉幕府
第2章 北条与党の反乱
第3章 陰謀と挙兵─中先代の乱①
第4章 激戦と鎮圧─中先代の乱②
第5章 知られざる「鎌倉合戦」
第6章 南朝での活動
終章  中先代の乱の意義と影響
-------

となっていて、私の主たる関心の対象は第3・4章あたりになりますが、序章から順番に見て行くことにします。
序章では、近時の研究動向を反映した征夷大将軍の説明が注目されます。(p4以下)

-------
 しかし、頼朝は「征夷大将軍」という官職そのものに就任したかったわけではなかった。頼朝はただ「大将軍」になりたいと希望していて、朝廷側が征東大将軍などのいくつかの候補の中から、消去法で征夷大将軍を選んだという(櫻井 二〇一三)。頼朝にとっては、結果的に征夷大将軍に就任したに過ぎないともいえる。
 それでは、なぜ頼朝は「大将軍」を望んだのだろうか。当時の武士社会では、平安時代に鎮守府将軍に就任し武勇の誉れが高い藤原秀郷や平貞盛、平良文、頼朝の先祖である源頼義を、単に「将軍」と呼ぶことが多く、鎮守府将軍任官と無関係に勇敢な者の「将軍」と呼ぶこともあった(以下、下村 二〇〇八・二〇一八)。
 そして武士たちは彼ら「将軍」を「曩祖(先祖)」として尊崇した。「将軍」の故実(儀式・軍人などの先例)を継承し、「将軍」の嫡流であることが、武士たちにとって権威となっていた。頼朝は「将軍」に勝る権威を得るために、「大将軍」を望んだという。

征夷大将軍
 このように、頼朝は征夷大将軍への任官を必ずしも望んでいたわけではなかったが、彼以降の鎌倉幕府の歴代首長は、征夷大将軍に任官している。征夷大将軍は、武家政権の首長が就任する官職として定着したのだ。それは鎌倉幕府だけではなく、室町幕府・江戸幕府も同様である。
-------

「櫻井 二〇一三」とありますが、「主要参考文献」に載っている櫻井陽子氏の「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって―『山槐荒涼抜書要』の翻刻と紹介―」という論文の初出は『明月記研究』第9号(2004)で、それが『『平家物語』本文考』(汲古書院、2013)に収録されています。
この櫻井論文は歴史研究者にけっこうな衝撃を与えましたが、歴史研究者側からの反応の代表が下村周太郎氏の「「将軍」と「大将軍」─源頼朝の征夷大将軍任官とその周辺」(『歴史評論』698号、2008)ですね。
さて、鈴木氏は「征夷大将軍は、武家政権の首長が就任する官職として定着したのだ。それは鎌倉幕府だけではなく、室町幕府・江戸幕府も同様である」と言われますが、少なくとも鎌倉時代においては、「武家政権の首長」としての実質を備えた人物が征夷大将軍に就任したのはせいぜい源氏三代までで、以後の摂家将軍・親王将軍は京都から下ってきた高貴な身分の少年が就く名目的な地位になってしまっています。
私は、一度はそうした名目的存在になってしまった征夷大将軍が「武家政権の首長が就任する官職として」復活したのは尊氏の時代だと考えますが、この点は例えば岡野友彦氏の『北畠親房─大日本は神国なり─』(ミネルヴァ書房、2009)などに即して少し考えたことがあり、最近も田中大喜氏の『新田一族の中世 「武家の棟梁」への道』(吉川弘文館、2015)に即して改めて少し検討してみました。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
「しかるに周知の如く、護良親王は自ら征夷大将軍となることを望み」(by 岡野友彦氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/924134492236966c03f5446242972b52
四月初めの中間整理(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cddb89fb0fa62d933481f0cab6994b2c
田中大喜氏「『太平記』のなかの新田氏─プロローグ」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a13beacb23bb1896cbee9eeff3df0c03
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信濃国伴野庄に関する二つの古文書(その4)

2021-09-15 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月15日(水)10時23分5秒

後醍醐は元弘三年(1333)六月四日に帰京、東寺に泊して、翌五日に二条富小路殿に戻ります。
大徳寺については、この僅か二日後の六月七日に次の綸旨が出ています。(『鎌倉遺文』32241号)

-------
  〇三二二四一 後醍醐天皇綸旨<〇山城大徳寺文書>

 大徳寺領事、管領不可有相違者、
 天気如此、仍執達如件、       〔中御門宣明〕
   元弘三年六月七日        左少弁(花押)
  妙超上人御房
-------

そして、同月十五日には信濃国伴野荘を大徳寺に寄附する旨の綸旨が出ます。((『鎌倉遺文』32274号)

-------
  〇三二二七四 後醍醐天皇綸旨<〇山城大徳寺文書>

 信濃国伴野庄地頭職、所被寄附大徳禅寺也、殊可奉祈万年之
 聖運者、
 天気如此、仍執達如件、       〔岡崎範国〕
   元弘三年六月十五日        式部少輔(花押)奉
  妙超上人禅室
-------

更に七月一日には、「民部卿局」が下総国遠山方御厨を大徳寺に寄附したことを承認する後醍醐の綸旨が出ます。(『鎌倉遺文』32318号)

-------
  〇三二三一八 後醍醐天皇綸旨<〇山城大徳寺文書>

            〔北畠親子〕
 下総国遠山方御厨、任民部卿局寄附之旨、大徳寺管領不可有
 相違者、
 天気如此、仍執達如件、       〔岡崎範国〕
   元弘三年七月一日        式部少輔(花押)
  宗峰上人御房
--------

「民部卿局」は護良親王の母である「民部卿三位」と同一人物だと思いますが、「民部卿三位」は従来、北畠師親の娘親子とされていて、『鎌倉遺文』もこの説を採ったようです。
ただ、北畠親子説が不動の定説であった「民部卿三位」の出自については、近年、森茂暁・岡野友彦氏による異論が出されています。
その論争の内容は亀田俊和氏『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版、2017)に簡潔に整理されているので(p12以下)、詳しくはそちらに譲るとして、大徳寺に下総国遠山方御厨を寄附した「民部卿局」が護良親王母であることは間違いないはずです。
つまり大徳寺については後醍醐のみならず護良親王母の「民部卿局」も密接な関係を持っていた訳ですね。
さて、この後に既に紹介済みの七月三日付後醍醐綸旨、七月六日付の四条隆貞を奉者とする「将軍家」護良親王令旨が出ます。
参照の便宜のために再掲すると、

-------
①信濃国伴野庄事、先御寄附寺家之由、被仰高氏朝臣候了、小宅三職事、去々年当知
 行之上者、不及被下 綸旨、所務不可有子細歟之由、被仰下候也、仍執達如件、
    七月三日    中納言(草名)
  宗峯上人御房

②信濃国伴野庄、任綸旨、管領不可有相違者、依 将軍家御仰、執達如件、
    元弘三年七月六日          左少将〔四条隆貞〕(花押)
  宗峯上人御房

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64f8ab9b9e37565b6d2eaf1fa9a94051

というものです。
これら一連の文書を見ると、六月十五日から七月六日までの短期間に、大徳寺の新所領に関して後醍醐・「民部卿局」(護良親王母)・護良・尊氏が相互に密接な連絡を取っていたことが伺われる訳ですが、ここには後に起きる後醍醐・護良・尊氏間の紛争の気配など微塵も窺えません。
還京直後のこの時期、もちろん大徳寺以外の寺院にも後醍醐は寺領安堵の綸旨を出していますが、大徳寺が相当に優遇されていることは明らかです。
そして、こうした一連の流れの中で「現在約八〇〇点ほど収集することのできる後醍醐天皇綸旨のなかで、誅伐の対象となる以前の段階で尊氏の名前がみえる」「唯一」の文書である七月三日付綸旨を読むと、ここからは、自分が重視している大徳寺の新しい所領・伴野荘については、その管理が円滑に進むようにしっかり手配してくれよ、という後醍醐の尊氏に対する期待と信頼が窺われ、逆にそれ以外の何かを読み込むのは文書の素直な解釈とは言えないように思われます。
そして、後醍醐は「信濃国伴野庄事、先御寄附寺家之由、被仰高氏朝臣候了」という文言が明記された綸旨を護良が見ることを予想しており、それはつまり、護良がこれを見ても別に尊氏との間でトラブルなど起きるはずがないと思っていたことを意味しますから(トラブル発生の可能性のある刺激的な文言だと分かっていれば、入れるはずがない)、結局、大徳寺関係の複数の文書は、元弘三年六月・七月時点で後醍醐・護良・尊氏の関係が円滑であり、護良が尊氏討伐を後醍醐に要求して信貴山に立て籠もった、などという事実は全くないことを示しているものと私は考えます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信濃国伴野庄に関する二つの古文書(その3)

2021-09-13 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月13日(月)12時24分7秒

『皇子たちの南北朝』から『足利尊氏』に戻って、続きです。(p97以下)

-------
 このときすでに護良は、正式に「征夷大将軍」に任命されていた。②の護良親王令旨が「依将軍家仰、執達如件」と書き止められているのはそのことを証している。護良は「征夷大将軍」のポストを獲得して、武家社会を自らの手で統括しようと考えていたものらしい。尊氏がこのポストを欲しがったのも当然のことである。いずれにせよ、両人が志向する権力の性格から考えると、両者が早晩対立関係に陥り、やがて勝負をかけて対決することは火をみるより明らかであったろう。
 なお、現在約八〇〇点ほど収集することのできる後醍醐天皇綸旨のなかで、誅伐の対象となる以前の段階で尊氏の名前がみえるのは唯一右掲の①のみであること、護良親王の権勢は②の段階ではいまだ衰えていなかったこと、を付言しておきたい。
-------

いったん、ここで切ります。
森氏が「正式に」と書かれるのは、「将軍宮」と表記する護良関係の文書が既に六波羅陥落の直後から見られるためで、森氏を含め、通説(定説)はこれを護良が征夷大将軍を「自称」したものとしています。

四月初めの中間整理(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/929b03c5eaf5f936ea38589ab4530ffd
「後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bcd536895cd87d1f5a532065d002158
森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4778a51527604447c0e933ebcdadfbbb

さて、続きです。(p98)

-------
 護良親王の失脚は前項「後醍醐天皇との関係」でのべたように、すぐれて謀略的なものであった。その意味で、護良は政治的な罠にはまったともいえる。尊氏との関係でいえば、護良の存在とその政治的動向は、源氏の棟梁としてかつ武家社会の棟梁として武家社会のトップの座にいた尊氏にとって目障りなものであったに相違ない。目障りは排除するに越したことはない。護良が後醍醐に扇動されて尊氏追討の兵をあげて失敗した事件をとらえて尊氏は強力な政敵=護良を失脚させるのに成功したのである。
 ちなみに、このとき、尊氏が後醍醐天皇の寵妃阿野廉子の後援を得られたことは幸運であった。『保暦間記』には「御子成良親王ハ本ヨリ尊氏養ヒ進セタリケレバ、東宮ニ立テ奉リケリ」という記事がみえ、これによると尊氏は成良親王(建武二年には数え一〇歳)の乳父〔めのと〕だったことになる。となると成良の母廉子はおそらく継子護良との競合関係からも尊氏を支援する立場に立ったろう。廉子は後醍醐の寵妃であっただけに、後醍醐と尊氏の関係をうまく取りはからったに相違ない。ふりかえれば、元弘元年一二月成良が数ある皇子のなかで鎌倉府の主帥〔しゅすい〕に選ばれたのも、こうした成良と足利氏との由縁によろう。
-------

うーむ。
「元弘元年一二月成良が数ある皇子のなかで鎌倉府の主帥に選ばれた」とありますが、それは元弘元年ではなく元弘三年(1333)の出来事です。
ちなみに「主帥」は、少なくとも中世史では史料用語としても講学上の分析概念としてもあまり聞かれない表現で、成良親王の地位をどのように呼ぶかに苦慮した森氏が考案した独自の表現のようですね。

「御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43276572022babedbef4c94f2e88da7a

ま、それはともかく、「後醍醐に扇動されて」は、

-------
宮の御謀叛、真実は叡慮にてありしかども、御科を宮に譲り給ひしかば、鎌倉へ御下向とぞ聞えし。宮は二階堂の薬師堂の谷に御座有りけるが、「武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ」と御独言有りけるとぞ承る。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

という『梅松論』にしか存在しないエピソードに依拠しており、森氏が「『梅松論』史観」の徒であることが分かります。
また、森氏は「寵妃阿野廉子」の影響力を極めて重視されますが、阿野廉子の役割を『太平記』以外の信頼できる史料で裏付けることは可能なのか。
まあ、それが無理であることは研究者の常識では、と私は思っていました。
更に『保暦間記』の記述から、森氏が「尊氏は成良親王(建武二年には数え一〇歳)の乳父だったことになる」と断定されるのは本当に馬鹿げていますね。
鎌倉に居住していた幕府御家人の尊氏が成良親王の「乳父」になれるはずがありません。
ということで、緻密な古文書分析に定評のある森茂暁氏が、この短い叙述の中で、建武新政期の基本認識については自身が「『太平記』史観」・「『梅松論』史観」の徒であるばかりか、信頼性の点では『太平記』に劣るとも勝らない『保暦間記』を妄信する「『保暦間記』史観」の徒でもあることを自白されている訳で、ちょっと吃驚ですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信濃国伴野庄に関する二つの古文書(その2)

2021-09-13 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月13日(月)10時36分52秒

以前、『足利尊氏』を通読したときは「丹波国金剛院所蔵の元弘三年六月日某定恒禁制木札」云々の記述の奇妙さに気づかなかったのですが、今回、なんじゃこりゃ、と思って『鎌倉遺文』を見たところ、問題の文書は、

-------
   〇三二三〇八 某禁制<〇丹後金剛院蔵>
(木札)
    禁制
     丹後国志楽庄内鹿原山
 (花押)
     金剛院美福門院御願所

    右、到于当庄内地頭下司以下人々等
    任自由、彼寺山木切取輩、背
    勅制歟、然者、可処重科之状如件、
      元弘三年六月 日
-------

というものでした。
金剛院は丹波ではなく、丹後の寺院ですね。

金剛院 (舞鶴市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E9%99%A2_(%E8%88%9E%E9%B6%B4%E5%B8%82)

さて、この制札を見ても、何故にこの制札から「護良は当時信濃国の知行国主の地位にあったのではないかと推測」できるのか分かりませんが、たぶんこの花押が護良右筆の「某定恒」のもので、森茂暁氏は「護良は当時【丹後】国の知行国主の地位にあったのではないかと推測」されたのだろうと推測できます。
そこで『皇子たちの南北朝』(中公新書、1988)を見たところ、次の記述がありました。(p50以下)

-------
 定恒については、いま一つ注目すべき史料がある。丹後国志楽〔しらく〕荘内鹿原〔かはら〕山(現在京都府舞鶴市字鹿原)の真言宗寺院金剛院に所蔵される、元弘三年六月日禁制木札である。
 この木札は本書で初めて紹介するものではなく、たとえば昭和六十一年に京都国立博物館で、「丹後・金剛院の仏像」と銘打った特別陳列が開催された際に作成された図録には、写真と読み本および簡単な説明が付されている。しかしそこにはこの禁制を発した者に関する言及はない。ちなみに、縦長の将棋の駒のような形をしたこの木札の寸法は、底辺二五・五センチ、頂点までの高さ四六・二センチ、左右の側辺三九・五センチである。
 この禁制は美福門院(鳥羽院の皇后藤原得子)の祈願所である金剛院のために、同院の所在する志楽荘内に地頭・下司以下がはいりこみ、勝手に寺の山木を切り取ることを「勅制に背く」として禁止、犯過人を重科に処すことを布告したものである。注目すべきは、七行にわたって墨書された文面の真上中央にすえられた一つの大きな花押が、まごうことなく護良親王側近の一人、定恒のそれであることである。禁制木札の花押の主〔ぬし〕定恒の立場を、いかに考えるかはいくとおりかあろうが、さきの隆貞の例を参考にすれば、あるいは定恒は丹後国の国司(あるいは守護)の立場にいたのではあるまいか。もしそうであれば、同国の知行国主も、護良であった可能性が高いといわねばならない。
 この禁制木札がかかげられた元弘三年六月は、護良が意気揚々と入京した月で、いわば護良勢力の絶頂期にあたっていた。その木札のかしらにすえられた堂々とした定恒の花押は、主君護良をうしろ楯にした定恒の威勢をうかがわせている。
 以上のように、丹後を護良の知行国と考えるなら、護良は和泉・紀伊に丹後を加えて、三ヵ国の国主権を保持したことになる。京都に近いこれらの国々の知行を完全委任された護良が、都の動静に重大な影響力をもったことは明らかであろう。
-------

うーむ。
この記述を読むと、確かに森氏が「定恒は丹後国の国司(あるいは守護)の立場にいたのではあるまいか。もしそうであれば、同国の知行国主も、護良であった可能性が高いといわねばならない」、「丹後を護良の知行国と考えるなら、護良は和泉・紀伊に丹後を加えて、三ヵ国の国主権を保持したことになる」と推測されることは理解できます。
しかし、森氏はこの禁制木札の例から、「右のように考えると、尊氏もまた同時期信濃国に対して何らかの公的な権限をもっていたのかもしれない」とされる訳で、ここには若干の論理の飛躍がありそうです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信濃国伴野庄に関する二つの古文書(その1)

2021-09-13 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月13日(月)09時09分32秒

吉井著の紹介を始めたばかりですが、建武の新政が始まったばかりの時期、護良親王が信濃国の知行国主だったとすると、尊氏との関係でそれなりに興味深い文書があります。
ま、私のように当初は尊氏と護良は格別仲が悪かった訳でもないのでは、と考える立場からすれば別にどうということのない文書なのですが、護良の信貴山立て籠りを史実と考える通説、というか不動の定説に拠る研究者にとってはなかなかの難問を惹起する文書です。
そこで、そのような立場の代表格である森茂暁氏の苦悩を知るため、『足利尊氏』(角川選書、2017)から少し引用します。
まずは前提として、尊氏・護良の基本的関係についてです。(p95以下)

-------
護良親王との関係
 鎌倉幕府を倒壊に導いた元弘の乱の殊勲者は先に述べた尊氏ばかりではない。むしろ最有力クラスの鎌倉御家人であった尊氏が後醍醐側に転身した最大のきっかけをつくったのは、尊氏の転身以前から地道な討幕活動をリードしていた護良であったことはいうまでもない。その点では護良が同じ討幕の殊勲者としては尊氏の先輩格の立場にいた。その様子は前述したように、『保暦間記』(『群書類従二六』所収)が「(護良は)元弘ノ乱ヲモ宗ト御張本有シゾカシ」と描くとおりである。
 尊氏と護良との対立は、元弘三年六月五日に後醍醐天皇が二条富小路の内裏に還幸して天下が静謐に帰したのちも、護良は容易に入京しようとしなかったところからすでに表面化していた。『太平記一二』によると、護良は大和の信貴山に拠って尊氏の排除を要請したという。さらに同書によると、この護良の独走に困惑した後醍醐は、右大弁宰相坊門清忠を勅使として護良のもとに派遣し、「世已〔すで〕ニ静謐ノ上ハ急ギ剃髪・染衣ノスガタニ帰リテ、門跡相続ノ業ヲ事ト給ベシ」と再び仏門に戻ることをすすめたが護良は承伏せず、結局、同十三日に護良の将軍宣下を了承するかわりに尊氏誅伐の企てをすてるという条件をのませて、護良の平和裡での入京を実現させた。このように公家一統政府が成立した直後から、尊氏と護良との間は波瀾ぶくみで、早晩のっぴきならぬ険悪な状況が到来することは誰の目にも明らかであった。
-------

このように森茂暁氏は『太平記』十二巻の「二者択一パターンエピソード」を完全に史実と考える立場です。
そして、森氏は西源院本を用いておられるので(p26)、護良の帰洛は六月十三日とされていますが、西源院本によれば、もともと護良の帰洛は十三日と予定されていたものの、護良が尊氏討伐と征夷大将軍任官を後醍醐に要求し、尊氏討伐など絶対不可とする後醍醐との間で坊門清忠を介しての交渉が続いて、結局、護良は征夷大将軍任官だけで納得して帰洛したことになっています。
ただ、極めて奇妙なのは、後醍醐・護良間の交渉が本当に存在したのならば、護良の帰洛は当初予定の十三日より相当「延引」されるはずなのに、何故か西源院本では当初予定通りの十三日に帰洛しています。
この点、明らかに不合理なので佐藤進一氏は流布本の六月二十三日帰洛説を取っていますね。

四月初めの中間整理(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cddb89fb0fa62d933481f0cab6994b2c
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aeac37a77f5bef1dc46ab4fab0e07184

ま、それはともかく、肝心の文書は次に出てきます。(p96以下)

-------
 両人の関係を考える上で興味深い史料がある。まず関係史料をあげよう。

  ①信濃国伴野庄事、先御寄附寺家之由、被仰高氏朝臣候了、小宅三職事、去々年当知
   行之上者、不及被下 綸旨、所務不可有子細歟之由、被仰下候也、仍執達如件、
      七月三日    中納言(草名)
    宗峯上人御房
  ②信濃国伴野庄、任綸旨、管領不可有相違者、依 将軍家御仰、執達如件、
      元弘三年七月六日          左少将〔四条隆貞〕(花押)
    宗峯上人御房

 ①は、大徳寺の宗峯妙超にあてて信濃国伴野荘ならびに播磨小宅〔おやけ〕三職を安堵するという内容の後醍醐天皇綸旨(『大徳寺文書一』七三頁)、また②は、同荘を綸旨に任せて妙超に安堵した大塔宮護良親王令旨(『大徳寺文書別集 真珠庵文書七』一五九頁)である。文書の役割のうえでは、まず①が出て、これを施行したのが②であるという関係である。問題となるのは信濃国伴野荘に関わることであるが、①に「先御寄附寺家之由、被仰高氏朝臣候了」とあるところからみると、後醍醐は信濃国伴野荘を大徳寺に寄附したことをまず尊氏に申し伝えていることが知られる。ここに尊氏の名が登場するのは尊氏が信濃国に一定の影響力を及ぼしていたからであろう。しかも①の伴野荘の部分は②によって施行されているから護良もまた信濃国に公的権限を有していなくてはならない。筆者はかつて、丹波国金剛院所蔵の元弘三年六月日某定恒禁制木札(『鎌倉遺文四一』三二三〇八号)によって、護良は当時信濃国の知行国主の地位にあったのではないかと推測したことがあるが(中公文庫『皇子たちの南北朝』六六頁)、右のように考えると、尊氏もまた同時期信濃国に対して何らかの公的な権限をもっていたのかもしれない。
-------

いったん、ここで切ります。
この部分、一箇所、極めて不可解な記述があって、それは「筆者はかつて、丹波国金剛院所蔵の元弘三年六月日某定恒禁制木札(『鎌倉遺文四一』三二三〇八号)によって、護良は当時信濃国の知行国主の地位にあったのではないかと推測したことがあるが」ですね。
丹波国に護良親王右筆の「某定恒」が書いた禁制木札が存在することから、どうして「護良は当時信濃国の知行国主の地位にあった」と推測できるのか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉井功兒著『建武政権期の国司と守護』(その1)

2021-09-12 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月12日(日)10時52分55秒

それでは吉井功兒氏の『建武政権期の国司と守護』(近代文藝社、1993)を見て行きます。
念のため書いておくと、同書は三十年近く前の著作なので最新の研究成果に反する記述も多々あり、後述するように信濃国についても重大な誤解があります。
ただ、「建武政権期の国司と守護」の全体像を描く最新の著作はまだ現れていないので、この時期の信濃の状況を概観するために参考にさせてもらいます。(p69以下)

-------
信濃国
 建仁三年(一二〇三)九月、当国守護比企能員が滅び、北条義時が当職を獲得してより、当職は義時子息重時の系統が相伝、幕末の守護は六波羅北方探題北条仲時だった。弘安七年(一二八四)に当国は興福寺造営料国だったが、鎌倉後期の当国知行国主が久我家嫡流だったとの推論がある。
 新政期における当国国司の初徴は、元弘三年八月三日信濃国宣(市河文書)である。信濃国人市河助房に対し、同年七月廿日官宣旨(いわゆる七月令)に任せて、某左兵衛督致治が当知行安堵の国宣を執達している。右国宣の書止は"者依 国宣執達如件"とあり、致治が当国国務管掌者ないし国務管掌国司の家司の立場にあった事が判る。奉者致治の地位の高さ(従五位上相当)から、彼の主人がかなり高官の公卿だった蓋然性を示唆する。新政府の新国司人事は同年八月以降に集中的に行われているが、致治の主人たる当国国務管掌者は、同年七月二十五日以前からその地位にあったように思われる。森茂暁氏は、元弘三年七月六日大徳寺開山宗峰妙超(大燈国師。同寺は正中二年=一三二五=に後醍醐の祈願所となる)充護良親王令旨(真珠庵文書)に拠り、該時、護良が信濃知行国主の地位にあった事を推論された。護良は、同年八月末には征夷大将軍職を剥奪されており(紀伊国項参照)、彼の当国での権限は短期間で終わったらしい。彼が新政当時の当国国務管掌者なら、護良家司の四条隆貞あたりが信濃守で、某到治も護良家人だった可能性がある。森氏の推論を採りたい。
-------

いったん、ここで切ります。
「某左兵衛督致治」に付された注(135)を見ると、

-------
(135)『信濃史料』第五巻(’54)215頁に載る同信濃国宣の釈文は、奉者を左兵衛佐〔すけ〕致治とするが、相田二郎氏に拠れば(同『日本の古文書』下=’54=198頁)、左兵衛督〔かみ〕致治が正しいようである。
-------

とあります。
また、「該時、護良が信濃知行国主の地位にあった事を推論された」に付された注(136)を見ると、これは森茂暁氏の「大塔宮護良親王令旨について」(小川信編『中世古文書の世界』所収、吉川弘文館、1991)という論文ですね。
森論文には、後醍醐と護良親王の関係について、

-------
 さて、両者のこのような関係は幕府の滅亡後どのようになるのだろうか。「綸旨」という文字を文中にふくむ、次の二通の護良親王令旨をみよう。

①信濃国伴野庄、任綸旨、管領不可有相違者、依 将軍家御仰、執達如件、
    元弘三年七月六日          左少将〔四条隆貞〕(花押)
  宗峰上人御房
②紀伊国且[〔来庄〕]、任 綸旨、可被[  ]者、依 将軍家[〔仰カ〕  ]如件、
    元弘三年七月十三[〔日〕]      [    ]
  主税頭殿

 右の二通の令旨はいずれも後醍醐天皇綸旨を施行したものであって、発給者同士の関係は発令─施行の安定した様相を呈している。日付の接近した両令旨は、元弘三年の時点で、後醍醐と護良の政務上の関係が一時的ではあれ調整・修復されていたことを示すものではあるまいか。
 信濃国伴野庄と紀伊国且来(あつそ)荘の知行にかかる綸旨を施行した護良の立場も当然考慮されなければならない。①は、唯一の信濃国関係、しかも大徳寺領荘園にかかる令旨である点に大きな特色がある。②は、当時護良が知行国主であった紀伊国に関しての令旨である。綸旨の施行がもしその権限にもとづくものであるとすれば、①の信濃国についても同様のことがいえるのではあるまいか。ともあれ、元弘三年七月の時点で、護良が東国方面にまで支配権を及ぼしていたとみられる点は注目に値しよう。
-------

とあります。(p208以下)
吉井氏は注(136)において、森論文を紹介された後、

-------
ただ、元弘三年七月廿五日官宣旨案に対応して同年八月三日に信濃国宣を執達せる某致治が護良親王令旨発給の奉者として一切見えない事(当注A森論文所引)および令旨イ奉者の名が不明である事を考えると、護良信濃知行国主説に一抹の不安もあるが、今は森説に従いたい。
-------

としていますが(p237)、「某致治」が四条隆貞より一段下のレベルの家人と考えれば「護良親王令旨発給の奉者として一切見えない事」は別に不思議ではなく、また「令旨イ」(森論文の②)の「奉者の名が不明である事」は単に史料の汚損・虫食いで名前が読めないだけで、おそらく四条隆貞や「某定恒(左少将)」、中院定平あたりの名前が書かれていたでしょうから、私は「護良信濃知行国主説に一抹の不安」は感じません。

平田俊春「四條隆資父子と南朝」
http://web.archive.org/web/20130212213433/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hirata-toshiharu-sijotakasuke.htm

結局、建武の新政の初期、護良親王が信濃国の知行国主であったとする森茂暁説は信頼に値すると私は考えます。
ただ、私自身は護良親王について一般的な理解とは相当に異なる見方をしており、五月七日の六波羅陥落直後に「将軍宮」を称し始めた護良は、別に「自称」ではなく正式に後醍醐の了解を得て征夷大将軍に任官し、また、九月上旬に「将軍宮」を使用しなくなった理由も、別に後醍醐から一方的に「解任」されたのではなく、後醍醐と合意した上での辞任の可能性もあると思っています。

四月初めの中間整理(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/929b03c5eaf5f936ea38589ab4530ffd
森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03c87ed5d3659ae5cf21bff4531d6265
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2cfa778a3d9a8aa4b68f8e3fbcb5185d

従って、私見では吉井氏のように「護良は、同年八月末には征夷大将軍職を剥奪されており(紀伊国項参照)、彼の当国での権限は短期間で終わったらしい」と考える必要はないのですが、しかし、九月以降に護良が信濃の知行国主であることを示す史料が存在しないのも事実です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「伊豆・相模・武蔵・信濃といった関東の中枢地域にかかわる案件を内容とする御教書の登場」(by 森茂暁氏)

2021-09-11 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月11日(土)11時01分23秒

二日投稿を休んでしまいましたが、この間、建武の新政の開始から中先代の乱が勃発するまでの後醍醐と尊氏の関係を探っていました。
この点、長く定説であった佐藤進一説は既に破綻していると私は考えますが、そうかといって最近の研究者の見解にも完全に納得できるものはありません。
仕方がないので、この前段階での後醍醐・尊氏の関係を一応ペンディングとした上で、建武二年(1335)九月・十月の僅か二ヶ月間に二人の関係が急速に悪化した事情についての私見を述べようかとも思ったのですが、しかし、それでは充分な説明にはなり得ません。
そこで、森茂暁氏が『足利尊氏』(角川選書、2017)で指摘された古文書のうち、先ずは元弘三年一二月二九日付袖判下文(安保光泰に勲功賞として信濃国小泉庄内室賀郷地頭職を宛てがうもの)を検討してみました。
森氏によれば、この文書が尊氏の袖判下文の初例のようですが、この後、かなり間が空いて、次は建武二年七月廿日、同年八月日、そして同年九月二十七日の大量発給と続きます。
私の疑問は、この初例の文書がいったい尊氏のどのような資格・権限に基づいているのか、というものです。
『南北朝遺文関東編第一巻』(東京堂出版、2007)にも載っているこの文書(20号)は研究者には周知のものですが、「ポツンと一点だけ残っている」(p78)こともあって、それほど重視されては来なかったようです。
ただ、森氏も言われるように「これと同じ日付で伊豆国の奈古屋郷・宇佐見郷・多留郷などの地頭職を被官たちに勲功賞として安堵する尊氏御教書が三点ほど残っている」(p79)ので、尊氏はそれぞれの文書を発給する自身の資格・権限の違いについて明確な自覚を持っていたはずです。
では、伊豆と信濃で尊氏の資格・権限はどのように違うのか。
まず、伊豆の場合、尊氏は知行国主で、上杉重能が国司です。
そして、森氏によれば、

-------
 元弘三年一一月以降になると、これまでとは異なる内容の尊氏御教書があらわれる。伊豆・相模・武蔵・信濃といった関東の中枢地域にかかわる案件を内容とする御教書の登場である。たとえば相模国鶴岡八幡宮の供僧職を安堵(承認)したり、武蔵国木田見郷一分地頭職への濫妨防止を指示したり、また伊豆国宇佐見郷を足利被官に与えたりするものである。これは尊氏の当該地域への強固な職権的支配権によるものであり、『神皇正統記』のいう尊氏に与えられた「三ヶ国ノ吏務・守護」を中核とする、尊氏の関東地方における公的権限にもとづいている。武士領主の知行分所領に対する濫妨狼藉を排除する内容のものもある。
-------

とのことで(p77以下)、尊氏は普通の知行国主とは異なる「公的権限」を持っていますね。
一般に知行国主であれば地頭職安堵ができる訳ではありませんが、伊豆の場合は「『神皇正統記』のいう尊氏に与えられた「三ヶ国ノ吏務・守護」を中核とする、尊氏の関東地方における公的権限」に基づいて尊氏は地頭職を安堵してよい訳です。
ただ、森氏が上記引用部分で「伊豆・相模・武蔵・信濃といった関東の中枢地域」とするのは非常に奇妙で、信濃は「関東」ではありません。
森氏の言われることは信濃に関しては誤りと言わざるを得ませんが、では尊氏は信濃についてどのような「公的権限」を有しているのかというと、これがどうにもはっきりしません。
この点、吉井功兒氏の『建武政権期の国司と守護』(近代文藝社、1993)を参照しつつ、次の投稿で検討します。
同書奥付の「著者略歴」を見ると、吉井氏は、

-------
1928年 仙台市生まれ
1946年 旅順医学専門学校中退
1952年 関西大学法学部政治学科卒業
1983年 毎日新聞社停年退職
現在  フリーライター 毎日新聞社終身名誉職員
-------

という方で、「あとがき」にも、

-------
 奥付の略歴にあるとおり、私は、むかしから、およそアカデミズムとは縁なき衆生だった。幼少のころから歴史は好きだったが、学校は法学部を選んでしまった。学生時代、文学部の日本史や東洋史の授業へ法学部の講義よりも多く無断聴講していたら、東洋史の某泰斗に大学院へ残らないかといわれた。結局、ジャーナリズムの世界に沈潜して、三十数年を過ごした。【中略】四十歳台後半から日本中世史の勉強を始めた。忙中閑をみつけて、新聞社の調査部の蔵書『大日本古文書』や『大日本史料』を読み耽った。停年退社後、やっとおおっぴらに歴史の勉強ができるようになった。
-------

などとありますが(p373)、著書の内容はしっかりしていますね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緩募(ゆるぼ)の補遺(その2)

2021-09-08 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 8日(水)12時52分51秒

森茂暁氏は「もっとも注目されるのは袖判下文である。これが以降の尊氏の政権樹立に直接的につながるのであるが、その最初は、建武二年七月二〇日尊氏が袖判下文でもって配下の武士に勲功の賞としての所領をあてがった事例である。元弘三年一二月二九日以来封印してきた発給をここに再開したのである」(p85)と書かれていますが、元弘三年一二月二九日の袖判下文もなかなかミステリアスな文書ですね。
この文書については、「元弘三年の尊氏文書」に関して最初に御教書の説明がなされた後、次のような指摘があります。(p78以下)

-------
 次に注意すべきは、わずか一点のみだが袖判下文の存在である。袖判下文は武門の棟梁たる将軍が配下の武士に所領を与えるときに使用する文書形式である。尊氏についてみると、後述するようにのちの南北朝時代には戦乱の時代を反映して、尊氏は将軍としておびただしい数の袖判下文を残している。その南北朝時代に本格化する尊氏袖判下文のはしりのような形で、元弘三年末にポツンと一点だけ残っているのである。
 具体的にいうと、それは信濃国小泉荘内室賀郷地頭職を勲功賞として安保光泰にあてがう内容の、元弘三年一二月二九日足利尊氏袖判下文である(横浜市立大学所蔵「安保文書」)。尊氏袖判下文の初見として周知のものであるが、佐藤進一のいう尊氏の主従制的支配権の形成過程を考えるとき重要な材料となる。以下にその文書を掲出する。

      (花押〔足利尊氏〕)
  下  安保新兵衛尉〔光泰〕
    信濃国小泉庄内室賀郷地頭職事
  右以人、為勲功之賞、所補彼職也、早任先例、可領掌之状如件、
    元弘三年十二月廿九日
               (横浜市立大学所蔵「安保文書」)

 なお、これと同じ日付で伊豆国の奈古屋郷・宇佐見郷・多留郷などの地頭職を被官たちに勲功賞として安堵する尊氏御教書が三点ほど残っている(「上杉家文書」等)。袖判下文でないところに注目すべきである。
 一例を掲出する。

  伊豆国奈古屋郷地頭職事、為勲功之
  賞、任先例、可被領掌之状如件、
   元弘三年十二月廿九日 左兵衛督〔足利尊氏〕(花押)
  上椙兵庫蔵人〔憲房〕殿 (「上杉家文書」、『大日本古文書 上杉家文書一』)
-------

既に古文書学の素養が全くない私の能力では対応できない分野に入り込んでしまっていますが、とりあえず若干の問題点だけ整理しておきます。
まず、尊氏はいったいどんな資格でこの袖判下文を発給しているのか。
袖判下文ではなく御教書で地頭職が安堵されている伊豆国の場合、尊氏が知行国主で、上杉重能が国司です。
『建武政権期の国司と守護』(近代文藝社、1993)において、建武新政期の諸国の国司・守護に関する史料を網羅的に精査された吉井功兒氏によれば、尊氏が田方郡奈古屋郷地頭職を上杉憲房に与えた行為は「尊氏管掌国の特殊権限といえよう」(p54)とのことで、この説明は一応説得的です。
他方、信濃国の国司・守護の変遷はなかなか複雑なようですが(吉井、p69以下)、少なくとも尊氏は同国の国司でも守護でもなさそうです。
とすれば、「信濃国小泉庄内室賀郷地頭職」を安保光泰に与えた尊氏の行為は、いったいどのような資格、どのような権限に基づいているのか。
ところで、元弘三年十二月二十九日(小の月なので大晦日)は足利直義が成良親王とともに鎌倉に到着した日でもあります。
この点、桃崎有一郎氏は「建武政権論」(『岩波講座日本歴史第7巻 中世2』、2014)において、

-------
直義が鎌倉に入った一二月二九日は建久元年(一一九〇)に上洛した源頼朝の鎌倉帰着日と同じである。その上洛は頼朝と後白河院が相互の政権を尊重する理想的君臣関係・平時体制を宣言した外交劇であり、帰着翌日の建久二年元日には、幕府構成員の紐帯を確認する最重要儀礼というべき垸飯儀礼(豪奢な食膳と進物献呈)を整備催行して幕府の再始動が宣言された。直義はこれを再演し、(後醍醐の思惑に反して)地方武家政権の発足を表明したのだろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/99da6cfdc6137a7819a7db87f66b3e69

などと主張され、元弘三年十二月二十九日の重要性を強調されます。
まあ、私は桃崎説にあまり賛成はできないのですが、ただ、建武政権における直義の地位に大きな変化をもたらした画期であることは確かです。
とすると、直義が鎌倉に下った時点で、尊氏にも何か新たな資格・権限が与えられ、その権限が信濃国にも及んでいたと考えるべきなのか。
仮にそうだとしても、安保光泰宛袖判下文が「南北朝時代に本格化する尊氏袖判下文のはしりのような形で、元弘三年末にポツンと一点だけ残ってい」て、以後は建武二年七月二十日まで尊氏袖判下文が発給されていないのは何故なのか。
謎は深まるばかりです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緩募(ゆるぼ)の補遺(その1)

2021-09-08 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 8日(水)09時43分6秒

鈴木由美氏『中先代の乱』(中公新書、2021)の「関係略年表」を見ると、北条時行の軍勢は七月十四日・十五日に信濃で小笠原貞宗と合戦しており、十八日に上野に入って、その後、久米川・女影原・小手指原・井出沢と合戦が続き、二十四日に鎌倉に入ります。
当時、鎌倉から京都への連絡に要した時間は最短で三日ですが、緊急事態への対応に忙殺されていたはずの直義が次々と変化する軍事情勢をいちいち尊氏に連絡しているとも思えず、まあ、尊氏は五日くらい遅れて関東の最新情報を知るような感じだったのかなと想像してみると、葦谷六郎義顕宛尊氏袖判下文が発給された七月二十日の時点では、尊氏が知っているのは信濃の反乱が結構な重大事態に発展する可能性もありそうだ、程度のことかと思います。
そうすると、直義が主導した「鎌倉将軍府」は北畠顕家の「陸奥将軍府」に較べて権限が弱く、中先代の乱でそうした「鎌倉将軍府」の欠陥が露呈したので、尊氏は東下に際して「諸国の惣追捕使」としての権限を要求した、という私の一応の見通しからすると、七月二十日は何とも早過ぎる感じがします。
また、対象が越後国というのも微妙な話で、越後国は元々新田一族が盤踞していた土地である上、建武新政で新田義貞が国司に任ぜられ、相当強固な支配を行なっていたようですから、七月二十日付尊氏袖判下文は新田一族との関係で紛争の火種となりそうな感じもします。
正直、この文書が偽文書だったらあれこれ考えずに済むな、などと不謹慎なことを思わないでもないのですが、森茂暁氏によれば、近接する時期に同筆の袖判下文が二通あるのだそうです。
前回投稿で引用した部分の続きです。(p86以下)

-------
 ここで一つ興味深いことに気づく。同筆で二通の、同時期の袖判下文の存在である。右に新出の建武二年七月二〇日足利尊氏袖判下文を掲出したが、これと文書形式や内容が同じで、かつ日付も極めて近い建武二年八月日足利尊氏袖判下文が「東京大学白川文書」に収まっている。この文書は『白河市史 五』(福島県白河市、一九九一年三月、一二〇頁)に写真版とともに翻刻されている(同書での文書名は「足利尊氏下文)。以下に示そう。

     (花押〔足利尊氏〕)
  下
    可領知蒲田五郎太郎 陸奥国石川庄内本知行分事、
   右人、為勲功之賞、可令領掌之状如件、
     建武二年八月 日             (「東京大学白川文書」)

 これをみると、まず袖の位置に尊氏の花押が据えられ、次行の頭に「下」と書かれた通常の形式であり、内容は「蒲田五郎太郎陸奥国石川庄内本知行分」を勲功の賞としてあてがうというものである。注目すべきは、ふつう「下」字の下には恩賞地の被給与者の名前がくるのにそれがないこと、所領の給付という恒久的な内容の文書の日付が「建武二年八月 日」となっており、その発給日が確定していないことである。これはおそらくこの袖判下文が作成途中であったことによるのではないかと考えたい。尊氏は、こうしたヒナ型というべき文書に被給与者の名前と日にちとを書き入れて下付したのであろう。
 右掲の文書でいまひとつ注目すべきは、その筆跡と前述の建武二年七月二〇日尊氏袖判下文のそれとが酷似していることである。おそらく同一の右筆が書いたものであろう。この筆跡はほかにも認められる(例えば東京大学史料編纂所所蔵、建武二年九月二七日足利尊氏袖判下文、小松茂美『足利尊氏文書の研究Ⅱ』四四号など)。
-------

森氏は「同筆で二通の、同時期の袖判下文の存在である」と書かれているので、「東京大学白川文書」に続いて別の文書の紹介があってもよさそうですが、それはありません。
ちょっと事情が分かりませんが、七月二〇日付の袖判下文と併せて二通ということでしょうか。
また、森氏は「これはおそらくこの袖判下文が作成途中であったことによるのではないかと考えたい」とされますが、そんな中途半端な文書が何故に白河文書に残っているのかも不思議ですね。
権利者も発給日も確定していない文書を誰かに渡した状況と、その際の尊氏の意図は何だったのか。
ま、それはともかく、近接した時期に同筆の文書があるとのことなので、七月二〇日付袖判下文は偽文書ではないのでしょうね。
なお、上記引用部分に続いて、下記投稿で引用した部分となります。

「この日〔建武二年九月二七日〕は尊氏にとって生涯の一大転機となった」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75ee41e60e2cb7392de0e4c94f2a0820
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緩募(ゆるぼ):建武二年七月廿日付、葦谷六郎義顕宛尊氏袖判下文について

2021-09-07 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 7日(火)21時12分11秒

私は後醍醐と尊氏の関係をあれこれ考えて一応の仮説を立て、自分ではその仮説は当時の各種史料と矛盾していないように感じているのですが、ただ、ちょっと引っかかる古文書があります。
それは森茂暁氏が『足利尊氏』(角川選書、2017)で紹介されている建武二年七月廿日付、葦谷六郎義顕宛の尊氏袖判下文です。
この古文書について、森著以外で何らかの言及をしている文献をご存じの方はご教示願いたく。
当該古文書と森氏の説明は次の通りです。(p85以下)

-------
足利尊氏袖判下文
 もっとも注目されるのは袖判下文である。これが以降の尊氏の政権樹立に直接的につながるのであるが、その最初は、建武二年七月二〇日尊氏が袖判下文でもって配下の武士に勲功の賞としての所領をあてがった事例である。元弘三年一二月二九日以来封印してきた発給をここに再開したのである。文書の具体的な内容は、尊氏が越後国の武士と思われる葦谷義顕に対して勲功の賞として越後国上田庄秋丸村を与えるというもの(『思文閣古書資料目録』233,二〇一三年七月)。これまで知られていなかった新出の史料である。以下に示そう。

       (花押〔足利尊氏〕)
  下  葦谷六郎義顕
    可令早領知越後国上田庄内秋丸村事、
  右以人、勲功之賞、所宛行也、早守先例可領掌之状如件、
    建武二年七月廿日

 建武政権の最高権力者は後醍醐天皇であって、軍功として所領をあてがう権限は天皇に属していたので、勲功賞としての恩賞地給付は当初よりもっぱら後醍醐天皇が綸旨でもってこれを行なっていた。他方、いかに権勢が大きかろうと尊氏は建武政権の構成員である限りこうしたことを行なうことはできなかった。尊氏はこうした行為を意識的に封印していたのである。それが建武二年七月二〇日になって出現しているからには、この間に何かの異変があったに相違ない。一体それは何だったか。筆者はその契機となったのは、この年七月に生起したいわゆる中先代の乱だと考えている。中先代の乱とは、簡単にいえば、鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児時行が中心となって幕府再興を企て鎌倉を短期間占拠した関東での争乱である。右の袖判下文はそうした軍事状況の中で考えるべきであろう。
-------

ちなみに私は、中先代の乱に対処するために東下するにあたって、尊氏は「諸国の惣追捕使」としての権限を要求し、後醍醐は「東国」という限定を付した上で当該権限(具体的には守護補任と恩賞給付)を認め、後にそれを撤回したと考えています。
そして、この七月二十日付文書は、尊氏の要求と後醍醐の部分的承認が七月二十日以前だったとすれば私見と矛盾する訳ではありません。
ただ、七月二十日頃は北条時行側と直義側が激戦の真っ最中で、京都にいた尊氏には東国の情報が頻繁に入って来てはいたでしょうが、中先代の乱の帰趨は全く不明な時期です。(時行の鎌倉入りは二十四日)
とすると、やはり何とも早すぎるような印象は否めず、どのように考えるべきか、いささか苦慮しているところです。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『梅松論』の偏見について

2021-09-06 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 6日(月)11時00分54秒

後醍醐が中先代の乱鎮圧の勲功賞として尊氏を従二位に叙したのが建武二年(1335)八月三〇日(『公卿補任』)、直義が新田義貞討伐の軍勢催促状を大量に発給したのが同年十一月二日ですから、尊氏の心情はともかく、客観的には後醍醐と尊氏の関係が破綻するまで僅か二ヶ月しか経っていません。
この激変の期間を描く三つの史料の事実認識はそれぞれ少しずつ違っていて、『太平記』史観の歪み、『神皇正統記』史観の偏見、『梅松論』史観の色眼鏡を通してしかこの時期の全体像を描けない我々は、まるで芥川龍之介の『藪の中』のような状況に置かれています。
ただ、面白い作り話に溢れている『太平記』の歪みと武家を蔑視する『神皇正統記』の貴族的偏見は分かりやすいのに対し、『梅松論』の色眼鏡は意外に分かりにくく、多くの研究者が殆ど自覚のないまま『梅松論』を過度に信頼しているように思われます。
『梅松論』の作者を「一人の歴史家」とする佐藤進一氏はその典型ですね。

「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a70d5946e4e7f439c188d24dea7eb54

しかし、実際に『梅松論』を読んでみれば明らかなように、『梅松論』の著者は後嵯峨院が寛元四年(1246)、四歳の後深草天皇に譲位して院政を始めた直後に死去したとするなど、公家社会には全く無知な人で、大覚寺統寄りの公家のプロパガンダに弱く、およそ「歴史家」といえるようなレベルの知識人ではありません。
現代であれば、せいぜい暴力団抗争のルポルタージュが得意な週刊誌の記者レベルですね。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7

そして、一般に足利家寄りと言われている『梅松論』の立場は、正確には直義寄りと呼ぶべきであって、公武一統など所詮無理が多く、建武の新政はもともと短期間に終わる運命だったのだ、というのが『梅松論』の作者の基本的な歴史認識の歪みであり、偏見であり、色眼鏡です。
そこで、この激変の二ヶ月間に位置する『梅松論』の中院具光の記事を読むに際しては、狡猾な後醍醐にだまされて京都に戻ろうとした軽率な兄・尊氏を賢明な弟・直義が諫止した、という『梅松論』史観を排して、他の客観的史料を参照しつつ、慎重に事実関係を見極めて行く必要があります。
ここで積極的に利用できそうに思われるのが、今まで殆ど歴史研究者に活用されることのなかった井上宗雄氏を中心とする国文学界の歌壇史研究ですね。
井上氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』(明治書院)の初版が出たのは佐藤進一氏の『南北朝の動乱』と同じ1965年ですが、その研究水準の高さは驚くべきものです。

四月初めの中間整理(その17)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/820cb98acf5bb167764960c01329934b
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その13)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e5e689d008c3e6a59f3bbcd457b0b45

この時期の歌壇史研究が貴重なのは、歌壇史は政治史の影響は受けつつも相対的に独立しているので、『神皇正統記』史観、『梅松論』史観、『太平記』史観の歪みの影響が少なく、その客観性が高い点にあります。
さて、井上氏の研究を参照しつつ、私は中院具光の鎌倉下向は九月上旬ではないかと推測しましたが、この一応の結論は今でも維持できると思っています。

『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/98f75d77eb2d51b956fd26d01a2d47a8

ただ、前回検討した際は「東八ヶ国の管領」(『太平記』)、「諸国の惣追捕使」「征東将軍」(『神皇正統記』)の問題は念頭になく、単純に中院具光を通して後醍醐の「帰京命令」が尊氏に伝達されたのだろうと考えていたのですが、この点は再考する必要が生じました。
現在の私は、後醍醐の伝達内容は「帰京命令」というほど居丈高なものではなかったのではないか、と考えているのですが、その内容は次の投稿で書きます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中院具光の鎌倉下向時期

2021-09-05 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 5日(日)11時36分53秒

私の考え方を整理しておくと、私は成良親王が建武元年(1334)二月五日に征夷大将軍に就任したのではないかと考えていて、この私見は『神皇正統記』の記述に適合的であり、前年十二月の鎌倉下向時に既に征夷大将軍だったとする『梅松論』・『太平記』の記述とも概ね整合的です。
つまり、将軍が存在しないにもかかわらず、研究者の間では「鎌倉将軍府」と呼ばれていた組織は文字通りの「鎌倉将軍府」だった、というのが私の考え方です。

四月初めの中間整理(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d242a4ee17a501ea5162bc48f52180c
「"鎌倉将軍府"と呼ぶ専門家が結構いるが、それはさすがにまずい」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ea248014a2858bfa1018cd6ee6c824e

従って、私の立場からすれば、『神皇正統記』に記された東下時の尊氏の二つの要求のうち、尊氏は征夷大将軍を求める必要は全くありません。
しかし、中先代の乱という緊急事態に対処するために、尊氏は「諸国の惣追捕使」としての権限、具体的には守護補任と恩賞付与の権限は必要とし、それを要求したが、後醍醐は尊氏の要求の一応の合理性は認めつつも、「諸国の惣追捕使」ではあまりに広範すぎるとして、東国に限定する趣旨で「征東将軍としての権限」を認めた、と考えます。
ただ、皮肉なことに尊氏の進軍があまりに迅速で、あまりにあっさりと時行に勝利したために、後醍醐には尊氏に「征東将軍としての権限」を与えたことが軽率だったのではないか、という後悔の念が生まれたのではないかと私は推測します。
『太平記』には、

-------
 この両条は天下治乱の端なれば、君もよくよく御思案あるべかりけるを、申し請くる旨に任せて、左右なく勅許あつて、「征夷将軍の事は、関東静謐の忠に依るべし。東八ヶ国管領の事は、先づ子細あるべからず」とて、則ち綸旨をぞなされける。これのみならず、忝なくも天子の御諱の字を下されて、高氏と名乗られける高の字を改めて、尊の字にぞなされける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fd1116047e33b2545c9b6155eab52b8

という記述があり、これは事実の記録としては明らかに不正確ですが、「君もよくよく御思案あるべかりけるを、申し請くる旨に任せて、左右なく勅許あつて」という表現は後醍醐の後悔を示唆しているように思われます。
さて、『梅松論』には「勅使中院蔵人頭中将具光」が「今度東国の逆浪を速やかに静謐すること叡感再三なり。但軍兵の賞においては京都において綸旨を以て宛行ふべきなり。先づ早々帰洛あるべし」と伝えたとあります。
そもそも中院具光が勅使として鎌倉に派遣されたこと自体、『神皇正統記』にも『太平記』にも存在しない『梅松論』独自の記事なのですが、さすがに私も勅使派遣自体を疑う訳ではありません。
この時期、中院具光は後醍醐の右筆として多数の綸旨を執筆しており、後醍醐にとって具光は尊氏相手の難しい折衝を任せることができる有能な側近だったはずです。
しかし、「先づ早々帰洛あるべし」との記述から文字通りの帰京命令があったと考えるべきかについては私は懐疑的です。
この点、前提として検討すべき事項がいくつかありますが、まず、問題となるのは中院具光の鎌倉下向時期です。
尊氏は九月二十七日に恩賞付与の袖判下文を大量に発給していますが、これは中院具光の鎌倉下向の前なのか、それとも後なのか。
仮に前者だとすれば、尊氏の恩賞付与を知って、これを阻止せねばと思った後醍醐が中院具光を鎌倉に送り込んだことになりそうですが、前回投稿で引用したように、佐藤進一氏は「尊氏が自分の手で武士に恩賞を与えているという報告に、尊氏離反の徴候を認めたからである」と書かれていますから(『南北朝の動乱』、p112)、おそらくこの立場ですね。
この立場からは、中院具光は十月に下向したと考えるのが自然です。
『大日本史料 第六編之二』にも中院具光の下向記事が十月十五日条に出ていますね。
他方、森茂暁氏は、

-------
封印されていた尊氏の袖判下文発給は、右述のように限定的ではあるが一旦再開され、まもなく全面的に解禁されることになる。それは建武二年九月二七日のことであった。時期的にみると、さきの勅使による禁止通達の直後であろう。この日は尊氏にとって生涯の一大転機となった。勲功の武士に対して恩賞地を給付する袖判下文がこの日付で全九点も残存している(「倉持文書」「佐々木文書」等)。尊氏にとっては、のちの後醍醐による官位の剥奪(建武二年一一月二六日)を待つまでもなく、この日が後醍醐との実質的な決別のときであったとみてよい。おそらく尊氏は中先代の乱で力戦した軍功の武士たちの要求の声に押されて、彼らに対する恩賞給付を行ったのであろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75ee41e60e2cb7392de0e4c94f2a0820

とされています。
森説によれば、尊氏は「勅使による禁止通達」を正面から無視して恩賞給付を断行したことになるので、九月二十七日は「尊氏にとって生涯の一大転機」であり、「後醍醐との実質的な決別のとき」となる訳ですね。
では、どちらが正しいのか。
この点、国文学者の井上宗雄氏は「建武二年内裏千首」に尊氏が歌を寄せていることから、中院具光の派遣を「建武二年内裏千首」に関係するものと考えられて、『大日本史料 第六編之二』を参照された上で、それは十月中旬だろうと推定されています。
ただ、『大日本史料 第六編之二』の考証と記述の仕方に相当問題があり、私は中院具光の派遣は九月初めだろうと考えています。

『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/922a40e05ad18c71fbe1ac76dde7f549
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/98f75d77eb2d51b956fd26d01a2d47a8
四月初めの中間整理(その17)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/820cb98acf5bb167764960c01329934b
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「高氏は…征夷大将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず」(by 北畠親房氏)

2021-09-04 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 4日(土)15時58分53秒

桃崎有一郎氏の「建武政権論」を検討した際、この時期の歴史の大きな流れを描く三つの史料のうち、歴史研究者は『神皇正統記』・『梅松論』・『太平記』の順で信頼性が高いとする傾向があると書きました。

「富樫高家に加賀国守護職を与えた事実は天皇固有の守護任命権に対する明白な侵犯」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb38fc71a10e139957300e67b1c54746

ただ、よく考えてみると、『神皇正統記』・『梅松論』の信頼性はほぼ同等と評価され、話題によってどちらを信頼するかが決められるのに対し、『太平記』は他の二つに関係記事がない場合に仕方なく参照する一段下のレベルの史料、と見るのが正確かもしれません。
いずれにせよ、史料の利用という点では、成良親王の征夷大将軍就任時期を建武二年(1335)八月一日とする田中義成以来の定説はかなり特殊ですね。
確実な一次史料に照らして『神皇正統記』・『梅松論』・『太平記』の全ての記述に反する事実を認定するならともかく、『相顕抄』のような信頼性に乏しい二次史料だけに依拠して八月一日が正しいとするのはどうにも不思議です。

『相顕抄』を読んでみた。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20125f93d50a0dec649a98e7c2385e70
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62733682bbcdad95749abf9ad6000666

さて、佐藤進一氏は東下時の尊氏の行動については『梅松論』でも『太平記』でもなく、「高氏は…征夷大将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず」という『神皇正統記』の記述を信頼されていますが、「悉くはゆるされず」という文言からすると、尊氏の希望を全部は満たさずとも、「征東将軍」として何らかの権限が付与された、と読むのが自然ではないかと私は考えます。
しかし、佐藤氏は尊氏の出立時に「後醍醐は尊氏のいっさいの要請をしりぞけた。そればかりでなく、尊氏の望む征夷大将軍を成良に与えた」(p110)とし、次いで「後醍醐は改めて尊氏に征東将軍の号を授けた」(同)とされるので、後醍醐は尊氏に「官軍」としての正当性を付与しただけで実権は全く与えなかった、との立場ですね。
そして、尊氏が時行軍を破った後に関しては、

-------
 後醍醐は、鎌倉奪回の報を得ると、さっそく尊氏の位を従二位に上せて、勲功を賞し、やがて勅使を送って、「争乱静謐に帰したうえは、すみやかに上洛せよ。武士の恩賞は、天皇みずから綸旨をもっておこなう」と伝えさせた。尊氏が自分の手で武士に恩賞を与えているという報告に、尊氏離反の徴候を認めたからである。
 このとき、尊氏は勅命に従おうとしたが、弟直義が、
「後醍醐および義貞の陰謀の手をのがれて、武運強く関東に下ることができたのに、ふたたび大敵の中に身を挺する法はない」
と、これをとめた。尊氏派、十月十五日、鎌倉若宮小路の旧鎌倉将軍邸址に新第を造って、二階堂の仮住まいから、ここに移った。これで、天皇の帰京命令に行動をもって答えた形になった。
-------

とされます。(p112)
尊氏が何の権限も与えられていないのに勝手に恩賞を与えているので、後醍醐は勅使を送って帰京を命ずるとともに、「武士の恩賞は、天皇みずから綸旨をもっておこなう」旨を伝えさせた、ということですが、これはもともと尊氏には恩賞付与の権限が全くない、という事実を確認的に通知した、という立場ですね。
ただ、この勅使の帰京命令云々は『神皇正統記』にも『太平記』にも存在せず、『梅松論』のみに描かれたエピソードです。
『梅松論』には、

-------
 去程に将軍御兄弟鎌倉に打入り、二階堂の別当に御座ありしかば、京都より供奉の輩は勲功の賞に預かることを悦び、また先代与力の輩は死罪・流刑を宥められしほどに、先非を悔いていかにも忠節を致さむ事を思はぬ者こそなかりけれ。
 京都よりは人々、親類を使者として東夷誅罰を各々賀し申さる。また、勅使中院蔵人頭中将具光朝臣関東に下着し、「今度東国の逆浪を速やかに静謐すること叡感再三なり。但軍兵の賞においては京都において綸旨を以て宛行ふべきなり。先づ早々帰洛あるべし」となり。
 勅答には大御所「急ぎ参るべきよし」御申しありける所に、下御所仰せられけるは、
「御上洛然るべからず候。その故は相摸守高時滅亡して天下一統になる事は、併せて御武威によれり。しかれば頻年京都に御座ありし時、公家并びに義貞隠謀度々に及といへども、御運によつて今に安全なり。たまたま大敵の中を逃れて関東に御座然る可き」旨を以て、堅諌め御申有けるのよつて、御上洛を止められて、若宮小路の代々将軍家の旧跡に御所を造られしかば、師直以下の諸大名屋形、軒を並べける程に、鎌倉の躰を誠に目出度ぞ覚えし。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

とあって、佐藤氏の叙述はほぼ『梅松論』の丸写しですね。
従来、中院具光を通じて尊氏に帰京命令が出され、尊氏はこれに従おうとしたが直義に止められた、という話を研究者は誰も疑っていませんが、私はちょっと疑問を感じています。
というのは、『梅松論』は一般に足利寄りの史書とされますが、正確には直義寄りの史書と考えるべきであって、愚かにも後醍醐にだまされようとしている尊氏を賢弟・直義が諫止した、というこの直義讃美のエピソードは『梅松論』の創作の可能性があるからです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする