学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「権門体制論」の出生の謎(その4)

2023-02-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

前回投稿で引用した部分に含まれる「公家・寺家の立場からその叡智を傾けて武家の国家的意義づけを試みた」は、注(19)を見ると黒田俊雄自身の表現です。(「日本中世の国家と天皇」『黒田俊雄著作集』第一巻、法蔵館、1994、初出1963)
また、「というよりも、むしろ、黒田の権門体制論は、のちに『愚管抄』という史書に結実する慈円の歴史像に着想を得ているのではなかろうか」に付された注(20)には、

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(20)黒田俊雄「鎌倉幕府論覚書」(前掲注(1)黒田著、初出一九六四年)二〇〇頁も、当時の支配階級による権門体制の希求を慈円の思想に見出す。権門体制論といえば北条泰時・九条道家期の薪・大住堺相論の事例研究が有名だが、それを扱った黒田俊雄「鎌倉時代の国家機構─薪・大住両荘の争乱を中心に─」(前掲注(1)著作集所収)の初出は一九六七年である。黒田の着想の原点は、後鳥羽院政期にあったと考える。戦後の『愚管抄』研究の出発点ともいえる前掲注(16)赤松著「はじめに」には、黒田俊雄・勢津子夫妻が同書原稿の取揃清書を行ったと書かれており、黒田の慈円理解・権門体制論を考える上で参考になる。なお、慈円の影響については、国文学者の兵藤裕己も示唆している(「対談 歴史の語り方をめぐって」『文学』三巻四号、二〇〇二年、一九頁)。
-------

とあります。
なお、「赤松著」とは『鎌倉仏教の研究』(平楽寺書店、1957)です。
さて、黒田俊雄の権門体制論は慈円から着想を得たのではないか、という佐藤新説を知って、私自身は積年の疑問が氷解したように感じました。
また、佐藤新説は、権門体制論者のみならず中世前期の研究者の多くに甚大な影響を与えるだろうと考えた私は、暫らく中世史学界の反応を窺っていたのですが、『史学雑誌』『日本史研究』『歴史学研究』『歴史評論』等をときどき図書館で眺める程度の私には、佐藤新説への特段の反応は見あたりませんでした。
そこで先日、佐藤氏にツイッターで直接聞いてみたところ、積極的な賛同がないばかりか批判もなく、要するに全く無視されているとのことだったので、ちょっと吃驚しました。
私としては、この問題で、佐藤氏を基調講演者とし、東西の研究者を集めたシンポジウムくらいあってもよさそうに思うのですが、一体どうなっているのでしょうか。
ま、そんなことを私が悲憤慷慨しても仕方ないので、佐藤論文の続きをもう少し見て行きます。(p7以下)

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 諸国守護という将軍像は慈円の独創ではない。よくいわれるように、源頼朝は内乱中より、諸国で蜂起した武士勢力の中で自らが主導権を握るために、後白河院のために朝敵と戦うという政治的アピールを繰り返していた。内乱終結後、建久元年(一一九〇)に上洛した折、頼朝は摂政九条兼実と面談し、「朝の大将軍」という自己規定を示した。翌建久二年三月二十二日の新制は、幕府を武家権門として位置づけ、鎌倉時代の基本的な国制を示すものであるが、朝廷との関係構築のために頼朝の側から提示された位置づけであった。兼実の弟慈円の夢想記には、頼朝の自己主張を王権神話に取り込んだ面がある。
 幕府の地頭補任が朝廷の勅許に基づくものであるという「夢想記」にみえる論理もまた、慈円の独創ではなく、武家の側で生まれていた歴史意識でもあった(「但聊~云々」の部分に注目)。頼朝というカリスマの死後、鎌倉幕府は内紛が続いた。慈円が前述の夢想を得た建仁三年は幕府政治史の転換点であった。同年八月、危篤に陥った二代将軍頼家は、「関西三十八ケ国地頭職」を弟千幡(実朝)に、「関東二十八ケ国地頭」ならびに「惣守護職」を息子一幡に譲ろうとしたが(『吾妻鏡』建仁三年八月二七日条)、九月に比企氏の変が起こり、頼家は外祖父北条時政によって幽閉され、のちに謀殺された。九月七日、弟の実朝が家督承継とともに征夷大将軍に補任され、「実朝」の名を後鳥羽院から与えられた。頼朝の段階では征夷大将軍という官職が武家の棟梁の地位を示すという認識は成立していなかった。だが、クーデターによる代替わりという政治的混乱を背景にして、朝廷から征夷大将軍に補任されるというかたちで、実朝による将軍家の家督継承を権威づけようとしたのであろう。その後、承元三年の段階で記された「夢想記」の一文にみるように、こうした幕府自身の混乱を背景にして、諸国地頭の勅許という歴史像を読み替えて、将軍は(天皇の)宝剣であり、天皇から授権(勅許)を受けた存在であるという論理を慈円は生み出したのではなかろうか。とすれば、それ自体は王権の危機という意識に基づくものであったが、武家の側の危機をも踏まえたものでもあり、決して貴族の側の一方的な「願望」ではなかったのではなかろうか。
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「第一節 慈円の構想と権門体制」はこれで終りです。

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「権門体制論」の出生の謎(その3)

2023-02-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

前回投稿で引用した部分の最後、「王権内部の一装置」に付された注(15)には、

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(15)松薗斉「「中世天皇制」と王権─安徳天皇を素材として─」(『年報中世史研究』二八号、二〇〇三年)四一頁。
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とありますが、私は未読です。
さて、続きです。(p6以下)

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 ところが、生身の個人としての天皇の権威が動揺する反面、理念的な天皇像がかえって様々に語られるようになる。そうした天皇像の創造と実践を試みた人物に、摂関家出身(九条兼実の同母弟)で、天台座主に四度補任された僧慈円がいる。慈円は建仁三年(一二〇三)六月二十二日にみた夢をもとにして「夢想記」を記した。その後も思索を深めて、二段階にわたる加筆を加えて承元三年(一二〇九)六月に書き上げた。その最後の段階に書かれたと思われる末尾に次のような一節がある。

 於宝剣者、終以没海底、不求得之失了也、而其後、武士大将軍進止日本国、任意令補
 諸国地頭、不叶帝王進止、但聊蒙帝王之免、依勅定補之由云々、宝剣没海底之後、任
 其徳於人将歟、聖人在世者、定開悟由来、思慮興廃歟、悲哉々々、

 この一節は以下のような意味である。すなわち、宝剣が壇ノ浦の海底に失われたが、その後「武士大将軍」(源頼朝)が日本国を支配し、ほしいままに諸国の「地頭」を補任し、「帝王」は支配できなくなった。だが、それは将軍が帝王の許しを得て、その命令(勅定)によって(地頭を)補任したものだからだという。海底に沈んだ「宝剣」の「徳」が「人将」に委ねられたのだろうか。聖人が世にいれば、きっとその由来を悟り、世の興廃に思慮をめぐらすことだろう、悲しいことである、と。
 ここで慈円が、諸国の地頭設置によって朝廷の全国支配は失われたという危機意識を抱く一方で、天皇を守護する宝剣の機能(「徳」)が将軍(武家)に引きつがれたのだろうかという論理をみせていることに注目したい。「夢想記」の段階では、「聖人世に在らば」の述懐に明らかなように、慈円は必ずしも肯定的に捉えておらず、諦観を込めたものであった。
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いったん、ここで切ります。
「諸国の地頭設置によって朝廷の全国支配は失われたという危機意識を抱く一方で」に付された注(17)を見ると、

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(17)近年の研究は、地頭と荘園制を対立的に捉えず、(特に十三世紀半ば以降)地頭制によって朝廷の国家財政や荘園制が安定する面を強調する傾向がある(清水亮『鎌倉幕府御家人制の政治史的研究』校倉書房、二〇〇七年など)。客観的にはそのような面はあるものの、同時代の貴族たちの《主観》は、地頭によって朝廷の諸国支配が失われたというものではなかっただろうか。
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とありますが、『増鏡』巻二「新島守」にも、

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 その年十一月九日権大納言になされて、右近大将を兼ねたり。十二月の一日ごろ、よろこび申しして、同じき四日やがて官をば返し奉る。この時ぞ諸国の総追捕使といふ事、承りて、地頭職に我が家のつはものどもなし集めけり。この日本国の衰ふるはじめはこれよりなるべし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4e8214126e5263a36d1acb0cc4c029fb

とあって、これは同時代ではなく、百数十年後、後醍醐によって討幕が成功した頃の「貴族たちの《主観》」ですが、「この日本国の衰ふるはじめはこれよりなるべし」は「地頭によって朝廷の諸国支配が失われた」とほぼ同じ意味ですね。
なお、流布本『承久記』には、

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 同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる。故を如何〔いか〕にと尋れば、地頭・領家の相論とぞ承はる。古〔いにし〕へは、下司・庄官と云計〔いふばかり〕にて、地頭は無りしを、鎌倉右大将、朝敵の平家を追討して、其の勧賞〔けんじやう〕に、日本国の惣追捕使に補せられて、国々に守護を置き、郡郷に地頭をすへ、段別兵粮を宛て取るゝ間、領家は地頭をそねみ、地頭は領家をあたとす。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ce17f2c51d4e775757e1a1365739939

とあって、承久の乱の結果、「王法尽させ給ひて、民の世と」なった根本原因を探ると、それは頼朝を「日本国の惣追捕使に補」し、「国々に守護を置き、郡郷に地頭をすへ」たことだ、との立場ですから、佐藤氏が紹介されている慈円の見解とよく似ていますね。
ただ、これは慈円や『増鏡』のように「貴族たちの《主観》」かというと、私には「領家」(貴族側)と「地頭」(武家側)のいずれにも加担せず、「領家」「地頭」の両者を突き放し、第三者的立場から客観的に眺めているように思われます。
私には、この文章に承元三年(1209)六月の慈円が抱いていたような「諦観」すら感じられないのですが、それはいったい何故なのか。
流布本の作者はいったい何者なのか。
ま、それは今後の課題として、続きです。(p7)

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 だが、承久の乱の直前に執筆された『愚管抄』では、武士が「キミ〔君〕ノ御マモリ〔守〕」となった世の中であることを伊勢大神宮も八幡大菩薩も認めたから、将軍と入れ替わるようにして、天皇を守護するために祖先神が乗り移っていた宝剣は姿を消したのであるという肯定的な記述に変わっていく。顕密仏教と朝廷とが互いに支え合うという王法仏法相双論に基づく王権論を前提にして、将軍とは天皇の守護者であり、《天皇から武家に対して授権・委任することによって体制を安定させる》という論法である。次節で後述するように摂関家出身の将軍誕生への期待を込めて、摂関家出身の慈円はこうした肯定的な論法を編み出したのであるが、こうした論理は、諸権門の結集核である天皇のもと、鎌倉幕府が諸国守護という国家的機能を分担するという像に近似しており、黒田俊雄の説く「権門体制」的な国制像に通じるものである。権門体制論は支配層の基盤となる荘園制論・非領主制論と連関する全体史的な構想であるが、支配層結集の論理としては、「公家・寺家の立場からその叡智を傾けて武家の国家的意義づけを試みた」という慈円の『愚管抄』に類似する。というよりも、むしろ、黒田の権門体制論は、のちに『愚管抄』という史書に結実する慈円の歴史像に着想を得ているのではなかろうか。はじめにでも述べたように、権門体制論は近年では《上からの統合》を強調する学説として受容されがちであるが、「夢想記」にみるように、天皇・朝廷支配の危機的状況に対処するための矛盾と葛藤に満ちた模索として、権門体制論の中世的起源となる歴史像は語られていた。
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「権門体制論」の出生の謎(その2)

2023-02-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

ウィキペディアで「庄下村」を見ると、

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庄下村(しょうげむら)は、かつて富山県東礪波郡にあった村。現在の砺波市庄下地区で、地区内には大門素麺の生産で名高い大門集落がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E4%B8%8B%E6%9D%91

とあって、参考文献には黒田俊雄氏の『村と戦争 兵事係の証言』(桂書房、1988)が載っていますね。
私が黒田氏の出身地である旧庄下村に行ったことは全くの無駄ということもなくて、ここは「真宗王国」の中核地域であり、黒田氏の宗教観には故郷の宗教的土壌が相当な影響を与えているような印象を受けました。
「民衆思想史」の安丸良夫氏(1934-2016)も黒田氏と同じく東砺波郡の出身で、こちらは旧高瀬村の森清という地区です。
安丸氏の『近代天皇像の形成』(岩波書店、1992)の「あとがき」には、

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 生家は、水田ばかり二町余りを耕す専業農家だったが、家族だけでこの面積を耕作することは、私の子供のころの技術的条件ではやたらに多忙なものだった。【中略】
 ところで、私の生れたあたりの農村は、浄土真宗、とりわけ東本願寺の篤信地帯で、どの家にも立派な仏壇がある。抽出しなどのついている台の部分もいれれば、大人の背丈よりもはるかに高く、灯明を点ずると黄金色に輝く、複雑な造りのものである。毎朝、御仏飯が供えられ、老人が読経し、そのあと「御文(おふん)さま」(蓮如『御文章』)を詠む。何人かの死者の毎月の命日には、「月忌(がっき)まいり」といって、隣村の寺の住職が読経に来宅するが、家人が留守でも所用中でもかまわずに、住職は玄関で一声かけるだけで上りこみ、仏壇をあけて灯明を点じ、読経して帰る。私の生家のばあい月に数回で、こうした宗教行事はいまも続いている。これとはべつに、年に一回、誰かの命日を選び、親戚も招いて御馳走のでる「ほんこさま」(報恩講)がある。また、私の生れた村は農家ばかりで寺はないが、すこし大きな家では、襖、障子をとり払って三つ四つの部屋をあけはなち、「ごぼさま(御坊さま)」を招いて説教を聴く会を開くことができる。年齢集団を基礎にした念仏講などが主催して、農閑期にはこうした説教がいくつかの家で開催され、数十人の村人が集る。真宗特有の来世信仰からしても、老人の方が信仰心が篤いが、農家の嫁などもこうした説教には喜んで出席する。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33c77b57ad5d51d0ef3bdbfbe9c1e67d

とあって、私も富山の仏壇が立派なことは知っていましたが、留守でも住職が家に上がって読経して帰って行く云々にはびっくりしました。
黒田氏の母方はお寺だったそうなので、黒田氏も安丸氏と同様か、あるいはそれ以上に濃厚な宗教的雰囲気の中で育ったのだろうと想像します。
ま、生家の宗教がどうであれ、黒田氏は共産主義者として生き、共産主義者として死んで行ったのでしょうから、当然に無神論者だったのだろうとは思いますが、黒田氏の宗教に対する基本的感覚、宗教を国家の非常に重要な要素として捉える姿勢には、やはり「真宗王国」の風土が相当な影響を与えているように思います。
私は安丸良夫氏を、エマニュエル・トッド風にいえば「ゾンビ真宗門徒」と思っていて、安丸氏の代表作である『神々の明治維新』(岩波新書、1977)に映し出された光景は、ゾンビ浄土真宗とマルクス主義が「習合」した安丸レンズを通して見た映像なんじゃないのかな、と思っているのですが、黒田氏の「権門体制論」も、ゾンビ浄土真宗とマルクス主義が「習合」した黒田レンズを通して見た中世像ではなかろうか、などと密かに思っています。
ま、それはともかく、「権門体制論」の出生の謎について、佐藤雄基氏の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)を参照しつつ、少し検討したいと思います。
佐藤論文の構成は2021年1月3日の投稿「新年のご挨拶(その2)」で紹介済みですが、参照の便宜のために再掲します。

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はじめに
第一章 天皇像と将軍像の模索─『愚管抄』の時代
 第一節 慈円の構想と権門体制
 第二節 院政時代の歴史像
 第三節 源実朝と後鳥羽院の「文武兼行」
第二章 「文武兼行」の将軍像と天皇─承久の乱の<戦後>
 第一節 承久の乱後の帝徳論
 第二節 九条道家の徳政と歴史意識
 第三節 「寛元・宝治」の転換
第三章 鎌倉後期の天皇像と得宗像─「武家」の定着
 第一節 鎌倉後期の皇位継承─「治天」の位置
 第二節 文武兼行の得宗像─北条貞時の時代
 第三節 「御成敗式目」にみる得宗・天皇関係の言説
  ①天皇・上皇による式目「同意」という噂
  ②北条泰時の崇徳院「後身」伝承
  ③鎌倉後期の歴史像
おわりに

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c17a2e0b20ec818c1ab0afd80862eb6f

権門体制論に関係するのは主として第一章の第一節であり、少しずつ引用して行きます。(p6)

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第一章 天皇像と将軍像の模索─『愚管抄』の時代
 第一節 慈円の構想と権門体制

 鎌倉時代は、皇統が三度断絶した時代であった。治承・寿永の内乱の最中、寿永二年(一一八三)平氏は安徳天皇とともに都落ちした。その後、安徳を擁立する平氏「征伐」を優先させるため、「立王」が不可欠という後白河院の判断によって、後鳥羽天皇の即位が強行された。安徳は廃位されたが、内乱の帰趨次第では平氏とともに復権し、後鳥羽が廃位される可能性は残されており、安徳と後鳥羽という二人の天皇が事実上併存していた。皇位継承の象徴であった三種の神器は安徳とともにあったが、壇ノ浦の戦いで安徳は水死し(高倉─安徳皇統の断絶)、神器のうち宝剣は行方不明となった。それ故に、後鳥羽の正統性を疑問視する見方は残り続ける。それと同時に、天皇の地位自体が、院政を正当化するためのものであり、院によって取り替え可能な「王権内部の一装置」であることが明白となった。
-------

「内乱の帰趨次第では平氏とともに復権し、後鳥羽が廃位される可能性は残されており」に付された注(13)を見ると、

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(13)『玉葉』寿永二年十二月二十四日条では「頼業云、西海主君入御者、当今如何、若六条院之体歟云々」として六条天皇の末路が想起されている。
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とあり、幼年の天皇という点では確かに、二歳(満年齢だと七ヵ月)で践祚し、五歳で譲位して史上最年少の上皇となった六条天皇を連想させますが、西海から戻って来た前天皇の復位という点では、後の後醍醐天皇と北朝第一代・光厳天皇の関係が一番似ていますね。

六条天皇(1164-76)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
光厳天皇(1313-64)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

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「権門体制論」の出生の謎(その1)

2023-02-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

黒田俊雄氏が創始し、上横手雅敬氏によってマイルドに精製された権門体制論が、現在の中堅・若手研究者にどのように受容されているかというと、一例として、岩田慎平氏(神奈川県愛川町郷土資料館主任学芸員、1978生)の『北条義時』(中公新書、2021)には次のような記述があります。(p27以下)

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 平家は、清盛の祖父正盛以来の賊徒追討などによる実績に加え、保元・平治の乱によって他の有力な京武者が一掃されたことで、結果的に、最大の軍事力を持つ京武者として生き残った。さらに貴族社会においても有力な院近臣として一定の地位を確保するに至り、国家的な軍事・警察権を担う最大の軍事貴族となった。
 国家的な軍事・警察権は、諸国守護権とも呼ばれる。軍事貴族である平家にとって、国家的軍事・警察権は一族のアイデンティティともいうべき権限である。これが重盛のもとへ継承され、それが公認されたということは、重盛が清盛の後継者となったことが公認されたわけである。
 この二十数年後、内乱を鎮めた頼朝に、このときの重盛と同様の権限が公認された。それは鎌倉幕府成立の画期とされる(上横手雅敬「建久元年の歴史的意義」)。頼朝の跡を継ぐ頼家も、この権限を朝廷から公認されることで、その後継者であることが示された(八五頁参照)。国家的軍事・警察権(諸国守護権)は、軍事貴族である平家や鎌倉幕府にとって、最も基本的なアイデンティティなのだ。
 院政期においては、専門的な職能を持つ家が国家的な役割を分担し合いながら、国家権力を形成していた。国家的な役割とは天皇への奉仕であり、通常ならば私的な活動も、その目的が天皇への奉仕であれば、それは国家的な役割を担うことを意味した。
 平家の軍事力は私的な武力だが、天皇のための治安維持に用いるならば、それは国家的軍事・警察権の行使ということになる。このように、国家的な役割を分担する家のことを権門と呼び、平家や鎌倉幕府は国家的軍事・警察権を担う軍事権門であった。
 同様に、天皇の政務運営を補佐する家(摂関家をはじめとする貴族の家)や、天皇の安全や世の安寧を祈禱する寺社も、それぞれの役割に即した権門であった。
 これらさまざまな権門が国家的な役割を分担し合う、院政期に特有の国家体制を、「権門体制」と呼ぶ(黒田俊雄「中世の国家と天皇」)。「権門体制」は学校教育で取り上げられる機会が少ないため、一般読者には馴染みが薄いかもしれないが、院政期をはじめとする中世前期の日本社会の仕組みを理解するための概念である。
 「権門体制」においては、院や軍事権門、および寺社勢力などさまざまな権門が、個別の政治過程においては互いに矛盾や対立を抱えながらも、全体としては他を圧倒することなく共存し、相互補完の関係を維持しつつ国家機構を形成している。そしてそれらの権門に国家的な正当性を与えるのは、在位中の天皇であった。
-------

うーむ。
「国家的な役割を分担する家のことを権門」と定義したのに、鎌倉幕府や「寺社勢力」なども権門とするので、鎌倉幕府や「寺社勢力」は「家」なのか、といった小さな形式的疑問が湧くとともに、頼朝が「重盛と同様の権限」しか持っていないのか、といった実質的な疑問も生じますが、やはり一番気になるのは、桜井英治氏の表現を借用すると、あまりに「予定調和的」な、まったりとした世界観ですね。
まあ、一応、「個別の政治過程においては互いに矛盾や対立を抱えながらも」といった留保はありますが、諸権門が「共存」してみんな「相互補完の関係を維持しつつ国家機構を形成」している、というのは事実の認識なのか、それとも当時の人々の「願望」なのか、あるいは諸権門の関係はかくあるべし、という「理想」ないし道徳的な「説教」なのか。
私のように「一つの国家」が我々の「常識的感覚」にかなうのだ、「天皇を頂点とした統合的な一個の構造が厳として存在する、というところから議論を出発すべきだ」という前提自体に懐疑的な者にとっては何とも落ち着きの悪い世界ですが、別にこれは岩田氏が奇妙な議論を展開されている訳ではなくて、権門体制論の創始者の黒田俊雄氏自身がこんなことを言われている訳ですね。
さて、私にとって権門体制論の一番の謎は、黒田氏はどこからこの「理論」の着想を得たのだろうか、ということでした。
黒田氏は仏教を極めて重視するので、「顕密体制論」を含めた黒田理論をものすごく乱暴に要約すると、「日本は天皇を中心とする仏の国」ということになります。
かつて「日本は天皇を中心とする神の国」だと言って物議を醸した総理大臣がいましたが、黒田理論も何だか日本万歳の右翼理論っぽい感じがしないでもないですね。

「神の国発言」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%9B%BD%E7%99%BA%E8%A8%80

しかし、1926年生まれの黒田氏は、1950年代には「国民的歴史学」運動に熱心だったバリバリの左翼活動家で、今のジジババ中心のまったりした共産党ではなく、真剣に「革命」を目指していた時期の共産党員です。

網野善彦を探して(その12)─「山村工作というのは、たいてい新入りの真面目な連中がやらされた」(by 上田篤)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ca29f11163236917872086981433ca49

そうした黒田氏の思想・経歴と「予定調和的」でまったりとした権門体制論の結びつきが何とも奇妙に思われて、私は何かヒントが得られないかなと思って、2010年の初夏に黒田氏の故郷である富山県砺波市(旧庄下村)の大門(おおかど)地区まで行ったことがありますが、「大門素麺」という名産品があることを知ったくらいで、何の成果もありませんでした。

大門で生まれた権門体制論
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ec7182e18f586fe4cb82ca24199fc18
大門素麺
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b377fb50b3fa34383aa559e3e4017692
素麺補遺
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21c62ddb458dd5194b2f2d69b82fc2a6

しかし、今では権門体制論の出生の謎は佐藤雄基氏(立教大学教授)の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)という論文で解明されています。

新年のご挨拶(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/896f6f1d4184ed0b84f204fe8cddc712
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c17a2e0b20ec818c1ab0afd80862eb6f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d78d824db0eff1efeecc14e0195184d2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ea75a0c1ebee9f2337b054434882704

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高橋秀樹氏『三浦一族の研究』の「本書の課題」(その2)

2023-02-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

高橋秀樹氏は「朝廷・幕府を含む中世国家や中世社会の中で」と書かれていますが、権門体制論者の文章の特徴の一つに国家と社会の区分の曖昧さがあります。
創始者の黒田俊雄氏の文章にも、国家を論じているのか、それとも社会を論じているのか、ご本人ですら分かっていないのではないか、と思わせるようなものがけっこう多いですね。
そして、権門体制論者は、「国家」とは何か、を定義して議論することがありません。
ま、絶対にないかと問われたら、たぶんないんじゃないかな、としか答えられませんが、私は見た覚えがありません。
権門体制論者に限らず、そもそも日本史の研究者が「国家」を定義してから議論すること自体が極めて稀なのですが、この点は水林彪氏が、

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視野を歴史学全体に拡大すると、「国家」についての厳密な定義を欠いたままに、「国家」について論ずるものが少なくないという問題が存在する。一般に、重要な概念ほど、定義なしに、あるいは、意味がきわめて曖昧なままに使用される傾向があり、このことは不可避的に議論に混乱をもたらすことになるが─というよりも、定義が曖昧であるから厳密な意味での学問的論議・論争が成立しえない─、その典型の一つが「国家」概念ではなかろうか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f54a9a6b71d2a71d719efd5573fc5382

と指摘される通りです。
そして、権門体制論者が何故に「国家」を定義してから議論しないのかについては、新田一郎氏(東京大学大学院法学政治学研究科教授)の『中世に国家はあったか』(岩波ブックレット、2004)に、次のような興味深い指摘があります。(p41以下)

-------
 そうした流れを受ける形で提起された、黒田俊雄のいわゆる「権門体制論」(黒田、一九六三)は、その成り立ちにおいて、たいへん素直な発想をもっている。「中世」と呼ばれるこの社会において、もろもろの価値を映しだす鏡としての、天皇を頂点とした秩序構造は、なんら否定されることなく存立し、ほかにそれに対抗しうるものなどなかったではないか。国郡制にせよ令制官位にせよ、中世社会には統合的契機が用意されていたではないか。いわゆる「職の大系」にしても、その存立根拠をさかのぼれば、最終的に天皇に掌握された国政大権に帰着する以外にないではないか。武家とてもそうした道具立てと無関係に存立したわけではないのであって、一つのそれなりに一貫した構造の内部で、武家についても説明があたえられるのではないか。ならばそこに、天皇を国制上の頂点とした一個の「国家」が存在した、と考えることに、なんの問題があろう。それは、われわれの「常識的感覚」にかなうものではなかろうか、と黒田は説く。
 天皇を頂点とした統合的な一個の構造が厳として存在する、というところから議論を出発すべきだ、とする黒田の問題提起は、たしかに重要な点を衝いている。公家と武家との関係を、古代対中世というごとき対抗的な関係としてではなく、それぞれが「権門」(有力な家門)としてそれぞれの役割を共時的に分掌している協働的な関係として把握するとき、両者を含む社会関係を一つの構造として記述し説明しようとするのは、(それを「国家」と呼ぶべきかどうかはさておくとして)たしかに理にかなっているように思われる。
-------

つまり、「一つの国家」が我々の「常識的感覚」にかなうのだ、「天皇を頂点とした統合的な一個の構造が厳として存在する、というところから議論を出発すべきだ」という具合いに、権門体制論者にとっては「一つの国家」は自明の前提であって、「国家」を定義する必要が全くないんですね。
まあ、私自身はこのような「常識的感覚」に安住して「国家」の定義を拒否する黒田俊雄氏に「共感」することはできず、権門体制論に極めて親和的な新田一郎氏の『中世に国家はあったか』にも全然「共感」できません。
『概説 日本法制史』(弘文堂、2018)の「第4章 鎌倉期の法と秩序」を担当された神野潔氏(東京理科大学教授)は、「おすすめの本」(p150)三冊の筆頭に新田一郎氏の『中世に国家はあったか』を挙げ、

-------
現在の学界を代表する中世法制史家による1冊。権門体制論など中世国家論をめぐる議論を解きほぐし、中世を生きる人々の意識にまで迫りながら、中世に国家はあったか、あったとすればそれはどのようなかたちで存在したのかを考えていく。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/59900743de329c2048311920cbbc5980

と高く評価されていますが、私は新田著は1963年に提起された黒田俊雄の権門体制論(「中世の国家と天皇」『岩波講座 日本歴史6 中世2)に始まる「定義なき中世国家論争」の混乱を「解きほぐ」すどころか、その混乱をより分かりにくい方向に発展させた変な本だと思っています。

『中世に国家はあったか』に学問的価値はあったか?(その17)(その18)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/585b3147452c7e06679570f7bce67df8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5da1e4a2c47e38abdd62cc4bafe4231d
あなたの「国家」はどこから?─総論
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6593d078bacf58aac01ff2fd91d6c469

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高橋秀樹氏『三浦一族の研究』の「本書の課題」(その1)

2023-02-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

高橋氏は「序章 中世前期三浦一族研究の現状と本書の課題」の「二 本書の課題」の冒頭で、

-------
 こうした近年の研究史の流れを受けて、本書では十章にわたって、中世前期の三浦一族の歴史に関するいくつかの問題を考察していく。そこに通底している視点は、鎌倉幕府や東国武家社会という枠の中ではなく、朝廷・幕府を含む中世国家や中世社会の中で、三浦一族とその動向を捉えようとする視点である。相模国の中での三浦一族を考えるさいにも、鎌倉幕府のもとでの守護としてではなく、国衙との繋がりを重視しているのもその一つの表れであるし、武家社会も包み込んでいる天皇を頂点とした身分体系や官職の昇進コースと速度に示される家格、祖先に対する意識など、中世前期の社会規範を前提としているのもその一つである。また、方法論としては、「常識」にとらわれず、新しく見出された信頼できる史料に着目し、系図類や『吾妻鏡』、公家日記をはじめとする従前の史料についても、史料批判を加え、原史料・情報源まで掘り下げて検討し、字句を厳密に解釈した上で立論していく手法を主としてとっていく。本書は『三浦一族の研究』と題してはいるものの、個別武士団研究や地域史の枠組みでは著していない。三浦一族に題材を取った中世社会論・中世国家論・中世史料論の研究書という意識をもって著したつもりでいる。
-------

と書かれていて(p12)、「朝廷・幕府を含む中世国家や中世社会」や「武家社会も包み込んでいる天皇を頂点とした身分体系」といった表現に、高橋氏が権門体制論に立脚されていることが鮮明に示されています。
ただ、権門体制論といっても、その創始者である黒田俊雄氏の理論は「戦後歴史学」の産物(ないし奇形種)であって、黒田が終生信奉した史的唯物論・マルクス主義の野性的な臭みが強いものです。
そのため、学習院大学の安田元久ゼミの出身で(「あとがき」)、長く教科書調査官として文部科学省に勤務された高橋氏とは思想的に合わない部分もあるはずで、高橋氏が依拠する権門体制論は、おそらく上横手雅敬氏によってマイルドにされた権門体制論でしょうね。
思想的には黒田俊雄氏のような史的唯物論者の対極にあった上横手氏は、黒田理論から技術的な部分のみを抽出・蒸留し、無味無臭の権門体制論を精製されましたが、この上横手流の清潔な権門体制論が、思想的立場の如何を問わず京都の研究者を中心に広まり、野口実氏もこの系統ですね。
野口実氏は承久の乱の勝利をもって鎌倉幕府成立の画期だとした貫達人氏の薫陶を受けた方ですが、幕府と朝廷の関係という基本認識の部分では貫理論を捨て去り、上横手流の権門体制論を受け容れておられます。
しかし私は、上横手蒸留所謹製のマイルドな権門体制論にも懐疑的で、その点では、桜井英治氏が「中世史への招待」(『岩波講座日本歴史第6巻 中世1』、2014)で表明された、

--------
 あらためて近年の中世史研究の動向を見るとき、あいかわらず勢力を誇っている「理論」とは黒田俊雄の権門体制論である。あまりに常識的で予定調和的としかいいようのないこの「理論」が、かくも強靭な生命力を保っている理由がどこにあるかといえば、それはまさにすべてを包みこんでしまう包容力にあろう。理論を生産する力量に欠ける時代─もっと正確にいえば、理論を心底からは渇望していないのかもしれない時代─には、このようにかぎりなく透明に近い「理論」が時を得るのは見やすい道理である。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e14112e16ddd3903222e2dccab922120

という評価に、若干の留保付きで賛成します。
私は佐藤進一氏の東国国家論の欠点は承久の乱をきちんと分析しなかった点にあると考えていて、承久の乱の戦後処理を中心に東国国家論の再生を図ろうという野心を抱いているのですが、その私の立場からは、野口氏が見捨ててしまった貫達人氏の議論はなかなか興味深いものですね。

承久の乱後に形成された新たな「国際法秩序」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6e725c677b4e285b26985d706bf344c

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高橋秀樹氏『三浦一族の研究』の研究史整理(その2)

2023-02-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

高橋氏の研究史整理で少し気になったのは宝治合戦の部分です。(p9以下)

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 宝治合戦については、三浦勝男「宝治合戦と三浦一族」(『三浦一族研究』四、二〇〇〇年)があり、同誌所収のシンポジウム記録では興味深い論点がさまざまに提示されている。パネラーの一人だった永井晋は、北条氏・三浦氏両雄の決戦とする従来の捉え方に対して、その本質は北条氏外戚の交替、幕府首脳の世代交代を背景とした三浦氏と安達氏との対立であると明確に打ち出しており(『鎌倉幕府の転換点』日本放送出版協会、二〇〇〇年)、高橋『三浦一族の中世』も同様の見方に立つ。最近、細川重男「宝治合戦と幻の軍記物」(『三浦一族研究』一九、二〇一五年)は『吾妻鏡』の原史料となった軍記物の存在を想定している。宝治合戦で重要な役割を果たす三浦光村については、真鍋淳哉「三浦光村に関する基礎的考察」(『市史研究 横須賀』八、二〇〇九年)がこれまでの通説とは異なる光村像を提示している。
-------

高橋氏は永井晋氏の宝治合戦の「本質は北条氏外戚の交替、幕府首脳の世代交代を背景とした三浦氏と安達氏との対立」との見解と「同様の見方に立つ」と明言されます。
しかし、『北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)において、高橋氏は、

-------
 こうして『吾妻鏡』の記事を分析すると、安達氏が主導して三浦氏を討とうとしたという話は虚構であり、時頼と泰村との間では、最後まで和平交渉が重ねられていたが、和平を望む泰村の意に反して、三浦一族内の好戦派勢力に引きずられる形で挙兵に至ったというのが実像であろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a9bd98802a218d710599df27b3473a08

と書かれていますが(p178)、これは永井晋説と矛盾するように思われます。
高橋氏の見方は『三浦一族の中世』(吉川弘文館、2015)の刊行以降に変化したのか、あるいは私が矛盾と捉えるのがおかしいのか。
この点は永井説を確認した後で再考したいと思いますが、私は宝治合戦の「本質」が「三浦氏と安達氏との対立」だとする見方は『吾妻鏡』に巧妙に誘導された見方なのではなかろうか、と思っています。
なぜなら、北条氏が安達氏に引き摺られたのだとなれば、北条氏の権力欲・独裁志向への非難は軽減されるからです。
現在では『吾妻鏡』は1290年代以降、おそらく1300年代初頭に編まれたと考える立場が有力ですが、これは霜月騒動によって安達氏の勢力が弱体化していた時期と重なります。
そこで、『吾妻鏡』の編者は、安達氏の弱体化を好機として宝治合戦の責任を安達氏になすりつけているのではないか、と私は考えているのですが、あまりに邪推に過ぎる見方でしょうか。
まあ、『吾妻鏡』の編者の意図は別にしても、霜月騒動(1285)の時点では幼児だった安達時顕が成長し、幕府内でそれなりの地位を確立した後に『吾妻鏡』の宝治合戦の部分を読んだら、いささか微妙な気分になったのではないかと私は想像します。
『吾妻鏡』が宗尊親王の追放(1266)で終わっているのは、歴史観の対立が現実政治での対立を惹起することを避けようとしたためではないかと私は考えていて、そういう観点からすると、宝治合戦での安達氏の描かれ方は非常に興味深いですね。

安達時顕(?-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E6%99%82%E9%A1%95

ところで、細川重男氏は「『吾妻鏡』の原史料となった軍記物の存在を想定」されているとのことですが、恐らくこれは、今では跡形もなく消えてしまった逸失物語、ということでしょうね。
実は私も「『吾妻鏡』の原史料となった軍記物の存在を想定」していて、それは現存する『承久記』そのものです。
細川氏は『承久記』諸本の関係についての従来の研究を基礎に、『吾妻鏡』に遅れて『承久記』の流布本が成立したという前提で立論されているものと思いますが、私はその前提を疑っています。
なお、細川重男氏の小説「黄蝶の夏」(『宝治合戦』所収、朝日新書、2022)は、同書の「はじめに」によれば、

-------
 解説編1・2の間に配した小説編『黄蝶の夏』が、本書の"肝"である。創作(フィクション)であり、架空の人物も登場する。小説という形式をもちいることにより、学術書(研究書)・概説書などでは記すことが難しい「鎌倉武士的世界観」を描くことを目指した。
 創作である小説と史実を探究する研究は、等しく歴史をテーマとしてはいても、別物である。それを承知で敢えて本書がこのような構成を採ったのは、小説のみ、研究のみでは、到達できない歴史の「核」に迫れたら、と考えたからである。
 "虚実皮膜の間"となれば、成功である。
-------

との趣旨で置かれているそうですが(p4以下)、その内容を見ると、宝治合戦の「本質は北条氏外戚の交替、幕府首脳の世代交代を背景とした三浦氏と安達氏との対立」とする永井晋氏と「同様の見方」に立っていますね。
そして、そのような見方は、やはり『吾妻鏡』の編者が読者に読み取ってほしいと思っていた方向に誘導された結果なのではないか、細川氏も永井氏同様、『吾妻鏡』編者にとって理想的なタイプの読者なのではないかと私は疑っています。

-------
『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』

「鎌倉殿の13人」の仁義なき血みどろ抗争は終わっていなかった! 鎌倉幕府No.1北条氏とNo.2三浦氏で争われた宝治合戦(1247年)。北条氏が勝利し得宗独裁体制が確立される。鎌倉時代の大転換点となった戦いを解説編150頁&小説編200頁で徹底解説。

https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=23718

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高橋秀樹氏『三浦一族の研究』の研究史整理(その1)

2023-02-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

ブチブチ文句を言ってしまいましたが、今月二日に田渕句美子氏の『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)を読んで、三浦光村室が藤原能茂の娘であることに気付くまでは三浦氏に何の興味もなく、手探りで自分に必要な文献を集めてきた私にとって、高橋氏の研究史整理はとてもありがたいですね。
「序章 中世前期三浦一族研究の現状と本書の課題」は、

-------
一 近年の研究史の概要
 1 院政期
 2 治承・寿永内乱期
 3 鎌倉時代前期
 4 鎌倉時代後期
二 本書の課題
-------

と構成されていますが、「一 近年の研究史の概要」の冒頭には、

-------
 三浦一族研究会による一九九七年の研究誌『三浦一族研究』発刊と、一九九九年に始まった横須賀市史編纂事業による『新横須賀市史 資料編 古代・中世Ⅰ』(二〇〇四年。以下、『新市史Ⅰ』と略す)、『新横須賀市史 資料編 古代・中世Ⅱ』(二〇〇七年)、『新横須賀市史 資料編 古代・中世補遺』(二〇一一年)の刊行、研究史『市史研究 横須賀』の発刊は、三浦一族に関する研究を飛躍的に変えた。それまでも、一九五七年・八八年の二度にわたって刊行された『横須賀市史』、一九八一年刊の『神奈川県史 通史編一』でも三浦一族について叙述されていた。また、一九八〇年には郷土史家らの執筆になる『三浦大介義明とその一族』(三浦大介義明公八百年祭実行委員会)が刊行され、奥富敬之『相模三浦一族』(新人物往来社、一九九三年)、石丸煕『海のもののふ三浦一族』(新人物往来社、一九九九年)などの一般向けの概説書も出版されてはいた。しかし、横須賀市史編纂事業による約三千三百点の史料収集と、それに基づく新しい世代の研究者を中心とする最近の研究は、郷土の三浦氏から日本列島を縦横に駆けめぐる三浦氏へ、相模武士団としての三浦一族研究から日本中世史研究としての三浦一族研究へと、研究そのものを大きく変貌させた。その研究水準は、今は「三浦氏の研究は現在御家人研究中の最高水準にある」(海津一朗「西岡虎之助コレクションの全体像についての覚書─西岡民衆史学研究事始─」(『和歌山地方史研究』六〇、二〇一一年)との評価を得るまでになっている。
-------

とあり、「新しい世代の研究者」として三浦氏研究をリードされてきた高橋氏の自負が窺えます。
また、「3 鎌倉時代前期」には、

-------
 この時期の三浦一族研究に大きな画期をもたらしたのは、野口実「執権体制下の三浦氏」(『中世東国武士団の研究』、初出は一九八三年)であった。『吾妻鏡』のみならず、『明月記』『玉蘂』や『文机談』などの公家方史料を用いて、三浦義村が大きな力をもっていたことを明らかにした点に意義があった。また野口は慈光寺本『承久記』に基づいた義村の再評価を行い(「慈光寺本『承久記』の資料的評価に関する一考察」『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』一八、二〇〇五年)、最近では三浦氏を「権門」と捉える見解を打ち出している(「承久の乱における三浦義村」『明月記研究』一〇、二〇〇五年)。『新市史Ⅰ』では公家日記のほぼ一点ごとに解説を施してその内容や位置づけを示し、高橋秀樹・真鍋淳哉「三浦一族を読み直す」(『市史研究 横須賀』四、二〇〇五年)でも、さらなる読み込みを行っており、その成果は野口のその後の研究にもフィードバックされている。こうした野口の視点を継承する高橋は「三浦義村と中世国家」(『三浦一族研究』一六、二〇一二年)で、同じく真鍋は「三浦義村」(『中世の人物 京・鎌倉の時代編 第三巻 公武権力の変容と仏教界』清文堂出版、二〇一四年)や「三浦氏と京都政界」(『中世人の軌跡を歩く』高志書院、二〇一四年)で、それぞれ三浦義村の人物像を描いている。
-------

とありますが(p7以下)、「第五回三浦一族シンポジウム」(1999)の記録を見ると、慈光寺本『承久記』の積極的な活用を唱えたのは高橋氏の方が先で、野口実氏が高橋氏の「視点を継承」されたような感じがしますね。
なお、「慈光寺本『承久記』の資料的評価に関する一考察」とありますが、正しくは「史料的評価」です。
私もこの論文を読んでみましたが、野口氏は、

-------
 慈光寺本については、早く富倉徳次郎「慈光寺本承久記の意味─承久記の成立─」( 『 国語・ 国文』第一三巻第八号、一九四二年)が、その成立年次を「大体承久の乱の翌年の貞応元年以後貞応二年五月までの約一年間」とする説を提出していたが、これに異論をとなえたのが益田宗「承久記─回顧と展望─」(『国語と国文学』軍記物語特輯号、一九六〇年)である。すなわち、同本に「此君ノ御末ノ様見奉ルニ天照大神正八幡モイカニイタハシク見奉給ケン」とある記事をもって「此君」=土御門院の皇子後嵯峨天皇・皇孫後深草天皇の即位以降の成立と見るべきだとし、また作者を「鎌倉武士の立場」に求めたのである。
 これを批判・克服したのが、杉山次子「慈光寺本承久記成立私考(一)─四部合戦状本として─」(『 軍記と語り物」第七号、一九七〇年)である。杉山は「末=すゑ」の用法を検討して益田の上記引用部分に対する解釈を難じた上で、成立の上限を「惟信捕縛」の記事から寛喜二年(一二三〇) 、下限は北条泰時に助命された十六歳の「侍従殿」=藤原範継の没年から仁治元年(一二四〇)としたのである。さらに、杉山は「「 慈光寺本承久記」をめぐって─鎌倉初期中間層の心情をみる─」(『日本仏教』第三一二号、一九七一年)において、慈光寺本に三浦氏の記述が詳しいことに着目して作者圏を源実朝室の側近だった源仲兼周辺の一団に求め、また「承久記諸本と吾妻鏡」(『軍記と語り物』第一一号、一九七四年)では、慈光寺本は『吾妻鏡』とは無関係に、藤原将軍期に成立したと述べている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ac49db44731e38d2798af164b05c3c1

という具合いに、杉山次子説の影響を極めて強く受けておられます。
ただ、私が実際に杉山説を確認してみたところ、杉山説が優れているのは慈光寺本の成立を1230年代だと確定した点だけで、それ以外は論証といえるようなレベルですらなく、杉山氏自身の先入観を諸本に当て嵌めているだけのように思われました。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その1)~(その19)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/74731ba1e28a52da0e9b5e99a7f95137
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d56ed342156632414268e092bfe433e

野口氏や長村祥知氏は『承久記』諸本の成立時期・作者に関する議論には踏み込まず、従来の研究から慈光寺本=「最古態本」との結論だけを受け継ぎ、「最古態本」だから慈光寺本は信頼に値する、という前提で研究を進めておられるように見えますが、この点は高橋氏も同じみたいですね。

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「第五回三浦一族シンポジウム」(その3)

2023-02-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

昨日、高橋秀樹氏の『三浦一族の研究』(吉川弘文館、2016)を入手し、パラパラ眺めてみました。

-------
鎌倉幕府の成立を支えた相模国随一の大豪族、三浦一族。桓武平氏出自説の検討をはじめ、「三浦介」称号の成立事情、三浦義村や和田合戦・宝治合戦の実像、地域社会の親族ネットワークなどの諸問題を、「常識」にとらわれず、系図類や『吾妻鏡』の史料批判と新史料をもとに追究。三浦一族を中央との関係から再検証し、地域史研究に新視角を提示する。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b222489.html

高橋氏は史料論に一家言があり、古記録・古文書・系図に関し、本当に厳しく史料批判を実践されておられるようですね。
しかし、「序章 中世前期三浦一族研究の現状と本書の課題」の「二 本書の課題」には「方法論としては、「常識」にとらわれず、新しく見出された信頼できる史料に着目し」(p12)とあり、高橋氏にとっては、おそらく慈光寺本も「信頼できる史料」なのだと思います。
ただ、何故に高橋氏が慈光寺本を「信頼」できると考えるのかについては特に説明はなさそうですね。
私にとって、各種史料に厳しい目を注ぐ高橋氏が何故か慈光寺本にだけは極めて甘くて、しかも、そうしたバランスの悪さを高橋氏が自覚していなさそうなところが一番の謎です。
ま、それはともかく、慈光寺本が「信頼」できるか否か判断しようとする場合、気になる点の一つに、例の義時追討院宣の宛先八人に北条時房が含まれることが挙げられます。
この時房の問題については1999年の高橋氏もやはり注意はされていて、「後鳥羽上皇は鎌倉を三浦一族に任せる意思があったかどうか」という司会者の質問に対し、高橋氏は、

-------
 そうですね。三浦氏に幕府を任せる気があったかどうかといいますと、仮に後鳥羽が勝ったとしたら、後鳥羽はこういう幕府を作りたいと思ってただろうというのはあくまで想像のところが大きいんです。まず将軍という地位はおそらくそのままなんだろうと思います。というのも謀議に九条道家が関わっているという事を考えれば、まだ頼経は正式には将軍の地位になっていませんでしたが、いずれは将軍の地位に就く事は予定されていますから一応頼経の身柄は安泰。象徴的な存在として置いておく。そのもとで、三浦がそれを補佐する、後見する立場、今までの北条に変わる立場に立つことを狙っていたんだろう。ただ、慈光寺本によりますと、何人かの有力御家人に後鳥羽の方から「義時を倒せ」という命令がいっているんですが、その中に義時の弟時房も入っているんです。そうすると、おそらく義時を倒して三浦がそれに変わる地位に就いたとしても、時房や政子という存在をそれからどう扱うのかというちょっと難しい問題はあるだろうとは思っております。
-------

と答えておられます。(p74以下)
そして、この「ちょっと難しい問題」を考え続けた高橋氏の結論は『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)に整理されています。
即ち、

-------
【前略】後鳥羽上皇の義時追討の命令が下された対象として慈光寺本『承久記』が記載しているのは、武田・小笠原・小山・宇都宮・中間(未詳)・足利氏と三浦義村、さらに北条時房である。時房の名がみえることは、後鳥羽上皇の挙兵の目的が、幕府打倒や北条氏打倒でもなく、義時一人の排除にあったことを物語っていよう。ただし、古活字本『承久記』には時房や足利義氏・中間五郎の名はみえず、千葉・葛西が加わっている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

とのことで(p103)、昔は「時房や政子という存在をそれからどう扱うのか」などとウジウジ悩んでおられた高橋氏も、「後鳥羽上皇の挙兵の目的が、幕府打倒や北条氏打倒でもなく、義時一人の排除にあった」、即ち「義時一人の排除」で後鳥羽は満足、という純度100%の義時追討説の境地に到達された訳ですね。
しかし、これは当時の武士のメンタリティを考慮すると余りに不自然な結論ではなかろうかと私は考えます。
たまたま、このシンポジウムでは、野口実氏は、

-------
実は、私は『武家の棟梁の条件』という本の中に、この時代の武士というのは暴力団と同じような存在だったのだと書きまして、いろいろな方たちから「武士を暴力団とは何事だ」と叱られているんですけれども、ただ、武士というのはずっと恨みを持っているんですね。暴力団抗争も、親分が殺されたから仕返しするんだということでよく行われていますけれども、それと同じなんですね。例えば、私が一つ考えているのは、畠山重忠が討たれた事件、二俣川の合戦というのですが、『吾妻鏡』にはいろいろ史料的な限界がありますけれども、これもよく調べてみると三浦義村が相当かんでるんですね。なんで義村がそんなに畠山重忠に恨みを持っているかというと、これは、実は治承四年の衣笠合戦にさかのぼるんです。つまり、義村のおじいちゃん義明は畠山重忠とその一族の軍勢に討たれているんですね。【中略】そのように鎌倉初期の頃の武士社会というのは一族対一族の恨みつらみといいましょうか、そういうものが、非常に単純なんですけれども政治的な動きに反映しているんではないかと思います。もう亡くなられましたけれども、大阪大学におられた黒田俊雄先生が提示された日本の中世の国家を理解するには非常に重要な権門体制国家論という理論があるのですけれども、承久の乱も国制史的に見ると、先程も高橋先生がおっしゃったように、国家の軍事権門いわゆる軍事警察機構を管理している機関としての鎌倉幕府の上に、国家権力全体を統括する公家権門である朝廷が存在すると考えられるわけで、その権門間同士の戦いなんだとそういう大きな見方もできるかと思うんです。しかし、その一方で、ちょっと次元が落ちちゃって申し分けないんですけれども、武士内部の意識の問題も考えてみる必要があるのではと思います。
-------

と言われていますが(p80以下)、この種の武士のメンタリティを考慮した場合、高橋氏が到達された「後鳥羽上皇の挙兵の目的が、幕府打倒や北条氏打倒でもなく、義時一人の排除にあった」、即ち「義時一人の排除」で後鳥羽は満足、という純度100%の義時追討説には無理がありますね。
一族の恨みを後に残さないためには一族の皆殺しが必要となり、義時を殺すのであれば時房も殺さなければ駄目です。
それが当時の武家社会の常識であり、従って後鳥羽院が武家社会に対処する場合にも常識となります。
まあ、女性は出家等で許されることが多いので、政子は別扱いになるかもしれませんが。
さて、前回投稿の最後に、慈光寺本への信頼と権門体制論の関係について少し検討すると書きましたが、これはやはりシンポジウムの記録などではなく、高橋氏自身が書かれた論文に即して検討する方がよさそうなので、もう少し後の課題とします。

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「第五回三浦一族シンポジウム」(その2)

2023-02-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「後鳥羽の意図としては頼経をそのままにしておいて北条氏に変わって三浦氏を北条氏の立場に置く」の続きです。(p69以下)

-------
 その慈光寺本によりますと、胤義が義村に手紙を書きますが、その中では北条氏に変わる立場に兄弟二人で立とうではないかということを言っているんですね。おそらく後鳥羽の意図は最初そういうところにあった。
 ところが、そういう意図で起こされた戦いにもかかわらず、それが鎌倉側では北条政子の大演説によって、北条義時相手の戦争が、幕府相手の戦争と意識されるようになってきた。後鳥羽側も、最初味方につけようとしていた寺社勢力、その他の権門が動いてくれなかった。結局、朝廷の中での後鳥羽が浮き上がってしまった。結果として鎌倉幕府との戦いになってしまった。そのように解釈できるのではないかなと思っています。
-------

うーむ。
高橋氏は慈光寺本を読んで、あの空想的義時追討計画を含む胤義の手紙の内容を史実と考え、かつそれが「後鳥羽の意図」を反映しているものとされている訳ですね。
ちょっとびっくりです。
また、高橋氏は「鎌倉側では北条政子の大演説によって、北条義時相手の戦争が、幕府相手の戦争と意識されるようになってきた」、要するに御家人たちは政子の演説に騙された、と言われる訳ですが、これは高橋氏だけでなく、義時追討説に立つ研究者がよく言われることですね。
例えば野口実氏は「序論 承久の乱の概要と評価」(野口編『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』、戎光祥出版、2019)において、

-------
 ここで政子は、義時追討を幕府追討にすり替えることによって彼らを説得してしまう。すなわち、義時が討たれれば、頼朝以来築き上げてきた幕府という組織とその機能が消滅し、御家人たちの既得権が失われてしまうことを、頼朝の後家、頼家・実朝の母、義時の姉という立場から情を交えて切々と語りかけたのである。
 後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとしたのであって、決して幕府を消滅させようと考えていたのではなかった。北条氏の専権に不満を持つ御家人たちが義時追討の宣旨を受けて立ち上がることを期待していたのである。しかし、この政子の説得によって、院の目算は水泡に帰してしまった。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8

という具合いに、政子が「義時追討を幕府追討にすり替え」たと言われますが、これは幕府の有力御家人らに事態を正確に認識する能力がなく、彼らは政子の口先三寸に騙されるほど莫迦だった、と言うに等しい評価です。
果たして彼らは本当にそこまで莫迦だったのか。
私は、後鳥羽側に付くか幕府側に付くかの判断を誤れば命を失う状況に置かれていた当時の御家人たちの方が、現代の安楽椅子探偵の方々よりは遥かに切実に、遥かに正確に事態の本質を把握していたのではなかろうか、と考えます。
ま、それはともかく、シンポジウムに戻って、少し後の高橋氏の発言です。(p73)

-------
 私の意見は先程言いましたとおり、承久の乱は後鳥羽が鎌倉幕府を倒そうという戦ではなかった。今、研究者の間では、幕府とか朝廷の関係をどうとらえるかという考え方で、いくつか色々な考え方があるんですが、その一つに権門体制、つまり、朝廷というのは一塊ではない。その中に、色々なものを担当する権門という固まりがあって、その頂点にたっているのが天皇であり上皇なりなんです。最初の武家権門として成立してきたのが鎌倉幕府だという考え方があるのです。ところが、鎌倉幕府の力があまりに強くなり過ぎてしまった。それで、後鳥羽としてはなんとかそれを弱体化させよう。一番力を持っているのは、北条義時と北条政子で、それを大江広元達が支えて政権を作っていると考えてもいいような当時の幕府ですから、その中で義時を倒して幕府を弱体化させて、後鳥羽の言いなりになる武家権門、後鳥羽の言うことを聞く武力に作りかえようというのが意図されていたんではないかと思います。そして、今鈴木さんのほうからもお話があった通りその切っ掛けになった長橋荘【ママ】、これは義時が地頭職として持っていた所なんですが、そこの問題にいちゃもんをつけると言いましょうか、そこから手始めに幕府というか義時に対して妥協をさせていこうとしたんですが、義時は妥協しない。それならば義時を力ずくで排除しようという方向に向かったのが承久の乱の切っ掛けではないのかなと思います。
-------

高橋氏が「長橋荘」と言われたはずはありませんが、この誤植は面白いですね。
それと、権門体制論との関係も興味深いところです。
私はかねてから慈光寺本を信頼する(私の立場からすれば「妄信」する)研究者には権門体制論者が多いと思っていたのですが、この点は野口実氏の発言も踏まえ、次の投稿で少しだけ検討してみたいと思います。

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「第五回三浦一族シンポジウム」(その1)

2023-02-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

三浦氏に特に関心がなかった私は上杉孝良氏のお名前も知りませんでしたが、横須賀の郷土史を中心に多くの著書を出されている方ですね。

https://uesugi2.mystrikingly.com/

また、私は『三浦一族研究』も初めて手にしましたが、なかなかレベルの高い雑誌ですね。
上杉論文が載っている第3号(1999)には「第五回三浦一族シンポジウム」の記録もあり、こちらも大変参考になりました。
このシンポジウムの基調講演は「聖徳大学教授」野口実氏がされていて、パネリストは野口氏の他に「神奈川県地域史研究会委員」の伊藤一美氏と「放送大学講師」高橋秀樹氏、司会は「NHK文化センター講師」の鈴木かほる氏です。
特に興味深いのは高橋秀樹氏の見解で、私は先月五日の投稿で高橋氏の『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)に触れて、「慈光寺本『承久記』の極端な重視、というか偏愛が溢れていて、ちょっとびっくり」など書いたのですが、この時にはどうにも理解できなかった高橋氏の発想のルーツが、このシンポジウムでの発言記録で分かったように感じました。

「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

まず、司会者から発言を求められた高橋氏は、若干の前置きの後、次のように述べられます。(p68以下)

-------
 最初に、野口先生もおっしゃっておられましたけれども、実は承久の乱の研究はあまり進んでおりません。それは、史料がほとんどないというのが理由なんです。普通でしたら、『吾妻鏡』がありますし、公家の日記というのがかなりこの時代残っているはずなんですが、みごとに承久の乱の前後というのは公家の日記がないんですね。現存するものがない。『吾妻鏡』も承久の乱が起こったということ、挙兵したという第一報が届けられたというところから始まって、事件の経過や事件の処理が書いてあるだけでして、どういう過程でこの戦が起こったのか、或いは後鳥羽上皇は何を考えていたのかが分からない。そうなると、殆ど唯一の史料として使えるのが『承久記』という軍記ものです。ところが、『平家物語』とかその他の軍記ものもそうなんですが、こういう作品の特質としまして、色々な種類の本がある。日記等を写すときには正確に写そうとしますけれども、物語のようなものは写されていくのと同時にどんどん改編【ママ】されていってしまう、中身が変えられていく。そこでこの『承久記』もどの本によって考えるかでこの乱の評価が変わってきてしまいます。
 今日のお話は多分、古活字本といわれる一般的に流布している本に基づいてお話をされていた部分が多いかと思うんですが、実は最近、それとは違う系統のもう少し古い良い本があるぞということが着目されております。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
野口氏の基調講演では慈光寺本への言及もありますが、例の義時追討の院宣について、「武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西ら」に下したと書かれていて、これは流布本(古活字本)の順番通りです。
即ち、流布本には、

-------
東国へも、院宣を可被下とて、按察使前中納言光親卿奉て七通ぞ被書ける。左京権大夫義時朝敵たり、早く可被致追討、勧賞請によるべき(趣)なり。武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西にぞ被下ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f8a072cdb6139153b2b85c4fcaddf58

とあって、七人だけなので「ら」は変ですが、流布本に従っていることは明らかです。
ちなみに慈光寺本では、

-------
 又十善ノ君ノ宣旨ノ成様ハ、『秀康、是ヲ承レ。武田・小笠原・小山左衛門・宇津宮入道・中間五郎・武蔵前司義氏・相模守時房・駿河守義村、此等両三人ガ許ヘハ賺遣ベシ』トゾ仰下サル。秀康、宣旨ヲ蒙テ、按察中納言光親卿ゾ書下サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1

となっていて、流布本と比べると千葉・葛西が存在しない代わりに「中間五郎」と足利義氏・北条時房の三人が加わって、合計八人になっています。
この他、一々指摘はしませんが、野口氏の基調講演が「古活字本といわれる一般的に流布している本に基づいてお話をされていた部分が多い」ことは確かですね。
さて、「実は最近、それとは違う系統のもう少し古い良い本があるぞということが着目されております」の続きです。(p69)

-------
慈光寺本と呼ばれる本で、岩波の新古典文学大系に入ったんで非常に読みやすくなった本です。それを使うとちょっと承久の乱に対する評価が変わってくるんじゃないかと思っております。野口先生は、基調講演の中で承久の乱というのは後鳥羽院という権門と幕府との戦さなんだという評価をなさいました。確かに、結果的にはそうなったんだと思います。ただその『承久記』の慈光寺本を見ていきますと、後鳥羽の最初の意図とするのはそうではなかったんではないかという気がしているんです。通説では、幕府に近い九条とか西園寺というのは後鳥羽の謀議からは外されたと言われています。ところが、慈光寺本を見ますと、九条道家は後鳥羽の下で開かれた公卿会議のメンバーに入っています。しかも彼は仲恭天皇が即位した段階で摂政の地位に就いているんですね。仲恭天皇は承久の乱の少し前に即位しますが、後に九条廃帝と言われた天皇です。
 承久の乱が終わって、後堀河という天皇が擁立されますが、その時には道家は失脚しているんですね。替って近衛家実が摂政になっている。そうなると、どうも道家は承久の乱と無関係ではないだろうという感じがしてきます。でも道家の子九条頼経というのが、鎌倉に下っていますから彼が息子を見殺しにすることはない。あれは実は、後鳥羽を中心とする朝廷が北条義時相手にやった戦争、しかけた戦争なんですね。そういうふうに解釈できるんではないか。後鳥羽の意図としては頼経をそのままにしておいて北条氏に変わって三浦氏を北条氏の立場に置く。
-------

慈光寺本では亀菊エピソードの最後に「公卿僉議」と、そこで出た「近衛殿」(基通)の消極意見に対する卿二位の反論が出てきます。
確かに「公卿僉議」の参加者には九条道家が含まれるので、慈光寺本だけに存在するこの話を信じるのであれば、「どうも道家は承久の乱と無関係ではないだろうという感じ」もしてきますね。
ただ、高橋氏が卿二位の反論なども信じるのであれば、私は若干の疑問を感じます。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その11)─亀菊と長江荘
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/631429bc62ffdd914e89bfb7e34289f8
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その12)─卿二位が登場する意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34ab5510c317b7bfc3313a37223bcb77

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その16)─胤義子息の処刑話は「創作」か

2023-02-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

今まで流布本と慈光寺本の比較を、具体的な場面に即して何度か行ってきましたが、慈光寺本に比べると流布本の描写は概ね穏当ですね。
藤原秀康と三浦胤義の密談場面はその典型で、流布本では、秀康は「雨ふり閑なる夜、平九郎判官胤義を招寄て、門指固て、外人をば不寄、向ひ居て酒宴」し、「夜更て後」、つまり初対面の胤義を時間をかけて慎重に観察した後、初めて後鳥羽院の意図を胤義に打ち明け、反応を見ます。

(その14)─流布本の秀安・胤義密談エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29c0c7bbf10b299d004770ef6c020b2a

これに対し、慈光寺本では、酒盛を始めて間もなく、秀康は「和殿ハ一定心中ニ思事マシマスラント推スルナリ」などと言って、「殿ハ鎌倉ニ付ヤ付ズヤ、十善ノ君ニハ随ヒマヒラセンヤ、計給ヘ、判官殿」と胤義に決断を迫り、それに対して胤義も空想的な義時追討計画を、兄・義村に送る手紙の詳細な文面まで含めてベラベラしゃべりまくるという唐突さです。

(その13)─三浦胤義の義時追討計画
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8

そもそも大野心家の北条義時が、源実朝が死んで源氏が三代で絶えた以上、これからは俺が「日本国ヲバ知行」するのだ、「義時一人シテ、万方ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍フベキ」と唐突に豪語して以降、慈光寺本のストーリー展開は一貫して唐突です。
これに対し、流布本のストーリーは良く言えば慎重、悪く言えばドラマチックさと面白さに欠けます。
しかし、戦後処理において、佐々木広綱の息子・勢多伽丸の悲惨な話に続いて描かれる胤義の子供の処刑に限っては、流布本が極めてドラマチックであるのに対し、慈光寺本には対応する記事がありません。
そして、宝治合戦での三浦側の死者の交名を載せた『吾妻鏡』宝治合戦(1247)六月二十二日条に照らすと、上杉孝良氏が「『承久記』私考─「三浦胤義の子供、處刑の事」について」(『三浦一族研究』3号、1999)で明らかにされたように、流布本の記述は史実とは言い難いものです。
では、上杉氏が言われるように「この胤義の遺児が斬られる挿話は、ことさら同族相争戦う非情さを演じて破れ自害した三浦胤義父子の悲劇性を強調する意図」で、「創作し挿入されたもの」であって、「その時期も流布本成立後、それも三浦氏が滅んだ宝治合戦(一二四七)後のこと」と考えるべきなのか。
私としては、この話は意図的な「創作」ではなく、承久の乱の後、真偽入り乱れた様々な情報が交錯する中で流された噂話を採り入れたもので、結果的には事実ではなかったものの、流布本作者は真実と信じて書いたのではないか、と思っています。
状況的には、ちょうど藤原定家の息子・為家が順徳院の佐渡配流に同行するとの噂話と似ていて、流布本には、

-------
同廿ニ日、新院、佐渡国へ被移させ給。御供には、冷泉中将為家朝臣・花山院少将茂氏・甲斐兵衛佐教経、上北面には藤左衛門大夫安光、女房右衛門佐局以下女房三人参給ふ。角〔かく〕は聞へしかども、冷泉中将為家朝臣、一まどの御送をも不被申、都に留り給。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95463ff3ed9d424ab627e6c5ae5ede87

とありますが、実際には為家は都を一歩も出ておらず、事実ではなかったのに流布本にはこの噂話が残っています。
これは為家の身の処し方に好意的ではない流布本作者が、事実を知った後、為家に筆誅を加えるために載せたのではないかと思われますが、胤義子息の方は、流布本作者が事実を知ることができないまま流布本(の原型)を執筆し、結果的に事実とは異なる噂話が残ってしまったのではないか、と私は考えます。

慈光寺本は本当に「最古態本」なのか。(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e968d1055c6c4e148ff37749449f6f6

さて、では何故に慈光寺本には胤義子息の処刑の話が出ていないのかというと、それは慈光寺本の作者が事実ではないことを知っていたからですね。
つまり、この話は慈光寺本の方が流布本(の原型)より後に作られたことの証拠ではないか、というのが私見です。
そして、慈光寺本の作者が藤原能茂で読者が三浦光村であったならば、光村はもちろん、娘を通して三浦家の事情に詳しい能茂も、当然に胤義子息の生存を知っていたので、古い噂話など書かなかった、ということになります。
また、慈光寺本の「三浦ニ九七五ナル子供三人乍、権太夫ノ前ニテ頸切失給ヘ」云々は、一般の読者にとっては流布本を参照しないと非常に分かりにくい話ですが、光村にとっては直ちに理解可能な話となります。

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その15)─胤義の息子たち

2023-02-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

三浦胤義の息子たちの話、先行研究を調べたら、直近では神戸大学教授・樋口大祐氏の「歴史文学と多重所属者─慈光寺本『承久記』における三浦胤義について」(倉本一宏編『説話研究を拓く 説話文学と歴史史料の間に』所収、思文閣出版、2019)という短い論考がありますが、私には特に役に立つ内容ではありませんでした。
ついで上杉孝良氏の「『承久記』私考─「三浦胤義の子供、處刑の事」について」(『三浦一族研究』3号、1999)を読んでみたところ、こちらは諸系図を用い、基礎的な事実関係を丁寧に追っていて大変参考になりました。
この論文の冒頭に、

-------
 逗子市桜山の田越川畔に「三浦胤義遺孤碑」が大正十一(一九二二)に建立され、この地で処刑されたという三浦胤義の遺児四人の冥福が祈られている。この故事は承久の乱に関する軍記物語として著名な『承久記』に叙述されているもので、公家・武家両勢力の権力争いのなかで、兄弟・同族が相争うという三浦一族の悲劇を今日に伝承しているのである。
-------

とありますが、検索してみたところ、「厨子・葉山WEB」というサイトに「三浦胤義遺孤碑」の写真が載っていますね。

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 ~逗子市 三浦胤義遺孤碑~
https://zushi-hayama.jp/cd/app/?C=feature&H=default&D=00046

さて、上杉論文は、

-------
 はじめに
一、諸系図にみる胤義父子
二、『承久記』諸本にみる胤義父子
三、胤義父子の疑点について
四、原型は『保元物語』か
 おわりに
-------

と構成されていて、第一節において「諸家系図纂」・「佐野本系図」「系図纂要」の検討がなされています。
そして、第三節において、上杉氏は、

-------
 このように考察してくると流布本・前田家本等に載る胤義父子に関する記述、特に「三浦胤義の子供、処刑の事」は史実とは理解し難く、創作されたものとみて大過ないであろう。これらの諸本には三浦一族の記述が多くみられるが、この胤義の遺児が斬られる挿話は、ことさら同族相争戦う非情さを演じて破れ自害した三浦胤義父子の悲劇性を強調する意図があって、この事件を創作し挿入されたものと推察され、その時期も流布本成立後、それも三浦氏が滅んだ宝治合戦(一二四七)後のことであろうと考えられるのである。
 では、三浦胤義の子供たちについて、これまでの史料の中から事実に近いものが探り得るのか、次に見てみよう。
 さきに掲載した「諸家系図纂」、「佐野本系図」および「系図纂要」の三浦系図に記された胤義の子で、父とともに自害した胤連、兼義を除き、男子で共通的に見える名は義有、高義、胤泰(康)の三人である。それは『吾妻鏡』の宝治元年六月二十二日条に披露された宝治合戦の「自殺討死等」交名にある胤義の子、「平判官太郎左衛門尉義有、同次郎高義、同四郎胤泰」の三人と合致するもので、前述したとおりである。さらにこの三人を『承久記』諸本に求めれば、慈光寺本の「上巻」に胤義の言葉として、「三浦ニ九七五ナル子供三人乍、権太夫ノ前ニテ頸切失給ヘ…」とあり、承久の乱当時、三浦に九歳、七歳、五歳になる三人の男児がいたことが記される。この三人の子供が二十六年後の宝治の乱で、三浦宗家に殉じて自害した義有・高義・胤泰に比定されるものと思われ、各々三十五歳、三十二歳、三十一歳に成長して官途に就くまでになっていたと理解されるのである。
 このことから推察すれば、胤義は上洛するさい妻と年長の嫡男胤連と次男兼義を伴い、他の幼稚であった義有・義高【ママ】・胤泰の少なくとも三人の男児は、三浦に残したものと考えられる。承久の乱の状況を見るに幼児を三浦に残したればこそ、助命される環境にあったのではなかろうか。京都に在れば、また別の運命を辿ったとも考えられるのである。
 以上のことから胤義の子供は、承久合戦で自害した胤連、兼義の二人と、三浦に残された義有、高義、胤泰の三人の男子五人、それに大津尼と号した女子一人の少なくとも六人が、実際には存在したものとみることが可能であろう。さきに引用した三系図の中で、「佐野本系図」の記載内容がこれにより近いものと言えるのではなかろうか。
-------

とされていて(p39以下)、私も概ね合理的な推定であろうと思います。
ただ、上杉氏は慈光寺本を「その記述内容からこの本が現存する『承久記』諸本中の最古態本であるとされる」(p34)、「すなわち慈光寺本は他の諸本の祖本ともいうべき位置に置かれている」(同)とされるので、「祖本」である慈光寺本には存在しない記事が、後続の流布本で「創作し挿入されたものと推察」される訳ですね。
なお、巻末の注を見ると、上杉氏は冨倉徳次郎の「慈光寺本承久記の意味─承久記の成立」(『国語国文』13-8,昭和十八年八月)を「通説」とする立場であり、更に、

-------
村上光徳「慈光寺本承久記の成立年代考」(『駒沢国文』創刊号 昭和三十四年十一月)。本論は冨倉氏の貞応元年から二年五月までの成立というのは、"原慈光寺本"成立の時期とし、寛喜以降に加筆されたものが、今の慈光寺本であろうとした。
-------

と書かれているので、この点は今ではちょっと珍しい研究史整理ですね。
ところで、私自身は流布本の「原型」(といっても後鳥羽院・土御門院といった諡号を別の表現に置き換えた程度のもの)が「最古態本」で、慈光寺本はそれを参照しつつ、独自の見解を大幅に加筆修正したものと考えている訳ですが、私の立場からは流布本の胤義子息エピソードをどのように捉えることができるのかについては次の投稿で述べます。

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その14)─流布本の秀安・胤義密談エピソード

2023-02-19 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

流布本にも藤原秀康(流布本では「秀安」)と三浦胤義の密談エピソードは存在します。
即ち、

-------
 一院、弥〔いよいよ〕不安〔やすからず〕思召ければ、関東を可被亡由定めて、国々の兵〔つはもの〕共、事によせて被召ける。関東に志深き輩も力不及、召に随ひて伺候しけり。其比、関東の武士下総前司守縄も伺候してけり。平九郎判官胤義、大番の次〔つい〕で在京して候ければ、院、此由被聞召て、能登守秀安を被召て、「抑〔そもそも〕胤義は関東伺候の身として、久〔ひさしく〕在京するは何事ぞ。若〔もし〕存ずる旨あるか。尋きけ」と被仰ければ、秀安承て、雨ふり閑〔しづか〕なる夜、平九郎判官胤義を招寄て、門指固〔さしかため〕て、外人をば不寄、向ひ居て酒宴し遊けり、夜更〔ふけ〕て後、秀安申けるは、「関東御奉公の御身にて、御在京は如何なる御所存にて候やらん。内々尋承り候へと御気色にて候」。胤義、「別〔べち〕の儀不候。当時、胤義が相具して候者(は)、故大将殿の切者〔きりもの〕、意法坊生観が娘にて候。故左衛門督殿に被思参せて、男子一人まうけ奉りしを、権大夫に無故被失て、『憂き者に朝夕姿を見する事よ』と、余に泣嘆候間、さて力不及、角〔かく〕て候なり」と申。秀安、「地体〔ぢたい〕義時は、院中の御気色よからぬ者にて候。如何にして義時打せ可給御計〔はかりこと〕は候べき」と申ければ、胤義、「一天の君の思召〔おぼしめし〕立せ給はんに、何条叶はぬ様の候はんぞ。日本国重代の侍共、仰を承りて、如何でか背き進〔まゐ〕らせ候べき。中にも兄にて候三浦の駿河守、きはめて鳴呼〔をこ〕の者にて候へば、『日本国の惣追捕使にも被成ん』と仰候はゞ、よも辞申候はじ。さ候ば、胤義も内々申遣し候はん」とて帰りにけり。秀安、賀陽院〔かやのゐん〕殿の御所に参りて、「胤義、角こそ申候つれ」と申ければ、一院、ゑつぼに入せ給て、胤義を召て御尋有。秀安が申つるに少も不違、同じ言葉に申ければ、今は角〔かく〕と被思召て、鳥羽の城南寺の流鏑馬汰〔そろ〕へと披露して、近国の兵共を被召けり。大和・山城・近江・丹波・美濃・尾張・伊賀・伊勢・摂津・河内・和泉・紀伊・丹後・但馬、十四箇国、是等の兵〔つはもの〕参りけり。内蔵権頭清範、承て著到を付。宗徒の兵一千七百人とぞ註したる。
-------

とあって(松林靖明『新訂承久記』、p56以下)、関東を滅ぼそうと決意した後鳥羽院は胤義が在京していると聞き、味方にできるか様子を探ってこいと秀康に命じます。
そして秀康は、雨が降って静かな晩に胤義を自邸に招き、門を固めて余人が寄らないようにした後、二人だけの酒宴を催し、世が更けてから、「関東御奉公の御身でありながら、在京しておられるのはいかなる御意向がおありでしょうか。後鳥羽院から内々にお聞きするように命ぜられたのでお尋ねします」と胤義に聞くと、胤義は「自分の妻は源頼朝の切者(主君の寵愛を得て権勢を振う者)であった意法坊生観の娘ですが、故左衛門督殿(源頼家)の男子を儲けたのに、権大夫(北条義時)に理不尽にも殺されてしまったので、義時とは顔を合わせるのもつらいと毎日泣き嘆くので、鎌倉を離れて京に参りました」と答えます。
秀康が重ねて「もともと義時は後鳥羽院が面白く思っておられない者ですが、義時を討つための御方策は何かありましょうか」と聞くと、胤義は、「一天の君が御決意なさったならば、どうして叶わないことがありましょう。日本国中の武士が仰せを受けて、どうして従わないことがありましょう。中でも私の兄の三浦駿河守(義村)は本当に鳴呼(馬鹿)なので、『日本国の惣追捕使に任じよう』と仰せになれば、まさか断ることはないでしょう。その場合には、私からも内密に連絡いたします」と答えます。
このストーリーの骨格は慈光寺本と同じですが、慈光寺本より遥かに自然な流れになっていますね。
兄は馬鹿だから、日本国の惣追捕使にすると言われたら従いましょう、程度の応答の方が、慈光寺本のあまりに粗雑な、芝居がかった、ちょっと莫迦っぽい義時追討計画より遥かにリアルです。
さて、慈光寺本の空想的な義時追討計画の中には、「胤義ガ兄駿河守義村ガ許〔もと〕ヘ文ヲダニ一下〔ひとつくだし〕ツル物ナラバ、義時打取ランニ易〔やすく〕候」とした上で、胤義が兄・義村に送る具体的な書状案が含まれています。
その書状案は、

-------
「胤義ガ都ニ上リテ、院ニ召〔めさ〕レテ謀反ヲコシ、鎌倉ニ向テ好矢〔よきや〕一〔ひとつ〕射テ、今日ヨリ長ク鎌倉ヘコソ下〔くだ〕リ候マジケレ。去〔され〕バ昔ヨリ八ケ国ノ大名・高家〔かうけ〕ハ、弓矢ニ付〔つけ〕テ親子ノ奉公ヲ忘レヌ者ナレバ、権大夫ハ大勢〔おほぜい〕ソロヘテ都ヘ上〔のぼ〕セテ、九重中〔ここのへぢう〕ヲ七重八重〔ななへやへ〕ニ打巻〔うちまき〕テ、謀反ノ輩責玉〔せめたま〕ハンズラン。駿河殿ハ、権大夫ト一〔ひとつ〕ニテ、三浦ニ九七五ナル子供三人乍〔ながら〕、権太夫ノ前ニテ頸切〔くびきり〕失〔うしなひ〕給ヘ。サヤウ成ヌル物ナラバ、殿ト権太夫殿、中ハ隔心〔きやくしん〕ナクシテ、諸国ノ武士ハ上〔のぼる〕トモ、殿ハ上〔のぼら〕ズシテ、三浦ノ人共勧仰〔すすめおほ〕セテ、権太夫ヲ打玉ヘ。打〔うち〕ツル物ナラバ、胤義モ三人ノ子共ニヲクレテ候ハン其替〔そのかはり〕ニ、殿ト胤義ト二人シテ日本国ヲ知行〔ちぎやう〕セン」
-------

というものですが、前回投稿で書いたように、「三浦ニ九七五ナル子供三人乍〔ながら〕、権太夫ノ前ニテ頸切〔くびきり〕失〔うしなひ〕給ヘ」は、この部分だけでは意味がはっきりしません。
しかし、流布本下巻の戦後処理の部分に、

-------
其外、東国ニモ哀レナル事多キ中ニ、平九郎判官胤義ガ子供五人アリ。十一・九・七・五・三也。ウバノ尼ノ養ヒテ、三浦ノ屋部ト云所ニゾ有ケル。胤義其罪重シトテ、彼ノ子共、皆可被切ニ定メラル。叔父駿河守義村、是ヲ奉テ、郎等小河十郎ニ申シケルハ、「屋部ヘ参テ申サンズル様ハ、「力不及、胤義御敵ニ成候シ間、其子孫一人モ助カリガタク候。其ノ物共、出サセ可給」由、可申」トテ遣ス。十郎、屋部ニ向フテ此由申ケレバ、力不及、十一ニナル孫一人ヲバ留メテ、九・七・五・三ニナル子共ヲ出シケリ。小河十郎、「如何ニ、ヲトナシクヲハシマス豊王殿ヲバ出シ給ハヌ哉覧」ト申ケレバ、尼上、「余ニムザンナレバ、助ケント思フゾ。其代リニハ尼ガ首トレ」ト宣ケレバ、ゲニハ奉公ノ駿河守ニモ母也、御敵胤義ニモ母也、ニクウモイト惜モ有間、力不及、四人計ヲ輿ニノセテ返リニケリ。鎌倉中ヘハ不可入トテ、手越ノ河端ニヲロシ置誰バ、九・七・五ハ乳母々々ニ取付テ、切ントスルト心得テ泣悲ム。三子ハ何心モナク、乳母ノ乳房ニ取付、手ズサミシテゾ居タリケル。何レモ目モアテラレヌ有様也。日已ニ暮行バ、サテアルベキ事ナラネバ、腰ノ刀ヲ抜テ掻切々々四ノ首ヲ取テ参リヌ。四人ノ乳母共、空キカラヲカゝヘテ、声々ニ呼キ叫有様、譬テ云ン方モナシ。ムクロ共輿ニノセ、屋部ヘ帰リテ孝養シケリ。祖母ノ尼、此年月ヲフシタテナレナジミヌル事ナレバ、各言シ言ノ葉ノ末モワスラレズ、今ハトテ出シ面影モ身ニ添心地シテ、絶入給ゾ理ナル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3524c6fda5cab1bff97581a0c9edfee4

という悲惨な話が載っていて(新日本古典文学大系、p404)、これを参照すると、胤義の十一・九・七・五・三歳の五人の子供のうち、九・七・五歳の子の首を、義時への忠誠を偽装する手段として義時の面前で斬れ、という話であることが分かります。
流布本を参照しなければ慈光寺本の意味が通らないのですから、私はこの書状云々の部分は慈光寺本の作者が流布本(の原型)を参照していた証拠であり、即ち流布本(の原型)が慈光寺本に先行する「最古態本」である証拠だと考えていました。
今でもその考えに変更はありませんが、しかし、私は流布本の胤義子息エピソードに関して、重大な誤解をしていました。
というのは、私はこのエピソードが事実の記録であり、胤義子息は祖母に保護された十一歳の子を除き、みんな殺されてしまったと思っていたのですが、宝治合戦での三浦側の死者の交名を載せた『吾妻鏡』宝治合戦(1247)六月二十二日条には、胤義の子息が三人登場し、さらにその子息の息子、胤義の孫一人と合わせると、胤義の子孫が四人も載っています。
従って、流布本の記述は誤りとなりますが、これをどう考えるべきなのか。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma38-06.htm

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その13)─三浦胤義の義時追討計画

2023-02-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

慈光寺本では、藤原秀康が予め三浦胤義を知っていて、後鳥羽院に「駿河守義村ガ弟ニ、平判官胤義コソ此程都ニ上テ候エ。胤義ニ此由申合テ、義時討ン事易候」と提案しますが、流布本では、逆に後鳥羽院が三浦胤義の在京を知っていて、藤原秀康に「抑〔そもそも〕胤義は関東伺候の身として、久〔ひさしく〕在京するは何事ぞ。若〔もし〕存ずる旨あるか。尋きけ」と命じています。
僅かな違いですが、こんなところにも流布本が後鳥羽院の独裁者性を強調し、慈光寺本がそれを弱めていることが現れています。
さて、続きです。(p308以下)

-------
 能登守秀康ハ、高陽院殿〔かやのゐんどの〕ノ御倉町〔みくらまち〕辺ノ北辺〔ほくへん〕ニ宿所有ケリ。平判官胤義ヲ請寄〔しやうじよせ〕、酒盛〔さかもり〕ヲ始テ申様〔まうすやう〕、「今日ハ判官殿ト秀康ト、心静〔しづか〕ニ一日〔ひとひ〕酒盛仕ラン」トテ、隠座〔をんざ〕ニ成テ、能登守申様、「ヤ、判官殿、三浦・鎌倉振棄〔ふりすて〕テ都ニ上リ、十善君ニ宮仕〔みやづか〕ヘ申サセ給ヘ。和殿〔わどの〕ハ一定〔いちぢやう〕心中ニ思事〔おもふこと〕マシマスラント推〔すい〕スル也。一院〔いちゐん〕ハヨナ、御心サスガノ君ニテマシマス也。此程思食〔おぼしめす〕事有ヤラント推シ奉〔たてまつる〕。殿ハ鎌倉ニ付〔つく〕ヤ付〔つか〕ズヤ、十善ノ君ニハ随ヒマヒラセンヤ、計〔はからひ〕給ヘ、判官殿」トゾ申タル。
 判官ハ此由〔このよし〕聞〔きき〕、返答申ケルハ、「神妙〔しんべう〕也トヨ、能登殿。胤義ハ先祖ノ三浦・鎌倉振捨〔ふりすて〕テ、都ニ上リ、十善ノ君ニ宮仕マヒラスルハ、心中ニ存事〔ぞんずること〕ノ候也。如何ト申セバ、胤義ガ妻ヲバ誰トカ思食〔おぼしめす〕。鎌倉一トハヤリシ一法執行〔いちほふのしゆぎやう〕ガ娘ゾカシ。故左衛門督殿ノ御台所ニ参テ候シガ、若君一人出来〔いでき〕サセ給テ候キ。督殿〔かうどの〕ハ遠江守時政ニ失ハレサセ給ヌ。若君ハ其子ノ権大夫義時ニ害セラレサセ給ヌ。胤義契〔ちぎり〕ヲ結〔むすび〕テ後、日夜ニ袖ヲ絞ル、ムザンニ候。「男子〔なんし〕ノ身也セバ、深山ニ遁世シテ念仏申メレ、後生ヲモ弔マヒラスベキニ、女人ノ身ノ口惜サヨ」ト申シテ流涙〔ながすなみだ〕ヲ見〔みる〕ニ付テモ、万〔よろ〕ヅ哀〔あはれ〕ニ候也。三千大千世界ノ中ニ、黄金ヲ積テ候共〔とも〕、命ニカヘバ物ナラジ。勝〔まさり〕テ惜キハ人命〔ひとのいのち〕也。ワリナキ宿世〔すくせ〕ニ逢ヌレバ、惜命〔をしきいのち〕モ惜カラズ。去バ胤義ガ都ニ上テ、院ニ召サレテマイリ、謀反起〔おこし〕、鎌倉ニ向テヨキ矢一〔ひとつ〕射テ、夫妻ノ心ヲ慰メバヤト思ヒ候ツルニ、加様〔かやう〕ニ院宣ヲ蒙〔かうぶる〕コソ面目ニ存〔ぞんじ〕候ヘ。胤義ガ兄駿河守義村ガ許〔もと〕ヘ文ヲダニ一下〔ひとつくだし〕ツル物ナラバ、義時打取ランニ易〔やすく〕候。其状ニ、「胤義ガ都ニ上リテ、院ニ召〔めさ〕レテ謀反ヲコシ、鎌倉ニ向テ好矢〔よきや〕一〔ひとつ〕射テ、今日ヨリ長ク鎌倉ヘコソ下〔くだ〕リ候マジケレ。去〔され〕バ昔ヨリ八ケ国ノ大名・高家〔かうけ〕ハ、弓矢ニ付〔つけ〕テ親子ノ奉公ヲ忘レヌ者ナレバ、権大夫ハ大勢〔おほぜい〕ソロヘテ都ヘ上〔のぼ〕セテ、九重中〔ここのへぢう〕ヲ七重八重〔ななへやへ〕ニ打巻〔うちまき〕テ、謀反ノ輩責玉〔せめたま〕ハンズラン。駿河殿ハ、権大夫ト一〔ひとつ〕ニテ、三浦ニ九七五ナル子供三人乍〔ながら〕、権太夫ノ前ニテ頸切〔くびきり〕失〔うしなひ〕給ヘ。サヤウ成ヌル物ナラバ、殿ト権太夫殿、中ハ隔心〔きやくしん〕ナクシテ、諸国ノ武士ハ上〔のぼる〕トモ、殿ハ上〔のぼら〕ズシテ、三浦ノ人共勧仰〔すすめおほ〕セテ、権太夫ヲ打玉ヘ。打〔うち〕ツル物ナラバ、胤義モ三人ノ子共ニヲクレテ候ハン其替〔そのかはり〕ニ、殿ト胤義ト二人シテ日本国ヲ知行〔ちぎやう〕セン」ト、文ダニ一下〔ひとつくだし〕ツル者ナラバ、義時討〔うた〕ンニ易〔やすく〕候。加様ノ事ハ延〔のび〕ヌレバ悪〔あしく〕候。急ギ軍〔いくさ〕ノ僉議〔せんぎ〕候ベシ」トゾ申タル。能登守秀康ハ、又此由院奏シケレバ、「申〔まうす〕所、神妙也。サラバ急ギ軍ノ僉議仕レ」トゾ勅定ナル。
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「一法執行」については久保田淳氏の脚注に、

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尊卑分脈、源頼家の子栄実に「母昌実法橋女」と見える昌実か。吾妻鏡には成勝寺執行一品房法橋昌寛が頻出する。あるいは昌実は昌寛と同一人か。古活字本は「意法坊生観ガムスメ」、前田本は「一法房と申ものゝ女という。
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とあります。
また、『吾妻鏡』建保二年(1214)十一月二十五日条には、

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晴。六波羅飛脚到着。申云。和田左衛門尉義盛。大學助義淸等餘類住洛陽。以故金吾將軍家御息〔号禪師〕爲大將軍。巧叛逆之由。依有其聞。去十三日。前大膳大夫之在京家人等。襲件旅亭〔一條北邊〕之處。禪師忽自殺。伴黨又逃亡云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma22a-11.htm

とあって、「故金吾將軍家御息」の「禅師」(永実)は和田合戦の残党に担がれて謀反を計画しているものとして、大江広元の「在京家人」に襲われて自殺しています。
これは義時の了解なしには行えなかったでしょうから、「若君ハ其子ノ権大夫義時ニ害セラレサセ給ヌ」は間違いではないですね。
さて、この藤原秀康と三浦胤義の密談自体はそれなりにリアルな感じがしますが、ここで胤義が語ったという義時追討計画はどうなのか。
そもそも、「三浦ニ九七五ナル子供三人乍、権太夫ノ前ニテ頸切失給ヘ」云々は、この部分だけだと意味が分かりにくく、流布本の下巻、戦後処理の部分と合わせて考えるとやっと意味が通り、胤義の十一・九・七・五・三歳の五人の子供のうち、九・七・五歳の子の首を、義時への忠誠を偽装する手段として義時の面前で斬れ、という話のようです。
しかし、自分の子供三人を犠牲にして、兄と二人で日本国を支配しようと提案するというのは何とも浅ましい話です。
そして、流布本に描かれた胤義の子供の運命を考えると、胤義が幕府を裏切ったという一報が鎌倉に届いた時点で胤義の子供は斬罪と決定され、仮に義村が胤義の三人の子の首を斬ったとしても、当たり前のことを当たり前にやっただけ、と評価される可能性は高そうです。
また、仮に義時が胤義の策略に乗って、よくやってくれた、さすがは義村殿は信頼できる、と思ったとしても、では大将軍をお任せするから存分に活躍して下さい、と言われる可能性も高そうです。
まあ、この胤義案は余りに粗雑な、芝居がかった、ちょっと莫迦っぽい義時追討計画ですね。

「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dddf5d1ff155e2007a1f34eb2458d38f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3524c6fda5cab1bff97581a0c9edfee4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6cfc6621dd621c55e9cac74188151569
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

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