学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その10)─山本みなみ氏「承久の乱 完全ドキュメント」(続々)

2023-10-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
呉座勇一氏は『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021)において、幕府軍の構成を、先ず『吾妻鏡』に基づき東海道十万・東山道五万・北陸道四万、総勢十九万騎、次いで慈光寺本に基づき東海道七万・東山道五万・北陸道七万、総勢十九万騎と紹介した後、

-------
 六月三日、幕府方の東海道軍が遠江に到着したという知らせを受けた後鳥羽方は追討軍を派遣した。慈光寺本『承久記』によれば総大将は藤原秀康、総勢一万九千余騎だという。これを信じるなら、幕府軍の十分の一ということになる。既に大勢は決したと言える。
-------

と書かれています。(p300)
まあ、別に不自然な書き方ではなく、読者も特に変には思わないでしょうが、これが慈光寺本では、

 幕府軍: 東海道 七万騎 東山道 五万騎 北陸道 七万騎
 朝廷軍: 東海道 七千騎 東山道 五千騎 北陸道 七千騎

となっていることを知ると、さすがに妙だな、数字があまりに綺麗に整い過ぎているな、と思う人も多いでしょうね。
ま、それはともかく、山本氏は北条政子の演説についても、『吾妻鏡』に加え、慈光寺本を丁寧に説明されていて、これも意外に珍しい感じがします。
『史伝 北条義時』(小学館、2021)にもほぼ同文の文章がありますが、「承久の乱 完全ドキュメント」から引用してみます。(p78以下)

-------
第三章 『吾妻鏡』で読む義時追討の宣旨と政子の歴史的演説

【中略】この演説については、『吾妻鏡』と慈光寺本『承久記』に詳しいが、前者については『六代勝事記』の記述をもとに編纂していることが明らかになっている。したがって、政子の演説は、『六代勝事記』を第一とし、これに『吾妻鏡』『承久記』を併せて、おおよその内容を知り得る。
 すなわち、政子が武士たちを庭中に集めて語ることには、
「それぞれ心を一つにして聞きなさい。これは私の最後の詞〔ことば〕である。亡き頼朝様は、源頼義・義家という清和源氏栄光の先祖の跡を継ぎ、東国武士を育むために、所領を安堵して生活を安らかにし、官位を思い通りに保証した。その恩は山よりも高く、海よりも深い。不忠の悪臣らの讒言によって後鳥羽上皇は天に背き、追討の宣旨を下した。汝たちは、男を皆殺し、女を皆奴婢とし、神社仏寺は塵灰となり、武士の屋敷は畠になり、仏法が半ばにして滅びることになってもよいのか。恩を知り、名声が失われるのを恐れる者は、藤原秀康・三浦胤義を捕らえて、家を失わず名を立てようと思うはずである」
 というものであった。これを聞いた武士たちは、涙に咽び、つぶさに返事を申すことができなかったという。
 なお、慈光寺本『承久記』だけは、政子がまず大姫・頼朝・頼家・実朝に先立たれたことを嘆き、さらに弟の義時までも失えば、5度目の悲しみを味わうことになるとして、武士たちの同情を引いてから演説に入っている。また、実朝への恩を説き、頼朝・実朝の墓所を馬の蹄で踏みつけさせることは、御恩を受けた者のすることではないとして、京方について鎌倉を攻めるのか、鎌倉方について京方を攻めるのか、ありのままに申せと選択を迫っている。
 結局、鎌倉の町が戦場になることはなかったが、ここで政子が京方の鎌倉襲撃という、最悪の事態を武士たちに想像させている点は興味深い。『六代勝事記』では神社仏寺と武士の屋敷、『承久記』ではより具体的に頼朝・実朝の墓所に触れ、鎌倉の町が潰滅的な打撃を受けると想定していたことがわかる。
-------

『六代勝事記』での政子の演説は4月23日付の下記投稿で紹介していますが、確かに『吾妻鏡』の原型となったと思われる内容です。

使者到来と幕府軍発向までの流布本・慈光寺本・『吾妻鏡』の比較(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04abaaa6ae901cd308f291c7437fd023

また、慈光寺本での政子の演説の原文は、4月18日付の下記投稿で紹介しています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その26)─「和田左衛門ガ起シタリシ謀反ニハ、遥ニ勝サリタリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21a9dd0aae9f78d209bd0a3cd8161afa

さて、『六代勝事記』には「男をばしかしながら殺し。女をばみなやつことし。神社仏寺ちりはいとなり。名将のふしどころ畠にすかれ。東漸の仏法なかばにしてほろびん事を」という文言はありますが、別に神社仏寺も鎌倉のそれと明示している訳ではありません。
しかし、「名将のふしどころ」は頼朝を連想させるので、やはり鎌倉のことを言っているのでしょうね。
そして、慈光寺本では「大将殿・大臣殿二所ノ御墓所ヲ馬ノ蹄ニケサセ玉フ」とあるので、場所が鎌倉であることは明確です。
ただ、こちらも鎌倉を焼払うといった文言はないので、私は今まで、政子の演説と「谷七郷〔やつしちがう〕ニ火ヲ懸テ、空ノ霞ト焼上〔やきあげ〕」云々との山田重忠の鎌倉攻撃案を結び付けてはいませんでした。
しかし、確かに山本氏の言われるように「大将殿・大臣殿二所ノ御墓所ヲ馬ノ蹄ニケサセ玉フ」は「鎌倉の町が潰滅的な打撃を受ける」ことと同義であり、鎌倉を焼払うこととも殆ど同義ですね。
山本氏が鎌倉という「町」に特別な関心を寄せられ、鎌倉という「町」の潰滅を討幕と同義のように語られる点には私は批判的です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その7)─山本みなみ氏の場合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e7f4bd139e9a1a7d96c41ba539906b86

しかし、山本氏が慈光寺本に鎌倉潰滅のヴィジョンが繰り返し描かれていることに注目された点は、まことに慧眼と言うべきですね。
そして、私の立場からすると、

(1)政子の演説の「大将殿・大臣殿二所ノ御墓所ヲ馬ノ蹄ニケサセ玉フ」
(2)義時の演説の「義時モ谷七郷ニ火ヲカケテ、天下ヲ霞ト焼上、陸奥ニ落下リ」
(3)山田重忠の鎌倉攻撃案の「鎌倉ヘ押寄、義時討取テ、谷七郷ニ火ヲ懸テ、空ノ霞ト焼上」

の三つは密接に関連していて、(1)(2)は(3)が名案であり、実現可能性が高いことを読者に印象付けるための伏線のように思われます。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「慈光寺本妄信歴史研究者交... | トップ | 「慈光寺本妄信歴史研究者交... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」カテゴリの最新記事