学問空間

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海辺の墓地(小浜編)

2010-09-29 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月29日(水)02時23分5秒

供養という言葉で何となく思い出したのが、9月5日に訪問した福井県小浜市の「泊(とまり)」という集落です。
ここの「さんまい」は墓地の各区画が白い丸石で囲まれていて、ちょっと不思議な雰囲気でした。
すぐ近くの港には「泊 美しい風景の中に 子供たちが遊び 祖先の魂も遊ぶ 美しい村」との看板がありましたが、まるで『ゲゲゲの鬼太郎』のような世界ですね。

※写真
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『夢中問答集』

2010-09-29 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月29日(水)01時46分31秒

講談社学術文庫版の『夢中問答集』(川瀬一馬校注・現代語訳)の岡崎久司氏「学術文庫版刊行に当たって」には、次のような記述があります。(p9)

-------------
 夢窓疎石が、実は筋金入りの<信>の人であり、<理>の人でもあることを如実に思い知らせてくれるのは、たとえば本書の第十七段であろう。対座する、時の最高権力者足利直義と直義率いる幕府に対し、「元弘依頼の御罪業と、その中の御善根とをたくらべば、何れをか多しとせむや」という苦い問いかけを皮切りに、容赦のない痛烈な批判が展開される。以下「仁義の徳政はいまだ行はれず。貴賤の愁嘆はいよいよ重なる」と、世情のさまに言及しながら畳みかけるように苦言を呈し、「今も連々に、目出たきことのあると聞こゆるは、御敵の多く亡びて、罪業の重なることなり」と断ずる。
 読者には、この火花が飛び散るような夢窓の言葉を直接お読みいただきたいと切に望むが、私はここに、当代における一大禅宗教団の指導者としての立場、師と在俗の弟子との関係といった立場や関係性ではついに説明しきれない、ほかならぬ夢窓という一個の人間の赤裸な個性がはじけて、ほとばしり出ているように思えてならない。康永三年の刊本『夢中問答集』が、仮に何らかのプロパガンダが紛れ込んだ再刻再刊本であったとしても、第十七段の中の夢窓は、何者に対しても一歩も退かぬ、<信>を命とする不動の人間の相貌をもっている。たしかに次々と時の権力者に迎えられ、その都度手厚い庇護をうけて宗門の頂点に上りつめたことは事実であるけれども、それも夢窓が不動であったことの証左であるといったら、権力というものの本質を知らないきれいごとと謗りをうけるであろうか。
-------------

私は政治に深入りする宗教家があまり好きではないので、夢窓疎石の文章を読んでも岡崎氏のように感動はできないのですが、しかし夢窓疎石が大変な思想家であることは明らかですね。
ただ、南北朝時代において、当時の普通の知的レベルを持った武士たちが夢窓疎石の思想を理解できたかというと、まあ、それはないだろうと思います。
では、そういうレベルの人たちが夢窓疎石と足利直義の関係をどのように見ていたのか。
康永三年は1344年で、1275年生まれの夢窓疎石は70歳、1306年生まれの足利直義は39歳ですね。
壮年の「最高権力者」直義が31歳上の老僧にニ・三行程度の素朴な質問をして、それに老僧が数十・数百倍の分量で言いたい放題言いまくっている本が印刷物として大量に流布した訳ですが、これを読んだり聞いたりした人々は直義をどのような目で見るのか。
目立たないところで「最高権力者」の諮問に答えるのではなく、質疑応答集を刊行して、自分は「最高権力者」に対してここまで「容赦のない痛烈な批判」をしているのだとプロパガンダする師と、そんな師にあくまでへりくだる健気な「最高権力者」の弟子。
これを麗しい師弟関係と見る人もいれば、「変態か、こいつらは」と思う人もいそうですね。

>筆綾丸さん
敵を供養・鎮魂するというのは究極の勝利宣言、支配の完了宣言のような気味の悪さがありますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

刑余の姦人 2010/09/28(火) 22:08:08
『徳川実紀』(新訂増補国史大系39)をめくっていると、寛永二年に、次のような記述が
ありました。将軍は家光で、明国滅亡前夜のことですね。

「明の福建道の都督某より。長崎代官末次平蔵政直のもとに書簡を贈りしは。日本沿海の
細民等海上に出没して。唐商の船をさまたげ。貨物を侵奪する事たえざれば。早く制禁を
加へて海上を掃清し。通交の道をひらきたまはるべしとなり。よて本邦今太平にして。
闔国無為の化に浴せずといふものなし。海浜細民に至るまでも。さる不良の挙動なすべ
からず。これは明国の辺民又は刑余の姦人等。ひそかに我国人のさまして商船を侵掠せる
なるべし。毎歳心をわづらはさず。商船を往来あるべき旨をもて答へしめらる。其書簡の
文は林道春信勝が作る所とぞ聞えし」(同書357頁)

貴国の刑余の姦人等、密かに我国の領土を侵掠せる旨を答えせしむ・・・中国のような品
のない国に、おまえを供養してやろう、と言われても、遠慮しますね。
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天龍寺の奇妙さ

2010-09-26 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月26日(日)01時29分30秒

尖閣諸島の問題は、仮に衝突で海上保安官が死亡していたら、どんな展開になったんですかね。
また、今後、日本の漁民が中国海軍に銃撃されて死者が出たりしたらどうなるのか。
中国が今後も海軍を増強させていけば、遅かれ早かれ小規模な軍事衝突は起きるでしょうし、場合によっては戦争になるかもしれないですね。
ま、戦争になってもいつかは終わりますね。
数千、数万、数十万、数百万の死者が出て、中国か日本のどちらかの勝利により戦争が終わったとします。
その後、勝った国が、「戦争が終われば敵味方の区別なく弔うのだ」「勝者は敗者を鎮魂すべきだ」と考えて、数十億(元or円)、数百億(元or円)、数千億(元or円)の、敵味方の区別をすることのない巨大な鎮魂のための施設を作ったとします。
作ることを主導した人に「悪意」はなかったとしても、これをすべての人が受け入れられるのか。
負けた国の人は、自国の戦争犠牲者が勝った国で「鎮魂」「供養」されることに違和感、屈辱感を感じないのか。
また、勝った国の人の中でも、自分の身近な犠牲者と敵国の犠牲者が同じ場所で鎮魂の対象となることに違和感、更には嫌悪感を感じる人はいないのか、何でそんなものに巨額の費用を支出するのかと感じる人はいないのか。

いささかグロテスクな仮定はひとまず置いといて、ここで天龍寺について考えてみます。

後醍醐天皇の死去が暦応二年(1339)八月。
その四十九日にあたる同年十月五日に、夢窓疎石が足利尊氏・直義とはかって天皇の冥福を祈る寺院の建立を計画。
天龍寺船の派遣などで得た膨大な資金をかけて、七回忌の康永四年(1345)八月、天龍寺の落成供養。
貞和五年(1349)、直義と高師直の対立。
観応元年(1350)十二月、直義、南朝に下る。
観応二年(1351)二月、直義軍、尊氏軍を撃破。高師直・師泰殺害さる。
観応二年(1351)十月、尊氏、南朝に下る。(正平一統)
正平七年(1352)二月、尊氏、直義を毒殺。

天龍寺の造営期間と、その後直義が毒殺されるまでの期間はほぼ同じですが、このめまぐるしさはいったい何なのか。
天龍寺の造営が延暦寺ら旧仏教側の憤激を呼んだことは『太平記』にも詳しく書かれていますが、この事業は、同時に尊氏の下で一緒になって戦った人々に深刻な相互不信を惹き起こした可能性はないですかね。
夢窓疎石の構想が深遠な宗教的信念に基づいていたとしても、それをきちんと理解できた人はどれだけいたのか。
乾いた感性のバサラな連中は、何で自分たちが戦っている敵の親玉を鎮魂しなければならんのじゃ、そんなもんほっとけ、くだらねーことをやってんじゃねえ、笑わせるな、と思ったのではないか。
また、シミジミ系の人々の場合、こんなことをしたら死んだやつらが浮かばれない、と思った人も相当いたのではないか。
尊氏が直義と協調していたから表立っては文句は言わないにしても、天龍寺の造営が始まる前までは味方として一体感を抱いていた人々の間で、夢窓疎石に心酔する直義は自分たちとは全く異質な人間ではないかという疑念、そして嫌悪感が生じるようになったのではないか。

すべてが決着した後で、敵味方の区別なく供養しましょう、鎮魂しましょうという話だったら、別に毒にも薬にもならない訳で、まあどうでもいいようなことですが、天龍寺は本当に微妙な時期に、本当に強引に造っていますね。
ネズミのような顔をした撫で肩男が莫迦なことを思いつかなかったら、尊氏・直義兄弟が殺し合うことも、もしかしたらなかったかもしれない、と考えるのは夢想粗積でしょうか。

柳田俊一氏、「太平記 現代語訳」

>筆綾丸さん
秋山氏は自分にとって都合の良い事例だけを発掘して、「伝統的」と称しているように感じます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

中世鎌倉の地政学 2010/09/24(金) 20:05:39
小太郎さん
秋山哲雄氏の『都市鎌倉の中世史』を読んでみました。
戦死者の供養は敵味方の区別なく弔うとすると、北条氏は和田氏や比企氏や安達氏を
どのように供養したのだろうか。政治的配慮から必要に応じて敵も弔ったにすぎない
のではないか、という気もしました。尊氏は直義を、足利氏は新田氏を、どのように
鎮魂したのだろうか。

「以上のように、足利氏の場合にも、やはり父や兄弟間の一族分業があったことになる。
初期室町幕府に見られる足利尊氏と直義の二頭政治という分業も、もしかしたらこのよう
な分業体制の延長線上にあったのかもしれない」(同書43頁)
興味深い指摘ですが、在鎌倉の尊氏と在国の直義とした場合、この分業体制が、尊氏の
主従的支配と直義の統治的支配に対して、パラレルになるのか、交差してねじれるのか。

義時の「当時館」の所在地を理詰めに推論してゆく箇所は、とても面白く、義時の別荘
の後身が建長寺になるのですね。
「筆者の結論が間違っていなければ、建長寺を建立させた時頼は、祖父や曾祖父の別荘が
あった場所に建長寺を建立し、自分は隣の谷に最明寺亭を建てたことになる」(107頁)
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『都市鎌倉の中世史』

2010-09-22 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月22日(水)07時18分2秒

Wallerstein氏のブログ「我が九条-麗しの国日本」で紹介されていた秋山哲雄氏の『都市鎌倉の中世史 吾妻鏡の舞台と主役たち』(吉川弘文館、2010)を読んでみました。

---------------
戦争が終われば敵味方の区別なく弔うという姿勢こそが、伝統的な戦争犠牲者に対する供養の方法だったことは、何としても読者に記憶しておいてほしい。(p114)

しかし、いつの時代でも勝者は敗者を鎮魂するものであった。後醍醐天皇が宝戒寺を建立することで得宗を鎮魂しているのと同様に、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏・直義兄弟も、後醍醐天皇の冥福を祈るために天竜寺を建立している。すでに強調したが、戦乱の犠牲者を供養する際には、味方ばかりでなく敵方も対象とするのが伝統的な鎮魂の方法であったことは、改めて読者に伝えておきたい。(p135)

鎌倉時代から戦死者の供養は敵味方の区別なく行われていることに現代人は注目しなければなるまい。
 現代においてしばしば用いられる「伝統的」という言葉は、実はあまり歴史をもっていないことが多い。たいていが現代人の記憶している程度の時間であり、個人の記憶に追うところが大きいのである。したがって、現代人の常識で「伝統的」であると決めつけてはならない。過去の事柄や人々の発想を現代的な感覚だけで見てしまっては、本質的な部分を見誤ることになろう。(p210)
---------------

秋山氏は何故か靖国神社を明示してはいませんが、最近は靖国神社批判のために、このようなことを言われる中世史研究者が多いようですね。
確か井原今朝男氏も同じようなことを書かれていました。
私にはこの掲示板で靖国神社を論じる意図も用意もないのですが、敵味方の区別なく行われた供養として挙げられる事例のうち、天龍寺は他と異質のような感じがして、気になっています。
本郷恵子氏の『将軍権力の発見』を読んで漠然と感じたのは後醍醐天皇の存在感の希薄さと夢窓疎石の存在感の大きさで、あまりたいした人でもない後醍醐天皇のために天龍寺を造ってあげて後々まで立派な存在のように誤解させた原因の相当部分が夢窓疎石にあるのでは、などと思っているのですが、夢窓疎石についてきちんと勉強した後で少し書いてみるつもりです。
いつになるか分かりませんが。

>筆綾丸さん
小松茂美氏の『続日本の絵巻 法然上人絵伝』解説によると、忍澂の『勅修吉水円光大師御伝縁起』(享保二年、1717)によって『四十八巻伝』に「勅集御伝」との呼び方が一般化したようですが、「勅集」の根拠は鎌倉時代の文献には求めることができず、また尊円法親王の年齢が制作に着手したとされる徳治二年(1307)当時10歳であるなど、内容も全面的に信頼はできないようですね。
詞書の執筆者とされる人々のうち、皇族は明らかに持明院統に偏っているのに、後二条院が入っている点も気になります。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

法然上人絵伝 2010/09/21(火) 22:16:30
大橋俊雄校注『法然上人絵伝上下』を眺めてみました。
「法然上人の百回忌を期し、上人の伝と教えを集成する意図のもとに、十四世紀の初期成立したと考えられ、執筆は聖覚の流れをくむ人たちによってなされたと思われるだけに文辞は典雅、詞書も詳細をきわめている。しかも、知恩院の総力と鎮西教団を背景に宮廷の外護もあり、宮廷の絵所の絵師たちと能書家を動員しての『絵図』の彩色は鮮麗、筆蹟も優雅、見るからに絵詞伝中の白眉である」(下巻301頁~)

「法然上人行状絵図第十二」(上巻103頁~)の、大炊御門左大臣(経宗)、花山院左大臣(兼雅)、右京権大夫隆信朝臣、卿二品の弟民部卿範光、大宮の内府(実宗)、徳大寺公継が、本郷恵子氏の言われる専修念仏の信者グループのようですが、これらの人々は他の史料で裏がとれているのかどうか。

「野宮左大臣は師弟の契あさからざるによりて、興福寺の衆徒上人の念仏興行をそねみ申て、奏聞にをよびし時は、上人ならびに弟子権大納言を遠流せらるべきよし申状をさゝぐといへども、更其心ざしをあらためず、専修のつとめおこたる事なくして、生年五十三、嘉禄三年正月廿三日に職を辞し、同三十日種々の奇瑞をあらはして往生をとげ、いまに末代の美談となり給へり」(上巻107頁)

民部卿範光については、次のようになっています。
「後鳥羽院の寵臣なり。ひとへに上人に帰して称名のほか他事なかりけり。生年五十四の春、承元々年三月十五日に出家をとげ、法名を静心と号、病悩火急のよしきこしめされければ、しのびて御幸ありけり・・・」

建永2年10月25日改元して承元元年。法然流罪の太政官符は建永2年2月28日、後鳥羽院の寵臣範光の出家は建永2年3月15日で、絵伝にいう範光の出家は専修念仏弾圧のさなかであり、いかにも不自然な感じがしますね。

網野善彦氏『歴史を考えるヒント』(新調選書)に、ケガレの伝染について、次のようにありました。
「例えば、ある人の家に乞食が入ってきて、床下で寝ているうちに行き倒れて亡くなってしまった場合、ケガレが発生し、その空間がケガレてしまいます。西日本では、犬や牛馬などの家畜の生死もケガレとされていますので、犬が縁の下に入って死んだ場合も同様です。これを甲穢とします。甲がそれを知らずに乙の家へ行き、そこで食事を共にするなど接触すると、そのケガレは乙に伝染し、乙穢が生じます。さらに、乙が丙の家へ行って接触すると、丙に伝染し丙穢となります。その間にケガレは次第に稀薄になっていき、丙が丁の家に行く頃には消滅して、それはケガレにはならないと考えられていました」(同書118頁)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%862%E4%B9%97%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87
Inverse-square law(逆二乗法則)のようですが、甲乙丙で終息する根拠が弱いですね。
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「統治」という外交

2010-09-17 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月17日(金)19時43分32秒

昨日、本郷恵子氏の『将軍権力の発見』を入手し、途中まで読んでみました。
スピード感と清潔感のある文体なので、どんどん読み進めることができますが、内容は非常に高度ですね。
筆綾丸さんが引用された部分の少し前には、

--------
 頼之は、幕政の担当者として、関東に対する直接支配から退き、一種の外交関係を築く方向に舵を切っていったのではないだろうか。直接支配のためのエネルギーを節約し、より低コストに秩序を保つ方策を意図したのである。ただし外交関係において、中央政府である室町幕府は、関東に対して絶対的な優位性を持たなければならない。京都にあって関東にないもの、あるいは京都にあって他地域にないものは何か──それは朝廷でしかありえない。そして朝廷の特質とは、それが当初から全国政権として構想されていることであり、そのための精緻な組織と文書様式を持っていることである。つまり、関東の直接支配から撤退した、ひいては全国を直接支配することから撤退した事実を補償するための手段として、朝廷の文書様式が採用されたのではないだろうか。太政官符・官宣旨という様式を以て、円覚寺およびその所領が所在する九つの国に命令を下すことは、実質的ではないにせよ、それらの文書を発給する主体が、九つの国を含む全国をあまねく支配の網で覆っていることを示す効果があったのである。
---------

とありますが(p121)、なるほどと思いました。
第五章「禅宗と室町幕府」も、フムフムと思うところが多いですね。
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大伴家持と能登

2010-09-15 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月15日(水)07時33分40秒

>筆綾丸さん
昭和天皇の訪問先は輪島漁港の近くの鴨ヶ浦海岸ですね。
大伴家持に「沖つ島 い行き渡りて 潜くちふ 鰒珠もが 包みて遣らむ」という歌があるそうですが、昭和天皇の歌もこれを踏まえているようですね。


本郷恵子氏の『将軍権力の発見』は私も注文済みで、今日、入手できそうです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

将軍権力の発見 2010/09/14(火) 19:47:10
小太郎さん
舳倉島は寂しそうな所ですが、昭和天皇が行かれているなら、是非、行かねばなりませんね。
なぜ徳大寺公継が『法然上人絵伝』で特別な扱いを受けているのか・・・難問ですね。

http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2584697
本郷恵子氏『将軍権力の発見』を、第四章の途中まで読みました。
「第三章「文書」と権力」は圧巻ですが、このような見解はまったくはじめてで、僭越ながら、実に興味深い考察ですね。

「禅宗寺院への官符・宣旨発布は、室町幕府発足以来の課題ー内乱状況のなかで、幕府の支配構想をどのように設定するか、その際に禅宗寺院をいかに利用するかという課題にとりくむ過程で出てきたものと考えられる。全国を覆う安国寺・利生塔の造営をはじめとして、室町幕府は禅宗寺院に、政治や秩序の不備を宗教理念の分野で補う役割を与えた。その禅宗寺院の存在意義を、全国に通じるものとして承認する役割を、公家政権の文書様式に求めたのであろう。帰納的な政権として現実の困難と切り結びつつ、形而上の世界を無謬的にあつかう宗教勢力や、全国政権としての前提から演繹的に組織されている公家政権とから、いわば虚構的な保障を得る方式である。これを最初に発想したのは足利直義であり、地方勢力との関係性のなかで、より明確な役割を与えたのが細川頼之だったのではないだろうか。
また、もう一点注目すべきは、室町幕府と文書との関係である。鎌倉幕府は、当事者の要請に応える形でのみ、文書の交付に応じた。訴えるべき支配者を選び、交付を求める文書の種類を指定するのは当事者であって、それに対して鎌倉幕府は、一貫して受身の姿勢でのぞんだ。朝廷との関係においても、自らの優位性を文書様式に反映させようとせず、やむを得ない場合にのみ、最小限の応答をするのが常であった。
これに比較すると室町幕府は、より有効な文書様式・文書の利用法を構築していこうと意図していた。朝廷の綸旨や院宣と連動する文書を発給し、さらに、太政官符や官宣旨を促したのである。外部との関係性・社会における当事者主義の原則との関連において、室町幕府は、前代の鎌倉幕府の体制から、大きな転回を遂げたと評価できる」(同書126頁~)
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徳大寺公継

2010-09-12 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月12日(日)10時52分46秒

上横手氏によれば、『三長記』の元久三年(1206)、

-----------
 六月一九日条に「専修念仏事、依偏執之勧進、可諸教衰微之由、興福寺衆徒、所経上奏之也。(中略)任解状之旨、可被宣下也」という内容の宣旨を出すことの可否について、上皇は春宮大夫徳大寺公継らの意見を求めている。二一日条にも、類似の宣旨について、入道関白松殿基房、入道左大臣三条実房、前太政大臣大炊御門頼実、摂政近衛家実、右大臣松殿隆忠、内大臣花山院忠経らの意見を求めている。すでに退官したり、出家した元老についても意見を徴しているのが注目される。これらの宣旨では、専修念仏が偏執の勧進を行い、諸宗を誹謗し、念仏以外の余行は出離の要ではないとすることが非難されている。諮問に当たり上皇は、宣旨を出すことによって、念仏そのものの衰微を招くならば、かえって罪業になるという懸念を付け加えている。諮問対する意見の中には、この趣旨のままでよく、念仏の衰微などありえないという意見と、もしこれによって、信心を翻すものが一人でも現れたら、罪業になることを懸念するという意見とに分かれた。二八日、長兼はこれらの人々の申状を院御所に持参した。上皇の返事は、「逐って左右を仰す」ということであった。一か月以上経過した八月五日、興福寺の三綱が長兼を訪れ、念仏宗の宣旨を早く申沙汰して欲しいといった。それに対する長兼の回答は「被仰下者、可致沙汰」というもので、上皇の仰せがあれば沙汰をするが、何もないのだというものであった。
-----------

ということですが(『鎌倉時代の権力と制度』p240)、とすると、徳大寺公継については、『法然上人絵伝』にいう「興福寺の鬱陶猶やまず、同二年九月に蜂起をなし、白疏をささぐ。彼状のごとくば、上人ならびに弟子権大納言公継卿を重課に処せらるべきよし訴申。」という状況はなかった訳ですね。
また、この時点では、後鳥羽院を含め、貴族社会上層の相当多数が法然に同情的だったようにも思えます。
では、徳大寺公継が『法然上人絵伝』で特別な扱いを受けていることをどのように考えるべきなのか。
『法然上人絵伝』が歴史的事実の記述において本当に信頼できるものであれば、いつどのような関係ができたのかはともかくとして、徳大寺公継と法然の間には特別の関係があったと言えるのでしょうが、後伏見院の勅命で制作され、伏見院・後伏見院・後二条天皇らが詞書を書いたという来歴をはじめ、微妙なものがありますね。
まあ、宗教関係の重宝はだいたいみんなそんなもの、とも思いますが。

『法然上人絵伝』
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昭和天皇と能登

2010-09-12 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月12日(日)03時01分43秒

一月末以来、久しぶりに能登に行ってきました。
いささか強行軍であったため、プチトラブルもあって、帰宅は深夜1時近くでした。
気温は高かったものの、海の色は盛夏の青さから比べるとかなり濃い色になっていて、秋の訪れを感じました。

>筆綾丸さん
舳倉島に向かう一日一便の定期船の待合所に行ってみましたが、本当に小さな建物で、若い女性の事務員さんが一人、暇をもてあましている様子でした。
また、鴨ヶ浦海岸には次のような案内板がありました。

----------
鴨ヶ浦海岸
 輪島随一の海岸美を誇る景勝地で、猫の地獄と呼ばれている岩を中心とした岩礁海岸が開けている。地質学的には砂岩の陸地を海水が洗いさって残ったものだと云われる。
 昭和33年に昭和天皇、皇后両陛下が行幸啓され、そしてこの岩頭に立たれて詠まれた御製「かつきして あはひとりけ里 沖つへ能 舳倉島より きたるあまらは」(かづきして鮑とりけり沖つ辺の舳倉島より来る海女らは)の歌碑を中心に、輪島築港の功労者である輪島町長熊野熊次郎の顕彰碑や大谷句仏の句碑や、宮中歌会初めの入選歌碑などが建てられている。文学散歩にも最高の場所として評価が高い。また、冬場は波の花が有名である。
----------

昭和天皇も実にいろんなところに行かれてますね。
この歌は万葉集に入っていてもおかしくないほどの古風な歌ですが、なかなか良いですね。
レスはのちほど。

鴨ヶ浦海岸


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

果蔬涅槃図 2010/09/10(金) 19:23:07
小太郎さん
http://www.shogoin.or.jp/html/guide_01.html
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&q=%E8%81%96%E8%AD%B7%E9%99%A2%E5%A4%A7%E6%A0%B9&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=3weKTNH1Ac_Xcbbv7cgE&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CDgQsAQwAw&biw=1259&bih=597
京都で蕪と言えば、聖護院が有名ですが、徳大寺家とは関係ないのでしょうね。
徳大寺は衣笠山の南西麓に実能が山荘を建てたことに由来するようですが(本郷恵子氏
『古今著聞集』81頁)、合理主義者徳大寺父子と蕪・大根(radish:turnip)がなぜ結び
つくのか、合理的な解釈は難しいですね。もしかすると、徳大寺の周囲は一面の蕪・大根
畑で、裏家紋(?)だったのかもしれないですね。大根の絵柄のデブ男は、白拍子夜叉
の倅実基でしょうか。公家列影図の内、蝶の絵柄の右下は人参(carrot)かもしれないで
すね。鎌倉初期の公家と野菜というテーマは、未踏の領域で、何か深い問題があるかも
しれないし、何もないかもしれない・・・。
公家列影図の束帯の絵柄は、歌合せならぬ野菜合せでしょうか。

http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/30-1/itoh.pdf
伊藤若冲に「果蔬涅槃図」という独創的な作品がありますが、鎌倉期の絵師は何を考えて
いたのか。手控えより、もっと深い意味があれば、面白いですね。

秘密山とは、珍奇な山号ですね。
本郷家には何か決定的な意見の対立があるのだろうか、などとあらぬ妄想をしてしまい
ました。
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「公家列影図」の蕪・大根

2010-09-09 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月 9日(木)19時16分21秒

>筆綾丸さん
>束帯にある蕪(三株?)のような絵柄
これは本当に蕪なんですね。
京都国立博物館の解説には「束帯の文様に有職を無視して蕪や大根まで描くのは異例であり、あるいは似絵の手控として作られたかとの想像をひきおこす」とあります。

拡大図

検索したところ、三田武繁氏に「『公家列影図』に関する二、三の問題」(『北海道大学文学研究科紀要』44-3)という論文があるそうですが、野菜は「二、三の問題」には 多分含まれないのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

古今著聞集 2010/09/06(月) 19:26:31
小太郎さん
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118010.html
松田頼盛の本貫は、『吾妻鏡』治承4年10月17日条にいう足柄上郡の「松田郷」なのでしょうか。
後宇多・後醍醐二代の「盗み」という表現の背後には、光源氏が若紫を盗む話があるのでしょうね。光源氏は、紫の上が死ぬと、ガックリしてまもなく亡くなりますが、これなどは、後宇多が遊義門院の死を契機に出家するのと似ているのかもしれません。しかるに後醍醐は、略奪婚の禧子が亡くなっても、さほど衝撃を受けるでもなく、後妻なんかを中宮にすえて、やたら元気ですね。

本郷恵子氏『物語の舞台を歩く 古今著聞集』を読んでみました。
本郷和人氏との見解の相違点が二つあって、ふーむ、なるほど、と興味深く思いました。
?について、和人氏は、鎌倉幕府の実質的な成立を治承四年十月とされていますが、恵子氏は、和人氏の遡及的起源論をバッサリ斬り棄てて、文治元年とされています。
?について、和人氏は、西園寺家中心史観を否定されていますが、恵子氏は、これでもか、とばかりに三箇所で、この史観の復活を強調されています。
?「源頼朝は、文治元年(1185)、諸国に守護・地頭をおく権利を獲得し、鎌倉の地に幕府を開設した」(4頁)
?「西園寺家は富裕を誇り、鎌倉時代を通じて、朝廷を経済的に支える役割を担った」(40頁)
「同家は鳥羽殿を起点とし、長く知行国主をつとめた伊予国を中継点として、瀬戸内海から九州方面に力を伸ばし、鎌倉時代の朝廷を経済的に支える役割を果たしたのである」(59頁)。
「西園寺家の人びとは親幕派として、朝廷でも重要な地位を占め、とくに「関東申次」とよばれる、京都朝廷と鎌倉幕府との政治交渉の窓口となる役割を果たした。政治的地位とともに、経済基盤の確保も怠りなく、伊予国・安芸国沼田荘・筑前国宗像神社など、瀬戸内海・九州方面に多くの拠点を所有し、大陸との貿易で巨額の利益を得ていた」(101頁)

次は、徳大寺公継。
「彼の生き方の根底にあったのは、「南無阿弥陀仏」のみに価値を見出す、専修念仏の信仰だったのかもしれない」(64頁)
「公継は浄土宗を開いた法然に帰依しており、興福寺の衆徒が法然を訴えた際には、法然とともに遠流に処すべしと糾弾されたほどである。「法然上人絵伝」には、公継は種々の奇瑞をあらわして往生を遂げたとみえる。念仏信者の間では、公継=往生人(極楽往生を遂げた人)と認定されていたのだろう。臨終の際に、よい香がただよい、妙なる音楽が聴こえ、空には紫雲がたなびいたという類の伝承で、これを身近な人びとが喧伝して歩いたと思われる。公継ー孝道ー成季というつながりを含み込む専修念仏の信者グループを想定することができるのではないだろうか。死穢を怖れず、孝道父子を喜んで迎え入れて、公継の往生の話を聞いた人びとが確かにいたのである」(69頁)
「師員のエピソードは、徳大寺公継を中心とする、専修念仏信者のグループを情報源としていたのかもしれない」(119頁)

上横手雅敬氏の論考は、以下のとおりです。
「徳大寺公継はのち左大臣にまで昇るが、『法然上人絵伝』は公継が興福寺に訴えられても志を改めなかったと讃え、その最期について、「種々の奇瑞をあらはして往生をとげ、いまに末代の美談となり給へり」(巻十二)と記している。しかし確実な史料によって、公継と念仏との特別の関係を確認することはできず、かれが興福寺に訴えられた証拠もない」(『鎌倉時代の権力と制度』237頁)
「田村円澄は徳大寺公継が音声に優れており、住蓮・安楽の六時礼讃・引声念仏に重要な役割を果たしたと推定している」(260頁)

「法然上人絵伝」を、おそらく唯一の根拠として、公継中心の専修念仏グループを仮定するのは、五色の糸の上を歩くような危険な綱渡りと言うべきですかね。

公継の肖像(66頁)において、束帯にある蕪(三株?)のような絵柄は、何を意味しているのか。いろいろ気になる人ではありますね。

「死穢(甲穢)を帯びた者と接触すると乙穢となり、乙穢の者が訪問した家の者は丙穢に感染することになっていた」(69頁)
穢の円環は丙で閉じて、丁以降には感染しないのだろうか。その根拠は何なのか。

最後は、524段。
「おそらく登場人物の誰もが、その場の思いつきで行動しているにすぎず、むしろ中世人の未分化な精神構造と刹那的な行動様式を示す話として読めば十分かもしれない」(95頁)
守覚法親王の話から、中世人の未分化な精神構造、などと何故言えるのか、理解できない。
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丹後松田氏と幕府奉行人松田氏

2010-09-08 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月 8日(水)07時43分31秒

>筆綾丸さん
『古文書は語る・中世丹後の歴史』(京都府立丹後郷土資料館、1993)には次のような記述がありました。(p16)
長文ですが、そのまま引用してみます。

-----------
■丹後松田氏と幕府奉行人松田氏
 丹後国与謝郡の松田氏は伊祢荘に本拠をもつ在地領主である。宮津市日置の金剛心院の縁起によれば、同院は、鎌倉時代中期、この地の領主松田八郎左衛門頼盛の女で後宇多天皇の後宮にあった千手姫が帰郷して開いたとされるが、松田八郎左衛門頼盛とは建治元(一二七五)年の御家人交名(国立歴史民俗博物館所蔵)に見える丹後の御家人「松田八郎左衛門入道」のことであろう。室町時代中期に成立した『丹後国諸荘郷保惣田数帳』には伊祢荘を松田氏が知行していたことが記され、また伊祢荘の鎮守日吉神社(宮津市岩ヶ鼻)の戦国時代の棟札にも松田氏の名前が見える。しかし、細川藤孝(幽斎)が織田信長から丹後を与えられて入国してくるとこれと戦って敗れ、日ケ谷(宮津市)で帰農したと伝られる。
 現在、日ケ谷の松田家には、同家と六波羅探題・室町幕府の奉行人を多数輩出した松田氏をともに頼盛に始まる同族とする注目すべき系図が残されている。『丹後国諸荘郷保惣田数帳』には、奉行人松田氏も丹後にかなり所領をもっていたことが記されており、系図の記述は正しいと考えられる。従来奉行人松田氏の出自は明らかにされてこなかったが、丹後の在地領主の出身であったことは間違いあるまい。
 この系図の成立した背景であるが、日ケ谷松田氏の系譜については一六世紀初頭の頼信の前後の記述が最も詳しいこと、奉行人各家の系譜は一六世紀初頭で絶筆となっていること、奉行人家の一員で同時期の人物亮致に関する記述が詳細であることから、一六世紀初頭に亮致から提供された京都の奉行人家の系譜に関する情報を、頼信がまとめてこの系図の原型を成立させ、その後書き継がれたのではないかと考えられる。一六世紀初頭といえば、京都では細川高国が政権の中枢にいた時期にあたり、その政敵の細川澄元派に属していた亮致は京都から追放されていた。この時期に亮致は所領があり、一族もいる丹後に身をよせていたんではないだろうか。そのため頼信は亮致から奉行人家の系譜についての情報を知りえたのではないかと考えられる。
(東京大学史料編纂所助教授 榎原雅治)
-----------

写真も一部掲載されているのですが、頼盛以降だけで、最初の方は確認出来ません。
ただ、足柄上郡の「松田郷」とは関係ないようですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

古今著聞集 2010/09/06(月) 19:26:31
小太郎さん
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118010.html
松田頼盛の本貫は、『吾妻鏡』治承4年10月17日条にいう足柄上郡の「松田郷」なのでしょうか。
http://web.archive.org/web/20150830053427/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-goudainno-koukyu.htm
後宇多・後醍醐二代の「盗み」という表現の背後には、光源氏が若紫を盗む話があるのでしょうね。光源氏は、紫の上が死ぬと、ガックリしてまもなく亡くなりますが、これなどは、後宇多が遊義門院の死を契機に出家するのと似ているのかもしれません。しかるに後醍醐は、略奪婚の禧子が亡くなっても、さほど衝撃を受けるでもなく、後妻なんかを中宮にすえて、やたら元気ですね。

本郷恵子氏『物語の舞台を歩く 古今著聞集』を読んでみました。
本郷和人氏との見解の相違点が二つあって、ふーむ、なるほど、と興味深く思いました。
?について、和人氏は、鎌倉幕府の実質的な成立を治承四年十月とされていますが、恵子氏は、和人氏の遡及的起源論をバッサリ斬り棄てて、文治元年とされています。
?について、和人氏は、西園寺家中心史観を否定されていますが、恵子氏は、これでもか、とばかりに三箇所で、この史観の復活を強調されています。
?「源頼朝は、文治元年(1185)、諸国に守護・地頭をおく権利を獲得し、鎌倉の地に幕府を開設した」(4頁)
?「西園寺家は富裕を誇り、鎌倉時代を通じて、朝廷を経済的に支える役割を担った」(40頁)
「同家は鳥羽殿を起点とし、長く知行国主をつとめた伊予国を中継点として、瀬戸内海から九州方面に力を伸ばし、鎌倉時代の朝廷を経済的に支える役割を果たしたのである」(59頁)。
「西園寺家の人びとは親幕派として、朝廷でも重要な地位を占め、とくに「関東申次」とよばれる、京都朝廷と鎌倉幕府との政治交渉の窓口となる役割を果たした。政治的地位とともに、経済基盤の確保も怠りなく、伊予国・安芸国沼田荘・筑前国宗像神社など、瀬戸内海・九州方面に多くの拠点を所有し、大陸との貿易で巨額の利益を得ていた」(101頁)

次は、徳大寺公継。
「彼の生き方の根底にあったのは、「南無阿弥陀仏」のみに価値を見出す、専修念仏の信仰だったのかもしれない」(64頁)
「公継は浄土宗を開いた法然に帰依しており、興福寺の衆徒が法然を訴えた際には、法然とともに遠流に処すべしと糾弾されたほどである。「法然上人絵伝」には、公継は種々の奇瑞をあらわして往生を遂げたとみえる。念仏信者の間では、公継=往生人(極楽往生を遂げた人)と認定されていたのだろう。臨終の際に、よい香がただよい、妙なる音楽が聴こえ、空には紫雲がたなびいたという類の伝承で、これを身近な人びとが喧伝して歩いたと思われる。公継ー孝道ー成季というつながりを含み込む専修念仏の信者グループを想定することができるのではないだろうか。死穢を怖れず、孝道父子を喜んで迎え入れて、公継の往生の話を聞いた人びとが確かにいたのである」(69頁)
「師員のエピソードは、徳大寺公継を中心とする、専修念仏信者のグループを情報源としていたのかもしれない」(119頁)

上横手雅敬氏の論考は、以下のとおりです。
「徳大寺公継はのち左大臣にまで昇るが、『法然上人絵伝』は公継が興福寺に訴えられても志を改めなかったと讃え、その最期について、「種々の奇瑞をあらはして往生をとげ、いまに末代の美談となり給へり」(巻十二)と記している。しかし確実な史料によって、公継と念仏との特別の関係を確認することはできず、かれが興福寺に訴えられた証拠もない」(『鎌倉時代の権力と制度』237頁)
「田村円澄は徳大寺公継が音声に優れており、住蓮・安楽の六時礼讃・引声念仏に重要な役割を果たしたと推定している」(260頁)

「法然上人絵伝」を、おそらく唯一の根拠として、公継中心の専修念仏グループを仮定するのは、五色の糸の上を歩くような危険な綱渡りと言うべきですかね。

公継の肖像(66頁)において、束帯にある蕪(三株?)のような絵柄は、何を意味しているのか。いろいろ気になる人ではありますね。

「死穢(甲穢)を帯びた者と接触すると乙穢となり、乙穢の者が訪問した家の者は丙穢に感染することになっていた」(69頁)
穢の円環は丙で閉じて、丁以降には感染しないのだろうか。その根拠は何なのか。

最後は、524段。
「おそらく登場人物の誰もが、その場の思いつきで行動しているにすぎず、むしろ中世人の未分化な精神構造と刹那的な行動様式を示す話として読めば十分かもしれない」(95頁)
守覚法親王の話から、中世人の未分化な精神構造、などと何故言えるのか、理解できない。
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三条公親

2010-09-08 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月 8日(水)06時58分50秒

宮津市教育委員会の掲示には「三条嫡流藤原公親(十三世紀後半の人、内大臣)の娘に『中宮御匣』とあるのが注目される」とありますが、『増鏡』の後宇多天皇践祚の場面には、「内大臣公親の女」が女房の筆頭として登場していますね。

-----------
 文永十一年正月廿六日春宮に位ゆづり申させ給ふ。廿五日夜まづ内侍所・剣璽ひき具して押小路殿へ行幸なりて、又の日ことさらに二条内裏へ渡されけり。九条の摂政忠家 殿参り給ひて、蔵人召して禁色仰せらる。
 上は八つにならせ給へば、いとちひさくうつくしげにて、びづらゆひて御引直衣・打御衣・はり袴奉れる御気色、おとなおとなしうめでたくおはするを、花山院内大臣扶持し申さるるを、故皇后宮の御せうと公守の君などは、あはれに見給ひつつ、故大臣・宮などのおはせましかばと思し出づ。
 殿上に人々多く参り集り給ひて、御膳参る。 そののち上達部の拝あり。女房は朝餉より末まで、内大臣公親の女をはじめにて、卅余人並みゐたり。いづれとなくとりどりにきよげなり。廿八日よりぞ内侍所の御拝はじめられける。

http://web.archive.org/web/20150918041741/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu9-goudatenno-senso.htm

三条公親は1222年生まれで、1267年生まれの後宇多院より45歳上ですから、その娘となると後宇多院よりはかなり年上で、この場面のように践祚時8歳の幼帝に仕える女房の筆頭クラスであれば年齢的にちょうどよい感じですね。
ま、千手姫伝承をあまり真面目に考える必要もないでしょうが。
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秘密山金剛心院

2010-09-07 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月 7日(火)07時50分6秒

金剛心院について少し書こうと思ったのですが、リンク先の「丹後の地名」というサイトに実に丁寧にまとめられていますね。

丹後の地名

境内にあった宮津市教育委員会の掲示だけ、こちらにも転記しておきます。

------------
金剛心院    宮津市字日置
 高野山真言宗、秘密山と号す。平安時代創建で、はじめ宝光寿院とよんだと伝える。鎌倉期末には、忍性開創と伝える鎌倉の極楽寺の末寺であった。本寺もまた忍性を中興の開山と伝える。忍性は奈良西大寺叡尊の弟子真言律宗の教線の拡張に大いに貢献した僧であった。
 本尊愛染明王坐像(木造・重文)は千手姫が、かつて卸匣として仕えた後宇多上皇から賜ったものと伝え、この時寺号を金剛心院と改めたという。千手姫はこの寺に入って薙髪して願蓮と称した。その出自については諸説があるが『尊卑分脈』に、三条嫡流藤原公親(十三世紀後半の人、内大臣)の娘に「中宮御匣」とあるのが注目される。後世日ヶ谷(宮津市字日ケ谷)松田氏はその系図を公親流とし、その九代の孫頼盛を松田氏としている。『丹後国田数帳』に「金剛心寺」として中郡に荘園があがっている。
 寺宝に、本尊のほかに、木造如来形立像(平安前期、重文)、制札六枚、金銅懸仏三面、忍性伝承遺品等がある。制札には六波羅探題・足利尊氏禁制があって貴重である。境内には、石像地蔵尊薩像(高石地蔵)、本堂裏墓地には忍性の墓と伝える五輪塔があり、収蔵庫傍らには中世板碑群がある。

宮津市教育会員会
宮津市文化財保護審議会
------------

>筆綾丸さん
>西園寺家中心史観
本郷恵子氏は西園寺家が経済的な面で貴族社会において特別な存在であったことを強調されているだけではないでしょうか。
本郷和人氏が批判されるところの西園寺家中心史観とは、経済ではなく政治の面で、西園寺家が鎌倉幕府の威光を背景に朝廷で実権を振るったという見解だと私は理解しています。
松田氏については後ほど。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

古今著聞集 2010/09/06(月) 19:26:31
小太郎さん
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118010.html
松田頼盛の本貫は、『吾妻鏡』治承4年10月17日条にいう足柄上郡の「松田郷」なのでしょうか。
http://web.archive.org/web/20150830053427/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-goudainno-koukyu.htm
後宇多・後醍醐二代の「盗み」という表現の背後には、光源氏が若紫を盗む話があるのでしょうね。光源氏は、紫の上が死ぬと、ガックリしてまもなく亡くなりますが、これなどは、後宇多が遊義門院の死を契機に出家するのと似ているのかもしれません。しかるに後醍醐は、略奪婚の禧子が亡くなっても、さほど衝撃を受けるでもなく、後妻なんかを中宮にすえて、やたら元気ですね。

本郷恵子氏『物語の舞台を歩く 古今著聞集』を読んでみました。
本郷和人氏との見解の相違点が二つあって、ふーむ、なるほど、と興味深く思いました。
?について、和人氏は、鎌倉幕府の実質的な成立を治承四年十月とされていますが、恵子氏は、和人氏の遡及的起源論をバッサリ斬り棄てて、文治元年とされています。
?について、和人氏は、西園寺家中心史観を否定されていますが、恵子氏は、これでもか、とばかりに三箇所で、この史観の復活を強調されています。
?「源頼朝は、文治元年(1185)、諸国に守護・地頭をおく権利を獲得し、鎌倉の地に幕府を開設した」(4頁)
?「西園寺家は富裕を誇り、鎌倉時代を通じて、朝廷を経済的に支える役割を担った」(40頁)
「同家は鳥羽殿を起点とし、長く知行国主をつとめた伊予国を中継点として、瀬戸内海から九州方面に力を伸ばし、鎌倉時代の朝廷を経済的に支える役割を果たしたのである」(59頁)。
「西園寺家の人びとは親幕派として、朝廷でも重要な地位を占め、とくに「関東申次」とよばれる、京都朝廷と鎌倉幕府との政治交渉の窓口となる役割を果たした。政治的地位とともに、経済基盤の確保も怠りなく、伊予国・安芸国沼田荘・筑前国宗像神社など、瀬戸内海・九州方面に多くの拠点を所有し、大陸との貿易で巨額の利益を得ていた」(101頁)

次は、徳大寺公継。
「彼の生き方の根底にあったのは、「南無阿弥陀仏」のみに価値を見出す、専修念仏の信仰だったのかもしれない」(64頁)
「公継は浄土宗を開いた法然に帰依しており、興福寺の衆徒が法然を訴えた際には、法然とともに遠流に処すべしと糾弾されたほどである。「法然上人絵伝」には、公継は種々の奇瑞をあらわして往生を遂げたとみえる。念仏信者の間では、公継=往生人(極楽往生を遂げた人)と認定されていたのだろう。臨終の際に、よい香がただよい、妙なる音楽が聴こえ、空には紫雲がたなびいたという類の伝承で、これを身近な人びとが喧伝して歩いたと思われる。公継ー孝道ー成季というつながりを含み込む専修念仏の信者グループを想定することができるのではないだろうか。死穢を怖れず、孝道父子を喜んで迎え入れて、公継の往生の話を聞いた人びとが確かにいたのである」(69頁)
「師員のエピソードは、徳大寺公継を中心とする、専修念仏信者のグループを情報源としていたのかもしれない」(119頁)

上横手雅敬氏の論考は、以下のとおりです。
「徳大寺公継はのち左大臣にまで昇るが、『法然上人絵伝』は公継が興福寺に訴えられても志を改めなかったと讃え、その最期について、「種々の奇瑞をあらはして往生をとげ、いまに末代の美談となり給へり」(巻十二)と記している。しかし確実な史料によって、公継と念仏との特別の関係を確認することはできず、かれが興福寺に訴えられた証拠もない」(『鎌倉時代の権力と制度』237頁)
「田村円澄は徳大寺公継が音声に優れており、住蓮・安楽の六時礼讃・引声念仏に重要な役割を果たしたと推定している」(260頁)

「法然上人絵伝」を、おそらく唯一の根拠として、公継中心の専修念仏グループを仮定するのは、五色の糸の上を歩くような危険な綱渡りと言うべきですかね。

公継の肖像(66頁)において、束帯にある蕪(三株?)のような絵柄は、何を意味しているのか。いろいろ気になる人ではありますね。

「死穢(甲穢)を帯びた者と接触すると乙穢となり、乙穢の者が訪問した家の者は丙穢に感染することになっていた」(69頁)
穢の円環は丙で閉じて、丁以降には感染しないのだろうか。その根拠は何なのか。

最後は、524段。
「おそらく登場人物の誰もが、その場の思いつきで行動しているにすぎず、むしろ中世人の未分化な精神構造と刹那的な行動様式を示す話として読めば十分かもしれない」(95頁)
守覚法親王の話から、中世人の未分化な精神構造、などと何故言えるのか、理解できない。
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丹後・金剛心院

2010-09-05 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月 5日(日)20時21分10秒

小浜・舞鶴・由良・宮津・伊根(舟屋)・経ヶ岬を回ってきて、先ほど帰宅しました。
さて、『後醍醐天皇と密教』p86以下に次の記述があります。

--------------
 さらに真性は丹後・金剛心院に伝来する元亨四年(一三二四)の六波羅制札(木札)の表面中央に、

  奉行人宗像三郎兵衛入道真性
  清書同四郎重基

とやはり六波羅の奉行人としてその名が見える。金剛心院は現在の京都府宮津市にある古刹であり、寺伝によると永仁二年(一二九四)忍性の開基である。忍性は西大寺叡尊の弟子であったが、叡尊の命を受けて関東にくだり、鎌倉・極楽寺を繁栄させたことで知られる。
 本尊は木造愛染明王だが、この像は応長元年(一三一一)に後宇多天皇が施入したと伝えられており、作風からもその頃に制作されたものだという。一方、金剛心院造営の願主は後宇多院の妃千手姫であり、当地の谷村城主松田頼盛の女である。元亨二年には伽藍が整いはじめ、嘉暦三年(一三二八)九月九日には後醍醐天皇が金剛心院にて曼荼羅供を修したと伝えられている。金剛心院は忍性開基で、愛染明王を本尊とし、後宇多・後醍醐両天皇との縁が深い寺院なのである。
 また、この奉行人は先述の般若寺文殊菩薩像の造立施主だった伊賀兼光が六波羅引付頭人の時の奉行人という関係にある。引付頭人は六波羅探題で裁判を行う引付衆の責任者であった。奉行人はその下で働く者である。六波羅探題において引付頭人と奉行人との間には、烏帽子親といった仮親的な緊密な関係があるという。となると、この真性はなおさら後醍醐天皇側にいた六波羅奉行人ということになろう。
--------------

 内田啓一氏の真性についての推論は若干の問題があると思いますが、それはともかくとして、「金剛心院造営の願主は後宇多院の妃千手姫であり、当地の谷村城主松田頼盛の女である」との指摘は、後宇多院に興味を持っている私にはちょっとした刺激でした。
 ただ、正直、近世の作り話のような感じもしたのですが、昨日、宮津市の京都府立丹後郷土資料館に寄ったところ、たまたま「国分寺再興 中世国分寺と律宗寺院」という企画展をやっていて、そこに

--------------
Ⅰ 日置金剛心院の中興と忍性上人
◎ 1 六波羅探題制札(「関東極楽寺末寺也」)      金剛心院   鎌倉  元亨四年(1324)
  2 袈裟(伝忍性上人所用)/外箱「忍性律師袈裟」   金剛心院
  3 高石寺境内之事[松田頼貞奉書](金剛心院文書) 金剛心院   鎌倉  元徳二年(1330)
  4 丹後州與佐郡日置邨金剛心記(金剛心院文書)    金剛心院   江戸  享保六年(1721)
  5 金剛心院延命地蔵略縁起  (金剛心院文書)    金剛心院   江戸
  6 本堂建立勧化之序  (金剛心院文書)       金剛心院   江戸  享和二年(1802)
--------------

といった文書が出ていました。
そして、企画展に関係するビデオを流していたので視聴したところ、金剛心院の住職さんが寺の由来について説明されていて、「後宇多院の妃」についても言及されていました。
そこで、これは行かずばなるまい、と思って10キロほど離れたところにある金剛心院に行き、境内で写真を撮っていると、30分前にビデオでお顔を拝見したばかりの住職さんが出てこられたので、いろいろお話を伺ってみました。
(続く)

京都府立丹後郷土資料館
http://www.kyoto-be.ne.jp/tango-m/
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重宝蒐集活動の初例?

2010-09-04 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月 4日(土)07時54分39秒

またまた敦賀に来ています。
昨夜8時に出発して午前0時直後に敦賀ICを通過し、市内で一泊したところです。
今日は舞鶴・宮津方面を廻ろうかなと思っています。

>筆綾丸さん
坂口太郎氏によれば、

-----------------
(前略)『拝堂記』に見える、重宝を取り戻した大衆の「感悦」からも、後醍醐の重宝召し上げが山門に計り知れない衝撃を与えたことがうかがえよう。
 ちなみに、『太平記』巻二「南都北嶺行幸事」は、元徳二年の叡山行幸が後醍醐の倒幕計画の一環として行われ、その目的は山門の大衆の掌握にあったとする。しかし、後醍醐による重宝の奪取は、大衆の心理を逆撫でするものであった。元弘の乱のさい、山門が後醍醐側にさほど尽力しなかった背景にはかかる後醍醐の強引な行動があったと考えて間違いない。後醍醐の重宝召し上げは、山門の懐柔政策と矛盾する結果をもたらしたのであり、高次の政治政策の障害となった点には注意する必要がある。(p298)
-----------------

とのことですが、内田啓一氏は更に、

-----------------
「比叡山の宝物収集は皇子である尊雲法親王が天台座主をしている元徳二年(一三三〇)の時だったらしい。すなわち宝物収集には自らの皇子が関わっていたと考えられるのである。坂口氏は比叡山の重宝の奪取は山門の感情を逆撫でするものであり、『太平記』巻二などに基づいて、俗に言われる後醍醐天皇による山門の掌握に対して疑問を投げかけているが、注目すべきだろう。皇子を天台座主にさせた目的のひとつに宝物収集があったと思えるほどである。
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と言われていますね。(『後醍醐天皇と密教』p119)
護良親王を叡山に送り込んだ目的は倒幕に向けての山門掌握だった、などとついつい思ってしまいますが、「後醍醐はいったい何を考えていたのだろう」という問いに対しては、「何も考えていなかった」という答えもありそうですね。
ただ、そういう無頓着さ、強引さが、周囲には異様な人間的魅力、迫力として受け止められることもあるのかもしれません。

『増鏡』巻13「秋のみ山」には、「今の上は、はやうより、西園寺入道大臣の末の御女、兼季の大納言の一つ御腹にものしたまふを、忍て盗み給て、わくかたなき御思ひ、年をそへてやむごとなうおはしつれば、いつしか女御の宣旨などきこゆ。程もなく、やがて八月に后だちあれば、入道殿も、齢の末にいとかしこくめでたしと思す」とありますが、西園寺実兼の娘、禧子の奪取が後醍醐の最初の重宝蒐集活動だったのかもしれないですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

マリア・テレジア銀貨 2010/09/03(金) 19:54:11
小太郎さん
後醍醐はほんとに訳のわからぬ人だなあ、とつくづく思いますね。
後鳥羽院の置文で尊氏を調伏せんとしたことは(同書304頁)、妙に惹かれるものがあります(笑)。

「それでは興福寺奏状にいう「八宗同心の訴訟」とは何であろうか。史料による限り、興福寺単独の訴訟であり、他寺が参加した形跡はまったくない。しかし、先に延暦寺が、今また興福寺が専修念仏を非難している。この二寺が非難し、とくに興福寺が訴えれば、それで奏状では「八宗同心の訴訟」となるのである。八宗連合の訴訟など、そもそも容易に実現するはずもなく、オーバーな文飾を真に受けてはならない」(『鎌倉時代の権力と制度』243頁)

上横手雅敬氏が平雅行氏を軽く窘めているところですが、思わず、吹き出してしまいました。大家の貫禄がありますね。八宗同心は八宗兼学より、ずっと難しいでしょうね。

伊藤啓介氏の「鎌倉時代の初期における朝廷の貨幣政策」は、実に興味深い論文ですね。
「先行研究では建久四年銭貨禁令と、建久の遷宮事業が関連付けて論じられることは全くなかった」(同書96頁)
僭越ですが、なるほど、と感心しました。
currency circuit「支払共同体」(同書106頁)は、黒田氏の『貨幣システムの世界史』によれば、マリア・テレジア銀貨に由来するようですね。
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/E015.htm
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上横手のじっちゃんと11人の孫たち

2010-09-03 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月 3日(金)00時52分20秒

『鎌倉時代の権力と制度』執筆者の2008年時点での年齢を見ると、77・31・34・26・38・32・35・29・34・26・26・35歳となっていて、平均年齢は35.25歳、上横手氏を除く11人の平均年齢は31.45歳ですね。
これだけ世代格差のある論文集も珍しいというか、他に例がないのではないかと思います。
私は数年前、上横手氏にお会いしてほんの少しだけ言葉を交わしたことがあります。
若い頃はきっと剃刀のような秀才だったのでしょうが、「あとがき」を見ると、頭脳は明晰なまま、すっかり好々爺になられたようですね。
この論文集は坂口太郎氏の論文以外にも良い論文が多そうで、週末にまとめて読んでみるつもりです。
また、本郷恵子氏の『物語の舞台を歩く 12 古今著聞集』(山川出版社、2010)も入手しましたが、これも面白そうですね。

『物語の舞台を歩く 12 古今著聞集』
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