関氏も慈光寺本の贈答歌を無視されている訳ではなく、「『吾妻鏡』には、院がこの地から母七条院と后修明門院(重子)に献じた歌が見えている」(p133)に付された注で、
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** なお、『承久記』では後鳥羽院とこれに従った伊王佐衛門【ママ】両人との返歌の応答が語られ、あわせて母七条院への献歌のことと、七条院からの返歌が紹介されている。
神風や今一度は吹かへせ 御裳濯河の流れ絶へずは
(神風よもう一度吹いてほしい。あなた<後鳥羽院>をその風で都に戻して欲しいものです。御裳濯河の
皇統の流れが絶えることがないならば、そう願いたい)
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と書かれています。
関氏は「後鳥羽院とこれに従った伊王佐衛門【ママ】両人との返歌の応答」と書かれているので、後鳥羽院と「伊王左衛門」(藤原能茂)との間で歌の贈答があり、その贈答歌を七条院に「献歌」し、七条院が「返歌」したと解されているようです。
しかし、原文では、
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【前略】哀〔あはれ〕、都ニテハ、カゝル浪風ハ聞ザリシニ、哀ニ思食レテ、イトゞ御心細ク御袖ヲ絞テ、
都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル
伊王左衛門、
スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉
御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ、女院ノ御返シニハ、
神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881
となっていて、後鳥羽院の歌と伊王左衛門の歌は特に対応はしておらず、別個独立の歌であり、「此御歌ドモ」(複数)に対して、七条院が「御返シ」の歌を詠んだ、と解する方が自然だろうと思います。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その64)─後鳥羽院・七条院の贈答歌に参加する「伊王左衛門入道」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5eeddc00064a8a15a9a77488bf52e5a4
まあ、このあたりは岩波新大系の久保田淳氏の脚注を見てもよく分からず、歴史研究者にとっては近づき難い領域であったとは思いますが、渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)が出た以上、歴史研究者も渡邉説を踏まえた上で議論する必要があるように思われます。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その66)─「応答しない贈答歌」は誰が作ったのか
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed3eb83b741d2f72767c0c9bf3705741
渡邉氏は、
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この場面の不審はこれだけではない。この歌は、都にいる後鳥羽の母七条院に贈られ、「御返」が詠まれたとある。院の歌と七条院の歌の間には、隠岐に同行した「伊王左衛門」(能茂)の歌が挟まり、慈光寺本では七条院の返歌は二人に向けたもののように読める。しかし、現実には高貴な女院が、能茂のような臣下に直接返歌をすることはまず考えられない。よしんば返歌をしたとしても、二人に一首ずつ贈るのが贈答歌の基本である。そうした贈答歌の基本的な枠組みから、ここは外れている。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/581532859e25780fef4ee441ea4ce703
とされていますが、渡邉氏の言われる通り、実際にはこんな不自然な贈答歌はあり得ず、全体が慈光寺本作者の創作でしょうね。
なお、関氏は慈光寺本における能茂の存在に疑問を抱かれることは全くなかったようで、
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* 信実に描かせた有名な似絵(御影)は、現在も水無瀬宮に所蔵されている。形見として母の七条院殖子に贈ったとされる。『承久記』には、この時剃髪の形見もあわせ母殖子のもとに送られたとある。院の出家を同書では十日のこととする。泰時の嫡男時氏が鳥羽殿を訪れ、甲冑に身をつつみ荒々しい形相で、「君ハ流罪セサセオハシマス、トクトク出サセオハシマセ」と責めたてた。強圧的態度の前に院も勅答を余儀なくされるが、最期の望みとして寵愛していた伊王能茂との面会を願う。出家させられた能茂の姿を見て、院は自らも仁和寺の道助を導師として出家を果たす。こんな流れが語られている。ここには勝者時氏の驕慢と敗者後鳥羽の失意が文学的筆致で描写されている。運命を甘受せざるを得ない敗者の定めが活写され、『承久記』でのハイライトシーンの一つでもある。
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などと書かれていますが(p133以下)、私には当該場面の「流れ」はあまりにチグハグ、あまりに不自然で、「文学的筆致」と評価できるようなレベルではなく、「ハイライトシーン」というよりは不条理劇であり、更にはスラップスティック・コメディ のようにも思われます。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その58)─「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a204b22519ff861aada15f0e4942569
(その61)─「其時、武蔵太郎ハ流涙シテ、武蔵守殿ヘ申給フ事」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3412d6a819e9fd4004219b4ca162da01
(その62)─後鳥羽院出家の経緯と能茂の役割
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0ab4d253ecb86d173f2f9136b6f2e8
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** なお、『承久記』では後鳥羽院とこれに従った伊王佐衛門【ママ】両人との返歌の応答が語られ、あわせて母七条院への献歌のことと、七条院からの返歌が紹介されている。
神風や今一度は吹かへせ 御裳濯河の流れ絶へずは
(神風よもう一度吹いてほしい。あなた<後鳥羽院>をその風で都に戻して欲しいものです。御裳濯河の
皇統の流れが絶えることがないならば、そう願いたい)
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と書かれています。
関氏は「後鳥羽院とこれに従った伊王佐衛門【ママ】両人との返歌の応答」と書かれているので、後鳥羽院と「伊王左衛門」(藤原能茂)との間で歌の贈答があり、その贈答歌を七条院に「献歌」し、七条院が「返歌」したと解されているようです。
しかし、原文では、
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【前略】哀〔あはれ〕、都ニテハ、カゝル浪風ハ聞ザリシニ、哀ニ思食レテ、イトゞ御心細ク御袖ヲ絞テ、
都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル
伊王左衛門、
スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉
御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ、女院ノ御返シニハ、
神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881
となっていて、後鳥羽院の歌と伊王左衛門の歌は特に対応はしておらず、別個独立の歌であり、「此御歌ドモ」(複数)に対して、七条院が「御返シ」の歌を詠んだ、と解する方が自然だろうと思います。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その64)─後鳥羽院・七条院の贈答歌に参加する「伊王左衛門入道」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5eeddc00064a8a15a9a77488bf52e5a4
まあ、このあたりは岩波新大系の久保田淳氏の脚注を見てもよく分からず、歴史研究者にとっては近づき難い領域であったとは思いますが、渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)が出た以上、歴史研究者も渡邉説を踏まえた上で議論する必要があるように思われます。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その66)─「応答しない贈答歌」は誰が作ったのか
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed3eb83b741d2f72767c0c9bf3705741
渡邉氏は、
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この場面の不審はこれだけではない。この歌は、都にいる後鳥羽の母七条院に贈られ、「御返」が詠まれたとある。院の歌と七条院の歌の間には、隠岐に同行した「伊王左衛門」(能茂)の歌が挟まり、慈光寺本では七条院の返歌は二人に向けたもののように読める。しかし、現実には高貴な女院が、能茂のような臣下に直接返歌をすることはまず考えられない。よしんば返歌をしたとしても、二人に一首ずつ贈るのが贈答歌の基本である。そうした贈答歌の基本的な枠組みから、ここは外れている。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/581532859e25780fef4ee441ea4ce703
とされていますが、渡邉氏の言われる通り、実際にはこんな不自然な贈答歌はあり得ず、全体が慈光寺本作者の創作でしょうね。
なお、関氏は慈光寺本における能茂の存在に疑問を抱かれることは全くなかったようで、
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* 信実に描かせた有名な似絵(御影)は、現在も水無瀬宮に所蔵されている。形見として母の七条院殖子に贈ったとされる。『承久記』には、この時剃髪の形見もあわせ母殖子のもとに送られたとある。院の出家を同書では十日のこととする。泰時の嫡男時氏が鳥羽殿を訪れ、甲冑に身をつつみ荒々しい形相で、「君ハ流罪セサセオハシマス、トクトク出サセオハシマセ」と責めたてた。強圧的態度の前に院も勅答を余儀なくされるが、最期の望みとして寵愛していた伊王能茂との面会を願う。出家させられた能茂の姿を見て、院は自らも仁和寺の道助を導師として出家を果たす。こんな流れが語られている。ここには勝者時氏の驕慢と敗者後鳥羽の失意が文学的筆致で描写されている。運命を甘受せざるを得ない敗者の定めが活写され、『承久記』でのハイライトシーンの一つでもある。
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などと書かれていますが(p133以下)、私には当該場面の「流れ」はあまりにチグハグ、あまりに不自然で、「文学的筆致」と評価できるようなレベルではなく、「ハイライトシーン」というよりは不条理劇であり、更にはスラップスティック・コメディ のようにも思われます。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その58)─「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a204b22519ff861aada15f0e4942569
(その61)─「其時、武蔵太郎ハ流涙シテ、武蔵守殿ヘ申給フ事」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3412d6a819e9fd4004219b4ca162da01
(その62)─後鳥羽院出家の経緯と能茂の役割
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0ab4d253ecb86d173f2f9136b6f2e8
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