学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

亀山多宝院

2010-03-31 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月31日(水)23時34分38秒

>筆綾丸さん
漢詩は不勉強で、手元にご紹介の『五山文学集』すら置いていませんので、取り急ぎアマゾンに注文しました。
ところで、「亀山多宝院 」で検索すると、自分のサイトから二つ出てきました。
まず最初は

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『宸翰英華』-伏見天皇震筆御事書

多宝院供養時、非近衛司勤仕楽行事例有無如何之由、被仰之時、康和五年安芸守経忠勤仕例、当時有御覚悟被申出之処、故院頻有叡感、被仰云、為老者記録不中用、不得引勘、於今者、誰家記悉早々可進新院、如此沙汰尤神妙之由、勅定及度々、其時堀河前相国、雅言、経任等卿令祗候奉之事、

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneiga-fushimi.htm

ついで龍粛『蒙古襲来』から、

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「五 蒙古牒使の累次の渡来」

五代帝王物語は、文永八年の夏に、後嵯峨法皇は如法経のために天王寺に御幸あり、ついで天王寺の金堂を移して亀山殿中に多宝院を建てて、救世観音・太子の御影を安置され、その供養の日には舞楽が行なわれることになっていたが、異国の事が起こったので、俄かに省略されて、異国降伏の御祈のために権中納言洞院公守を公卿勅使として伊勢に発遣されたことを記している。この勅使発遣は十二月十六日の事であった。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-mokoshurai-05.htm

多宝院はもともとは後嵯峨院が「救世観音・太子の御影を安置」するために造った建物なんですね。
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「王権」を支えるもの

2010-03-31 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月31日(水)20時42分39秒

新田一郎氏(東京大学教授、日本法制史)の「書評・小川剛生『二条良基研究』」(『国語と国文学』平成19年1月号)を入手したので、なるほどなと思ったところを紹介してみます。

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(前略)
 例えば近年、即位灌頂や印明伝授など、天皇に関わる仏教的な儀礼に関する関心が、歴史学に限らず、国文学・宗教学・民俗学・文化人類学などさまざまな方向から寄せられ、天皇の「中世的」あり方についての種々の(しかし残念ながら必ずしも相互に連絡しない)議論が展開されている。鎌倉時代以降、仏教の教説が提示するグローバルな宇宙像の中に天皇が位置づけを与えられていたことは、もとより重要な意味を持っていよう。しかしそのことは、天皇の存立が仏教宇宙の構造に依存していたことを直ちには意味しない。こうした儀礼は、天皇の側が必要としたものではなく、むしろ仏教界からの関連づけに端緒を持ち、そこに、自己のプレゼンスを確立するために特殊な役割を構築しようとする二条家の政治的な意図が絡んで生み出されたもの、と見るのが適切である。即位儀礼をめぐって二条家の役割の由緒として語られたところの多くが「後づけ」であることは、とくに第二篇第一章第一節「大嘗会神膳供進の儀と即位灌頂」の原形論文に対して橋本政宣氏から寄せられた批判(「即位灌頂と二条家(上)」『東京大学史料編纂所研究紀要』八、一九九八年。橋本『近世公家社会の研究』吉川弘文館、二〇〇二年、に再録)に対する委曲を尽くした応答において示されており、二条家は「王家の疑問や抵抗にあいつつ、伝授の実績を作り、時には相当な無理を通して、ようやく即位式に於ける執柄伝授という形式を作り上げたのであった」(一六三頁)とする著者の解釈には、強い説得力がある。
 だがその一方で「観応の擾乱の後、極度に衰弱した北朝の王権を内側から支えていたのが、二条家による「天子御灌頂」であったことも、また疑う余地はない」(一六七頁)というあたり、いったい「王権」の何をどう「支えた」のか、著者の想定するところが今ひとつ明瞭でない憾みを遺す。「神器を持たない北朝の天子に印明を授け続け、もって王権の完全ならんことを期させたのである」(二六二頁)というとき、著者の念頭には「完全な王権」がどのようなものとイメージされているのであろうか。
 天皇の存立にとって「神器」が必須のものであったかどうかにそもそも議論の余地があり、それを欠いた場合に何をどう補完される必要があったのか、また仏教儀礼によって実際に補完されえたのかどうかなど、なお多くの検討を要する。
 天皇の存立に必要とされるものは、その都度の条件の布置に応じて、自明ではなく一貫してもいない。「儀礼」はむしろ、「王権」の周囲にある諸ファクターがそれぞれの位置づけを引き出してくる上で、相互の役割関係を措定するための可視的なシグナルとして求められたものではなかったか。良基の主たる関心は二条家の存立にあったが、「家」は独り佇立しうるものではなく、社会構造の中に所を得て存立するものであるゆえに、「家」がその中に位置づけられるべき体制の確立が求められ、そのために義満が歓迎されたのではないか。このあたり、評者であれば、重要なのは「古典」に依拠しつつフレームの再構成が図られたことそのものであり、その実質的内容はさして重要ではなかったのではないか、と乱暴に括ってしまうかもしれないところではある。
(後略)
-------------

国文学者の「王権」に関する論文には変な空想世界に迷い込んでいるのではないかと思われるようなものが多数ありますが、小川剛生氏は権力に対する醒めた観察眼の持ち主で、それが『二条良基研究』の魅力のひとつです。
しかし、その小川剛生氏にしても、「王権」についての認識が一貫性を欠くのではないかと思われるところがいくつかあって、新田氏が指摘される箇所は確かに理解しにくいですね。
承久の乱以降のリアルな権力の世界では、「天皇の存立」は「仏教宇宙の構造に依存していた」訳ではなく、そんなものとは全く無関係に、武力を背景にして特定の天皇を支えようとする幕府の意思、あるいはとりあえず天皇を替える必要はないからそのままにしようかな、という程度の幕府の無関心に依存していたのではないかと私は思います。
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『受法用心集』

2010-03-31 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月31日(水)01時10分17秒

彌永信美氏のサイトで読めますね。
実に充実した、読み応えのあるサイトです。
「いわゆる『立川流』資料集」だけでも、印刷してみたら46ページもありました。

http://www.bekkoame.ne.jp/~n-iyanag/buddhism/tachikawaryu/juho_yojinshu.html

また、柴田賢龍氏のサイトも大変な充実振りです。

http://www.ab.auone-net.jp/~badra20/
http://blog.goo.ne.jp/sarvadharma

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「王権の本質」

2010-03-31 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月31日(水)00時55分58秒

>筆綾丸さん
末木文美士氏は現在は国際日本文化研究センター教授だそうですね。
数年前、東大の総合図書館に行ったとき、たまたま古い仏典の展示会をやっていて、末木氏が解説されているのを聞いたことがあります。
パーリ語か何かの仏典だったので難解でしたが、末木氏が大変な秀才であることは理解できました。
何か国語を解されるのか知りませんが、知性が煌いていて、頭のあたりから後光が射しているような感じでしたね。
(決して頭髪が薄いという意味ではありません。)
ただ、残念ながら、即位灌頂の話は乱暴すぎますね。
「藤原氏に伝えられた秘伝」とありますが、「藤原氏」ではあまりに広漠たる括り方です。
実際には貴族社会の最上層である摂関家のみ、それも正確には二条家のみの「秘伝」ですね。
また、ダキニ天の「呪術的な力が王権の本質を形づくる」と言われていますが、「王権」の捉え方がずいぶんロマンチックですね。
承久の乱以降、誰が天皇になるかは鎌倉幕府が決定していた訳で、二条家の人が即位灌頂の儀礼をやったところで別に「王権」は安定せず、鎌倉幕府が交代しろと言ったら公家社会は唯々諾々とそれに従わざるを得なかったのが実情です。
「王権」を現実の権力とは全く関係のない、公家社会や寺院社会の観念の世界での「王権」に限定すれば、「呪術的な力が王権の本質を形づくる」、「王権の力を生み出すもととなる」と言っても間違いではないかもしれませんが、まあ、リアルな権力の世界では単なるタワゴトですね。
それがタワゴトであることは、呪術と関係のない現代人の穿った見方ではなく、「競べ馬」の世界に生きていた同時代人の共通認識であったと私は考えます。

末木文美士氏

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「具象と抽象と白象」2010/03/30(火) 21:33:02
小川剛生氏や松本郁代氏の「即位灌頂」に関する論文を読んだあとで末木氏の言説を
みると、ずいぶん違うものだなと思われますね。

http://www.shinchosha.co.jp/book/100708/
小林 このごろ数学は抽象的になったとお書きになったでしょう。私ども素人から見ます
  と、数学というものはもともと抽象的な世界だと思います。そのなかで、数学はこの
  ごろ抽象的になったとおっしゃる。不思議なこともあるものだ、抽象的な数学のなか
  で抽象的ということは、どういうことかわからないのですね。
岡  観念的といったらおわかりになりますか。
小林 わかりません。
岡  それは内容がなくなって、単なる観念になるということなのです。どうせ数学は抽
  象的な観念しかありませんが、内容のない抽象的な観念になりつつあるということで
  す。内容のある抽象的な観念は、抽象的と感じない。ポアンカレの先生にエルミート
  という数学者がいましたが、ポアンカレは、エルミートの語るや、いかなる抽象的な
  概念と雖も、なお生けるがごとくであったと言っておりますが、そういうときは、抽
  象的という気がしない。つまり、対象の内容が超自然界の実在であるあいだはよいの
  です。それを越えますと内容が空疎になります。中身のない観念になるのですね。そ
  れを抽象的と感じるのです。

『人間の建設』に、以上のような対話がありますが(25頁~)、末木氏の即位灌頂論は
あまりに具象的すぎてつまらない、と思いました。
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「邪教」立川流

2010-03-24 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月24日(水)07時38分58秒

同じく末木文美士氏『日本宗教史』の少し離れた部分からの引用です。(p101以下)

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「邪教」立川流

 中世的な宗教形態の一つとして、「邪教」と排斥されながらも大きな影響を与えた真言の立川流がある。これについては、先に即位灌頂と関連して触れたが、ここでもう少し述べておこう。立川流というと、性的な秘儀を伴ういかがわしい宗教というレッテルが貼られるが、その実態はそれほど明らかでない。立川流は、醍醐寺の僧仁寛が永久元年(一一一三)伊豆に流され、翌年自殺するまでに伊豆で広めたものと言われている。しかし実際には、それほどはっきりした立川流という一つの流派がまとまって存続したというわけではなく、性的要素を含んだ密教の形態は、院政期から中世にかけて、さまざまな形で展開している。
 その中で、文永五年(一二六八)までに成立していた心定の立川流批判書『受法用心集』では、はっきりと「立川の一流」と呼んでいる。それによれば、立川流の人たちは「内の三部経」などの経典を偽作し、「女犯は真言一宗の肝心、即身成仏の至極なり。・・・・肉食は諸仏菩薩の内証、利生方便の玄底なり」と説いて、広く普及していたという。本書には、髑髏を本尊として、女人との和合水を塗り重ねて行なうという秘儀についても書かれている。
 それだけ見るといかにも怪しげであるが、性的な要素が当時の密教で重視されるようになってきたのは、必ずしも不可解なことではない。仏教が民衆の中に広まっていくとき、性からの離脱は現実にそぐわないものとなっていく。なぜならば、一般の民衆にとって、子孫を残すことと豊穣な収穫を得ることはもっとも大きな関心事であり、そのためには性の力は不可欠なものだからである。今日でも神社の祭には性的な要素を含んだものが数多く残されている。民衆の間だけでなく、同じことは王権に関しても言えるのであり、立川流と密接な関係を持つダキニ法は、まさに即位灌頂など、王権の力を生み出すもととなるのである。
 仏教が日本の社会の中に根を張るためには、どうしても土着の神祇信仰を摂取し、このような現世の力を獲得する方法を認めていかなければならない。それは広く言えば、先に述べた本覚思想とも関わる問題であり、また密教がその分野でもっとも大きな力を振るったのは当然である。しかし、それが仏教の中に留まるかぎり、異義邪教として批判されなければならない。そこで、この場合も表面の言説から排除されながら、<古層>の深みに沈んでゆくことになる。
 こうして、中世は近代の表面の合理主義が隠蔽してきた<古層>をさまざまな形で展開させているのである。
------------

末木氏の理解では、「藤原氏に伝えられた秘伝」であるところの即位灌頂に関係する「ダキニ天を本尊とするダキニ法は仏教の正統に位置づけられない『外法』」であるけれども、「その呪術的な力が王権の本質を形づくる」のであり、「立川流と密接な関係を持つダキニ法は、まさに即位灌頂など、王権の力を生み出すもととなる」のだそうですね。

仕事の関係で、次の投稿は少し遅れます。
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天皇即位と「外法」

2010-03-24 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月24日(水)07時06分17秒

即位灌頂について、現在どのような理解がなされているかの一例として、東京大学教授末木文美士(すえき・ふみひこ)氏の『日本宗教史』(岩波新書、2006)から少し引用します。(p80以下)

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天皇即位と「外法」

 鎌倉時代は仏教がもっとも勢力を持った時代と考えられるが、それだけに仏教と国家、仏教と神祇などの関係が正面から問われた時代でもあった。仏教と国家の関係については、王法と仏法の関係として論じられてきているが、従来主に注目されてきたのは、いわゆる新仏教の祖師たちが世俗の国家権力の圧力をものともせずに、自らの宗教的信念を貫き通したということだった。法然や親鸞は流罪にもかかわらずその立場を曲げることがなかった。日蓮もまた度重なる迫害をものともせずに『法華経』の行者としての使命に邁進した。道元はそうした迫害こそ受けなかったものの、北条時頼の求めに応じて鎌倉に赴きながら、妥協を排してただちに越前に戻った。
 こうした宗教の世俗権力からの自立の動きに対して、当時の主流をはす仏教は政治権力との共存を図った。王法と仏法は相互依存的な関係にあるものとされ、車の両輪に喩えられる。これを王法仏法相依論という。もっとも両者は同じレベルで対等というわけではなかった。権門寺院は、広大な荘園による経済力や僧兵という直接的な武力をも有したが、それ以上に仏の力をバックにした呪術的な力によって恐れられた。それゆえ、単なる相依という以上に仏教界は巨大な力を世俗に対しても及ぼしていた。法然教団への弾圧にしても、『興福寺奏状』などによる仏教界の圧力がなければ実現しなかったであろう。
 そうしたひとつの極限の形態として即位灌頂が知られている。これは天皇の即位に絡む仏教儀礼であるが、藤原氏に伝えられた秘伝であり、即位のときに天皇に伝授されるという。その本尊はダキニ天であるが、人黄(人間の根源的な精気)を食う羅刹であり、愛欲の神として、異端的な密教立川流とも関係が深い。そのダキニ天を本尊とするダキニ法は仏教の正統に位置づけられない「外法」である。その呪術的な力が王権の本質を形づくる。王権はその継続性が重要な意味を持つから、仏教の原則に従って煩悩を滅し、性を否定しては成り立たない。王法が仏法から見れば「外法」的な立川流に接点を持つのはその故である。天台座主慈円(一一五五-一二二五)が王権の危機に当って見た夢の記録である『慈鎮和尚夢想記』では、三種の神器の神璽と宝剣をそれぞれ后と国王の体と見、その交合に国家の繁栄を見ようとしており、このような王権と仏教の関りに対して重要な示唆を与える。
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黄砂

2010-03-22 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月22日(月)02時09分48秒

全国的に天気が大荒れの日曜日、私は山形県にいました。
土曜の午後に自宅を出て酒田のビジネスホテルに泊ったのですが、朝になって駐車場に行くと、車の表面全体に雨に濡れた細かい砂がダンダラ模様を描いていました。
猛烈な強風の中、めげずに羽黒山の出羽三山神社に向かったのですが、フロントガラスは何とかワイパーで視界を確保しても、両横と後ろのガラスは砂模様、サイドミラーも砂模様で、危なくて仕方ないので、早々にガソリンスタンドに逃げ込んで洗車しました。
私は本格的な黄砂を経験したのは初めてだったので、最初は事態がよく飲み込めず、自分の目が悪くなってしまったのかと思ったほどでした。
とにかく空全体がぼんやりと黄色くなっていて、相当シュールな雰囲気でした。
出羽三山神社に着いた頃には激しい雨となりましたが、参拝しようと思ったら、積雪のために重要文化財の三神合祭殿まで近づけませんでした。
暫くうろうろした後、巫女さんに聞いたら、一般参詣者も参集殿という建物から三神合祭殿の内部に直接行ってよいことが分かり、行ってみました。
巨大な茅葺屋根に覆われた三神合祭殿は迫力のある建物ですが、雪に閉ざされた中で内側から見ると、一層神秘的な雰囲気でした。
三神合祭殿額は副島種臣の書だそうですが、オーソドックスな字体なので、拝観時には気づきませんでした。

http://www.dewasanzan.jp/keidai/haguro2.html

出羽三山神社の写真はネットでいくらでも見られますが、今の時期はこんな感じです。
上の写真は参集殿入口、下は参集殿から見た外の景色ですね。
iPhoneで撮ったので良い写真ではありませんが、雰囲気は感じてもらえるのではないかと思います。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5377
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「人魚を食つた嫌疑」

2010-03-20 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月20日(土)09時02分45秒

>筆綾丸さん
>森鴎外『追儺』
「あとがき」ですね。
小川氏の発想の基盤が露出しているようなので、引用してみましょうか。

-----------
(前略)
 良基の源氏物語への限りない傾倒を見れば、いまに於ける源氏物語の価値というものを直感的につかんでいたらしく思える。良基の「源氏学」には、あの時代に於ける<王朝的なもの>が凝縮されている。良基の生涯からは、摂関政治の全盛期にはよく見えなかった<執政>なるものの存在意義が、鮮やかに浮かび上がる。
 その背景には失われた過去への憧憬があるのはもちろんであるが、それをアナクロニズム、あるいは生活のための学問の切り売り、などという言葉で括っては、とらえられないものがある。むしろ公家政権の自律的な営みが停止しかけている南北朝期にこそ、<王朝的なもの>が最も強い形で現れたのではないか。そもそも前代のくさぐさの文化遺産のうちから、何をもって<王朝的なもの>と称するかは、案外に自明ではなかったのである。
 そのようなことを考えているとき、脳裏をよぎるのは次の一節である。

 Nietzsche に藝術の夕映といふ文がある。人が老年になつてから、若かつた時の事を思つて、記念日の祝
 をするやうに、藝術の最も深く感ぜられるのは、死の魔力がそれを籠絡してしまつた時にある。南伊太利には
 一年に一度希臘の祭をする民がある。我等の内にある最も善なるものは、古い時代の感覚の遺伝であるかも
 知れぬ。日は既に没した。我等の生活の天は、最早見えなくなつた日の余光に照らされてゐるといふのだ。
 藝術ばかりではない。宗教も道徳も何もかも同じ事である。(森鴎外『追儺』)

「最早見えなくなつた日の余光」は良基を照らし、われわれを照らしている。
-----------

「いまに於ける源氏物語の価値」の「いま」には傍点が振ってあります。
実にしみじみとした見事な文章ですね。
青空文庫で『追儺』を見ると、

-----------
新喜楽に往くといふのは、知らぬ処に通ずる戸を開けるやうで、何か期待する所があるやうな心持である。女の綺麗なのがゐるだらうと思ふ為めではない。今の自然派の小説を見れば、作者の空想はいつも女性に支配せられてゐるが、あれは作者の年が若いからかと思ふ。僕のやうに五十近くなると、性欲生活が生活の大部分を占めてはゐない。矯飾して言ふのではない。矯飾して、それが何の用に立つものか。只未知の世界といふことが僕を刺戟するのである。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/693_18396.html

とありますが、『追儺』の初出は1909年なので、1862年生まれの鴎外が47歳の時の作品ですね。
数え年なら、確かに「五十近く」です。
ところで、小川氏が引用された部分の直後に、「暫くして M. F 君が来た。いつもの背広を著て来て、右の平手を背後に衝いて、体を斜にして雑談をする。どうしても人魚を食つた嫌疑を免れない人である」という文章が続きます。
一瞬、何のことだろうと思いましたが、八百比丘尼伝説ですね。
ネットで見つけた九頭見和夫氏「明治時代の『人魚』像─西洋文化の流入と『人魚像』への影響について」によると、「人魚の肉を食べた尼さんが八百歳まで長生きしたという『八百比丘尼伝説』に由来する表現と推測される。おそらくM. F君は、福々しくて精力が身体中にみなぎっていた人物と思われる」とあります。

http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/501/1/16-32.pdf

鴎外47歳の文章を引用する小川氏は1971年生まれで、2005年の時点では34歳の若さですね。
まあ、しみじみとした良い文章ではありますが、正直、ずいぶん年寄りくさいな、という感じもします。
こういう文章は有名大学の名誉教授にでもなって、文化勲章でも取って、棺桶に片足突っ込むくらいの年になってから書いてもいいんじゃないですかね。
小川氏は『増鏡』についても「最早見えなくなつた日の余光」だと考えているでしょうが、私はそれは根本的な誤解だと思います。
私は、『増鏡』は「人魚の肉を食べた尼さん」のように、年を取っても元気一杯の女性が書いた本だと思っているので、小川氏の『増鏡』論には賛成できない点が多いですね。
少しずつ書いて行くつもりです。

>寺岡一文さん
足利氏について多少調べたことはありますが、残念ながら寺岡氏については何も知りません。
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「異様な果実」

2010-03-19 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月19日(金)07時48分37秒

小川剛生氏の「即位灌頂と摂関家」は、

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 第一節 大嘗会神膳供進の儀と即位灌頂
一 はじめに
ニ ニ神約諾史観
三 大嘗会神膳供進の儀
四 二条師忠と即位灌頂
五 寺家即位法と二条家の印明説
六 二条良基と即位灌頂(1)
七 二条良基と即位灌頂(2)
八 おわりに

 第二節 室町期の即位灌頂
一 はじめに
ニ 二条良基の後継者たち
三 東山御文庫蔵「後福照院関白消息 即位秘密事」について
四 二条家の印明説
五 一条家の印明説
六 王家の対応
七 おわりに
-------

と構成されていますが、一番最後の部分を紹介してみます。(『二条良基研究』p193以下)

---------
七 おわりに

(前略)
 五摂家分立(建長四・一二五二年)以後、摂政・関白には五家の当主が順番に就くことが流例となった。在職年数は当然短くなり、中世における平均値は四年に満たない(一七一頁参照)。院・天皇にとり執柄の存在感は軽くなっていかざるを得ないが、それでも即位式や大嘗会の申沙汰をした執柄は、自らに王としての聖性を付与する存在にさえ擬されて、精神的には終生頭の上がらない存在であり続けたと思われる。即位灌頂とは特に関係なく執柄を指して「天下御師範」とする表現が見受けられるが(一六六頁参照)、それはこのような関係を踏まえているものであろう。そして良基以下二条家の執柄の権勢もここに根ざしていた。
 摂関家の印明説は寺家即位法から派生したものであるが、複雑な体系を有する寺家即位法に較べれば、その内容は誠に簡略で、衰弱した一末流にしか過ぎないであろう。秘事・秘訣として相伝されるものが存外に常識的な事柄に属することは、例えば古今伝授や源氏物語の難義などを追尋した結果、よく経験させられる。二条良基は、そのような「秘説」が備える力をよく知っていた人物であった。応永度の即位式に於ける、良基の子孫間の総論と、王家の冷静な対応は、逆に生前の良基が北朝の王権をいかに呪縛していたかを窺わせる。
 即位儀礼としての即位灌頂は、摂関家が独立した権門たり得る政治力を喪失し、王権に寄生していくことを選択した後に生じたものであった。思想史的に見れば、兼実・慈円・道家ら九条家の初期の人々には、自己の存在と責務について、深く観念する傾向が強かったように思われる。そのテキストとして玉葉以下の家記が相伝され、愚管抄も九条流の執柄たちに享受されたが、彼らの思想は二条家の人々によって異様な果実を結んだのであった。一条家に続いて、戦国期になると、近衛家や九条家にも即位灌頂への関心が生じてくる。このような思考が、中世を通じて摂関家の存在意義を絶えず見出し、主張する原動力となったのである。
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2010-03-19 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月19日(金)00時16分30秒

に喩えられたら二条良基も気分が良くなかろうと思いますが、小川氏はなかなか適切な比喩と思われたようです。

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──『二条良基研究』の魅力は、南北朝時代の忘れられた巨人を掘り起こした研究だったと思うし、それをわが敬愛する先輩の小川さんがやってくださったのは、私にとっても嬉しいことです(笑)。

小川 いま牛にたとえられたけど、確かに良基には得体の知れない部分が多すぎて、切り開いたら何が出てくるかわからない。不愉快ではないけど、決して評判がいい人物でもありません。

──権力欲は強いし、一応忠義を尽くしているような感じはあるけど、自分の生まれた二条家をいかに拡大、定着させていくかに巧みな人でもある。

小川 そうです。三種の神器が南朝に奪われたとき、北朝側から「三種の神器のかわりに自分と将軍がいるから恐れることはない」と言って新たな天皇を即位させるなんて、ちょっと尋常な人間のできることではない。一見これはただの陰謀にしか見えないかもしれないけれど、それをやりきった自信は、一国の執政としてすごいことだと思うのです。

──自分が即位させた北朝の天皇に対し、「三種の神器をもってない天皇じゃないか」と言われると、「いや、足利が剣になる、俺が璽(じ)になる」と言う。

小川 さらに彼は「神器なんてものは関係ない。正しい政道をやっているところが正統と言っていいのだ」だとか「こんな乱世に神器なんて意味がない」と言い放っているわけです。

──となるともう明らかに「権力の由来というのは、神代から伝えられてきた伝統に基づくものにあらず」と、人間宣言じゃないけど、もう超人ですよね(笑)。
(後略)
---------------

小川氏は『増鏡』の作者を「尋常な精神の持ち主じゃない」とし、二条良基の行為を「尋常な人間のできることではない」と言われているので、両者に「尋常」じゃないという共通点を見ているようですが、私の印象はちょっと違います。
『増鏡』の作者と二条良基はいずれも強靭な精神の持ち主と言ってよいでしょうが、『増鏡』の作者には精神の荒廃の要素が全くないの対し、二条良基にはどこか荒んだ、病的なところがあるように私は思います。
その点は後で具体的に見て行くつもりです。

>筆綾丸さん
>忠守
小川氏は忠守のことをやたら詳しく書いてますけど、『増鏡』の作者としては忠守クラスでは身分が低すぎて全然駄目ですね。
2005年に『二条良基研究』が出たころ、私は書店でこの本を手に取り、一番最初に筆綾丸さんが指摘された部分を読んで、論理が支離滅裂だなとあきれてしまい、購入はしませんでした。
その後、確かこの掲示板で筆綾丸さんが『二条良基研究』を話題にされた後、私はやっと購入したのですが、パラパラと眺めた程度でした。
今回、即位灌頂は良いきっかけになりましたので、全体を丁寧に読んでみたいですね。
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ブログ用の補足

2010-03-18 | 新潟生活
上の投稿は筆綾丸さんのJapanese Medieval History and Literature掲示板における次の投稿を受けたものです。
ブログだけでは意味不明な部分があるので、筆綾丸さんの投稿も関係部分を引用しておきます。

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なしくずし 投稿者:筆綾丸 投稿日:2010年 3月18日(木)20時47分15秒

小太郎さん
「良基への関心は、古来低からざるものがあった。摂政太政大臣・従一位・准三后と位人臣を極め、博覧強記であらゆる学藝に通じた、中世を代表する貴紳の一人として仰がれている。近代に入っても、そうした良基像は揺るがず、例えば早くから歴史物語増鏡の作者に擬されている。確証はないとはいえ、良基は作者に最もふさわしい人物であり、そのことが改めて良基の文才や思想に関心が寄せられる契機となったことは確かであろう」
(『二条良基研究』序章3頁)
「このような状況を受け、忠守のような後醍醐朝の遺臣の手によって、増鏡は生み出されていったと見られる。それに最も相応しい場所は二条摂関家である。良基の若年期は極めて断片的な証言しか得られないのであるが、良基が廷臣のうちの才器として注目され、期待を集めていたことも、ここで補強の材料としてよいであろう。
そうすれば増鏡は良基の監修を受けたというような結論にもあるいは到達できるかも知れない。そのことは改めて別稿で考察することとしたいが、こうして良基のもとに遺された増鏡は、生涯に繰り返し紐解かれて、その公家としての営みの上で、直接には朝儀の復興や宮廷行事の開催のための参考とされ、いつしか良基の作として伝えられるという道筋を辿ることになったのであろう。もし良基によって、その価値を認められて世に出る、享受のありようを重視すれば、増鏡を良基の〈著作〉みなすことも、当然成立し得る考え方であろう」(同書終章588頁)

小川剛生氏は、増鏡の作者はあくまで二条良基だとされたいようですが、終章の論法は、庇を貸したら母屋をぶんどられるような、我田引水の、本末転倒の、針小棒大の、ペラボーななしくずし戦術であって、この伝でいけば、『源氏物語』は藤原定家の〈著作〉だ、云えぬこともないですね。将棋の世界なら、読み筋が悪いというか、悪手というか・・・駄目のような気がします。
大きなお世話になりますが、「もし良基によって、その価値を認められて世に出る、享受のありようを重視すれば・・・」は、「もし良基によって、その価値を認められて世に出る、という享受のありようを重視すれば・・・」が、正しい日本語ですね。
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『二条良基研究』

2010-03-17 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月17日(水)23時08分30秒

小川剛生氏の『二条良基研究』は1万4千円(税別)もするので購入時には若干躊躇いましたが、内容はその金額にふさわしい充実ぶりですね。
笠間書院のホームページには井上宗雄氏、五味文彦氏の推薦文が載っていますが、国文学・歴史学の両碩学からここまで絶賛される書物も珍しいでしょうね。

http://kasamashoin.jp/2006/10/28.html

今日、入手した『三田評論』(2007年5月号)には、「話題の人 『二条良基研究』で角川源義賞を受賞 国文学研究資料館准教授小川剛生さん」というインタビュー記事が掲載されており、小川剛生氏が二条良基研究を始めたきっかけが書かれているので、少し紹介してみます。
「インタビュアー」は『武士の家計簿』の著者、磯田道史氏(茨城大学准教授)ですね。

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──このたびは『二条良基研究』で最年少での角川源義賞受賞おめでとうございます。最初にどうして二条良基という人物を研究しようと思ったのかをおうかがいしたいのですが。

小川 まず二条良基が作者として最もふさわしいと言われている『増鏡』が好きで読んでいたということがあります。『増鏡』は鎌倉時代の宮廷を描いた歴史書ですが、動乱の世にこんな優雅なことを書いていていいのかと、時代錯誤だとしてあまり評価されていなかった。だけど、乱世のなか平安時代の残っている優雅な面を書いているわけですから、これはちょっと尋常な精神の持ち主じゃないなと逆に思ったんですね。実際文学として読んでみるとなかなか一貫性のあるおもしろい読み物だし、時代に背を向けているのは、それはそれで一つの主張を持った人物の生き方ではないか。それで良基について書かれたものを読んでみたら、これが『増鏡』の作者だということと切り離して考えても、おもしろい人物だったんです。(中略)

──良基は非常に大きな幅の広い人物ですよね。歴史学者や国文学者は解剖学者のように、分析する対象を捌くのですが、二条良基は巨大な牛のような巨人で、牛を解体できる刀と技術を持った料理人でなければ、とても扱えない。だから二条良基の研究は小川さんだからこそできたのではないか。
 この研究のすごさは、歴史叙述から、和歌や連歌から、一番大切な南北朝時代の朝儀の復興、つまり天皇をいかに即位させ、維持していくかという儀礼の問題まで研究し捌いていること。これは、歴史学者であり、和歌や有職故実の研究者であるような人でないとできない。小川さんの場合、二条良基が大きな人だということは、『増鏡』から入って感じられたのですか。

小川  そうです。『平家物語』のように、古典文学はたいてい作者不明で、作者探しというのは魅力的なテーマなのだけど、たいてい作者としてこの人がふさわしい、という推測にとどまる。『増鏡』については、逆に二条良基の伝記、業績の研究から入って、結果的にどう見えてくるかとい手法でやったほうがいいと思った。非常に迂遠だけど、初心忘れるべからずという感じでやったんです。
(後略)
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「牛を解体できる刀と技術を持った料理人」という磯田氏の表現は、随分と生々しい比喩ですね。
言いたいことは何となく分かりますが、牛を解体するのは料理人とは別の職業なので、単に洗練されていないだけでなく、適切でもない比喩ですね。
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「礼服御覧」

2010-03-17 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月17日(水)22時39分13秒

>筆綾丸さん
鶴巻温泉元湯陣屋のホームページを見ましたが、「ロビー階段上の玉兎の盃は和田義盛公と曽我兄弟がお酒を酌み交わした盃です。」という記述には笑ってしまいました。
本物ならば国宝級のお宝ですね。

>「第十章 中世の「礼服御覧」と袞冕十二章」
読み直してみましたが、この論文については納得できない点が多いですね。
「おわりに」には、

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 礼服の検分は、実際的な検分だけではなく、袞冕十二章の紋章の観察も兼ねて行われた。この、「内々」とわざわざ断って行われた袞冕十二章の実質的な「御覧」は、一部の公卿だけが参加していたことからも、ますます貴重な機会と認識され、袞冕十二章の存在は、さらに特権化されていった。また、幼帝に代わって摂政が「礼服御覧」を行った場合、「内々」の「御覧」は行われなかったことからも、「礼服御覧」における「内々」の「御覧」は、即位する天皇が握っていた特権であった。
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とありますが、限られた人が地味に服を見ているだけの行事について、松本氏は過剰に意味を求めているように思います。
この程度の行事から「王権構造」に迫るのは無理じゃないですかね。
後深草院や伏見院、後伏見院が「礼服御覧」について詳細な記録を残している点は興味深いですが、もともと持明院統の天皇方はみんな筆まめですし、内容は懐かしい昔の思い出に耽っているだけのような感じですね。
また、筆綾丸さんが指摘された部分、確かに「西園寺史観」の悪影響が伺われますね。
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「文観房珠音と河内国」

2010-03-17 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月17日(水)08時10分7秒

井野上真弓氏の「文観房珠音と河内国」(『戒律文化』第2号、2003年)を読んでみましたが、河内の観心寺文書には宛所を「珠音上人室」とする元応二年(1320)の後宇多上皇院宣と、宛所を「観心寺々僧中」とする元弘三年(1333)の後醍醐天皇綸旨があるそうですね。
井野上氏によれば、

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(前略)とすると、文観と王権との関係は、従来指摘されてきたような後醍醐天皇の時に突然成立したものではなく、その前の後宇多上皇の時から遡って考えられる。おそらく文観と観心寺との関わりは、醍醐寺報恩院流道順の存在が関係してこよう。というのも文観の法流の師である道順は後宇多上皇の護持僧であったからである。
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とのことですが、仮にこの推論が正しければ、文観との関係も後宇多院が後醍醐天皇に譲った資産の一つと言えそうですね。

>筆綾丸さん
>等伯
日蓮宗の人なんですね。
等伯とは直接の関係はありませんが、京都の町衆の都会的な感覚が、なぜ東国的な日蓮宗を受容できたのか、ちょっと不思議に思っています。

http://www.tohaku400th.jp/tohaku.html
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春の男鹿半島

2010-03-15 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月15日(月)08時02分44秒

土曜の昼過ぎに自宅を出発して、鳥海山周辺の大物忌神社や象潟を回ってから秋田市内に宿泊し、昨日は男鹿半島を一周してきました。
海岸線の道路沿いには雪はなく、海の色も春そのものでした。

入道崎
http://www3.ocn.ne.jp/~kmitoh/gensou/nyudo.html

ゴジラ岩
http://www3.ocn.ne.jp/~kmitoh/gensou/siosesike.html

秋田県立博物館は中世史関係は少し貧弱でしたが、菅江真澄資料センターの展示は見事なものでした。

http://homepage3.nifty.com/akitamus/kannai/masumi/masumi.htm

>筆綾丸さん
>「第十章 中世の「礼服御覧」と袞冕十二章」
後深草院をはじめとする諸天皇・上皇の感懐は興味深いですが、「礼服御覧」自体にあまり深い意味を求めるのは無理があるように思いました。
また後で書きます。
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