ということで、「慈光寺本妄信歴史研究者交名」の採否のメルクマールは、
(1)長江庄の地頭が北条義時だと考えるか否か。
(2)慈光寺本の北条義時追討「院宣」を本物と考えるか否か。
(3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(5)宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
の五つとします。
(1)長江庄の地頭が北条義時だと考えるか否か。
(2)慈光寺本の北条義時追討「院宣」を本物と考えるか否か。
(3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(5)宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
の五つとします。
(3)(4)(5)は留保がなければ交名入りですね。
そして「大将軍」等の格付けについては、もちろん単純に五つのメルクマールに該当する数を比較するのではなく、慈光寺本重視(私の立場からは「偏重」)の雰囲気づくりに貢献した度合いを考慮するものとします。
まあ、野口実氏が「総大将」、長村祥知・高橋秀樹・坂井孝一・関幸彦氏あたりが「大将軍」クラスであることは始める前から分かっている訳ですが。
さて、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、2012)の関幸彦氏(1952生、日本大学教授)を除き、「大将軍」クラスの研究者の文献は相当引用してきましたので、最初は若手研究者の動向を見て行きたいと思います。
まず、『歴史REAL 承久の乱』(洋泉社、2019)というムックに載った勅使河原拓也氏の「合戦ドキュメント① 尾張・美濃戦線─緒戦の行方」から少し引用します。(p34以下)
-------
孤軍奮闘した美濃・尾張源氏
武田信光率いる東山道軍はまず六月五日晩に大井戸・河合で京方と戦い、大内惟信の軍を打ち破り、木曾川を下っていった。一方、東海道の泰時・時房の軍も尾張国一宮で評議を行い、摩免戸へ泰時が、墨俣へ時房が向かうことなどが決められ北上し、泰時は摩免戸で三浦胤義・藤原秀康の軍を打ち破った。
京方も奮戦し、とくに美濃・尾張源氏の山田重忠の活躍はめざましかった。摩免戸では京方が矢も発さず逃亡するなか重忠が孤軍奮闘したが防ぎきれず撤退した。鏡久綱は「臆病の秀康」の軍に属していたため、思うように合戦ができなかったことを後悔しながら自害した。また、幼少より後鳥羽に仕えた摂津渡辺党の翔も上瀬で多くの敵を討ち取ったが、海道大将軍・藤原秀澄は重要拠点の墨俣を捨てて退却してしまった。重忠はなおも東海・東山の合流地点である杭瀬川へ三百余騎を率いて向かい、児玉党三千騎を迎え撃った。鎌倉方の主力である武蔵の武士を相手によく戦ったが、ついに退却した。
-------
うーむ。
「摩免戸では京方が矢も発さず逃亡するなか重忠が孤軍奮闘したが防ぎきれず撤退した」とありますが、重忠は藤原秀澄とともに墨俣(洲俣)に配されており、摩免戸での合戦とは関係ないですね。
鏡久綱の「臆病の秀康」云々のエピソードは『吾妻鏡』にしか出て来ないので、勅使河原氏は『吾妻鏡』六月六日条の、
-------
今暁。武蔵太郎時氏。陸奥六郎有時。相具少輔判官代佐房。阿曽沼次郎朝綱。小鹿嶋橘左衛門尉公成。波多野中務次郎経朝。善左衛門尉太郎康知。安保刑部丞実光等渡摩免戸。官軍不及発矢敗走。山田次郎重忠独残留。与伊佐三郎行政相戦。是又逐電。鏡右衛門尉久綱留于此所。註姓名於旗面。立置高岸。与少輔判官代合戦。久綱云。依相副臆病秀康。如所存不遂合戦。後悔千万云々。遂自殺。見旗銘拭悲涙云々。【後略】
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
という記述から、山田重忠も摩免戸に配されたと勘違いされたのだろうと思いますが、重忠が墨俣に配されたことは『吾妻鏡』六月三日条にも「洲俣。河内判官秀澄。山田次郎重忠」と出ていますね。
ま、それはともかく、渡辺翔の活躍と山田重忠の「児玉党三千騎を迎え撃った」エピソードは慈光寺本にしか出て来ない話で、勅使河原氏は慈光寺本を相当重視されています。
ただ、勅使河原氏は、上記部分に続けて、
-------
美濃・尾張戦線は六月五日から六日の二日間で決着がつき、終わってみれば鎌倉方のほぼ圧勝であった。畿内への防衛線を突破された京方は多いに【ママ】動揺する。
八日には秀康らが帰洛し、美濃での敗北を報告した。後鳥羽院は延暦寺の武力のみが頼りと協力を要請するが、山門からは衆徒の武力では強力な東国武士を防ぎ難いとの返答があった。【後略】
-------
と書かれているので、山田重忠が「児玉党三千騎を迎え撃った」のは、慈光寺本が描くように後鳥羽院の叡山御幸の後ではなく、『吾妻鏡』の通り、六月六日の出来事と考えておられることは明らかですね。
とすると、「児玉党三千騎を迎え撃った」エピソードの扱い方は些か乱暴であり、メルクマールの(5)に該当するものと判断します。
なお、『歴史REAL 承久の乱』の執筆者紹介によれば、
-------
勅使河原拓也 てしがはら・たくや
1988年岐阜県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程退学。修士(文学)。現在は京都大学ほか非常勤講師。おもな論文は「治承・寿永内乱後の東海地域における鎌倉幕府の支配体制形成」(『年報中世史研究』42号)、「番役に見る鎌倉幕府の御家人制」(『史林』101巻6号)など。
-------
とのことです。(p20)
そして「大将軍」等の格付けについては、もちろん単純に五つのメルクマールに該当する数を比較するのではなく、慈光寺本重視(私の立場からは「偏重」)の雰囲気づくりに貢献した度合いを考慮するものとします。
まあ、野口実氏が「総大将」、長村祥知・高橋秀樹・坂井孝一・関幸彦氏あたりが「大将軍」クラスであることは始める前から分かっている訳ですが。
さて、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、2012)の関幸彦氏(1952生、日本大学教授)を除き、「大将軍」クラスの研究者の文献は相当引用してきましたので、最初は若手研究者の動向を見て行きたいと思います。
まず、『歴史REAL 承久の乱』(洋泉社、2019)というムックに載った勅使河原拓也氏の「合戦ドキュメント① 尾張・美濃戦線─緒戦の行方」から少し引用します。(p34以下)
-------
孤軍奮闘した美濃・尾張源氏
武田信光率いる東山道軍はまず六月五日晩に大井戸・河合で京方と戦い、大内惟信の軍を打ち破り、木曾川を下っていった。一方、東海道の泰時・時房の軍も尾張国一宮で評議を行い、摩免戸へ泰時が、墨俣へ時房が向かうことなどが決められ北上し、泰時は摩免戸で三浦胤義・藤原秀康の軍を打ち破った。
京方も奮戦し、とくに美濃・尾張源氏の山田重忠の活躍はめざましかった。摩免戸では京方が矢も発さず逃亡するなか重忠が孤軍奮闘したが防ぎきれず撤退した。鏡久綱は「臆病の秀康」の軍に属していたため、思うように合戦ができなかったことを後悔しながら自害した。また、幼少より後鳥羽に仕えた摂津渡辺党の翔も上瀬で多くの敵を討ち取ったが、海道大将軍・藤原秀澄は重要拠点の墨俣を捨てて退却してしまった。重忠はなおも東海・東山の合流地点である杭瀬川へ三百余騎を率いて向かい、児玉党三千騎を迎え撃った。鎌倉方の主力である武蔵の武士を相手によく戦ったが、ついに退却した。
-------
うーむ。
「摩免戸では京方が矢も発さず逃亡するなか重忠が孤軍奮闘したが防ぎきれず撤退した」とありますが、重忠は藤原秀澄とともに墨俣(洲俣)に配されており、摩免戸での合戦とは関係ないですね。
鏡久綱の「臆病の秀康」云々のエピソードは『吾妻鏡』にしか出て来ないので、勅使河原氏は『吾妻鏡』六月六日条の、
-------
今暁。武蔵太郎時氏。陸奥六郎有時。相具少輔判官代佐房。阿曽沼次郎朝綱。小鹿嶋橘左衛門尉公成。波多野中務次郎経朝。善左衛門尉太郎康知。安保刑部丞実光等渡摩免戸。官軍不及発矢敗走。山田次郎重忠独残留。与伊佐三郎行政相戦。是又逐電。鏡右衛門尉久綱留于此所。註姓名於旗面。立置高岸。与少輔判官代合戦。久綱云。依相副臆病秀康。如所存不遂合戦。後悔千万云々。遂自殺。見旗銘拭悲涙云々。【後略】
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
という記述から、山田重忠も摩免戸に配されたと勘違いされたのだろうと思いますが、重忠が墨俣に配されたことは『吾妻鏡』六月三日条にも「洲俣。河内判官秀澄。山田次郎重忠」と出ていますね。
ま、それはともかく、渡辺翔の活躍と山田重忠の「児玉党三千騎を迎え撃った」エピソードは慈光寺本にしか出て来ない話で、勅使河原氏は慈光寺本を相当重視されています。
ただ、勅使河原氏は、上記部分に続けて、
-------
美濃・尾張戦線は六月五日から六日の二日間で決着がつき、終わってみれば鎌倉方のほぼ圧勝であった。畿内への防衛線を突破された京方は多いに【ママ】動揺する。
八日には秀康らが帰洛し、美濃での敗北を報告した。後鳥羽院は延暦寺の武力のみが頼りと協力を要請するが、山門からは衆徒の武力では強力な東国武士を防ぎ難いとの返答があった。【後略】
-------
と書かれているので、山田重忠が「児玉党三千騎を迎え撃った」のは、慈光寺本が描くように後鳥羽院の叡山御幸の後ではなく、『吾妻鏡』の通り、六月六日の出来事と考えておられることは明らかですね。
とすると、「児玉党三千騎を迎え撃った」エピソードの扱い方は些か乱暴であり、メルクマールの(5)に該当するものと判断します。
なお、『歴史REAL 承久の乱』の執筆者紹介によれば、
-------
勅使河原拓也 てしがはら・たくや
1988年岐阜県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程退学。修士(文学)。現在は京都大学ほか非常勤講師。おもな論文は「治承・寿永内乱後の東海地域における鎌倉幕府の支配体制形成」(『年報中世史研究』42号)、「番役に見る鎌倉幕府の御家人制」(『史林』101巻6号)など。
-------
とのことです。(p20)