前回投稿で引用した部分に含まれる「公家・寺家の立場からその叡智を傾けて武家の国家的意義づけを試みた」は、注(19)を見ると黒田俊雄自身の表現です。(「日本中世の国家と天皇」『黒田俊雄著作集』第一巻、法蔵館、1994、初出1963)
また、「というよりも、むしろ、黒田の権門体制論は、のちに『愚管抄』という史書に結実する慈円の歴史像に着想を得ているのではなかろうか」に付された注(20)には、
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(20)黒田俊雄「鎌倉幕府論覚書」(前掲注(1)黒田著、初出一九六四年)二〇〇頁も、当時の支配階級による権門体制の希求を慈円の思想に見出す。権門体制論といえば北条泰時・九条道家期の薪・大住堺相論の事例研究が有名だが、それを扱った黒田俊雄「鎌倉時代の国家機構─薪・大住両荘の争乱を中心に─」(前掲注(1)著作集所収)の初出は一九六七年である。黒田の着想の原点は、後鳥羽院政期にあったと考える。戦後の『愚管抄』研究の出発点ともいえる前掲注(16)赤松著「はじめに」には、黒田俊雄・勢津子夫妻が同書原稿の取揃清書を行ったと書かれており、黒田の慈円理解・権門体制論を考える上で参考になる。なお、慈円の影響については、国文学者の兵藤裕己も示唆している(「対談 歴史の語り方をめぐって」『文学』三巻四号、二〇〇二年、一九頁)。
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とあります。
なお、「赤松著」とは『鎌倉仏教の研究』(平楽寺書店、1957)です。
さて、黒田俊雄の権門体制論は慈円から着想を得たのではないか、という佐藤新説を知って、私自身は積年の疑問が氷解したように感じました。
また、佐藤新説は、権門体制論者のみならず中世前期の研究者の多くに甚大な影響を与えるだろうと考えた私は、暫らく中世史学界の反応を窺っていたのですが、『史学雑誌』『日本史研究』『歴史学研究』『歴史評論』等をときどき図書館で眺める程度の私には、佐藤新説への特段の反応は見あたりませんでした。
そこで先日、佐藤氏にツイッターで直接聞いてみたところ、積極的な賛同がないばかりか批判もなく、要するに全く無視されているとのことだったので、ちょっと吃驚しました。
私としては、この問題で、佐藤氏を基調講演者とし、東西の研究者を集めたシンポジウムくらいあってもよさそうに思うのですが、一体どうなっているのでしょうか。
ま、そんなことを私が悲憤慷慨しても仕方ないので、佐藤論文の続きをもう少し見て行きます。(p7以下)
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諸国守護という将軍像は慈円の独創ではない。よくいわれるように、源頼朝は内乱中より、諸国で蜂起した武士勢力の中で自らが主導権を握るために、後白河院のために朝敵と戦うという政治的アピールを繰り返していた。内乱終結後、建久元年(一一九〇)に上洛した折、頼朝は摂政九条兼実と面談し、「朝の大将軍」という自己規定を示した。翌建久二年三月二十二日の新制は、幕府を武家権門として位置づけ、鎌倉時代の基本的な国制を示すものであるが、朝廷との関係構築のために頼朝の側から提示された位置づけであった。兼実の弟慈円の夢想記には、頼朝の自己主張を王権神話に取り込んだ面がある。
幕府の地頭補任が朝廷の勅許に基づくものであるという「夢想記」にみえる論理もまた、慈円の独創ではなく、武家の側で生まれていた歴史意識でもあった(「但聊~云々」の部分に注目)。頼朝というカリスマの死後、鎌倉幕府は内紛が続いた。慈円が前述の夢想を得た建仁三年は幕府政治史の転換点であった。同年八月、危篤に陥った二代将軍頼家は、「関西三十八ケ国地頭職」を弟千幡(実朝)に、「関東二十八ケ国地頭」ならびに「惣守護職」を息子一幡に譲ろうとしたが(『吾妻鏡』建仁三年八月二七日条)、九月に比企氏の変が起こり、頼家は外祖父北条時政によって幽閉され、のちに謀殺された。九月七日、弟の実朝が家督承継とともに征夷大将軍に補任され、「実朝」の名を後鳥羽院から与えられた。頼朝の段階では征夷大将軍という官職が武家の棟梁の地位を示すという認識は成立していなかった。だが、クーデターによる代替わりという政治的混乱を背景にして、朝廷から征夷大将軍に補任されるというかたちで、実朝による将軍家の家督継承を権威づけようとしたのであろう。その後、承元三年の段階で記された「夢想記」の一文にみるように、こうした幕府自身の混乱を背景にして、諸国地頭の勅許という歴史像を読み替えて、将軍は(天皇の)宝剣であり、天皇から授権(勅許)を受けた存在であるという論理を慈円は生み出したのではなかろうか。とすれば、それ自体は王権の危機という意識に基づくものであったが、武家の側の危機をも踏まえたものでもあり、決して貴族の側の一方的な「願望」ではなかったのではなかろうか。
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「第一節 慈円の構想と権門体制」はこれで終りです。