学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その18)─藤原秀澄による山田重忠案の拒絶を史実とされる坂井孝一氏

2023-10-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
坂田孝一氏は慈光寺本に描かれた藤原秀澄像に加え、山田重忠が藤原秀澄に大胆な鎌倉攻撃案を提示し、秀澄がそれを拒絶したことも史実と考えておられるようで、これは相当に珍しい立場ですね。
重忠案の考察は(その16)で引用した部分の直前にありますが、秀澄の立場を理解しておかないと分かりにくいところがあるので、少し前から引用します。(p172以下)

-------
迎撃する京方
 承久三年(一二二一)六月三日、鎌倉方が遠江国府に着いたとの報を受け、公卿僉議が開かれ、北陸・東山・東海山道に藤原秀康を追討使とする軍勢の派遣が決められた。陣容は『吾妻鏡』と「慈光寺本」とで相違もあるが、おおよそ以下の通りと考える。
【中略】
 藤原秀康・秀澄兄弟ら院近臣の武士、大内惟信、佐々木広綱、五条有長、小野盛綱、三浦胤義ら有力な在京御家人、源翔のような西面の武士、山田重忠・重継父子、蜂屋、神地、内海、寺本、開田、懸橋、上田といった美濃・尾張の武士で構成された軍勢である。「慈光寺本」はその総数を、鎌倉方の十分の一程度、「一万九千三百廿六騎」とする。
 ところが、「海道大将軍」の藤原秀澄は、このうちの「山道・海道一万二千騎」を「十二ノ木戸ヘ散ス」、つまり十二ヵ所の防衛用の柵に分散させる戦術を取ったという。当然、各木戸の兵力はさらに少なくなり、明らかに失策であった。こうした戦術の選択について、「慈光寺本」も「哀レナレ」と批判的に叙述している。
 また、後鳥羽は軍事力の増強を図って、武士以外の動員も始めた。宮田敬三氏は、六月になると、追討宣旨を発して官軍を下向させただけでなく、「在京・在国の武士や荘官、寺社、公家の兵力を召集した」とする。ただ、「近国御家人や寺社勢力の参陣拒否」「荘官等の本意ではない参戦」などが相次ぎ、十分な兵力を集めることはできなかった。
-------

いったん、ここで切ります。
六月三日の公卿僉議云々の話は『吾妻鏡』同日条に、

-------
関東大将軍著于遠江国府之由。飛脚昨日入洛之間。有公卿僉儀。為防戦。被遣官軍於方々。仍今暁各進発。【後略】

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあるのを受けていますが、慈光寺本にはそのような記述はありません。
慈光寺本では日次不明のまま、後鳥羽院の「宣旨」(ただし、文書ではなく口頭の指示)を受けて「能登守秀康」が「手々ヲ汰テ分ラレケリ」と、秀康による第一次軍勢手分が行なわれます。
そして、やはり日次不明のまま、「海道大将軍河内判官秀澄」が「美濃国垂見郷小ナル野」にて、第二次軍勢手分を行います。
これに対する慈光寺本作者の評価が、「山道・海道一万二千騎ヲ十二ノ木戸ヘ散ス事コソ哀レナレ」です。
なお、実際に数えてみると、十二ではなく十箇所ですね。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その3)─「3.藤原秀康の第一次軍勢手分 21行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43e09e10a4bab75dd2a1b0608e586a02
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その4)─「4.藤原秀澄の第二次軍勢手分 8行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac009c41b0fbb326d6d86e08d08b17e1

さて、続きです。(p174以下)

-------
積極策と消極策
 一方、北条時房は遠江国の橋本の宿に進んだ。ここで「慈光寺本」は、京方に付いた主人小野盛綱に合流しようと抜け出した安房国の筑井高重を遠江国の内田党が打ち、時房が「今度ノ軍ニハヤ打勝タリ」と軍神に鏑矢を奉った鎌倉方のエピソードを叙述する。
 重忠の戦術とは、十二ノ木戸に分散させた山道・海道一万二千騎を一つにまとめ、墨俣から長良川・木曽川を渡って尾張国府に攻め寄せ、次いで遠江国橋本の宿にいる北条時房・同泰時を打ち破り、そのまま鎌倉に押し寄せて北条義時を討ち取った上、北陸道へ廻って北条朝時をも討ち果たすという勇猛果敢な積極策であった。ところが、「天性臆病武者」の秀澄は、北陸道軍の朝時や東山道軍の武田・小笠原に挟撃される危険があるとして重忠の策を用いず、墨俣で鎌倉方を迎え撃つ消極策を選択する決断をした。鎌倉方が大江広元・三善康信の策を採用し、迎撃から出撃に戦術を変えたのとは対照的である。確かに重忠の積極策が功を奏するかどうか、この時点で未来の予測はつかない。しかし、結果的に、秀澄の選択・決断によって京方は戦況を打開するチャンスを自ら手放すことになった。
-------

ということで、「結果的に、秀澄の選択・決断によって京方は戦況を打開するチャンスを自ら手放すことになった」ですから、坂田氏は慈光寺本に描かれた重忠の鎌倉攻撃案の提示と、秀澄によるその拒絶を史実と考えておられる訳ですね。
しかし、私には、そもそも秀澄がどのような資格・権限で、そのような「選択・決断」をしているのかがさっぱり分かりません。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その5)─「6.山田重忠の鎌倉攻撃案 13行(☆)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/11bd548f267504af6f410448505046cb
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その6)─「7.山田重忠による鎌倉方斥候の捕縛 21行(☆)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1fd1b7079d0d81e42108817de26ef9d6
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その17)─坂井孝一説に「リアリティ」はあるのか。

2023-10-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回引用した部分、前半は、「美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」が「リアルな恩賞」の提案と評価できるか否かについて若干の疑問は生ずるものの、このエピソードに「文学的な脚色や誇張が含まれている可能性」があると指摘した上で、「武士たちの価値観・行動パターンの一端を示したエピソード」とするに留めておけば、別に歴史研究者の文章として、それほどおかしくもないと思います。
佐藤雄基氏も『御成敗式目 鎌倉武士の法と生活』(中公新書、2023)において、そのような趣旨のことを言われていますね。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その8)─「9.武田信光と小笠原長清の密談 4行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0353816ce8ab1461a133fe452a9d4f93

しかし、坂田氏は、

-------
 ただ、より注目すべきは、自軍の武将の性格・傾向を把握し、リアルな恩賞を提示して裏切りを阻止した時房の眼力と決断力である。六ヵ国の守護職の保証というのは誇張かもしれないが、武田・小笠原の心に響く何らかの具体的な恩賞を提示したのであろう。後鳥羽が選んだ海道大将軍秀澄と比べると、そこには埋め難い差がある。ひいてはこれは、後鳥羽との差でもある。後鳥羽は追討の院宣で褒美を与える。官宣旨では院庁への参上と上奏を許可するという形で恩賞を示した。しかし、畿内近国はともかく、東国に本拠を置く武士にどれほどのリアリティをもって伝わったか疑わしい。後鳥羽の東国武士に対するリアリティの欠如は、合戦の勝敗をも左右するものだったと考える。
-------

と書かれているので、「六ヵ国の守護職の保証」は「誇張」かもしれないものの、北条時房が「自軍の武将の性格・傾向を把握し、リアルな恩賞を提示して裏切りを阻止」したのは事実の可能性が高く、時房は「武田・小笠原の心に響く何らかの具体的な恩賞を提示した」と推定されます。
そして、時房の「眼力と決断力」は「後鳥羽が選んだ海道大将軍秀澄と比べると、そこには埋め難い差が」あり、「ひいてはこれは、後鳥羽との差でもある」そうです。
坂田氏は慈光寺本に描かれた「海道大将軍秀澄」関係記事が史実であろうとした上で、後鳥羽院の「東国武士に対するリアリティの欠如」が「合戦の勝敗をも左右」したとされる訳ですね。
うーむ。
「リアルな恩賞」と言われますが、別に戦後、武田信光・小笠原長清が「美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国」の守護となった訳でもなさそうなので、いったいどこが「リアル」なのか。
慈光寺本は、時房に巨大なニンジンを目の前にぶら下げられた武田馬と小笠原馬が、ニンジン目当てに尾張河を渡河したとしますが、約束を守った武田馬・小笠原馬がたいしたニンジンを得られなかったとしたら、時房と武田馬・小笠原馬の間で『吾妻鏡』に載るくらいの大トラブルが発生してもよさそうです。
しかし、『吾妻鏡』その他の史料には、そのような気配を窺わせる記事はありません。
そうした事情を熟知されているであろう坂田氏は、「武田・小笠原の心に響く何らかの具体的な恩賞」という微妙な言い換えをされたのでしょうが、史料的根拠の欠片もない、そのような想像に「リアリティ」はあるのでしょうか。
そもそも私には、何故に「東海道大将軍」の一人にすぎない北条時房(『吾妻鏡』承久三年五月二十五日条、他は泰時・時氏・足利義氏・三浦義村・千葉胤綱)が「東山道大将軍」である武田信光・小笠原長清(他は小山朝長・結城朝光)に大井戸・河合を渡河するように指示ないし依頼し、従ったら「美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」などと恩賞を約束することができるのかが分かりません。
しかし、仮に何らかの事情で、時房にそのような強大な権限があり、かつ、時房に武田信光・小笠原長清の「裏切り」の可能性を見抜くような「眼力」があったとしたら、時房は義時にアドバイスして、裏切る可能性のある二人を最初から「東山道大将軍」にせず、鎌倉に置いて監視しておけば良いだけのように思われます。
また、行軍の途中で時房が二人の「裏切り」の可能性に気づいたのだとしたら、いったい時房はどのような手段でその事情を知り得たのか。
二人の密談の直後、時房が直ちにその内容を知り、「武田・小笠原の心に響く何らかの具体的な恩賞」を提示できたということは、時房が武田・小笠原に放っていた密偵が二人の密談を立ち聞きしたということなのか。
私には坂井説のどこに「リアリティ」があるのか、さっぱり理解できません。
参考までに流布本で武田・小笠原の「裏切り」の可能性を窺わせる記事を探すと、

-------
市原に陣を取時に、武田・小笠原両人が許〔もと〕へ、院宣の御使三人迄〔まで〕被下たりけり。京方へ参〔まゐれ〕と也。小笠原次郎、武田が方へ使者を立て、「如何が御計ひ候ぞ。長清、此使切んとこそ存候へ」。「信光も左様存候へ」とて、三人が中二人は切て、一人は「此様を申せ」とて追出けり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6872bfb97130022f99fc08b331d99495

というエピソードがあります。
小笠原長清の許に最初に「院宣の御使」三人が来て、長清はそれを武田信光に連絡し、二人で相談の上、長清は「院宣の御使」三人のうち二人を処刑し、一人は「此様を申せ」と言って京に追い返した、ということだろうと思いますが、長清は何故に一人は生かしたのか。
まあ、面倒な使者を二度と送ってくるな、という意味があったのかも知れませんが、それよりも密使を京に送り返して、長清・信光が「裏切り」をしなかったという証人を確保することが目的だったように思われます。
三人とも殺してしまったら、後で幕府内で小笠原・武田が「裏切り」を疑われたときに、そんなことはしなかったという証人がいなくなってしまいますからね。
小笠原長清が武田信光に「院宣の御使」三人を確保したという「使者を立て」、信光の了解を得て対処したのも、信光に自分が「裏切り」をしなかったという証人になってもらうためでしょうね。
戦場における「リアリティ」とは、「裏切り」は絶対に許さない、ということであり、北条時房を含む幕府首脳部のそうした姿勢は『吾妻鏡』七月二日条などにも明らかですね。

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その16)─「リアルな恩賞を提示して裏切りを阻止した時房の眼力と決断力」(by 坂井孝一氏)

2023-10-19 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で坂井孝一氏の見解は今まであまり参照してこなかった、みたいなことを書いてしまいましたが、承久の乱に興味を持ち出した初期の頃に沢山引用していましたね。
まず、2020年5月26日の投稿で『承久の乱』を「はじめに」を引用し、坂井著の目的が「先入観に基づく一般的イメージを払拭し、研究の進展に即した「承久の乱」像を描きたい」ということであることを紹介しました。
坂井氏の言われる「先入観」とは、主として「朝廷と幕府を対立する存在とみなす先入観」のことですね。
また、承久の乱に関する坂井氏の基本的認識に関する部分(p134以下)も引用しました。

「後鳥羽には、幕府や武士の存在そのものを否定する気などなかった」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/760ff0a9c4f366773d7be8bae1414821

そして、翌27日の投稿で、坂井氏による慈光寺本の義時追討院宣の現代語訳も引用しておきました。
坂井氏は「長村祥知氏の詳細・綿密な分析によれば、これは実在した院宣を引用したものであるという」と書かれていますが、坂井氏自身も長村新説に同意されていることは明らかですね。
そして坂井氏は「院宣の論理」を分析し、後鳥羽の院宣が「御家人の心を掴むのに十分な院宣」であって、「絶大な効果を発揮することは間違いない」と言われますがが、では、実際にこの院宣は「御家人の心を掴」んだのか、「絶大な効果を発揮」したのかというと、全くそんなことはなかった訳で、坂井氏の力強い文章は、私にはいささか滑稽に思われました。

「御家人の心を掴むのに十分な院宣といえよう」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66884f8742592d639b1fdc1f5c96d0e9

坂井氏は「後鳥羽が目指したのは義時を排除して幕府をコントロール下に置くことであり、討幕でも武士の否定でもなかった」(『承久の乱』、p156)と言われますが、具体的に何を、どのように、どの程度「コントロール」するのかは明示されません。

「コントロール」の内実
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67d8fa706c0e906d93e4e3f433651dfc

この点は坂井氏と同じく「義時追討説」に立つ野口実氏も同様ですね。
坂井氏の場合も野口氏の場合も、北条義時を追討すればそれだけで後鳥羽が満足するという純度100%の「義時追討説」ではなく、プラスアルファとして、何らかの幕府への「コントロール」を想定されているのですが、その内実は不明確です。

「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8

さて、2020年6月18日の投稿で、私は坂井氏による義時追討院宣の現代語訳、特に「奉行」の部分に若干の疑問を呈しましたが、今から考えると、自分の批判も若干的外れだったような感じもします。

「奉行」の意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23b3b482aed57e638ffd83f7f1e88171

この後はあまり坂井著に触れることはなく、坂井氏が高く評価される長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)の検討が中心となりましたが、私の坂井著に対する感想は、2021年9月20日の次の投稿で一応纏めておきました。

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b49e3e3c085bb25a0f3305bdb723de36

さて、坂井氏はメルクマールの、

(2)慈光寺本の北条義時追討「院宣」を本物と考えるか否か。

に該当することは明らかなので、次の、

(3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

を見て行くことにします。(p175以下)

-------
恩賞のリアリティ
 六月五日、鎌倉方東海・東山両道軍は尾張国一宮に着くと、軍議を開き、攻撃の分担を決めた。『吾妻鏡』同日条によれば、それは以下の通りであった。【中略】
 「慈光寺本」はここで注目すべき叙述を挿入する。美濃国大井戸付近まで来た鎌倉方東山道軍の大将軍武田信光が、小笠原長清に「鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ(鎌倉方が勝つならば鎌倉方に付こう。京方が勝つならば京方に味方しよう。これこそ弓矢の道に生きる武士のしきたりだ)」と持ちかけたのである。ところが、武田・小笠原の出方を予測していた北条時房が書状を送り、大井戸・河合の渡河作戦を成功させたら「美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」、つまり恩賞として六ヵ国の守護職を保証すると提案した。リアルな恩賞を提案され、武田・小笠原は即座に渡河を決行したという。むろん、文学的な脚色や誇張が含まれている可能性もあろう。しかし、合戦の中で武士たちが戦況をみきわめ、優勢な側に付くという事例は他にもみられる。「慈光寺本」の叙述は、武士たちの価値観・行動パターンの一端を示したエピソードといえる。
 ただ、より注目すべきは、自軍の武将の性格・傾向を把握し、リアルな恩賞を提示して裏切りを阻止した時房の眼力と決断力である。六ヵ国の守護職の保証というのは誇張かもしれないが、武田・小笠原の心に響く何らかの具体的な恩賞を提示したのであろう。後鳥羽が選んだ海道大将軍秀澄と比べると、そこには埋め難い差がある。ひいてはこれは、後鳥羽との差でもある。後鳥羽は追討の院宣で褒美を与える。官宣旨では院庁への参上と上奏を許可するという形で恩賞を示した。しかし、畿内近国はともかく、東国に本拠を置く武士にどれほどのリアリティをもって伝わったか疑わしい。後鳥羽の東国武士に対するリアリティの欠如は、合戦の勝敗をも左右するものだったと考える。
-------

検討は次の投稿で行いますが、果たして坂井氏自身に「東国武士に対するリアリティ」があるのでしょうか。
私は極めて懐疑的です。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その15)─坂井孝一氏の場合

2023-10-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
流布本の亀菊エピソードは、

-------
 又、摂津国長江・倉橋の両庄は、院中に近く被召仕ける白拍子亀菊に給りけるを、其庄の地頭、領家を勿緒〔こつしよ〕しければ、亀菊憤り、折々に付て、是〔これ〕奏しければ、両庄の地頭可改易由、被仰下ければ、権大夫申けるは、「地頭職の事は、上古は無りしを、故右大将、平家を追討の勧賞に、日本国の惣地頭に被補。平家追討六箇年が間、国々の地頭人等、或〔あるいは〕子を打せ、或親を被打、或郎従を損す。加様の勲功に随ひて分ち給ふ物を、させる罪過もなく、義時が計ひとして可改易様無〔なし〕」とて、是も不奉用。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec7ed809036d4fd2ce63e21e96d32b82

というもので、亀菊が得たのは領家職であることが明確です。
ストーリーにも慈光寺本のような不自然さは全くありません。
なお、慈光寺本では後鳥羽院と義時の対立の直接の原因として亀菊エピソードのみが挙げられていますが、流布本では亀菊エピソードの前に仁科盛遠エピソードが出て来て、この二つのエピソードの分量はほぼ同じです。
ま、それはともかく、岡田著では承久の乱の合戦場面については叙述が淡泊で、メルクマールの、

(3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(5)宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

については特段の記述がありません。
岡田著には興味深い指摘が多々ありますが、現在問題としている論点とは離れてしまうので、とりあえず検討は以上に留めたいと思います。
さて、若手と長老クラスを見てきたので、いよいよ「慈光寺本妄信歴史研究者」の大将クラスの研究者の見解を見て行きたいと思います。
私は、野口実・高橋秀樹・長村祥知・坂井孝一・関幸彦の五氏を大将クラスと認定していますが、野口・高橋・長村氏の見解は相当紹介してきましたので、先ずは坂井孝一氏(創価大学文学部教授、1958生)の見解を『承久の乱』(中公新書、2018)に即して検討することとします。

-------
『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』

一二一九年、鎌倉幕府三代将軍・源実朝が暗殺された。朝廷との協調に努めた実朝の死により公武関係は動揺。二年後、承久の乱が勃発する。朝廷に君臨する後鳥羽上皇が、執権北条義時を討つべく兵を挙げたのだ。だが、義時の嫡男泰時率いる幕府の大軍は京都へ攻め上り、朝廷方の軍勢を圧倒。後鳥羽ら三上皇は流罪となり、六波羅探題が設置された。公武の力関係を劇的に変え、中世社会のあり方を決定づけた大事件を読み解く。

https://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/12/102517.html

早速、メルクマール(1)から見て行くと、意外なことに坂井氏は長江・倉橋荘の地頭を北条義時と断じてはおられないですね。(p110以下)

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【前略】『吾妻鏡』建保七年(一二一九)三月九日条によれば、忠綱は「禅定二品」政子の邸宅で後鳥羽の弔意を伝え、その後「右京兆」義時の邸宅に移り、「摂津国長江・倉橋」二つの荘園の地頭改補を要求する「院宣」を伝えたという。
 長江荘・倉橋(椋橋)荘は、摂津国豊島〔てしま〕郡の神崎川と猪名川が合流する付近にあった荘園である。「慈光寺本」は、後鳥羽が「寵愛双〔ならび〕ナキ」「舞女」の「亀菊(伊賀局)」に与えたのが「長江荘三百余町」であったと記す。神崎川流域には江口・神崎といった遊女の宿があり、後鳥羽は水無瀬殿に御幸した際、そこから遊女を召して今様・郢曲などを楽しんだ。亀菊は最も寵愛を得た遊女であった。また、倉橋荘は院近臣尊長(後出する一条能保の子で、兄に高能、信能、実雅らがいる)の遺領目録に「摂津国頭陀寺領、椋橋荘と号す」とみえる庄園である。
 注目すべきは、両荘とも川を下れば大阪湾、瀬戸内海へ、川をさかのぼれば水無瀬・鳥羽、都へと至る海運・水運の要衝に位置していた点である。こうした交通の要衝に置かれた地頭職を手放すよう、後鳥羽は圧力をかけてきたのである。これはまた、実朝亡き後の幕府が圧力に屈して後鳥羽の意思を受け入れるか否か、後鳥羽が幕府をコントロール下に置くことができるか否かをみきわめる試金石でもあった。選択は幕府に委ねられた。
-------

別に坂井氏は長江・倉橋荘の地頭が義時自身とする慈光寺本の記述を積極的に否定されている訳ではありませんが、この話の流れでは、肯定するならば当然に言及があるはずです。
従って、メルクマール(1)については、坂井氏は慎重に判断を留保されているものと思われます。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その14)─「院宣ヲ三度マデコソ背ケレ」の意味

2023-10-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
岡田清一氏は、

-------
 この間の事情について、慈光寺本『承久記』に、

 義時、院宣ヲ開テ申サレケルハ、「如何ニ十善ノ君ハ、加様ノ宣旨ヲバ被下候ヤラン。於余所者、
 百所モ千所モ被召上候共、長江庄ハ故右大将ヨリモ、義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍
 〔サナガラ〕頸ヲ被召トモ努力叶候マジ」トテ、院宣ヲ三度マデコソ背ケレ。

とあり、頼朝から初めて給わった所領であることを理由に、しかも三回にわたって下された院宣を拒否したとある。この院宣拒否の姿勢が、義時に新たな不安をもたらすことになる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/655b39a76d172f8a5dce8d20931ec7bb

と書かれていますが、この書き方だと、一般読者は北条義時宛ての院宣が三度にわたって下され、義時も三度続けて拒否したように思うはずです。
あるいは岡田氏自身もそのように解釈されているのかもしれませんが、しかし、慈光寺本では、亀菊エピソードは四つに部分から構成され、最初に、

-------
 其〔その〕由来ヲ尋ヌレバ、佐目牛〔さめうし〕西洞院ニ住ケル亀菊ト云〔いふ〕舞女〔ぶぢよ〕ノ故トゾ承ル。彼人〔かのひと〕、寵愛双〔ならび〕ナキ余〔あまり〕、父ヲバ刑部丞〔ぎやうぶのじよう〕ニゾナサレケル。俸禄不余〔あまらず〕思食〔おぼしめし〕テ、摂津国長江庄〔ながえのしやう〕三百余町ヲバ、丸〔まろ〕ガ一期〔いちご〕ノ間ハ亀菊ニ充行〔あておこな〕ハルゝトゾ、院宣下サレケル。刑部丞ハ庁〔ちやう〕ノ御下文〔おんくだしぶみ〕ヲ額〔ひたひ〕ニ宛テ、長江庄ニ馳下〔はせくだり〕、此由〔このよし〕執行シケレ共〔ども〕、坂東地頭、是ヲ事共〔こととも〕セデ申ケルハ、「此所ハ右大将家ヨリ大夫殿〔だいぶどの〕ノ給テマシマス所ナレバ、宣旨ナリトモ、大夫殿ノ御判〔ごはん〕ニテ、去〔さり〕マヒラセヨト仰〔おほせ〕ノナカラン限ハ、努力〔ゆめゆめ〕叶〔かなひ〕候マジ」トテ、刑部丞ヲ追上〔おひのぼ〕スル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/631429bc62ffdd914e89bfb7e34289f8

とあって、後鳥羽院は摂津国長江庄を自身の「一期ノ間」に限り、亀菊に与えるとの「院宣」を下します。
これは領家職を与えるとの院宣だろうと思いますが、一般論として、領家職自体は別に地頭職と抵触するものではありません。
それにも拘わらず、亀菊の父「刑部丞」は、「庁ノ御下文」を持参して長江庄に行き、「此由執行」しようとします。
すると、長江庄の「坂東地頭」は「刑部丞」に「長江庄は頼朝様より北条義時様が賜わった庄園なので、たとえ「宣旨」があろうと、私に退去を命ずる義時様の正式な書状がなければ絶対に退去しません」と応えて「刑部丞」を追い返したとのことですが、文章に飛躍がありますね。
おそらく「坂東地頭」(地頭の義時から現地の支配を命ぜられた地頭代)は、亀菊に領家職を与えたとの「院宣」に基づく「庁ノ御下文」を地頭代への退去命令と理解し、それを拒否した、ということだろうと思います。
しかし、領家職自体は地頭職と併存可能ですから、何故に亀菊への「院宣」と「庁ノ御下文」が地頭代への退去命令となるのかが分かりません。
「院宣」ないし「庁ノ御下文」が「坂東地頭」の返事の中では「宣旨」に変わっているのも奇妙です。
次に、

-------
仍〔よつて〕、此趣ヲ院ニ愁申〔うれへまうし〕ケレバ、叡慮不安〔やすからず〕カラ思食テ、医王〔ゐわう〕左衛門能茂〔よしもち〕ヲ召テ、「又、長江庄ニ罷下〔まかりくだり〕テ、地頭追出〔おひいだ〕シテ取ラセヨ」ト被仰下〔おほせくだされ〕ケレバ、能茂馳下〔はせくだり〕テ追出ケレドモ、更ニ用ヒズ。
-------

とありますが、「長江庄に行って地頭を追い出せ」という「仰」があり、その「仰」を受けた「医王左衛門能茂」が「地頭」(代)を追い出そうとしたけれども、「地頭」(代)は拒否します。
あるいは、この「医王左衛門能茂」への命令が第二の「院宣」の可能性もありそうです。
ついで、

-------
能茂帰洛シテ、此由〔このよし〕院奏シケレバ、仰下〔おほせくだ〕サレケルハ、「末々ノ者ダニモ如此〔かくのごとく〕云。増シテ義時ガ院宣ヲ軽忽〔きやうこつ〕スルハ、尤〔もつとも〕理〔ことわり〕也」トテ、義時ガ詞〔ことば〕ヲモ聞召〔きこしめし〕テ、重テ院宣ヲ被下〔くだされ〕ケリ。「余所〔よそ〕ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計〔ばかり〕ヲバ去進〔さりまゐら〕スベシ」トゾ書下サレケル。
-------

という展開となりますが、「義時ガ詞ヲモ聞召テ」とはどういう意味なのか。
能茂経由で聞いた「地頭」(代)の発言を「義時ガ詞」と表現しただけなのか。
それとも、「末々ノ者」に過ぎない「地頭」(代)ではなく、何らかの方法で鎌倉の義時にも問い合わせて義時自身の見解を質した上で、「余所ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計ヲバ去進スベシ」との「院宣」を下したということなのか。
前者では表現が不自然で、後者では時間的な流れが不自然ですね。
ま、それはともかく、最後に、

-------
義時、院宣ヲ開〔ひらき〕テ申サレケルハ、「如何ニ、十善ノ君ハ加様〔かやう〕ノ宣旨ヲバ被下〔くだされ〕候ヤラン。於余所者〔よそにおいては〕、百所モ千所モ被召上〔めしあげられ〕候共〔とも〕、長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙〔かうぶる〕始ニ給〔たまひ〕テ候所ナレバ、居乍〔ゐながら〕頸ヲ被召〔めさる〕トモ、努力〔ゆめゆめ〕叶候マジ」トテ、院宣ヲ三度マデコソ背〔そむき〕ケレ。
-------

とあるので、三度の「院宣」を、

(1)亀菊宛ての「院宣」
(2)「医王左衛門能茂」宛ての「地頭」(代)を追い出せとの「仰」(「院宣」?)
(3)義時宛ての「院宣」

と考えると、(1)(2)は直接には「地頭」(代)が、(3)は義時本人が「背」いたという違いはあるものの、合計三度で一応自然な流れとなりますね。
義時宛ての同一内容の院宣が三度下され、義時がそれを三度拒否したというのはあまりに変な話です。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その13)─「後鳥羽上皇の描く未来図にあってはならないもの」(by 岡田清一氏)

2023-10-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
岡田清一氏の文章はなかなか複雑ですが、「権門体制論的な考え」が後鳥羽院の頭の中にあったとしても、それは具体的には「実朝を介して軍事権門(幕府)を支配する構図」ですから、「その構想は実朝の死によって潰え」てしまいます。
そして、実朝を介して「軍事権門を繰ることができな」くなってしまった後、「三度の院宣を拒否した義時の存在は、幕府という軍事権門を体制内に位置づけることの難しさを示し」、「義時の姿は、後鳥羽上皇の描く未来図にあってはならないもの」であり、義時の「排除なくして自ら考える体制も構築できなかった」のだそうです。
つまり、後鳥羽院の「権門体制論的な考え」とは、現実に存在する体制の認識ではなく、後鳥羽院の思い浮かべる「構図」「構想」であり、「後鳥羽院の描く未来図」となります。
そして、承久の乱の敗北により、そうした「構図」「構想」「未来図」は完全に破綻し、後鳥羽院の「権門体制論的な考え」は一度も実現することなく雲散霧消してしまった訳ですね。
このように考える岡田清一氏は果たして権門体制論者なのか。
実は、1963年の黒田俊雄による権門体制論の提唱の直後から、権門体制論というのは、要するに当時の朝廷側の「理想」であり「願望」ではないか、という批判があります。
岡田清一氏は、後鳥羽院の「権門体制論的な考え」は「構図」「構想」「未来図」だとされるので、権門体制論者どころか、その正反対の、反権門体制論者のようにも見えますね。
この点、今はあまり結論を急がず、黒田俊雄が慈円の『愚管抄』から権門体制論の着想を得たとされる佐藤雄基氏(立教大学教授)の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)を検討する際に、改めて少し論じてみたいと思います。

「権門体制論」の出生の謎(その1)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a6bca5899bb804a3b901bc48b40e5eed
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その1)─今後の課題
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e960c2776946a8e96707a8db79c5fdf5

ということで、メルクマール(2)、慈光寺本の北条義時追討「院宣」を本物と考えるか否か、に進みます。(p185以下)

-------
義時追討の院宣と官宣旨

 後鳥羽上皇は、皇子雅成と頼仁、外戚である坊門忠信・信成、順徳の姻戚高倉範茂・範有父子、さらに近臣藤原秀康・葉室光親・二位法印尊長を中心に、秘密裡に計画を進めた。
 また、秀康に義時追討を計画させた。秀康は、京都政界にあって、早くから「瀧口の切れ者」と認識されるほどの立場を確立していた(長村 二〇一四)。秀康は、検非違使として在京中の三浦胤義(義村の弟)を語らうなど、在京御家人以外の武力の動員も考えた。【中略】
 こうして義時追討の準備がほぼ進んだ承久三年四月、城南宮(京都市伏見区)の流鏑馬汰〔やぶさめぞろえ〕と称し、在京御家人を始めとして畿内近国の武士を招集、二十八日には約一千騎が高陽院に集結した(慈光寺本『承久記』)。【中略】
 そのうえで、後鳥羽上皇は葉室光親に命じて義時追討の院宣を武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房・三浦義村らのもとに発給するとともに、官宣旨を五機七道に下したのである。院宣発給の対象に、武田や小笠原、足利義氏のみならず弟の時房の名があがっているところに、強力な権力基盤を構築しつつある義時への反撥を、上皇側が期待したことが窺える。
-------

参考文献を見ると、「長村 二〇一四」は「藤原秀康」(『公武権力の変容と仏教界』所収、成文堂、2014)で、全体的に長村祥知氏の新学説の影響が極めて大きいですね。
そして、「義時追討の院宣」についても、対象が北条時房を含む八人であることから、岡田氏が慈光寺本を細部まで信頼されていることが分かります。
ということで、メルクマール(1)に続き、(2)にも該当しますね。
なお、岡田氏は「近臣藤原秀康・葉室光親・二位法印尊長を中心に、秘密裡に計画を進めた」とされるので、『吾妻鏡』七月十二日条の、

-------
按察卿〔光親。去月出家。法名西親〕者。為武田五郎信光之預下向。而鎌倉使相逢于駿河国車返辺。依触可誅之由。於加古坂梟首訖。時年四十六云々。此卿為無双寵臣。又家門貫首。宏才優長也。今度次第。殊成競々戦々思。頻奉匡君於正慮之処。諌議之趣。頗背叡慮之間。雖進退惟谷。書下追討宣旨。忠臣法。諌而随之謂歟。其諷諌申状数十通。殘留仙洞。後日披露之時。武州後悔悩丹府云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

という、葉室光親が実際には討幕計画に反対し、何度も後鳥羽院に諫言していたとのエピソードは信頼に値しない、という立場ですね。

流布本も読んでみる。(その64)─「角ては御宮づかひ、悪く候ぬ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af41cdeff19aefe669c2f0a455647d1c
流布本も読んでみる。(その65)─「東国へも、院宣を可被下とて、按察使前中納言光親卿奉て」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e881b11b5105264458a72efeb9bed537
流布本も読んでみる。(その66)─「二位殿へ申(入たる)旨有。其使、今日帰候はんず覧」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/10fbc3a8eb682ecc00d4a5eb451b6159

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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その12)─「それは、黒田俊雄氏が指摘した権門体制論的な考えに近似」(by 岡田清一氏)

2023-10-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p175以下)

-------
 この間の事情について、慈光寺本『承久記』に、

 義時、院宣ヲ開テ申サレケルハ、「如何ニ十善ノ君ハ、加様ノ宣旨ヲバ被下候ヤラン。於余所者、
 百所モ千所モ被召上候共、長江庄ハ故右大将ヨリモ、義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍
 〔サナガラ〕頸ヲ被召トモ努力叶候マジ」トテ、院宣ヲ三度マデコソ背ケレ。

とあり、頼朝から初めて給わった所領であることを理由に、しかも三回にわたって下された院宣を拒否したとある。この院宣拒否の姿勢が、義時に新たな不安をもたらすことになる。
 こうして地頭解任を拒否された後鳥羽上皇は、後続将軍の東下を認めず、この二つの問題はまったく解決の目途を失ってしまった。
-------

岡田氏が引用される部分を含め、亀菊エピソードの全体は2月17日付の下記投稿を参照してください。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その11)─亀菊と長江荘
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/631429bc62ffdd914e89bfb7e34289f8

長江庄の地頭を北条義時とする研究者は多いものの、岡田氏は「頼朝から初めて給わった所領であることを理由に、しかも三回にわたって下された院宣を拒否した」ことまで慈光寺本を信頼されており、これはかなり珍しいですね。
ちなみに『吾妻鏡』承久三年五月十九日条には、

-------
【前略】武家背天気之起。依舞女亀菊申状。可停止摂津国長江。倉橋両庄地頭職之由。二箇度被下 宣旨之処。右京兆不諾申。【後略】

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とあって、三度の「院宣」ではなく、二度の「宣旨」となっています。
ま、それはともかく、慈光寺本では、亀菊エピソードは「医王左衛門能茂」が登場するなど、相当に複雑な展開となっていて、私にはずいぶん胡散臭い話のように思えるのですが、岡田氏のように細部まで全面的に信じる研究者もおられる訳ですね。

歴史研究者は何故に慈光寺本『承久記』を信頼するのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dbce4ae481988ee4658a379aba137edb
長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da
「関係史料が皆無に近い」長江荘は本当に実在したのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af58023942711f54b112cc074308b3ad
長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちに捧げる歌(by GOTOBA)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9e21be7919eb73b747f9f322c7880af

さて、岡田氏が権門体制論者か否かですが、岡田氏の次の叙述は極めて興味深いですね。(p184以下)

-------
 将軍実朝の暗殺は、後鳥羽上皇の計画に大きな狂いを生じさせた。正統な「治天の君」たろうとする上皇は、幕府の軍事力さえ、その意のままに動かすべきと考えていた。それは、黒田俊雄氏が指摘した権門体制論的な考えに近似する(黒田 一九六三)。「治天の君」のもとに、公家権門(執政)、寺社権門(宗教)、武家権門(軍事)=幕府が保管して国政を担当するというこの考えは、幕府を排除の対象と見るのではなく、その体制内に位置づけるという考えでもある。
 実朝に接近し、頼家の跡を継ぐや否や「実朝」の名を与え、継承者としての正統性を与えたのも後鳥羽上皇であった。実朝を介して軍事権門(幕府)を支配する構図は、公家に宗教と軍事を加えて基盤とする新しい「王権」でもあった。実朝に後継者が誕生しないなかで、政子が皇子の東下を求めた時、これを受け入れたのも、皇子を介して軍事権門を支配するだけでなく、実朝がそれを後見するという体制が、正統な「治天の君」としては必須であった。
 しかし、その構想は実朝の死によって潰えたのである。軍事権門を繰ることができなければ、皇子の東下は将来における王権の分裂を招きかねず、それは、後鳥羽上皇にとってあってはならない将来像でもあった。しかも、寵姫亀菊の所領に対する地頭職停廃を求める三度の院宣を拒否した義時の存在は、幕府という軍事権門を体制的に位置づけることの難しさを示した。実朝の没後、幕府内で大きな権力を掌握しつつある義時の姿は、後鳥羽上皇の描く未来図にあってはならないものであって、その排除なくして自ら考える体制も構築できなかったのである。
-------

うーむ。
この岡田氏の発想は本当に珍しいですね。
普通の権門体制論者は、古記録・古文書を調べて、そこから当時の国家の形態が「権門体制」と呼ぶべき構造を持っていたと論じます。
「権門体制」は、あくまで現代の研究者が、過去の体制を説明するために考案した学術用語であり、分析概念ですね。
ところが、岡田氏は、もちろん「権門体制」という言葉は過去に存在したはずはないものの、それに「近似」した「権門体制論的な考え」が、後鳥羽上皇の頭の中に実在したと言われる訳ですね。
ここは、通常の権門体制論を相当に逸脱しているように思われます。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その11)─岡田清一氏の場合

2023-10-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
木下竜馬氏(東京大学史料編纂所助教)は1987年生まれ、山本みなみ氏(鎌倉歴史文化交流館学芸員、青山学院大学非常勤講師)は1989年生まれだそうですが、ここで若手からいきなり長老クラスに移って、岡田清一氏(東北福祉大学名誉教授、1947生)の『北条義時』(ミネルヴァ書房、2019)を見て行くこととします。
岡田氏は國學院大学文学部卒、学習院大学大学院満期退学とのことで、安田元久氏の門下生ですね。
安田門下に「慈光寺本妄信歴史研究者」が多いことは以前から少し気になっていたので、そのケーススタディとして岡田氏の見解を検討したいと思います。

-------
ミネルヴァ日本評伝選『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』

北条義時(1163~1224)鎌倉幕府執権
源氏将軍が途絶えた後、実質的に権力をふるう。政治の主導権をめぐる朝廷と幕府の関係悪化から発生した承久の合戦では、幕府軍がはじめて武力で朝廷を制圧した。戦後、後鳥羽上皇ら、三上皇を配流し、その後の朝幕関係を大きく変えた。本書では時代により評価が揺れる義時の実像にせまる。
[ここがポイント]
◎ 細かな事実の積み重ねから北条義時の実像にせまる。
◎ 時代とともに揺らいできた評価を再検討する。

https://www.minervashobo.co.jp/book/b439551.html

まず、メルクマール(1)関係を見て行きます。(p175以下)

-------
 そうしたなかで、後鳥羽上皇は鎌倉に滞在していた一条信能(頼朝の義弟能保の子)に対し、即座に帰洛すること、受け入れなければ解官すると伝えた。困惑した信能は、政子邸に伺い、参洛の意志を伝えたところ、政子は勝手な帰洛を拒否している。嫌がらせとも取られかねない上皇の命令であった。
 さらに後鳥羽上皇は、幕府の申し入れを拒否した直後、藤原忠綱を派遣、実朝の死を悼むとともに、摂津国長江荘と倉橋荘(大阪府豊中市)の地頭職解任の院宣を伝えた。この荘園は、上皇の寵愛していた伊賀局亀菊の所領であったが、地頭は義時であった。当然のことながら、地頭職の改廃は御家人の死活問題であり、幕府にとって最重要課題であった。将軍を失った今、安易に朝廷の要求を受け入れるわけにはいかなかった。
 忠綱の帰洛後、政子邸に参会した義時、時房、泰時、広元が評議した結果、拒否の態度を明らかにし、三月十五日、時房を千騎の御家人とともに上洛させた。時房が地頭職解任を拒否するとともに、千騎の軍勢を背景に、後続将軍の東下を要請したことはいうまでもない。
-------

いったん、ここで切ります。
一条信能の帰洛問題については、『吾妻鏡』建保七年(1219)閏二月二十九日条に、

-------
一条中納言信能朝臣参二品御亭。申云。依不忘右府御旧好。于今祗候之処。叡慮頗不快。剰去十九日可解官之由。及御沙汰云々。然者可参洛歟云々。無左右不可被帰洛之由。有二品御返答云々。

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma24a-02b.htm

とありますが、前日条を見ると、京都で一条信能の青侍と大番役の武士との間に何かトラブルがあったようですね。
後鳥羽の帰洛命令に相応の理由があったとすれば、政子の命による帰洛拒否の方が、むしろ「嫌がらせとも取られかねない」可能性があったのかもしれません。

一条信能(1190-1221)

ま、それはともかく、上記の叙述は基本的に『吾妻鏡』に依拠していますが、長江・倉橋荘の地頭については、これに言及する三月九日条、及び承久三年五月十九日条のいずれにも誰が地頭かは明記されておらず、義時とするのは慈光寺本だけです。

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma24a-03.htm

仮に長江・倉橋荘の地頭が義時でなければ、この問題は「御家人の死活問題であり、幕府にとって最重要課題」となりますが、地頭が義時であれば、義時個人の私的利益の問題ともいえます。
権門体制論者は「予定調和」のまったりした世界に生きているので、一般論として、何かトラブルがあっても、それを貴族「階級」と武士「階級」の「階級的対立」の問題とか、そこまで古臭い表現は用いずとも、ある社会集団と別の社会集団との間の、互いに相容れない根本的な利害対立のような大きな問題にはしたがらない傾向があります。
そこで、長江・倉橋荘の問題も、これを義時個人の利害の問題とすれば比較的小さなトラブルとなり、権門体制論者の基本的な発想に馴染みやすいですね。
まあ、権門体制論者ならば絶対に義時を地頭とする慈光寺本を「妄信」するとまでは言いませんが、親和性は高いですね。
果たして岡田清一氏は権門体制論者なのか。

第一回中間整理(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3db8eba6474bd92bf295c5e187f93141

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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その10)─山本みなみ氏「承久の乱 完全ドキュメント」(続々)

2023-10-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
呉座勇一氏は『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021)において、幕府軍の構成を、先ず『吾妻鏡』に基づき東海道十万・東山道五万・北陸道四万、総勢十九万騎、次いで慈光寺本に基づき東海道七万・東山道五万・北陸道七万、総勢十九万騎と紹介した後、

-------
 六月三日、幕府方の東海道軍が遠江に到着したという知らせを受けた後鳥羽方は追討軍を派遣した。慈光寺本『承久記』によれば総大将は藤原秀康、総勢一万九千余騎だという。これを信じるなら、幕府軍の十分の一ということになる。既に大勢は決したと言える。
-------

と書かれています。(p300)
まあ、別に不自然な書き方ではなく、読者も特に変には思わないでしょうが、これが慈光寺本では、

 幕府軍: 東海道 七万騎 東山道 五万騎 北陸道 七万騎
 朝廷軍: 東海道 七千騎 東山道 五千騎 北陸道 七千騎

となっていることを知ると、さすがに妙だな、数字があまりに綺麗に整い過ぎているな、と思う人も多いでしょうね。
ま、それはともかく、山本氏は北条政子の演説についても、『吾妻鏡』に加え、慈光寺本を丁寧に説明されていて、これも意外に珍しい感じがします。
『史伝 北条義時』(小学館、2021)にもほぼ同文の文章がありますが、「承久の乱 完全ドキュメント」から引用してみます。(p78以下)

-------
第三章 『吾妻鏡』で読む義時追討の宣旨と政子の歴史的演説

【中略】この演説については、『吾妻鏡』と慈光寺本『承久記』に詳しいが、前者については『六代勝事記』の記述をもとに編纂していることが明らかになっている。したがって、政子の演説は、『六代勝事記』を第一とし、これに『吾妻鏡』『承久記』を併せて、おおよその内容を知り得る。
 すなわち、政子が武士たちを庭中に集めて語ることには、
「それぞれ心を一つにして聞きなさい。これは私の最後の詞〔ことば〕である。亡き頼朝様は、源頼義・義家という清和源氏栄光の先祖の跡を継ぎ、東国武士を育むために、所領を安堵して生活を安らかにし、官位を思い通りに保証した。その恩は山よりも高く、海よりも深い。不忠の悪臣らの讒言によって後鳥羽上皇は天に背き、追討の宣旨を下した。汝たちは、男を皆殺し、女を皆奴婢とし、神社仏寺は塵灰となり、武士の屋敷は畠になり、仏法が半ばにして滅びることになってもよいのか。恩を知り、名声が失われるのを恐れる者は、藤原秀康・三浦胤義を捕らえて、家を失わず名を立てようと思うはずである」
 というものであった。これを聞いた武士たちは、涙に咽び、つぶさに返事を申すことができなかったという。
 なお、慈光寺本『承久記』だけは、政子がまず大姫・頼朝・頼家・実朝に先立たれたことを嘆き、さらに弟の義時までも失えば、5度目の悲しみを味わうことになるとして、武士たちの同情を引いてから演説に入っている。また、実朝への恩を説き、頼朝・実朝の墓所を馬の蹄で踏みつけさせることは、御恩を受けた者のすることではないとして、京方について鎌倉を攻めるのか、鎌倉方について京方を攻めるのか、ありのままに申せと選択を迫っている。
 結局、鎌倉の町が戦場になることはなかったが、ここで政子が京方の鎌倉襲撃という、最悪の事態を武士たちに想像させている点は興味深い。『六代勝事記』では神社仏寺と武士の屋敷、『承久記』ではより具体的に頼朝・実朝の墓所に触れ、鎌倉の町が潰滅的な打撃を受けると想定していたことがわかる。
-------

『六代勝事記』での政子の演説は4月23日付の下記投稿で紹介していますが、確かに『吾妻鏡』の原型となったと思われる内容です。

使者到来と幕府軍発向までの流布本・慈光寺本・『吾妻鏡』の比較(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04abaaa6ae901cd308f291c7437fd023

また、慈光寺本での政子の演説の原文は、4月18日付の下記投稿で紹介しています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その26)─「和田左衛門ガ起シタリシ謀反ニハ、遥ニ勝サリタリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21a9dd0aae9f78d209bd0a3cd8161afa

さて、『六代勝事記』には「男をばしかしながら殺し。女をばみなやつことし。神社仏寺ちりはいとなり。名将のふしどころ畠にすかれ。東漸の仏法なかばにしてほろびん事を」という文言はありますが、別に神社仏寺も鎌倉のそれと明示している訳ではありません。
しかし、「名将のふしどころ」は頼朝を連想させるので、やはり鎌倉のことを言っているのでしょうね。
そして、慈光寺本では「大将殿・大臣殿二所ノ御墓所ヲ馬ノ蹄ニケサセ玉フ」とあるので、場所が鎌倉であることは明確です。
ただ、こちらも鎌倉を焼払うといった文言はないので、私は今まで、政子の演説と「谷七郷〔やつしちがう〕ニ火ヲ懸テ、空ノ霞ト焼上〔やきあげ〕」云々との山田重忠の鎌倉攻撃案を結び付けてはいませんでした。
しかし、確かに山本氏の言われるように「大将殿・大臣殿二所ノ御墓所ヲ馬ノ蹄ニケサセ玉フ」は「鎌倉の町が潰滅的な打撃を受ける」ことと同義であり、鎌倉を焼払うこととも殆ど同義ですね。
山本氏が鎌倉という「町」に特別な関心を寄せられ、鎌倉という「町」の潰滅を討幕と同義のように語られる点には私は批判的です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その7)─山本みなみ氏の場合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e7f4bd139e9a1a7d96c41ba539906b86

しかし、山本氏が慈光寺本に鎌倉潰滅のヴィジョンが繰り返し描かれていることに注目された点は、まことに慧眼と言うべきですね。
そして、私の立場からすると、

(1)政子の演説の「大将殿・大臣殿二所ノ御墓所ヲ馬ノ蹄ニケサセ玉フ」
(2)義時の演説の「義時モ谷七郷ニ火ヲカケテ、天下ヲ霞ト焼上、陸奥ニ落下リ」
(3)山田重忠の鎌倉攻撃案の「鎌倉ヘ押寄、義時討取テ、谷七郷ニ火ヲ懸テ、空ノ霞ト焼上」

の三つは密接に関連していて、(1)(2)は(3)が名案であり、実現可能性が高いことを読者に印象付けるための伏線のように思われます。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その9)─山本みなみ氏「承久の乱 完全ドキュメント」(続)

2023-10-15 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
山本みなみ氏が、鎌倉方の東海道・東山道・北陸道三軍の数を『吾妻鏡』に依拠しながら、何故に京方の東海道・東山道・北陸道三軍の数を慈光寺本に依拠するかというと、これは『吾妻鏡』と流布本には三軍の数字が出ていないからですね。
『吾妻鏡』六月三日条では「官軍」を「北陸道」軍と「東山道」軍に二分した上、大井戸渡・鵜沼渡・池瀬・摩免度・食渡・洲俣・市脇の七箇所に配置された人名を載せていますが、軍勢の数は出ていません。
なお、同条では「北陸道」軍も同日に出発したとしており、また、尾張河で戦ったのは全て「東山道」軍であって、東海道軍は存在しません。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

他方、流布本では、北陸道軍の派遣は五月十五日の伊賀光季追討場面の後、「推松」派遣の直前に、

-------
 北陸(道)へは、討手を可被向〔むけらるべし〕とて、仁科次郎・宮崎左衛門尉親式〔ちかのり〕・糟屋左衛門尉・伊王左衛門尉、是等を始として官軍少々被下ける。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb8174293efd36308a8538be3489afe3

とあって、ずいぶん早く派遣したような書き方ですが、人数は出ていません。
そして、「推松」帰洛後、尾張河合戦に備えた「九瀬」への派遣の場面は、

------
 先〔まづ〕討手を可被向とて、「宇治・勢多の橋をや可被引」「尾張河へや向るべき」「尾張河破れたらん時こそ、宇治・勢多にても防れめ」「尾張河には九瀬有なれば」とて、各分ち被遣。大炊〔おほひ〕の渡へば、駿河大夫判官・糟屋四郎左衛門尉・筑後太郎左衛門尉・同六郎左衛門、是等を始として、西面者共二千余騎を被差添。鵜沼の渡へは美濃目代帯刀〔たてはき〕左衛門尉・川瀬蔵人入道親子三人、是等を始て一千余騎ぞ被向ける。板橋へは朝日判官代・海泉太郎、其勢一千余騎ぞ向はれける。気瀬〔いきがせ〕へは富来次郎判官代・関左衛門尉、一千余騎にてぞ向ける。大豆渡〔まめど〕へは能登守秀安・平九郎胤義・下総前司盛綱・安芸宗内左衛門尉・藤左衛門尉、是等を始として一万余騎にてぞ向ひける。食〔じき〕の渡へは阿波太郎入道・山田左衛門尉、五百余騎にて向ふ。稗島〔ひえじま〕へは矢野次郎左衛門・原左衛門・長瀬判官代、五百余騎にて向けり。墨俣〔すのまた〕へは河内判官秀澄・山田次郎重忠、一千余騎にて向。市河前へは賀藤伊勢前司光定、五百余騎にて向ける。以上一万七千五百余騎、六月二日の暁、各都を出て、尾張(河)の瀬々へとてぞ急ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dad3e44432e0103895943663b061f5ce

とあって、大炊の渡・鵜沼の渡・板橋・気瀬・大豆渡・食渡・稗島・墨俣・市河前の九箇所に派遣された軍勢の数、合計一万七千五百余騎が記されていますが、ここには北陸道軍は含まれていません。
また、尾張河の「九瀬」に派遣されたとあるだけで、東海道軍・東山道軍と区別している訳ではありません。
結局、東海道・東山道・北陸道の三軍に分けた上で、それぞれの軍勢の数を記しているのは慈光寺本の藤原秀康による第一次軍勢手分だけなので、山本氏はその数字を採った訳ですね。
しかし、『吾妻鏡』では京方の東海道軍が存在せず、尾張河に派遣されたのは「東山道」軍と一纏めしており、流布本でも単に尾張河の「九瀬」に派遣されたとしているように、京方には「東海道」軍と「東山道」軍を分ける必要性がなくて、慈光寺本が三軍に分けていること自体が極めて不自然です。
そして、慈光寺本だけで軍勢の数を比較すると、鎌倉方は、

 (東)海道 七万騎
 (東)山道 五万騎
  北陸道  七万騎

です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その29)─「数ノ染物巻八丈、夷ガ隠羽、一度モ都ヘ上セズシテ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0158cea1e24a32f59a83f766a2e2bfe3

他方、京方は

 (東)海道 七千騎
 (東)山道 五千騎
  北陸道  七千騎

となって、ちょうど鎌倉方の十分の一ですね。
まあ、慈光寺本では三軍合計が一万九千騎ではなく、「一万九千三百廿六騎」という妙に細かい数字となっていますが。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その32)─「押松ガ義時ガ首持テ参ラン、御覧ゼヨ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bee622726e9347aeba18024daf52e03

それにしても、

   鎌倉方:京方=10:1

という比率は余りに綺麗すぎて、いかにも作っていそうな感じがします。
また、藤原秀澄の第二次軍勢手分で「十二ノ木戸」(実際には十箇所)に一万二千騎を配していることや、杭瀬河合戦で山田重忠勢が三百騎、「小玉党」が三千騎となっていることにも通じているような感じもします。
京方が合計一万九千騎という数字は、別に「慈光寺本妄信歴史研究者」だけでなく、相当多くの歴史研究者が気楽に使っているように見えますが、慈光寺本の作者には奇妙な数字マニア的な性癖があって、慈光寺本に出て来る数字は全般的に相当怪しいことに注意すべきですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その33)─「山道・海道一万ニ千騎ヲ十二ノ木戸ヘ散ス事コソ哀レナレ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その46)─「阿井渡、蜂屋入道堅メ給ヘ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/51f9021c68667da368f5bb7da224bdda
宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a1a09b7880933a681cfc1707a0aa140
盛り付け上手な青山幹哉氏(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/995da08b3874a5eef6a5a63eb589ad9a
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その8)─山本みなみ氏「承久の乱 完全ドキュメント」

2023-10-14 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
山本みなみ氏は『週刊朝日MOOK 歴史道Vol.19』(朝日新聞出版、2022)で「承久の乱 完全ドキュメント」という記事を書かれていて、その内容は『史伝 北条義時』(小学館、2021)とかなり重複している、というか一字一句同じコピー&ペーストの部分もかなりありますが、合戦場面はムックの方が詳細ですね。
そして、野口実氏の門下生である山本氏は慈光寺本を相当に重視されていますが、野口流に「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」することは実際上困難なので、要所はやはり『吾妻鏡』になっています。
もう少し具体的に見て行くと、北条泰時が僅か十八騎を率いて出立したという『吾妻鏡』の有名な記事を紹介した後、山本氏は、

-------
【前略】慈光寺本『承久記』には、兵力不足の場合は重時(義時の息子)を大将軍とする援軍を派遣し、さらには義時自らが十万騎を率いて打ちのぼる。敗戦の場合は東国に下り、足柄・清見関に堀を設け、鎌倉の由比ヶ浜で決戦を挑む。
 また、ここでも敗れたならば、鎌倉に火を懸けて陸奥に下って抵抗を続けると見えている。
-------

と書かれていますが(p80)、ここは原文だと、

-------
【前略】武蔵・相模等ノ勢スクハクハ、脚力〔きやくりき〕ヲ以テ示シ玉ヘ。三郎冠者重時ニ一陣打〔うた〕セテ、義時モ十万騎ニテ打テ上リ、手ノ際ノ戦シテ、十善ノ君ノ見参ニ入〔いら〕ン。戦〔たたかひ〕負ヌルモノナラバ、打下リ、足柄・清見ガ関ヲ堀切〔ほりきり〕テ、由比浜ヲ軍場ト誘〔いざなひ〕テ、手際〔てのきは〕戦セン。ソレニ戦負ヌルモノナラバ、昔、衆井太郎ガ、七度マデ宣旨ヲ蒙リ、門司関ヲ打塞〔うちふさぎ〕、筑紫九国〔くこく〕、七年ガ間、掠〔かすめ〕テ有ケン様ニ、義時モ谷七郷〔やつしちがう〕ニ火ヲカケテ、天下ヲ霞ト焼上〔やきあげ〕、陸奥ニ落下リ、数ノ染物巻八丈〔まきはちぢやう〕、夷ガ隠羽〔かくしば〕、一度モ都ヘ上セズシテ、一期ガ間知ランニ、サテモ有ナン。和殿原、海道ノ先陣、相模守急〔いそぎ〕玉ヘ。去〔さり〕トモ義時、日取〔ひどり〕セン。五月廿一日<甲辰>開日ゾ、猶々急玉ヘ」。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0158cea1e24a32f59a83f766a2e2bfe3

となっています。
『吾妻鏡』や流布本では義時は負けた後の心配など一切していませんが、慈光寺本ではずいぶん具体的な話が続きます。
そして、この中の「谷七郷〔やつしちがう〕ニ火ヲカケテ、天下ヲ霞ト焼上〔やきあげ〕」という表現は、後に山田重忠の鎌倉攻撃案にも、

-------
【前略】「相模守・山道遠江井助ガ尾張ノ国府ニ著ナルハ。我等、山道・海道一万二千騎ヲ、十二ノ木戸ヘ散シタルコソ詮ナケレ。此勢一〔ひとつ〕ニマロゲテ、洲俣ヲ打渡〔うちわたし〕テ、尾張国府ニ押寄テ、遠江井助討取〔うちとり〕、三河国高瀬・宮道・本野原・音和原ヲ打過〔うちすぎ〕テ、橋本ノ宿ニ押寄テ、武蔵并〔ならびに〕相模守ヲ討取テ、鎌倉ヘ押寄〔おしよせ〕、義時討取テ、谷七郷〔やつしちがう〕ニ火ヲ懸テ、空ノ霞ト焼上〔やきあげ〕、【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bb5884b5829798a9028ad254ef2855cd

と出てきます。
私は、義時が鎌倉焼亡の可能性を語ったのは、山田重忠の鎌倉攻撃案の伏線であって、慈光寺本作者は後者のリアリティを出すために前者も創作したのだろうなと思っています。
ま、それはともかく、山本氏は上記引用部分に続けて鎌倉方の十九万騎の内訳を書かれていますが、ここは慈光寺本ではないですね。
流布本では「東海道十万余騎、東山道五万余騎、北陸道四万余騎、共に三の道より十九万余騎」、『吾妻鑑』も同じですが、慈光寺本では東海道七万、東山道五万、北陸道七万です。
列挙された人名を見ると、山本氏が直接に依拠されたのは『吾妻鏡』ですね。

流布本も読んでみる。(その15)─「父子兄弟引分上せ留らるゝ謀こそ怖しけれ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84e69bedac1469967b6e592fe90d5076
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その29)─「数ノ染物巻八丈、夷ガ隠羽、一度モ都ヘ上セズシテ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0158cea1e24a32f59a83f766a2e2bfe3

しかし、この後、

-------
 予想外の事態に慌てた上皇は、急ぎ大将軍の藤原秀康に軍勢を揃え、幕府軍を迎撃するように命じている。京方の陣形は次の通りである。
・東海道方面(七千余騎)
  藤原秀康、藤原秀澄、三浦胤義、佐々木広綱ら
・東山道方面(五千余騎)
  蜂屋入道、大内惟信、糟屋久季
・北陸道方面(七千余騎)
  糟屋有久、大江能範、宮崎定範、仁科盛遠ら
-------

とありますが、これは慈光寺本ですね。
そして、少し後に、

-------
 迎え撃つ京方は、上皇の命令により、墨俣周辺の武士を召集したが、大将軍の藤原秀澄は軍勢を各所に分散するという失策をとったため、上皇軍の兵力は低下していた。
-------

とあり(p81)、ここも慈光寺本、というか慈光寺本における山田重忠の藤原秀澄批判そのものです。
私は慈光寺本の藤原秀康の第一次軍勢手分と藤原秀澄の第二次軍勢手分を非常に不自然だと考えますが、山本氏は特に疑問を抱かれなかったようですね。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その3)─「3.藤原秀康の第一次軍勢手分 21行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43e09e10a4bab75dd2a1b0608e586a02
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その4)─「4.藤原秀澄の第二次軍勢手分 8行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac009c41b0fbb326d6d86e08d08b17e1
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その7)─山本みなみ氏の場合

2023-10-14 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
山本みなみ氏の『史伝 北条義時』(小学館、2021)には、

-------
【前略】寵愛する白拍子亀菊の所領で、義時が地頭である摂津国長江荘・倉橋荘(大阪府豊中市)の地頭を改補するように命じてきた。後鳥羽院は、あえて無理難題を押し付けることで、義時の反応を窺い、今後の幕府対応を見定めようとしたのである(上横手一九七一)。
-------

とあり(p225)、山本氏はメルクマール(1)に該当しますね。
また、

-------
 同日付で、後鳥羽院は義時追討を命じる院宣も下していた。その内容は、実朝の死後、将軍の跡を継ぐ人がいないと訴えてきたため、摂政の息子三寅を下向させた。しかし、幼いのをよいことに、義時は野心を抱き、朝廷の意向を笠に着て振るまい、然るべき政治が行なわれなくなった。そこで、義時の奉行を差し止め、すべてを天子が決める。もしこの決定に従わず、なお叛逆を企てれば、命を落とすことになる。格別の功績をあげた者には褒美を与える、というものであった。義時を名指しで批判する点は、官宣旨とおなじである。
 慈光寺本『承久記』によれば、院宣は武田信光、足利義氏、北条時房、三浦義村ら八名に対して充てられたものである。【後略】
-------

とあり(p233)とあり、メルクマール(2)にも該当します。
メルクマール(3)(武田信光と小笠原長清の密談エピソード)、(4)(後鳥羽院の「逆輿」エピソード)、(5)(宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソード)については、『史伝 北条義時』には言及がなく、山本氏の見解は不明です。
さて、山本著で興味深いのは、山本氏が「義時追討説」にかなり懐疑的な姿勢を示されている点ですが、その論理はすっきりしません。
即ち、

-------
 従来、承久の乱における後鳥羽の目的は、討幕と解釈されていたが、近年では、後鳥羽の構想は義時個人の追討であるという説(長村二〇一二)が有力視されている。しかし、義時追討は戦略上の問題と捉える見方もあり(木下二〇一九)、今なお定説をみない。
 義時追討説では、先の政子の演説は、義時個人の追討であることを、あたかも後鳥羽が幕府全体の追討を命じたかのようにすり替えたと読み解く。しかし、意図的なすり替えと断定してよいものか、なお慎重に考えたい。確かに追討を命じる文面には「義時追討」とみえるが、京方が義時追討のために鎌倉に攻め込めば、町は壊滅的な被害を避けられない。
 幕府方が都で行ったように、屋敷には火が放たれ、兵士は次々と命を落とし、人馬の死体で道が塞がったことであろう。このように考えると、義時追討と討幕に大きな差は認められない。政子や義時が官宣旨や院宣を目にしたとき、院の最終的な目的を討幕と受け取った可能性も捨てきれないのである。たとえ狙い通り、義時だけが殺害されたとしても、それで事が済むとも思えない。政子の号令の下、報復合戦が起きた可能性は十分にあるし、後鳥羽も幕府をコントロール下に置いたとて、従来の幕府体制をそのまま維持したかは疑わしい。
 後鳥羽は、頼朝の没後に幕府で内紛が相次いだことや実朝の暗殺によって源氏将軍が断絶し幕府が存続の危機に見舞われた内情をよく知っている。それだけに、遠からず幕府が瓦解することを期待していたのではないだろうか。実朝の死後、皇子の下向を拒否し、三寅の下向を不満に思っていたのも、北条氏の牛耳る幕府の存続を望まなかったからであろう。このように考えれば、幕府の崩壊、すなわち討幕を目指していた可能性もある。
 いずれにせよ、後鳥羽が自身の意のままに武士たちを繰ることを目指していたことは確かである。
-------

とのことですが(p237以下)、「京方が義時追討のために鎌倉に攻め込めば、町は壊滅的な被害を避けられない」ことは討幕説と義時追討説の対立には全く関係ない話ですね。
討幕説に言う「幕府」とは制度としての幕府、御家人の共同利益を守る組織としての幕府のことであって、幕府の様々な機能が運営される具体的な建物や、まして鎌倉という具体的な「町」とは関係ありません。
たとえ鎌倉の「屋敷には火が放たれ、兵士は次々と命を落とし、人馬の死体で道が塞がった」としても、建物は建て直せば良いだけですし、何なら別の場所に引っ越しても良い訳で、それは幕府の存続とは全く関係ありません。
重要なのは朝廷(後鳥羽)の「コントロール」が及ばない制度・組織としての幕府が存続するか否かであり、そうした独立性の高い制度・組織を認めないのならば、それは「討幕」そのものです。
義時追討説に立つ研究者も、北条義時を倒して、例えば北条時房とか三浦義村に替えればそれで十分と主張する人は稀で、何らかの「コントロール」が必要とする人が多いのですが、その「コントロール」の内実ははっきりしません。
山本氏のように「後鳥羽が自身の意のままに武士たちを繰ることを目指していた」とまで言われる人は義時追討説の研究者の中でも珍しく、これほど強度な「コントロール」を主張する山本説は完全な、純度100%の討幕説ですね。

「コントロール」の内実
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67d8fa706c0e906d93e4e3f433651dfc
「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8
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藤原能茂に関する高橋秀樹氏の勘違い

2023-10-14 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で4月3日の「田渕句美子氏「第三章 藤原秀能」(その2)」にリンクを張っておきましたが、そこで、

-------
「実者和田三郎平宗妙子也」については高橋秀樹氏『三浦一族の研究』(吉川弘文館、2016)に若干の言及があり、これが最新研究と思われるので、後で紹介します。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/71f298ad585bac459b7f3568d62fce0f

と書いていたにもかかわらず、紹介しないままでした。
半年遅れですが、当該部分を引用します。(p182以下)

-------
註 秀康の出自について、『尊卑分脈』は藤成孫のいわゆる秀郷流藤原氏としつつ、秀康の父秀宗に「実者和田三郎平宗妙子也、然而依為秀忠外孫為嫡男、仍改姓藤原相続─」の注記を付し、秀郷流藤原氏の秀忠の娘と「和田三郎平宗妙」が結婚し、生まれた子である秀宗が秀忠の養子となって嫡子に立てられ、改姓したと説明する。浅香年木『治承・寿永内乱論序説』(法政大学出版局、一九八一年)、平岡豊「藤原秀康について」(『日本歴史』五一六、一九九一年)、関幸彦『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、二〇一二年)は、この「和田三郎平宗妙」を和田義盛の弟宗実と見て、秀康が血脈的には三浦氏と同族の和田一族であったことに胤義との繋がりを求めている。
 しかし、和田宗実の後継者である娘津村尼と養子重茂の子孫、越後和田氏(三浦和田氏)の関係史料や系譜類には秀忠や秀康のことはまったく出てこない。『尊卑分脈』が秀忠の孫宗綱(父は僧俊賢)に「号和田」とあることや、秀康の基盤が河内国にあったことなどを考えると、別人の平姓を称する「和田三郎」であろう。平岡氏は、秀康の弟秀能の養子能茂の娘と三浦光村が結婚していること(『吾妻鏡』宝治元年六月十四日条)を傍証の一つとされているが、後鳥羽院の寵童出身の能茂は院の北面であるとともに、「常磐井入道大相国(藤原実氏)家祗候侍所司也」(『尊卑分脈』)であるから、この婚姻は、承久の乱後の三浦氏と西園寺家との繋がりを反映したものである。したがって、これをもって十二世紀後半であろう秀宗の時代の関係の傍証とすることはできない。なお、『尊卑分脈』が秀康の祖父・父とする秀忠・秀宗は、管見のかぎり、記録類・軍記物にも見えず、秀康の出自については『尊卑分脈』の説を含めて確証が得られない。
-------

高橋氏は「後鳥羽院の寵童出身の能茂は院の北面であるとともに、「常磐井入道大相国(藤原実氏)家祗候侍所司也」(『尊卑分脈』)」と言われますが、『尊卑分脈』の能茂に関する記述には不自然なところがあります。
この点、田渕句美子氏は『中世初期歌人の研究』において、

-------
 ところで『尊卑分脈』注記には能茂について以下のように記されている。

  童名伊王丸、主馬首、左衛門尉、母弥平左衛門尉定清女、秀能猶子、実者行願寺別当法眼
  道提子、隠岐御所御共参、出家法名西蓮、

  後鳥羽院北面西面滝口武者所、
  後嵯峨院北面大宮女院中宮之時侍始参、左衛門尉、左〔兵〕衛尉、常磐井入道大相国家祗
  候侍所司也、
  文永五年七月十六日卒、歳六十四

このうち前半部の「出家法名西蓮」までは他史料により裏付けられるのであるが、そのあとやや空白をおいて記されている後半部分は、これが能茂に関する記述を裏付ける史料は他に全くない。院の崩御後の西蓮の生活が、後掲の諸書が示すように専ら院の菩提を弔い諸国を行脚するものであることを考えれば、その西蓮が還俗して再び北面となり、後嵯峨院や西園寺実氏に仕えたというのは考え難いことである。乱後の記録類にも能茂の名は全く見ることができない。又その卒年が「文永五年七月十六日卒、歳六十四」とあるのは、久保田淳氏が前掲論文で、文永五年は一二六八年であるから、『後鳥羽院宸記』建保二年(一二一四)四月二十五日条に医王(能茂)の妻が懐妊しているとある記事と矛盾し(この年十歳ということになる)、氏が「おそらく『尊卑分脈』の享年か没年に誤りが存するのであろう」と指摘する通り、能茂の享没年とは考えられない。以上のことから、この部分は享没年に誤りが存するだけでなく、この後半部分全てが他の人物の注記なのではないだろうか。とすれば、それは誰であろうか。結論を先に言えば、それは能茂の左横(国史大系本では次項)に記される、秀茂であろうと考えられる。秀茂については、また更に別の視点も交えて、第二節で考察することとしたい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/991ca6d33e117a14d9dd7df1b14b26ef

とされていて、私は田渕説が正しいと思います。
つまり、「常磐井入道大相国(藤原実氏)家祗候侍所司也」は藤原秀能の猶子である能茂の経歴ではなく、秀能の実子である秀茂の経歴ですね。
従って、能茂の娘と三浦光村の「婚姻は、承久の乱後の三浦氏と西園寺家との繋がりを反映したもの」ではありません。
なお、「和田三郎平宗妙」を秀康・秀能・秀澄と三浦(和田)一族の結節点とする浅香・平岡・関説には、前回投稿で書いたように、世代的な面でも無理があります。
三浦義村の生年ははっきりしませんが、高橋氏は仁安三年(1168)生まれと推定されていて(p185)、この推定は説得力があります。
他方、藤原秀康は生年不詳ですが、秀能は元暦元年(1184)生まれであって、高橋氏の推定される三浦義村との年齢差は十六年です。
とすると、三浦義村・胤義兄弟と藤原秀康・秀能・秀澄が二世代違うというのはかなり不自然な話になります。
結局、「「和田三郎平宗妙」を和田義盛の弟宗実と見て、秀康が血脈的には三浦氏と同族の和田一族であったことに胤義との繋がりを求め」るのは無理が多く、この見解に従った木下竜馬氏の「後鳥羽方の中心的武将であった藤原兄弟の関連図」も誤りでしょうね。
まあ、『歴史REAL 承久の乱』(洋泉社、2019)のような一般向けの雑誌の場合、図表は編集者が勝手に入れるようなことも多いみたいなので、木下氏が「後鳥羽方の中心的武将であった藤原兄弟の関連図」を作成されたのかどうかは分かりませんが。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その6)─木下竜馬氏「後鳥羽方の中心的武将であった藤原兄弟の関連図」

2023-10-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
五つのメルクマールとは関係ありませんが、木下氏は「開戦への道① 北条義時追討の宣旨、発す!」において、

-------
 後鳥羽方が当初集めた軍勢は、千七百余騎(『吾妻鏡』『承久記』)と言われる。その面々は、藤原秀康・秀澄・秀能の兄弟、佐々木広綱、大内惟信、後藤基清、大江能範、三浦胤義、佐々木高重、安達親長、熊谷実景、佐々木経高などである。秀康兄弟のように後鳥羽が引き立てた武士もいるが、ほかは鎌倉幕府の御家人が多く、その何人かは西国の守護職をもつ武士であった。【後略】
-------

と書かれています。(p31)
そして、「後鳥羽方の中心的武将であった藤原兄弟の関連図」(p30)では、秀康に「大将軍」、秀能と秀澄に「大将」とありますが、これは『尊卑分脈』を参照されたのでしょうね。
ただ、新古今歌人として著名な秀能は、流布本・慈光寺本、そして『吾妻鏡』のいずれにおいても承久の乱での活動は全く描かれていません。
この点、田渕句美子氏は『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)の「第三章 藤原秀能」において、

-------
 しかしながら、『尊卑分脈』に、「承久三年兵乱之時、追手大将也」と記されている秀能の参戦は、『尊卑分脈』以外の史料には見えない。又、『系図纂要』に、秀康・秀澄の項にはそれぞれ、承久の乱に参戦し自害・討死したことが記されているが、秀能の項には、「承久三年於熊野出家如願」と書かれているのみであり、参戦したことは記されていない。秀能の一族では、秀康・秀澄をはじめ秀康の子秀信、また秀能自身の子秀範、従兄弟宗綱等多くが承久の乱時に戦死あるいは刑死している。しかし秀能は、乱後熊野に逃れて出家しているのである(『尊卑分脈』『系図纂要』『如願法師集』)。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e60ddc92e04715e2f8664185ea7f2a9

 秀能が『尊卑分脈』の語るように実際に「追手大将」という地位にあったとすれば、前掲の史料の中に名が見えて当然と思われるが、『尊卑分脈』以外のいずれの史料にも全く見えないのは不審である。また、京方の諸将がいずれも幕府のきびしい追及にあって、自害または処刑されているのに対し、秀能一人が死を免れていることは疑問が残る。承久の乱後、幕府は首謀者(張本)と見られる院近臣や主な武士を厳しく詮議・処罰し、首謀者と見られた葉室光親・高倉範茂・源有雅ら六人の公卿、将軍であった藤原秀康・秀澄(いずれも秀能の兄弟)、僧長厳・尊長らについては、藤原忠信と長厳の二人が流罪、他は総て処刑され、将軍でなくとも主だった武士は多くが斬られ又配流された。もし秀能が『尊卑分脈』が記すように大将軍であったならば、処刑もしくは厳罰は免れ得ないであろう。乱後助命された人々について言えば、秀能の子能茂は隠岐に供奉しており、忠信・信成父子は忠信が実朝室の兄であることから北条政子のとりなしもあって助命され、又源光行は関東方に属した親行の嘆願により助命されていて、清水寺の僧敬月が和歌の徳により助命・遠流されたと伝えられるのを除けば、各々鎌倉との強い結びつきがあっての助命であった。しかしやはり将軍クラスでの助命はあり得ないのではないか。『尊卑分脈』の「追手大将」は秀康の注記に引かれた誤りではないか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c086d3cf9b2a46acf9517acfc7a731f

と指摘されています。
私は一時期、流布本の作者が藤原秀能ではないかという妄想に囚われていて、秀能関係は相当に調べたのですが、秀能が参戦しなかったとの田渕説は間違いないと思っています。

孤独な知識人・藤原秀能について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0710c7d3316f116fb4da512b9b936eaf
流布本作者=藤原秀能との仮説は全面的に撤回します。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ab913546709680fe4350d606a965d81

なお、『尊卑分脈』の藤原秀康・秀能・秀澄関係の記述は妙に詳しい反面、不審な点も多く、私が慈光寺本の作者と考えている秀能猶子の能茂の経歴も、秀能の実子・秀茂の経歴が混在しているようです。

田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/991ca6d33e117a14d9dd7df1b14b26ef
田渕句美子氏「第三章 藤原秀能」(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e47138a28ae290a111c2d8afc34d3574

また、「後鳥羽方の中心的武将であった藤原兄弟の関連図」(p30)では、秀康・秀能・秀澄と三浦一族の関係が記されています。
これは三兄弟の父である秀宗について『尊卑分脈』に「実者和田三郎平宗妙子也」とあって、この「宗妙」が「宗実」のことだろうという浅香年木氏の解釈に基づいているのですが、この説に従うと、

 三浦義明─杉本義宗─和田宗実─藤原秀宗─秀康・秀能・秀澄

 三浦義明─三浦義澄─義村・胤義

となって、三浦義村・胤義兄弟が藤原三兄弟の祖父の世代になってしまいます。
まあ、絶対にありえない訳ではないでしょうが、ちょっと無理がありそうですね。

田渕句美子氏「第三章 藤原秀能」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/71f298ad585bac459b7f3568d62fce0f
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その5)─木下竜馬氏の場合(適用外)

2023-10-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
『歴史REAL 承久の乱』(洋泉社、2019)では木下竜馬氏が、

「乱の原因を探る 後鳥羽上皇の挙兵目的は「倒幕」か「義時追討」か?」(p22以下)
「開戦への道① 北条義時追討の宣旨、発す!」(p30以下)
「開戦への道② 鎌倉幕府はどう迎え撃ったか?」(p32以下)

の三つの記事を書かれています。
このうち、二番目の記事に、

-------
【前略】その日中に葉室光親の担当で、北条義時追討の後鳥羽方の命令(官宣旨と院宣の形式による)が全国に発せられた。ここに承久の乱の火ぶたが切られたのである。
-------

とあり(p31)、三番目の記事の冒頭に、

-------
 後鳥羽方挙兵の報は、伊賀光季や西園寺公経の使者により、五月十九日に鎌倉に伝わった。
 鎌倉に潜入していた押松という藤原秀康の下人を幕府は捕らえ、追討命令などを押収した。押松は、武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼宗政、足利義氏、北条時房、三浦義村ら東国の有力御家人に宛てた北条義時追討の院宣をもっていたという。
-------

とあるので、私は以前、

-------
「承久合戦慈光寺本妄信研究者交名」(仮称)を作成中ですが、その人数の多さにびっくり。

『歴史REAL 承久の乱』(洋泉社、2019)を見たら、木下竜馬氏も義時追討の官宣旨と院宣が両方発給されたという立場だな。
「翌五月十五日、【中略】その日中に葉室光親の担当で、北条義時追討の後鳥羽方の命令(官宣旨と院宣の形式による)が全国に発せられた」(p31)。「鎌倉に潜入していた押松という藤原秀康の下人を幕府は捕らえ、追討命令などを押収した。押松は、武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼宗政、足利義氏、北条時房、三浦義村ら東国の有力御家人に宛てた北条義時追討の院宣をもっていたという」(p32)。八人だから、これは慈光寺本。八人だけなので「ら」は変だが。

https://twitter.com/IichiroJingu/status/1625418182759677955

などとツイートしたことがあるのですが、まあ、この程度の簡単な史料紹介で「妄信」云々と騒ぐのも変でしたね。
さて、木下氏の記事のうち、一番目は長村新説の問題点が綺麗に整理されていて、分かりやすいですね。(p22)

-------
【前略】長村説の要点は以下のとおり。
①後鳥羽上皇の命令書で追討の対象としているのは、幼齢の鎌倉殿(藤原三寅=のちの将軍・頼経)や北条政子ではなく、北条義時。義時追討は倒幕と同義ではなく、明確に区別すべき。
②後鳥羽は、他の東国御家人を動員して義時追討を実現しようとした。
③義時は方便を用い、後鳥羽が幕府全体の追討を命じたかのように宣伝した。
④『吾妻鏡』や『承久記』など後代の文献は、義時らの方便に基づく「後鳥羽の目的=倒幕」という言説に影響されていった(その影響は現代まで続く)。
 長村は以上のような論理で「後鳥羽の意図は義時追討にあった」とし、鎌倉幕府や将軍の廃絶、御家人制の解体をかならずしも意図していなかったと論じたのである。この長村説は、『承久記』の研究(西島三千代ら)を批判的に継承しつつ、公武対立を自明としてきた従来の政治史を見直す動き(杉橋隆夫、野口実、河内祥輔ら)にのっとり、承久の乱をめぐる政治過程に新視点を持ち込むものだった。
 しかし、疑問点もある。問題は、「倒幕」は後鳥羽の意図ではない、と明言する点である。もちろん追討令の文面が「義時追討」であるのは動かない。だが、後鳥羽からすれば、なるべく敵は少ない方がよい。仮に幕府全体を追討対象とすると、幕府の武士全員が結束して後鳥羽に反発することになる。一部だけ(たとえば義時)の追討を命じるのが最適の解なのである。しかしそれは、後鳥羽の真意が非「倒幕」であることを必ずしも意味しない。
 たとえば、後醍醐天皇が挙兵したときの命令では、追討対象は「北条高時とその一族」であった。しかし結果として、(一定数の人士と制度が建武政権にスライドして残存するものの)鎌倉幕府は滅亡している。仮に後鳥羽の命に応じた東国武士によって義時が殺され、幕府が後鳥羽のコントロール下に置かれたとしたら、残ったものらの権益も保障されるかは怪しい。乱発生時、慈円は「義時が討伐されれば三寅の身も危うい」と案じている(「門葉記」)。義時追討命令は、幕府内の離反を招く策であって、義時追討と倒幕はたいして違わないのではないか。
 長村説は、後代の承久の乱言説を検討する上で有効である。しかし、後鳥羽の意図が非「倒幕」であったという部分が一人歩きしてしまうと、かえって政治的なるものへの理解は平板になる。「義時追討」という要素を後鳥羽の真意の次元に還元せず、両陣営の戦略という文脈で理解すべきではないだろうか。
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「コントロール」という表現は「義時追討説」の研究者が好んで用いるので、私はその内実を調べたことがありますが、きちんとした説明をしている人はいなかったですね。

「コントロール」の内実
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67d8fa706c0e906d93e4e3f433651dfc
「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8

上記の投稿をした時点では、私は『歴史REAL 承久の乱』を読んでいなかったので、木下氏の見解は知りませんでしたが、けっこう同じようなことも言っていますね。
というか、後醍醐の例などは本郷和人氏も言われていて、まあ、常識的な見方です。
「かえって政治的なるものへの理解は平板になる」云々は、私の言い方だと、

-------
長村氏は文書の些末な文言だけにこだわり、その背後にある政治過程には驚くほど鈍感です。
基本的な発想が事務方の小役人レベルで、長村氏の論文のおかげで古文書学的な研究は進展したのでしょうが、政治史についてはむしろ後退している感じですね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d387077e9ee7722ff6014ed3c25d5753

となります。
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