五つのメルクマールとは関係ありませんが、木下氏は「開戦への道① 北条義時追討の宣旨、発す!」において、
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後鳥羽方が当初集めた軍勢は、千七百余騎(『吾妻鏡』『承久記』)と言われる。その面々は、藤原秀康・秀澄・秀能の兄弟、佐々木広綱、大内惟信、後藤基清、大江能範、三浦胤義、佐々木高重、安達親長、熊谷実景、佐々木経高などである。秀康兄弟のように後鳥羽が引き立てた武士もいるが、ほかは鎌倉幕府の御家人が多く、その何人かは西国の守護職をもつ武士であった。【後略】
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と書かれています。(p31)
そして、「後鳥羽方の中心的武将であった藤原兄弟の関連図」(p30)では、秀康に「大将軍」、秀能と秀澄に「大将」とありますが、これは『尊卑分脈』を参照されたのでしょうね。
ただ、新古今歌人として著名な秀能は、流布本・慈光寺本、そして『吾妻鏡』のいずれにおいても承久の乱での活動は全く描かれていません。
この点、田渕句美子氏は『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)の「第三章 藤原秀能」において、
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しかしながら、『尊卑分脈』に、「承久三年兵乱之時、追手大将也」と記されている秀能の参戦は、『尊卑分脈』以外の史料には見えない。又、『系図纂要』に、秀康・秀澄の項にはそれぞれ、承久の乱に参戦し自害・討死したことが記されているが、秀能の項には、「承久三年於熊野出家如願」と書かれているのみであり、参戦したことは記されていない。秀能の一族では、秀康・秀澄をはじめ秀康の子秀信、また秀能自身の子秀範、従兄弟宗綱等多くが承久の乱時に戦死あるいは刑死している。しかし秀能は、乱後熊野に逃れて出家しているのである(『尊卑分脈』『系図纂要』『如願法師集』)。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e60ddc92e04715e2f8664185ea7f2a9
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後鳥羽方が当初集めた軍勢は、千七百余騎(『吾妻鏡』『承久記』)と言われる。その面々は、藤原秀康・秀澄・秀能の兄弟、佐々木広綱、大内惟信、後藤基清、大江能範、三浦胤義、佐々木高重、安達親長、熊谷実景、佐々木経高などである。秀康兄弟のように後鳥羽が引き立てた武士もいるが、ほかは鎌倉幕府の御家人が多く、その何人かは西国の守護職をもつ武士であった。【後略】
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と書かれています。(p31)
そして、「後鳥羽方の中心的武将であった藤原兄弟の関連図」(p30)では、秀康に「大将軍」、秀能と秀澄に「大将」とありますが、これは『尊卑分脈』を参照されたのでしょうね。
ただ、新古今歌人として著名な秀能は、流布本・慈光寺本、そして『吾妻鏡』のいずれにおいても承久の乱での活動は全く描かれていません。
この点、田渕句美子氏は『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)の「第三章 藤原秀能」において、
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しかしながら、『尊卑分脈』に、「承久三年兵乱之時、追手大将也」と記されている秀能の参戦は、『尊卑分脈』以外の史料には見えない。又、『系図纂要』に、秀康・秀澄の項にはそれぞれ、承久の乱に参戦し自害・討死したことが記されているが、秀能の項には、「承久三年於熊野出家如願」と書かれているのみであり、参戦したことは記されていない。秀能の一族では、秀康・秀澄をはじめ秀康の子秀信、また秀能自身の子秀範、従兄弟宗綱等多くが承久の乱時に戦死あるいは刑死している。しかし秀能は、乱後熊野に逃れて出家しているのである(『尊卑分脈』『系図纂要』『如願法師集』)。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e60ddc92e04715e2f8664185ea7f2a9
秀能が『尊卑分脈』の語るように実際に「追手大将」という地位にあったとすれば、前掲の史料の中に名が見えて当然と思われるが、『尊卑分脈』以外のいずれの史料にも全く見えないのは不審である。また、京方の諸将がいずれも幕府のきびしい追及にあって、自害または処刑されているのに対し、秀能一人が死を免れていることは疑問が残る。承久の乱後、幕府は首謀者(張本)と見られる院近臣や主な武士を厳しく詮議・処罰し、首謀者と見られた葉室光親・高倉範茂・源有雅ら六人の公卿、将軍であった藤原秀康・秀澄(いずれも秀能の兄弟)、僧長厳・尊長らについては、藤原忠信と長厳の二人が流罪、他は総て処刑され、将軍でなくとも主だった武士は多くが斬られ又配流された。もし秀能が『尊卑分脈』が記すように大将軍であったならば、処刑もしくは厳罰は免れ得ないであろう。乱後助命された人々について言えば、秀能の子能茂は隠岐に供奉しており、忠信・信成父子は忠信が実朝室の兄であることから北条政子のとりなしもあって助命され、又源光行は関東方に属した親行の嘆願により助命されていて、清水寺の僧敬月が和歌の徳により助命・遠流されたと伝えられるのを除けば、各々鎌倉との強い結びつきがあっての助命であった。しかしやはり将軍クラスでの助命はあり得ないのではないか。『尊卑分脈』の「追手大将」は秀康の注記に引かれた誤りではないか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c086d3cf9b2a46acf9517acfc7a731f
と指摘されています。
私は一時期、流布本の作者が藤原秀能ではないかという妄想に囚われていて、秀能関係は相当に調べたのですが、秀能が参戦しなかったとの田渕説は間違いないと思っています。
孤独な知識人・藤原秀能について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0710c7d3316f116fb4da512b9b936eaf
流布本作者=藤原秀能との仮説は全面的に撤回します。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ab913546709680fe4350d606a965d81
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ab913546709680fe4350d606a965d81
なお、『尊卑分脈』の藤原秀康・秀能・秀澄関係の記述は妙に詳しい反面、不審な点も多く、私が慈光寺本の作者と考えている秀能猶子の能茂の経歴も、秀能の実子・秀茂の経歴が混在しているようです。
田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/991ca6d33e117a14d9dd7df1b14b26ef
田渕句美子氏「第三章 藤原秀能」(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e47138a28ae290a111c2d8afc34d3574
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e47138a28ae290a111c2d8afc34d3574
また、「後鳥羽方の中心的武将であった藤原兄弟の関連図」(p30)では、秀康・秀能・秀澄と三浦一族の関係が記されています。
これは三兄弟の父である秀宗について『尊卑分脈』に「実者和田三郎平宗妙子也」とあって、この「宗妙」が「宗実」のことだろうという浅香年木氏の解釈に基づいているのですが、この説に従うと、
三浦義明─杉本義宗─和田宗実─藤原秀宗─秀康・秀能・秀澄
三浦義明─三浦義澄─義村・胤義
となって、三浦義村・胤義兄弟が藤原三兄弟の祖父の世代になってしまいます。
まあ、絶対にありえない訳ではないでしょうが、ちょっと無理がありそうですね。
田渕句美子氏「第三章 藤原秀能」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/71f298ad585bac459b7f3568d62fce0f