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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その6)─木下竜馬氏「後鳥羽方の中心的武将であった藤原兄弟の関連図」

2023-10-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
五つのメルクマールとは関係ありませんが、木下氏は「開戦への道① 北条義時追討の宣旨、発す!」において、

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 後鳥羽方が当初集めた軍勢は、千七百余騎(『吾妻鏡』『承久記』)と言われる。その面々は、藤原秀康・秀澄・秀能の兄弟、佐々木広綱、大内惟信、後藤基清、大江能範、三浦胤義、佐々木高重、安達親長、熊谷実景、佐々木経高などである。秀康兄弟のように後鳥羽が引き立てた武士もいるが、ほかは鎌倉幕府の御家人が多く、その何人かは西国の守護職をもつ武士であった。【後略】
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と書かれています。(p31)
そして、「後鳥羽方の中心的武将であった藤原兄弟の関連図」(p30)では、秀康に「大将軍」、秀能と秀澄に「大将」とありますが、これは『尊卑分脈』を参照されたのでしょうね。
ただ、新古今歌人として著名な秀能は、流布本・慈光寺本、そして『吾妻鏡』のいずれにおいても承久の乱での活動は全く描かれていません。
この点、田渕句美子氏は『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)の「第三章 藤原秀能」において、

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 しかしながら、『尊卑分脈』に、「承久三年兵乱之時、追手大将也」と記されている秀能の参戦は、『尊卑分脈』以外の史料には見えない。又、『系図纂要』に、秀康・秀澄の項にはそれぞれ、承久の乱に参戦し自害・討死したことが記されているが、秀能の項には、「承久三年於熊野出家如願」と書かれているのみであり、参戦したことは記されていない。秀能の一族では、秀康・秀澄をはじめ秀康の子秀信、また秀能自身の子秀範、従兄弟宗綱等多くが承久の乱時に戦死あるいは刑死している。しかし秀能は、乱後熊野に逃れて出家しているのである(『尊卑分脈』『系図纂要』『如願法師集』)。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e60ddc92e04715e2f8664185ea7f2a9

 秀能が『尊卑分脈』の語るように実際に「追手大将」という地位にあったとすれば、前掲の史料の中に名が見えて当然と思われるが、『尊卑分脈』以外のいずれの史料にも全く見えないのは不審である。また、京方の諸将がいずれも幕府のきびしい追及にあって、自害または処刑されているのに対し、秀能一人が死を免れていることは疑問が残る。承久の乱後、幕府は首謀者(張本)と見られる院近臣や主な武士を厳しく詮議・処罰し、首謀者と見られた葉室光親・高倉範茂・源有雅ら六人の公卿、将軍であった藤原秀康・秀澄(いずれも秀能の兄弟)、僧長厳・尊長らについては、藤原忠信と長厳の二人が流罪、他は総て処刑され、将軍でなくとも主だった武士は多くが斬られ又配流された。もし秀能が『尊卑分脈』が記すように大将軍であったならば、処刑もしくは厳罰は免れ得ないであろう。乱後助命された人々について言えば、秀能の子能茂は隠岐に供奉しており、忠信・信成父子は忠信が実朝室の兄であることから北条政子のとりなしもあって助命され、又源光行は関東方に属した親行の嘆願により助命されていて、清水寺の僧敬月が和歌の徳により助命・遠流されたと伝えられるのを除けば、各々鎌倉との強い結びつきがあっての助命であった。しかしやはり将軍クラスでの助命はあり得ないのではないか。『尊卑分脈』の「追手大将」は秀康の注記に引かれた誤りではないか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c086d3cf9b2a46acf9517acfc7a731f

と指摘されています。
私は一時期、流布本の作者が藤原秀能ではないかという妄想に囚われていて、秀能関係は相当に調べたのですが、秀能が参戦しなかったとの田渕説は間違いないと思っています。

孤独な知識人・藤原秀能について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0710c7d3316f116fb4da512b9b936eaf
流布本作者=藤原秀能との仮説は全面的に撤回します。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ab913546709680fe4350d606a965d81

なお、『尊卑分脈』の藤原秀康・秀能・秀澄関係の記述は妙に詳しい反面、不審な点も多く、私が慈光寺本の作者と考えている秀能猶子の能茂の経歴も、秀能の実子・秀茂の経歴が混在しているようです。

田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/991ca6d33e117a14d9dd7df1b14b26ef
田渕句美子氏「第三章 藤原秀能」(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e47138a28ae290a111c2d8afc34d3574

また、「後鳥羽方の中心的武将であった藤原兄弟の関連図」(p30)では、秀康・秀能・秀澄と三浦一族の関係が記されています。
これは三兄弟の父である秀宗について『尊卑分脈』に「実者和田三郎平宗妙子也」とあって、この「宗妙」が「宗実」のことだろうという浅香年木氏の解釈に基づいているのですが、この説に従うと、

 三浦義明─杉本義宗─和田宗実─藤原秀宗─秀康・秀能・秀澄

 三浦義明─三浦義澄─義村・胤義

となって、三浦義村・胤義兄弟が藤原三兄弟の祖父の世代になってしまいます。
まあ、絶対にありえない訳ではないでしょうが、ちょっと無理がありそうですね。

田渕句美子氏「第三章 藤原秀能」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/71f298ad585bac459b7f3568d62fce0f
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その5)─木下竜馬氏の場合(適用外)

2023-10-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
『歴史REAL 承久の乱』(洋泉社、2019)では木下竜馬氏が、

「乱の原因を探る 後鳥羽上皇の挙兵目的は「倒幕」か「義時追討」か?」(p22以下)
「開戦への道① 北条義時追討の宣旨、発す!」(p30以下)
「開戦への道② 鎌倉幕府はどう迎え撃ったか?」(p32以下)

の三つの記事を書かれています。
このうち、二番目の記事に、

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【前略】その日中に葉室光親の担当で、北条義時追討の後鳥羽方の命令(官宣旨と院宣の形式による)が全国に発せられた。ここに承久の乱の火ぶたが切られたのである。
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とあり(p31)、三番目の記事の冒頭に、

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 後鳥羽方挙兵の報は、伊賀光季や西園寺公経の使者により、五月十九日に鎌倉に伝わった。
 鎌倉に潜入していた押松という藤原秀康の下人を幕府は捕らえ、追討命令などを押収した。押松は、武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼宗政、足利義氏、北条時房、三浦義村ら東国の有力御家人に宛てた北条義時追討の院宣をもっていたという。
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とあるので、私は以前、

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「承久合戦慈光寺本妄信研究者交名」(仮称)を作成中ですが、その人数の多さにびっくり。

『歴史REAL 承久の乱』(洋泉社、2019)を見たら、木下竜馬氏も義時追討の官宣旨と院宣が両方発給されたという立場だな。
「翌五月十五日、【中略】その日中に葉室光親の担当で、北条義時追討の後鳥羽方の命令(官宣旨と院宣の形式による)が全国に発せられた」(p31)。「鎌倉に潜入していた押松という藤原秀康の下人を幕府は捕らえ、追討命令などを押収した。押松は、武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼宗政、足利義氏、北条時房、三浦義村ら東国の有力御家人に宛てた北条義時追討の院宣をもっていたという」(p32)。八人だから、これは慈光寺本。八人だけなので「ら」は変だが。

https://twitter.com/IichiroJingu/status/1625418182759677955

などとツイートしたことがあるのですが、まあ、この程度の簡単な史料紹介で「妄信」云々と騒ぐのも変でしたね。
さて、木下氏の記事のうち、一番目は長村新説の問題点が綺麗に整理されていて、分かりやすいですね。(p22)

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【前略】長村説の要点は以下のとおり。
①後鳥羽上皇の命令書で追討の対象としているのは、幼齢の鎌倉殿(藤原三寅=のちの将軍・頼経)や北条政子ではなく、北条義時。義時追討は倒幕と同義ではなく、明確に区別すべき。
②後鳥羽は、他の東国御家人を動員して義時追討を実現しようとした。
③義時は方便を用い、後鳥羽が幕府全体の追討を命じたかのように宣伝した。
④『吾妻鏡』や『承久記』など後代の文献は、義時らの方便に基づく「後鳥羽の目的=倒幕」という言説に影響されていった(その影響は現代まで続く)。
 長村は以上のような論理で「後鳥羽の意図は義時追討にあった」とし、鎌倉幕府や将軍の廃絶、御家人制の解体をかならずしも意図していなかったと論じたのである。この長村説は、『承久記』の研究(西島三千代ら)を批判的に継承しつつ、公武対立を自明としてきた従来の政治史を見直す動き(杉橋隆夫、野口実、河内祥輔ら)にのっとり、承久の乱をめぐる政治過程に新視点を持ち込むものだった。
 しかし、疑問点もある。問題は、「倒幕」は後鳥羽の意図ではない、と明言する点である。もちろん追討令の文面が「義時追討」であるのは動かない。だが、後鳥羽からすれば、なるべく敵は少ない方がよい。仮に幕府全体を追討対象とすると、幕府の武士全員が結束して後鳥羽に反発することになる。一部だけ(たとえば義時)の追討を命じるのが最適の解なのである。しかしそれは、後鳥羽の真意が非「倒幕」であることを必ずしも意味しない。
 たとえば、後醍醐天皇が挙兵したときの命令では、追討対象は「北条高時とその一族」であった。しかし結果として、(一定数の人士と制度が建武政権にスライドして残存するものの)鎌倉幕府は滅亡している。仮に後鳥羽の命に応じた東国武士によって義時が殺され、幕府が後鳥羽のコントロール下に置かれたとしたら、残ったものらの権益も保障されるかは怪しい。乱発生時、慈円は「義時が討伐されれば三寅の身も危うい」と案じている(「門葉記」)。義時追討命令は、幕府内の離反を招く策であって、義時追討と倒幕はたいして違わないのではないか。
 長村説は、後代の承久の乱言説を検討する上で有効である。しかし、後鳥羽の意図が非「倒幕」であったという部分が一人歩きしてしまうと、かえって政治的なるものへの理解は平板になる。「義時追討」という要素を後鳥羽の真意の次元に還元せず、両陣営の戦略という文脈で理解すべきではないだろうか。
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「コントロール」という表現は「義時追討説」の研究者が好んで用いるので、私はその内実を調べたことがありますが、きちんとした説明をしている人はいなかったですね。

「コントロール」の内実
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67d8fa706c0e906d93e4e3f433651dfc
「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8

上記の投稿をした時点では、私は『歴史REAL 承久の乱』を読んでいなかったので、木下氏の見解は知りませんでしたが、けっこう同じようなことも言っていますね。
というか、後醍醐の例などは本郷和人氏も言われていて、まあ、常識的な見方です。
「かえって政治的なるものへの理解は平板になる」云々は、私の言い方だと、

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長村氏は文書の些末な文言だけにこだわり、その背後にある政治過程には驚くほど鈍感です。
基本的な発想が事務方の小役人レベルで、長村氏の論文のおかげで古文書学的な研究は進展したのでしょうが、政治史についてはむしろ後退している感じですね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d387077e9ee7722ff6014ed3c25d5753

となります。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その4)─勅使河原拓也氏の書評「高橋秀樹著『三浦一族の研究』」

2023-10-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
五つのメルクマールのうち、(1)と(2)は明らかに権門体制論との関連性が予想されますが、(3)~(5)は微妙ですね。
例えば「(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか」は目崎徳衛氏のケースを念頭において設定しましたが、目崎氏は権門体制論とは無縁の方です。

目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その10)─「軍記物『承久記』の圧巻というべきこの場面は、お涙頂戴の人情話なのか」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8aa2bf3b9141aead9d91469b7c5098c9
目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その11)─「院の乗物は「逆輿」である」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c261120149a5dfe7eafc5b1590ff81cd

また、(5)も、慈光寺本の杭瀬河合戦に特に疑いを持たないからと言って、それが権門体制論者か否かと結びつく訳でもなさそうです。
例えば、勅使河原拓也氏の書評「高橋秀樹著『三浦一族の研究』」(『日本史研究』657号、2017)には次のような記述があります。(p40以下)

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 とりとめのない疑問点を連ねたが、最後に本書全体の課題の部分に言及しておく。
 序章にて著者は、本書を中世社会論・中世国家論・中世史料論の研究書として著したと述べている。このうち、中世国家論について私見を述べたい。最も関連するのは第七章「三浦義村と中世国家」だろう。前述した通り、義村が幕府だけでなく朝廷・中央寺社にもまたがって活動しており、中世国家という枠組みで見なければ、義村を捉えきれないことを示している。政治史として興味深い内容である。
 だが、中世国家論という観点でみたとき、気になるのは序章を含めて従来の中世国家論についての研究の紹介がほとんどないことである。本章では「朝廷や中央寺社を含めた中世国家という枠組み」(一八四頁)という概念が特に何の説明もなく使われ、ともすると中世国家の存在形態をめぐる見解の相違というものが存在しないかのようにすら見受けられる。しかし、もちろん中世国家論には多くの蓄積がある。そのうち、鎌倉時代に関して言えば今日でも基軸をなしているのが権門体制論と東国国家論という対立的な二つの捉え方であろう。
 これらについて著者の考えをみてみると、先に示したような中世国家の捉え方をしていることや、鎌倉幕府を「院や天皇のもとで国家権力を直接的に分掌する権力体」である「権門」と考えている(二一三頁)ことからすれば、権門体制論よりの国家像を持っていると思われる。一方の東国国家論に対してはどうだろうか。鎌倉幕府という枠組みを中世国家と対比していることからすれば、幕府を東国における独立国家と捉える同論に対しては批判的な眼差しを向けていると考えられる。そうであれば、このような中世国家論に対する著者の立場を(権門体制論を全面的に肯定しているのかも含めて)明確にする必要があったのではないだろうか。その点に触れずに漠然と権門体制論的国家を自明の前提とした結果、素材を提示しつつも中世国家自体の議論に踏み込まなかったのは惜しまれる。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
私も高橋著を読んで、高橋氏が「漠然と権門体制論的国家を自明の前提と」されている点には大変な不満を抱きました。

高橋秀樹氏『三浦一族の研究』の「本書の課題」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7e80a4adbf7ee279d940a0618604de9f

高橋氏は同書で「朝廷・幕府を含む中世国家や中世社会」(p12)や「武家社会も包み込んでいる天皇を頂点とした身分体系」(同)といった表現を用いられていて、高橋氏が権門体制論に立脚されていることは明らかです。
ただ、権門体制論といっても、その創始者である黒田俊雄の理論は「戦後歴史学」の産物(ないし奇形種)であって、黒田が終生信奉した史的唯物論・マルクス主義の野性的な臭みが強いものです。
そのため、学習院大学の安田元久ゼミの出身で(「あとがき」)、長く教科書調査官として文部科学省に勤務された高橋氏とは思想的に合わない部分もあるはずで、高橋氏が依拠する権門体制論は、おそらく上横手雅敬氏によってマイルドに蒸留された権門体制論でしょうね。
ま、それはともかく、勅使河原氏の書評の続きです。

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著者によれば、承久の乱は「後鳥羽上皇があるべき権門体制下における役割のみを担う幕府に作り替えるために、北条義時を排斥しようと」したものであり、その義時のかわりに据えようとしたのが義村であったという。また、寛元の政変における九条道家・頼経も同様の意図をもって三浦氏に接近していた(第九章二三五・二三六頁)。京都の為政者や摂家将軍からすれば、幕府を権門体制から逸脱させようとする北条氏に対し、義村ら三浦氏こそが権門体制的な幕府を象徴する存在であった。幕府の権門体制的な側面を論ずるにあたって三浦氏は格好の素材であると言え、それをもとに、より動態的な独自の国家論を展開することもできたと思われる。
 三浦一族を主題とする本書に対してこのような注文をつけるのは筋違いとも思う。だが、序章の課題に中世国家論をあげ、章題にも中世国家と掲げる以上、中世国家という概念の取り扱いには、より慎重を期すべきだったのではないだろうか。
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ということで、私は基本的に勅使河原氏の見解に賛成しますが、高橋氏自身はおそらく、権門体制論と東国国家論の是非など既に解決済みの古臭い問題であり、自分は権門体制論を前提とした上で、より先端的な課題に取り組んでいるのだ、ということなのでしょうね。
さて、私は勅使河原氏の論文を読んでいないので、勅使河原氏自身が権門体制論者か東国国家論者か、あるいは別の中世国家論を構想されているのかは知りません。
ただ、少なくとも勅使河原氏の場合は、(5)の問題は中世国家論とは無関係ですね。
とすると、(1)~(5)を一纏めにしたのは方法的に適切ではなかったのかもしれませんが、とりあえずは「慈光寺本妄信歴史研究者交名」自体は少し大きめに広げておいて、その中で、各メルクマールごとに研究者の特徴を分析する、という方針で始めようと思います。
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