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慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その9)─「13.荒三郎の報告と渡河方法の指導 9行」

2023-10-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
武田信光・小笠原長清の密談エピソードを引用する際、当該エピソードを史実と考えるか否かについて特段の留保をつけない歴史研究者は「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(仮称)に入れたいと思います。
国文学者ではありますが、大津雄一氏(早稲田大学教授)のような言及の仕方は交名入りの資格がありますね。

「武田の本音を見透かしたように甘言で誘う時房もまたしたたかである」(by 大津雄一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/28b4e0e9fbdd8014e7cffa6f5bea75c2

ここで、

「3.藤原秀康の第一次軍勢手分 21行」
「4.藤原秀澄の第二次軍勢手分 8行」
「5.北条時房による小野盛綱配下・玄蕃太郎追討 25行」
「6.山田重忠の鎌倉攻撃案 13行(☆)」
「7.山田重忠による鎌倉方斥候の捕縛 21行(☆)」
「8.北条時房による軍勢手分 4行」
「9.武田信光と小笠原長清の密談 4行」
「10.北条時房の手紙と武田・小笠原の渡河開始 3行」

という今までの一連のストーリーの流れを振り返ってみると、山田重忠の鎌倉攻撃案(6)が成立するためには、藤原秀澄に当該案の是非を判断できる資格・権限が存在しなければならず、遡って藤原秀康の第一次軍勢手分(3)と藤原秀澄の第二次軍勢手分(4)を書いておく必要があります。
また、北条時房の「御文」(10)が帰趨を決めかねている武田・小笠原(9)を動かすためには、時房に武田・小笠原を指揮する権限がなければならず、遡って北条時房による軍勢手分(8)を書いておく必要があります。
いずれも慈光寺本作者の創作(6と10)をリアルに見せるために、京方と鎌倉方の軍の構成・指揮官の権限という根幹部分を不自然に改変しており、作者の思考パターンに共通性が窺われますね。
そして、鎌倉方内部に亀裂があれば山田重忠の鎌倉攻撃案のリアルさ、実現可能性も増加しますから、結局のところ、武田・小笠原の密談ストーリーも山田重忠の鎌倉攻撃案の素晴らしさを強調するための補強材料のように思われます。
さて、

「11.市川新五郎と京方・薩摩左衛門の言葉戦い 8行」
「12.荒三郎の瀬踏み、高桑殿射殺 10行」
「13.荒三郎の報告と渡河方法の指導 9行」

の合計27行は一連のエピソードなので、その信頼性も全体として考える必要がありますが、この問題は以前、慈光寺本と流布本の記事を比較しつつ少し検討したことがあります。

慈光寺本の「大炊の渡」場面と流布本の「河合・大井戸」場面との比較(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fca7898aa7f53ad0b6bca08138f1f81b

流布本では武田が小笠原を出し抜いて渡河し、慌てた小笠原が続いて渡河するという順番となっていますが、慈光寺本では小笠原側に渡河のノウハウがなく、武田方の「荒三郎」という十九歳の若武者が小笠原側の武士にも渡河方法を指導します。
この「荒三郎」ストーリーは波瀾万丈で面白いのですが、しかし、現代のウクライナ戦争を見ても明らかなように、いつどこでどのように渡河するかは戦略・戦術の基本であり、小笠原軍に独自のノウハウがなく、武田軍に教えてもらったというのはどうにも不自然ですね。

錦昭江氏「京方武士群像」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1815323806f37721d7934d3a0df79f6

従って私は、11・12・13いずれも「D」(ストーリーの骨格自体が疑わしく、信頼性は極めて低い)と判断します。
なお、慈光寺本では流布本のように武田・小笠原が熾烈なライバルとして扱われず、妙にベタベタと協調的に描かれているので、「荒三郎」ストーリーは武田・小笠原の密談ストーリーの補強材料として考案されたように思われます。
武田・小笠原の密談ストーリーが山田重忠の鎌倉攻撃案の素晴らしさを強調するための第一次補強材料であり、更に「荒三郎」ストーリーが武田・小笠原の密談ストーリーのリアルさを強調するための第二次補強材料という関係ですね。
コメント
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慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その8)─「9.武田信光と小笠原長清の密談 4行」

2023-10-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「8.北条時房による軍勢手分 4行」と「9.武田信光と小笠原長清の密談 4行」に続いて、「10.北条時房の手紙と武田・小笠原の渡河開始」の場面となります。
これは、

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 去程ニ、相模守ハ御文カキ、「武田・小笠原殿。大井戸・河合渡賜〔わたしたま〕ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」ト書テ、飛脚ヲゾ付給フ。彼両人是ヲ見テ、「サラバ渡セ」トテ、武田ハ河合ヲ渡シ、小笠原ハ大井戸ヲ渡シケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe9038ee3aa25c707e10727fda788908

というものですが、「美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」とはどういう意味なのか。
野口実氏は「序論 承久の乱の概要と評価」(『承久の乱の構造と展開』所収、戎光祥出版、2019、初出は2009)において、

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 そうこうしているうちに、時房の軍は尾張国の熱田宮から一宮に至り、ここで軍議を開いた。一方、東山道軍も美濃国大井庄(大垣市)に到着したが、現地の状況は決して幕府側に有利ではなかったようで、武田・小笠原の二人の大将軍すら、「弓矢取る身の習い」として、合戦の帰趨次第では敵方に寝返るつもりになったという。
 東海道軍の時房は、そうした状況をよく察しており、武田・小笠原に大井戸・河合の渡河に成功したならば、恩賞として六ヵ国の守護職を申請するという書状を届けたので、両者はようやく作戦に従ったという。六月六日のことである。【後略】
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とされていて(p16)、「六ヵ国の守護職を申請する」と合理的な解釈をされますが、慈光寺本では「六箇国ヲ奉ラン」と確約しており、幕府(義時?)に「申請」はするけど結果はどうなるか分かりません、というような曖昧な書き方ではありません。
なお、「美濃国大井庄(大垣市)に到着した」は慈光寺本の「美濃国東大寺ニコソ著ニケレ」に対応していますが、「東大寺」が大井庄のことであれば、大井戸(美濃加茂市)からは西方に四十キロメートルほど離れており、些かシュールな展開となりますね。

「一方、東山道軍も美濃国大井庄(大垣市)に到着したが」(by 野口実氏)

ま、それはともかく、そもそも「東海道大将軍」の一人である北条時房(『吾妻鏡』承久三年五月二十五日条、他は泰時・時氏・足利義氏・三浦義村・千葉胤綱)が何故に「東山道大将軍」である武田信光・小笠原長清(他は小山朝長・結城朝光)に大井戸・河合を渡河するように指示ないし依頼し、従ったら「美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」などと恩賞を約束することができるのか。
私には全く理解できませんが、ただ、慈光寺本においては「8.北条時房による軍勢手分 4行」・「9.武田信光と小笠原長清の密談 4行」・「10.北条時房の手紙と武田・小笠原の渡河開始」は一体となっていて、時房が武田・小笠原を指揮する権限を持ち、併せて恩賞賦与の権限も持つことが自明の前提となっていますね。
従って、私の評価は「9.武田信光と小笠原長清の密談 4行」と「10.北条時房の手紙と武田・小笠原の渡河開始」も「D」(ストーリーの骨格自体が疑わしく、信頼性は極めて低い)となります。
ところで、この武田信光・小笠原長清の密談エピソードは多数の歴史研究者が好んで取り上げており、最近では佐藤雄基氏(立教大学教授)が『御成敗式目 鎌倉武士の法と生活』(中公新書、2023)において次のように書かれています。(p30以下)

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 一二二一年(承久三年)、後鳥羽院は幕府の内紛を見越して、北条義時追討の命令を武士たちに出した。だが、幕府は即座に大軍を京都に向かわせ、短期決戦で後鳥羽方に勝利した。いわゆる承久の乱である。このときどうして幕府が勝利できたのかは大きな謎であるが、頼朝の時代以来、一大事とあらば東国中から鎌倉に武士たちが「いざ鎌倉」と集まるような軍事動員のシステムがあり、それを活用して大軍を動員できたこと、先手必勝で京都に進軍したため、勝ち馬に乗ろうとする武士たちを集めることができたことなどが大きいのだろう。
 乱後まもなく成立したとされる慈光寺本『承久記』という軍記は、東山道方面軍の大将だった甲斐の武田信光が、幕府軍として京都に向かってはいるものの「鎌倉が勝てば鎌倉に付こう。京方が勝てば京方に付こう。それが弓箭を取る身の習いである」と語ったと伝えている。乱後の畿内・西国では、有力な幕府方御家人と結託して、武士に寄付をして、紛争を有利に解決しようという動きが起こり、各地でトラブルが起きていた。治承・寿永の内乱のときと同じく、自らの利害によって動くという武士の心性は残っており、同様のことが繰り返されていたのである。
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うーむ。
果たして佐藤氏は武田信光と小笠原長清の密談エピソード史実と考えておられるのか、それとも「武士の心性」を窺うための一資料として、とある軍記物にはこんな話が載っていますよ、と参照されただけなのか。
佐藤氏は「勝ち馬に乗ろうとする武士たちを集めることができた」は史実と考えておられるようなので、信光・長清も「勝ち馬に乗ろうとする武士」であり、「自らの利害によって動く」人間だと考えておられるのか。
「乱後の畿内・西国では、有力な幕府方御家人と結託して、武士に寄付をして、紛争を有利に解決しようという動きが起こり、各地でトラブルが起きていた」は間違いのない史実であり、確かにそのような小さなトラブルでは人間は「自らの利害によって動く」ものでしょうが、承久の乱のような、自分を含め、多数の一族郎党の命をかけた大戦争においても同じなのか。
「東山道方面軍の大将」たる信光・長清も、別に武士としての特別の識見とか信念とか思想とか正義感は持っておらず、どちらかといえば幕府が勝ちそうなので「勝ち馬に乗ろう」と思っていたのか、あるいはそれこそ慈光寺本が描くように、二人とも去就に迷っていたけれども、北条時房が「六箇国ヲ奉ラン」と巨大なニンジンをぶらさげてくれたので、ニンジン大好きな武田馬と小笠原馬は、それっとばかりにゲートを飛び出したのか。
これは信光・長清の密談エピソードが史実かどうかという問題を超えて、佐藤氏の人間観・世界観の問題となりそうですね。
私自身は、ともに応保二年(1162)生まれで、源頼朝の挙兵以来、大武士団の指導者として数々の栄光を誇るとともに、幕府の内部抗争では大変な辛酸も舐め、承久の乱の勃発時にはちょうど還暦を迎えていた信光・長清は、それぞれ相当の識見・信念・思想・正義感を有しており、「東山道方面軍の大将」としての自らの行動に迷いはなかったのではないかと想像しています。

武田信光(1162-1248)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%85%89
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