学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

いえいえ。

2020-06-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月28日(日)19時55分15秒

>筆綾丸さん
謝ってもらうようなことは何もないですよ。
後鳥羽の周辺を深めないと先に進めないなあ、と限界を感じていたところでした。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

お詫び 2020/06/28(日) 10:28:57
小太郎さん
水を差して申し訳ありません。
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ご連絡

2020-06-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月28日(日)09時14分48秒

暫く承久の乱について検討してきましたが、そろそろ別の話題に移ろうと思います。
私の知識は鎌倉中期以降に偏っていましたが、承久の乱を少し勉強したおかげで鎌倉前期への一応の橋頭保が築けたような感じです。
2022年度にNHK大河ドラマで『鎌倉殿の13人』が予定されていることもあり、もう少しすれば北条氏や後鳥羽院に関する書籍が山ほど出るでしょうから、その中に興味深い本があれば改めて取り上げたいと思います。

>葉室定嗣さん
ご指摘の『葉黄記』の記述は長村著にも出て来ますので、私も知っていました。
当掲示板はかつては多数の投稿者が集まった時期もあったのですが、現在は基本的に私の個人的な研究の記録用なので、趣旨が明確ではない短文の投稿はあまり歓迎できません。
新規参加者を全く拒否している訳ではありませんので、別の形での投稿であればそれなりに対応します。

※下記のやり取りへのレスです。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐
(無題) 2020/06/25(木) 12:11:20(葉室定嗣さん)
「几院中執権以孤露不肖之身奉之、人々嫉妬之餘、種々事等有讒言之疑、然而叡慮深思食入予謬、應知人之鑒誡・家之餘慶歟、承久乱逆、故殿令書追討之 院宣給、仍或人以之爲予難歟」
(意訳:ボク、お父さんが承久の乱逆で追討の院宣を書いたことが理由で、ある人から非難されているんだ……)

blasphemy 2020/06/25(木) 13:04:15(筆綾丸さん)
小太郎さん
皮肉っぽく言えば、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやの如く、学界の常識は、後鳥羽院の叡慮(高邁な政治構想)に対するblasphemy(冒瀆)ではあるまいか、という気がしますね。
蛇足
「几院中執権以孤露不肖之身奉之」の「几」では意味を成さず、これは「凡」(およそ)の間違いであろう。引用は正確にね。

(無題) 2020/06/25(木) 20:04:54(葉室定嗣さん)
>「几院中執権以孤露不肖之身奉之」の「几」では意味を成さず、これは「凡」(およそ)の間違いであろう。引用は正確にね。

御指摘、ありがとうございます。でも、ボクの日記では、「およそ」の字体は「凡」を使わないんです。20世紀の刊本では「凡」で翻刻しているんですけどね。「凢」に変換しようと思って、間違って「几」を出してしまったんです。てへ

コドモのケンカ 2020/06/25(木) 20:21:33(筆綾丸さん)
葉室定嗣の僭称者らしい遁辞だね。
『葉黄記』はともかく、ボクはキミの絵日記には興味がないの。
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「後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識となっているとはいえ…」(by 近藤成一氏)

2020-06-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月25日(木)10時58分25秒

近藤成一氏は長村著の書評(『日本歴史』837号、2018)において、

-------
 後鳥羽による北条義時追討計画は、五畿七道を充所とする官宣旨により不特定多数の武士を動員するとともに、院宣により特定御家人に直接働きかけ、義時の追討に決起させようとするものであったと著者は考えている。つまり、義時追討を命じるものとして官宣旨と院宣の二種の文書があったことになる。後鳥羽による軍勢動員の主力が公権によるものであると考える著者の立場からすれば、官宣旨による動員こそが重視されるべきであるが、著者の分析は圧倒的に院宣の方に向いている(第二章)。院宣の本文を伝えるのが慈光寺本『承久記』であることから、その信憑性が疑われることもあったという研究状況を踏まえるならば、院宣本文の信憑性の検証に著者が力を注いだのは当然である。しかし、後鳥羽の軍事動員の主力を公権によるものと見る著者の立場からすれば、官宣旨のほうが重視されるべきであり、院宣の意義は官宣旨との関連において論じられるべきであろう。
-------

と書かれていますが(p98)、長村氏のバランス感覚については私も気になりました。
ただ、これに続く、

-------
 官宣旨による軍事動員という制度について、著者は、石井進氏ほかの研究に依拠して、「関東分」については幕府により施行される制度であったこと、しかし義時はその制度を逆に利用して東国十五ヵ国の「家々長」に軍事動員をかけたことを指摘する(一一五頁)にとどまる。石井進氏は、「関東分」の諸国に対しては幕府が義時追討の宣旨を施行すべきであったとさらりと書いている(『日本中世国家史の研究』岩波書店、一九七〇年、二二九頁)が、後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識となっているとはいえ、官宣旨を「関東分」の諸国に対しては幕府が施行するというシステムが、義時追討を命じる官宣旨についても現実に機能する可能性があったかどうかについては、慎重な検討が必要であろう。そしてその可能性があったということになると、後鳥羽の計画が必ずしも無謀とは言えなくなる。
-------

という指摘は、私にはちょっと理解できません。
承久の乱の勃発時、北条義時が幕府の実質的指導者であったことは誰も争っていないのですから、「官宣旨を「関東分」の諸国に対しては幕府が施行するというシステムが、義時追討を命じる官宣旨についても現実に機能する可能性」など皆無ではないかと思います。
ただ、これは後鳥羽側が官宣旨の「関東分」ルートを工夫すればよいだけの話で、後鳥羽の計画が「無謀」かどうかとは一応別問題ですね。
実は私も、「後鳥羽の計画が必ずしも無謀とは言えな」かったのではないかと思ってはいます。
承久の乱が僅か一ヵ月で終わってしまった経緯をつぶさに見てゆくと、北条政子に加え、大江広元の的確な判断が決定的だったように思われますが、仮に後鳥羽がもう数年待って、二人が死んだ後に計画を実行したらどうなっていたのか。
北条義時は強引な手段を使って幕府内での地位を築いたので、内心では嫌っていた有力御家人も多かったはずで、対応が遅れるうちに御家人相互間に疑心暗鬼が生じ、そこを朝廷側につけ込まれて戦争が相当長期化する可能性はあったのではないかと思います。
なお、「後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識」とありますが、近藤氏は『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016)において、

-------
 承久三年(一二二一)五月十五日、後鳥羽は京都守護伊賀光季を討つとともに、義時の追討を五畿七道に対して命ずる宣旨を出させた。いわゆる「承久の乱」のはじまりである。宣旨が命じているのは義時の追討であって、討幕ではない。討幕が目的であれば、追討の対象は将軍のはずである。実朝の後嗣三寅は元服前だしまだ征夷大将軍に任ぜられていないけれども、宣旨のなかでは「将軍の名を帯す」と認められている。三寅は「将軍の名を帯す」るけれどもまだ幼齢であり、それをいいことに義時が専権を振るっていることが謀反と断じられて、義時の追討が命じられているのである。三寅は追討の対象ではない。
 しかも義時追討に立ち上がることが求められているのは諸国の守護人、荘園の地頭である。そもそも諸国の守護人が国衙に結集する武士を動員して王朝を警固する体制は、鎌倉幕府成立以前にさかのぼるものであり、鎌倉幕府はその体制を一元的に掌握することにより御家人体制を構築したのであるが、後鳥羽はその諸国守護人とさらには地頭に対して直接呼びかけ、自己のもとに直接再編成しようとしているのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5b5ad59292e56bd94e7c14970e019a06

といわれており(p34)、二年前の私はこの近藤説に納得していました。
しかし、幕府が「諸国の守護人が国衙に結集する武士を動員して王朝を警固する体制」を「一元的に掌握することにより御家人体制を構築した」にも拘わらず、それを「後鳥羽はその諸国守護人とさらには地頭に対して直接呼びかけ、自己のもとに直接再編成しようとしている」のであれば、仮に形式的に幕府の存在を残したところで、これは倒幕説と実質的に何が違うのか。
義時追討説といっても、野口実氏や坂田孝一氏は義時一人を交代させればよいという純度100%の義時追討説ではなく、戦争に勝利した後は幕府に対する何らかの「コントロール」を必要とする考え方であることは既に確認済みですが、近藤説ほど強い「コントロール」を認める立場なのかははっきりしません。
ここまで言うのであれば、近藤説は倒幕説と紙一重のような感じもします。

「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8
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葉室光親が死罪となった理由(その5)

2020-06-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月25日(木)09時27分56秒

『中世公武関係と承久の乱』の書評、白根靖大氏(『歴史評論』813号、2018)と近藤成一氏(『日本歴史』837号、2018)の分を入手して読んでみましたが、「武装せず、戦場にいなかった、しかも公卿級の貴族が、合戦後に死罪に処されるという事態は、やはり尋常ではない。他の「官宣旨」発給関係者の処罰はもとより、文治の伝奏高階泰経の処罰に比しても、過度の厳罰といわねばならない」とする長村氏の見解については特に批判はないようですね。
西田知広氏の書評(『日本史研究』651号、2016)は未読ですが、承久の乱を研究している人たちは、総じて古文書研究に入れ込み過ぎて、政治的感覚がかなり鈍くなっているような印象を受けます。
安楽椅子探偵の長村祥知氏はたっぷり時間をかけて院宣と官宣旨の発給過程を分析し、葉室光親が両方に関わったから死刑という厳罰に処されたと言われる訳ですが、『吾妻鏡』を見れば、光親は戦後処理に多忙を極めていた北条時房・泰時から「合戦張本」の一人と誤解されて死罪となったのは明らかですね。
おそらく一番最初の西園寺公経家司・三善長衡からの通報で、幕府首脳の間には光親が謀議の中心にいるらしいという先入観が形成され、時房・泰時による調査の過程で光親の名前がバッチリ出ている院宣の草稿などの文書が発見され、証拠も十分ということになったのだろうと思われます。
そして光親は何ら弁解しなかったようですから、戦後処理に忙殺されていた時房・泰時から、限られた判断材料に基づいて「合戦張本」の一人と認定されても止むをえません。
七月十二日に死刑に処した後で、仙洞に残っていた光親の諫言の申状数十通が発見され、光親が何度諫言しても後鳥羽が態度を改めなかったので、「忠臣の作法は、諫めてこれに随う」という信念から光親は「宣旨」(実際にはおそらく院宣)を書き下し、敗戦後は従容として死罪を受け入れた、そして泰時は誤った処分を後悔した、という『吾妻鏡』の記述は、他の北条泰時美化のエピソードと同じく脚色の可能性はあるのでしょうが、しかし、全部が全部、作り話とも思えません。
光親の死罪は宣旨または院宣という紙切れの形式的記載だけで判断された訳ではなくて、後鳥羽による戦争計画の立案と遂行に果たした実質的役割が追及され、「合戦張本」の一人と認定された結果であることは『吾妻鏡』を読めば明らかです。
そんなことは明々白々だったので、従来の研究者も、光親の処分が文治元年の高階泰経に比べて厳罰すぎる、などといった頓珍漢な評価はしなかった訳ですね。
文書の文言だけにこだわり、その背後にある政治過程には驚くほど鈍感な長村氏には、例えば大江広元のような複雑な政治家の動きが全く見えないようです。
大江親広についての長村氏の頓珍漢な記述は、長村氏が大江広元に全く関心がないことの傍証でもありますね。
長村氏の著書により適切なタイトルをつけるとしたら、『事務方の小役人から見た中世公武関係と承久の乱』ではないかと思います。

大江親広は「関寺辺で死去」したのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c2ac62e4108cbefbf529afd1287d941d
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葉室光親が死罪となった理由(その4)

2020-06-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月23日(火)14時14分55秒

文治元年(1185)の高階泰経との対比のために、承久三年(1221)の葉室光親が『吾妻鏡』にどのように描かれているかを確認してみます。
まず、五月十九日、京を十五日に出立した伊賀光季の飛脚と西園寺公経の家司・三善長衡の飛脚が鎌倉に到着しますが、後者の報告の中に葉室光親が登場します。


正確を期すために、同日条を『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信氏の訳で紹介します。(p102以下)

-------
十九日、壬寅。午の刻に大夫尉(伊賀)光季の去る十五日の飛脚が関東(鎌倉)に到着して申した。「このところ院(後鳥羽院御所)の内に官軍が召し集められています。そこで前民部少輔(大江)親広入道が昨日(後鳥羽の)召喚に応じました。光季は右幕下〔(藤原)公経〕の知らせを聞いていたため、支障があると申したので、勅勘を受けそうな情勢です」。未の刻に右大将(公経)の家司である主税頭(三善)長衡が去る十五日に遣わした京都の飛脚が(鎌倉に)到着して申した。「昨日〔十四日〕、幕下(公経)と黄門(藤原)実氏は、(後鳥羽が)二位法印尊長に命じて、弓場殿に召し籠められました。十五日の午の刻に官軍を派遣して伊賀廷尉(光季)を誅殺され、按察使(藤原)光親卿に勅して右京兆(北条義時)追討の宣旨が五畿七道に下されました」。関東分の宣旨の御使者も今日、同様に(鎌倉に)到着したという。そこで捜索したところ、葛西谷の山里殿の辺りから召し出された。押松丸〔(藤原)秀康の所従という〕と称し、所持していた宣旨と大監物(源)光行の副状、同じく東国武士の交名を注進した文書などを取り上げ、二品(政子)の邸宅〔御堂御所という〕で開いて見た。また同じ時に廷尉(三浦)胤義〔義村の弟〕の私的な書状が駿河前司義村のもとに到着した。これには「『勅命に応じて右京兆(義時)を誅殺せよ。勲功の恩賞は申請通りにする。』と命じられました。」と記されていた。義村は返事をせずにその使者を追い返すと、その書状を持って義時のもとに赴いて言った。「義村は弟の叛逆には同心せず、(義時の)味方として並びない忠節を尽くします」。
-------

注意すべきは、実際には義時追討の「宣旨」には光親の名前は一切現れておらず、奉者として光親の名前が出ているのは「院宣」の方です。
ただ、「宣旨」はあくまで三善長衡の報告の中の表現であって、緊急事態が勃発した直後ですから、ある程度の情報の混乱があるのは当然とも思われます。
しかし、幕府首脳には、当初から光親の存在が強く印象づけられたのかもしれません。
さて、この後は複数の公卿の名前が出てくる六月八日条(後鳥羽の比叡山御幸)、六月十二日~十四日条(瀬田・宇治等での合戦)にも光親は登場しないまま、十五日に京方が敗北し、十六日に北条時房と泰時が六波羅に移って、合戦が無事終わった旨の報告の飛脚を関東に送ります。
そして残敵の掃討とともに、合戦での勲功を定めるための事実関係の調査、戦死・負傷者リストの作成という膨大な事務作業が始まります。
六波羅からの飛脚は二十三日に鎌倉に到着し、鎌倉では直ぐに公卿・殿上人の罪名以下、朝廷への対応が検討され、大江広元が文治元年の処置の先例を勘案して事書を作成します。
翌二十四日、安東光成が北条義時から京都で措置すべき事項について直接指示を受けた上で、事書を持って京に向かい、二十九日に六波羅に到着し、洛中と洛外の謀反の者を断罪するよう、事書の内容を詳しく説明します。
他方、京では二十四日に「合戦張本公卿」四人の身柄が六波羅に移されますが、その中に「按察使光親卿」の名前が登場します。
残りの三人は「中納言宗行卿」「入道二位兵衛督有雅卿」「宰相中将範茂卿」ですね。
翌二十五日には、「合戦張本」として更に「大納言忠信卿」「宰相中將信能」「刑部僧正長厳」「観厳」が六波羅に移送されます。


光親自身は戦場には向かわなかったものの、幕府側から見れば「合戦張本」の一人と見なされていた訳ですね。
そして、これらの「合戦張本」の処分につき、北条時房と泰時は鎌倉から送られてきた事書を読み、三浦義村・毛利季光等と評議を行います。
七月一日には合戦の首謀者で公卿以下の者を断罪せよとの「宣下」があり、泰時はそれぞれの預り人に、彼らを連行して関東に下向するように指示します。
五日、一条信能が預り人の遠山景朝によって美濃で斬られますが、そもそも今度の首謀者で公卿以上の者は、洛中で斬罪に処するように関東の命があったのに、泰時の判断で、今は洛外で行うのがよいとされたのだそうです。
六日には後鳥羽が四辻殿から鳥羽殿に移され、八日に出家します。
また、同日、「持明院入道親王(守貞)」が治天の君となり、摂政が九条道家から近衛家実に交替させられ、九日には先帝(仲恭)が譲位し、新帝(後堀河)践祚となります。
そして十二日に光親が処刑されます。


ここもまた、正確を期すために、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』の今野慶信氏の訳を紹介すると、

-------
十二日、甲午。按察卿〔(藤原)光親。先月に出家。法名は西親〕は武田五郎信光が預かって下向した。そこに鎌倉の使者が駿河国の車返の辺りで出会い、誅殺せよと伝えたので、加古坂で梟首した。時に年は四十六歳という。光親卿は(後鳥羽の)並びない寵臣であった。また家門の長で、才能は優れていた。今度の経緯については特に戦々恐々の思いを抱いて、頻りに君(後鳥羽)を正しい判断に導こうとしたが、諫言の趣旨がたいそう(後鳥羽の)お考えに背いたので進退が窮まり、追討の宣旨を書き下したのである。「忠臣の作法は、諫めてこれに随う」ということであろう。その諫言の申状数十通が仙洞に残っており、後日に披露されたとき、武州(北条泰時)はたいそう後悔したという。
-------

といった状況です。
ここも「書下追討宣旨」ですね。

>筆綾丸さん
長村氏の論文のおかげで古文書学的な研究は進展したのでしょうが、政治史についてはむしろ後退している感じですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「紙背」 2020/06/22(月) 14:32:30
「仮に後鳥羽が討幕を構想していたなら、鎌倉殿(九条三寅、あるいは代行たる北条政子)」の名を追討対象に挙げたはずであり、やはり後鳥羽の意図は義時追討にあったと考えねばならない」(『中世公武関係と承久の乱』114頁)
長村氏の学問的態度は、この表現が象徴するように、史料の文言に忠実な禁欲的実証主義で、紙背文書ではないけれど、眼光紙背に徹せず、悪く言えば、政治的想像力が欠如しているように思われますね。
小太郎さんが前に触れられてましたが、
「藤田讀院宣。其趣。今度合戦。不起於叡慮。謀臣等所申行也」(『吾妻鏡』承久三年六月小十五日戊辰)
について、史料の文言に忠実であれば、幕府は院宣を額面通り受け取って光親等の謀臣を処刑した、別に他意はなかった、という解釈で済むのではあるまいか、という気がしますね。そうか、なるほどね、と信じる小学生はいるかもしれないけれど、いじめで苦労している中学生は信じないでしょうね。
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葉室光親が死罪となった理由(その3)

2020-06-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月22日(月)12時13分24秒

文治元年の頼朝追討宣旨について、その発給された事情をざっと見てきましたが、葉室光親の処分に関する長村祥知氏の形式論が如何に莫迦莫迦しいものであるかを明確にするために、頼朝追討宣旨が出された後の状況についても概観しておきます。
まず、頼朝が自分を殺せと命じたこの宣旨が出たことを聞いて動転したり激怒したりしたかというと、そんなことは全然ありません。(『吾妻鏡』十月二十二日条)

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma05-10.htm

義経を追い詰めたのは頼朝自身であり、宣旨発給も想定の範囲内の展開ですね。
ただ、頼朝は追討宣旨を受けた前二回と異なり、今度は朝廷に対して猛烈に怒ったフリはします。
それは何故かといえば、この朝廷側の失策につけ込んで揺さぶりをかければ、幕府(ないしその前身である東国の軍事組織)の新たな権益を確保する機会に利用できるからで、様々な対応策が検討されたでしょうが、一番役立ったのは大江広元の守護地頭設置の献策(『吾妻鏡』十一月十二日条)ですね。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma05-11.htm

以下、再び五味文彦氏の『源義経』を引用させてもらいます。(p150)

-------
 十五日にその泰経の使者が鎌倉にやってきたが、頼朝の怒りを恐れて使者は直接に御所にはやってこず、頼朝の妹婿の一条能保の亭に参り、書状を頼朝に献じて欲しいと依頼している。能保がこれを御所に持参すると、頼朝の側近藤原俊兼が読みあげた。

  行家・義経の謀叛の事、偏へに天魔の所為たるか。宣下無くんば、宮中に参り自殺すべき
  の由、言上の間、当時の難を避けんがため、一旦は勅許有るに似たりと雖も、かつて叡慮
  の与する所に非ず。

 謀反は天魔によるものであるというこの言い分を聞いた頼朝は、すぐに使者を京に派遣した。二十六日にその使者が院の御所にやってきて書状を泰経に付けようとしたところ、泰経が祗候していないと聞くや、怒って書状を中門廊に投げ入れて帰ったという(『玉葉』)。その書状は次のような内容であった。

  義経らの謀反を天魔のなせることというが、天魔は仏法を妨げるものである。頼朝は朝敵
  を滅ぼし、政治を君に戻した忠ある者であるから、天魔によるというのは全く理屈が通ら
  ない。頼朝を追討する院宣を出させようとしたものこそが天魔であり、その日本第一の大
  天狗なるものはほかにはいない。

 「日本第一の大天狗」という表現については、これまでの多くの見解は後白河院をさすと考えられてきたが、文脈からしても、また頼朝と後白河院の関係からしても、院をこう表現したとは考えがたく、泰経をさすと考えるべきであろう。
-------

ま、まずはこういったやり取りがある訳ですが、「日本第一の大天狗」という決めゼリフといい頼朝の使者の大袈裟な振舞いといい、どこか芝居がかったところがありますね。
次いで「関東第一の大狸」とでも言うべきタフ・ネゴシエーターの北条時政が登場し、頼朝が忿怒していることを伝えると、朝廷側は慌てて源行家・義経追討の宣旨を出しますが、時政はこれでは満足せず、朝廷との折衝により、十一月二十九日に守護・地頭の設置を認めさせ、兵糧米の徴収も認めさせます。
この後、十二月六日に頼朝は大江広元らと協議の上、院奏の折紙を作成し、議奏公卿の設置など朝廷の改革案を提示しますが、その要求項目のひとつとして、行家・義経が天下を乱そうとするのに同意した「凶臣」の解職も含まれます。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma05-12.htm

そして、実際に同月中に「凶臣」が解職され、その中には高階泰経(十七日)、藤原光雅と小槻隆職(二十九日)も含まれています。
高階泰経は義経にかなり近かったので、解職の理由は単に頼朝追討宣旨に関与しただけではなかったでしょうが、それでも朝廷側が頼朝追討宣旨を出さざるを得なかった事情は頼朝も百も承知であり、さすがに高階泰経を死罪にする、といった発想はなかったでしょうね。
さて、長村祥知氏は葉室光親が死罪となったことについて、「文治の伝奏高階泰経の処罰に比しても、過度の厳罰といわねばならない」(『中世公武関係と承久の乱』、p98)と言われますが、本当にそうなのか。
文治元年の場合、頼朝追討宣旨の発給過程については詳細な事実調査が行われ、朝廷との度重なる折衝を踏まえて関係者の処分が決定されていますが、葉室光親については幕府はろくに事情を調べないまま、光親が「無双寵臣」だから後鳥羽の策謀に関与したに違いないと断定して、さっさと処刑してしまっています。
そして、実際には光親は無謀な企ては止めるように何度も後鳥羽に諫言している証拠が出て来て、泰時が後悔したと『吾妻鏡』承久三年七月十二日条に出てきます。
長村氏も同日条に言及はしていますが(p93)、その言及の仕方がまた奇妙ですね。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

高階泰経(1130-1201)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%9A%8E%E6%B3%B0%E7%B5%8C
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葉室光親が死罪となった理由(その2)

2020-06-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月21日(日)07時27分0秒

少し感想を挟んでしまいましたが、長村論文の続きです。(p97以下)

-------
 右大史の無処罰の理由は不明だが、一見して明らかなごとく、光親の処罰はともに「官宣旨」の発給に関与した上卿や頭弁・史よりはるかに重い。光親以外に承久の乱関係で殺害された「張本公卿」は、鎌倉方軍勢を迎撃するため、六月十二日に宇治や淀・芋洗に出陣していた(『吾妻鏡』同日条、同二十四日条)。それに対して光親は、十二日の京方出陣の段階で後鳥羽と共に高陽院に籠もっていた。十四日夜に鎌倉方軍勢が入京すると、十五日に後鳥羽が小槻国宗を六条川原の陣に遣わして義時追討宣旨を召し返し(『承久三年四年日次記』)、京方の敗北が決定したため、光親が戦場に立つことはなかった。
 武装せず、戦場にいなかった、しかも公卿級の貴族が、合戦後に死罪に処されるという事態は、やはり尋常ではない。他の「官宣旨」発給関係者の処罰はもとより、文治の伝奏高階泰経の処罰に比しても、過度の厳罰といわねばならない。光親が、「官宣旨」発給の手続き文書となる「奉書」の発給に加えて、北条氏に死罪を決意させるほどの何かをしたとすれば、それこそ自立した文書としての「院宣」の発給であろう。
-------

いったん、ここで切ります。
文治元年(1185)の「頼朝追討「宣旨」の発給に関わった伝奏と頭弁・史が同等の処罰を受けていることに注意しておきたい」とした長村氏は、光親の処分が「ともに「官宣旨」の発給に関与した上卿や頭弁・史よりはるかに重い」ことに驚き、「武装せず、戦場にいなかった、しかも公卿級の貴族が、合戦後に死罪に処されるという事態は、やはり尋常ではない」と強調されるのですが、そもそも頼朝追討「宣旨」と承久の乱の「官宣旨」は比較の対象になるのか。
頼朝追討「宣旨」が発給された経緯を概観すると、元暦二年(1185)二月に屋島、三月に壇ノ浦の合戦があって、義経の大活躍で平氏滅亡となります。
四月に凱旋将軍として意気揚々と帰洛した義経は、五月に平宗盛を伴って鎌倉に向かいますが、頼朝に鎌倉入りを拒否されます。
弁明の機会を与えてもらうため、義経は大江広元を通じて頼朝へのとりなしを依頼する書状(腰越状)を出しますが、結局頼朝とは面会できず、六月に空しく京に戻ります。
その後、義経をとりまく状況は悪化の一途を辿り、(八月に改元されて文治元年)十月には義経殺害のために鎌倉から土佐坊昌俊が送り込まれます。
義経は十月十一日と十三日の二度にわたって、ひそかに後白河院の御所に行き、自分と叔父の源行家は咎もないのに頼朝から討たれようとしているので、頼朝追討の官符を得て一矢を報いたい、もし勅許を得られないなら二人とも自殺する、と言いますが、このときは勅許は得られません。
そして、同月十七日、土佐坊昌俊が六十余騎で義経の六条室町亭を襲うと、これを撃退した義経は直ぐに院御所に向かい、改めて頼朝追討の勅許を求めます。
この時点では義経以外に御所を警衛する武士は京におらず、勅許を得られないならば義経は天皇や法皇を連れて西国に下る気配もあったので、この緊迫した事態を切り抜けるため、後白河院は、後で頼朝に事情を説明すれば頼朝も許してくれるだろうとの見通しの下で、頼朝追討の宣旨を出します。
五味文彦氏の『源義経』(岩波新書、2004)によれば、以下のような状況です。(p143)

-------
 これは寿永二年(一一八三)に平氏が天皇を連れて鎮西に下った一件や、義仲による法住寺合戦という苦い体験に基づく措置である。後者の場合、二度にわたって頼朝追討の宣旨が出されたものの、頼朝はそれを全く問題にしなかったので今度も大丈夫であろう、という甘い見通しにも支えられていた。その宣旨の文言は次のように行家と義経に頼朝の追討を命じただけの簡単なものである。

  文治元年十月十八日 宣旨
  従二位源頼朝卿は偏へに武威を耀かし、已に朝憲を忘る。宜しく前備前守源朝臣行家・
  左衛門少尉同朝臣義経等をして、彼の卿を追討せしむべし。
                      蔵人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅奉る

 宣旨を奉じたのは蔵人頭の藤原光雅で、勅は光雅から上卿(担当の公卿)の左大臣藤原経宗に伝えられ、そこから弁官・史の手を経て、各所に伝えられてゆくのだが、『吾妻鏡』『玉葉』にはこの蔵人から上卿に伝えられる宣旨が載っている。
-------

朝廷としては頼朝・義経兄弟間の争いに巻き込まれるのは迷惑千万で、頼朝追討の宣旨など全然出したくなかった訳ですが、土佐坊昌俊に襲撃された直後、頭に血が上った義経から宣旨を出せと迫られたら、まあ、出さざるを得ないでしょうね。
この状況は、純度100%の朝廷側の事情で北条義時追討「官宣旨」が出された承久三年五月十五日とは全く異なるので、長村氏のように両者を形式的に比較して論ずる発想自体、私には些か奇異に思われます。

土佐坊昌俊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E5%9D%8A%E6%98%8C%E4%BF%8A
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葉室光親が死罪となった理由(その1)

2020-06-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月20日(土)20時05分37秒

『中世公武関係と承久の乱』の「あとがき」によれば、「本書の刊行は、本書第二章の原論文が二〇一一年七月に第十二回日本歴史学会賞を受賞したことを契機」(p318)とするそうです。
1982年生まれで受賞時にはまだ二十代だった長村氏は「日本歴史学会会長の笹山晴生先生をはじめとする理事・評議員・編集委員の大半の先生方には一面識もなかったが、名誉ある賞を拝受できたことは大きな励み」となり、更に「厳しい出版事情のなか、日本史分野で定評ある吉川弘文館から早くに著書刊行という過分のお誘い」を受けたのだそうです。
社会的に高い評価を得ただけあって、「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」は実に精緻な論文ですが、葉室光親に関しては少し奇妙なところがあるように思われます。
論評に際して、対象を黒く塗ってからその黒さを批判するのは私の好むところではありませんので、まずは長村氏の論理を丁寧に追ってみたいと思います。
さて、この論文の構成は既に紹介済みです。


長村氏は「一 院宣と葉室光親」で北条義時追討の「院宣」の発給が実在したことを論証し、ついで「二 官宣旨と葉室光親」において、官宣旨の文面には葉室光親の名前は登場しないものの、藤原定家本『公卿補任』に、

-------
五月十五日<新帝未即位>、被下可追討平義時朝臣院宣<按察使光親卿奉書。蔵人頭右大弁資頼口宣>。発官軍向尾張国。六月十四日、関東大軍入洛。
-------

とあること等に着目して、葉室光親は伝奏として官宣旨発給にも関与した、という新説を提起されます。
そして、「三 葉室光親の死罪」において、「承久の乱で鎌倉方が勝利した直後に鎌倉で「卿相雲客罪名」を定める際、大江広元が「文治元年沙汰先規」を引勘したとあり(『吾妻鏡』承久三年六月二十三日条)、一定の処罰基準が窺える」(p96)として、源頼朝追討「宣旨」の発給関係者への処分との比較で、承久の乱後の処分においては、葉室光親の死罪という処分が極めて重いと主張されます。(p97以下)

-------
 文治元年十月十八日、源義経が後白河院に源頼朝追討「宣旨」を発給させた。その際の「伝奏」たるにより、高階泰経が籠居している(『吾妻鏡』十一月二十六日条)。宣旨発給と無関係なはずの非参議・大蔵卿である高階泰経の籠居は、義経の言上を取り次ぐとともに、後白河による宣旨発給の意思を蔵人頭藤原光雅に伝達したためであろう。泰経は頼朝の所謂廟堂改革により十二月十七日に解官される(『玉葉』十二月十八日条)。
 同「宣旨」の発給に関与したのは、上卿の左大臣藤原経宗、蔵人頭・右大弁の藤原光雅、左大史の小槻隆職であった。藤原経宗は鎌倉に弁解の使節を派遣した甲斐あって処罰されなかったが(『吾妻鏡』文治二年正月七日条)、藤原光雅と小槻隆職は十二月二十九日に解官されている。ここでは、頼朝追討「宣旨」の発給に関わった伝奏と頭弁・史が同等の処罰を受けていることに注意しておきたい。
 それに対して、承久の乱時の北条義時追討「官宣旨」発給関係者の処罰は次の通りである。

 伝奏 葉室光親
  「六月廿四日、武家申請。依奉行追討事也。七月廿三日、於駿河国就斬。先出家。法名西親」。
 上卿(内大臣) 源通光
  「七月三日上表、辞大臣。七月廿日恐懼」。安貞二年(一二二八)三月二十日の朝覲行幸まで籠居(『公卿補任』同年)。
 蔵人頭・右大弁 葉室資頼
  七月二十八日に内蔵頭を停止、八月二十九日に蔵人頭を停止、翌承久四年正月二十四日に右大弁を解官。
 右大史 三善信直
  特に処罰なし。
-------

いったん、ここで切ります。
リストの冒頭に「伝奏 葉室光親」とあるのは、あくまで長村氏の新説ですね。
長村氏はこの後、「文治の伝奏高階泰経」と比較して光親の処罰はあまりに重いではないかと強調されるのですが、そもそも文治元年の源頼朝追討「宣旨」は頼朝と対立した源義経の強迫に応じて、朝廷側としては嫌々ながら出したものです。
それに対し、義時追討「官宣旨」は朝廷側の積極的な意思に基づくものです。
従って、関係者の処分が大幅に異なるのは当たり前ではないかと思われるのですが、長村氏はそのような実質的考察はせず、形式的論理を積み重ねます。
少し長くなったので、続きは次の投稿で書きます。

葉室光親(1176-1221)

>筆綾丸さん
>幕府独自の「奉行」などそもそも有り得ないのだ、

確かにそうですね。
幕府側からすれば、後鳥羽の論理はあまりに現実離れ・理念倒れであって、ポカンと眺める以外に対応のしようがなかったのではないかと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「裁断と奉行」 2020/06/19(金) 15:03:08
小太郎さん
下村氏の書評は紳士的ですね。

官宣旨における「参院庁蒙裁断」と「恣致裁断」の文言からすると、裁断の権能は後鳥羽にあるにもかかわらず、義時は言詞を教命に仮(借)り、恣に裁断している、となると思います。
院宣では、幕府の家人らは聖断を仰ぐべきところ、義時は権を朝威に借り、独善的に奉行しているので、奉行の仁に値しない、となると思います。
つまり、官宣旨にいう「裁断」と院宣にいう「奉行」は、ほぼ同じような意味で使われていて、ともに後鳥羽の権能に属するのであり、幕府独自の「奉行」などそもそも有り得ないのだ、と読めるような気がしますね。
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「書出を「右弁官下」とする官宣旨が追討等の「凶事」に用いられることは周知の通りであろう」(by 長村祥知氏)

2020-06-19 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月19日(金)12時06分42秒

古文書の文言に関する細かい分析は私の能力を超えますが、それでもなるべく正確な議論とするために、長村氏による官宣旨の翻刻も引用しておきます。(p92)
注(13)によれば、「改行は写真によった」とのことです。

-------
史料4 承久三年五月十五日「官宣旨案」(小松家所蔵文書。鎌遺五─二七四六)

右弁官下 五幾内諸国<東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・大宰府>
 応早令追討陸奥守平義時朝臣身、参院庁蒙
 裁断、諸国庄園守護人地頭等事
右、内大臣宣、奉 勅、近曽称関東之成敗、乱天下政務。
纔雖帯将軍之名、猶以在幼稚之齢。然間彼義時朝臣偏仮
言詞於教命、恣致裁断於都鄙。剰輝己威、如忘皇憲。論之
政道、可謂謀反。早下知五幾七道諸国、令追討彼朝臣。兼又諸国
庄園守護人地頭等、有可経言上之旨、各参院庁、宜経上奏。
随状聴断。抑国宰并領家等、寄事於綸綍、更勿致濫行。
縡是厳密、不違越。者、諸国承知、依宣行之。
   承久三年五月十五日 大史三善朝臣
大弁藤原朝臣
-------

四行目の「内大臣」と末尾の「三善朝臣」、「藤原朝臣」にはそれぞれ(源通光)・(信直)・(資頼)の傍注があります。
長村氏によれば、

-------
 『伝宣草』(「群書類従」公事部七輯七四一頁)に「常事、左弁官宣。凶事、右弁官宣」とあるごとく、書出を「右弁官下」とする官宣旨が追討等の「凶事」に用いられることは周知の通りであろう。史料4は、官宣旨発給の通例と文書内の記述から、蔵人某→上卿内大臣源通光→右大弁藤原資頼→右大史三善信直を経て発給されたことが確認できる。
-------

とのことですが(p93)、私は「書出を「右弁官下」とする官宣旨が追討等の「凶事」に用いられること」は知りませんでした。
ちなみに、「官宣旨らしき文書を引用する」前田家本『承久記』では「左弁官下」になっているそうで、「故実に対する理解の不十分な者─すなわち本来の官宣旨の様式をよく知らない者─が文書本文を書写したことを示す」(p122)のだそうです。
また、内大臣の源通光は後深草院二条の祖父ですが、5月18日の投稿で、私は、

-------
しかし、承久の乱で定通と同様に軍事活動に加担した人々は死罪を含め、厳しく処断されており、西八条禅尼(実朝未亡人)の兄である坊門忠信すらいったんは処刑の対象となり、政子・義時の温情で流罪に軽減されています。
それなのに定通は最初から処断の対象にならなかったばかりか、正二位権大納言の地位もそのままです。
定通の一歳上の同母兄・源(久我)通光は後鳥羽院の叡山御幸に同行しただけなので、乱への関与は定通より軽いはずですが、それでも乱後、直ちに内大臣を辞し、その後、安貞二年(1228)三月二十日に「朝覲行幸時始出仕。弾琵琶」とあるまで「承久三年後篭居」(『公卿補任』)であり、定通とは対照的です。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e091c3125d7f725ea770c2505e7b8c6

などと書いてしまいました。
しかし、内大臣の通光は官宣旨の発給に上卿として関与したのですから定通より処罰が重いのは当然で、葉室光親のように殺されなかっただけマシ、とも言えそうです。
なお、「表2 『公卿補任』承久三年の処罰系記事」(p98)によれば、土御門定通については国史大系には処罰の記事がないものの、「定家本」には「七月廿日恐懼。自六月十五不出仕。閏十月九日免出仕」とあるそうです。
さて、些か私の個人的関心の方に脱線してしまいましたが、この官宣旨について下村周太郎氏は、

-------
 第三に、乱時における軍事動員のあり方やそれを規定する国家軍制の構造にまつわる問題がある。特に戦況の推移を踏まえた乱分析については深化・具体化すべき点が残されている。たとえば、基本史料である官宣旨について、著者は「不特定多数の東国武士」をその動員対象と見る。しかし、この官宣旨によって動員された/されようとしたのが東国武士と限定できるかは予断を許さない。現存する官宣旨の案文として知られる小松家所蔵本が、興福寺衆徒に対して軍事協力を依頼した藤堂文書所収6月7日付院宣と一具で伝来したと思しいことなどは気にかかるところである。
-------

との指摘をされています。(p49)
ま、これも本当に古文書のプロの世界の話ですね。
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下村周太郎氏「書評 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」

2020-06-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月18日(木)22時39分50秒

長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』については、西田知広(『日本史研究』651号、2016)、白根靖大(『歴史評論』813号、2018)、近藤成一(『日本歴史』837号、2018)、下村周太郎(『歴史学研究』994号、2020)の諸氏が書評を書かれていますが、私はコロナの関係で、これらの学術雑誌が所蔵されている近隣の某大学図書館に入れなくて、未読でした。
今日、やっと国会図書館の遠隔複写で下村周太郎氏(早稲田大学准教授)の書評を入手したので、「北条義時追討説」に関係する部分を少し引用してみます。(p48以下)

-------
 かかる本書の成果は多岐にわたるが、紙幅の都合上3点に絞って押さえてみたい。
 第一に、上でも触れた後鳥羽院の意図が「討幕」になかったとの見方は、本書の最も魅力的な問題提起の一つであると同時に、今後の研究史において論点となるところでもあろう。著者は院宣に「停止義時朝臣奉行」、官宣旨に「追討陸奥守平義時朝臣身」などとあることから、後鳥羽院の意図はあくまで義時追討であり討幕ではなかったと主張する。著者は文書の様式上、追討対象が組織でなく個人名となることは認識した上で、「仮に後鳥羽が討幕を構想していたなら、鎌倉殿(九条三寅、あるいは代行たる北条政子)の名を追討対象に挙げたはず」だと述べる(114頁)。
 しかしそうはいっても、義時は幕府の実質的指導者と見なされていたに違いないし、何より1世紀の後、鎌倉殿守邦親王ではなく「前相模守平高時法師」/「伊豆国在庁時政子孫高時法師」の追討を企図した後醍醐天皇や護良親王の挙兵が(鎌倉遺文32073・32074等)、北条高時個人の追討のみならず六波羅探題や鎮西探題をも含む文字通りの討幕に結果したことを想起せざるをえない(本郷和人『承久の乱』文芸春秋〔新書〕、2019年、170・171頁も参照)。著者の主張を裏付けるには、当該期の政治状況との照応や中世前期における類例との比較といった点で、なおも検討を要するだろう。源頼朝が平泉政権を滅ぼした奥州合戦でも、頼朝が出陣に先立ち朝廷に申請したのは「泰衡追討宣旨」であり、後日到来した宣旨(口宣)も「陸奥国住人泰衡」の「身」を「征伐」せよとの文面であった(『吾妻鏡』)。
-------

いったん、ここで切ります。
承久三年五月十五日付「官宣旨案」(小松家所蔵文書。鎌遺五─二七四八)は長村氏による翻刻がp92に出ていますが、とりあえずはリンク先サイトを参照してください。

「吾妻鏡承久3年5月」

また、本郷和人氏の見解は既に紹介済みです。

「朝廷が幕府を倒す命令を下すときには、必ず排除すべき指導者の名を挙げるのです」(by 本郷和人氏)

さて、下村氏の書評に戻ります。

-------
 官宣旨の充所が「五畿内諸国」となっている点についても、著者は「北条義時の逃亡等に備えて西国にも通達しておくため」と述べ、義時個人追討のためのいわば現実的効用を想定しているが、それこそ「討幕」という意図のもと全国に向けて発する勅命としての象徴性や汎用性を「五畿内諸国」という充所表記の中に看取することも可能ではないだろうか。また、官宣旨が守護・地頭に院庁への参候を命じている点に関しても、著者は守護・地頭を「幕府と鎌倉殿の存在を前提とする職」と見なした上で「鎌倉幕府─御家人制の否定という意図は読み取れない」と述べるが、後鳥羽院からすれば守護や地頭も理念的・究極的には治天(朝廷)が有する「公権力」の支配下にある(べき)存在であって、必ずしも守護・地頭と幕府・鎌倉殿とを運命共同体とは考えていなかった可能性が考慮される──ちなみに官宣旨の表現は「諸国庄園守護人地頭等」であって「御家人」ではない──。
-------

「北条義時追討説」に関係する部分はここまでです。

>筆綾丸さん
>「併可決叡襟」の「併」も難しい語で、

そうですね。
坂井氏の現代語訳には少し引っかかるのですが、かといって自分で訳せと言われたら、なかなか難しいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「併可決叡襟」の「併」も難しい語で、これは接続詞ではなく副詞のようですね。
副詞の内、?の意であれば、義時の奉行は停止した、奉行は“すべて”叡襟で決する、となり、?の意であれば、義時の奉行は停止した、“つまり”、奉行は叡襟で決する、というくらいの訳になりますか。
坂井氏は、「すべてを叡襟で決する」と、「併」を目的語として訳しています。
「奉行」といい「併」といい、八百年前の正確な意味が掴めず、なんとも歯痒い感じです。
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「奉行」の意味

2020-06-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月18日(木)10時27分47秒

参照の便宜のために、坂井孝一氏による問題の院宣の読み下しと現代語訳を再掲します。

-------
  院宣を被るに称へらく、故右大臣薨去の後、家人等偏に聖断を仰ぐべきの由、申さしむ。
  仍て義時朝臣、奉行の仁たるべきかの由、思し食すのところ、三代将軍の遺跡、管領す
  るに人なしと称し、種々申す旨あるの間、勲功の職を優ぜらるるによつて、摂政の子息
  に迭へられ畢んぬ。然而、幼齢未識の間、彼の朝臣、性を野心に稟け、権を朝威に借れ
  り。これを政道に論ずるに、豈に然るべけんや。仍て自今以後、義時朝臣の奉行を停
  止し、併ら叡襟に決すべし。もし、この御定に拘らず、猶反逆の企てあらば、早くそ
  の命を殞すべし。殊功の輩においては、褒美を加へらるべき也。宜しくこの旨を存ぜ
  しむべし、てへれば、院宣かくの如し。これを悉せ。以て状す。
    承久三年五月十五日                  按察使光親奉る

 内容は次の通りである。
「故右大臣」実朝の死後、御家人たちが「聖断」すなわち天子(この場合「治天の君」後鳥羽)の判断・決定を仰ぎたいというので、後鳥羽は「義時朝臣」を「奉行の仁」、すなわち主君の命令を執行する役にしようかと考えていたところ、「三代将軍」の跡を継ぐ者がいないと訴えてきたため、「摂政の子息」に継がせた。ところが、幼くて分別がないのをいいことに「彼の朝臣」義時は野心を抱き、朝廷の威光を笠に着て振舞い、然るべき政治が行われなくなった。そこで、今より以後は「義時朝臣の奉行」をさしとめ、すべてを「叡襟」(天子のお心)で決する。もしこの決定に従わず、なお反逆を企てたならば命を落とすことになるだろう。格別の功績をあげた者には褒美を与える。以上である。


「奉行の仁」について、坂井氏は「主君の命令を執行する役」と解されていますが、では主君は誰なのか。
坂井著を最初に読んだとき、私は「三代将軍」云々の表現から主君は当然に将軍(鎌倉殿)であって、従って「奉行の仁」とは将軍(鎌倉殿)の命令を執行する役、即ち執権なのだろうなと理解したのですが、後鳥羽の高邁な、もしくは高飛車な見識は幕府側の常識とはかけ離れているようなので、ここは「天子(この場合「治天の君」後鳥羽)」の可能性もありそうですね。
さて、この「奉行」に関する長村氏の見解は、私には些か奇妙に思われます。
長村氏は「第三章 <承久の乱>像の変容─『承久記』の変容と倒幕像の展開─」において、次のように書かれています。(p116)

-------
 すなわち、後鳥羽が院宣を充てた御家人は、有力ゆえに北条義時と競合の可能性があるのみならず、在京して後鳥羽と接点があった者が多いと考えられるのである。
 後鳥羽の計画は、院宣によって彼ら有力御家人に義時の幕政「奉行」停止の説得と(その不成立を見越して)殺害を命ずるとともに、彼らを起点として、官宣旨で不特定多数の東国武士を動員して北条義時を追討する、というものだったと考えられる。官宣旨の充所が東国のみならず「五畿内諸国」となっているのは、北条義時の逃亡等に備えて西国にも通達しておくためであろう。
-------

そして、「奉行」に付された注(14)を見ると、

-------
(14) 義時の「奉行」とは、例えば承久四年二月二十一日「茂木知基所領譲状写」(茂木家文書。鎌遺五─二九二七)に「壱所 在紀伊国賀太庄/副渡権大夫殿御奉行御下文」と見える下知状発給等の権力行使活動全般を指していよう。
-------

となっています。
しかし、「彼ら有力御家人に義時の幕政「奉行」停止の説得」を命ずるというのは、いくら何でも変な感じですね。
「自今以後、停止義時朝臣奉行、併可決 叡襟」ということで、後鳥羽の決定により、既に義時の「奉行」は確定的に「停止」されているはずです。
しかし、当該決定にも拘わらず(「不拘此御定」)、なお義時に反逆の企てがあるのであれば(「猶有反逆之企者」)、義時を殺害すべし(「早可殞其命」)と続いているのだと思います。
ちゃんと説得してから殺害してね、という命令は、さっさと殺せ、という命令よりも遥かにブキミですね。
このあたり、特に「奉行」の解釈について、他の研究者の見解も聞いてみたいですね。
古文書に詳しい人には、かなり気になる表現ではないかと思います。

>筆綾丸さん
>「被送摂政子息畢」の送は迭ですね。

修正しました。
ありがとうございます。

>なぜ、こんな下手な比喩表現をするのか、坂井氏の感覚がよくわかりません。

中央公論社としては呉座勇一氏の『応仁の乱』、亀田俊和氏の『観応の擾乱』に続く三匹目のドジョウを狙ったのでしょうが、このあたりの言語感覚が、呉座・亀田氏の著書を愛読するような歴史ファン層とは少しずれているのかもしれないですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

To be or not to be, that is the question. 2020/06/17(水) 12:55:33
小太郎さん
仰る通り、後鳥羽の論理と幕府の論理が全く噛み合っていない、ということには、あらためて新鮮な驚きを覚えますね。あたかも京都と鎌倉では言語が違うかのように。

瑣末なことですが、「被送摂政子息畢」の送は迭ですね。

----------
確かに、ぐずぐずしていれば幕府の基盤である武蔵の武士まで離反する恐れがあった。しかし、当初、迎撃戦術を選択しようとした義時らには迷いもあった。命に関わるかもしれない大手術を受けるべきかどうか悩む患者のようなものである。決断するにはセカンドオピニオンが必要であった。それに応えたのが三善康信だったのである。(坂井孝一『承久の乱』165頁)
----------
読んでいて吹き出したのですが、なぜ、こんな下手な比喩表現をするのか、坂井氏の感覚がよくわかりません。

追記
同書を読み進めると(170頁~)、鎌倉方は、義時をキャプテンとして、強固な結束力と高い総合力を持った「チーム鎌倉」で、京方は、後鳥羽が監督・裏方・キャプテンを兼務する「後鳥羽ワンチーム」であった、というような、マンガチックでバカっぽい記述に遭遇して、野球やサッカーやラグビーの話ではない、と思いました。
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「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」

2020-06-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月17日(水)10時53分33秒

正確な議論をしたいので、長村氏の見解を改めて確認しておきます。
「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」の構成は、

-------
 はじめに
一 院宣と葉室光親
 1 院宣の様式
 2 院宣の命令内容と院宣発給を記す他の史料
二 官宣旨と葉室光親
 1 官宣旨と藤原定家本『公卿補任』
 2 後鳥羽院政期以前の院伝奏
三 葉室光親の死罪
 おわりに
-------

となっていますが、その冒頭を引用します。(p78)

-------
  はじめに

 承久三年(一二二一)五月十五日、後鳥羽院が、京都守護として在京中の伊賀光季を討ち、さらに同日、鎌倉の執権北条義時の追討を命じた。史上有名な承久の乱の勃発である。この義時追討を命じた文書として、同日付「官宣旨(右弁官下文)案」の現存することが著名であり、『吾妻鏡』などの記述に見える「宣旨」はそれを指すと理解されている。その一方で、慈光寺本『承久記』には同日付「院宣」が引用されており、実はその他にも「院宣」が発給されたとする史料が存在する。従来は「官宣旨」のみに注目する論考が多かったが、近年では政治史史料として『慈光寺本』が注目されつつあり、「院宣」の使者の捕縛という半ば偶発的要素が乱の結果を左右したとする見解も提示されている。しかし、肝心の『慈光寺本』所引「院宣」自体を検討した研究や、「院宣」と「官宣旨」との関係を検討した研究は管見に入らない。
【中略】
 そこで本章では、承久三年五月十五日付の「院宣」が後鳥羽の発給院宣として妥当か否かを検討し、発給過程を中心に同日付「官宣旨」との関係を整合的に位置付けたい。その過程で葉室光親の死罪にも論及することになる。
-------

そして問題の「院宣」ですが、長村氏はご自身の翻刻について、注(7)で「東京大学史料編纂所架蔵転写本(請求記号2040.4-83)により、新日本古典文学大系の翻字の誤りや闕字を補訂した」とされているので、益田宗・久保田淳氏校注の『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)と読み比べてみたところ、翻字の誤りといっても、冒頭が新日本古典文学大系では「被院宣称」であるのに対し、長村氏は「被院宣偁」としているだけですね。
また、新日本古典文学大系では「聖断」と「叡襟」の前の闕字を省略しているようです。
ま、新日本古典文学大系もとりたてて正確性に欠ける訳ではありませんが、せっかくなので長村氏の翻刻を紹介します。(p79以下)

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史料1 慈光寺本『承久記』上─三二三頁
 又十善ノ君ノ宣旨ノ成様ハ、『秀康、是ヲ承レ。武田・小笠原・小山左衛門・宇津宮入道・中間五郎・武蔵前司義氏・相模守時房・駿河守義村、此等両三人ガ許ヘハ賺遣ベシ』トゾ仰下サル。秀康、宣旨ヲ蒙テ、按察中納言光親卿ゾ書下サレケル。
  被院宣偁、故右大臣薨去後、家人等偏可仰 聖断之由令申。仍義時朝臣可為奉行仁歟之由、思食之
  処、三代将軍之遺跡、称無人于管領、種々有申旨之間、依被優勲功職、被迭摂政子息畢。
  然而幼齢未識之間、彼朝臣稟性於野心、借権於朝威。論之政道、豈可然乎。仍自今以後、停止義時朝臣
  奉行、併可決 叡襟。若不拘此御定、猶有反逆之企者、早可殞其命。於殊功之輩者、可被加褒
  美也。宜令存此旨者、 院宣如此。悉之。以状。
   承久三年五月十五日 按察使光親<奉>
-------

読み下しと現代語訳については、坂田孝一氏によるものが参考になります。

「御家人の心を掴むのに十分な院宣といえよう」(by 坂井孝一氏)

>筆綾丸さん
>『百錬抄』の「義時朝臣已下本官に還任す」(六月十六日)

『百錬抄』の方は見ていなかったのですが、問題の院宣の「奉行」は将軍を補佐する役目との書き方をしていますから、素直に考えれば執権なのでしょうね。
この院宣では「奉行」を後鳥羽が自在に任免できることが前提となっていますが、国司と異なり、執権は朝廷の官職体系とは全く関係のない幕府内部の役職であり、天皇だろうが上皇だろうが、干渉できるような地位ではない、というのが幕府側の論理であり、常識だったはずです。
そして、その感覚は北条氏の専横に反発する御家人にも共有されていたはずです。
とすると、後鳥羽の院宣は、観念的には既に朝廷が幕府に対する強力な「コントロール」を及ぼしているのだ、という幕府側にとっては異常な認識の表明であり、そして戦争の勝利後には、仮に幕府を形式的に存続させようと、朝廷が強力な「コントロール」を及ぼすのだ、という方針の宣言ですね。
この文面を見て、後鳥羽の目的は義時を追討するだけだ、と思う人はよほどのお人好しではないかと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

過去形 2020/06/16(火) 19:59:43
小太郎さん
迂闊にも全く気が付かなかったのですが、仰る通り、過去形と考えれば、辻褄が合いますね。

追記
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/122106.html
『百錬抄』の「義時朝臣已下本官に還任す」(六月十六日)により、義時は五月十五日に右京(権)大夫と陸奥守を解任されて奉行を停止させられた、と考えればいいのでしょうね。  
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「先学が具体的に後鳥羽のいかなる構想を指して「討幕」の語を用いているのか分明ではない」(by 長村祥知氏)

2020-06-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月16日(火)12時47分27秒

義時追討説といっても、野口実氏や坂田孝一氏は義時一人を交代させればよいという純度100%の義時追討説ではなく、戦争に勝利した後は幕府に対する何らかの「コントロール」を必要とする考え方であることは既に確認済みです。

「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)

さて、『中世公武関係と承久の乱』を通読してみたところ、長村祥知氏は「コントロール」という表現は使用していないようですが、純度100%の義時追討説なのかははっきりしません。
この点、「第三章 <承久の乱>像の変容─『承久記』の変容と討幕像の展開─」の「おわりに」の次の記述は興味深いですね。(p130)

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 従来、承久の乱は後鳥羽の討幕計画に発するとされてきた。その根底には、南北朝期から続く後醍醐の「建武中興」との類似性への注目や、公武対立の歴史像、幕府のみが武士を組織するという理解等があるものと思われる。もとより先学が具体的に後鳥羽のいかなる構想を指して「討幕」の語を用いているのか分明ではないが、鎌倉殿を排し御家人制度を解体するものとする理解であれば、見直す必要があると思われる。
-------

承久の乱に関する従来のほぼ全ての学説を渉猟したであろう長村氏にしても、「もとより先学が具体的に後鳥羽のいかなる構想を指して「討幕」の語を用いているのか分明ではない」とするのは少し意外でした。
ただ、仮に討幕説=「鎌倉殿の排し御家人制度を解体するものとする理解」だとすれば、逆に「鎌倉殿」を存続させ、「御家人制度を解体」しないことを最低ラインとし、これさえ守れば、朝廷側の幕府に対する「コントロール」がどれほど強いものであろうと、それは義時追討説ということになるのでしょうか。
また、長村氏自身は、後鳥羽の戦後構想としては、どの程度の「コントロール」を予定していたものと考えておられるのでしょうか。

>筆綾丸さん
>形式として、まず院宣で奉行の停止を命じ、次に官宣旨で追討を命ずる、というふうに二段構えになっているのだ、と考えれば、

慈光寺本『承久記』に記され、長村氏が実在を論証された院宣でも義時追討を命じていて、そこは官宣旨と重複していますね。
ただ、院宣の宛先は特定の有力御家人、即ち武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房・三浦義村の八人ですから、この院宣で「義時の奉行の停止を命ずる」のは、長村氏の主張とは別の意味で「不自然」です。
ここは、実際の経緯はともかくとして、既に義時の「奉行」は停止された、という過去の事実を八人の有力御家人に伝えて、何ら正当な資格なく「奉行」を継続している義時を追討せよ、ということになって、論理的には全くおかしくないように思います。
ちょっと複雑な話になりそうなので、次の投稿で整理してみます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Verwandlung(王者から流人への変容)  2020/06/15(月) 09:49:43
小太郎さん
『第三章 <承久の乱>像の変容ー「承久記」の変容と討幕像の展開ー』を読んでみました。
要するに、原型の文言は義時追討であるが、時代が下るにつれ、個人を超えて討幕へと変容した、と史料を示して主張しているだけなんですね、といえば、語弊がありますが。

あたかもザムザが巨きな毒虫に変容したかのごとく。
Gregor Samsa wakes up one morning to find himself transformed into a "monstrous vermin".

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北条氏は、(吾妻鏡において)「自京都可襲坂東」と、あたかも後鳥羽が、坂東に特殊な行政権を有する鎌倉幕府の追討を命じたかのごとく喧伝したのである。(117頁)
-----------------
「坂東に特殊な行政権」とは何なのか、意味がわかりません。あの時代に、三権分立の概念などないけれど、立法権的なるものと司法権的なるものとは朝廷(後鳥羽院)が保留していた、ということですか。

追記
『第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨ー後鳥羽院宣と伝奏葉室光親ー』に、
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後鳥羽は「院宣」の発給時点ですでに義時の追討を考えているはずであり、即時に追討を命ずるのではなく義時の奉行の停止を命ずるのは不自然である。(90頁)
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とありますが、形式として、まず院宣で奉行の停止を命じ、次に官宣旨で追討を命ずる、というふうに二段構えになっているのだ、と考えれば、別段、不自然ではないと思います。ではなぜ、そんな回りくどいことをするのか、といえば、それが形式の形式たる所以だから、ということになります。内容より形式のほうが重要だということは、朝廷儀礼にかぎらず、世の中にはよくあることです。
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大江親広は「関寺辺で死去」したのか?

2020-06-14 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月14日(日)10時36分18秒

前回投稿で引用した部分、【中略】には、

-------
 義時追討命令に先んじて、鎌倉から派遣されていた二人の京都守護のうち、大江親広が後鳥羽の動員に応じ(『吾妻鏡』五月十九日条)、対して義時室の兄弟である伊賀光季が「依為縁者」り追討された(『百練抄』五月十五日条)ことも、対立の基本軸が後鳥羽と北条義時との間に存したことを物語る。
 また後鳥羽の発した官宣旨は、幕府と鎌倉殿の存在を前提とする職たる守護・地頭に院庁への参候を命じており、鎌倉幕府─御家人制の否定という意図は読み取れない。院が公権力によって武士を動員するのは平安後期と同様に決して異常ではなく、後鳥羽の主要な武力たる在京武士の中でも、主力は西国に重心を置く在京御家人であり、むしろ幕府の守護制度・御家人制度は必須の要素であった。かつては承久の乱の際に在京御家人が後鳥羽の命に従ったことを異常視する理解が一般的だったが、後鳥羽の目的が義時追討であり、院による武士の動員が平安後期以来の正当なあり方である以上、なんら異とするには及ばないのである。
-------

という文章が入ります。(p114)
後半についてはまた後で論じるとして、前半部分、私には長村氏の論理が全く理解できないのですが、もしかしたら長村氏は大江親広の妻が北条義時の娘であり、親広もまた義時の「縁者」であることを失念されているのではないですかね。
私は大江親広の妻が土御門定通に再嫁したことに興味を持って、少し調べたことがあるのですが、この女性は比企朝宗の娘「姫の前」の所生であって、北条朝時・重時と同母ですね。
多くの研究者が漠然と義時娘の再嫁は承久の乱の後と考えている中で、岩田慎平氏は「承久の乱の前後いずれであったかは決しがたい」と慎重ですが、土御門顕親が承久二年(1220)に生まれているので、二人の婚姻は承久の乱の前であることは明らかですね。

土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a27c37575ac6bade5d3b3ac024ed899f

ま、それはともかく、「鎌倉から派遣されていた二人の京都守護」は二人とも北条義時の「縁者」なので、「対立の基本軸が後鳥羽と北条義時との間に存したことを物語る」材料にはならないと思います。
大江親広の方は既に離縁しているので、義時に遠慮する必要性は薄れていたでしょうが、長村氏がそこまで考えておられるようには見えません。
さて、長村氏は大江親広について、もう一つ、非常に奇妙なことを言われています。
即ち、「第五章 一族の分裂・同心と式目十七条」の「一 承久の乱時の一族分裂」に次のような記述があります。(p191以下)

-------
大江・毛利・海東氏(名字地:〔京〕・相模・尾張)
【系図略】

 京方の大江親広は、伊賀光季追討に動員され、京近郊の攻防では食渡で戦ったが、関寺辺で死去した(『吾妻鏡』六月十四日条)。
 鎌倉方の大江佐房は、北条時氏等とともに摩免戸を攻めた。
 毛利季光は、美濃の合戦では鵜沼渡を攻め、京近郊の合戦では芋洗を攻めた。
 尾張国熱田大神宮忠兼の養子となっていた海東忠成の男忠茂は、『熱田大神宮千秋家譜』に「承久三年辛巳、雖未賜庁宣、自関東押テ入于社内、同七月賜庁宣」とあり、承久鎌倉方に属していたことが窺える。
 大江広元は宿老の一人として鎌倉に留まっていた。
-------

海東のことなど、実に詳しく調べておられて立派ですが、『吾妻鏡』六月十四日条を見ると、「親広者、関寺辺に於て零落すと云々」であって、死去ではないですね。
上杉和彦氏の『大江広元』(吉川弘文館人物叢書、2005)には、

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 親広は、上皇方の敗色が決定的となった承久三年(一二二一)六月十四日に、近江国関寺付近で行方をくらます。親広がいかなる経路をとって落ちのびたのかは分からないが、その後の彼は、出羽国寒河江荘の吉川邑に潜み、同地で余生を送ることとなる。親広が寒河江荘を潜伏先に選んだ理由には、摂関家領である同荘の地頭職が、奥州合戦後に広元の所領になっていたことがあげられる。
 承久の乱での親広の所業に対する幕府の処分の経緯は、明らかではない。広元たち一族の助命があったのかもしれないが、父広元の多大な功績とともに、親広の子の佐房が幕府軍に加わり奮戦したこと、在京の武士として後鳥羽の命令に応じたことはやむをえないこととする弁護論などさまざまな理由によって親広は処刑を免れ、出羽国寒河江荘への流罪という形での処分を受けたのであろう。
-------

とあります。(p184)
『安中坊系図』等、寒河江に残された親広子孫の記録は必ずしもすべてが信頼できるものではなさそうですが、親広の隠棲自体は間違いないようですね。

「安中坊遺跡発掘調査」
https://www.mmdb.net/yamagata-net/usr/nishikawa2/antyuubou/page/A0001.html
「阿弥陀堂跡阿弥陀屋敷(吉川館跡)」
http://www.ic-net.or.jp/home/rinet/ynskwpamdduatamdysk.html
コメント (2)
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長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』の奇妙な読後感

2020-06-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月13日(土)21時58分13秒

昨日、長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)をやっと入手して読み始めたら、今日は国会図書館に遠隔複写を依頼していた「<承久の乱>像の変容─『承久記』の変容と討幕像の展開─」(『文化史学』68号、2012)が届きました。
後者は『中世公武関係と承久の乱』に纏められた長村氏の論文のうち、一番重要かなと思って早く読もうと注文していたのですが、国会図書館の遠隔複写もずいぶん混雑しているようで、今頃やっと届き、結果的には単なる無駄遣いになってしまいました。
ま、それはともかく、実は私、長村氏が「討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはず」と言っているらしいと聞いて、正直、長村説をちょっと莫迦にしており、不遜にも、この本はわざわざ買わなくてもいいや、などと思っていました。

「討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはず」(by 長村祥知氏、但し伝聞)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f1a44db9f7736795561e163dc58f0ba

しかし、実際に同書を手にしてみたところ、研究史の整理は丁寧だし、史料が豊富な上にその分析も緻密であり、さすがに主要な学術雑誌に軒並み書評が載るだけあって、優れた本だなと思いました。
ただ、肝心な部分は、やっぱりなー、という感じですね。
「第三章 <承久の乱>像の変容─『承久記』の変容と討幕像の展開─」から少し引用してみます。(p113以下)

-------
 後鳥羽の発給した義時追討命令文書として、院宣と官宣旨の二種の文面が今日に伝えられている。史料1 慈光寺本『承久記』所引承久三年五月十五日「後鳥羽上皇院宣」は実際に発給されたものであり、その奉者である葉室光親が、伝奏の立場で発給の根幹にも位置したのが史料2 承久三年五月十五日「官宣旨」であった。
 命令内容としては、院宣・官宣旨ともに、幼齢の鎌倉殿(九条三寅)をさしおく北条義時の追討を命じている点を確認したい。なお、文書の様式上、そこに表れる追討対象は(幕府などの組織ではなく)個人名となるため、文書を論拠に後鳥羽の討幕構想を否定することはできないという理解もあるかもしれない。しかし、仮に後鳥羽が討幕を構想していたなら、鎌倉殿(九条三寅、あるいは代行たる北条政子)の名を追討対象に挙げたはずであり、やはり後鳥羽の意図は義時追討であったと考えねばならない。
【中略】
 後鳥羽の目的は北条義時の追討であり、義時追討は決して討幕と同義ではないことを、明確に区別しておかねばならない。
-------

うーむ。
承久の乱は結果的に僅か一ヵ月で決着がついてしまいましたが、後鳥羽もさすがにそんな短期に、しかも自分が負けるとは思いもよらず、それなりの長期戦を覚悟していたはずです。
そして五月十五日付の院宣・官宣旨は、想定された長期戦の一番初期の、主として御家人間を分断し、幕府の内紛を誘発することを狙った政治的文書ですね。
仮に倒幕という目的に適合した文書の形式を整えるためには「鎌倉殿(九条三寅、あるいは代行たる北条政子)の名を追討対象に挙げ」るのが正しいとしても、それが政治的ないし軍事的に正しい選択なのか。
政子は頼朝の記憶を直接に喚起させる存在ですから、北条は憎んでも政子だけはどうにも敵にしたくない、政子には頭が上がらない、という御家人も多かったはずです。
それにもかかわらず、文書の形式を整えるという、いわば事務方の小役人的な発想で政子を正面から敵と名指ししてよいのか。
そこまで考えなくとも、仮にも武士が、四歳の幼児や六十六歳の老尼を討伐しましょうと言われて、是非参加させて下さい、と言えるのか。
まあ、恥ずかしくてそんなことはできないんじゃないですかね。
私には長村氏が政治的文書をあまりに正直に、生真面目に、子供っぽく読んでいるように感じられます。
この文書をそこまで素直に読むのだったら、長村氏は後鳥羽が一か月後の六月十五日に出した院宣も素直に、文字通りに受け取るのでしょうか。
「今度合戰。不起於叡慮。謀臣等所申行也(この度の合戦は後鳥羽の御意思から起こったものではなく、謀臣らが申して行ったものである)」という、あの素晴らしい院宣を。

『吾妻鏡』承久三年六月(『歴散加藤塾』サイト内)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
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