投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月26日(日)01時29分30秒
尖閣諸島の問題は、仮に衝突で海上保安官が死亡していたら、どんな展開になったんですかね。
また、今後、日本の漁民が中国海軍に銃撃されて死者が出たりしたらどうなるのか。
中国が今後も海軍を増強させていけば、遅かれ早かれ小規模な軍事衝突は起きるでしょうし、場合によっては戦争になるかもしれないですね。
ま、戦争になってもいつかは終わりますね。
数千、数万、数十万、数百万の死者が出て、中国か日本のどちらかの勝利により戦争が終わったとします。
その後、勝った国が、「戦争が終われば敵味方の区別なく弔うのだ」「勝者は敗者を鎮魂すべきだ」と考えて、数十億(元or円)、数百億(元or円)、数千億(元or円)の、敵味方の区別をすることのない巨大な鎮魂のための施設を作ったとします。
作ることを主導した人に「悪意」はなかったとしても、これをすべての人が受け入れられるのか。
負けた国の人は、自国の戦争犠牲者が勝った国で「鎮魂」「供養」されることに違和感、屈辱感を感じないのか。
また、勝った国の人の中でも、自分の身近な犠牲者と敵国の犠牲者が同じ場所で鎮魂の対象となることに違和感、更には嫌悪感を感じる人はいないのか、何でそんなものに巨額の費用を支出するのかと感じる人はいないのか。
いささかグロテスクな仮定はひとまず置いといて、ここで天龍寺について考えてみます。
後醍醐天皇の死去が暦応二年(1339)八月。
その四十九日にあたる同年十月五日に、夢窓疎石が足利尊氏・直義とはかって天皇の冥福を祈る寺院の建立を計画。
天龍寺船の派遣などで得た膨大な資金をかけて、七回忌の康永四年(1345)八月、天龍寺の落成供養。
貞和五年(1349)、直義と高師直の対立。
観応元年(1350)十二月、直義、南朝に下る。
観応二年(1351)二月、直義軍、尊氏軍を撃破。高師直・師泰殺害さる。
観応二年(1351)十月、尊氏、南朝に下る。(正平一統)
正平七年(1352)二月、尊氏、直義を毒殺。
天龍寺の造営期間と、その後直義が毒殺されるまでの期間はほぼ同じですが、このめまぐるしさはいったい何なのか。
天龍寺の造営が延暦寺ら旧仏教側の憤激を呼んだことは『太平記』にも詳しく書かれていますが、この事業は、同時に尊氏の下で一緒になって戦った人々に深刻な相互不信を惹き起こした可能性はないですかね。
夢窓疎石の構想が深遠な宗教的信念に基づいていたとしても、それをきちんと理解できた人はどれだけいたのか。
乾いた感性のバサラな連中は、何で自分たちが戦っている敵の親玉を鎮魂しなければならんのじゃ、そんなもんほっとけ、くだらねーことをやってんじゃねえ、笑わせるな、と思ったのではないか。
また、シミジミ系の人々の場合、こんなことをしたら死んだやつらが浮かばれない、と思った人も相当いたのではないか。
尊氏が直義と協調していたから表立っては文句は言わないにしても、天龍寺の造営が始まる前までは味方として一体感を抱いていた人々の間で、夢窓疎石に心酔する直義は自分たちとは全く異質な人間ではないかという疑念、そして嫌悪感が生じるようになったのではないか。
すべてが決着した後で、敵味方の区別なく供養しましょう、鎮魂しましょうという話だったら、別に毒にも薬にもならない訳で、まあどうでもいいようなことですが、天龍寺は本当に微妙な時期に、本当に強引に造っていますね。
ネズミのような顔をした撫で肩男が莫迦なことを思いつかなかったら、尊氏・直義兄弟が殺し合うことも、もしかしたらなかったかもしれない、と考えるのは夢想粗積でしょうか。
柳田俊一氏、「太平記 現代語訳」
>筆綾丸さん
秋山氏は自分にとって都合の良い事例だけを発掘して、「伝統的」と称しているように感じます。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
中世鎌倉の地政学 2010/09/24(金) 20:05:39
小太郎さん
秋山哲雄氏の『都市鎌倉の中世史』を読んでみました。
戦死者の供養は敵味方の区別なく弔うとすると、北条氏は和田氏や比企氏や安達氏を
どのように供養したのだろうか。政治的配慮から必要に応じて敵も弔ったにすぎない
のではないか、という気もしました。尊氏は直義を、足利氏は新田氏を、どのように
鎮魂したのだろうか。
「以上のように、足利氏の場合にも、やはり父や兄弟間の一族分業があったことになる。
初期室町幕府に見られる足利尊氏と直義の二頭政治という分業も、もしかしたらこのよう
な分業体制の延長線上にあったのかもしれない」(同書43頁)
興味深い指摘ですが、在鎌倉の尊氏と在国の直義とした場合、この分業体制が、尊氏の
主従的支配と直義の統治的支配に対して、パラレルになるのか、交差してねじれるのか。
義時の「当時館」の所在地を理詰めに推論してゆく箇所は、とても面白く、義時の別荘
の後身が建長寺になるのですね。
「筆者の結論が間違っていなければ、建長寺を建立させた時頼は、祖父や曾祖父の別荘が
あった場所に建長寺を建立し、自分は隣の谷に最明寺亭を建てたことになる」(107頁)