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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その13)─「後鳥羽上皇の描く未来図にあってはならないもの」(by 岡田清一氏)

2023-10-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
岡田清一氏の文章はなかなか複雑ですが、「権門体制論的な考え」が後鳥羽院の頭の中にあったとしても、それは具体的には「実朝を介して軍事権門(幕府)を支配する構図」ですから、「その構想は実朝の死によって潰え」てしまいます。
そして、実朝を介して「軍事権門を繰ることができな」くなってしまった後、「三度の院宣を拒否した義時の存在は、幕府という軍事権門を体制内に位置づけることの難しさを示し」、「義時の姿は、後鳥羽上皇の描く未来図にあってはならないもの」であり、義時の「排除なくして自ら考える体制も構築できなかった」のだそうです。
つまり、後鳥羽院の「権門体制論的な考え」とは、現実に存在する体制の認識ではなく、後鳥羽院の思い浮かべる「構図」「構想」であり、「後鳥羽院の描く未来図」となります。
そして、承久の乱の敗北により、そうした「構図」「構想」「未来図」は完全に破綻し、後鳥羽院の「権門体制論的な考え」は一度も実現することなく雲散霧消してしまった訳ですね。
このように考える岡田清一氏は果たして権門体制論者なのか。
実は、1963年の黒田俊雄による権門体制論の提唱の直後から、権門体制論というのは、要するに当時の朝廷側の「理想」であり「願望」ではないか、という批判があります。
岡田清一氏は、後鳥羽院の「権門体制論的な考え」は「構図」「構想」「未来図」だとされるので、権門体制論者どころか、その正反対の、反権門体制論者のようにも見えますね。
この点、今はあまり結論を急がず、黒田俊雄が慈円の『愚管抄』から権門体制論の着想を得たとされる佐藤雄基氏(立教大学教授)の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)を検討する際に、改めて少し論じてみたいと思います。

「権門体制論」の出生の謎(その1)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a6bca5899bb804a3b901bc48b40e5eed
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その1)─今後の課題
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e960c2776946a8e96707a8db79c5fdf5

ということで、メルクマール(2)、慈光寺本の北条義時追討「院宣」を本物と考えるか否か、に進みます。(p185以下)

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義時追討の院宣と官宣旨

 後鳥羽上皇は、皇子雅成と頼仁、外戚である坊門忠信・信成、順徳の姻戚高倉範茂・範有父子、さらに近臣藤原秀康・葉室光親・二位法印尊長を中心に、秘密裡に計画を進めた。
 また、秀康に義時追討を計画させた。秀康は、京都政界にあって、早くから「瀧口の切れ者」と認識されるほどの立場を確立していた(長村 二〇一四)。秀康は、検非違使として在京中の三浦胤義(義村の弟)を語らうなど、在京御家人以外の武力の動員も考えた。【中略】
 こうして義時追討の準備がほぼ進んだ承久三年四月、城南宮(京都市伏見区)の流鏑馬汰〔やぶさめぞろえ〕と称し、在京御家人を始めとして畿内近国の武士を招集、二十八日には約一千騎が高陽院に集結した(慈光寺本『承久記』)。【中略】
 そのうえで、後鳥羽上皇は葉室光親に命じて義時追討の院宣を武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房・三浦義村らのもとに発給するとともに、官宣旨を五機七道に下したのである。院宣発給の対象に、武田や小笠原、足利義氏のみならず弟の時房の名があがっているところに、強力な権力基盤を構築しつつある義時への反撥を、上皇側が期待したことが窺える。
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参考文献を見ると、「長村 二〇一四」は「藤原秀康」(『公武権力の変容と仏教界』所収、成文堂、2014)で、全体的に長村祥知氏の新学説の影響が極めて大きいですね。
そして、「義時追討の院宣」についても、対象が北条時房を含む八人であることから、岡田氏が慈光寺本を細部まで信頼されていることが分かります。
ということで、メルクマール(1)に続き、(2)にも該当しますね。
なお、岡田氏は「近臣藤原秀康・葉室光親・二位法印尊長を中心に、秘密裡に計画を進めた」とされるので、『吾妻鏡』七月十二日条の、

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按察卿〔光親。去月出家。法名西親〕者。為武田五郎信光之預下向。而鎌倉使相逢于駿河国車返辺。依触可誅之由。於加古坂梟首訖。時年四十六云々。此卿為無双寵臣。又家門貫首。宏才優長也。今度次第。殊成競々戦々思。頻奉匡君於正慮之処。諌議之趣。頗背叡慮之間。雖進退惟谷。書下追討宣旨。忠臣法。諌而随之謂歟。其諷諌申状数十通。殘留仙洞。後日披露之時。武州後悔悩丹府云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

という、葉室光親が実際には討幕計画に反対し、何度も後鳥羽院に諫言していたとのエピソードは信頼に値しない、という立場ですね。

流布本も読んでみる。(その64)─「角ては御宮づかひ、悪く候ぬ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af41cdeff19aefe669c2f0a455647d1c
流布本も読んでみる。(その65)─「東国へも、院宣を可被下とて、按察使前中納言光親卿奉て」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e881b11b5105264458a72efeb9bed537
流布本も読んでみる。(その66)─「二位殿へ申(入たる)旨有。其使、今日帰候はんず覧」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/10fbc3a8eb682ecc00d4a5eb451b6159

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