学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その69)─「私的利益を追求する個の集合体」(by 長村祥知氏)

2023-11-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
源頼朝が東大寺落慶供養のために上洛した時のように、平時であれば事前に参加者やその配属が細かく決められ、勝手な「逸脱行動」があれば「処罰」の対象ともなったでしょうが、承久の乱の勃発は鎌倉にとっては寝耳の水の事態です。
『吾妻鏡』五月二十一日条によれば、

-------
【前略】今日。天下重事等重評議。離住所。向官軍。無左右上洛。如何可有思惟歟之由。有異議之故也。前大膳大夫入道云。上洛定後。依隔日。已又異議出来。令待武蔵国軍勢之条。猶僻案也。於累日時者。雖武蔵国衆漸廻案。定可有変心也。只今夜中。武州雖一身。被揚鞭者。東士悉可如雲之従竜者。京兆殊甘心。但大夫属入道善信為宿老。此程老病危急之間籠居。二品招之示合。善信云。関東安否。此時至極訖。擬廻群議者。凡慮之所覃。而発遣軍兵於京都事。尤遮幾之処。経日数之条。頗可謂懈緩。大将軍一人者先可被進発歟者。京兆云。両議一揆。何非冥助乎。早可進発之由。示付武州。仍武州今夜門出。宿于藤沢左衛門尉清親稲瀬河宅云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とのことで、いったん早急な軍勢派遣が決定したのに、暫くすると消極策が首をもたげてきたので、最長老の大江広元と三善康信が改めて早期進撃を断固主張するといった具合で、基本的な方針すら揺れ動きます。
そして、進撃の決断が下された後も、総大将の泰時ですら、とにかく早く出発しさえすれば後から大勢付いてくるだろう、程度の見込みで、僅か十八騎の手勢で鎌倉を発ったという慌ただしい状況ですから(『吾妻鏡』五月二十二日条)、他の参戦者に対しても、〇〇国の御家人は誰々の指揮の下に入れ、程度のざっくりした指示があっただけで、一切の例外を認めない厳格な配属指示はなかったと考えるのが自然です。
従って、①の安東忠家のケースはもちろん、②の春日貞幸と③の幸島行時のケースも、そもそも「処罰」の対象となる「逸脱行動」などと意識されることはなかったと思われます。
④だけは「司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動」であることは間違いないとしても、これも戦闘意欲の高さの現われであり、平時の形式的な論理には反していても、何が何でも勝つことが最優先の戦時には、およそ「処罰」の対象だなどとは誰も考えなかったでしょうね。
以前、私は、

-------
長村氏は文書の些末な文言だけにこだわり、その背後にある政治過程には驚くほど鈍感です。
基本的な発想が事務方の小役人レベルで、長村氏の論文のおかげで古文書学的な研究は進展したのでしょうが、政治史についてはむしろ後退している感じですね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d387077e9ee7722ff6014ed3c25d5753

などと書いたことがありますが、ここでも長村氏の基本的な発想は事務方の小役人レベルで、戦争の実態から乖離した形式論理に終始しているように思われます。
さて、長村氏は「最古態本」の慈光寺本を偏愛し、流布本を軽視されるので、流布本で泰時が宇治橋での戦闘を止めさせた場面には注目されませんが、ここは長村氏の言われる「所領獲得の論理」の観点からも非常に興味深い箇所ですね。
安東忠家と足利義氏が攻撃中止を呼び掛けても静まらなかった連中を何とか沈静化させた平盛綱の論理は、

-------
「各軍をば仕ては誰より勧賞を取んとて、大将軍の思召様有て静めさせ給ふに、誰誰進んで被懸候ぞ。『註し申せ』とて盛綱奉て候也」

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/524c15c5a95208e8070fb0e28ad7fa13

というもので、「お前たちは誰から勧賞をもらうつもりなのか。勧賞を下さる「大将軍」が攻撃中止を命じておられるのに、誰がそれを無視するのか。しっかり記録せよ、と私は「大将軍」から承っておるぞ」という訳ですから、長村氏の言われる「所領獲得の論理」が、「軍功を挙げんと逸る武士の思考」としてではなく、逆に戦闘行為を止めさせようとする司令官の側の論理として登場しています。
つまり、宇治橋合戦の発端の場面では、参戦者は「所領獲得の論理」以外の「論理」で行動していた訳で、司令官側から、お前たちは「所領獲得の論理」で戦うべきなのに何をやっているのか、冷静になれ、と諭されて、やっと、そういえばそうだった、冷静になろうと反省した訳ですね。
では、この場面で参戦者を突き動かしていたのはいったい如何なる「論理」だったのか。
もしかしたら、それは「論理」と呼ぶのも適切ではない一時的な感情や衝動なのかもしれませんが、それはいったい何なのか。
私は一応の回答を用意してはいますが、「2 司令官の指揮からの逸脱」はもう少し残っていますので、先にそれを見ておくことにします。(p245以下)

-------
 鎌倉方東海道軍・東山道軍が美濃・尾張の合戦に勝利した直後、美濃国野上・垂井で合戦僉議を開いた際に、三浦義村が北陸道軍の上洛以前に兵を京に遣わすべきだと主張し、僉議参加者から異議がでなかったのも(『吾妻鏡』六月七日条)、北陸道軍に軍功を奪われまいとする意思が共有されていたからであろう。
 すなわち、鎌倉方の軍事動員は、上級権力の「動員」に乗じて私的利益を追求する好機と捉えた武士達の、自発的・積極的行動に支えられていたのである。それゆえ、指揮を逸脱した彼らの行動を、鎌倉方の各司令官は否定することができず、京方を攻撃するという方向性の限りにおいて推奨せざるをえなかったのである。
 以上を勘案すれば、承久鎌倉方を単に組織的ということはできない。むしろ私的利益を追求する個の集合体という性格が顕著なのである。
-------

うーむ。
私はあまり賛同できませんが、検討は次の投稿で行います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その68)─全ての「逸脱行動」が「処罰」の対象となるのか。

2023-11-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
幕府軍に死者・負傷者が続出する一方、京方はというと、

-------
 京方より奈良法師、土護覚心・円音二人、橋桁を渡て出来り。人は這々渡橋桁を、是等二人は大長刀を打振て、跳々曲を振舞てぞ来りける。坂東の者共、是を見て、「悪ひ者の振舞哉。相構て射落せ」とて、各是を支て射る。先立たる円音が左の足の大指を、橋桁に被射付、跳りつるも不動。如何可仕共不覚ける所に、続たる覚心、刀を抜て被射付たる指をふつと切捨、肩に掛てぞ引にける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/524c15c5a95208e8070fb0e28ad7fa13

ということで、もちろん京方にも負傷者は出ますが、「奈良法師、土護覚心・円音二人」が、普通の人は這って渡る橋桁を、大長刀を振るって踊るように、曲芸を振舞うようにやって来る様子は、『吾妻鏡』の「官軍頻乗勝」という表現を連想させますね。
この後、

-------
 武蔵守、「此軍の有様を見るに、吃と勝負可有共不見、存旨あり、暫く軍を留めんと思也」と宣ければ、安東兵衛尉橋の爪に走寄、静めけれ共不静。二番に足利武蔵前司、馳寄て被静けれ共不静。三番に平三郎兵衛盛綱、鎧を脱で小具足に太刀計帯て、白母衣を懸、橋の際迄進で、「各軍をば仕ては誰より勧賞を取んとて、大将軍の思召様有て静めさせ給ふに、誰誰進んで被懸候ぞ。『註し申せ』とて盛綱奉て候也」と、慥に申ければ、その時侍所司にてはあり、人に多被見知(ければ)、一二人聞程こそあれ、次第に呼りければ、河端・橋の上、太刀さし矢を弛て静りにけり。
-------

ということで、橋板をはずされた宇治橋で戦っていても埒が明かないと見た泰時は、いったん攻撃の中止を命じます。
しかし、みんな興奮しているので、「安東兵衛尉」(安東忠家)、ついで「足利武蔵前司」(義氏)が攻撃中止を呼び掛けても静まりません。
そこで「平三郎兵衛盛綱」が「白母衣」を懸けて目立つようにした上で、「お前たちは誰から勧賞をもらうつもりなのか。勧賞を下さる「大将軍」が攻撃中止を命じておられるのに、誰がそれを無視するのか。しっかり記録せよ、と私は「大将軍」から承っておるぞ」と叫ぶと、平盛綱は「侍所司」なので多くの人が見知っており、また「勧賞」の響きの効果もあって、最初は一人二人聞く程度だったのが、叫び続けるうちに河端の人も橋の上の人も、太刀を鞘に戻し、矢を弛めて静かになって行ったのだそうです。
『吾妻鏡』では「武州以尾藤左近将監景綱。可止橋上戦之由。加制之間。各退去」とあって、泰時が尾藤景綱に命じて宇治橋での合戦を止めるように言うと皆は直ちに中止した、というあっさりした展開ですが、流布本では、安東忠家・足利義氏が制止しても全然戦闘が止まず、三人目の平盛綱の「勧賞」勧告で何とか収拾できたとのことで、リアルといえばずいぶんリアルな話ですね。
さて、私自身の関心は『吾妻鏡』と流布本の関係にあるので、長々と流布本の紹介をしてしまいましたが、長村論文に戻ると、足利義氏配下の「壮士」は「相待曉天。可遂合戦」と思っていた義氏の「指揮を逸脱」して勝手に合戦を始めてしまったことは間違いありません。
そして、「これらの逸脱行動に対して(義氏が)処罰を下した形跡はない」ようです。
しかし、敵前逃亡や戦闘への不参加などと異なり、戦闘意欲が高すぎて先走ってしまうような行動は、そもそも処罰の対象となるほどの「逸脱行動」なのか。
戦争では戦闘意欲の高さは極めて高く評価されるのであり、戦闘意欲が高すぎるが故の先走りは、それが原因で作戦全体の失敗をもたらしたような場合を除いては、処罰の対象だなどとは誰も考えないのではないか。
長村氏の「逸脱行動」→「処罰」という発想は、戦争の実態から遊離した、あまりに形式的な議論のように思われます。
ということで、④の場合は確かに「逸脱行動」はあったけれども、それはもともと「処罰」の対象となるような性質のものではなかった、というのが私の考え方です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その67)─三浦泰村・足利義氏は泰時の「指揮を逸脱」したのか。

2023-11-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
④について、長村氏が省略されている部分を含めて、『吾妻鏡』六月十三日条には、

-------
【前略】酉刻。毛利入道。駿河前司向淀。手上等。武州陣于栗子山。武蔵前司義氏。駿河次郎泰村不相触武州。向宇治橋辺始合戰。官軍発矢石如雨脚。東士多以中之。籠平等院。及夜半。前武州。以室伏六郎保信。示送于武州陣云。相待曉天。可遂合戦由存之処。壮士等進先登之余。已始矢合戦。被殺戮者太多者。武州乍驚。凌甚雨。向宇治訖。此間又合戦。東士廿四人忽被疵。官軍頻乗勝。武州以尾藤左近将監景綱。可止橋上戦之由。加制之間。各退去。武州休息平等院云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあります。
例によって『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信訳を参照すると、

-------
酉の刻に毛利入道(西阿、季光)・駿河前司(三浦義村)は淀・手上などに向い、武州(北条泰時)は栗子山に陣を構えた。武蔵前司(足利)義氏・駿河次郎(三浦)泰村は泰時に伝えることなく宇治橋の辺りに向い合戦を始めた。官軍が矢を放つことは雨のようで、東国武士は多くがこれに当たり、(退いて)平等院に立て籠もった。夜半になって前武州(義氏)は室伏六郎保信を泰時の陣に送り、伝えて言った。「明け方を待って合戦を行おうと考えていたところ、勇士らが先陣を進むの余りに既に矢軍を始め、殺害された者がたいそう多くおります」。泰時は驚いたものの、激しい雨を凌いで宇治に向った。この間にまた合戦があり、東国武士二十四人がまたたく間に負傷し、官軍は頻りに勝った勢いに乗じた。泰時が尾藤左近将監景綱を遣わして橋上の戦いを止めるよう制止を加えたので、それぞれ退去した。泰時は平等院で休息したという。
-------

となりますが(p116以下)、『吾妻鏡』を読む限り、足利義氏の配下が義氏の指示に反して勝手に合戦を始めてしまったことは確かでも、足利義氏と三浦泰村が北条泰時の明確な指示に反して勝手に合戦を始めてしまったのかははっきりしないですね。
長村氏も「④には、足利義氏自身が待機を意図しながらも配下の者が先登を進んで戦闘を起こしたとあり、それを見た三浦泰村も遅れじと合戦を始めたと考えられ」とされていて、『吾妻鏡』の読解としては正確です。
この点、流布本では三浦泰村が、尾張河合戦ではたいして活躍できなかったことを悔しく思い、宇治河合戦では派手に戦おうと思っていたことが最初に語られます。
そして、

-------
 其後、駿河次郎、雨に余り濡れたりければ、馬より下り、物具脱かへ、腹帯しめ直しなど仕ける所に、徒歩人少々走帰て、「御前に進まれ候つる殿原、はや橋の際へ馳より、御手者名乗て矢合し、軍始て候。某々手負て候」と申ければ、小河太郎、「足利殿に此由を申ばや」と申。駿河次郎、「暫し申な」とて、物具の緒を縮、馬にひたと乗、轡取て行時、「はや申せ」と云捨て、急ぎ駿河次郎、宇治橋近押寄て見ければ、げに軍は真盛りなり。馬より下、橋爪に立て、「桓武天皇より十三代の苗裔、相模国住人、三浦駿河次郎泰村、生年十八歳」と名乗て、甲をば脱で投のけ、差攻引攻射けり。【中略】武蔵前司義氏、馳来り相加てぞ戦ける。駿河次郎手者共、散散に戦ひ、少々は手負てぞ引き退く。日も暮行ば、武蔵前司、平等院に陣をとる。駿河次郎も同陣をぞ取たりける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aad4333b2b8633b4a16d80048069b7b5

とあって、宇治橋近辺で小競り合いが始まったことを聞いて真っ先にかけつけたのは三浦泰村であり、その際に泰村は足利義氏をも出し抜いています。
そして、遅れて義氏も合戦に加わります。
この後、

-------
 甲斐国住人室伏六郎を使者として、武蔵守へ被申けるは、「駿河次郎が手者共、早軍を始て、少々手負候。義氏が若党共、数多手負候。日暮候間、平等院に陣を取候。京方、向の岸に少々舟を浮て候。橋を渡て一定今夜夜討ちにせられぬと覚候。小勢に候へば、御勢を被添候へ」と被申ける。武蔵守、「こは如何に、明日の朝と方々軍の相図を定けるに、定て人々油断すべき、若夜討にせられては口惜かるべし。急ぎ者共向へ」と宣ければ、平三郎兵衛尉盛綱奉て馳参り、相触けれ共、「武蔵守殿打立せ給時こそ」とて、進者こそ無けれ。去共、佐佐木三郎左衛門尉信綱計ぞ、可罷向由申たりける。六月中旬の事なれば、極熱の最中也。大雨の降事、只車軸の如し。鎧・甲に滝を落し、馬も立こらヘず、万人目を被見挙ねば、「我等賎き民として、忝も十善帝王に向進らせ、弓を引、矢を放んとすればこそ、兼て冥加も尽ぬれ」とて、進者こそ無けれ。去共、武蔵守計ぞ少も臆せず、「さらば打立、者共」とて、軈て甲の緒しめ打立給けり。大将軍、加様に進まれければ、残留人はなし。
-------

という展開となり、三浦泰村・足利義氏の行動は泰時が「明日の朝と方々軍の相図を定」めたにもかかわらず、その指示に明確に反する独断専行であったことが分かります。
そして、この間にも合戦があり、

-------
 又、夜中に宇治橋近押寄て見れば、駿河次郎、昨日の軍に薄手負たる若党共、矢合始めて戦けり。武蔵前司手者共、同押寄雖戦、暫し支て引退。二番に相馬五郎兵衛・土肥次郎左衛門尉・苗田兵衛・平兵衛・内田四郎・吉河小次郎、押寄て散々に戦ふ、少々手負て引退。三番に新開兵衛・町野次郎・長沼小四郎、各、「其国住人、某々」と名乗て、橋桁を渡り掻楯の際迄責寄たりけるを、敵数多寄合て、三人三所にてぞ被討ける。四番に梶小次郎・岩崎七郎、押寄て散々に戦て引退。五番に波多野五郎信政、引たる橋の際迄押寄たり。是は、去六日、杭瀬川の合戦に、尻もなき矢にて額を被射たり。左有ればとて、只有べきに非ざれば、進出名乗る。「相模国住人、波多野五郎信政」とて、橋桁を渡し、向より敵の射矢、雨の如なるに、向の岸を見んと振仰のきたる右の眼を、健たかに被射て、河へ已に落とす。橋桁に取付て、心地を静めて、向んとすれば先も不見。帰んとすれば敵に後ろを見せん事口惜かるべしと思ければ、後ろ様にぞしざりける。橋の上へしざり上り、取て返ける所に、郎等則久、つとより、肩に引懸返りける。河端の芝の上に伏て、二人左右より寄て、膝を以押て矢を抜てけり。(眼より)血の出事、鎧に紅を流て、誠に侈敷ぞ見へける。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37c4ef520287abdd9ee698b7a5dc81ee

という具合に、幕府軍には多大な犠牲者が生じます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その66)─幸島行時の華やかな登場と二日後のあっさりした戦死

2023-11-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
③の幸島行時の場合、『吾妻鏡』六月十二日条には、

-------
【前略】今日。相州。武州休息野路辺。幸島四郎行時〔或号下河辺〕相具小山新左衛門尉朝長以下親類上洛之処。運志於武州年尚。於所々令傷死之条。称日者本懐。離一門衆。先立自杜山。馳付野路駅。加武州之陣。于時酒宴砌也。武州見行時。感悦之余閣盃。先請座上。次与彼盃於行時。令太郎時氏引乗馬〔黒〕。剩至于所具之郎従及小舎人童。召幕際。与餉等云々。芳情之儀。観者弥成勇云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあります。
『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信訳を参照すると、

-------
 今日、相州(北条時房)・武州(北条泰時)は野路辺りで休息した。幸島四郎行時〔あるいは下河辺ともいう〕は小山新左衛門尉朝長以下の親類に従って上洛しようとしていたが、長年泰時を慕っており「(一族とは)別の場所で(泰時のために)傷付き死ぬのは日頃の本懐である。」と言って一門の人々から離れ、前もって杜山から野路駅に駆け着けて泰時の陣に加わった。ちょうど酒宴の最中であったが、泰時は行時を見ると喜びの余り盃を置いて上座に招いた後、その盃を行時に与えて太郎(北条)時氏に乗馬〔黒〕を引かせた。そればかりか(行時が)伴っていた郎従や小舎人童に至るまで陣幕のすぐ側に召して食事などを与えたという。(泰時の)思いやりに、見る者はますます勇気を奮い立たせたという。
-------

ということで(p115以下)、幸島行時は本来は小山朝長の許にいたとのことですが、小山朝長は東山道軍の四人の大将軍の一人ですから(『吾妻鑑』五月二十五日条、他は武田信光・小笠原長清・結城朝光)、幸島行時も東山道軍として尾張河合戦を戦い、その後で小山朝長の許を離れて野路(現、滋賀県草津市野路町付近)で泰時に合流したということだろうと思います。
さて、本来所属すべきグループから離れて泰時の許に駆け付けるという幸島行時の登場の仕方は春日貞幸とよく似ていますが、泰時との間に事前の「契約」はなかったようであり、春日貞幸以上に「義時や各司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動」のように見えます。
ただ、泰時は幸島行時の郎従や小舎人童に至るまで陣幕近くで食事を与えたということですから、泰時と幸島行時の間には格別に親密な関係があったようです。
そして、そうした事情は小山朝長にも話したでしょうから、朝長の一応の了解もあったと考えてよさそうです。
そもそも、私には当初の配属命令が絶対に例外を許さない厳格なものだったとは思えず、泰時との特別な関係がある人物で、事後的であっても泰時が配属変更を了解している以上、これもたいした問題ではなかったのではないかと思います。
ところで、これだけ特別な処遇がなされている以上、このエピソードは何かの伏線であろうと思ってしまいますが、春日貞幸が後の場面で大活躍するのに対し、幸島行時は六月十四日条で、

-------
其後。軍兵多水面並轡之処。流急未戦。十之二三死。所謂。関左衛門入道。幸島四郎。伊佐大進太郎。善右衛門太郎。長江四郎。安保刑部丞以下九十六人。従軍八百余騎也。
-------

と死者九十六人の一人として名前が出て来るだけで、華やかな登場の僅か二日後にあっさり死んでしまいます。
この点、流布本では、幸島行時と泰時の関係についての記述は全くない代わりに、

-------
軈て続て渡しける若狭兵部入道・関左衛門尉・小野寺中務丞・佐嶋四郎、四騎打入て渡けるが、若き者共の馬強なるは、河を守らへて能渡す間、子細なし。関左衛門尉入道、身は老者なり、馬は弱し、被押落下り頭に成ければ、聟の佐嶋四郎難見捨思て取て返し、押双て馬の口に付たりけるが、被押入、二目共不見、共に流れて失にけり。是は佐嶋四郎国を立ける時、妻室云けるは、「我親は頼敷き子一人もなし。我に年比情を懸給ふ事誠ならば、此言葉の末を不違して、我父相構ヘて見放し給な」と、軍と聞し日より、打出る朝迄、鎧の袖を扣ヘて云ける事をや思ひ出たりけん、同く流れけるこそ哀なれ。故郷の者共、此事を伝聞て、「左云ざりせば、一度に二人には後れ間敷物を」と、歎けるこそ甲斐なけれ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8aed4432a3f320c381be1790d0f86cb2

とあって、妻から父を頼むと強く言われていた「佐嶋四郎」は舅の関左衛門尉政綱を助けようとして自分も流されて死んでしまった、とのことで、その死の経緯や関係者の後日談までが戦場悲話として詳しく描かれています。
『吾妻鏡』でも「関左衛門入道」の直ぐ後に「幸島四郎」の名前が出てきますから、二人の関係については流布本の記述は一応信頼できそうですね。
両者を読み比べると、元々は『吾妻鏡』の歓迎エピソードと流布本の戦死エピソードが両方揃った形で世間に流布され、「故郷の者共」もそれを「伝聞」いたのではなかろうかと想像してしまいます。
なお、私は「佐嶋四郎」エピソードは流布本の成立が相当早いことを示す一事例ではなかろうかと考えています。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その17)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/721310a854d5dc249800b59bb69b790e
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その65)─北条泰時と春日貞幸の「契約」

2023-11-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
②の春日貞幸について、『吾妻鏡』五月二十六日条には、

-------
【前略】武州者。着于手越駅。春日刑部三郎貞幸信濃国来会于此所。可相具武田。小笠原之旨。雖有其命。称有契約。属武州云々。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とあります。
『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信訳を参照すると、

-------
武州(北条泰時)は手越駅に到着した。春日刑部貞幸が信濃国からここにやって来て合流した。武田・小笠原に合流するよう命令があったが、契約があると言って泰時に従ったという。
-------

とのことで(p109)、春日貞幸は武田・小笠原の東山道軍に属するように命令があったにもかかわらず、手越駅(現、静岡県静岡市駿河区手越付近)で泰時と合流したとのことですから、確かに「義時や各司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動」のようにも見えます。
しかし、そもそも当初の配属命令は、絶対に例外を許さない厳格なものだったのか。
当初の命令の主体は義時ということでしょうが、実際に泰時と春日貞幸との間に事前の「契約」があったならば例外として許容されそうですし、そうでなかったとしても、泰時が了解すれば事後的に「契約」が成立したという扱いとなり、特に問題とされるような話ではないように思われます。
また、泰時と「契約」があると称して移動したのですから、武田・小笠原の一応の了解もあったのではないですかね。
ところで、『吾妻鏡』六月十四日条には、

-------
及夘三刻。兼義。春日刑部三郎貞幸等受命為渡宇治河伏見津瀬馳行。佐々木四郎右衛門尉信綱。中山次郎重継。安東兵衛尉忠家等。従于兼義之後。副河俣下行。信綱。貞幸云。爰歟瀬々々々者。兼義遂不能返答。経数町之後揚鞭。信綱。重継。貞幸。忠家同渡。官軍見之。同時発矢。兼義。貞幸乗馬。於河中各中矢漂水。貞幸沈水底。已欲終命。心中祈念諏方明神。取腰刀切甲之上帯小具足。良久而僅浮出浅瀬。為水練郎従等被救訖。武州見之。手自加数箇所灸之間。住正念。所相従之子息郎従等。以上十七人没水。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあって、これも今野慶信訳を参照すると、

-------
卯の三刻になって、兼義・春日刑部三郎貞幸らは(泰時の)命を受けて宇治河を渡るために伏見津の瀬に急行した。佐々木四郎右衛門尉信綱・中山次郎重継・安藤兵衛尉忠家らは兼義の後に従い、河俣に沿って下って行った。信綱・貞幸が言った。「ここが浅瀬か。ここが浅瀬か」。兼義はとうとう返答もせず、数町を経た後に鞭を揚げ(て渡り)、信綱・重継・貞幸・忠家も同じく渡った。官軍はこれを見ると同時に矢を放った。兼義・貞幸の乗った馬が河の中でそれぞれ矢に当たり、水に漂った。貞幸は水底に沈み、危うく死ぬところであったが、心の中で諏訪明神を祈り、腰刀を取って鎧の上帯と小具足を切ると、しばらくしてやっと浅瀬に浮かび出て、泳ぎが達者な郎従らによって救われた。泰時はこれを見て自分の手で数箇所に灸を加えたので、(貞幸は)意識を取り戻した。(貞幸に)従っていた子息・郎従以下十七人は水に溺れた。
-------

とのことで(p117)、春日貞幸は宇治河先陣争いに加わって死にかけるも泰時の灸治で息を吹き返したのだそうです。
そして、更に

-------
武州進駕擬越河。貞幸雖取騎之轡。更無所于拘留。貞幸謀云。着甲冑渡之者。大略莫不没死。早可令解御甲給者。下立田畝。解甲之処。引隠其乗馬之間。不意留訖。
-------

とのことで、貞幸は泰時の無謀な渡河を阻止するという重要な役割を果たしており、『吾妻鏡』の中ではなかなかドラマチックな人物として造型されていますね。
五月二十六日条は、こうした泰時と春日貞幸の劇的な場面の伏線となっているともいえそうです。
なお、流布本でも、

-------
 武蔵守、「あたら侍共を失て、泰時一人残止ても何かすべき。運尽たり共、具に相向てこそ死なめ」とて、河端へ被進けるを、信濃国住人、春日刑部三郎と云者、親子打入て渡しけるが、子は流れて死ぬ。親も被押入たりけるを、郎等未岳に有けるが、弓のはずを入て捜しける程に、無左右取付て被引上たるを見れば、春日刑部三郎也。(暫)河端に大息つきて休ける所に、武蔵守、河端へ被進けるを、立揚り七寸につよく取付て、「如何に角口惜き御計は候ぞ。軍の習ひ、千騎が百騎、百騎が十騎、十騎が一騎に成迄も、大将軍の謀に随ふ習にてこそ候へ。増て申候はんや、御方の御勢百分が一だに亡候はぬ事にてこそ候へ。如何に御命をば失はんとせさせ給候ぞ」と申ければ、武蔵守、「思様あり。放せ」とて、策にて腕を被打けれ共不放。去程に御方百騎計、河の端へ進み前を塞ける間、力不及給。此事鎌倉に伝聞て、「刑部三郎が高名、先を仕たらんにも増りたり」とぞ宣ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1476eee270aec73e5c09d504dbeec67b

とあって、あまりの戦死者の多さに逆上した泰時が、「むざむざと御家人たちを失って、私一人残り留まってどうしようか。私の武運は尽きたけれども、共に敵に向ってこそ死にたいものだ」などと言って渡河しようとしたところ、信濃国住人の「春日刑部三郎」貞幸が泰時を止めます。
『吾妻鏡』では、春日貞幸は泰時が鎧を脱いでいる間に馬を隠すといった姑息な手段を用いたことになっていますが、流布本では戦場の「道理」を説いた上での実力阻止ですね。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その16)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9c286cf251fc87f4071ae56b630d57e
野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その19)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9bf941fce68e071e1289aca32116cdcf
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その64)─「各人の主たる目的は恩賞拝領につながる軍功の機会獲得」(by 長村祥知氏)

2023-11-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿では、以前、市河氏について少し調べたときの曖昧な記憶で、「市河氏は甲斐国の御家人ですが、信濃国北部にも所領を持っていたようなので、市河六郎はおそらく承久の乱勃発時には鎌倉ではなく信濃国北部にいたのではないかと思われます」などと書いてしまいましたが、長野県立歴史館サイトには、

-------
 市河氏は、甲斐国(山梨県)の出といわれる。鎌倉時代中期には信濃国に進出し、地元の中野氏と婚姻関係を結び、同氏の所領である高井郡志久見郷(現下水内郡栄村を中心とする一帯)を自らのものとしていった。

https://www.npmh.net/ichikawa/

とあり、承久の乱の時点で信濃国に市河氏の拠点があったとはいえないようですね。
この点、もう少し調べたいと思いますが、いずれにせよ、市河六郎は北条朝時率いる北陸道軍の先遣隊的な位置づけであったこと、そして朝時と連絡を取り合って行動していたことは間違いないと思います。
五月三十日付の書状を持って鎌倉を目指した市河六郎の使者も、途中で進軍中の朝時に出会い、朝時宛ての書状を渡すとともに、最前線の状況を朝時に報告した後、改めて鎌倉に向かったのではないですかね。
市河六郎が義時宛てに書状を送ったということは、別に市河が朝時をないがしろにして勝手に行動していたことを意味する訳ではないと私は考えます。
さて、市河六郎に関する長村氏の見解には他にも疑問がありますが、長村説をもう少し見てから改めて論じたいと思います。
ということで、続きです。(p244以下)

-------
 また、ここで予想された義時や各司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動は、実際に『吾妻鏡』から多くの事例を挙げることができる。

① 五月二十五日条:安東忠家が「此間有背右京兆〔義時〕之命事、籠居当国。聞武州〔泰時〕上洛、廻駕
  来加」。
② 五月二十六日条:春日貞幸が「信濃国来会于此所。可相具武田〔信光〕・小笠原〔長清〕之旨、雖有其
  命、称有契約、属武州云々」。
③ 六月十二日条:幸島行時が「相具小山新左衛門尉朝長以下親類上洛之処、運志於武州年尚、於所々令傷
  死之条、称日者本懐、離一門衆、先立自杜山馳付野路駅、加武州之陣」。
④ 六月十三日条:足利義氏と三浦泰村が「不相触武州、向宇治橋辺始合戦。(注、足利義氏が)相待暁天、
  可遂合戦由存之処、壮士等進先登之余、已始矢合戦」。

 これらの逸脱行動に対して義時や各司令官が処罰を下した形跡はない。それどころか『吾妻鏡』は、①②③の記事につき、各人と泰時との主従関係を称賛するかのごとく叙述する。確かに彼らの主従関係は他に比して強固だったかもしれないが、むしろ各人の主たる目的は恩賞拝領につながる軍功の機会獲得にあり、泰時が最も早く進軍し京近郊では主戦場たる宇治を攻めることとなったために、泰時軍に属したというのが実態と考えられる。④には、足利義氏自身が待機を意図しながらも配下の者が先登を進んで戦闘を起こしたとあり、それを見た三浦泰村も遅れじと合戦を始めたと考えられ、軍功を挙げんと逸る武士の思考と行動が窺えるのである。
-------

うーむ。
私には長村氏の言われることが全く理解できないのですが、各事例をひとつずつ確認してみたいと思います。
まず、①については、引用部分だけだと事情が分かりにくいので前後を含めて原文を見ると、

-------
今日及黄昏。武州至駿河国。爰安東兵衛尉忠家。此間有背右京兆之命事。籠居当国。聞武州上洛。廻駕来加。武州云。客者勘発人也。同道不可然歟云々。忠家云。存義者無為時事也。為棄命於軍旅。進発上者。雖不被申鎌倉。有何事乎者。遂以扈従云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

という話です。
正確を期すために『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信訳を参照すると、

-------
 今日の夕方になって、泰時は駿河国に到着した。その時、安東兵衛尉忠家はこのところ義時の命令に背く事があって駿河国で謹慎していたが、泰時の上洛を聞くと、馬に乗ってやってきて(軍勢に)加わった。泰時が言った。「お前は譴責を受けている者である。同道するのはよくない」。忠家が言った。「手順を踏むのは平穏な時のことです。命を戦いで捨てるために出発した以上、鎌倉に申されずとも何事かありましょうか」。とうとう付き従ったという。
-------

となりますが、確かに形式的には安東忠家は義時の謹慎命令に反していますね。
しかし、義時も承久の乱のような大事件が勃発することを想定した上で、そのような場合であっても絶対に謹慎しておれ、と命じたはずもありません。
即ち、義時の謹慎命令はあくまで平時を前提としており、戦時となった以上、安東忠家の参加は歓迎すべき出来事です。
平時と戦時は違うのだという安東忠家の論理は理にかなったものであり、それを泰時が認めただけの話であって、これは別に「義時や各司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動」ではないですね。
まあ、義時の承認を得てから安東忠家の参加を認めれば形式的にも謹慎命令違反とならず、手続きとしては完璧でしょうが、そんなことは言ってられないのが戦争ですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その63)─「北条朝時率いる北陸道軍の到着以前に」(by 長村祥知氏)

2023-11-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
『吾妻鏡』では、北陸道軍の合戦については六月八日条にごく僅かな記述があるだけです。
慈光寺本には記事が一切存在せず、比較的記事の分量が多い流布本でも、

-------
(去程に)式部丞朝時は、五月晦日、越後国府中に著て勢汰あり。枝七郎武者、加地入道父子三人・大胡太郎左衛門尉・小出四郎左衛門尉・五十嵐党を具してぞ向ける。越中・越後の界に蒲原と云(難)所あり。一方は岸高くして人馬更に難通、一方荒磯にて風烈き時(は)船路心に不任。岸に添たる岩間の道を伝ふて、とめ行ば、馬の鼻五騎十騎双べて通るに不能、僅に一騎計通る道なり。市降浄土と云所に、逆茂木を引て、宮崎左衛門堅めたり。上の山には石弓張立て、敵寄ば弛し懸んと用意したり。人々、「如何が可為」とて、各区の議を申ける所に、式部丞の謀に、浜に幾等も有ける牛を捕へて、角先に続松を結付て、七八十匹追続けたり。牛、続松に恐れて、走り突とをりけるを、上の山より是を見て、「あはや敵の寄るは」とて、石弓の有限り外し懸たれば、多くの牛、被打て死ぬ。去程に石弓の所は無事故打過て、夜も曙に成けるに、逆茂木近く押寄て見れば、折節海面なぎたりければ、早雄の若者共、汀に添て、馬強なる者は海を渡して向けり。又足軽共、手々に逆茂木取除させて、通る人もあり。逆茂木の内には、人の郎従と覚しき者、二三十人、かゞり焼て有けるが、矢少々射懸るといヘども、大勢の向を見て、(皆)打捨て山へ逃上る。其間に無事故通りぬ。
 (又)越中と加賀の堺に砥並山と云所有。黒坂・志保とて二の道あり。砥並山へは仁科次郎・宮崎左衛門尉向けり。志保へは糟屋有名左衛門・伊王左衛門向けり。加賀国住人、林・富樫・井上・津旗、越中国住人、野尻・河上・石黒の者共、少々都の御方人申て防戦ふ。志保の軍、破ければ、京方皆落行けり。其中に手負の法師武者一人、傍らに臥たりけるが、大勢の通るを見て、「是は九郎判官義経の一腹の弟、糟屋有名左衛門尉が兄弟、刑喜坊現覚と申者也、能敵ぞ、打て高名にせよ」と名乗ければ、誰とは不知、敵一人寄合、刑喜坊が首を取。式部丞、砥並山・黒坂・志保打破て、加賀国に乱入、次第に責上程に、山法師・美濃竪者観賢、水尾坂堀切て、逆茂木引て待懸たり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a671e2277afb72d206e58e26cb41f0b

という程度なので、市河文書の承久三年六月六日「北条義時袖判御教書」は本当に貴重な史料ですね。
地名・人名等、流布本とも相当に重なります。
さて、前回引用した部分の①~④には傍線があります。
即ち、

-------
①しきふのせう〔北条朝時〕をあひまたす、さきさまにさやうにたゝかひして、かたきおひおとしたるよし
 申されたる、返々しむへう〔神妙〕に候。

②いかにもして一人ももらさすうたるへく候也。山なとへおひいれられて候はゝ、山ふみをもせさせて、め
 しとらるへく候也。さやうにおひおとすほとならは、ゑ中〔越中〕・かゝ〔加賀〕・のと〔能登〕・ゑち
 せん〔越前〕のものなとも、しかしなから御かたへこそまいらむする事なれは、

③うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす。

④又おの/\御けんにん〔家人〕にも、さやうにこゝろにいれて、たゝかひをもし、山ふみをもして、かたき
 をもうちたらんものにおきては、けんしやう〔勧賞〕あるへく候なり、
-------

の部分に傍線があります。
そして、続きです。(p244以下)

-------
 傍線①から、市河六郎が、鎌倉を発した北条朝時率いる北陸道軍の到着以前に、越後国西部の蒲原(頚城郡。現在の新潟県糸魚川市)や越中国東部の宮崎(新川軍。現在の富山県朝日町)で軍事行動を開始していたことがわかる。そして傍線②に見るごとく、越中・加賀・能登・越前の中小規模の在地領主は日和見状態であり、初期段階の軍事的制圧が雪達磨式に彼等の動向を決することを、義時は理解していた。そのためには傍線③のごとく、市河らの上洛を止めて、京方たることの明確な者を確実に討たせる必要があった。しかし義時が最前線で戦う鎌倉方を意の通り行動させるには、傍線④のごとく勧賞を提示せざるをえなかったのである。それは既述の『慈光寺本』に北条時房が武田・小笠原に六ヵ国を提示したことからも窺えよう。
 なお、義時が市河らの上洛を止めようとしたことにつき、浅香年木氏は、東国御家人に対する北陸道の地元群小領主層の抵抗が根強かったことから、この機に彼らを掃討せんとしたと解する。しかし、六月初頭段階の鎌倉では乱の勝敗の行方自体が不透明だったに違いない。義時は、長期的政策よりも、越中以下の者が「しかしながら御かたへこそまい」ることによる、乱の勝利そのものを意図していたと考えるべきである。
-------

うーむ。
いくつか疑問が生じるのですが、最大の疑問は長村氏が市河六郎の行動を「司令官の指揮からの逸脱」の代表例とされている点です。
「市河六郎が、鎌倉を発した北条朝時率いる北陸道軍の到着以前に、越後国西部の蒲原(頚城郡。現在の新潟県糸魚川市)や越中国東部の宮崎(新川軍。現在の富山県朝日町)で軍事行動を開始していたこと」は間違いないでしょうが、果たして市河六郎は北条朝時の指揮に反して勝手に「軍事行動を開始」したのか。
市河氏は甲斐国の御家人ですが、信濃国北部にも所領を持っていたようなので、市河六郎はおそらく承久の乱勃発時には鎌倉ではなく信濃国北部にいたのではないかと思われます。
そして、いわば自動的に北陸道軍の先遣隊のような形になったものと思われますが、そうした立場に置かれた市河は、別に勝手に「軍事行動を開始」したのではなく、北条朝時と連絡を取った上で「軍事行動を開始」したと考える方が自然ですね。
五月三十日の子刻に市河が発した書状が六月六日の申刻に鎌倉に到達するくらいの連絡網が出来ているのですから、市河が蒲原・宮崎を攻撃する前に、進軍中の北条朝時に「蒲原・宮崎を攻撃していいですか」と連絡して、「いいよ」という返事をもらうまでさほど時間がかかったとも思えません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その62)─「司令官の指揮からの逸脱」(by 長村祥知氏)

2023-11-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で引用した部分に、

-------
『慈光寺本』には、涙を流して説得する北条政子に対して、「二位殿ノ御方人ト思食セ」と忠誠を誓った武田信光(『慈光寺本』上-三二六頁)が、東海道軍の大将軍として進軍した美濃国東大寺で、もう一人の大将軍小笠原長清に「鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ」と言ったとある。そこへ北条時房が「武田・小笠原殿。大井戸・河合渡賜ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」という文を飛脚で届けると、武田・小笠原が渡河したという(『慈光寺本』下-三四〇頁)。
-------

とあるので、長村氏は野口実・坂井孝一氏と同じく、武田信光と小笠原長清の密談エピソードに加え、時房に巨大なニンジンを目の前にぶら下げられた武田馬と小笠原馬が、ニンジン目当てに尾張河を渡河したとの話も史実とされる立場のようですね。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その16)─「リアルな恩賞を提示して裏切りを阻止した時房の眼力と決断力」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f8b69695f82ad48a840c818343941ca
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その17)─坂井孝一説に「リアリティ」はあるのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d6de74a2adca331d2c2d08e1e3659a7
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その42)─「当時の武士の天皇観をよく示したエピソード」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/abff121a8a617f1805adb1ee94c7d761

従って、長村氏はメルクマールの三番目、

 (3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

をクリアーされていますが、興味深いのは、長村氏が武田信光の「二位殿ノ御方人ト思食セ」という発言と「鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ」云々の発言を対比させておられる点です。
これは大津雄一氏が「慈光寺本『承久記』は嘆かない」(『挑発する軍記』所収、勉誠出版、2020)で、

-------
 山道の大将軍であった武田信光と小笠原長清は尾張川に至る。川を前にして、小笠原が武田に、「娑婆世界ハ無常ノ所ナリ。如何有ベキ、武田殿」と尋ねる。武田は、「ヤ給ヘ、小笠原殿。本ノ儀ゾカシ。鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ、小笠原殿」と答える。そこへ、北条時房から、両人が渡したならば美濃以下六か国を与えようとの書状が届くと、それならば渡せと川を渡す。まことに功利的である。しかも、鎌倉で北条政子が三代将軍の恩を訴え、「京方ニ付テ鎌倉ヲ責ン共、鎌倉方ニ付テ京方ヲ責ン共、有ノマゝニ被仰ヨ、殿原」と武士たちに迫ったさい、真っ先に進み出て、「昔ヨリ四十八人ノ大名・高家ハ、源氏七代マデ守ラント契リ申シテ候ケレバ、今更、誰カハ変改申候ベキ。四十八人ノ大名・高家ヲバ、二位殿ノ御方人ト思食セ」と頼もしく言ったのは、ほかならぬ武田である。建前と本音とをしたたかに使い分けている。そして、武田の本音を見透かしたように甘言で誘う時房もまたしたたかである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/28b4e0e9fbdd8014e7cffa6f5bea75c2

と書かれていることと発想が共通していますね。
大津氏はずいぶん前から慈光寺本に関して「したたか」を連発されているので、あるいは長村氏も大津氏の悪影響を受けておられるのかもしれません。
さて、長村氏は「武田信光の「京方勝バ」の言に端的に現れているごとく、東国武士が最も重視したのは、主従の論理よりも勝者随従・所領獲得の論理であった」と言われますが、もう少し分かりやすく、格調の低い表現にすると、

 勝者随従の論理=「長い物には巻かれろ」の論理
 所領獲得の論理=「世の中、ゼニやで」の論理

ということかと思います。
私には、これらは「論理」というより、むしろ単純な欲望の全面肯定に過ぎないように思われますが、果たして本当にこれらの「論理」を「東国武士が最も重視した」のか。
もしかすると、これらは長村氏の人間観・世界観を反映しているだけで、東国武士の人間観・世界観とは殆ど関係がないのかもしれませんが、そう決めつける前に、もう少し長村氏の「勝者随従・所領獲得の論理」の内実を見ておきたいと思います。(p242以下)

-------
 2 司令官の指揮からの逸脱

 ここで想起されるのは、戦争状態の中で、鎌倉方武士勢力が独自の判断で謀叛人所領の発見即没収を遂行し、それが平時に地頭職として追認されたことである。東国武士は、治承・寿永の内乱や頼朝没後の比企・梶原・畠山・和田等の大規模御家人の度重なる没落を通じて、戦争という特殊な状況下においてこそ所領・諸職が獲得できることを知っていたのであろう。かかる理解を踏まえて、鎌倉方の軍事動員の実態を確認したい。

 史料3 (承久三年)六月六日「北条義時袖判御教書」
             (花押)
  五月卅日ねのときに申されたる御ふみ、けふ六月六日さるのときにたうらい。五月つこもりの日、かん
  はら〔蒲原〕をせめおとして、おなしきさるのときに、みやさき〔宮崎〕をゝいおとされたるよし、き
  こしめし候ぬ。①しきふのせう〔北条朝時〕をあひまたす、さきさまにさやうにたゝかひして、かたき
  おひおとしたるよし申されたる、返々しむへう〔神妙〕に候。又にしなの二らう〔仁科盛朝〕むかひた
  りとも、三百きはかりのせいにて候なれは、なにことかは候へき。又しきふとの〔北条朝時〕も、いま
  はおひつかせ給候ぬらん。ほくろくたう〔北陸道〕のてにむかひたるよし、きこえ候は、みやさきのさ
  ゑもん〔宮崎定範〕・にしなの二郎〔仁科盛朝〕・かすやのありいしさゑもん〔糟屋有石左衛門〕・く
  わさのゐんのとうさゑもん〔花山院藤左衛門〕、またしなのけんし〔信濃源氏〕一人候ときゝ候。②い
  かにもして一人ももらさすうたるへく候也。山なとへおひいれられて候はゝ、山ふみをもせさせて、め
  しとらるへく候也。さやうにおひおとすほとならは、ゑ中〔越中〕・かゝ〔加賀〕・のと〔能登〕・ゑ
  ちせん〔越前〕のものなとも、しかしなから御かたへこそまいらむする事なれは、大凡山のあんないを
  もしりて候らん、たしかにやまふみをして、めしとらるへく候。おひおとしたれはとて、③うちすてゝ
  なましひにて京へいそきのほる事あるへからす。又ちうをぬきいてゝ、さやうに御けんにん〔御家人〕
  をもすゝめて、たゝかひして、かたきをゝいおとされたる事、返々しむへうにきこしめし候。しんたの
  おとゝの四らうさゑもん六らうなと、あひともにちうをつくしたるよし、返々しむへうに候。④又おの
  /\御けんにん〔家人〕にも、さやうにこゝろにいれて、たゝかひをもし、山ふみをもして、かたきを
  もうちたらんものにおきては、けんしやう〔勧賞〕あるへく候なり、そのよしをふれらるへく候。あな
  かしこ。
       〔承久三年〕
        六月六日<さるのとき>  藤原兼佐<奉>
    いちかはの六郎刑部殿<御返事>

 この文書は信濃の御家人である市河六郎からの軍功の報告に対する義時の返書である。この文書を発した義時の立場は、信濃守護ではなく幕府の最高権力者とみるべきであろう(宮田A論文)
-------

長くなったので、いったんここで切ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その61)─「武田信光の「京方勝バ」の言に端的に現れているごとく」(by 長村祥知氏)

2023-11-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で引用した文章の中に「鎌倉方の上洛軍発向時には、宿老十五人が鎌倉に留まった(『吾妻鏡』五月二十三日条)」とありますが、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信訳を参照すると、

-------
二十三日、丙午。右京兆(北条義時)・前大膳大夫入道覚阿(大江広元)・駿河入道行阿(中原季時)・大夫属入道善信(三善康信)・隠岐入道行西(二階堂行村)・壹岐入道(定蓮、葛西清重)・筑後入道(尊念、八田知家)・民部大夫(二階堂)行盛・加藤大夫判官入道覚蓮(景廉)・小山左衛門尉朝政・宇都宮入道蓮生(頼綱)・隠岐左衛門尉入道行阿(二階堂基行)・善隼人入道善清(三善康清)・大井入道(実平)・中条右衛門尉家長以下の宿老は上洛はせず、それぞれ鎌倉に留まり、あるいは祈祷をさせ、あるいは派遣する軍勢を徴発する。
-------

ということで(p107以下)、数えてみると確かに十五人ですね。
この場面、慈光寺本には対応する記述はありませんが、流布本には、

-------
 鎌倉に留まる人々には、大膳大夫入道・宇都宮入道・葛西壱岐入道・隼人入道・信濃民部大輔入道・隠岐次郎左衛門尉、是等也。親上れば子は留まり、子上れば親留まる。父子兄弟引分上せ留らるゝ謀こそ怖しけれ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84e69bedac1469967b6e592fe90d5076

とあって、大江広元・宇都宮頼綱・葛西清重・三善康清・二階堂行盛・二階堂基行の六人が「鎌倉に留まる人々」として例示されています。
そして、「父子兄弟引分上せ留らるゝ謀こそ怖しけれ」とありますが、これは誰の「謀〔はかりごと〕」かというと、北条義時でしょうね。
流布本では、三浦義村は北条義時の際どい冗談に畏まって、まるで起請文を読み上げるようにして忠誠を誓う存在であり、北条政子の演説も愚痴が多くてそれほど格調は高くありません。

流布本も読んでみる。(その12)─「尼程物思たる者、世に非じ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9854a9a3a206b7a5b3ad99fd91c09cf

また、大江広元が全く登場しない慈光寺本ほどではありませんが、流布本でも大江広元の存在感は希薄です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その19)─慈光寺本における大江広元の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/498c4e029aed01aa295300a4c9c7dd7d

そして、

-------
 明る廿日の早天に、権大夫の許へ、又大名・小名聚りて、軍の僉議評定有けるに、武蔵守被申けるは、「是程の御大事、無勢にては如何が有べからん。両三日も被延引候て、片田舎の若党・冠者原をも召具候ばや」と被申ければ、権大夫、大に瞋りて、「不思議の男の申様哉。義時は、君の御為に忠耳有て不義なし。人の讒言に依て、朝敵の由を被仰下上は、百千万騎の勢を相具たり共、天命に背奉る程にては、君に勝進らすべきか。只果報に任するにて社あれ。一天の君を敵に請進らせて、時日を可移にや。早上れ、疾打立」と宣ければ、其上は兎角申に不及、各宿所々々に立帰り、終夜用意して、明る五月廿一日に、由井の浜に有ける藤沢左衛門尉清親が許へ門出して、同廿二日にぞ被立ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64c7d8a7d233b802827b85946ddb2266

という具合に、義時は「武蔵守」泰時の消極策に激怒し、大勢の「大名・小名」の面前で泰時を「不思議の男の申様哉」と叱り飛ばすような存在です。
『吾妻鏡』では幕府軍の迅速な発向の決定には大江広元の役割が大きかったことが記されており、私はそれが『吾妻鏡』の虚構だとは思いません。
しかし、承久の乱の勃発の時点で京都側から見れば、広元は幕府を裏切った京都守護・親広の父親ですから、「父子兄弟引分上せ留らるゝ謀」の対象として、「鎌倉に留まる人々」の筆頭に挙げられても不思議ではないですね。
続く宇都宮頼綱も京都との関係が極めて深く、葛西清重は「推松」が発見された「笠井の谷」に屋敷を構えていた人であり、三善・二階堂も京下りの官人の一族ですから、六人は京都から見て裏切り者となる可能性が高い人物のリストとも言えそうです。
私は、この人名リストは流布本が『吾妻鏡』の影響など全く受けておらず、その成立が相当早かったことを示す証拠の一つではないかと考えています。
ま、それはさておき、長村論文に戻ると、前回引用部分のうち、私は長村氏が「異なる階級は対立するという一般論の不成立が明らかとなった今日」云々と言われている点は、その問題意識がどうにも古臭い感じがして賛成できません。
この点は長村説をもう少し紹介した後で検討することとし、続きです。(p242)

-------
 東国武士の院命拒否・上洛の理由につき、『吾妻鏡』等の歴史叙述は、北条義時の姉である北条政子の主張した源頼朝以来の御家人との主従関係が院命に優越したとする。もちろん、頼朝の後家・実朝の母としての鎌倉殿の代行者というべき立場にあった政子の呼びかけが、御家人の去就に大きな影響を与えたことは否定できない。
 しかし彼らには、主従関係以上に重要なものがあったと考えられる。『慈光寺本』には、涙を流して説得する北条政子に対して、「二位殿ノ御方人ト思食セ」と忠誠を誓った武田信光(『慈光寺本』上-三二六頁)が、東海道軍の大将軍として進軍した美濃国東大寺で、もう一人の大将軍小笠原長清に「鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ」と言ったとある。そこへ北条時房が「武田・小笠原殿。大井戸・河合渡賜ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」という文を飛脚で届けると、武田・小笠原が渡河したという(『慈光寺本』下-三四〇頁)。武田信光の「京方勝バ」の言に端的に現れているごとく、東国武士が最も重視したのは、主従の論理よりも勝者随従・所領獲得の論理であった。
 東国武士は、鎌倉最有力の北条氏との対立を避け、むしろ彼らに従い上洛することで新たな所領獲得の機会が得られることを重視したのである。それにより、平時に東国・西国での活動を一族内で分担していた御家人の多くは、鎌倉方と京方に分裂することとなった(本書第五章)。
-------

うーむ。
私には賛成できる点が殆どありませんが、検討は次の投稿で行います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その60)─「勝者随従・所領獲得の論理」(by 長村祥知氏)

2023-11-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
山田重忠と三浦胤義を混同していたら承久の乱全体の光景がずいぶん違って見えてしまうはずですが、思い込みというのは誰にもありますからね。
私もこのブログのどこかでとんでもない勘違いを堂々と書いているのでしょうが、自分の間違いは自分ではなかなか気づけないので、仕方ないですね。
ま、それはともかく、『人物叢書 三浦義村』(2023)で私が一番興味を持ったのは和田合戦に関する記述ですが、『三浦一族の研究』(2016)と比較すると、和田合戦についても高橋氏は自説を相当に改めておられるようです。
ただ、この話題は「慈光寺本妄信歴史研究者交名」シリーズで論ずるのは適当でないので、タイトルを変えて、『吾妻鏡』編者が各種史料の採否をどのように行っていたかの問題として別途検討したいと思います。
ということで、「慈光寺本妄信歴史研究者交名」で残る大物は長村祥知氏だけですが、長村説に関しては今まで相当に検討してきたとはいえ、私と長村氏では根本的な立場が異なるので、まだまだ疑問の種は尽きないですね。
しかし、それを議論し始めるとこのシリーズがあと数十回続き、(その100)くらいになりそうなので、とりあえず五つのメルクマールに関係する部分だけ見ておきます。
長村氏はメルクマールの、

 (1)長江庄の地頭が北条義時だと考えるか否か。
 (2)慈光寺本の北条義時追討「院宣」を本物と考えるか否か。

についてはもちろんクリアーされています。

長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター(2023年1月19日付)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da
北条義時追討の「院宣」が発給されたと考える歴史研究者たちへのオープンレター(2023年1月21日付)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94e39f6b117aa61c0aef682dc46feb0e

そして、

 (3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

については、『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)で今まで一度も検討してこなかった「第六章 承久の乱にみる政治構造─戦況の経過と軍事動員を中心に─」に武田・小笠原の密談エピソード関係の記述があります。
この論文は、

-------
 はじめに
一 伊賀光季追討と京・畿内近国─権門的軍事動員と知行国制度─
二 鎌倉・越後での対応
 1 有力御家人に対する後鳥羽の動員命令の効力
 2 越後国加地庄願文山の合戦
三 鎌倉方武士の軍事行動
 1 活動分担と勝者随従・所領獲得の論理
 2 司令官の指揮からの逸脱
四 後鳥羽院の対応とその影響
 1 公権力による軍事動員
 2 軍事「動員」の広がり
  (1)伊予
  (2)加賀の林・板津
  (3)美濃国大井庄
  (4)香椎宮・淀
  (5)小括
 おわりに
-------

と構成されていますが、武田・小笠原の密談エピソードは「三 鎌倉方武士の軍事行動」の「1 活動分担と勝者随従・所領獲得の論理」の後半に出てきます。
ただ、前半も紹介しないと長村氏の論理が分かりにくいので、先ずは前半から引用します。(p241)

-------
 五月十九日、後鳥羽の義時追討命令を知った鎌倉では、北条政子が「不忠の讒臣等、天のせめをはからず、非義の武芸にほこりて、追討の宣旨申くだせり」として在鎌倉御家人に藤原秀康・三浦胤義の追捕を命ずるとともに、北条義時・時房・泰時・大江広元・三浦義村・安達景盛の評議と政子への上申を経て、義時が遠江等十五ヵ国の「家々長」に「自京都可襲坂東之由、有其聞」として「相触一家人々、可向」と命ずる奉書を発した(『吾妻鏡』五月十九日条)。五月二十二日から二十五日にかけて、東海道・東山道・北陸道の三道から軍勢を進発させ、鎌倉にいない武士には各方面軍の進軍経路で合流するように命じている(宮田A論文)。
 鎌倉方の上洛軍発向時には、宿老十五人が鎌倉に留まった(『吾妻鏡』五月二十三日条)。これは、幕府上層部の一致団結を示すというよりも、戦乱時に鎌倉を不在にすることで生ずる不利益を避けるために、各御家人の一族内で上洛係と共に留守係を選んだ結果と考えられる。その際は、鎌倉・京を核とする東国・西国諸地域での活動分担に応じて、一族の中でも乱以前から在鎌倉の者が鎌倉に残り、在国していた者が上洛軍に加わったと考えられる。宿老の鎌倉駐留は、長老的人物が鎌倉に在り、嫡子や庶弟が在国するという有力御家人一族が、当時は多かったことを示すのではないだろうか。
 さて、三浦をはじめとする有力御家人が早々に北条氏を支持したことで「北条氏に敵対しない」とする大勢が決したとしても、彼等有力御家人や東国の中小規模の多数の御家人が北条の軍事動員に応じて上洛したのはなぜであろうか。従来は、東国御家人が京方と戦うのは自明のことと思われたためか、踏み込んだ研究がなく看過されてきたが、彼らは、後鳥羽に義時追討の武力と予定されていたごとく、後鳥羽と直接の対立関係にあったわけではない。異なる階級は対立するという一般論の不成立が明らかとなった今日、宣旨・院宣に一定の権威を認めていた東国武士が京方と戦うために上洛した理由は、決して自明ではないのである。
-------

以上が前半です。
「宣旨・院宣に一定の権威を認めていた東国武士」の「一定の」には傍点があります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その59)─「後鳥羽上皇の隠岐遷座(実質的には配流)」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
『三浦一族の研究』(吉川弘文館、2016)を見たら、「第七章 三浦義村と中世国家」に、

-------
 一方、後鳥羽上皇方に付いた弟胤義は、墨俣で敗れ、勢多でも敗れて京都に戻った。敗戦を上皇に報告すると、上皇は戦後処理に取りかかり、胤義は義村の手にかかって死のうと、三浦・佐原の軍勢がいる東寺に向かった。そこでの胤義と義村のやりとりが、慈光寺本『承久記』に描かれている。
-------

とありましたが(p195)、胤義は「墨俣で敗れ」てはいません。
慈光寺本には、

-------
 大豆戸ノ渡リ固メタル能登守秀康・平判官胤義カケ出テ戦フタリ。平判官申ケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。駿河守ガ舎弟胤義、平判官トハ我ゾカシ」トテ、向フ敵廿三騎ゾ、射流シケル。待請々々、多ノ敵討取テ、終ニハシラミテ落ニケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7021955297ccf088bb416d9d28489e2

とあって(岩波新大系、p345)とあって、胤義が敗れたのは「大豆渡」(『吾妻鏡』では「摩免戸」)ですね。
墨俣は山田重忠と藤原秀澄の担当ですが、慈光寺本では、

-------
 洲俣固メタル河内判官ハ、夜ベノ戌時ニ落ニケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a05d022a8a0fcad9bd7aa4921b2de8b0

と僅か一行で済まされている上、「河内判官」藤原秀澄だけで、山田重忠の名前がありません。
慈光寺本では、後鳥羽院の叡山御幸の後も、山田重忠は墨俣から近い距離にある杭瀬河に踏みとどまって徹底抗戦したというストーリーになっているので、墨俣での敗北を目立たないようにしたのでしょうね。
なお、流布本では、

-------
 平九郎判官、「已に大炊渡破るゝ事こそ安からね。胤義、罷向て一軍せん」とて、下総前司・安芸宗内左衛門尉・伊藤左衛門尉を始として五百余騎、大炊渡へとて打向。能登守、被申けるは、「已大炊渡破れて、東山道の大勢打入たり。後ろを被推隔、中に被取籠(ては)勇々敷大事也。平九郎判官殿宣ふは、事可然共不覚。君も『尾張河破れ(な)ば、引退て宇治・勢多を防げ』とこそ被仰下候しか。秀安に於ては罷上る成」とて引退く。平九郎判官、口惜は思へ共、宗徒の者共角云間、力不及引て落行けり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6024daabee36d9b91265f6459d2ecaf3

とあって、「平九郎判官」胤義は大井戸が敗れたと聞いて、大井戸を渡河してから西方へ殺到する幕府方の東山道軍を迎え討とうとしますが、「能登守」藤原秀康に止められて、仕方なく自分も落ちて行くということで、些か武士の意地を見せようとします。
慈光寺本のあまりにさっぱりした描き方と比較すると、流布本の胤義の描き方は丁寧ですね。
また、流布本の「胤義、罷向て一軍せん」とて、下総前司・安芸宗内左衛門尉・伊藤左衛門尉を始として五百余騎、大炊渡へとて打向」は、尾張河合戦においても、藤原秀康・三浦胤義以下の京方主力が「遊軍」として位置づけられていたことを示すものと私は考えます。

慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その9)─尾張河合戦での「遊軍」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa6707fc53f0f162bcb11a7de366dcc2

ま、それはともかく、高橋氏は「墨俣で敗れ、勢多でも敗れて」と二重に間違えておられ、高橋氏が胤義を山田重忠と混同されているのは明らかです。
さて、『人物叢書 三浦義村』に戻ると、「六 戦後処理を担う」には高橋氏の卓見が随所に見られますが、私の当面の関心と重なる部分は少ないですね。
後鳥羽院の隠岐「配流」に関する記述は僅少であり、メルクマール(4)の「逆輿」への言及もありません。
ただ、高橋氏が「十三日には後鳥羽上皇の隠岐遷座(実質的には配流)が決定した(『百錬抄』)」(p138)と書かれている点は非常に興味深いですね。
去年の年末、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で後鳥羽院が「逆輿」で流された場面を見て、慈光寺本だけにしか存在しない「逆輿」エピソードが史実なのか疑問に思った私は、最初に『太平記』で後醍醐天皇の場合を確認してみたのですが、兵藤裕己校注『太平記(一)』(岩波文庫、2014)には、

-------
  先帝遷幸の事、幷〔ならびに〕俊明極参内の事

 先帝をば承久の例に任せて、隠岐国に移しまゐらすべきに定まりにけり。臣として君を流し奉る事、関東もさすが恐れありとや思ひけん、このために、後伏見院の第一の御子を御位に即け奉つて、先帝御遷幸の宣旨をなさるべしとぞ計らひ申しける。【後略】
-------

とあります。(p195以下)
いろいろ調べても、東国はともかく、朝廷の先例としては「逆輿」はなかったようであり、私としては「逆輿」は慈光寺本の脚色か、あるいは後発的な「坂輿」の誤写だろうと考えています。
承久の乱の戦後処理においても、七月八日に守貞親王(後高倉院)が治天の君と定められ、翌九日に新帝践祚(後堀河天皇)となっているので、後醍醐天皇の場合と同じく、新帝による後鳥羽院「御遷幸の宣旨」が出され、刑罰としての「配流」ではなく、単に引越しを願ったという形式にしたのではなかろうかと思います。
高橋氏も「後鳥羽上皇の隠岐遷座(実質的には配流)」とされ、形式的には「配流」ではないという立場ですから、あるいは私と同様に考えておられるのかもしれません。

後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5ec3d9321ac9d301eca3923c022ea649
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67ff8f511d6b4aedc9e71cb36bc4a6da
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c216879037a93f3989708b69e538359
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d80f970b573162ce8be9edfabe51b90
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/063fe98e5d44c4e6a731f7230db7e96c
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その58)─「勢多で時房軍に敗れた胤義は」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「人ガマシク」の「人」は人間一般なのか、という問題は、深掘りしようとすればけっこう大変な問題になりそうですね。
中世前期の武家社会において、「人」とはいかなる概念だったのか。
宗教的な文脈では、あるいは「人」が「人間」一般を指すような事例もあるのかもしれませんが、普通は自分と同じ「身分」に限定されるのではないですかね。
三浦胤義の場合であれば、胤義にとって「人」とは「武士」一般よりも更に限定され、それなりの家柄で、自分と武士としての倫理観を共有できるような上層武士に限定されるのではないか。
とりあえず「人がまし」の用例から始めて、「人」に関する用例を網羅的に検証すれば何か結論が出てきそうですが、私の能力では手に負えそうにありません。
中世前期の武家社会に限定せず、近代以前の身分制社会において「人」とはいかなる概念だったのか、とまで問題を広げると更に難しい問題になりそうですが、あるいは何か先行研究があるのでしょうか。
ご存知の方は御教示いただけると有難いです。

ま、それはともかく、前回投稿で引用した部分で、うっかり見過ごしてしまった箇所がありました。
それは冒頭の「勢多で時房軍に敗れた胤義は後鳥羽上皇のもとに参り」です。
『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)にも「勢多の合戦で時房軍に敗れた官軍の三浦胤義以下は陣を捨てて再び帰洛した」とありますが(p104)、いったい典拠は何なのか。
慈光寺本にはそもそも宇治川合戦が存在しないので、胤義が勢多で時房と戦ったとの記事もありません。
『吾妻鏡』六月十二日条には、

-------
重被遣官軍於諸方。所謂。三穂崎。美濃堅者観厳。一千騎。勢多。山田次郎。伊藤左衛門尉。并山僧引卒三千余騎。食渡。前民部少輔入道。能登守。下総前司。平判官。二千余騎。鵜飼瀬。長瀬判官代。河内判官。一千余騎。宇治。二位兵衛督。甲斐宰相中将。右衛門権佐。伊勢前司〔清定〕。山城守。佐々木判官。小松法印。二万余騎。真木嶋。足立源三左衛門尉。芋洗。一条宰相中将。二位法印。淀渡。坊門大納言等也。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあって、「平判官」三浦胤義は勢多ではなく、「前民部少輔入道」(大江親広)・「能登守」(藤原秀康)・「下総前司」(小野盛綱)とともに「食渡」に配されています。
また、流布本には、

-------
 月卿・雲客、「去にても打手を可被向」とて、宇治・勢多方々へ分ち被遣。山田二郎重忠・山法師播磨竪者・小鷹助智性坊・丹後、是等を始として、二千余騎を相具して勢多へ向ふ。能登守秀安・平九郎判官胤義・少輔入道近広・佐々木弥太郎判官高重・中条下総守盛綱・安芸宗内左衛門尉・伊藤左衛門尉、是等を始として一万余騎、供御瀬へ向ふ。佐々木前中納言有雅卿・甲斐宰相中将範茂・右衛門佐朝俊、武士には山城前司広綱・子息太郎右衛門尉・筑後六郎左衛門尉・(中条弥二郎左衛門尉)、熊野法師には、田部法印・十万法橋・万劫禅師、奈良法師には土護覚心・円音、是等を始として一万余騎、宇治橋へ相向ふ。長瀬判官代・足立源左衛門尉、五百余騎にて牧嶋へ向ふ。一条宰相中将信能・二位法印尊長、一千余騎にて芋洗へ向ふ。坊門大納言忠信、一千余騎にて淀へ向ふ。河野四郎入道通信・子息太郎、五百余騎にて広瀬へとてぞ向ひける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fde6f8f4637a2ebd9a5eb48ae5ae427

とあって、「平九郎判官胤義」は「能登守秀安」・「少輔入道近広」等とともに「供御瀬」に配されています。
『吾妻鏡』と流布本に描かれた京方の軍勢配置については、リンク先の投稿で整理しておきましたが、おそらく高橋氏は胤義と山田重忠を混同されているのだろうと思います。

流布本も読んでみる。(その29)─「引議にては不候。帯〔をび〕くにて社〔こそ〕候へ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f26372d6e5ae7138937d40180fcce3d

ところで両者を比較すると、『吾妻鏡』では藤原秀康・三浦胤義らの主力が配された「食渡」の軍勢が僅かに「二千余騎」なのに対し、流布本では藤原秀康・三浦胤義らの主力が配された「供御瀬」の軍勢は「一万余騎」で、五倍の差があります。
また、『吾妻鏡』では宇治が「二万余騎」なので「食渡」の実に十番ですが、流布本では宇治は「一万余騎」で「供御瀬」と同数です。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その24)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20d970386c2d86bde126d7db14509668

『吾妻鏡』の「食渡」と流布本の「供御瀬」が同じ場所であることは間違いなく、普通は大津市田上黒津町のあたりとされていますが、何故に同じ場所に配置された京方主力の人数にこれほどの差があるのか。
この点、解明の手掛かりとなるのは長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)の「第四章 承久鎌倉方武士と『吾妻鏡』─『吾妻鏡』承久三年六月十八日条所引交名の研究─」という論文で、長村氏は『吾妻鏡』と流布本で佐々木高重の配置が異なることに着目されます。
そして、『吾妻鏡』六月十八日条の「六月十四日宇治合戦討敵人々」に佐々木高重の配下が宇治で討たれている旨が記されていることから、

-------
京方の佐々木高重の出陣先につき、『吾妻鏡』六月十二日条は宇治とし、流布本『承久記』下─九九頁は供御瀬とする。上横手雅敬氏は供御瀬を正しいとするが、特に根拠は示していない。《交名》A②に「長布施四郎<三人……一人、佐々木(高重)判官親者……>」、「藤田兵衛尉<一人手討。佐々木判官手者云々>」、A③に「二藤太三郎<一人。佐々木判官親者>」と見えることから、高重自身も宇治に出陣したと考えるのが妥当であろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20d970386c2d86bde126d7db14509668

と判断されます。
しかし、長村氏の手法に倣って六月十八日条を細かく見ると、小野盛綱の縁者や配下、三浦胤義の配下も「六月十四日宇治合戦討敵人々」に登場するので、長村氏の論理に従えば、小野盛綱・三浦胤義も当初から宇治に配されていたことになってしまいます。
この点、私は流布本で「供御瀬」に配された京方主力は「遊軍」で、戦況の変化に応じて移動することが当初から予定されており、鎌倉方が主戦場を宇治に選んだので、「供御瀬」から宇治に移動したのではないかと考えてみました。
広範囲に渡る戦線において、どこを主戦場にするのかは基本的には攻撃側が決めることで、防禦側はそれに対応するしかありません。
承久の乱においても、瀬田橋・供御瀬・宇治橋・真木島・芋洗・淀渡等からどこを主戦場とするかは鎌倉方が決めた訳で、結果的には鎌倉方は宇治橋を選択した訳ですが、それを予め京方が知ることはできません。
京方としては、瀬田橋が主戦場になっても、宇治橋その他が主戦場になっても、その時々の事態に臨機応変に対応するしかありません。
そこで、藤原秀康・三浦胤義は、自らが率いる軍勢を「遊軍」と規定し、鎌倉方の対応を見た上で、主戦場となった場所に機動的に駆けつける防御態勢を取ったのではないか、『吾妻鏡』に記された宇治の「二万余騎」は、当初「食渡」=「供御瀬」に配されていた京方の主力が宇治に移動した後の数字ではなかろうか、というのが私見です。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その25)(その26)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83f226303d064de4ad4db27926da1c7a

なお、大江親広の行動についても流布本と『吾妻鏡』で矛盾があるように見えますが、私は大江親広は宇治に移動することなく「供御瀬」に留まり、北上して瀬田橋から京に向かい、「関寺辺」で「零落」したのではなかろうかと考えています。

慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その13)─大江親広は関寺に引き返したのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a41049e71d752b1fb5f6bec17576929a
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その14)─大江親広は「四百騎を率いていた」か。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/27de03b6846de39507b2f5ed7011256f
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その57)─「今となっては人間らしいとも思います」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p134)

-------
 勢多で時房軍に敗れた胤義は後鳥羽上皇のもとに参り、御所に籠もって敵を迎え、討ち死にしたいと申し入れたが、上皇はこれを受け入れず、胤義に退去を命じた。胤義は上皇に味方したことを後悔し、最期に兄義村に対面して一言かけた上で、兄の手にかかりたいと、東寺で兄を待ち構えた。兄の旗印をみかけた胤義は、「駿河殿はいらっしゃるか。そこにいらっしゃるならば、私を誰とお思いか。平九郎判官胤義ですよ。鎌倉で過ごすはずを、あなたの冷たい仕打ちに耐えがたくて都に上り、院に誘われて謀反を起こしました。あなたを頼って、この度相談の文を出しました。我ながら残念です。義時の味方をして、和田合戦で親族を見捨てるようなあなたを、今となっては人間らしいとも思います。あなたに一目お会いしたいと思ってやって来ました」と声をかけたが、義村は「馬鹿者とかけ合っても無駄だ」と、その場を去ってしまった。胤義はさらに西に落ち、木島(京都市)で子息重連とともに自害したという(慈光寺本『承久記』)。東寺における合戦を義村と胤義との直接的なありとりとして描くのは慈光寺本のみであり、他の写本は、義村ではなく、その手勢の佐原次郎と胤義のやりとりとして描いている。いずれにしても軍記物の創作であり、実態は不明と言わざるをえない。胤義の首は太秦(京都市)にいた妻のもとに届けられ、義村の許へと送られた。義村は哀れに思えて涙を流しつつも、されにその首を泰時のもとへと送った(『吾妻鏡』、古活字本『承久記』)。
-------


ずっと『吾妻鏡』一色でしたが、ここで久しぶりに慈光寺本と流布本(古活字本)が紹介されていますね。
さて、そもそも慈光寺本には宇治川合戦が存在しないので、最終的な敗戦報告は山田重忠の杭瀬川合戦の直後に置かれていますが、そこでは、

-------
 翔・山田二郎重貞ハ、六月十四日ノ夜半計ニ、高陽院殿ヘ参テ、胤義申ケルハ、「君ハ、早、軍ニ負サセオハシマシヌ。門ヲ開カセマシマセ。御所ニ祗候シテ、敵待請、手際軍仕テ、親リ君ノ御見参ニ入テ、討死ヲ仕ラン」トゾ奏シタル。院宣ニハ「男共御所ニ籠ラバ、鎌倉ノ武者共打囲テ、我ヲ攻ン事ノ口惜ケレバ、只今ハトクトク何クヘモ引退ケ」ト心弱仰下サレケレバ、胤義是ヲ承テ、翔・重定等ニ向テ申ケルハ、「口惜マシマシケル君ノ御心哉。カゝリケル君ニカタラハレマイラセテ、謀反ヲ起シケル胤義コソ哀ナレ。何ヘカ退ベキ。コゝニテ自害仕ベケレドモ、兄ノ駿河守ガ淀路ヨリ打テ上ルナルニ、カケ向テ、人手ニカゝランヨリハ、最後ノ対面シテ、思フ事ヲ一詞云ハン。義村ガ手ニカゝリ、命ヲステン」トテ、三人同打具シテ、大宮ヲ下ニ、東寺マデ打、彼寺ニ引籠テ敵ヲ待ニ、新田四郎ゾカケ出タル。翔左衛門打向、「殿原、聞給ヘ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。王城ヨリハ西、摂津国十四郡ガ中ニ、渡辺党ハ身ノキハ千騎ガ其中ニ、西面衆愛王左衛門翔トハ、我事ナリ」ト名対面シテ戦ケルガ、十余騎ハ討トラレテ、我勢モ皆落ニケレバ、翔ノ左衛門ニ大江山ヘゾ落ニケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f263e58f5c29509706d6166498b7e1f6

となっていて(岩波新大系、p349以下)、敗戦の報告者は渡辺翔・山田重忠(慈光寺本では「重貞」または「重定」)・三浦胤義の三人です。
流布本では、宇治川合戦の敗北を後鳥羽院に報告するのは「能登守秀康・平九郎判官胤義・山田次郎重忠」の三人であり(『新訂承久記』、p122)、『吾妻鏡』では六月十五日条に、

-------
寅剋。秀康。胤義等参四辻殿。於宇治勢多両所合戦。官軍敗北。塞道路之上。已欲入洛。縱雖有万々事。更難免一死之由。同音奏聞。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

と藤原秀康・三浦胤義「等」が報告に参上したとなっていて、いずれも藤原秀康が筆頭、三浦胤義が二番目であり、渡辺翔など出てきません。
ここは単なる事実の報告ではなく、御所に立て籠もって戦うことの許可申請を兼ねている訳ですから、渡辺翔程度が出て来るのは変ですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その54)─藤原秀康の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd430ee4bfd4308d15a9a66252b9c682

ま、それはともかく、この後、

-------
 紀内殿、打テ出タリ。山田殿カケ出申サレケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。尾張国住人山田小二郎重貞ゾ」トナノリテ、手ノ際戦ケル。敵十五騎討取、我身ノ勢モ多討レニケレバ、嵯峨般若寺ヘゾ落ニケル。
 其次ニ、黄村紺ノ旗十五流ゾ差出タル。平判官申サレケルハ、「是コソ駿河守ガ旗ヨ」トテカケ向フ。「アレハ、駿河殿ノオハスルカ。ソニテマシマサバ、我ヲバ誰カト御覧ズル。平九郎判官胤義ナリ。サテモ鎌倉ニテ世ニモ有ベカリシニ、和殿ノウラメシク当リ給シ口惜サニ、都ニ登リ、院ニメサレテ謀反オコシテ候ナリ。和殿ヲ頼ンデ、此度申合文一紙ヲモ下シケル。胤義、オモヘバ口惜ヤ。現在、和殿ハ権太夫ガ方人ニテ、和田左衛門ガ媒シテ、伯父ヲ失程ノ人ヲ、今唯、人ガマシク、アレニテ自害セント思ツレドモ、和殿ニ現参セントテ参テ候ナリ」トテ散々ニカケ給ヘバ、駿河守ハ、「シレ者ニカケ合テ、無益ナリ」ト思ヒ、四墓ヘコソ帰ケレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e19d58a3e31ad3b612ce848bfe020d1a

と続きます。
高橋氏の要約と比較すると、「義時の味方をして、和田合戦で親族を見捨てるようなあなたを、今となっては人間らしいとも思います」は分かりにくいですね。
久保田淳氏の脚注でも「人ガマシク」は「人間らしいと思って」とあり、高橋氏はそれに従っておられるのでしょうが、何とも間の抜けた感じは否めません。
少し前、胤義が渡辺翔・山田重忠に言った言葉に「何ヘカ退ベキ。コゝニテ自害仕ベケレドモ」とあるので、「アレニテ自害」の「アレ」は院御所(慈光寺本では高陽院殿)のようです。
とすると、「人ガマシク、アレニテ自害セント思ツレドモ」は「武士らしく(武士の習いとして)、(潔く)院御所で自害しようと思ったけれども」と訳した方が良さそうですね。
つまり、「人ガマシク」の「人」は一般的な「人間」ではなく、「武士」ではないかと思います。
ま、そんな細かなことはともかく、ここは慈光寺本作者が「和田左衛門」(和田義盛)が実際には三浦義村・胤義兄弟の従兄であるのに「伯父」と誤解している点、そして胤義が義村を「伯父ヲ失程ノ人」と非難できる立場にあると考えている点が興味深いですね。
この問題は後で検討するとして、慈光寺本の続きを見ておきます。

-------
 平判官ハ、敵少々討取テ思様、「胤義コソ弓箭ノ冥加尽タリトモ、帝王ニ向マイラセテ、軍ニ討勝、世ニアランズル人ヲ討取テハ、親ノ孝養ヲモ誰カハスベキ」ト思ヒツゝ、大宮ヲ上リニ一条マデ、西ヘゾ落ニケル。西獄ニテ敵ノ頸ヲ懸、木島ヘゾオハシケル。木島ニテ十五日ノ辰ノ時ニ、平判官父子自害シテコソ失ニケレ。「アハレ、武士ナリツル人を」ト、オシマヌ人モ無リケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa05aa70336d1e38674b1b939cfe27a6

ということで、流布本に比べると、慈光寺本の胤義自害の場面はずいぶんあっさりしています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その56)─「泰時は子息時氏を呼んで渡河を命じた」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p133)

-------
 八日に帰洛した秀康・胤義らは摩免戸合戦での敗北を上皇に奏聞した。上皇らは勢多・宇治での防禦を決め、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇、雅成・頼仁の両皇子、ついで天皇が比叡山麓の坂本(滋賀県大津市)に避難した。上皇は比叡山延暦寺の軍事力に期待を寄せたが、幕府の大軍を恐れた延暦寺は上皇の要請を拒んだので、上皇らは京都に戻った(『吾妻鏡』)。
 十三日、時房は勢多に進み、義村・季光は淀・手上に向かった。泰村は栗子山(所在地不明)に陣したが、足利義氏・三浦泰村が泰時に触れずに宇治橋を渡って合戦を始めてしまった。官軍の攻勢に多くの兵が死傷した。合戦の始まりに驚いた泰時は宇治に駆けつけ、雨で水かさのました宇治川の渡河点を調べさせた。多くの武士が矢に当たり、水に流されるなか、泰時は子息時氏を呼んで渡河を命じた。時氏は六騎を従えて川を渡り、泰村も主従五騎で渡り切った。泰時も筏に乗って川を渡り、幕府軍は辛くも宇治を制圧して、官軍を敗走させた。泰時は深草(京都市)に陣し、淀・芋洗の要衝を破った義村・季光も合流した(『吾妻鏡』)。
-------

「八日に帰洛した秀康・胤義らは摩免戸合戦での敗北を上皇に奏聞した」とありますが、『吾妻鏡』同日条では、

-------
寅刻。秀康。有長。乍被疵令帰洛。去六日。於摩免戸合戦。官軍敗北之由奏聞。諸人変顔色。凡御所中騒動。女房并上下北面医陰輩等。奔迷東西。【後略】


とあって、「摩免戸合戦」の敗北を奏聞したのは藤原秀康と五条有長(有仲)ですね。
この報告者は諸史料で異なり、

 『六代勝事記』:「糟屋の左衛門尉久季」(糟屋久季)と「筑後左衛門尉有永」(五条有長)
 慈光寺本:「員矢四郎左衛門久季」(糟屋久季)と「筑後太郎左衛門有仲」(五条有長)
 流布本:「山田次郎重忠」

となっていて、三浦胤義の名前はどの史料にも見あたりません。

流布本と『吾妻鏡』における山田重忠(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff907bc44ef950c1da8300fab2f9e02e
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その13)─「30.糟屋久季・五条有仲による後鳥羽院への敗戦報告 3行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2128c32aa47f6609fd7d6a17397c928

もっとも、藤原秀康と三浦胤義は一緒に活動していることが多いようなので、「胤義ら」が間違いと決めつけることもできません。
ま、そんな細かなことはさておき、後鳥羽院の叡山御幸は『吾妻鏡』六月八日条、叡山説得の失敗は九日条、帰洛は十日条、宇治川合戦は十三・十四日条の抜粋であり、ここは極めてオーソドックスな記述です。
ただ、高橋氏は「はしがき」で、

-------
 これまでの多くの研究が『吾妻鏡』の叙述をなぞってきたのに対して、最近の高橋の研究は、『吾妻鏡』を原史料や情報源のレベルまで掘り下げて史料批判し、信憑性の高い記事と、『吾妻鏡』編者による大幅な加筆や創作が行なわれている信憑性の低い叙述とを区別し、さらに公家日記や『愚管抄』などの情報と照合した上で、鎌倉時代の政治史を再構築する方法をとっている。
 この方法を用いた叙述には、しばしば史料批判や考証が必要になってしまうため、本書は既存の人物叢書よりも叙述がやや煩雑かもしれない。その点をお詫びしないといけないが、読者には、史料批判の成果によって生み出された最新の三浦義村像をぜひ確かめていただきたい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e65d402b8378fc67dea71931228cd1fb

と豪語されているので、「『吾妻鏡』の叙述をなぞって」いるだけの記述はどうにも物足りないですね。
私には『吾妻鏡』の承久の乱の記事には泰時美化の傾向が強く、宇治川合戦についても怪しい記述が多いように思われるのですが、高橋氏は「信憑性の高い記事と、『吾妻鏡』編者による大幅な加筆や創作が行なわれている信憑性の低い叙述」をどのような基準で「区別」されているのか。
例えば、「泰時は子息時氏を呼んで渡河を命じた」云々は『吾妻鏡』六月十四日条の、

-------
「武州招太郎時氏云。吾衆擬敗北。於今者。大将軍可死之時也。汝速渡河入軍陣。可捨命者。時氏相具佐久満太郎。南条七郎以下六騎進渡。【後略】
-------

を受けていますが、高橋氏は泰時が時氏に、「わが軍は敗北しようとしている。今となっては大将軍が死ぬべき時である。お前は速やかに河を阿渡り、敵の陣中に入って命を捨てよ」と命じたとする戦場美談的な部分まで含めて史実と考えておられるのか。
それとも、泰時の発言は『吾妻鏡』編者の文飾であって、渡河を命じた部分だけを史実と考えておられるのか。
まあ、高橋氏としては、「『吾妻鏡』を原史料や情報源のレベルまで掘り下げて史料批判」しようとしても、宇治川合戦については信頼できる「原史料」は存在せず、「最古態本」の慈光寺本には宇治川合戦の記事がなく、「後続」諸本も信頼できないということで、結局、「これまでの多くの研究」と同じく、「『吾妻鏡』の叙述をなぞって」済ませる以外ないということなのかもしれません。
さて、ここまでは『吾妻鏡』一色でしたが、この後、慈光寺本への若干の言及があるので、次の投稿で検討します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その55)─「上皇方には味方しないという保証」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で引用した部分に「義村が義時に異心なきことを誓った際、前田本は三浦氏の氏神である三浦十二天に誓う形をとり」とありますが、前田本を見たところ、

-------
義村二心を存ぜは日本国中大小ノ神祇別而ハ三浦十二天神の神罰をかうふり月日の光ニあたらぬ身と罷成べしと誓言を立られければ【後略】
-------

とあって(日下力・田中尚子・羽原彩編『前田家本承久記』、汲古書院、2004、p236)、「日本国中大小ノ神祇別而ハ三浦十二天神」ですから、「三浦十二天」だけに誓った訳ではないですね。
ま、これも細かなことですが。
さて、『人物叢書 三浦義村』の「第三 宿老への道」「五 承久の乱」(p124~p135)は、冒頭から中盤までは『吾妻鏡』の他、『承久記』の慈光寺本・前田本・古活字本(流布本)・『承久軍物語』に万遍なく言及がありますが、合戦が始まってしまうと殆ど『吾妻鏡』一色ですね。
従って、ある意味、従来通りの平凡な記述に終始します。(p131以下)

-------
 義時邸で、義時・時房・泰時・覚阿(大江広元)・三浦義村・安達景盛による軍議が行われ、東海道の足柄・箱根の関(ともに神奈川県)を固めて官軍を迎え討つ案と、京都に攻め上るという広元の案の二つが政子に諮られて、上洛案に決した。二十二日、泰時・時房・義村らの東海道軍、義時の子朝時率いる北陸道軍が進発した。後発の東山道軍を含めて、約二十万騎に及ぶ大軍であった。二十五日、義時が定めた三道の大将軍が公表された。義村は、時房・泰時・時氏・足利義氏・千葉胤綱とともに、東海道の大将軍と位置づけられた(『吾妻鏡』)。
 六月三日、官軍は美濃・尾張で幕府軍を迎え討つべく進発した。幕府方東海道軍は五日に尾張一宮に到着して軍議を行い、木曽川の要衝である鵜沼渡・摩免戸(岐阜県各務原市)、長良川の要衝墨俣(岐阜県大垣市)などに諸将を派遣することになった。義村は泰時とともに摩免戸に向かった。摩免戸を守るのは藤原秀康・佐々木広綱・同高重・三浦胤義らの官軍の主力部隊だった。この日の夜、木曽川の大井戸(岐阜県可児市)で、武田・小笠原・小山らの東山道軍と官軍大内惟信らとの間から両軍の戦いがはじまったが、官軍は各所で敗れ、京都に逃げ帰った(『吾妻鏡』)。
-------

いったん、ここで切ります。
「約二十万騎」とありますが、『吾妻鏡』五月二十五日条によれば「軍士惣十九万騎」であり、流布本・慈光寺本でも数字は同じです。
高橋氏が何故に四捨五入するのか、私には理由が分かりません。
また、「二十五日、義時が定めた三道の大将軍が公表された」とありますが、『吾妻鏡』には「自去廿二日。至今暁。於可然東士者。悉以上洛。於京兆所記置其交名也」とあって、交名が記されただけであり、「公表」された訳ではないですね。
そもそも誰に対して「公表」するのか。
ま、そんな細かな点には若干の疑問はありますが、全体的には『吾妻鏡』に依拠された非常にオーソドックスな叙述ですね。
そして高橋氏は慈光寺本を一顧だにされないので、メルクマール(3)(武田信光と小笠原長清の密談エピソード)を論ずる余地はありません。
また、高橋氏は慈光寺本のみならず、『吾妻鏡』六月六日条に僅かに記された「山田次郎重忠独残留。与伊佐三郎行政相戦。是又逐電」、「官軍逃亡。凡株河。洲俣。市脇等要害悉以敗畢」にも言及されないので、メルクマール(5)(宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソード)を論ずる余地もありません。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

さて、続きです。(p132以下)

-------
 西上した幕府軍は、七日、野上(岐阜県関ケ原町)・垂井(岐阜県垂井町)に陣して軍議を行った。そこで義村は、北陸道の幕府軍が上洛する前に進軍し、勢多(滋賀県大津市)に時房、手上(所在地未詳)に安達景盛ら、宇治に泰時、芋洗(京都府久御山町)に毛利季光、淀渡に結城朝光・義村が向かって京都を守備する要衝を破ることを提案した。総大将である泰時らもこの案を承諾した。このとき義村の子息泰村は、父と離れ、泰時の陣に加わった(『吾妻鏡』)。義村は後鳥羽上皇に乞われたほどの存在だったから、上皇方には味方しないという保証のために、子息の身柄を泰時に預けたのだろう。
-------

うーむ。
「上皇方には味方しないという保証のために、子息の身柄を泰時に預けた」には史料的根拠はありませんが、高橋氏は『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)でも、

-------
義村の子泰村は父の麾下を離れ、泰時軍に加わることとなった。義村が胤義に与することはないという保証のために、子息を泰時に委ねたのであろう。北条氏と三浦氏はあくまでも一体であることが示された。【後略】
-------

とされています。(p104)
しかし、『吾妻鏡』六月七日条によれば、義村は北陸道軍の合流を待たずに京都を攻めるという最重要の戦略を提案し、それに泰時・時房以下が同意するような、ある意味、義村の方が実質的な「総大将」ではなかろうかと思われるほどの立場ですから、「上皇方には味方しないという保証」だとか「義村が胤義に与することはないという保証」というのはいかにも奇妙です。
『吾妻鏡』には「駿河次郎泰村従父義村。雖可向淀手。為相具武州。加彼陣云々」(泰村は父義村に従い、淀の方面に向かうべきであるが、泰時に同行するためその陣に加わったという)」とあるだけですが、流布本には、

-------
 武蔵守、供御瀬を下りに宇治橋へ被向けるが、其夜は岩橋に陣を取。足利武蔵前司義氏・三浦駿河守義村、是等は「遠く向候ヘば」とて、暇申て打通る。義氏は宇治の手に向んずれ共、栗籠山に陣を取。駿河次郎、同陣を双べ取たりけるが、父駿河守に申けるは、「御供仕べう候へ共、権大夫殿の御前にて、『武蔵守殿御供仕候はん』と申て候へ(ば)、暇給りて留らんずる」と申。駿河守、「如何に親の供をせじと云ふぞ」。駿河二郎、「さん候。尤泰村もさこそ存候へども、大夫殿の御前にて申て候事の空事に成候はんずるは、家の為身の為悪く候なん。御供には三郎光村も候へば、心安存候」と申ければ、「廷は力不及」とて、高所に打上て、駿河二郎を招て、「軍には兎こそあれ、角こそすれ。若党共、余はやりて過まちすな。河端へは兎向へ、角向へ」など能々教へて、郎等五十人分付て、被通けり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4a24d6b60603e0b9524e3ca7ed53ebe0

とあって、泰村自身が泰時との同行を強く希望したことが記されています。
そして、その後、泰村は泰時の指示に反して、更に足利義氏をも出し抜く形で「早軍」を始めてしまいます。

流布本も読んでみる。(その34)─「相模国住人、三浦駿河次郎泰村、生年十八歳」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aad4333b2b8633b4a16d80048069b7b5

要は、父と一緒に淀に行ってもつまらない、宇治橋こそが手柄を立てるために絶好の場所だと判断した「生年十八歳」の泰村が、自らの意志で泰時との同行を願い、実際に功をあせって「早軍」を始めてしまった、というのが流布本のストーリーです。
そして足利義氏と泰村が泰時の許可を得ず、勝手に合戦を始めてしまったことは『吾妻鏡』六月十三日条にも記されているので、流布本のストーリーは事実を相当に反映しているように思われます。
「上皇方には味方しないという保証」だとか「義村が胤義に与することはないという保証」を云々する高橋説は、史料的根拠がないばかりか、合戦に臨む武将の心理としてはちょっと莫迦っぽい感じがします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする