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平岡豊氏「藤原秀康について」(その8)

2023-03-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p29以下)

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 これに関連して慈光寺本『承久記』は院宣を与えられる相手として秀康を何度も登場させる。順次列挙してみよう。

① 挙兵計画の発端で、卿二位の勧めで後鳥羽院が義時追討を決意した場面……院ハ此由
 聞食テ、サラバ秀康メセ、トテ御所ニ召サル、院宣ノ成ケル様、義時ガ数度ノ院宣ヲ背
 コソ奇恠ナレ。打ベキ由思食立、計申セ、トゾ仰下リケル、
② ①の院宣をうけた秀康が胤義と謀議を巡らし、その内容を後鳥羽院に報告した場面…
 …能登守秀康ハ、又此由院奏シケレバ、申所神妙也、サラバ急ギ軍ノ僉議仕レ、トゾ勅
 定ナル、
③ 後鳥羽院が卿二位に早く挙兵するようにと催促された次の場面……サラバ秀康召テ、
 先義時ガ縁者検非違使伊賀太郎判官光季ヲ、可討由ヲ宣旨ゾ下ケル、
④ 胤義の計画を容れて、光季を御所に召して討とうとする場面……十五日ノ朝ニ成ケレバ、
 能登守秀康ハ、院宣ニテ伊賀判官ヲ三度マデコソ召タリケレ、光季ハ心ニサトリ怪シト思
 テ、左右ナクモ不参、
⑤ 義時追討の院宣を作成する場面……又十善ノ君ノ宣旨ノ成様ハ、秀康是ヲ承レ、武田・
 小笠原・小山左衛門・宇津宮入道・中間五郎・武蔵前司義氏・相模守時房・駿河守義村、
 此等両三人ガ許ヘハ賺遣ベシトゾ仰下サル、秀康、宣旨ヲ蒙テ、按察中納言光親卿ゾ書下
 サレケル、(院宣省略)
⑥ 幕府軍の上洛に対応して院方の軍勢が発向することになった場面……十善ノ君宣旨ノ成
 様ハ、ウタテカリトヨ和人共、サテモ麿ヲバ軍セヨトハ勧メケルカ、今ハ此事、如何ニ示
 ストモ叶フマジ、トクトク勢ヲ汰ヘテ手ヲ向ヨ、能登守秀康ハ、此宣旨ヲ蒙リ、手々ヲ沙
 テ分ラレケリ、

実に重要な局面において、秀康は必ずといってよいほどに登場し、院宣を蒙っている。先学が述べられているように、秀康が軍事の要であったということになるが、軍記物語という史料の性格上、一概に鵜呑みにするわけにはいかない。
-------

いったん、ここで切ります。
「先学が述べられているように、秀康が軍事の要であったということになるが」に付された注(97)には、

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(97)石井進氏(註(6)に同じ)は「幕府追討の総司令官」、浄謙俊文氏(『大東市史』一七八頁)は「京方の軍事面の責任者」、浅香年木氏(註(4)書三九八頁)は「京方軍団の首領」とされ、他の先学も「張本」「中心」などと表現されている。しかし、何故そのように言えるのかという点については諸先学は曖昧である。
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とあります。
なお、石井著は『日本の歴史七 鎌倉幕府』(中央公論社、1965)、浅香著は『治承・寿永の内乱論序説』(法政大学出版会、1981)です。
さて、平岡氏が挙げる六例のうち、①~⑤までは、その周辺部分を含めて紹介済みです。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その12)─卿二位が登場する意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34ab5510c317b7bfc3313a37223bcb77
(その13)─三浦胤義の義時追討計画
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8
(その18)─大江親広の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55631e5f49bc5c20cfdc0355c7f41c75
(その20)─「此等ノ家子・郎等ナドスベテ議シケルハ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b3dc644f79d6ac5103361a8c1fb58aa
「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1

平岡氏は「軍記物語という史料の性格上、一概に鵜呑みにするわけにはいかない」と慎重な姿勢を示されますが、果たしてこの姿勢が以後の叙述で維持されているのか。
「一概に鵜呑み」しないとしたら、慈光寺本『承久記』のどの部分が「鵜呑み」(≒信頼)できて、どの部分が「鵜呑み」に出来ないのか、その基準を平岡氏は示されているのか。
こうした問題を意識しつつ、続きを読んで行きます。(p30)

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 一方秀康の名は承久の乱の最中の様子を伝える文書の中にも登場する。まず天福元年(一二三三)五月の八幡石清水宮寺申文の河内国甲斐庄に関する一節で「前下司国範法師称相交同合戦、被補地頭、而彼時為能登守秀康朝臣奉行、付御力者、雖被召国範、自元依非武備之器、遂不参、逃隠高野山之間、被焼払住宅畢」とある。秀康が奉行として力者を派遣し、兵士を徴発しようとしている。次に寛喜三年(一二三一)五月十一日の中原章行勘文の一節には「就中教円者、去承久乱□時、伴秀康依向合戦之庭、重代之所領若杜庄不日被没収□」とあり、これはさらに「件乱逆仁洲俣近辺之輩、依為勅命、大略被駈召候畢、全非教円一人候、付御使被責召候之間、為助当時之身命、相向候畢」とあるので、承久三年(一二二一)六月五・六日の尾張川付近での戦闘に関する記述であることが知られるが、やはり秀康が兵士を徴発している。前者の史料には「奉行」、後者には「御使」とある点から考えれば、秀康には兵士役賦課権が与えられていた、すなわち秀康は追討使であったと見るのが自然であろう。
 『六代勝事記』には「秀康ハ官禄涯分にすきて富有比類なし、五箇国の竹符をあハせて追討の棟梁たりき」という記事があるので秀康が五箇国を管下に置く「追討の棟梁」すなわち追討使であったことは間違いない。院方敗北後「可追討能登守藤原秀康朝臣以下徒党之由」の宣旨が「京畿諸国」に出されているのを見るとき、「五箇国」とは畿内「五箇国」のことであり、院方が敗北すると一転して秀康以下の追討に充てられたと言えるのではないだろうか。この畿内「五箇国」は、推測するに兵粮米の徴収に充てられたものであったろう。これを直接示す史料は見当たらないのであるが、かつて平賀朝雅が伊賀国を与えられて平家残党の追討に向かった例があり、また、上洛した幕府軍による兵粮米徴収が問題となって備前・備中の二箇国が与えられていることからしても、国を与える行為は兵粮米徴収と不可分である。
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少し長くなったので、いったんここで切ります。
「院方敗北後「可追討能登守藤原秀康朝臣以下徒党之由」の宣旨が「京畿諸国」に出されている」に付された注(102)には「「承久三年四年日次記」承久三年六月一九日条」とあり、「かつて平賀朝雅が伊賀国を与えられて平家残党の追討に向かった例があり」に付された注(103)には「『明月記』元久元年三月二一、二二日条」とあります。
また、「上洛した幕府軍による兵粮米徴収が問題となって備前・備中の二箇国が与えられていること」に付された注(104)には「「承久三年四年日次記」承久三年一〇月二九日条。「東大寺要録」二所収同日付官宣旨(『鎌倉遺文』二八五五)、「東寺文書」甲号外同日付官宣旨(『鎌倉遺文』二八五六)」とあります。

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平岡豊氏「藤原秀康について」(その7)

2023-03-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「四 秀康の国衙支配」の本文には秀能は登場しませんでしたが、一番最後の「つまり、秀康は後鳥羽院によって諸国支配の中核として位置づけられていたと言うことができよう」に付された注(92)には、

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(92)なお三月二一日付の前大和守成光書状(『民経記』寛喜三年七月記紙背文書九ウ)に見える「河内国司」は秀能のことであろうか。とすれば秀能も造営に関係していたということになる。
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とあります。
さて、慈光寺本への言及の多い第五節に入ります。
今まで私は、平岡氏の緻密な考察に感心しながら引用してきたのですが、これから先は些か微妙です。
まあ、私も別に平岡氏が間違っていると言いたい訳ではないのですが、私には特に疑問が感じられない点を平岡氏は妙に重視されるなど、私とはバランス感覚がかなり異なるような印象を受けています。
ただ、これから先、慈光寺本と流布本を読んで行くための予備知識としては役立つ記述が多いので、丁寧に引用したいと思います。(p28以下)

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   五 秀康と承久の乱

 『六代勝事記』に「五月十五日二、太上天皇〔後鳥羽〕、天宝〔ママ〕のむかしにひとしく兵をめして、洛陽の守護廷尉光季〔伊賀〕を討せられ、追討使をわかちつかはすにおよひて、二品禅尼〔北条政子〕、有勢の武士を庭中に召あつめてかたらひていはく、各心を一にしてきくへし、是ハ最後の詞也、(中略)、朝威をかたしけなくする事は、将軍四代のいまに露あやまる事なきを、不忠の讒臣等天のせめをはからす、非義の武芸にほこりて、追討の宣旨申くたせり、(中略)、恩をしり名をおしまむ人、秀康・胤義をめしとりて、家をうしはハす、名をたてむ軍をおもはすやと、是をきくともから、なみたにむせひて、返事を申にくわしからす」という一節がある。北条政子が去就に迷う御家人の心を一つにし、幕府の軍勢の発向を可能にさせた演説として有名なものである。ここで注目されるのは、討ち取るべき対象として秀康と胤義の名が挙げられていることである。五月一九日に北条義時追討宣旨・源光行の副状・東士交名注進状を所持して東下してきた秀康の所従押松丸が鎌倉で捕縛され、また挙兵を勧める胤義の書状が届けられた三浦義村はこれを義時に報じているので、実際に政子が二人の名を挙げた可能性もある。けれども、胤義が関東の雄族三浦氏の一員でありながら兄に挙兵を勧めたことで、重要な役割を担っていると認識されたことは思い至るにしても、秀康についてはその所従が使者として派遣されたというだけでは説明が付けにくいであろう。これが政子の言葉であるなら、秀康よりも、関東御家人でありながら副状と東士交名を註進した源光行の名も挙げてしかるべきである。「追討使をわかちつかはすにおよひて」とある点からすると、追討使が分遣されることになった時点の状況がこの一節に反映している可能性が大きい。すなわち、秀康がなんらかの重要な役割を与えられていたことを知っていた作者が、執筆にあたって名を織り込んだと思うのである。
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「五月一九日に北条義時追討宣旨・源光行の副状・東士交名注進状を所持して東下してきた秀康の所従押松丸が鎌倉で捕縛され」とありますが、これは『吾妻鏡』承久三年五月十九日条に「自葛西谷山里殿辺召出之。称押松丸<秀康所従云々>。取所持宣旨并大監物光行副状。同東士交名註進状等」とあるのに拠っています。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

平岡氏は注(94)で「押松は慈光寺本『承久記』では「院下部」である」と書かれていますが、正確には「院御下部」(岩波新大系、p324)ですね。
また、流布本では「推松」という字で、「院宣ノ御使」(『新訂承久記』、p71)となっています。
さて、平岡氏は「これが政子の言葉であるなら、秀康よりも、関東御家人でありながら副状と東士交名を註進した源光行の名も挙げてしかるべきである」と源光行の存在を重視されますが、源光行については『吾妻鏡』承久三年八月二日条に、

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大監物光行者。清久五郎行盛相具之下向。今日已剋。着金洗沢。先以子息太郎。通案内於右京兆。早於其所。可誅戮旨。有其命。是乍浴関東箇所恩沢。参 院中。注進東士交名。書宣旨副文。罪科異他之故也。于時光行嫡男源民部大夫親行。本自在関東積功也。漏聞此事。可被宥死罪之由。泣雖愁申。無許容。重属申伊予中将。羽林伝達之。仍不可誅之旨。与書状。親行帯之馳向金洗沢。救父命訖。自清久之手。召渡小山左衛門尉方。光行往年依報慈父〔豊前守光秀与平家。右幕下咎之。光行令下向愁訴。仍免許〕之恩徳。今日逢孝子之扶持也。」

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-08.htm

とあります。
現在では源氏学者として有名な源光行は幕府から数か所の所領をもらった御家人でしたが、「東士交名」を注進し「副文」を書いた罪で、いったんは義時が光行を処刑するように命じます。
しかし、息子「源民部大夫親行」の必死の嘆願と「伊予中将」(一条実雅)の口添えで何とか首がつながった訳ですね。
ただ、結局、こうした穏やかな処分で済んだのは、光行が「合戦張本」でも何でもなくて、命ぜられるままに文書を書いただけの人であることが分かっていたからです。
幕府も別に紙切れだけを見て処罰を決めた訳ではなく、実質的な役割の軽重を判断した上で、それに応じた処罰をしていますね。
平岡氏はこの後、「追討使」にこだわって複雑な議論をされますが、その論理を見てから私見を少し述べたいと思います。

源光行(1163-1244)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E8%A1%8C
源親行
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%A6%AA%E8%A1%8C

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平岡豊氏「藤原秀康について」(その6)

2023-03-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「ではその国はどこであろうか」の続きです。(p27)

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次に八月二五日付の書状を見てみよう。

  越後国造内裏役間事、謹承候了、庄公散状、早可注進候、康直一日遣召候之□〔処カ〕
  為御使令下向近江国之由令申候、上洛候者、忩可進候、余事誠無支度計事等定多□、
  蓮華王院領備中国子位□〔庄〕事、早可相尋候、委細如此□〔被〕仰候之条、殊畏存
  候、秀□〔康〕恐惶謹言、
   八月廿五日     備前守秀□〔康〕

秀康は越後国に対しては「庄公散状」を注進しうる立場にいたことが知られ、越後国務を管掌していたと考えられよう。そして備中国子位庄にも関与していたことが知られるが、行事所に宛てた書状という史料の性格を考えるならば、備中国務をとる立場からの関与であると思われる。そして慈光寺本『承久記』の一節は大きな示唆を与えてくれる。

  茲ニ女房卿二位〔藤原兼子〕殿簾中ヨリ申サセ給ケルハ、大極殿造営ニ、山陽道ニハ
  安芸・周防、山陰道ニハ但馬・丹後、北陸道ニハ越後・加賀、六ケ国マデ寄ラレタレ
  ドモ、按察<光親>・秀康ガ沙汰トシテ、四ケ国ハ国務ヲ行ト雖、越後・加賀両国ハ、
  坂東ノ地頭、用ヒズ候ナル。去バ木ヲ切ニハ、本ヲ断ヌレバ末ノ栄ル事ナシ、義時ヲ
  打レテ、日本国ヲ思食儘ニ行ハセ玉ヘトゾ申サセ給ケル、

大内裏造営にあたっての藤原光親の管掌国が不明なため、この記述のうちどの国が秀康の管掌であったかは明確ではないが、大極殿造営に関しては光親と秀康を通じて国衙機構を動かし、費用を捻出するというものであったことを伝えている。ここに見える六箇国のうち、越後だけが秀康の書状によって確認できるのであるが、これを信用すれば秀康は大内裏造営に中心的な役割を果していたということになる。
-------

いったん、ここで切ります。
慈光寺本では卿二位は開戦前に二度登場し、いずれの場面でも逡巡する後鳥羽院を叱咤激励する、後鳥羽院以上の強硬派としての役割を演じます。
他方、流布本では卿二位は戦前には登場せず、敗北後、隠岐へ流されることが決まった後鳥羽院の許に「あはて参て見進らするに、譬〔たとへ〕ん方ぞ無りけり」と嘆く人です。
はたして何れが史実に近いのか。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その12)─卿二位が登場する意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34ab5510c317b7bfc3313a37223bcb77

私は慈光寺本に描かれた卿二位像には懐疑的ですが、ただ、平岡氏が引用された部分は、卿二位の役割を除けば一種の舞台装置であり、背景事情なので、その部分だけはあえて疑う必要がないようにも思えます。
この点、次節「六 秀康と承久の乱」での慈光寺本の扱い方とは別に考えることは充分に可能ですね。
さて、続きです。(p27以下)

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 この造営と時を同じくして行われた東宮懐成親王(のちの仲恭天皇)の御著袴の儀に関する『玉蘂』承久二年(一二二〇)一一月条には、「録物領状国々」の一覧が載せられているが、その一節は注目に値する。

  弘筵
   美作 備前 備中 備後
   已上四ケ国之内、十五枚秀康朝臣進之
   讃岐三枚 伊与〔ママ〕二枚 土左〔ママ〕一枚

秀康が弘筵十五枚を進めたことは、美作・備前・備中・備後が秀康の管掌国であったことを示すものに他ならない。この「録物領状国々」は時期的に見て造内裏役が課された国々と合致すると思われる。
 さらに『尊卑分脈』の秀康の註記には年代不詳ながら「備中・備後・美作・越後・若狭等国一度給之」とあり、これは当時の実状を示していると見てよいのではないだろうか。
 已上をまとめると、秀康が承久二年(一二二〇)頃に国務を行なっていたことが確実な国として越後・美作・備前・備中・備後が挙げられ、可能性のある国として若狭・加賀・丹後・但馬・安芸・周防が指摘されうるということになる。
 ところで、七月二六付の秀康書状には承久元年(一二一九)の八月四日に国務を奉った旨が見えるが、実はこの日には綸旨の除目が行なわれているのである。すなわち、藤原成実が丹後守から備中守に遷任、藤原家季が越後守に、源資俊が越中守に(美作守よりの遷任か)任ぜられているのである。そして七日には藤原家時が若狭守に任ぜられている。この除目に関係した国は、越中を除き、すべて秀康の関係したと見られる国々に含まれている。越後や備中の国務は秀康の管掌するところであることは明らかであるから、成実や家季は国務権を有さない国守であったということになるが、類推するならば資俊・家時も同様であり、越中・若狭の国務も秀康が行なっていた可能性があるであろう。後鳥羽院は内裏焼亡から一箇月も経ないうちに、臨時除目によって国守の調整をした上で、北陸道・山陽道を主とする諸国を秀康に与えて国務を行わせ、大内裏造営にあたらせたと言えるのではなかろうか。小山田義夫氏によれば「大内裏造営は単に一部の特定地域・諸国への賦課というより全国的規模で賦課されたものであったと推定される」ものの、秀康はその中で非常に重要な役割を負わされていたと言える。特に小山田氏の言われる「全国的造営用途遅滞状況」があったことからすれば、上総で見せたような秀康の強引な国務は造営の進展に欠かせないものとなっていったに違いない。つまり、秀康は後鳥羽院によって諸国支配の中核として位置づけられていたと言うことができよう。
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うーむ。
平岡説が正しいとすると、承久元年七月の大内頼茂追討に伴う大内裏の炎上事件以後、秀康は大内裏造営事業の中心を担うために後鳥羽から大変な権限を与えられたことになりますが、後鳥羽の威光を背景に相当無理して強引な金集めをやった訳ですから、各地で敵も数多く作ったことでしょうし、正面から敵対せずとも、下北面出身の成り上がり者に威張り散らされて、内心では面白くないと思っていた連中は更に多かったでしょうね。

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平岡豊氏「藤原秀康について」(その5)

2023-03-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

私は平岡豊氏のお名前も知らず、「藤原秀康については」は分析が緻密な優れた論文なので、一体何者なのだろう、などと思っていたのですが、国学院大学出身で、森幸夫氏や岡野友彦氏と同世代の方のようですね。
少し検索してみたところ、『史学雑誌』96巻5号(1987)の『一九八六年の歴史学界 回顧と展望』「中世二」は石井進・平岡豊・森幸夫・岡野友彦の四氏が担当されています。
ただ、平岡氏の論文は1990年代で終わっていて、歴史学からは離れてしまった方のようですね。
さて、当初の予定では平岡氏の論文をあまり長々と引用するつもりはなく、より新しい長村祥知氏の「藤原秀康─鎌倉前期の京武者と承久の乱」(平雅行編『公武権力の変容と仏教界』、清文堂出版、2014)などを参照させてもらうつもりだったのですが、分量は平岡論文の方が多く、紹介されている史料も興味深いものが多いですね。
また、この後、慈光寺本への言及が増えるのですが、平岡氏のように古文書・古記録に詳しい、いわば歴史学の王道を行く研究者が慈光寺本を扱う際に感じたであろう困惑が窺える箇所があって、私には特に面白く感じられます。
そこで、このまま平岡論文を参照させてもらおうと思います。
ということで、続きです。(p25以下)

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 一方、備中国においても秀康の所領が認められる。某申状案の一部を引用してみよう。

   殿上熟食米料所備中国隼嶋保間事、
  右、当保者国衙進止本所一円之地、吉備津宮神供并殿上熟食米之料所也、云神税云 勅役
  重色異他之処、承久年中依秀康知行、被没収之被補地頭之上者、以往相伝永削其号畢、
  (中略)
  当保為承久没収地進 公家条顕然事、
  右、同状云、本神主秀康知行者、当社領数十箇所事也、而当庄者為領□□□〔主之沙カ〕
  汰、運上神供於社家、是則守秀康所務先例故也、当庄為関東御□□□□、雖致社家一同
  之沙汰、不妨領主之所務、又神主与秀康者、為同名之処、□□〔熟〕食御教書進 公家
  之由、掠申云々、

秀康は備中国一宮である吉備津宮の社領数十箇所を知行しており、神主は秀康の一族であった。吉備津宮領は秀康跡として上野入道日阿(結城朝光)が地頭職と社務職に補任されているので、秀康は少なくとも社務職を有していたということになる。田中稔氏は隼嶋保は「国衙領であるが、一方では後鳥羽院領たる吉備津宮領でもあり、更に又大炊寮にも熟食米をも出している。」と述べられるとともに、秀康が「院へ接近することにより後鳥羽院領の一つ備中国吉備津宮神主職を院より与えられたものと思われる。」とされている。しかしながら、吉備津宮領数十箇所のうちの一つである隼嶋保は「国衙進止」である。諸国の一宮・国分寺が国衙の保護下にあったことは周知のところであり、しかも後鳥羽院政末期に備中国務は秀康の掌握するところであった。つまり、吉備津宮領は、後鳥羽院領というよりも、備中国衙領としての性格が強いのではなかろうか。備中における秀康の所領の展開は、その国衙支配との関連においてとらえるべきであると思われる。
 以上、秀康の所領について検討してみたが、それは一在地領主の所領展開といった範囲を大きく越えたものであると言えよう。本拠地とされる河内においても、また大和においても、さらに備中においても然りであり、そのような所領展開を可能にしたものは秀康とその一族による国衙支配であったと言えるのではなかろうか。その背景には、後鳥羽院の特別な思惑があったに違いない。
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ということで、ここから「四 秀康の国衙支配」に入ります。
こちらは最近の研究で進展も見られるようですが、私の知識・能力を超える分野なので、慈光寺本が出てくるところまで、紹介だけでどんどん進むつもりです。(p26以下)

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   四 秀康の国衙支配

 秀康による国衙支配の様相は『吾妻鏡』承元四年(一二一〇)七月二〇日条に象徴的に表れている。

  上総国在庁等有参訴事、是秀康<院北面>去月十七日任当国守、同下旬之比、其使者入部
  国務之間、於事背先規致非義、在庁等愁歎之刻、忽起喧嘩、刃傷数輩土民等云々。如相
  州・広元朝臣・善信有沙汰、是非関東御計、早可奏達之由、被仰下云々、

目代を派遣しての強引な国務が在庁との対立を引き起こしている。しかもそれが鎌倉幕府の膝下ともいうべき上総での出来事であるのを見ると、西国の国守となったときの国務がいかなるものであったかを想像するのは容易である。
 そしてこのような国務の結果は後鳥羽院への経済的な奉仕という形で表れる。すなわち、河内守であったのではないかと思われる建保元年(一二一三)には法勝寺九重塔再建に際して「金堂并廻廊修理造賞」にあずかり、淡路守であった建保五年(一二一七)には仙洞で「一日大般若経供養」を行い、備前守であった建保六年(一二一八)には「高陽院改造賞」によって重任するとともに従四位下に叙されている。
 特に承久年間の大内裏造営における秀康の活動は注目される。造営は承久元年(一二一九)七月一三日の源頼茂討滅事件によって大内裏が焼亡したことに対応するもので、小山田義夫氏によれば「王朝政権が独自に、全国の庄公から造営費を徴発して行なった最後の大規模な大内裏造営であった」という。この関連文書は行事所の一員であった右中弁藤原頼実の子経光が日記の料紙として使用したため今日に伝えられており、その中には承久二年(一二二〇)に比定される秀康の書状が二通含まれる。最初に七月二六日付のものを見てみよう。

    (端裏)
  「[      ]」
  率分所年預陳状、謹以給預候了、無指證文被改季□候之間、一旦令言上許
  候、去年□八月四日奉国務候、仍無進済候□、但此仰上不及申是非候歟、
  秀康恐惶謹言
     七月廿六日        備前守秀康

秀康が国務を奉った国は、すでに建保六年(一二一八)に備前守として高陽院の改造を行っていることから、備前以外の国でなければならない。ではその国はどこであろうか。
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段落の途中ですが、少し長くなったので、いったんここで切ります。

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平岡豊氏「藤原秀康について」(その4)

2023-03-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

平岡豊氏の論文も今から三十二年前のものなので、あるいは「本郷申可郷地頭長江八郎左衛門尉」についても何らかの研究の進展があるのかもしれません。
何か御存知の方は御教示願いたく。

さて、「三 秀康の所領」で昨日引用した部分の続きには秀能に関する若干の記述があります。
所領関係は国文学者の田渕句美子氏の論文には出て来ないので、こちらも参考として引用しておきます。(p23以下)

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 そして、この甲可領におそらくは接する形で讃良庄が存在する。田中稔氏は、安達景盛が承久三年(一二二一)一二月に讃良庄預所地頭職に補任されたことから、讃良庄を承久没収地の一つと認定され、一歩進んで浄謙俊文氏は秀康が讃良庄預所職であったと考えられるとされ、宮川満氏は秀康の所領とされている。これらは可能性のある見解と思われるが、秀康ないしその一族は讃良庄の預所職ないし下司職を保有していたということになろうか。当時の本所は不明であるが、田中氏は八条院領の一つである歓喜光院領と推定されている。正治二年(一二〇〇)には既に立庄されて一部の所職(領家職か)は藤原氏御子左流に伝えられている。
 さらに甲可郷の東部には、やはりおそらくは接して、田原庄があった。これは安貞二年(一二二八)の七条院処分目録案に見える庄園であり、秀能が七条院に伺候していた祗候していたことからして、秀康に関係のあった庄園である可能性は充分にあろう。丹生谷哲一氏は秀康が逃亡した讃良が、具体的には田原庄を指すとの説を紹介されているのである。
-------

「田中稔氏は……讃良庄を承久没収地のの一つと認定され」に付された注(49)には「「金剛三昧院文書」承久三年一二月二二日付関東下知状案(『鎌倉遺文』二八九八)」とあります。
また、浄謙俊文氏の見解は『大東市史』、宮川満氏と丹生谷哲一氏の見解は『大阪府史 三』ですね。
なお、私は「承久合戦慈光寺本妄信研究者交名」(仮称)を鋭意作成中ですが、今のところ丹生谷哲一氏(大阪教育大学名誉教授、1935生)が一番最初に載せるべき人ではなかろうかと思っています。

「関係史料が皆無に近い」長江荘は本当に実在したのか?(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af58023942711f54b112cc074308b3ad

ま、それはともかく、続きです。(p24)

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 以上のように讃良郡には秀康の所領であった甲可郷、秀康に関係した所領であったのではないかと思われる讃良庄・田原庄があり、隣の茨田郡には伊香賀郷があった。秀康は甲可郷を中核とする所領群においては、強力な支配を展開していた。このような大規模な所領の展開は、村上源氏との関係を背景として考えることができるとともに、秀康の一族が河内守を歴任したという点からも説明が付けられよう。前節で見たように、秀忠は河内守に任官したと伝えられ、秀康は建暦(一二一一~一二)の頃に河内守であり、秀能は承久三年(一二二一)初め頃に河内守であった。伊香賀郷が国衙領であったことを考えれば、これら三人の河内守任官が所領の拡大に寄与したことは間違いない。
-------

「秀能は承久三年(一二二一)初め頃に河内守であった」に付された注(58)には「注(13)と同じ」とあって、これは「別表 秀康一族の官位」のことです。
「別表 秀康一族の官位」は煩瑣なので引用はしませんでしたが、改めて秀能の分だけ引用してみると、

-------
正六位上  「影供歌合」建仁元(一二〇一)・8・3等
左兵衛少尉  同右
左衛門少尉 「北野宮歌合」元久元(一二〇四)・11・11等
任主馬首  『明月記』元久2(一二〇五)・1・30等
任検非違使尉 『尊卑分脈』承元4(一二一〇)・12・22
叙従五位下 『明月記』建保元(一二一三)・4・26 
      (行事検非違使賞、使如元)
任出羽守  『東宝記』建保4(一二一六)・2・29等
      (搦進盗人賞、使如元)
叙従五位上 『如願法師集』建保5(一二一七)12・8
      (行幸行事賞)
河内守   「道助法親王家五十首和歌」
-------

とあります。
そして(注13)には、

-------
「道助法親王家五十首和歌」は建保六年(一二一八)に行われた和歌会の記録らしいが、参加者の官位は承久二年(一二二〇)から翌年にかけての頃のものであることが『公卿補任』等によって確かめられる。上限は承久二年一二月一八日(藤原雅経の任参議)、下限は翌年四月二〇日(藤原実氏の止春宮権大夫)であり、秀能が河内守であったのもその頃ということになろう。なお秀能の叙従五位下の記事は「季能」となっているが誤記と考えた。
-------

とあります。
承久三年四月二〇日は順徳天皇が懐成親王(仲恭天皇)に譲位した日ですから、承久の乱の直前であり、秀能は承久の乱勃発の時点で河内守であったと考えてよさそうですね。
さて、本文に戻って続きです。(p24以下)

-------
 そして彼ら一族の勢力は隣国大和においても卓越したものがあった。秀宗が大和守でもあったと伝えられるとともに、山辺郡井上庄は秀能の所領であった。正応元年(一二八八)の井上庄領主寺僧等陳状案の一節に、

  件庄領者本卅六町也、而本領主長縁<太輔公>知行之時、聊雖有相論子細、任道理彼
  子息氏女蒙御成敗、無相違数年之間令領掌畢、仍甲乙地主等、自彼氏女之手所売買
  相伝也、而其内有因縁十町令相伝秀能方之処、承久大乱之時、自関東被没収彼所帯
  之刻、井上庄十町地頭矢田八郎二郎分配給畢、而彼地頭十町之外、甲乙領掌之地類
  無故悉令点定之間、氏女并地主等申開子細之間、在相伝之道理、十町之外、可令停
  止地頭濫妨之由、蒙御成敗、

とある。井上庄三六町のうち秀能跡は一〇町にすぎないという主張であるが、井上庄は興福寺一乗院領と認められるので、秀能と興福寺の関係の一端が窺える。
 また鳥羽上皇の勅願によって建てられた永久寺の置文には「阿弥陀仏元者嵯峨大覚寺古仏也、(中略)、而当国勇士秀能奉迎之、欲建堂舎、爰去承久天下逆乱時、秀能蒙余殃被没収家産之間、不遂素願空送星霜」とあって、大和国の御願寺と秀能の密接な関係が知られる。この永久寺は興福寺一乗院の系列寺院であったらしい。
 さらに、承久の乱に敗れた秀康・秀澄兄弟が南都に潜んでいるとの情報をつかんだ北条時房は、使者を派遣して探索にあたらせたが、衆徒が蜂起して使者を殺戮したので、数千騎の軍勢を差し向けて圧力をかけ、秀康の後見を差し出させており、また東大寺の子院の別当であった類暁は秀康の子息を十数年にわたって匿っていた。
 すなわち、秀康の一族の勢力は、興福寺・東大寺などの勢力と提携して、大和国に浸透していたと見てよいであろう。
-------

永久寺は神仏分離・廃仏毀釈で有名な内山永久寺のことですが、秀能との関係は後でもう一度触れる予定です。
また、「北条時房は……数千騎の軍勢を差し向けて圧力をかけ、秀康の後見を差し出させており」は『吾妻鏡』承久三年十月十二日条に出ています。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-10a.htm

「東大寺の子院の別当であった類暁は秀康の子息を十数年にわたって匿っていた」は『吾妻鏡』嘉禎四年(暦仁元)十月四日条が典拠です。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma32-10.htm

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平岡豊氏「藤原秀康について」(その3)

2023-03-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p22)
同じ北面でも上北面と下北面では処遇に大きな差がありましたが、秀康は下北面であったにも拘わらず、後鳥羽院に特別に引き立てられて、上北面と同様の扱いを受けたようですね。

-------
 そして秀康・秀能の兄弟は多くいた下北面の人々の中でも特別と言い得るほどの待遇を与えられていた。一般的に下北面は衛府尉から検非違使、さらに国守へという昇進経路をとり、秀康一族の官歴も大筋においてこれに合致するのであるが、秀康の場合、官歴の上で注目すべき二つの事柄がある。一つは右馬権助に任ぜられたということ、もう一つは従四位下に叙せられたということである。右馬(権)助について『官職秘鈔』には「往代、英華貴種人多任之、近代経蔵人之輩并公達任之」とあり、侍身分の者が任官できる官ではなかったようである。「経蔵人之輩」とは諸大夫である上北面の人々に相当し、実際上北面の多くが左右馬(権)助に任じており、また「公達」とは公卿に達し得る階層であった。そして四位に達したことも非常に珍しいことであり、弘安六年(一二八三)に従四位下に叙された中原行実に関して、藤原兼仲はその日記に「下北面、承久秀康以後、侍四品無近例歟、希代之昇進也」と記している。管見の限り、後鳥羽院下北面で左右馬(権)助に任ぜられたり、四位に達した者は見当たらず、秀康は下北面でありながら破格の待遇(諸大夫に対する待遇に相当)が与えられていたということになる。そして国守経験が非常に多く、下野・上総・河内・伊賀・淡路・備前・能登の七箇国に及び、若狭守でもあったと伝えられる。また秀能は官位こそ目立つものは無いが、「院中事、秀能之外下北面者、不接晴御会」といわれ、建仁元年(一二〇一)に開設された和歌所に当初から寄人として参加しており、後鳥羽上皇を中心とする宮廷歌壇の重要な構成員として多くの歌会に名を連ねている。これらのことは、秀康・秀能ひいてはその一族が後鳥羽院にとって重要な存在であったことを直接示すものにほかならない。
-------

秀能については、田渕句美子氏の論文に基づき、更に詳細に経歴を見る予定ですが、後鳥羽院にしてみれば、これだけ厚遇してやったのに、秀能が京方で参戦しなかったことは本当に意外であったはずです。
逆に秀能にしてみれば、何故に京方で参戦しなかったかというと、それは京方の敗北を予想していたからでしょうね。
鎌倉に勝てると本気で思っていた後鳥羽院や兄・秀康、弟の秀澄を始めとする人々は、秀能には狂人のように見えただろうと私は想像します。
さて、次の「三 秀康の所領」はかなり細かな話なので引用すべきかどうか迷いましたが、平岡氏が紹介された「土屋宗直申状案」の中に「本郷甲可郷地頭長江八郎左衛門尉」という人物が出てくるのが気になります。
南北朝初期の史料であり、場所も摂津ではなく河内ですが、「長江」という名字は謎の多い長江荘を連想させますので、後日、何かの参考になるかもしれず、これも引用しておきます。(p22以下)

-------
 三 秀康の所領

 田中稔氏は、秀康が承久の乱後逃れて河内国讃良の地に隠れ、そこで捕えられたことから、讃良の地が秀康の本拠であったと推定されている。讃良郡とその周辺には秀康に関係していた所領が集中していたようであるが、まず秀安の所領であったことが確かめられる伊香賀郷の様子を見てみよう。土屋宗直申状案を次に掲げる。

  河内国伊香賀郷地頭土屋孫次郎宗直申、当郷所務事、守本司能登守秀康知行例、所致其
  沙汰也、雖為承久勲功之地、或守本司例有下地進止郷、或追新補率法之例知行所在之、
  郷々所務皆追本司跡、所致其沙汰也、且本郷申可郷地頭長江八郎左衛門尉与雑掌、先年
  相論之時、帯武家下知状、下地知行、于今無相違之上者、不可綺一郷之例者也、所詮帯
  此等次第文書等、委細之旨、可令後日言上者乎、而無是非於被打渡当郷者、地頭侘傺何
  事如之、宗直雖為不肖之身、自最初参御方、被疵、於所々抽軍忠之状、云御感、云御証
  判、旁明鏡也、然者早被止当時打渡、被糾明真偽、任当知行之実、被経御沙汰、預御注
  進者、弥成弓箭之勇、為致忠勤、粗恐々言上如件、
      三月廿七日       宗直
    御奉行所

この文書は無年号であるけれども、宗直は正中二年(一三二五)に伊香賀郷地頭職を譲渡されているから、それ以後のものであることが確実であり、水野恭一郎氏は建武四年(一三三七)かそれに近い時期のものと考えられている。土屋氏が地頭職を与えられたのは承久の乱直後で秀康逃亡中の承久三年(一二二一)九月六日のことで、観応元年(一三五〇)には「国衙年貢」が課されているのを見ると、田中稔氏が指摘されているように国衙領であったようである。伊香賀郷は茨田郡に属し、現在の枚方市南部、淀川左岸の伊香賀付近に比定されているが、この地において秀康は、所務沙汰権、さらには下地進止権を有し、強力な在地支配を展開していたらしい。さて、水野氏は、「この申状の中で宗直が訴えているところは、伊香賀郷内において、他の何びとかに所職が与えられようとしていることに対する抗議の愁訴であって、伊香賀郷と同様、もと能登守藤原秀康の所領であった讃良郡甲可郷において、先年、地頭長江氏と雑掌との間に起った相論の場合の事例を挙げて、伊香賀郷における地頭土屋氏の知行権は一郷に及ぶべきものであることを主張しているのである。」と述べられ、また「『本郷甲可郷』として記されている讃良郡内の甲可郷が、秀康の本領的な所領であったとも推察され、これら讃良・茨田両郡をふくむ北河内の一帯が、恐らく秀康の本拠の地であったことは、ほぼ確かであると思われる。」とされている。この解釈は妥当なものと思われるが、「本郷」とはどのような意味なのであろうか。甲可郷は現在の四条畷市南野・大東市北条の付近に比定されるから、伊香賀郷とは直線距離で六~七キロメートル離れており、地理的に一円の所領と認めるのは難しい。しかし、在庁名のような一群の国衙領の中核であったことは間違いなかろう。
-------

長々と引用しましたが、「甲可郷は現在の四条畷市南野・大東市北条の付近」なので、長江荘の所在地として想定されている場所とは相当に離れています。
もっとも、小山靖憲氏の「椋橋荘と承久の乱」(『市史研究とよなか』第1号、1991)を見ると、長江荘の実在を基礎づける「関係史料は皆無に近い」、というか皆無なのですが、小山氏は一応、

-------
 長江という地名が見える中世文書は、宝徳二年(一四五〇)の勝尾寺文書であって、伊勢因幡代景家が「惣持寺田長江之下地」を勝尾寺に寄進している。惣持寺は、西国三十三ヵ所観音霊場の二二番札所として知られる名刹であって、島下郡(現、茨木市)に所在する。この惣持寺からさして離れていないところに長江荘の比定地を求めるべきだと考えるが【後略】
-------

と推定されています。(p68)
「甲可郷は現在の四条畷市南野・大東市北条の付近」と茨木市の総持寺は、淀川を挟んで直線距離で10㎞ほどですから、意外に近いといえば近いですね。
ま、長江荘は謎だらけなので、もしかしたら参考になるかも、程度の気持ちで長々と引用してみました。

長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da
「関係史料が皆無に近い」長江荘は本当に実在したのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af58023942711f54b112cc074308b3ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d28bb5de2a337a74f14bad71e5aa96a3
長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちに捧げる歌(by GOTOBA)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9e21be7919eb73b747f9f322c7880af

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平岡豊氏「藤原秀康について」(その2)

2023-03-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p20)

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 その秀康の一族が歴史上に姿を現すのは、別表のように建久七年(一一九六)に後鳥羽天皇の御給によって秀康が内舎人に任じられたのが最初である。時はあたかも関白藤原兼実が罷免され、源通親主導の体制が廟堂に成立した直後のことで、天皇はいまだ少年の域を出ていなかったから、任官に際しては通親の力が大きく作用したのではないかと想像される。『尊卑分脈』には秀能に関して「元土御門内大臣通親公家祗候、十六歳時被召後鳥羽院北面」とあり、正治元年(一一九九)に院北面に選ばれたこととともに通親の家人であったことを伝える。また秀康が東宮(守成親王、のちの順徳天皇)に属する主馬首であり、秀澄が東宮帯刀であったのも、通親が東宮傅であったときである。先学の研究では秀康一族が後鳥羽院に登用されることになった契機は不明であるとされていたが、源通親との関係が前提になっていたのではないかと思われる。
 では村上源氏と秀康一族はどのような接点を持っているのであろうか。秀康の本拠は河内国讃良の地であったと田中稔氏が指摘されているところであるが、実に讃良は「中院流家領目録草案」に見える村上源氏の所領なのである。岡野友彦氏は同目録を仁平四年(一一五四)前後、通親の義祖父にあたる源雅定の財産処分に際し覚として作成されたものと推定されており、「讃良」は郡名と考えるのが妥当とされておられる。そして根拠不明ながら郡を単位とした所領の中には在地領主との直接の関係によって村上源氏中院流に寄進されたものもあったに違いないと述べられている。これらのことからすると、讃良郡域に勢力を占めていた秀康一族がその所領を通じて村上源氏との関係を持ち、それが通親の実権掌握によって世に送り出され、後鳥羽院との密接な関係を展開する素地を作ったと想像されるのである。
-------

いったん、ここで切ります。
平岡氏は岡野友彦氏の研究を引用されていますが、長村祥知氏の「藤原秀康─鎌倉前期の京武者と承久の乱」(平雅行編『公武権力の変容と仏教界』、清文堂出版、2014)によれば、

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 なお平岡豊氏は、秀康が承久の乱の敗北後に逃亡・潜伏した河内国讃良〔さらら〕が村上源氏の所領であることにも注目しているが、その論拠となった「中院流家領目録草案」(『久我家文書』三号)についての研究の進展により、今日では讃良が平安後期に久我家領であったとは確定できないことが指摘されている〔岡野 二〇〇二〕。
-------

とのことで(p78)、「岡野 二〇〇二」は「「中院流家領目録草案」(久我家文書)の検討」(『中世久我家と久我家領荘園』続群書類従完成会、二〇〇二年。初出一九八八年)です。
さて、続きです。(p21以下)

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 これによって秀康は後鳥羽天皇滝口から後鳥羽院下北面、秀能・秀澄も後鳥羽院下北面となって、重要な役割を果すことになる。ただし能茂は、後鳥羽院の寵童であったことから秀能の猶子とされたものと認められるから、通親との関係を云々することはできない。なお秀能の歌集である『如願法師集』には「嘉禎二年神无月中の十日比に、七条女院にさふらひなれし事思いてゝ」という記述があるので、秀能は七条院にも祗候していたことが確かめられる。ただし、その関係が後鳥羽院との関係より先行していたかどうかは不明である。
-------

慈光寺本には、

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 (後鳥羽院)
  都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル
 伊王左衛門、
  スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉
 御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ、女院ノ御返シニハ、
  神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ee67ada9eeeeca23f3d8d5485199ac5b

という奇妙な贈答歌がありますが、仮に著名歌人で七条院にも仕えていた秀能が、「現実には高貴な女院が、能茂のような臣下に直接返歌をすることはまず考えられない」(渡邉裕美子氏)にもかかわらず、猶子の能茂(伊王左衛門)にこんな返歌をしたと書かれていることを知ったら、きっと激怒するに違いないと私は想像します。

慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/581532859e25780fef4ee441ea4ce703

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平岡豊氏「藤原秀康について」(その1)

2023-03-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

平岡豊氏の「藤原秀康について」(『日本歴史』716号、1991)は、

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一 はじめに
二 秀康一族の出自と官歴
三 秀康の所領
四 秀康の国衙支配
五 秀康と承久の乱
六 おわりに
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と構成されていますが、まずは「はじめに」で平岡氏の問題意識を確認します。(p19)

-------
  一 はじめに

 本稿は、藤原秀康という人物を通して、後鳥羽院政の一側面を考察してみようと試みるものである。秀康は、侍という貴族社会においては身分の低い者であったが、承久の乱で院方の要として活躍したことで知られている。田中稔氏は承久新補地頭補任地の考察を通じて、秀康の所領であった河内国伊香賀郷・備中国隼島保(吉備津宮領)、弟秀能の所領であった大和国井上庄を検出され、秀康について河内国讃良を本拠として河内国北部に勢力を張っていた武士と指摘し、あわせて秀能が大和国に本拠を有していたと述べられている。そして水野恭一郎氏は「土屋家文書」の紹介の過程で、米谷豊之祐氏が滝口との関連で、浅香年木氏は能登国支配に関連して述べられ、またいくつかの地域史のなかでも注目されている。秀康の評価としては、石井進氏が「もっぱら中央の有力者とむすびつき、その私兵の役割を果たしてきた畿内近国の武士の代表的存在」と述べられており、同様の見解は上横手雅敬氏や大山喬平氏も述べられている。このように高い評価と注目を集めていながら、彼についての具体的な考察はあまりなされておらず、検討の余地はいまだ大いにあると思われる。先学の研究を総合・深化することによって、秀康と後鳥羽院政とのかかわりを明確にし、その意義を考えてみたい。
-------

煩瑣になるので注記に記された出典は引用しませんが、それぞれの初出の年のみを列挙すると田中稔(1956)、水野恭一郎(1976)、米谷豊之祐(1980)、浅香年木(1981)、石井進(1965)、上横手雅敬(1970)、大山喬平(1974)となります。
ついで「秀康一族の出自と官歴」に入ると、秀康一族と三浦氏の関係の深さにちょっと驚きます。(p19以下)

-------
  二 秀康一族の出自と官歴

 秀康の一族は『尊卑分脈』によると藤原秀郷の流れを汲み、下野の小山氏や藤姓足利氏などと非常に近い系譜関係を有している。そして秀康の祖父秀忠は「大屋三郎」「大屋入道」と呼ばれ「美乃守」になったといい、父の秀宗も従五位上に至り大和守・河内守に任じたことが見えている。

  秀康一族略系図(『尊卑分脈』による)【省略】

 このうち秀宗に関して『尊卑分脈』は興味深い註記を載せている。すなわち「実者和田三郎平宗妙子也、然而依為秀忠外孫為嫡男、仍改姓藤原相続」とあり、浅香年木氏は「宗妙」を「宗実」の誤りとみて「註記を信頼すれば、東国の有力御家人和田一族の庶流の出身であったことになる」とされている。従来、浅香氏以外に『尊卑分脈』の註記に注目された先学は無いようであるが、承久の挙兵にあたって秀康と三浦胤義が謀議をめぐらしたと伝えらえていること、能茂の娘が三浦光村の妻であったということから、秀康の一族が三浦氏と非常に近い関係にあったことが窺われる。秀康らが宗実の流れであるとすれば、和田氏の同族ともいうべき三浦氏との関係が難なく説明できよう。

  参考系図(『三浦系図』『和田系図』【省略】
-------

いったん、ここで切ります。
系図は引用しにくいのですが、「秀康一族略系図(『尊卑分脈』による)」の方を文章で説明すると、

 秀忠─秀宗─秀康

が嫡系で、秀康・秀能・秀澄が兄弟であり、秀能の子に能茂・秀茂がいます。
ただ、能茂は秀能の実子ではありません。
「能茂の娘が三浦光村の妻であった」は『吾妻鏡』宝治元年六月十四日条が典拠で、二人の関係は田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」に即して紹介済みです。

田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d3bf634d5a4254f70a203b669c775288

さて、「実者和田三郎平宗妙子也、然而依為秀忠外孫為嫡男、仍改姓藤原相続」の「宗妙」を「宗実」の誤りとすると、世代的に無理が生ずることもあり、高橋秀樹氏は懐疑的です。(『三浦一族の研究』、p182)
ただ、高橋氏にも若干の誤解がありそうなのですが、非常に細かな話になるので、後で検討することにします。

藤原秀康
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E5%BA%B7

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流布本の作者について(その2)

2023-03-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

※追記(2023年4月24日)
流布本作者を藤原秀能とする仮説は無理が多く、全面的に撤回しましたが、この記事はそのまま残しておきます。

流布本作者=藤原秀能との仮説は全面的に撤回します。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ab913546709680fe4350d606a965d81

 

藤原秀能は新古今時代の歌人としてはそれなりに有名ですが、歴史研究者にはさほど関心を持たれておらず、中世前期の研究者であっても、せいぜい名前を聞いたことがある程度の人が多そうです。
ウィキペディアを見ると、

-------
その後は検非違使大夫尉、出羽守と歴任し、承久の乱では朝廷方の大将として一手を担った。このために戦後、鎌倉幕府の命令で熊野山に追放されて出家の身となり、如願と号した。
後に、承久の乱で遠島処分となった後鳥羽法皇を慕い隠岐島へ渡っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E8%83%BD

などとありますが、間違いだらけですね。
藤原秀能について一番研究されているのはおそらく田渕句美子氏で、『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)の「第三章 藤原秀能」にその成果がまとめられています。
この論文は後で検討しますが、まずは藤原秀能の略歴を田渕氏が担当された『朝日日本歴史人物事典』で確認すると、

-------
藤原秀能
没年:仁治1.5.21(1240.6.12)
生年:元暦1(1184)
鎌倉時代の歌人。「ひでとう」とも。河内守藤原秀宗の子。秀宗は和田一族庶流の出身か。初め源通親に仕え,16歳で後鳥羽院北面の武士となり,左衛門尉,検非違使尉などを歴任,武人として数々の功績を立てた。同時にその歌才を後鳥羽上皇に認められ,急速に歌人的成長を遂げ,院歌壇の常連となり多数の歌合に出詠。和歌所寄人に任ぜられ,『新古今集』に17首入集。うち12首が後鳥羽上皇により選入されたものである。が,承久の乱時,兄秀康,弟秀澄が院方の総大将として戦い敗死したのに対し,秀能の足跡はなく乱への参加は疑わしい。乱後出家,如願と号し,『遠島御歌合』や西園寺家の歌会などに出詠している。秀能は父母共に関東の有力御家人の家柄であり,秀能自身北条氏,三浦氏とも親密であった一方,後鳥羽上皇に近臣歌人として寵愛され,秀能は乱後も上皇を思慕し続けた。秀能およびその一族の人々の数奇な生涯は興味深い。家集『如願法師集』は,900首余を収める。<参考文献>田淵句美子「承久の乱後の藤原秀能とその一族」(『古典和歌論叢』)
(田渕句美子)

https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E8%83%BD-15082

といった具合です。
「コトバンク」には『ブリタニカ国際大百科事典』も引用されていますが、そこに秀能が「承久の乱の際,追手の大将とされたが敗れ」云々とあるのは『尊卑分脈』に「承久三年兵乱之時、追手大将也」とあることに基づいています。
しかし、秀能の参戦は『尊卑分脈』以外の史料には全く出てきません。
承久の乱後の処分は、公家は僅か五人の処刑で済みましたが、武家の参戦者については峻厳で、大将格で戦って処刑を免れるというのは考えにくく、これは『尊卑分脈』編者の勘違いだろうと思われます。
さて、歴史研究者には藤原秀能よりも、その兄で承久の乱に際し京方の総大将であった藤原秀康の方が馴染み深い存在です。
また、藤原秀能は流布本・慈光寺本には登場しないので、これから流布本・慈光寺本を読み進めるのに際しては、藤原秀康について知っておいた方が役に立ちます。
そこで、まずは藤原秀康について少し知識を深めてから、必要に応じて田渕氏の秀能研究の成果を参照して行くことにしたいと思います。
藤原秀康については平岡豊氏の「藤原秀康について」(『日本歴史』716号、1991)という詳細な論文があるので、まずはこれを紹介し、ついで長村祥知氏の「藤原秀康─鎌倉前期の京武者と承久の乱」(平雅行編『公武権力の変容と仏教界』、清文堂出版、2014)を参照したいと思います。

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流布本の作者について(その1)

2023-03-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

※追記(2023年4月24日)
流布本作者を藤原秀能とする仮説は無理が多く、全面的に撤回しましたが、この記事はそのまま残しておきます。

流布本作者=藤原秀能との仮説は全面的に撤回します。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ab913546709680fe4350d606a965d81

 

ちょっと早すぎるかもしれませんが、伊賀光季追討記事について流布本と慈光寺本の比較を終えた段階で、流布本の作者についての私の仮説を提示しておきたいと思います。
今月13日の「第一回中間整理(その1)」で纏めておいたように、私は、渡邊裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)で藤原能茂の登場の仕方に極めて奇妙な点があることに気付き、ついで田渕句美子氏の「藤原能茂と藤原秀茂」(『中世初期歌人の研究』所収、笠間書院、2001)で藤原能茂の娘が三浦光村室となっていることから、

1.慈光寺本の作者は藤原能茂
2.能茂が想定した読者は娘婿の三浦光村
3.慈光寺本の目的は光村に承久の乱の「真相」を伝え、「正しい歴史観」を持ってもらうこと

という仮説を立てています。

第一回中間整理(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff3509b1f4471cb702cb80ee133f2c8d

こうした仮説に基づき、慈光寺本の比較対象として流布本を眺めると、流布本には次のような特徴が窺えます。

(1)流布本作者は承久の乱の結果、「王法尽させ給ひて、民の世になる」という基本認識を抱いているが、慈光寺本作者にはこのような認識はない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32a46bb4cf85d781d154b2aeb8ee3568

(2)北条義時が最初に登場する際、慈光寺本作者は北条義時を「右京権大夫義時ノ朝臣」と呼び、「朝ノ護源氏ハ失終ヌ。誰カハ日本国ヲバ知行スベキ。義時一人シテ万方ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍フベキ」と野心を剥き出しにした人物として描くが、流布本は「右京権大夫兼陸奥守平義時」と正式な名称で呼んだ上で、「上野介直方に五代の孫、北条遠江守時政が次男なり。権威重くして国中に被仰、政道正しうして、王位を軽しめ奉らず。雖然、不計に勅命に背き朝敵となる」とし、立派な人物として肯定的に描いている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a1031fce50f664d8ae8a9c21359b332
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec7ed809036d4fd2ce63e21e96d32b82

(3)流布本で徳大寺公継が後鳥羽院に諫言するに際し、公継が「大形、今度の御謀叛、於公継は、可然とも不覚候」と言ったとするが、仮にこれが事実だとしても公継が後鳥羽院に対して「御謀叛」という表現を使うはずはなく、これは流布本作者の思想的立場を示す表現。流布本作者は承久の乱全体を後鳥羽院の「御謀叛」とし、律令法の大系では説明できない法秩序の存在を認めている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ab28fe2da880962508ac1cc20f951306

(4)上下巻全体の結語として、流布本作者は「承久三年、如何なる年なれば、三院・二宮、遠島へ趣せましまし、公卿・官軍、死罪・流刑に逢ぬらん。本朝如何なる所なれば、恩を知臣もなく、恥を思ふ兵も無るらん。日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひと申ながら、賢王逆臣を用ひても難保、賢臣悪王に仕へても治しがたし。一人怒時は罪なき者をも罰し給ふ。一人喜時は忠なき者をも賞し給にや。されば、天是にくみし不給。四海に宣旨を被下、諸国へ勅使を遣はせ共、随奉る者もなし。かゝりしかば関東の大勢、時房・泰時・(朝時)・義村・信光・長清等を大将として、数万の軍兵、東海道・東山道・北陸道三の道より責上りければ、靡かぬ草木も無りけり」と述べており、後鳥羽院は「天」に見捨てられた存在だとし、その批判的姿勢は徹底している。慈光寺本にも若干の後鳥羽批判はあるが、流布本に比べれば微温的。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/22dce396bbb288867bb1c692c425ea59

(5)このように流布本作者は後鳥羽院・北条義時への評価において慈光寺本作者の対極に位置し、両者は思想的立場を全く異にしているが、しかし、伊賀光季追討記事においては、流布本・慈光寺本いずれも伊賀光季の態度を肯定的に描いている。この記事のみならず、全般的に武士のメンタリティに親和的。

(6)ともに三浦一族に関する記事が詳しく、京方の武士の動向では三浦胤義関係記事が特に多い。また、敗戦後の三浦胤義と兄・義村との関係についての記述も詳しく、流布本・慈光寺本の作者は極限的状況における兄弟相克に特別な関心を持っているように思われる。

(7)流布本・慈光寺本ともに伊賀光季追討エピソードと勢多伽丸エピソードを他の記事とバランスを欠くほどの詳細に描いているが、この二つのエピソードは佐々木一族に関係する。そして、伊賀光季追討エピソードで特に印象的に描かれているのは寿王とその実の父親・光季の関係とともに、寿王とその烏帽子親・舅(流布本では佐々木高重、慈光寺本では佐々木広綱)との関係。また、勢多伽丸エピソードでは勢多伽丸の父・佐々木広綱とその弟の佐々木信綱の確執が強調される。こちらでも、流布本・慈光寺本の作者は極限的状況における兄弟相克と(擬制的な関係を含めた)父子相克に特別な関心を持っているように思われる。

以上のように、流布本・慈光寺本の作者は、思想的には対極に位置しながら、ともに三浦一族・佐々木一族との接点を持ち、そして極限的状況における武家一族間の兄弟相克・父子相克に特別の関心を持っているように思われます。
ここで、慈光寺本作者が藤原能茂だとすると、承久の乱において京方に立って戦った人が多い能茂の周辺で、後鳥羽院から多大な恩顧を蒙り、京方の中心となることを期待されながら、京方として戦うのを拒否し、乱後も北条氏との関係が極めて良好だった人物の名前が流布本の作者として浮かんできます。
それは能茂の養父であり、京方の大将、藤原秀康・秀澄の兄弟でもあった藤原秀能です。

藤原秀能(1184-1240)(『朝日日本歴史人物事典』)
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E8%83%BD-15082

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伊賀光季追討記事、流布本と慈光寺本の比較(その3)

2023-03-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

伊賀光季追討記事の検討に入る前、3月17日の投稿で、私は、

-------
さて、今まで紹介した部分では、仮に慈光寺本が「最古態本」だとしても、流布本作者には慈光寺本が何の参考にもならないことは理解していただけたと思います。
慈光寺本の序文はやたらと長いだけで無内容であり、実朝暗殺に関する記事は数行だけ、西園寺実氏の「春の雁の」の歌はなく、阿野時元・源頼茂の事件や「官打」・最勝四天王院への言及もなく、三寅下向の事情も数行だけ、仁科盛遠エピソードもなく、徳大寺公継の諫言もありませんから、流布本作者はこれら全てについて別の情報源に当たらなければなりません。
ただ、伊賀光季追討については慈光寺本も流布本も、他の記事とのバランスを欠くほど膨大な分量の記述があるので、両者が全く無関係とは思えない感じがします。
そこで、慈光寺本と流布本のいずれが先行すると考える方が自然かについて留意しつつ、先ずは流布本を読んで行きます。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/422822e0c9ffb2833456343af7b5b0e7

と書きましたが、実際に流布本と慈光寺本の伊賀光季追討記事を比較してみると、同じ事件を扱ったにしては両者の異同は余りに多いように感じます。
個々の出来事の時間・場所、登場人物の選択とその役割など、まるで同一内容になるのを意図的に避けているのではなかろうかと思われるほどです。

伊賀光季追討記事、流布本と慈光寺本の比較(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b26323766357635b77c96397322fb65e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25b33642bd703dd0ec7407be3bd7fa12

特に、流布本では五月十四日に後鳥羽から光季への召喚があったとしているのに対し、慈光寺本では五月十四日に佐々木広綱と伊賀光季の酒宴エピソードを入れた結果、五月十五日に光季の召喚と戦闘が集中してしまい、何とも慌ただしい展開となっています。
そのため、遊女・白拍子との酒宴が、流布本では最後の別れとしてしみじみとした味わいのあるエピソードであるのに対し、慈光寺本では単なる宴会になってしまうなど、話の流れがチグハグです。
ちなみに『吾妻鏡』承久三年(1221)五月十九日条には、

-------
大夫尉光季去十五日飛脚下着関東。申云。此間。院中被召聚官軍。仍前民部少輔親広入道昨日応勅喚。光季依聞右幕下〔公経〕告。申障之間。有可蒙勅勘之形勢云々。未刻。右大將家司主税頭長衡去十五日京都飛脚下着。申云。昨日〔十四〕幕下并黄門〔実氏〕仰二位法印尊長。被召籠弓塲殿。十五日午刻。遣官軍被誅伊賀廷尉。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とあり、五月十四日に大江親広と伊賀光季が後鳥羽に召喚され、親広は応じたが光季は拒否したために勅勘を蒙りそうな形勢となっており、また、同じく十四日に西園寺公経・実氏父子が拘禁されたとしています。
事件の流れとしては『吾妻鏡』、そして流布本の方が遥かに自然であり、慈光寺本は基礎的な設定に虚構が含まれていますね。
さて、慈光寺本と流布本のいずれが先行すると考えるべきかですが、決め手となるのは、同一事件を扱いながら殆ど重なり合わない二つのストーリーの中で、唯一、明らかにテーマが重なっている寿王とその烏帽子親・舅の関係の問題です。
流布本においては、寿王の烏帽子親であり舅でもある人物は佐々木高重とされています。
そして、高重を見かけた寿王が「兼ては、子にせん親に成んと御約束」した高重からもらった矢を高重に射て、高重の鎧に当てるも射通せず。高重はその矢を引き抜いて「人々」に見せ、「烏帽子きせ、聟に取ん迄約諾」した寿王の立派さを誉め、そうした関係であっても戦わなければならない武士の身を悲しく感じ、その日の戦闘は中止して、周囲の「人々」も高重に同情して涙を流します。

流布本も読んでみる。(その8)─寿王と「佐佐木弥太郎判官高重」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c2008e1b27068f6e8451c443891fff45

非常にすっきりとまとまった戦場美談ですが、慈光寺本の方はずいぶん屈折しています。
まず、慈光寺本では寿王の烏帽子親であり、寿王を聟に取ったのは佐々木高重ではなく、その従兄弟の佐々木広綱です。
佐々木広綱と伊賀光季は「アヒヤケ」であり、広綱は光季が追討されそうになっていることを知らせたくて五月十四日に二人だけの酒宴を催しますが、後鳥羽の処罰を恐れて曖昧なやりとりでお茶を濁します。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その19)─「アヒヤケ(相舅)」の佐々木広綱
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/625f1f6ec356fe05e45c0dffd5a61aa4

そして、翌日の戦闘場面で広綱が光季に名乗りを上げたところ、光季は自身は相手をせず、寿王に「舅ノ山城守ノ見参」を命じます。
寿王が「元服ノ時給ハリタリシ矢奉返」として広綱に矢を射ると、「鎧ノ袖」に当たり、これを見た広綱は門外に出て、「殿原」に「十四ニ成判官次郎ガ射タル弓勢ノハシタナサ」を語りますが、流布本と違い、これを聞いた「殿原」が涙を流すようなことはなく、逆に「間野二郎左衛門尉」宗景なる人物が「弓矢取ノ道心事ハ有ベカラズ」と批判します。
そして「其儀ナラバ宗景カケン」と言い捨てた間野宗景は「連銭葦毛ノ馬乗、門南腋ニゾ打立」つと、光季が「門ノ南腋ニ、甲モキズシテ火威ノ冑ニハツブリ計カケタルハ、間野次郎左衛門ト奉見ハ僻事カ。ソニテマシマサバ、日来ノ詞ニモ似ヌ者哉。間近ク押寄候ヘ。見参セン」と声を掛け、間野宗景も「神妙也トヨ、判官殿。人シモコソアレ、宗景ニシモ被仰面目サヨ。サラバ参ラン」と応じます。
この後、間野宗景は胡籙を置き、剣を抜いて光季に向かうと光季の弓弦を切って、光季を出居の内に追いやり、ついで治部次郎・「仁江田三郎父子三騎」・「伊加羅武者」に切りつけますが、「伊加羅武者」を「奴ゾ、恥アル者」と認めた間野宗景がその首を取ろうとして俯いたところを光季に射殺されます。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その23)─「判官次郎ハ広綱ニハ烏帽子子ナガラ聟ゾカシ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/514d5b63524ac02e483e15a3e893dc93

単純な戦場美談ではなく、様々な人物の思惑が複雑に交錯した展開となっており、劇的と言えば劇的なストーリーです。
記事の分量も、光季・広綱の酒宴エピソードが13行(p312・313)、戦場での広綱登場から間野宗景の死までが28行(p319~321)、合計41行であり、慈光寺本での伊賀光季追討記事全体が163行なので、約25%を占めています。
慈光寺本の作者が、これだけの分量の記事を工夫した理由は何だったのか。
正直、私には慈光寺作者の意図はつかみ切れていないのですが、あるいは慈光寺本作者は、流布本に描かれているような「戦場美談」は嘘くさく、実際の戦場とはこういう殺伐としたものなのだ、そして間野宗景のような人物こそが武士の鑑なのだ、と言いたかったのかもしれません。
ただ、慈光寺本作者の意図はともかく、流布本のすっきりした「戦場美談」に比べて、慈光寺本の方は非常に複雑な、別のパターンの「戦場美談」となっています。
これは慈光寺本作者が流布本を読んでいて、その単純な内容を、より複雑な方向に変化させたと考えるのが自然であり、流布本が慈光寺本に先行するものであることを示していると私は考えます。

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伊賀光季追討記事、流布本と慈光寺本の比較(その2)

2023-03-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続いて、実際に戦闘が始まってからの異同です。

(11)流布本では「討手の大将」として「能登守秀安・平九郎判官胤義・少輔入道近弘・山城守広綱・佐々木弥太郎判官高重・筑後入道有則・下総前司盛綱・肥後前司有俊・筑後太郎左衛門尉有長・間野左衛門尉時連」の十名が列挙されているが、慈光寺本にはこれに相当する記述はない。なお、「少輔入道近弘」は大江親広であるが、流布本でもここに名前が出て来るのみ。慈光寺本には大江親広への言及なし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/12f7a2664bc4296dea94aabcdd4a942f

(12)流布本では、光季側は当初「小門」だけを開けて討手を入れ、後に京極面の「大門」も開けるという二段階で対応するが、慈光寺本では光季の命令でいきなり京極面の「大門」を開ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83f4411ce826c0e7e2ede1d6616eb1eb

(13)流布本では最初の「小門」での戦いに「平九郎判官の手者」として「信濃国住人志賀五郎」「同手者、岩崎右馬允」「同手者、岩崎弥清太」「一門成ける高井兵衛太郎」が登場するが、慈光寺本には「小門」の戦いがないので、これらの者も登場しない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c2008e1b27068f6e8451c443891fff45

(14)流布本では「大門」での戦いの討手側の一番手として「間野左衛門尉時連」が登場するが、光季に射られて直ぐに退く。慈光寺本には同名の者は登場しない。

(15)慈光寺本では「大門」での戦いに「打入人々、一陣ニ平判官胤義、二陣草田右馬允、三陣六郎左衛門、四陣刑部左衛門、五陣山城守広綱」とあるが、流布本にはこれに相当する記述はない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83f4411ce826c0e7e2ede1d6616eb1eb

(16)流布本では「大門」での戦いの二番手として三浦胤義が登場し、光季と問答の後、光季が射た矢が胤義には当らず、胤義と並んでいた「播磨国住人原田右馬允」の首骨に当たり即死。慈光寺本では、「大門」での戦いの最初に三浦胤義が登場し、光季と長い問答をすると「草田右馬允」が攻撃を催促し、これを受けた胤義が光季に矢を射るも当たらず。光季が射返すと、胤義をかすめて「二陣」の「草田右馬允」の首骨に当たり、落馬。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4e1efa6121522e5ce8fd795c45cd9e70

(17)流布本では「大門」での戦いの三番手として「佐佐木弥太郎判官高重」が登場。これを見た寿王が「兼ては、子にせん親に成んと御約束」した高重からもらった矢を高重に射て、高重の鎧に当てるが射通せず。高重はその矢を引き抜いて「人々」に見せ、「烏帽子きせ、聟に取ん迄約諾」した寿王の立派さを誉め、そうした関係であっても戦わなければならない武士の身を悲しく感じ、その日の戦闘は中止。周囲の「人々」も同情して涙を流す。これに対し、慈光寺本では寿王の烏帽子親であり、寿王を聟に取ったのは佐々木高重ではなく、その従兄弟の佐々木広綱。そして、広綱が光季に名乗りを上げたところ、光季は自身は相手をせず、寿王に「舅ノ山城守ノ見参」を命じる。寿王が「元服ノ時給ハリタリシ矢奉返」として広綱に矢を射ると、「鎧ノ袖」に当たる。これを見た広綱は門外に出て、「殿原」に「十四ニ成判官次郎ガ射タル弓勢ノハシタナサ」を語るが、これを聞いた「間野二郎左衛門尉」宗景が「弓矢取ノ道心事ハ有ベカラズ」と批判。間野はこの後、剣を抜いて光季・治部次郎・「仁江田三郎父子三騎」・「伊加羅武者」を圧倒するが、「伊加羅武者」の首を取ろうとして俯いたところを光季に射殺される。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/514d5b63524ac02e483e15a3e893dc93

(18)流布本では贄田三郎・四郎・右近の三人のうち、三郎・四郎は最後まで奮闘するが、慈光寺本では「二江田三郎父子三騎」は「間野二郎左衛門尉」宗景にあっさり殺されるだけの役割。

(19)慈光寺本では、光季の「メノトゴ(乳母子)」だという「治部次郎」が高陽院に偵察に行くなど重要な役割を演じているが、流布本では「メノトゴ」か否かは記されず、また光季に命じられて寿王に物具を着せたり、「大門」を開く程度の役割のみ。

(20)慈光寺本では「政所太郎」が「落残タル勢ドモ」に光季・寿王を加えた三十一騎で包囲を突破し、後鳥羽のいる高陽院に攻め込んで戦い、負けたら「御簾ノ隙ヨリ御殿ニマイリ、十善ノ君ノ御膝ヲ枕トシテ、自害仕覧」という提案をするが、光季に却下される。光季は却下の理由として、「治部次郎」と「政所太郎」以外の郎等は門外に出たら逃亡すると言い、配下への信頼感が乏しい。流布本では「政所太郎」は名前が出て来るだけで、このような提案もしない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83f4411ce826c0e7e2ede1d6616eb1eb

(21)流布本では、光季は寿王に「案内者の冠者原七八人」を付けて鎌倉に逃がすつもりだったが、寿王がこれを拒否。慈光寺本では光季と寿王の話し合いはない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/12f7a2664bc4296dea94aabcdd4a942f

(22)流布本では光季から自害を命じられた寿王は、最初、切腹しようとするが出来ず。その後、父から火に飛び込むように言われるが、やはり躊躇う。慈光寺本では切腹の試みはない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/462f779be347631f2ac4daa36ac65905

(23)慈光寺本では光季が「政所太郎」に自邸を火にかけるように命ずるが、流布本ではそのような場面はなく、討手側と防御側のどちらが火をかけたのかははっきりしない。

(24)自害に当たって、流布本では光季は「南無帰命頂礼鎌倉八幡大菩薩・若宮三所、権大夫(が)為に、命を王城に捨置ぬ」と鎌倉の八幡大菩薩に祈っているが、慈光寺本では「南無帰命頂礼、八幡大菩薩・賀茂・春日、哀ミ納受ヲ垂給ヘ」と祈っており、賀茂・春日と並べているので石清水の「八幡大菩薩」へ祈ったことになる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/638fe2866f581171f1821f3e3a03e7e9

(25)慈光寺本では光季は「政所ノ太郎手ヲ取チガヘテ」火に飛び込むが、流布本では「政所ノ太郎」は登場せず、また、光季は「腹掻切て、寿王が焼けるに飛加り、打重てぞ焼にける」とあって、光季は腹を切った後に火に飛び込んでいる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/462f779be347631f2ac4daa36ac65905

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伊賀光季追討記事、流布本と慈光寺本の比較(その1)

2023-03-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

伊賀光季追討記事は、単一の話題としては流布本と慈光寺本のいずれにおいても一番分量が多いのですが、ここで改めて流布本と慈光寺本の比較を行ってみます。
まず、分量については、慈光寺本の場合、『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)では上下巻で71ページ、合計1044行ある中で、伊賀光季追討記事は163行であり、

163/1044≒0.156

となって、全体の約16%を占めます。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その5)─数量的分析
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ef2c3462c18b57069e06b1d9bc07a00e

流布本についてはこうした計算をしていませんでしたが、松林靖明校注『新訂承久記』(現代思潮社、1982)では、上巻は46~97頁までの52ページ、下巻は98~146頁までの49ページ、合計101ページあり、1頁は原則として16行です。
ただ、小見出しを含んでいるために実質15行のページも多く、16行のページが48、15行が45、14行が4、10行が3、1行が1ページあります。
従って、上下二巻は全部で、

 16×48+15×45+14×4+10×3+1×1=1530行

となります。
そして、伊賀光季追討記事は11ページ、147行なので、

147/1530≒0.0960

となって、全体の約10%を占めます。
これは慈光寺本ほどではありませんが、相当な割合であり、承久の乱における一番最初の戦闘としての重要性を考えても妙に多い感じは否めません。
なお、『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』は原則として1行あたり35字、『新訂承久記』は原則として1行あたり31字なので、記事の絶対量は、

163×35=5705
147×31=4557

となり、

5705/4557≒1.252

ですから、流布本と比較すると、慈光寺本は記事の絶対量でも25%ほど多いですね。
さて、算数の計算はこれくらいにして、記事の内容を比べてみると、相当に異同がありますね。
細かな異同を数え上げたらキリがありませんが、例えば以下のような点が異なります。

(1)流布本は後鳥羽が二人の京都守護、「親広法師・伊賀判官」への対応を三浦胤義に相談しているのに対し、慈光寺本では後鳥羽院藤原秀康に「義時ガ縁者検非違使伊賀太郎判官光季」の追討を命じており、大江親広への言及がない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55631e5f49bc5c20cfdc0355c7f41c75

(2)流布本では後鳥羽の動向を怪しんだ西園寺公経が家司・三善長衡を使者として光季に警告するが、慈光寺本にはそのような記述はない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ab28fe2da880962508ac1cc20f951306

(3)流布本では西園寺公経と息・実氏が後鳥羽の命を受けた二位法印尊長に拘禁された記事の後に光季追討記事が載るが、慈光寺本では光季追討が終わった後に、二人の拘禁の事実のみが記される。

(4)後鳥羽が伊賀光季を召喚したのは、流布本では五月十四日であるのに対し、慈光寺本では十五日。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/422822e0c9ffb2833456343af7b5b0e7

(5)慈光寺本では十四日に佐々木広綱が光季を招いて酒宴を催すが、流布本にはそのような記事はない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/625f1f6ec356fe05e45c0dffd5a61aa4

(6)流布本では十四日の深更に「判官の郎従等」が「軍の僉議」をして、鎌倉へ逃げることを提案するが、光季はこれを拒否する。その結果、逃亡者が出て、結局二十七人が残る。
これに対し、慈光寺本では光季の発言中に「此等之家子・郎等ナドスベテ議シケルハ」とはあるが、配下一同の「僉議」があったか否かははっきりしない。残った人数は二十九人。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/12f7a2664bc4296dea94aabcdd4a942f

(7)流布本では自身は自邸に留まることを決意した光季が、嫡子寿王を呼び「案内者の冠者腹七八人相具して」鎌倉まで逃げるように言うが、寿王はこれを拒否。これに対し、慈光寺本では光季と寿王の話し合いはない。

(8)流布本では十五日に攻撃があることを知った光季が「年比馴遊びける好色・白拍子、其外志深き男女の類ひ」を招いて最後の宴を催し、「財宝の有限り」を「形見」として分け与え、「暁近く」に退去させるが、慈光寺本では光季は佐々木広綱との酒宴の後、「暮方」に自邸に戻って「白拍子春日金王」を呼んで「終夜、宴遊」したとあるだけで、酒宴に最後の別れの意味がない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b3dc644f79d6ac5103361a8c1fb58aa

(9)慈光寺本では「十五日ノ朝」に三度の召喚があった後も、光季は直ちに攻撃を受けるとは予想せず、乳母子の治部次郎光高を高陽院まで偵察に出し、治部次郎は途中で「打手ノ使一千余騎」に出会った後、「京童部」に光季追討の軍勢だと教えてもらい、走り帰る。治部次郎の報告を聞いた光季は、最初に「遊者共」に「テンドウ」を与える指示を出し、「別ノ盃」を交わしてから送り出す。「遊者共」はずいぶん遅くまで光季邸にいたことになる。
これに対し、流布本では十五日は直ちに戦闘場面となる。

(10)討手の数は慈光寺本が「一千余騎」であるのに対し、流布本は「八百余騎」。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b3dc644f79d6ac5103361a8c1fb58aa
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/12f7a2664bc4296dea94aabcdd4a942f

少し長くなったので、実際の戦闘が始まった後の異同については次の投稿で書きます。

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その24)─「八幡大菩薩・賀茂・春日、哀ミ納受ヲ垂給ヘ」

2023-03-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

昨日紹介した場面について若干の補足をすると、流布本では贄田三郎・四郎・右近の三人のうち、三郎・四郎は最後の最後まで活躍しますが、慈光寺本では「仁江田三郎父子三騎」は「間野次郎左衛門尉」宗景にあっさり殺されてしまったことになっていますね。

流布本も読んでみる。(その9)─伊賀光季父子の最期
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/462f779be347631f2ac4daa36ac65905

それにしても、慈光寺本では寿王とその烏帽子親で舅でもある佐々木広綱の美談は、「弓矢取」には「道心事」は不要だという「間野次郎左衛門尉」宗景の発言とその勇猛な行動ですっかり霞んでしまっており、この程度で終わらせるのなら、何故にわざわざ五月十四日に佐々木広綱と光季の思わせぶりな酒宴エピソードを置いたのかが不思議に思えてきます。
慈光寺本は五月十四日に広綱・光季の酒宴エピソードを長々と入れたため、翌十五日に光季への後鳥羽院の三度の召喚と総攻撃が重なるという忙しい展開になってしまい、遊女・白拍子の扱いなどを含め、全体的に話の流れがチグハグになっています。
それだけ無理をして広綱・光季の酒宴エピソードを入れたのだから、このエピソードにストーリー展開の上での何か特別な効果を期待しているのかと思ったら、広綱と寿王のやりとりは割とあっさりと終わってしまい、しかも、流布本のように戦場での美談として語られる訳でもありません。
「山城守」ではなく「佐佐木弥太郎判官高重」が寿王の烏帽子親だとする流布本の方が遥かに自然で、遥かに緊張感に溢れたストーリー展開となっており、流布本と比べると慈光寺本のストーリーは何とも後味が悪く、広綱の存在感も非常に希薄になっていますね。
原流布本が慈光寺本に先行すると考える私の立場からすると、何だか流布本の美談を破壊すること自体が慈光寺本作者の目的のような感じがしないでもありません。
ま、それはともかく、続きです。(p321以下)

-------
 両方ニ死者多〔おほし〕。御方〔みかた〕三十五騎。判官モ痛手負〔おひ〕、今ハ限〔かぎり〕ト思テ、出居ノ内ヘゾ入ニケル。政所ノ太郎ヲ召寄テ、「敵ニ火カケサスナ。此方〔こなた〕ヨリ火カケヨ」ト下知〔げぢ〕セラレケリ。寝殿ノ間ニ火懸タリケレバ、上天〔しやうてん〕ノ雲トゾ焼上〔やきあが〕ル。判官ハ寿王喚ヨセ云ハレケルハ、「光季、今ハ限ト思フ也。自害セヨ」ト有ケレバ、火中ヘ飛入〔とびいり〕、三度マデコソ立帰レ。判官是ヲ見玉ヒ、「寿王ヨ。自害エセズハ、是ヘ立ヨレ。遺言〔ゆいごん〕セン」ト宣玉〔のたま〕ヒケレバ、寿王冠者〔くわんじや〕立寄ケリ。判官膝ニ引懸〔ひきかけ〕、云ハレケルハ、「去年霜月ニ、新院八幡御幸成シ時、大渡〔おほわたり〕ノ橋爪〔はしづめ〕固メテ、御所ノ見参ニ入〔いり〕、「カシコキ冠者ノ眼〔まな〕ザシ哉」ト、叡感ヲ蒙ブリタリシカバ、光季モ嬉シク覚テ、来〔こ〕ンズル秋除目〔あきのぢもく〕ニハ、官〔つかさ〕所望セント思ヒツルニ、今ハ限ノ命コソ心細ケレ」。寿王冠者申ケルハ、「自害ヲエ仕〔つかまつり〕候ハヌニ、父ノ御手〔おんて〕ニカケサセ玉ヘ」ト申ケレバ、判官宣玉ヒケルハ、「命ヲ惜ミ、「鎌倉ヘ落行〔おちゆか〕ン」トゾ云ハント思〔おもひ〕ツルニ」トテ、横サマニ懐キ、刀〔かたな〕ヲ抜出シ、既ニサゝントシケルガ、流ルゝ涙ニ目クレ、刀ノ立所〔たてど〕、更ニ見ヘザリケリ。乍去〔さりながら〕、三刀〔みかたな〕指テ、燃ル炎ノ中ニ投入テ、念仏ヲ申〔まうし〕、「南無帰命頂礼、八幡大菩薩・賀茂・春日、哀〔あはれ〕ミ納受ヲ垂〔たれ〕給ヘ。光季、都ニ留〔とどまり〕テ、十善ノ君ノ御為ニスゴセル罪モナキ者ヲ、宣旨ヲ蒙〔かうぶり〕テ、命ハ君ニ召レヌ。名ヲバ後代〔こうたい〕ニ留置〔とどめおか〕ン」ト宣玉ヒテ、又鎌倉ノ方ヲ三度伏拝〔ふしおが〕ミ、「無〔なか〕ラン後ノ敵、打玉ヘ、大夫殿」トテ、政所ノ太郎手ヲ取チガヘテ、寿王ノ上ニマロビ懸リ、炎ノ底ニ入ニケリ。
-------

ということで、光季父子は自害します。
流布本と比較すると、流布本ではどちらが火を懸けたのかは書いてありません。
そして、光季に「時こそ能成たれ。自害せよ。云ひつる言に似、構て能振舞へ、寿王」と言われた寿王は切腹しようとしますが、幼いために上手く腹を切ることができず、それを見た光季は、「如何に寿王、火社よけれ。火へ入かし」と言います。
慈光寺本では、寿王が切腹を試みたことは書かれておらず、いきなり火へ飛び込むことになっていますね。
寿王を切る前の光季の言葉も流布本と慈光寺本ではずいぶん違っていて、流布本では「新院八幡御幸」の際に寿王が新院(順徳)から「カシコキ冠者ノ眼ザシ哉」と誉められたなどという思い出話はありません。
そして、流布本では寿王が父と共に討死する覚悟を表明する場面で、

-------
 判官嫡子、寿王冠者とて今年十四に成ける。元服して光綱とぞ申ける。判官、是を招て、「汝、今年十四歳にして稚〔いとけ〕なし。軍に逢ん事も如何か可有らん。幼に紛て、案内者の冠者原〔ばら〕七八人相具して落よかし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/12f7a2664bc4296dea94aabcdd4a942f

とあって(『新訂承久記』、p61)、鎌倉へ行く可能性についての丁寧な説明がありますが、慈光寺本の「鎌倉ヘ落行ン」云々はどうにも唐突ですね。
また、光季は「南無帰命頂礼、八幡大菩薩・賀茂・春日、哀ミ納受ヲ垂給ヘ」と祈っていますが、賀茂・春日と並べているので、この「八幡大菩薩」は石清水です。
流布本では「南無帰命頂礼鎌倉八幡大菩薩・若宮三所、権大夫(が)為に、命を王城に捨置ぬ」となっていて、鎌倉の八幡大菩薩に祈っており、こちらの方が「関東の御代官」(p60)、「鎌倉殿の御代官」(p68)である光季にふさわしい感じがします。
更に最後の最後、光季は「政所ノ太郎手ヲ取チガヘテ」火に飛び込みますが、流布本では「政所ノ太郎」は登場せず、また、光季は「腹掻切て、寿王が焼けるに飛加り、打重てぞ焼にける」(p68)とあって、光季は腹を切った後に火に飛び込んでいますね。
流布本と慈光寺本を比較すると、光季父子自害の場面も、総じて流布本の方が簡潔で緊張感に満ちた描写となっており、慈光寺本にはどこかチグハグな感じが否めません。
さて、続きです。(p322以下)

-------
 去程〔さるほど〕ニ、能登守ハ御所ニ参〔まいり〕、軍〔いくさ〕ノ次第申上ケレバ、十善ノ君モ御尋〔たづね〕有ケリ。秀康奏申ケレバ、「軍ノ為体〔ていたらく〕、詞〔ことば〕モ不及〔およばず〕キブクコソ候ツレ。一千余騎ノ打手ノ御使ト光季ガ卅一騎ノ勢ト、未〔ひつじ〕ノ始ヨリ申〔さる〕ノ終ニ及ブマデニ戦候ツルニ、御方三十五騎被討〔うたれ〕候ヌ。手負〔ておひ〕ハ数モシラズ。アナタニハ恥アル郎等少々被討、或光季父子自害ニテ候」ト奏シケレバ、十善ノ君ノ宣旨ノ成様〔なるやう〕ハ、「然〔しかり〕ト云ヘドモ、哀〔あはれ〕、光季ヲバ御方ニシテ、イケテ置〔おき〕、大将軍ヲサセバヤ」トゾ仰出〔おほせ〕サレケル。
-------

「未ノ始ヨリ申ノ終ニ及ブマデニ」とのことなので、戦闘は午後一時から五時まで、およそ四時間続いたことになります。
長大な伊賀光季追討エピソードはこれで終りです。

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その23)─「判官次郎ハ広綱ニハ烏帽子子ナガラ聟ゾカシ」

2023-03-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p319以下)

-------
 平判官ハ是ヲ見テ思フ様、「院ノ御軍〔おんいくさ〕ノ門出〔かどで〕ニ、大将軍胤義一番ニ射落サレタリト云レン事、公私〔おほやけわたくし〕ノ為悪〔あし〕カリナン」ト思テ、誹謗〔ひはう〕ヲハヌ先ニトテ、門ノ外ヘゾ引帰ル。六郎左衛門押寄テ戦ケルガ、戦〔たたかひ〕負テ帰ニケリ。山城守広綱片手弓ハゲテ進寄〔すすみよせ〕テ申ケルハ、「昨日マデハ互ノ雑事〔ざふじ〕ノ中ナレドモ、時世ニ随フ事ナレバ、宣旨ヲ蒙テ和殿打〔うち〕ニ寄タル也。判官次郎ハ広綱ニハ烏帽子子ナガラ聟〔むこ〕ゾカシ。互ノ手次〔てなみ〕、今日ニテ有」ト宣玉〔のたま〕ヘバ、「和殿ハ光季ニハアハヌ敵ゾ。ソコノキ給ヘ。軍〔いくさ〕シテ見セ申サン。和殿ノ、判官次郎ト軍シタクハ、シ給ヘ」トテ内ニ立入〔たちいり〕、「寿王、トクトク立出〔たちいで〕テ、舅〔しうと〕ノ山城守ノ見参〔げんざん〕セヨ」トゾ云レケル。寿王、父ノ命〔めい〕ニ随テ、十六差タル染羽ノ矢カキ負〔おひ〕、大庭ニコソ歩下〔あゆみおり〕ケレ。「アレハ山城殿ノヲハスルカ。光綱ヲバ誰トカ御覧ズル。伊賀判官ガ次男、判官次郎光綱トハ我事ナリ。生年十四ニ罷成〔まかりなる〕。元服ノ時給ハリタリシ矢奉返〔かへしたてまつる〕」トテ、思フ矢束飽マデ引テ放タレバ、舅ノ山城守ノ鎧ノ袖ニ篦中〔のなか〕マデコソ射立タレ。
-------

三浦胤義が逃げた後、前日に光季を呼んで酒宴を催した「山城守」佐々木広綱が登場し、「判官次郎ハ広綱ニハ烏帽子子ナガラ聟〔むこ〕ゾカシ」と言うので、ここでやっと広綱と光季・寿王父子の関係が明確になります。
光季は「和殿ハ光季ニハアハヌ敵ゾ」として自身は広綱と戦うことはせず、その代わりに寿王に広綱の相手をするように命ずると、寿王が登場します。
そして、寿王は「アレハ山城殿ノヲハスルカ。光綱ヲバ誰トカ御覧ズル。伊賀判官ガ次男、判官次郎光綱トハ我事ナリ。生年十四ニ罷成」と言いますが、これは広綱も百も承知の内容ですから、何だか間抜けなセリフですね。
流布本では寿王の烏帽子親は佐々木広綱ではなく、その従兄弟の「佐佐木弥太郎判官高重」ですが、寿王の方から佐々木高重に、

-------
「人は幾千万寄させ給候へ共、見知ねば恥敷〔はづかしく〕て物も不被申、弥太郎判官殿と承る程に、寿王こそ是に候。兼ては、子にせん親に成んと御約束候し、よも御忘候はじ。我等も忘不進。給て候し矢をこそ、未持て候へ。(恐候へ)共、親の只今打死仕〔つかまつり〕候最後の供を仕候時、(矢一筋)進らせんと存ずる」

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c2008e1b27068f6e8451c443891fff45

と声をかけて矢を射るという順番です。
そして、この矢を受けた高重は、周囲の人々に「聟に取ると約束し、烏帽子子とした寿王が、私に矢を放ちました。そのときの言葉は大人びていて、心も立派なものです。このような寿王と戦わねばならないとは、王土に住む武士の身程悲しいものはありません」と言って、涙を流し、その日は戦わず、これを見聞きした人々も皆、高重は情けある人よと涙を流しました、という良い話になっています。
しかし、慈光寺本では、

-------
 山城守是ヲ見テ、門外ニ引帰リ、「是ヲ見玉ヘ、殿原。十四ニ成〔なる〕判官次郎ガ射タル弓勢〔ゆんぜい〕ノハシタナサヨ」トテ折懸〔おりかけ〕タリ。間野二郎左衛門是ヲ聞〔きき〕、「弓矢取〔ゆみやとり〕ノ道心事〔だうしんごと〕ハ有ベカラズ。其儀ナラバ宗景カケン」トテ、連銭葦毛ノ馬乗、門南腋〔みなみわき〕ニゾ打立タル。
-------

ということで、せっかくの良い話に「間野二郎左衛門」が無粋なケチをつけます。
この「間野二郎左衛門」は「廻文ニ入輩」の中に「間野次郎左衛門尉」と出て来て(p310)、ここで「宗景」という名前であることが明らかにされます。
流布本では「間野次郎左衛門尉」宗景は登場しませんが、「間野左衛門尉時連」という紛らわしい名前の人物がいて、「間野左衛門尉時連」は光季と胤義の問答が始まる直前の場面で、

-------
京極面に数百騎扣へたる兵共、馬の鼻を双べて、我先にと乱入。火威の鎧に白葦毛なる馬に乗たる武者、間野左衛門尉時連と名乗て、相近〔ちかづ〕く。「如何に伊賀判官、軍場〔いくさば〕へは見へぬぞ」。光季、「茲〔ここ〕に有、近寄て問ぬか。よるは敵か」とて相近に指寄たる。判官よつ引て放矢に、時連が引合せ篦深〔のぶか〕に射させて退にけり。
-------

という具合いに、光季に射られてあっさり退却してしまいます。
しかし、慈光寺本の「間野次郎左衛門尉」宗景は大変な勇士です。
即ち、

-------
伊賀判官是ヲ見テ、「門ノ南腋ニ、甲〔かぶと〕モキズシテ火威〔ひをどし〕ノ冑〔よろひ〕ニハツブリ計カケタルハ、間野次郎左衛門ト奉見〔みたてまつる〕ハ僻事〔ひがごと〕カ。ソニテマシマサバ、日来〔ひごろ〕ノ詞〔ことば〕ニモ似ヌ者哉。間近ク押寄〔おしよせ〕候ヘ。見参セン」トゾ云ハレケル。間野二郎左衛門ハ是ヲ聞〔きき〕、「神妙〔しんべう〕也トヨ、判官殿。人シモコソアレ、宗景ニシモ被仰〔おほせらるる〕面目サヨ。サラバ参ラン」トテ、胡籙〔やなぐひ〕トキテ築地ニ寄〔よせ〕カケ、剣計〔つるぎばかり〕ヲ抜〔ぬき〕テ宗景目近〔まぢか〕ク寄タリケリ。判官ハ、間野次郎左衛門ニ弓弦〔ゆんづる〕キラレテ、出居ノ内ヘゾ入給フ。治部次郎、立出テ戦ケルガ、弓手ノ腹ヲ切ラレテ、縁ヨリ下ヘゾ落ニケル。仁江田三郎父子三騎、立出テ戦ケルガ、次郎左衛門ノ手ニ懸テ、是モ打〔うた〕レニケリ。伊加羅武者、立出テ戦ケルガ、内股〔うちまた〕切ラレテ、大庭ニ転〔まろび〕ニケリ。間野次郎左衛門、是ヲ見テ、「奴〔きやつ〕ゾ、恥アル者」トテ、頸カゝントテウツブキタル所ヲ、判官、出居ノ内ヨリ射タル矢ニ、間野次郎左衛門ガ眉間ヨリ後ノ烏帽子ノ結〔むすび〕トヘゾ射出シタル。正念〔しやうねん〕乱レテ、此世ハ早ク尽ニケリ。其間ニ、鏡ノ左衛門・田野部〔たのべ〕十郎寄タリケリ。鏡ノ左衛門、戦〔たたかひ〕負テ引返ス。田野部十郎打レニケリ。
-------

ということで、弓矢を置いて剣だけを抜き、光季の弓弦を切って光季を出居に追いやった後、治部次郎の「弓手ノ腹」を切り、「縁ヨリ下へ」落としてから「仁江田三郎父子三騎」を討ち、更に「伊加羅武者」の「内股」を切って大庭に転げさせます。
「伊加羅武者」を「恥を知る者」と認めた「間野次郎左衛門尉」宗景が、「伊加羅武者」の首を取ろうとして俯いたところを、出居に逃げていた光季が矢を射て、「間野次郎左衛門ガ眉間ヨリ後ノ烏帽子ノ結トヘゾ射出シ」、やっと殺すことができたとのことで、間野一人を相手に光季・治部次郎・「仁江田三郎父子三騎」・「伊加羅武者」の六人がかりでようやく仕留めた訳ですね。

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