学問空間

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大晦日のご挨拶

2020-12-31 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月31日(木)20時23分40秒

九月に『太平記』を検討し始めた頃の漠然とした見込みとしては、十一月くらいまで続けて、その後はチマチマした考証ではなく、もう少し大きな問題を取り上げようかな、などと思っていたのですが、征夷大将軍の問題が浮上して以降、そんな訳にも行かなくなり、とうとう年越しとなってしまいました。
年内はこれで最後の投稿となりますが、正月に入っても初詣にも行かずに家にずっと閉じ籠っている予定なので、結局、元日早々投稿することになりそうです。
去年の大晦日はどんなことを書いたかなと思って振り返ってみたら、「国家神道」を検討する過程でロシア正教のニコライ大主教に出会い、2019年最後の投稿は『ニコライの見た幕末日本』でした。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a55aed91262926000b3d59792a440a91

更に一年前を辿ると、「「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一」シリーズの検討途中で、2018年の大晦日は立花隆『日本共産党の研究』とコミンテルンのテーゼ集を読んでいました。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/76b128c4112e76bdfec476036d046f3b

ま、多方面にダボハゼ的に手を伸ばしてきましたが、今年はいろんなことがうまく結びついた一年だったように思います。

このようなマニアックな掲示板に訪問して頂いた皆さま、ありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えください。

>筆綾丸さん
途中、筆綾丸さんにこちらから話題を振っておきながら、梯子を外すような格好になってしまって、申し訳なく思っています。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その12)

2020-12-31 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月31日(木)15時04分48秒

前回投稿で引用した部分の「この中で注目されるのは、元弘三年六月五日の鎮守府将軍への補任である」に付された注(93)には、

-------
(93) 尊氏の鎮守府将軍への補任については、高橋富雄氏も触れられているが実質的な意味を持たない形式上のものとされる(『征夷大将軍』、中央公論社、一九八七年、九一頁)。
-------

とあります。
また、「このことは、一連の権限が鎮守府将軍に由来したことを伺わせる」に付された注(94)には、

-------
(94) 建武政権下で尊氏は、発給文書に鎮守府将軍ではなく左兵衛督の官途を使用している。これは、従五位上相当の鎮守府将軍より従四位下相当の左兵衛督の方が官位相当で上だったためと考えられる。なお、源頼朝の場合も、発給文書に征夷大将軍の官途を使用していない。
-------

とあります。
こちらでは吉原氏は「従五位上相当の鎮守府将軍」とされているので、『職原抄』引用に際して「将軍一人<相当従五位下>」と書かれていたのは単純な誤記のようですね。
さて、続きです。(p50以下)

-------
 本来鎮守府とは、北方鎮定のため陸奥国に設置された広域行政機関で鎮守府将軍はその長官である。さらに、史料Xは、陸奥守が鎮守府将軍を兼務することも多かったとする。しかし、建武政権下での陸奥守は、北畠顕家で義良親王を奉じて国務に当たっていた。とすれば、鎮守府将軍は、有名無実の官職だったのだろうか。
 そもそも鎮守府将軍は、史料Xに「凡頼朝卿補之後、依重征夷之任、不並任鎮府、元弘以来被並任畢」とあるように源頼朝が征夷大将軍に補任されてからは並任されなかった重要な官職だった。このことは、征夷大将軍でなくとも将軍職への補任が大きな意味を持っていたことを示している。建武政権下における将軍職は、元弘三年八月下旬頃に護良親王が征夷大将軍を解任されてから建武二年八月一日に成良親王が征夷大将軍に補任されるまで鎮守府将軍の尊氏だけだった。成良の征夷大将軍への補任も、中先代の乱の追討に際して征夷大将軍への補任を望んだ尊氏への牽制と位置づけられる。さらに、尊氏離反後の建武二年十一月十二日には、後醍醐から軍事的に大きな期待を寄せられていた顕家が鎮守府将軍に補任されている。建武政権下でも鎮守府将軍職は、重要な官職と認識され軍事的権限と不可分の関係にあったのである。
-------

「元弘三年八月下旬頃に護良親王が征夷大将軍を解任」に付された注(97)には、

-------
(97) 護良の征夷大将軍の在任期間について森氏は、令旨の文言から元弘三年五月十日~八月二十二日とされ直後に解任されたとされる(森前掲「大塔宮護良親王令旨について」、二〇〇~二〇四頁)。
-------

とあります。
森茂暁氏の「大塔宮護良親王令旨について」(小川信編『中世古文書の世界』、吉川弘文館、1991)は未読ですが、森氏の指摘は極めて重大だと私は考えます。
というのは、仮に護良が元弘三年五月十日の時点で正式に征夷大将軍に任じられていたとすれば、『太平記』の征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソードのうち、少なくとも護良親王バージョンは全くの虚偽ということになるからです。
五月十日に既に正式に征夷大将軍に任じられていた護良親王が、六月に入ってから、征夷大将軍にしてくれ、と要求して信貴山に立て籠もることはあり得ません。

征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61a5cbcfadd62a435d8dee1054e93188

この元弘三年五月十日付文書について、亀田俊和氏は『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版、2017)において、

-------
 ちなみに、遅くとも五月一〇日から、護良は令旨で「将軍宮」と称している(案文、摂津勝尾寺文書)。この段階は六波羅探題が滅亡した直後であり、後醍醐もまだ伯耆にとどまっていた。つまり、護良は後醍醐に無断で将軍を自称しており、後醍醐の将軍任命は、その追認にすぎなかったわけである。
-------

とされています(p59)。
この点、森茂暁氏の解釈が気になりますが、『足利尊氏』(角川選書、2017)では、森氏は『太平記』巻十二のエピソードを要約した上で、「結局、同十三日に護良の将軍宣下を了承するかわりに尊氏誅伐の企てをすてるという条件をのませて、護良の平和裡での入京を実現させた」(p96)とされており、「大塔宮護良親王令旨について」との関係がよく分かりません。
あるいは、五月一〇日の時点では「自称」征夷大将軍だった、とされる亀田氏と同じ立場に転じられたのでしょうか。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その11)

2020-12-31 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月31日(木)12時48分43秒

続きです。(p50)

-------
 では、尊氏の権限発動は、如何なる立場でなされたのであろうか。このことについて、建武政権下における尊氏の官途から検討してみたい。表Ⅲは、建武二年(一三三五)までの尊氏の経歴を整理したものである。
 この中で注目されるのは、元弘三年六月五日の鎮守府将軍への補任である。元弘の乱の戦後処理に関する史料M・O・Pは、鎮守府将軍へ補任されてから十二日に左兵衛督へ補任されるまでの期間に発動された権限である。このことは、一連の権限が鎮守府将軍に由来したことを伺わせる。以下、尊氏が補任された鎮守府将軍について検討していきたい。次の史料Xは、建武政権と関係の深い北畠親房が著した「職原抄」の記述である。

【史料X】
鎮守府
将軍一人<相当従五位下>
 古来尤為重寄、非武略之器者、不当其仁、仍代々称将軍者鎮
 府将也、中古以来為陸奥守者、多兼鎮府、不可然事歟、(中略)
征夷使
大将軍一人
 征夷者始於日本武尊、毎有兵事遣将帥也、(中略)元弘一統
 之初、兵部卿護良親王暫任之、其後上野太守成良親王令兼之
 給、建武三年二月被止其号畢、凡頼朝卿補之後、依重征夷之
 任、不並任鎮府、元弘以来被並任畢、(後略)
-------

いったん、ここで切ります。
「表Ⅲ 足利尊氏の経歴」には、尊氏の位階が、

元応元年(1319)十月十日 従五位下
正慶元年(1332)六月八日 従五位上
元弘三年(1333)六月十二日 従四位下
同年      八月五日 従三位
建武元年(1334)正月五日 正三位

と変化したことが記されています。
公武一統の世の中になってからは破格の昇進ですね。
「官途等」も見ると、

元応元年(1319)十月十日 治部大輔
元応二年(1320)九月五日 去治部大輔
元弘三年(1333)六月五日 聴内昇殿
同年      同日   鎮守府将軍
同年      六月十二日 左兵衛督
同年      八月五日 以高字為尊
同年      同日   武蔵守
建武元年(1334)九月十四日 参議

という具合いで、元弘三年(1333)六月五日、即ち後醍醐帰洛の当日に尊氏は内昇殿を許され、鎮守府将軍となり、二か月後の八月五日に後醍醐の諱「尊治」から「尊」の字を賜って「高氏」から「尊氏」に改名し、併せて武蔵守にも任じられます。
ところで、北畠親房の『職原抄』は「国会図書館デジタルコレクション」で読むことができます。

職原抄・下巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544501?tocOpened=1

リンク先の「コマ番号」に「42」を入れると鎮守府が出てきますが、それを見ると、

-------
鎮守府
将軍一人<相当従五位上 唐名鎮東将軍>
 古来尤為重寄非武略之器者不当其仁
 仍代代称将軍者鎮守府将也中古以来
 為陸奥守者多兼鎮府不可必然事歟守
 者宜択吏幹之才将者須用藩鎮之器故
 也又昔並置府国依恐于地広而在辺要
 也以信夫郡以南租税充国府之公廨以
 苅田以北稲穀充鎮府之兵糧云々
 又辺要之中以陸奥為最仍此国昔置五
 千人兵也是皆可属鎮府乎建武三年
 勅三位已上為当府将軍者可加大字者
 云々是依国司請 奏被下 宣旨也将
 軍相当五位也三位已上位高職下依之
 申加大字而已
-------

とあります。
細かいことですが、吉原氏が

将軍一人<相当従五位下>
 古来尤為重寄、非武略之器者、不当其仁、仍代々称将軍者鎮
 府将也、中古以来為陸奥守者、多兼鎮府、不可然事歟

としている箇所の最後「不可然事歟」は、意味からすれば「不可必然事歟」が正しいようですね。
<相当従五位下>も国会図書館の方では<相当従五位上>となっています。
ま、どちらが正しいのか私には判断できませんが。
また、親房は建武三年、五位相当の鎮守府将軍に三位以上の者が就任するのは問題なので「大」の字を加えることになったと記していますが、顕家が鎮守府将軍となったのは尊氏離反後の建武二年十一月十二日なので(『公卿補任』)、建武三年というのは若干変ですね。
ま、これも建武二年に「鎮守府将軍」となった顕家が翌三年に「鎮守府大将軍」となった可能性もない訳ではないでしょうが。
この「大」を加えたという話、よく考えるともう一つ変なところがあって、尊氏も元弘三年(1333)八月五日に従三位に叙されていますから、「大」を加えるかどうかという問題は元弘三年に起きてもおかしくないですね。
それが建武三年(あるいは二年?)に問題化したということは、親房・顕家父子が、尊氏が就いていた「鎮守府将軍」なんてイヤだ、せめて「大」を加えて「鎮守府大将軍」にしてくれ、とゴネたからでしょうか。
邪推かもしれませんが、親房は官位相当云々の話には非常にうるさいタイプの人ですから、その可能性は結構ありそうです。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その10)

2020-12-30 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月30日(水)10時38分56秒

網野善彦氏の「建武新政府における尊氏」には変なところが二つあって、「元弘三年(一三三一)」は単なる誤植レベルですが、「すでに前月、雑訴決断所には尊氏の家人が大量進出しており」はどうなのか。
佐藤進一氏は「雑訴決断所は、諸国平均安堵法と同じころか、ややおくれて(遅くとも九月上旬)、設けられた」(『南北朝の動乱』、中央公論社、1965、p27)と言われていて、この点は現在の学説でも特に異論はないようですが、もちろんこれは建武元年(1334)ではなく元弘三年(1333)の話です。
そして、「尊氏の家人」である上杉道勲(憲房)と高師泰は最初から雑訴決断所に参加していますね。

雑訴決断所(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%91%E8%A8%B4%E6%B1%BA%E6%96%AD%E6%89%80-69204

とすると、「すでに前月」は「すでに前年」の間違いだと思いますが、これは誤植なのか、あるいは網野氏が完全に勘違いしているのか。
念のため後で『悪党と海賊─日本中世の社会と政治』(法政大学出版局、1995)を確認してみますが、どうも誤植ではなさそうな感じですね。
ま、それはともかく、吉原論文に戻って「四 足利尊氏の立場」に入ります。(p48以下)

-------
四 足利尊氏の立場

 従来の通説的な理解では、尊氏が政権の中枢から排除されていたと考えられてきた。これに対して網野善彦氏は、次の史料T・Uから尊氏に対する否定的な評価の見直しを提言された。
【中略】
 史料T・Uから網野氏は、尊氏が鎮西警固を統括する公式の立場に立ち鎮西軍事指揮権を掌握していたとされる。さらに、一連の文書は、鎮西諸国の全てに各国守護宛てで発給されていたとされる。この指摘を受けて森茂暁氏は、尊氏の鎮西軍事指揮権が元弘三年(一三三三)四月の伯耆からの勅命に遡り、尊氏被官の決断所・窪所・武者所への参画から尊氏の政治的意図が彼らを通してかなり反映されていたとされる。また、伊藤喜良氏は、尊氏を中心とした鎮西府を設置しようという意図に基づいて尊氏に鎮西軍事指揮権が付与されたとされる。諸氏の指摘を踏まえつつ、次の史料V・Wから建武元年(一三三四)九月前後の状況について検討していきたい。
-------

【中略】としたところには網野善彦氏が言及した二つの文書が出ています。

網野善彦氏「建武新政府における足利尊氏」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/763c88e46033004a9ce28db22286ebe0

また、「従来の通説的な理解では、尊氏が政権の中枢から排除されていたと考えられてきた」はもちろん佐藤進一説ですね。
『南北朝の動乱』には、名和長年・楠木正成などの抜擢に触れた後で、

-------
 一方、実力者である足利高氏は、位階の特別昇進、鎮守府将軍で大いに優遇されたように見えて、二つの機関の職員には加えられない。むしろ実力者であり、新政への抵抗勢力となる危険があるからこそ敬遠されるのである。貴族の間に「高氏なし」という暗号めいた諷刺がささやかれたのは、多分このころであろう。高氏が護良との対立を深める一方、新政への抵抗の姿勢をかためるのは自然の勢いである。
-------

とあります(p25)。
網野氏の論考の冒頭に「これまで『梅松論』の「無高氏」という言葉を一つの根拠として、足利尊氏は「建武新政府の中央機関のいずれの部門にも入らなかった」と説かれてきた」とあるのも、もちろん佐藤説ですね。
なお、森茂暁氏の「尊氏の鎮西軍事指揮権が元弘三年(一三三三)四月の伯耆からの勅命に遡り、尊氏被官の決断所・窪所・武者所への参画から尊氏の政治的意図が彼らを通してかなり反映されていたとされる」との見解の出典は『建武政権』(教育社、1980)であり(注80)、伊藤喜良氏の「尊氏を中心とした鎮西府を設置しようという意図に基づいて尊氏に鎮西軍事指揮権が付与された」との見解の出典は「建武政権試論─成立過程を中心として─」(『中世国家と東国・奥羽』、校倉書房、1999)とのことです(注81)。
さて、吉原氏はこの後、二つの史料を用いて、

-------
【前略】鎮西警固の綸旨を執行した尊氏は、規矩・糸田の乱鎮圧や残党退治にも関与していた可能性が高い。ここでの尊氏の権限は、漠然とした「鎮西軍事指揮権」というよりも、具体的な鎮西地域の軍事紛争に対応したものだったのである。
-------

とされます。
この議論は若干複雑で、古文書に詳しい専門家の方からは異論もあるのかもしれませんが、私には深入りする能力がありません。
でもまあ、少なくとも私には合理的な推論のように思われます。
そして、この推論に基づいて、吉原氏は「では、尊氏の権限発動は、如何なる立場でなされたのであろうか」という議論を進めて行きます。
今までは基本的に吉原氏の見解に納得するばかりでしたが、ここから先は私にも多少の意見があります。
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網野善彦氏「建武新政府における足利尊氏」

2020-12-29 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月29日(火)17時47分37秒

吉原論文の「四、足利尊氏の立場」に入ると冒頭で二つの史料が紹介されますが、この史料に最初に着目したのは網野善彦氏の「建武新政府における尊氏」(『年報中世史研究』3号、1978)という論文です。
網野氏自身はこの論文での着眼点を特に深めることはなかったようですが、森茂暁・伊藤喜良氏に重要な示唆を与え、更に吉原氏の研究の基礎となっていますから、建武新政期研究にとって画期的と言っても過言ではない論文ですね。(プチ網野風感想)
私は吉原論文で網野論文の重要性を知り、ものすごく期待して『網野善彦著作集 第六巻』(岩波書店、2007)を開いてみたところ、分量は二頁分だけで、その点はちょっと拍子抜けでした。
ただ、さすがに網野氏らしい鋭い指摘がなされていますので、網野氏へのトリビュートを兼ねて全文を紹介しておきたいと思います。
この論文は『悪党と海賊─日本中世の社会と政治』(法政大学出版局、1995)にも収録されていますが、引用は『網野善彦著作集 第六巻』から行います。(p411以下)

-------
建武新政府における足利尊氏

 これまで『梅松論』の「無高氏」という言葉を一つの根拠として、足利尊氏は「建武新政府の中央機関のいずれの部門にも入らなかった」と説かれてきた。
 しかし、つぎの後醍醐天皇綸旨(『島津家文書之一』四七号)と足利尊氏執行状(同書四八号)は、いかに解すべきか。

 鎮西警固事、於日向・薩摩両国者、致其沙汰、殊可抽忠節者、天気如此、悉之以状
  (建武元年)               (岡崎範国)
    九月十日               左衛門権佐(花押)
     (貞久)
   嶋津上総入道館

 鎮西警固并日向・薩摩両国事、任 綸旨可被致其沙汰之状如件
                        (足利尊氏)
   建武元年九月十二日             (花押)
     (貞久)
   嶋津上総入道殿


 尊氏は、元弘三年(一三三一【ママ】)四月二十九日、伯耆より「勅命」を得たことを大友貞宗・阿蘇惟時に伝え、六月十日、合戦の次第の注進を貞宗・島津貞久に命じ、同十三日、召人・降人について、預人及び警固の計沙汰を貞宗に命ずるなど、鎮西に指令しているが、綸旨を正式に施行したのは建武新政期を通じてただ一回、前掲執行状のみである。
 この綸旨は文面からみて、日向・薩摩のみならず、鎮西諸国のすべてについて、恐らく各国守護充に発せられたであろう。それは正安二年(一三〇〇)、同三年、島津久長充に幕府が指令した検断事及び海賊追捕の如き権限(1)に、異国警固を加えた使命と推測して大きな誤りはあるまい。とすれば、それを執行した尊氏は、まさしく鎮西警固を統括する公式の立場に立ち、鎮西軍事指揮権を掌握していたといえるのではあるまいか。
 すでに前月、雑訴決断所には尊氏の家人が大量進出しており、尊氏にこうした権限が与えられても決して不自然ではない。そしてこう考えれば、建武二年(一三三五)十一月二日の直義軍勢催促状を鎮西守護が関東御教書とうけとったこと、尊氏・直義が敗走西下しながら、短時日のうちに鎮西の軍勢を集めて再挙東上したこともきわめて自然に理解しうる。さらにこれは西国と東北の結びつきに対する東国と鎮西のつながりを考えるうえにも、一つの手がかりとなるのではなかろうか(2)。

(1)「鎌倉幕府の海賊禁圧について」、参照。
(2) 拙著『東と西の語る日本の歴史』そしえて、一九八二年
-------

網野氏は「すでに前月、雑訴決断所には尊氏の家人が大量進出しており、尊氏にこうした権限が与えられても決して不自然ではない」としているので、尊氏の「鎮西軍事指揮権」掌握は建武元年に入ってからの新しい展開と捉えているようですね。
その点の妥当性を含め、内容については吉原論文の検討と共に次の投稿で行います。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その9)

2020-12-29 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月29日(火)12時10分14秒

それでは「三 元弘の乱の戦後処理」に入ります。(p44以下)

-------
 中央における戦功認定については前述したが、地方における戦功認定はどの様なルートによって上申されていたのだろうか。まず、森茂暁氏の研究成果を踏まえつつ、鎮西合戦(博多合戦)での戦功認定の上申過程について検討していくことにしたい。
-------

とのことで、史料K・L・M・Nの四つが検討されます。
その詳細は略しますが、鎮西合戦については、大友貞宗・少弐貞経・宇都宮冬綱・島津定久、即ち「鎌倉末期における鎮西の非北条氏系守護の全員」が「結集して鎮西合戦とその戦功認定を行った」(p45)訳ですね。
そして、地元の事情を知るこれら旧守護が「注進を約束した諸士の個別戦功」が尊氏に報告され、尊氏がそれを後醍醐に報告することになります。
ここでもやはり尊氏は「後醍醐への仲介者」ですね。
次いで、関東合戦についても史料P・Q・R・Sの四つが検討され、鎮西合戦と同様に尊氏が「後醍醐への仲介者」となっていたことが明らかにされます。

-------
 このように地方での戦功認定の報告は、地方の認定者→尊氏→後醍醐というルートによって上申されていた。この尊氏の役割は、元弘の乱における後醍醐との連絡関係の中で培われ、尊氏の全国レベルに及ぶ軍勢催促の結果といえるものである。元弘の乱において尊氏は、地方の守護層を取り込むことにより倒幕勢力を掌握し、恩賞仲介を通してより強固な関係を構築していた。さらに注目されるのは、戦後処理に関する史料M・N・O・Pが後醍醐が帰京した六月五日以降に発給されていることである。このことは、尊氏が後醍醐の帰京を待って一連の文書を発給したことを意味する。そして、一連の発給文書は、史料Mに「且注進状之趣経 奏聞候了」とあるように後醍醐への報告に基づいてなされていた。本来ならば一連の文書は、報告を受けた後醍醐が綸旨によって伝達してもおかしくないものである。にもかかわらず、後醍醐ではなく尊氏が伝達している。この点からすれば、一連の文書を発給した尊氏は、後醍醐から元弘の乱の戦後処理を委嘱されていたといえる。
-------

結局、尊氏は京都合戦のみならず、鎮西合戦・関東合戦においても「後醍醐への仲介者」として戦後処理に関与している訳ですね。
念のため少し補足すると、史料Mと史料Nは、

-------
【史料M】
(懸紙ウハ書)
「大友入道殿     高氏」
鎮西合戦之次第委細承候畢、早速静謐之条為悦候、且注進状之
趣経 奏聞候了、恐々謹言、
  (元弘三年)         (足利尊氏)
    六月十日          高氏(花押)
   (具簡・貞宗)
   大友近江入道殿

【史料N】
(懸紙ウハ書)
「大友近江入道殿     高氏」
召人并降人等事、云預人、云警固、可被致計沙汰之状如件、
    元弘三年六月十三日    (足利尊氏)
                  源朝臣(花押)
   (具簡・貞宗)
   大友入道殿
-------

というものです。
そして史料Oは六月七日付、史料Pは六月八日付で、確かに「戦後処理に関する史料M・N・O・Pが後醍醐が帰京した六月五日以降に発給されて」います。
後醍醐が帰京した六月五日に尊氏に何が起きているかというと、この日に尊氏は内昇殿を許され、かつ「鎮守府将軍」に任ぜられています。
とすると、これら四つの史料の発給と「鎮守府将軍」という資格の関係が問題となってきますね。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その8)

2020-12-28 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月28日(月)11時03分0秒

前回投稿で引用した部分に関して、私の吉原氏の見解に対する疑問は二つあって、ひとつは吉原氏が「着到状の「以此旨、可有御披露也」との文言をめぐる認定者と申請者の認識差」(p44)が存在していた、とする点です。
護良親王の場合はともかく、尊氏については「認定者と申請者の認識差」は存在しないのではないか、即ち、「元弘三年段階の尊氏が自身を披露の対象者ではなく上位者への仲介者と意識していた」ことは、「認定者」である尊氏の一方的な「意識」ではなく、それは「申請者」側にもきちんと開示されていて、「認定者」「申請者」双方の共通認識であったのではないか、と私は考えます。
その理由は「認定者」と「申請者」が置かれていた情報環境の変化ですね。
『難太平記』の尊氏「降参」との表現に関して検討した際に感じたことですが、この時期の反幕府側の情報環境は、元弘三年(1333)四月二十七日の名越高家戦死と五月七日の六波羅探題陥落を二つのメルクマールとして大きく変化します。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その1)~(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2bdfb8e70f1853746d3cf35e2a023377
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be18e0b821a943d858475427b61f1f64
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1288bebe2cfd662d9be837f75a8a5bb1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/415a9f71066ce2245de4749fd995e5ae
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e87381cb1d9254070905e3a1d3e5fe82
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3d211b9ad0dff14e28d8486f5c62866
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d431b73290254e3e146776bbfd35042e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da6bf07d6b30f3f011d455d929651d20
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25747ea4cf8c55f09a64bafe1b6d6044
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4dbdce2e2857d750af5d75bfdecb668c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/13d2c7d1d9e4c7c5733b2666510a0273

四月二十七日より前は、当然ながら反幕府側の情報交換は最大限の警戒が必要で、幕府側の厳しい監視を潜り抜けるために様々な工夫がされたはずです。
しかし、四月二十七日に幕府側の大手軍を率いていた名越高家が京都出発のその日にいきなり戦死し、かつ尊氏の裏切りが明らかになったことにより、幕府側には深刻な動揺が広がり、反幕府側への監視の目が緩んだばかりではなく、むしろここで判断を誤れば自分たちが殺される側になると思った連中が幕府を見限って、反幕府側の情報交換に協力するようになったと思われます。
そして、五月七日、六波羅陥落以降は反幕府側の情報交換を妨げる要因は殆どなくなりますね。
従って、尊氏が後醍醐から六波羅陥落後の京都及び周辺の治安維持を委ねられ、着到状や軍忠状の受理も任せられていたとすれば、尊氏がそれを隠す理由など全くありません。
自分は後醍醐から正式に委任されて「着到状受理システム」「軍忠状受理システム」を運営しているのだ、自分に連絡を取ってくれれば「後醍醐の仲介者」である自分はそれをきちんと後醍醐に伝えるぞ、恩賞が欲しいなら自分のところへ来い、と正々堂々アピールできたはずです。
他方、「申請者」側にとっても、尊氏がそういう立場であることが周知されていなければ、尊氏への着到状・軍忠状の申請はうっかりできないですね。
何故なら、仮に尊氏が六波羅陥落という軍事的・政治的空白状態を利用して自分の「個人的な野望」を遂げようとしていた、あるいはその疑いがあると周囲に思われていたなら、尊氏への着到状・軍忠状の申請は新たな謀叛人への与同と見做されかねない極めて危険な行為だからです。
吉原氏は「尊氏による着到状の受理は、尊氏の個人的な野望のためではなく、後醍醐への仲介者としての立場で行われていた」とされ、私もその見解に賛成しますが、だとしたら尊氏は自分が「後醍醐への仲介者」であると周囲に積極的にアピールしており、その認識は「認定者」「申請者」双方の共通認識となっていた、と考える方が自然ですね。
さて、私の吉原説に対するささやかな疑問の二番目は「この点からしても尊氏による戦功認定は、本来後醍醐もしくは政府機関が行うべき実務を代行していたと位置づけられる」の「代行」という表現が適切なのか、ということですが、この点は「四 足利尊氏の立場」に出てくる「後醍醐としては、護良でなく尊氏を軍事的な実務の代行者と位置づけていた」(p51)との表現と併せて、後で検討します。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その7)

2020-12-27 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月27日(日)11時36分13秒

着到状に関しての「認定者側の視点」に続いて、「申請者側の視点」が論じられます。(p43以下)

-------
 申請者側の視点に立てば、新政権による所領安堵との関係が注目される。建武政権下の所領安堵では、七月二十五日・二十六日付の官宣旨案(七月令)に「除(北条)高時法師党類以下朝敵与同外、諸国輩当時知行地不可有依違事」とあるように朝敵与同でないことが第一条件であった。この基本方針は、七月令の発布以前から一貫していたはずである。尊氏による着到認定は、朝敵与同ではないことの証明といえる。来るべき所領安堵の申請に備えて諸士は、証判を加えられた着到状を入手しておく必要があったのである。
-------

「七月令」に関しては吉原氏に「建武政権の安堵に関する一考察─元弘三年七月官宣旨の伝来と機能を中心に─」(『古文書研究』40号、1995)という論文があるそうなので(注46)、後で確認しておきたいと思います。
「来るべき所領安堵の申請に備えて諸士は、証判を加えられた着到状を入手しておく必要があった」との点は争いのないところでしょうね。
さて、では尊氏証判の軍忠状が全く現存していないのに、尊氏証判の着到状が七十通も現存している理由はいったい何だったのか。

-------
 ところで、尊氏による着到認定も、後醍醐へ報告されていたのだろうか。そこで注目したいのが、着到状の「以此旨、可有御披露也」との文言をめぐる認定者と申請者の認識差である。単純に考えれば、申請者が奉行所に上位者(ここでは護良もしくは尊氏)への披露を依頼した文言と解される。護良の場合は、側近が証判を加えていて披露の対象は護良ということになる。これに対して尊氏の場合は、尊氏自身が「承了、(花押)」と証判を加えている。建武二年に尊氏が後醍醐から離反して以後、尊氏自身が直接証判しなくなるのとは対照的である。このことは、元弘三年段階の尊氏が自身を披露の対象者ではなく上位者への仲介者と意識していたことを示している。着到状を受理した尊氏は、着到帳へ記入して上位者である後醍醐に報告していたと考えられる。
 尊氏による戦功認定では、軍忠状は恩賞審理に備えて後醍醐へ上申されて申請者へは返却されず、着到状は着到帳へ記入されて後醍醐へ報告され現物は証判を加えて申請者へ返却されたと考えられる。これまで尊氏による着到状の受理は、尊氏との個人的な主従関係の設定のために行われた反政府的な行為と位置づけられてきた。尊氏による着到状の受理が、結果的に尊氏との主従関係の設定としての意味合いを有し、尊氏の勢力拡大に寄与したことは否定しない。しかし、尊氏による着到状の受理は、尊氏の個人的な野望のためではなく、後醍醐への仲介者としての立場で行われていたのである。これに対して護良の戦功認定において、後醍醐との直接的な関係を見出すことはできず、個人的な立場で行われていたと考えられる。この点からしても尊氏による戦功認定は、本来後醍醐もしくは政府機関が行うべき実務を代行していたと位置づけられる。
-------

「尊氏自身が「承了、(花押)」と証判を加えている」に付された注(48)を見ると、

-------
(48) 証判の「承了」部分に着目すれば、筆跡に複数パターンのものが存在していて同一人の手になったとは考えられない。少なくとも証判の「承了」部分は、複数の奉行人によって書かれた可能性が高い。このことは、着到状が複数の奉行人によって受理されていたことを意味すると考える。
-------

とあります。
おそらく尊氏の下に置かれた「着到状受理システム」は相当大規模なもので、複数の奉行人の下にそれなりの人数の補助者もいて、提出された着到状が本当に事実を反映しているのかが調査され、その調査に合格した着到状だけが当該案件についての責任者である奉行人の「承了」を得られたのでしょうね。
また、この「着到状受理システム」は当然ながら「軍忠状受理システム」も兼ねていて、軍忠状についても事実関係が調査され、その調査に合格し、担当奉行人の確認を経た軍忠状だけが後醍醐に上申された訳でしょうね。
なお、「着到状を受理した尊氏は、着到帳へ記入して上位者である後醍醐に報告していたと考えられる」に付された注(49)には、

-------
(49) 佐藤進一『新版古文書学入門』(法政大学出版局、一九九七年、二三八頁)によれば、「着到状を提出して、着到帳に自分の姓名を登載してもらい、着到状に証判を加えて返付してもらう」というシステムが存在していたとされる。
-------

とあります。
また、「これまで尊氏による着到状の受理は、尊氏との個人的な主従関係の設定のために行われた反政府的な行為と位置づけられてきた」に付された注(50)には、

-------
(50) 伊藤喜良「初期の鎌倉府」(『中世国家と東国・奥羽』、一九九九年、初出は一九六九年)、二四九頁。佐藤和彦『南北朝内乱』(小学館、一九七四年)、四八~五〇頁。なお、松井前掲「折紙の着到状について」・松井輝昭「着到状の基本的性格について」(『史学研究』一九五、一九九二年)は、尊氏への着到状提出について「名簿捧呈」の儀礼に似た役割を果たしていたとされる。
-------

とあります。
佐藤進一氏も『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)において、

-------
 だが、このころ京都とその周辺では、後醍醐にとって意外な情勢が展開していた。一ヵ月前に潰え去ったはずの六波羅探題に代わって、京都奪取の殊勲者である足利高氏が新探題いな新将軍であるかのごとく京都の支配をかためつつあったからである。高氏は、すでに鎌倉幕府に反旗をひるがえした直後から、主として西国方面の守護やそれにつぐ有力な地頭らに密書を送って、倒幕への参加をよびかけてきたのであったが、護良親王軍と連合して京都に進入し、六波羅軍を打破すると、いち早く六波羅に陣を構えた。そして、旧探題配下の職員はじめ多数の御家人を吸収して、京都支配のリーダーシップを握り、さらに地方から続々と上洛する武士の多くを麾下に収めて、完全に護良の軍勢を圧倒し駆逐した。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1452c8580aad085b8670d8d367eb7813

と書かれていますが、「地方から続々と上洛する武士の多くを麾下に収めて」云々という表現は「これまで尊氏による着到状の受理は、尊氏との個人的な主従関係の設定のために行われた反政府的な行為と位置づけられてきた」と同様の認識の反映でしょうね。
いずれにせよ、こうした古い認識は吉原氏の研究によって一掃された訳で、吉原氏の功績は大変なものですね。
ただ、吉原氏の見解にも若干の疑問があるので、その点は次の投稿で検討します。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その6)

2020-12-26 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月26日(土)13時10分40秒

ということで、着到状の方です。(p43)

-------
 では、尊氏が証判して返却した着到状は、どのような役割を果たしていたのだろうか。尊氏の受理した着到状は、七〇通にも及ぶ多数が現存している。この数値は護良の六倍近い。さらに、尊氏と護良の両者に着到状を提出している事例では、現存する四通中の前後が不明な一通を除いた三通が護良に提出した後で尊氏へと提出されている。これらのことは、尊氏によって着到認定を受ける必要があったことを伺わせる。
 尊氏の受理した着到状の中には、五月七日前後の京都合戦の戦闘に直接関係したものと、五月七日以降の京都への着到に関係したものの二種類が存在する。五月七日以前の三通は、合戦以前のもので厳密な意味での京都合戦の着到状といえる。これに対して五月七日以降の六七通には、京都合戦の着到状と京都への着到状が混在しているはずである。両者の峻別は困難であるが、少なくとも後醍醐が帰京した六月五日以降の五一通は京都合戦の着到状とは考え難く、「馳参京都候」の文言がなくても京都への着到状と考えられる。何故に地方から上京してきた諸士は、尊氏へ積極的に着到状を提出したのだろうか。このことについて、認定者側と申請者側の二つの視点から考えてみたい。
-------

うーむ。
この部分はもう少し厳密に書いてほしいですね。
「五月七日以前の三通」と「五月七日以降の六七通」とありますが、五月七日付の着到状は存在するのか、仮に存在するとしたら、吉原氏はそれを「三通」の方に入れたのか、それとも「六七通」の方なのか。
五月七日といえば京都合戦の戦闘が実際に始まり、そして僅か一日の戦闘で敗北した六波羅探題側の軍勢が光厳天皇・後伏見院・花園院等を伴って東国に向けて落ちて行った日ですね。
軍記物語の話になってしまいますが、元弘三年(1333)四月二十七日に足利尊氏が篠村に移動して以降、『太平記』に最初に「降参」が登場するのは五月七日、尊氏が「篠村の新八幡宮」に願文を捧げてから京へ向かう場面です。(兵藤校注『太平記(二)』、p59)

-------
 明けければ、前陣進んで後陣を待つ。大将大江山〔おいのやま〕の手向〔とうげ〕を打ち越え給ひける時に、山鳩一番〔ひとつが〕ひ飛び来たつて、白旗の上に翩翻す。「これは八幡大菩薩の立ち翔〔かけ〕つて守らせ給ふ験〔しるし〕なり。この鳩の飛び去らんずるまま向かふべし」と、下知〔げじ〕せられければ、旗差〔はたさし〕馬を早めて鳩の跡に付いて行く程に、この鳩閑〔しず〕かに飛んで、大内〔おおうち〕の旧跡、神祇官の前なる樗〔おうち〕の木にぞ留まりける。官軍この奇瑞に勇んで、内野を指して馳せ向かひける道すがら、敵五騎、十騎、旗を巻いて甲〔かぶと〕を脱いで降参す。足利殿、篠村を立ち給ひし時までは、わづかに二万余騎なりしかども、右近の馬場を過ぎ給ひし時は、その勢五万余騎に及べり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d431b73290254e3e146776bbfd35042e

五月七日に「お味方いたします」と尊氏方に転じても、恩賞をもらえるどころか「降参」扱いで、下手をすれば処刑される可能性もあったはずですから、七日より前か後かは大事ですね。
吉原氏は「両者の峻別は困難であるが、少なくとも後醍醐が帰京した六月五日以降の五一通は京都合戦の着到状とは考え難く、「馳参京都候」の文言がなくても京都への着到状と考えられる」とされていますが、これはずいぶん呑気な話で、「五月八日以降の〇〇通は京都合戦の着到状とは考え難く」とすべきではないかと思います。
もちろん五月八日以降の尊氏証判の軍忠状を持っている人は「降参」扱いされた訳ではなく、おそらく地理的な関係で七日の戦闘には参加できず、戦闘が一応終息した後に京都に到着した人で、かつ尊氏に敵ではないと認めてもらった人ということになるのでしょうが。
ま、それはともかく、吉原論文の続きです。

-------
 認定者側の視点に立てば、六波羅陥落後の京都において、治安維持のため諸国より続々と上京してきた諸士を掌握する必要があったことは想像に難くない。着到認定は、洛中警固のうえからも不可欠だったのだ。当時、護良が大和に在ったのに対して、尊氏は京都に在って洛中を実質的に統括していた。少なくとも後醍醐が帰京するまでは、足利氏が洛中警固を担当していたはずである。後醍醐が帰京した後も足利氏から直ちに検非違使庁・武者所などへ引き継がれたとは考え難く、一定期間は足利氏が継続して洛中警固を担当していたと考えられる。必然的に着到認定も、尊氏が担当していたはずである。
-------

「当時、護良が大和に在ったのに対して」に付された注(44)を見ると、

-------
(44) 『大日本史料』は、護良の所在について大和の志貴山にあり元弘三年六月十三日に入京したとする(『大日本史料』六─一、一〇一~一〇九頁)。
-------

とありますが、同書101~109頁というと、

-------
是ヨリ先キ、護良親王志貴山ニ在リテ、足利高氏ヲ除カンコトヲ企図セラル、天皇諭シテ之ヲ止メ給フ、是日、親王入京シテ、征夷大将軍ニ補セラル、尊澄法親王モ亦讃岐ヨリ還ラセラレ、万里小路藤房以下モ亦相踵ギテ配所ヨリ至ル、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a

と記した後、『増鏡』『太平記』『保暦間記』『職原抄』『歯長寺縁起』を引用したもので、『増鏡』『太平記』以外の史料には志貴山(信貴山)や大和云々は登場しません。
ということは、「当時、護良が大和に在った」ことをしっかり裏付ける一次史料はなさそうですね。
ま、別にそこまで疑っている訳ではありませんが。
また、「一定期間は足利氏が継続して洛中警固を担当していたと考えられる」に付された注(45)を見ると、

-------
(45) 森茂暁「建武政権の構成と機能」(『南北朝期公武関係史の研究』文献出版、一九八四年、初出は一九七九年、一二九~一三四頁)において、足利氏譜代被官の高師直が洛中警固を担当した武者所の構成員だったことを指摘されている。このことは、足利氏による洛中警固の延長として位置づけられる。
-------

とありますが、まあ、これは合理的な推論ですね。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その5)

2020-12-26 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月26日(土)11時01分56秒

「二 元弘の乱の戦功認定」に入ります。
ここはちょっと複雑な話なので、先ず冒頭部分を引用しておきます。(p41以下)

-------
 中央における主要な戦功認定者は、護良親王と足利尊氏の二人である。表Ⅱは、現存する護良と尊氏の戦功認定関係の史料を整理したものである。以下、二人を比較しながら元弘の乱の戦功認定について検討していきたい。
 両者の総数を比較すれば、護良のものが二九通なのに対して、尊氏のものは七四通と二倍以上の数値となる。両者を比較できる五月以降に限定すれば、二二通対七四通と三倍以上の数値となる。戦功認定の中で感状は、五月以降には護良のものが二通しか確認されず、尊氏の四通は全て守護級の人物宛の特殊なものである。そこで本稿では、特殊な感状を除いた軍忠状・着到状を中心に分析することとしたい。
-------

表Ⅱは「認定者」を護良親王と足利尊氏の二人、文書の「種別」を感状・軍忠状・着到状の三種、そして認定期間を元弘三年の四月以前と四月~十二月の九期間に分けて、合計103通を分類したものですね。
護良親王については感状9・軍忠状8・着到状12の合計29通で、尊氏の方は感状4・軍忠状0・着到状70の合計74通です。
尊氏証判の軍忠状が皆無なのがひとつのポイントですね。
なお、「護良のものが二九通なのに対して、尊氏のものは七四通と二倍以上の数値となる。両者を比較できる五月以降に限定すれば、二二通対七四通と三倍以上の数値となる」とありますが、正確には前者は2.55倍、後者は3.36倍なので、間違いではないものの、あまり意味のある数字ではないですね。
続きです。

-------
 護良の場合は、軍忠状と着到状の両方への側近(中院定平・四条隆貞・某定恒)による証判が確認される。これに対して尊氏の場合は、着到状への尊氏自身による証判のみが確認され、軍忠状へ証判したものは確認されない。この認定内容の差は、一見すると尊氏の権限が護良に劣っていたことを示していると考えられなくもない。しかし、戦功認定における尊氏の権限が、護良に劣っていたとは考え難い。このことについて、小早川氏の事例を通して検討しておこう。
-------

ということで、「史料J」、即ち建武三年二月七日付の「小早川景宗が尊氏へ元弘没収地返付令に基づいて竹原荘の返付を申請した申状」と「康永元年(一三四二)八月十五日付の鹿島利氏申状写」(p42)が検討されます。
その検討過程は省略しますが、結論として、尊氏が「京都合戦の戦功を認定し、恩賞の申請と給付にまで深く関与していた」(p42)こと、そして「尊氏による恩賞申請への介在は、尊氏が当事者だった京都合戦の戦功認定に限定されるもの」ではなく、「関東合戦の恩賞申請においても仲介役を務めていた」(p43)ことが判明します。
このような尊氏の役割にも関わらず、なぜに尊氏証判の軍忠状が皆無なのか。

-------
 このように尊氏は、実効性を伴った恩賞の仲介者として恩賞と直結する戦功認定をしていたのである。恩賞と直結するほどの戦功は、当然軍忠状を介して申告されていたはずである。しかし、尊氏が証判した軍忠状は一通も(存在した形跡すら)確認されず、代わりとなるものの発給も確認されない。この場合申請者は、恩賞申請に際して戦功の証拠となる書類を提出することはできない。戦功を裏付ける証拠書類なくして、恩賞の審理は基本的にできないはずである。にもかかわらず、現実には小早川氏・鹿島氏へ恩賞が給付されている。とすれば、後醍醐(恩賞方)の許には、恩賞審理の基礎となる両氏の戦功に関する資料が存在していなければならない。両氏の戦功に関する資料としては、恩賞申請の仲介を務めていた尊氏に提出されていたであろう軍忠状を想定するのが自然である。尊氏へ提出された軍忠状が申請者に返却されていない以上、尊氏の許で確認作業がなされ、後醍醐(恩賞方)の許へ上申され恩賞審理の基礎となったと考えられる。こう考えれば、尊氏が証判して返却した軍忠状が現存しないのに恩賞が給付されたことの説明もついてくる。
-------

若干説明がくどいような感じもしますが、要するに尊氏に提出され、尊氏が証判した軍忠状は全て後醍醐(恩賞方)に提出されたので、申請者に返却されず、従って現存していないということですね。
では、現在70通も存在している尊氏証判の着到状の方は何を意味しているのか。
この点は次の投稿で吉原氏の見解を紹介します。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その4)

2020-12-25 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月25日(金)21時29分56秒

付け焼刃で古文書のことを少しだけ勉強していましたが、吉原論文に戻ります。
吉原氏は川添昭二氏と共編の史料集を出されていたりしますから、2002年の吉原氏は川添門下の期待の星で、『史学雑誌』に「建武政権における足利尊氏の立場」を寄せた際には川添氏直々、または森茂暁氏を含む門下生グループの指導も入っているのでしょうね。
大友貞宗宛尊氏書状の「遮」の解釈だけを見ても、吉原論文は充分に信頼できそうです。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d1dd5123eeb460e1b8701cd9cfe6b08a

また、この論文は研究者の間でも好意的に受け入れられているようで、例えば清水克行氏は『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)において、

-------
 かくして尊氏は、近江国鏡宿で、ひそかに後醍醐から北条高時追討を命じる綸旨を獲得した後、四月十九日に京都へ入る。その後、幕府軍は二手に分かれ、名越高家は山陽道、尊氏は山陰道を進撃する手はずになっていたが、四月二十七日、京都を出立した直後に名越高家は後醍醐側の赤松円心に敗れ、戦死してしまう。一方の尊氏は予定どおり粛々と山陰道を進み、足利家の所領であった丹波国篠村荘(現在の京都府亀岡市)に腰をすえ、この日をさかいに幕府への叛逆を公然とさせる。ここで尊氏は、わずか数日の間に、石見の益田氏・播磨の島津氏をはじめとする中国地方の武士のみならず、陸奥の結城氏・豊後の大友氏など東北から九州にまたがる全国の武士に倒幕への協力を呼びかける文書をばらまいている。一見すると、突如として尊氏が精力的な活動をみせ、颯爽と歴史の檜舞台に躍り出たかの感がある。しかし近年の研究は、こうした尊氏の多数派工作の背景には、伯耆船上山の後醍醐との緊密な連携があったことを明らかにしている。尊氏は、山陰で身動きのとれない後醍醐から全国の武士への動員指令を一任され、その忠実な代行者として活動していたのである。
-------

と書かれていますが(p36以下)、この「近年の研究」は主として吉原論文ですね。
清水氏が「代行者」としている点からも吉原論文の顕著な影響が見受けられますが、私自身はこの表現に若干の違和感を抱いています。
ま、その点は後で述べるとして、以下では吉原論文での古文書の分析過程については省略し、吉原氏の結論だけを紹介して行きたいと思います。
まず、「一 元弘の乱における足利尊氏」の「(一)足利尊氏の離反過程」において、吉原氏は既に紹介済みの史料Aを含む五つの古文書を分析した上で、最後に、

-------
 現存する二十九日付の三通は、全て鎮西諸士宛で小絹布に書かれていて「髻文書」とも呼ばれる密書である。後醍醐の密使八幡宗安が密書六通を一括携帯していた事例からして、史料Aを含めた鎮西諸士宛の尊氏密書も一括してもたらされたと考えられる。貞宗宛だけが特別な内容であることから、まず貞宗の許へ届けられ貞宗を介して諸士へ配分された可能性が高い。こう考えれば、反探題側の阿蘇氏にまで伝達されえたことの説明もついてくる。この尊氏からの密書は、時期的にみて鎮西諸士を鎮西合戦へ踏み切らせた重要な契機となったと考えられる。
-------

と述べておられます。(p39)
説得力のある推論ですね。
ついで「(二)元弘の乱の軍勢催促」では、後醍醐方の軍勢催促状を、その発給者、即ち、

護良親王
後醍醐天皇
 (高倉光守奉)
 (千種忠顕奉)
 (二条師基奉)
足利尊氏
千種忠顕
尊良親王

の別に数量的に分析した上で、「「後醍醐と尊氏」・「護良と忠顕」との間には、それぞれ緊密な連絡関係が存在していた」こと、「後醍醐と尊氏は、緊密な連絡を取り合って全国規模での軍勢催促を行っていた」ことを明らかにされています。(p41)
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「このわずか一か月有余の大友貞宗の変貌奇怪な行動」(by 小松茂美氏)

2020-12-25 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月25日(金)11時19分33秒

森茂暁氏が言及されていた小松茂美氏の『足利尊氏文書の研究』(旺文社、1997)は研究篇、図版篇、解説篇、目録・資料篇に分かれた全四巻の大著で、大きさと重さだけでも圧倒されますね。
「Ⅰ 研究篇」の「自序」には、

-------
 本著に収録した「足利尊氏文書」は、すべて二七二通。われながら驚くばかりの数に膨れ上がった。当初から、この数量が展望の中に在ったわけではない。
 もとはといえば、私が所属している財団法人センチュリー文化財団理事長赤尾一夫氏が、一日、ふと洩らされた一言。「室町幕府歴代将軍の筆跡集は編めないものなのか」と。南北朝から室町時代、政治史の上において、文化史の中において、激動の時代であった。激しい時代の推移の中に、貴族文化と武家文化、それに加えて禅林文化の織り成す経緯の絢の変化の妙。それに多大の追慕と関心を寄せられていた、と。この言葉が私の心底に点火、たちまちのうちに胸中に燃え熾った。本著の動機はその一瞬であった。
 まず、室町幕府歴代将軍の書跡が、いかほど現存するものなのか。三十三年間の長い東京国立博物館勤務の私の眼前を、おびただしい室町将軍の筆跡群が過った。が、王朝貴族の和様の書に心魅かれた私は、無我夢中、古筆を一途に追い続けて定年を迎えた。しかしながら、折に触れて足利尊氏・足利義満の瀟洒枯淡の筆の美は、眼底に深くふかく焼きついていた。心に決めた瞬間、眼の前を通過した将軍たちの各人各様の筆跡が、目まぐるしく脳裏を駆け巡る。異常な興奮の波濤が、胸に迫り、私の決意を不動のものにした。
-------

とあって、小松氏はキャラも濃ければ文章も濃いですね。
さて、同書「Ⅲ 解説篇」の5~7番に、今問題にしている小絹布の三通の文書の解説が載っています。
5番が「嶋津上総入道殿」、6番が「阿曾前太宮司殿」、7番が「大友近江入道殿」宛てで、いずれも四月二十九日付となっています。
5番の解説に、文書の大きさは「たて七・〇センチ、よこ六・一センチメートル」とあって、本当に小さなものですね。
7番の解説から少し引用します。(p38以下)

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7 足利高氏軍勢催促状(小絹布) 元弘三年四月二十九日  29歳
                   柳川市・立花寛茂氏蔵
                  「大友文書」
【原文】
自伯耆国蒙 勅命候之間
令参候之処遮御同心之由承
候之条為悦候其子細申御
使候畢 恐々謹言、
  四月廿九日  高氏(花押)
 大友近江入道殿

【読み下し文】
伯耆国より 勅命を蒙り候の間、参らしめ候の処、遮って(わざわざ)御同心の由、
承わり候の条、為悦(よろこび)に候、その子細は御使に申し候い畢んぬ。恐々謹言。
  四月廿九日               高氏(花押)
 大友近江入道殿

 この書状もまた、前掲の嶋津上総介入道貞久(図版5)、阿蘇前大宮司宇治惟時(図版6)宛てと同様、絹布の小片に書かれた髻文書〔もとどりもんじょ〕である。宛所の「大友近江入道」は、近江守・左近衛将監(従五位相当)を歴任して、薙髪入道して法名具簡〔ぐかん〕を号した大友貞宗〈?─一三三三〉である。
 大友氏の始祖は豊前守能直〈一一七二─一二二三〉で、その本貫地が相模国大友郷(小田原市東大友・西大友・延清)であったことから、大友氏を称した。
【中略】
 元弘三年〈一三三三〉三月十三日、菊池武時(四十二歳)・少弐貞経らと盟約して、鎮西探題北条英時を討たんとしたが、大友貞宗は貞経とともに変心したため、武時を援けることなく、軍を退いた。このため、武時はひとり博多を攻めたが、あえなく敗死した。すでに前項に述べたとおりである。三月十六日、大友貞宗は少弐貞経とともども、博多に軍兵を差向けて、探題府の警護につとめた。同二十日、後醍醐天皇の綸旨を奉じて下向来着した勅使八幡弥四郎宗安を斬ったことも、既述のとおりである。かような緊迫の情勢の中に、四月二十九日、図版(7)軍勢催促の書状が高氏の許から届いたのである。
-------

いったん、ここで切ります。
【中略】とした部分には、大友能直〔よしなお〕が源頼朝の寵童であったことが『吾妻鏡』を引用しつつ丁寧に書かれています。
それと大伴系図ですね。
ところで、小松氏は「遮」を「わざわざ」という意味に解されています。

-------
 ところが、ここに不思議なのは、前記一連の軍勢催促状は、四月二十七日ならびに同二十九日付の文書で、いずれも同一の文面に基づいて、参陣や味方合力を求めたものである。にもかかわらず、この書状によれば、四月二十九日現在において、早くも「遮って御同心の由、承わり候の条、為悦〔いえつ〕に候、その子細は御使に申し候い畢んぬ」(早速にも強いて御承知下さるとのこと、まことにうれしく思います。委細のほどは御使者に説明いたします)という。文面によれば、これは大友貞宗にとって二度目の受信のように思われる。まず、足利高氏の最初の書面を受理して、即刻、「御加勢つかまつる」と承諾の返書を高氏の丹波国篠村陣所に急送している様子。その書信を披見した高氏が、満足の面持ちで再度の筆をしたためさせたのが、この書状のように思われる。それにしても、後醍醐天皇差遣の勅使を斬り捨てた、いわば大反逆人にひとしい大友貞宗が、その血刀の乾く間もないわずか四十日の間に、高氏との間にいかなる裏面工作を推進したものなのか。このわずか一か月有余の大友貞宗の変貌奇怪な行動は、所詮、歴史の波の中に沈んでしまって、永遠に解き明かすこと不可能の謎であろうか。
 ちなみに、この文書の右肩に小紙片を貼付して、「筆者粟生入道云々」と注記を加えている。つまり、この文書を粟生〔あおう〕入道(研究篇・第三章の「第二節 粟生左衛門入道道禅」参照)が書いたというのである。この注記を持つ図版(7)は、前記(図版5・6)ともに同筆である。つまり、この絹布の小裂に書かれた小さな三通の軍勢催促状は、ともに足利高氏幕下の「粟生入道(道禅)」がしたためたものというのである。
-------

小松氏は「遮」を「わざわざ」、「早速にも強いて」と解されていますが、これは森茂暁氏の説明のように、「「起る或る事に対して先んじる、すなわち先立ってする」(『時代別国語大辞典室町時代編三』三省堂、五三頁)ことで、簡単にいえば「先手を打って」という意」で間違いないのでしょうね。
「遮」の解釈も影響して、小松氏は「文面によれば、これは大友貞宗にとって二度目の受信のように思われる」と考察し、「まず、足利高氏の最初の書面を受理して、即刻、「御加勢つかまつる」と承諾の返書を高氏の丹波国篠村陣所に急送している様子。その書信を披見した高氏が、満足の面持ちで再度の筆をしたためさせたのが、この書状のように思われる」とされますが、まあ、豊後と丹波はあまりに遠く、この日程はおよそ無理ですね。
また、小松氏は「御使」を大友が尊氏に送った使者と解して、その使者に尊氏側の詳しい事情を説明した、と解されていますが、「御使」については、やはりちょっと気になりますね。
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「大友貞宗の腹は元弘三年三月二〇日の段階ではまだ固まっていなかった」(by 森茂暁氏)

2020-12-24 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月24日(木)12時08分30秒

これだけ長々と引用していて恐縮ですが、実は私は森茂暁氏の『足利尊氏』が全体として素晴らしい著作だとは思っていません。
森氏は長年の建武政権と室町幕府研究の集大成として同書を書かれたのでしょうが、同書には尊氏の勅撰集入集に関して奇妙な、まあ、率直にいって極めてトンチンカンな記述があります。

勅撰集入集の政治的意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ccedc9b7d94a1dc0492371c975c00daf

森氏の師匠である川添昭二氏は中世文学に造詣が深くて、歴史と文学のバランスが非常に良い人でしたが、森氏はその点では全くの「不肖の弟子」ですね。

『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2b59444914a0703c0d05ca3e4cb2b225
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fa66061f66ed71ab9b43beec1ff4c7ed

そこで、私は森氏の文学理解についてはいくらでも平気で批判できるのですが、さすがに古文書の解釈について森氏に批判めいたことを言うのはちょっとビビります。
ま、それでも、前回投稿で書いたように解釈すると、尊氏と大友貞宗のその後の関係も理解しやすいような感じがして、蛮勇を振るって書いてみた訳であります。
ということで、ついでといっては何ですが、大友貞宗の置かれた状況についての森氏の記述は大変参考になるので、これも引用しておきます。
前回投稿で引用した部分の続きです。(p67以下)

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『博多日記』にみる九州

 では大友貞宗はいったいどの段階で船上山に密使を派遣したのであろうか。このことを考えるためのヒントはいくつかある。そのなかで注意されるのは元弘三年三─四月の九州方面の政治情勢を伝える「博多日記」(東福寺僧良覚の日記。角川文庫『太平記(一)』巻末付録)である。同日記についての解説は略するとして、大友貞宗の動向に注目すると、元弘三年三月二三日の条に、「先帝(後醍醐)の院宣所持の人、八幡弥四郎宗安」が去る二〇日に鎮西探題の御所の陣内で「院宣」(後醍醐天皇綸旨)を「大友殿」(貞宗)に付けようとして逆に召し取られたとみえる(同書五二一頁)。
 大友貞宗は当時豊後守護の地位にある九州の有力武士の一人で、筑前守護の少弐貞経らとともに鎌倉幕府の九州支配の一翼を担っていたが、『博多日記』の現存記事が始まる元弘三年三月一一日の段階では肥後の有力御家人菊池武時とともに、すでに討幕側に傾きかけた状況にあった。おそらく護良親王からの誘引の令旨が届いていたものと思われる。しかし同一三日に少弐貞経・大友貞宗に先んじて反幕挙兵した菊池武時は、少弐・大友の与同を得られず、単独で鎮西探題に攻め入りかえって討ち取られてしまった。
 そのような状況のなかで、右に述べたように、同二〇日に今度は「先帝(後醍醐)の院宣」がもたらされるのである。捕らえられた八幡弥四郎宗安は「大友(貞宗)・筑州(少弐貞経)・菊池・平戸・日田・三窪、(に充てられた)以上六通」の「院宣」を「帯持」していたという。九州から討幕の軍勢を集めようとした後醍醐天皇がどのへんに期待をかけたかおおよその見当はつく。
 以上のことを総合して考えると、討幕への誘引をうけていた大友貞宗の腹は元弘三年三月二〇日の段階ではまだ固まっていなかった。そこに後醍醐の討幕綸旨が届けられたのであるから、持参した使者は捕らえられた。その後も状況は刻々と変わってゆく。大友貞宗はある時点で討幕を決意し、すでに伯耆船上山に本拠を構えていた後醍醐天皇に協力を申し出るための密使を派遣したのであろう。それがいつかは明確ではないが、『博多日記』の記事や尊氏書状の日付から考えると、すくなくとも、三月後半から翌四月の前半くらいの間に限定されよう。
-------

この後、「第二章 足利尊氏と後醍醐天皇」の「一 建武政権下の足利尊氏文書」に入って最初に紹介される元弘三年六月十三日付の大友貞宗宛の尊氏御教書(p77)も非常に興味深いのですが、そこまで広げると他の論点も絡んでくるので、また後で検討したいと思います。
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「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)

2020-12-24 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月24日(木)10時52分33秒

吉原弘道氏が挙げる「史料A」については森茂暁氏の『足利尊氏』(角川選書、2017)により詳しい説明があるので、その部分を引用します。(p64以下)

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 足利尊氏が伯耆国の後醍醐の討幕命令をうける形で、配下の武士たちに討幕の挙兵を呼びかけたのは元弘三年四月末のことである。詳しくは以下の該当箇所で述べるが、ここではその尊氏の後醍醐との接触にさきだつ、九州の豊後国を本拠地とする有力武士大友貞宗の動向、および彼を含んだ九州の武士たちのそれについて述べておきたい。
 結論的にいえば、筆者は足利尊氏に先んじて、豊後の大友貞宗が伯耆の後醍醐と接触したのではないかと考えている。ここを掘り下げることによって尊氏と後醍醐の結びつきが絶対的なものではなく、むしろ相対的であることをうかがうことができる。
 まず以下の史料をみよう。小松茂美『足利尊氏文書の研究Ⅱ(図版篇)』(旺文社、一九七七年九月、二二頁)などに収録される著名な足利尊氏書状である(柳川市「大友家文書)。

  「筆者粟生入道云々」
 自伯耆国、蒙 勅命候之間、令参候之処、遮御同心之由承候之条、為悦候、其子細申
 御使候畢、恐々謹言、
   (元弘三年)      (足利)
    四月廿九日       高氏(花押)
        (貞宗・具簡)
       大友近江入道殿

 この文書についてはすでに吉原弘道の言及がある(「建武政権における足利尊氏の立場」、「史学雑誌」一一一-七、二〇〇二年七月)。冒頭の別筆「筆者粟生入道云々」にみる「粟生入道」とはこの文書の染筆者で、能登国羽咋郡粟生保〔あおほ〕を名字地とした粟生四郎左衛門入道道禅であることが小松茂美によって指摘されている(『足利尊氏文書の研究Ⅰ(研究篇)』九九-一〇二頁)。粟生入道は足利尊氏の被官の一人であったと考えられる。九州の有力武士に向けて発された、小絹布に書かれた三通の尊氏書状(右の豊後大友貞宗のほか、肥後阿蘇惟時、薩摩島津貞久あて)はすべてこの「粟生入道」の筆である。小松はさらに、粟生入道がこれらの書状を書いたのは丹波篠村宿の尊氏陣営においてであるとしている。
-------

いったん、ここで切ります。
冒頭に「配下の武士たちに討幕の挙兵を呼びかけたのは元弘三年四月末のこと」とありますが、「配下」という表現は変ですね。
尊氏は四月二十七日と二十九日に各地の武士に書状を送りますが、例示されている大友貞宗を含め、いずれもこの時点で尊氏の「配下」ではありません。
細かいことですが。
さて、続きです。

-------
 問題となるのは、右の大友貞宗あて尊氏書状の「遮御同心之由承候之条、為悦候、其子細申御使候畢」の箇所である。同種の尊氏書状は四月二七日付(一三点)と四月二九日付(右の三点)の計一六通が知られているが、その文言についてみると、ほぼすべて「自伯耆国、蒙 勅命候間参候、令合力給候者、本意候、恐々謹言」という基本型をくずさないが、ただ一点、右掲の豊後の大友貞宗あてのものだけが異彩を放っている。
 となると足利尊氏の大友貞宗への対応は、他のものたちへのそれとは異なっていたとみなければならない。ではなぜ尊氏が貞宗を特別に扱ったかというと、貞宗のもつ後醍醐との関係の特殊性にほかなるまい。
 そうしたことを念頭において右の尊氏書状の文言をみよう。尊氏はまず、このたびの討幕の軍事行動は伯耆の後醍醐天皇の勅命をうけたものだということを強調する。これに続く「遮御同心之由承候之条、為悦候」はいかなる事実を背後に秘めているか。ポイントとなるのは「遮御同心」である。「遮」(さえぎって)とは「起る或る事に対して先んじる、すなわち先立ってする」(『時代別国語大辞典室町時代編三』三省堂、五三頁)ことで、簡単にいえば「先手を打って」という意である(用例として『看聞日記』嘉吉三年<一四四三>六月二五日条の嘉吉の乱のくだり「所詮赤松(満祐)可被討御企露見之間、遮而討申云々」をみよ。『続群書類従本下』六三〇頁)。とすれば「遮御同心」とは、大友貞宗が足利尊氏に先んじて、後醍醐と接触し討幕への戮力を申し出たとみなければなるまい。尊氏は自分より前に貞宗がそのような行動をとったことをおそらく後醍醐サイドから聞いて「為悦候」とひとまず心強く思ったことを告げ、さらに「其子細申御使候畢」、つまり細かなことは御使に申してあります、といっているのである。他の書状が具備する「早相催一族、可被参候」という文言もない。尊氏─貞宗間の格別の連携はすでにここで成立したとみてよい。
-------

長々と引用してしまいましたが、「遮」の詳しい説明は助かりますね。
ただ、「其子細申御使候畢」は「細かなことは御使に申してあります」で良いのでしょうか。
森氏の解釈だと、尊氏書状を持参した使者に詳しい話を伝えてあるのでお聞きください、という意味になると思いますし、そのような文例は普通にあるのでしょうが、ただ、「御使」と敬語を使っている点が気になります。
あるいはこれは後醍醐の勅命を尊氏に伝えた使者のことで、その使者から貞宗が「遮御同心之由」と、後醍醐・貞宗間の事情の「子細」を尊氏が聞いた、という意味に解することは無理なのでしょうか。
私は古文書については全くの素人なので、勘違いだったら直ぐに訂正しますが、どなたかご教示いただけるとありがたいです。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その3)

2020-12-23 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月23日(水)10時27分24秒

私にとって重要なのは「四 足利尊氏の立場」以降なのですが、念のため、吉原氏の古文書分析の手法も少し見ておきます。(p35以下)

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一 元弘の乱における足利尊氏

(一)足利尊氏の離反過程

 後醍醐天皇による倒幕運動は、元亨四年(一三二四)九月の正中の変、元徳三年(一三三一)四月の元弘の変、元弘三年(一三三三)五月七日の六波羅探題陥落(京都合戦)、同二十一日の鎌倉陥落(関東合戦)、同二十五日の鎮西探題滅亡(鎮西合戦)を以て完結する。この中で、元弘の変~鎮西探題滅亡(幕府倒壊)までが元弘の乱と総称される。以下、元弘の乱末期における足利尊氏の動向を具体的に明らかにしていきたい。
 尊氏と後醍醐の接触については、「太平記」などの軍記物語に具体的な記述がある。しかし、軍記物語は、史料としての信憑性に問題が残る。そこで、一次史料の発給者・受給者の所在に着目して、尊氏の動向を明らかにしていきたい。
-------

いったん、ここで切ります。
細かいことですが、鎌倉陥落は五月二十一日ではなく二十二日ですね。
また、尊氏と後醍醐の接触について軍記物語の記述を確認しておくと、西源院本『太平記』では「京着の翌日」即ち四月十七日に尊氏が後醍醐に使者を送ったとしています。
他方、『梅松論』では何時から連絡を取ろうとしたのかは明記していませんが、細川和氏・上杉重能が後醍醐の綸旨を近江の鏡宿で尊氏に見せたとしているので、『太平記』よりは相当前ということになりますね。
『太平記』の日程では使者の往復だけ考えてもあまり余裕がなく、どちらかといえば『梅松論』の方が信頼できそうですが、所詮、両方とも「史料としての信憑性に問題が残る」のは吉原氏の言われる通りです。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a46f158b52f4cd899778e568c07a3c1

さて、吉原論文に戻ります。(p36以下)

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【史料A】
 自伯耆国、蒙 勅命候之間、令参候之処、遮御同心之由承候之
 条為悦候、其子細申御使候畢、恐々謹言、
    (元弘三年)          (足利尊氏)
     四月廿九日           高氏(花押)
   (具簡・貞宗)
    大友近江入道殿

 史料Aは、尊氏が発給した書状の中の一通である。しかし、一連の書状と史料Aとでは、その記載内容が大きく異なっている。通常のものは、多少の異同はあるものの単に合力を依頼した軍勢催促状である。これに対して史料Aは、書き出しは同じものの「遮御同心之由承候之条」と大友貞宗の同心を承知したことが述べられている。
 史料Aは、尊氏から貞宗への後醍醐方としての最初の書状である。にもかかわらず、尊氏は、四月二十九日段階で貞宗の同心を知っていたのである。勿論、尊氏の離反が突発的なものでなく、それなりの経緯と理由を持ち合わせていたことは否定しない。しかし、当時筑前博多に在った貞宗が、京都に在った尊氏の離反を事前に察知して同心を伝えたとは考え難い。尊氏の離反が露見するのは、軍勢催促状を一斉に発給した四月二十七日以降であり、前左大臣二条道平の日記にも「(元弘三年四月)廿七日、官軍向八幡、大将軍名越尾張守(高家)・搦手足利治部大輔高氏」とある。少なくとも二十七日まで尊氏は、表面上は幕府方として活動していたのである。とすれば、両者を繋ぐ人物の介在を想定しなくてはならない。
 当時、貞宗と尊氏の両者を味方に引き入れ、連絡を取ることのできた人物としては後醍醐と護良親王の二人が想定される。四人の地理的関係を考えれば、山城近辺に在った護良よりも伯耆に在った後醍醐の可能性が高い。事実、後醍醐から貞宗に三月二十日の段階で軍勢催促が行われている。その後、両者の間に協力関係が結ばれたであろうことは想像に難くない。そこで問題となってくるのは、尊氏と後醍醐の接触がなされた時期である。次の史料Bは、尊氏と後醍醐の接触を考えるうえで注目される。
-------

「事実、後醍醐から貞宗に三月二十日の段階で軍勢催促が行われている」に付された注(12)を見ると、

-------
(12) 「博多日記」元弘三年三月二十三日条(『角川文庫 太平記』一、五二一頁)には、「去廿日(中略)院宣ヲ大友殿ニ奉付之間」として貞宗に後醍醐天皇綸旨が届けられたとの記述がある。但し、大友氏は、この時点では使者を捕らえて探題に引き渡している。
-------

とあります。
さて、史料Aを見て、古文書に詳しい人が気になるのは「遮御同心之由承候之条」の「遮」だと思います。
この点については、森茂暁氏の『足利尊氏』(角川選書、2017)に説明がありますので、次の投稿で紹介します。
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