学問空間

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清宮四郎のストーカー

2015-07-29 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月29日(水)12時24分23秒

早稲田実業のスーパー一年生・清宮幸太郎君の登場で、「清宮」でググると検索結果は野球ニュースで埋め尽くされてしまう今日この頃ですが、法律を学んだ人間にとって、清宮といえば何といっても憲法学者の清宮四郎(1898-1989)です。
石川健治氏はここ十数年、清宮四郎の追っかけをやっているそうで、それは清宮の公刊された論文を深く研究するという段階を遥かに超え、清宮に関係する日本・韓国等の複数の大学図書館で、清宮が研究のために収集した古今東西のあらゆる文献をひとつひとつ確認し、清宮が線を引いたり書き込みをした箇所にあたって、清宮の思考過程の全てを忠実に再現しようとする試みのようです。
殆ど清宮四郎のストーカーですね。
ま、こういう紹介の仕方をすると、そんなことをやっていて何が面白いのか、と思う人が多いでしょうが、例えばその研究成果のひとつ、「「京城」の清宮四郎―『外地法序説』への道」(『帝国日本と植民地大学』、ゆまに書房、2014)などを実際に読むと、これがまた不思議なくらい面白いんですね。
公法学界という地味な世界に生きた清宮四郎のような地味な学者が、まるで歴史の檜舞台で、歴史を動かす名優として輝いていたかのような感じさえしてきます。
ただ、もしかするとそれは清宮四郎の実像ではなく、人形遣いの名手である石川健治氏に動かされた文楽人形ではなかろうかという若干の疑いもあって、興味は尽きません。

>筆綾丸さん
>宮沢俊義の「八月革命説」を意識
これはおっしゃる通りでしょうね。
革命というと、通俗的には武器を持つ集団の蜂起や民衆暴動、旧支配階級の処刑といった暴力の連鎖を思い浮かべますが、「八月革命説」の場合、ポツダム宣言の受諾それ自体は武力・暴力の行使でも何でもない、至って静かな事務的な行為ですので、石川氏の「7月クーデター」説に通じるところがありますね。
しかし、まあ、一般論として武力行使の有無を問わない「政治レベルでの法秩序の連続性の破壊」を「法学的にはクーデター」と呼ぶのを肯定するとしても、2014年7月1日の閣議決定の場合、国家の最高権力者自身の事務的な行為であって、権力の奪取という派手さ・華やかさが全くありませんから、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」や2.26事件あたりと比べると、ずいぶんショボいクーデターであることは否めないですね。

>刑法第77条
1995年の刑法典の現代用語化により「国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者」という表現になってしまいましたが、私は昔の「政府ヲ顛覆シ又ハ邦土ヲ僣窃シ其他. 朝憲ヲ紊乱スルコトヲ目的トシテ暴動ヲ為シタル者」が味わい深くて好きですね。
内乱罪の場合、「暴動」が不可欠の要件ですので、石川氏の「七月クーデター説」に従っても内乱罪は成立しませんが、石川氏が法律用語ではない「革命」と明確な法律用語の「教唆」(刑法61条)を意図的にミックスして何か物凄く重大な事態が発生しているように装うのは、なかなか「狡猾」と評価できそうですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「Brutparasitismus(托卵)」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7903
「Sprachspiel と Puppenspiel」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7904
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「九六条を改正しようとする策謀は、法学的には革命の教唆」(by 石川健治)

2015-07-27 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月27日(月)10時32分8秒

岩波の『世界』8月号に石川健治氏の<集団的自衛権というホトトギスの卵 「非立憲」政権によるクーデターが起きた>というインタビュー記事が載っていますね。
少し引用してみると(p61)、

--------
「法の破砕」が起こった

石川 時間が一年巻き戻されたとなってみれば、あらためて一年前の七月一日に起こった出来事を考えなおす必要があります。あれは、私は法学的にはクーデターだったと思っています。
 私はかつて朝日新聞に、憲法改正手続を定める九六条を改正しようとする策謀は、法学的には革命の教唆であると書いたことがあります(二〇一三年五月三日付「九六条改正という『革命』」)。革命というのは、法学的な側面からいえば、憲法制定権力としての国民そのものが動く、もしくは憲法の大本にある規範が動くことで、法秩序の連続性が切断される事態のことです。「法の破砕」ともいいます。厳密な法理論に立ち入ることは避けますが、憲法の条文を改正する手続きを定める条文は、既存の憲法典の秩序構造のなかで、他のすべての条文よりも高い位置にありますから、それを壊す行為は、憲法典全体を転覆させる行為であるわけです。
 しかし、安倍政権は、国民に信を問うことなく、閣議決定により、法的連続性を切断してしまいました。国民もしくは大本の規範は動かないまま、政治レベルで法秩序の連続性の破壊が起こった場合を、法学的にはクーデターといいます。クーデターとは「法の破砕」の一種なのです。ですから7・1の出来事はクーデターです。国民が「革命」に動かないとわかると、今度は、国民を置き去りにしてクーデターに走ったわけです。
 しかし、クーデターを引き戻そうというアンチ・クーデターの動きが出てきて、政治日程に関してはほぼ一年巻き戻された。これは日本の立憲主義にとって歴史的な出来事だと思います。
--------

ということで、石川健治氏は「国民もしくは大本の規範は動かないまま、政治レベルで法秩序の連続性の破壊が起こった場合」を「法学的にはクーデター」と定義するのだそうですね。
ここには一般にクーデターの不可欠の要素とされている「武力の行使」は含まれていません。
まあ、そう言いたければ言えばいいんじゃないの、とも思いますが、法学・政治学を含め、様々な分野の研究者がクーデターに分類していなかった出来事(政府の憲法解釈の変更)を突然クーデターと呼び始めるのは、みんなが今までカレーライスと呼んでいた料理を今日からは俺様はチキンライスと呼ぶのだ、庶民よ、東大法学部教授の俺様に従え、的な滑稽感がない訳ではありません。
石川氏によれば、憲法改正手続を定める九六条を、同条の手続きに従って変更しようと提案することも「革命の教唆」なのだそうで、これもなかなか興味深い指摘です。
私も石川健治氏の論文をそれなりに読んだので、「厳密な法理論」の内容が推定できない訳ではありませんが、もう少し丁寧な説明を、『世界』のような通俗雑誌ではなく、法律学の専門雑誌に書いていただけるとありがたいですね。

>筆綾丸さん
ヘンリー・ムーアの別の作品も2012年6月に盗まれ、10日後に無事回収できたそうですね。
こちらは22インチの小品で、盗むには手頃といえば手頃です。
捕まった犯人も19歳ひとりと22歳二人の3人組で、文字通りの小悪党ですね。

Stolen Henry Moore sculpture recovered by police
http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/crime/9417660/Stolen-Henry-Moore-sculpture-recovered-by-police.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「三菱のヘンリー・ムーア」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7901
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「あれは安倍政権によるクーデターだった」(by 石川健治)

2015-07-24 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月24日(金)22時09分11秒

つい最近、「この人こそ現時点で一番注目すべき憲法学者であろうと思ったのは長谷部恭男氏でも木村草太氏でもなく、1962年生まれの石川健治氏です」、みたいなことを書いたばかりですが、石川氏のクーデター発言は私の個人的な石川健治ブームにとってそれなりの冷や水でした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150718-00010001-videonewsv-pol

クーデターは厳密な法律用語ではないですし、政治学等でも様々な定義があり得るでしょうが、まあ、どんな立場の人でも「武力の行使」という要素ははずさないと思います。
念のためと思って法律辞典を含む各種辞書や百科事典等を眺めてみましたが、すべて「武力の行使」ないし同趣旨の表現を用いていますね。
どうも石川氏は政治的活動に熱中するあまり、言葉がどんどん過激に、上滑りになって行っているような感じがします。
学者としてはよくない傾向ですね。

2005年に盗まれたヘンリー・ムーアの作品、間抜けな窃盗団が処分に困って最後にスクラップに、という展開ではなくて、最初から溶解して中国に売り飛ばす予定で盗み、実際に盗難後すぐに溶解してしまったみたいですね。
見る人が見れば、ヘンリー・ムーアの巨大な金属彫刻は芸術作品ではなく、有望な都市鉱山なんですね。

Mystery of the stolen Moore solved
http://www.theguardian.com/artanddesign/2009/may/17/henry-moore-sculpture-theft-reclining-figure

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ヘンリー・ムーアを盗む人

2015-07-24 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月24日(金)10時34分42秒

『FBI美術捜査官』はなかなか刺激的だったので、続いてサイモン・フープト『「盗まれた世界の名画」美術館』(内藤憲吾訳、創元社、2011)を眺めているところです。

http://www.sogensha.co.jp/booklist.php?act=details&ISBN_5=70036

世の中にはヘンリー・ムーアの作品まで盗む人がいるそうですね。(p88)

--------
【前略】
 価値と重さの両方において近年で最大の窃盗事件のひとつは、長さ11フィート、重さ2トンのブロンズ像であるヘンリー・ムーアの「横たわる像」の盗難である。300万ポンド(520万ドル)と評価されているこの作品は、2005年12月にハートフォードシャーのマッチ・ハダムにある彫刻家の晩年の住まいの敷地から持ち去られた。警察は夜間の押し込み強盗を記録した防犯カメラを見て驚いた。それは、ヘンリー・ムーア基金の敷地内に、旧式のオースティン・ミニ・クーパーと起重機を備えつけた赤のメルセデスの平台型トラックで乗り込む泥棒の一団を写していたからだ。英国警察の捜査官は、その作業を「きわめて無謀な窃盗だ」と断言した。しかし大胆かつ利口であっても、泥棒たちがその重労働を現金化することができるとは必ずしもかぎらない。ムーアの作品のもつ名声、市場価値、大きさの特異性のために、警察はそれを故買することはできないことを知っている。では警察が本当に恐れていることとは何か? それはムーアのことをまったく聞いたこともない別の廃品回収業者がそのブロンズ像を溶かしてしまうことである。
--------

>筆綾丸さん
「鵜飼教授の直話」だけ別の論文で知っていたので知ったかぶりの書き方をしてしまいましたが、『自由と特権の距離』は未読です。
筆綾丸さんの感想を聞いてから購入すべきか決めようと思っていたのですが、ご紹介の最終部分を見ると、急いで読まなくてもよいみたいですね。
石川健治氏の論文は導入部分で読者をワクワクさせ、やたら長い本文も随所に挟み込まれる華麗なレトリックでそれほど冗長な印象を与えないのですが、最後に来て、あれ、これで終わりなのか、と微妙な雰囲気になってしまうものが多いですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「あたしマルキストなんです」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7895
「シュミットあるいは趣味の糸を紡ぐ」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7897
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『FBI美術捜査官』

2015-07-21 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月21日(火)21時41分50秒

>筆綾丸さん
連休中はあまりの暑さに硬い本を読む気になれず、ロバート・K・ウィットマン『FBI美術捜査官 奪われた名画を追え』(柏書房、2011)などを眺めて過ごしていました。
そういえば群馬県館林市でこの夏一番の暑さ、39.3度を記録した14日は私の住んでいる地域でも37度を超えたのですが、翌15日は34度程度だったので、「今日は涼しいな」と思いました。

http://www.kashiwashobo.co.jp/cgi-bin/bookisbn.cgi?isbn=978-4-7601-3996-5

それでも宮沢俊義の「国民代表の概念」だけは確認しなければと思い、『憲法の原理』を入手して読んでみたところ、1934年の論文なのに文体は全く古さを感じさせず、モダンですね。
内容はさすがに少し古くなっており、長谷部恭男氏の「国民代表の概念について」(『法学協会雑誌』129巻1号、2012)で補わなくてはなりませんが、それでもつい最近、芦部信喜の時代まで賞賛され続けてきたのですから、驚くほど長命な学説です。
そして、「宮沢は狡猾だ」という鵜飼信成の評価について、私は鵜飼には賛成し難いという暫定的な結論を得たのですが、これはまた後で書きます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「そもさん、何の所為ぞ」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7892
「Rezeptionsästhetik(受容美学)としての日本の憲法学」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7893
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『天皇機関説─史料は語る』への若干の疑念

2015-07-18 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月18日(土)07時35分44秒

私も別に宮沢俊義の存在を絶対化して、石川健治氏の「コスモス拾遺」は宮沢の名誉と尊厳を汚す許し難い所行だ、などと思っている訳ではありません。
むしろ私は全く別の事情で宮沢に少し不信感を抱いていたので、最初に「コスモス拾遺」を読んだときは、ははーん、と思ったくらいです。
というのは、去年、将基面貴巳氏の『言論抑圧-矢内原事件の構図』をきっかけに蓑田胸喜や原理日本社を調べた際、初めて宮沢の『天皇機関説─史料は語る 上・下』(有斐閣、1970)を読んでみたのですが、浩瀚な資料集なのかと思いきや、意外に分量が貧弱で、また宮沢の「コメント」と史料紹介を交互に並べた非常に読みづらい構成なので、ちょっと驚きました。
そして、宮沢は1948年5月、美濃部達吉が亡くなった頃から天皇機関説事件の記録を書こうと思い、「有斐閣の新川正美君にも相談して、そのための史料を得る目的で、事件当時の関係者による座談会を四回にわたって開き、その速記をとっておいた」(p1)にも拘らず、何故か執筆に取り掛からず、結局、刊行が1970年まで遅れた理由について、言い訳にもならないようなことをグダグダと書いているんですね。
1950年から51年にかけて行われた四回の座談会は出席者が本当に重要人物ぞろいで、史料的に極めて貴重なのに、「わたしの不注意と怠慢のせいで、速記者から受け取った原稿を、一五年以上ものあいだ、わたしの手もとにそのままにしておく結果になってしまった」(p572)ため、刊行時には参加者に多数の物故者が出ているような有様で、この部分を読んだときは宮沢の無責任さに怒りを覚えたほどです。
ま、そんな事情があって、どうも頭脳明晰な宮沢にしては怪しい、これは天皇機関説事件について語るのをはばかるような個人的事情でもあったのでは、みたいな疑いを抱いていたので、「コスモス拾遺」に、ははーん、と思った訳です。
しかし、宮沢に怪しいところがあるとしても、では鵜飼を完全に信頼できるかというと、それはまた別問題ですからね。
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「宮沢憲法学管見」(by 鵜飼信成)

2015-07-17 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月17日(金)14時31分49秒

参考までに「宮沢憲法学管見」(『ジュリスト』807号、1984年2月15日)も少し引用しておきます。(p26以下)
宮沢の「国民代表の概念」を正面から論じたものですね。

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 一九三四年(昭和九年)に発表された宮沢俊義教授の「国民代表の概念」は、ケルゼンのイデオロギー批判の方法を用いて、法律学におけるイデオロギーと科学とを峻別することを主張したものとして、当時の学界に衝撃を与えたばかりでなく、それから五十年余りを経た今日でも、公法学界での論争の的になっている(東大の樋口陽一教授、「タブーと規範」世界四五一号、一九八三年六月、東北大の菅野喜八郎教授、「八月革命説覚書」法学四七巻二号、一九八三年六月、などの諸論文)。
 私は一九七七年に日本公法学会主催の会合で、「憲法におけるイデオロギーと科学」という講演(鵜飼『法と裁判をささえる精神』一一頁以下)をし、その中で、法律解釈のイデオロギー性を分析すると同時に、同じ解釈の中にもイデオロギーと同じように現実から離れた解釈で、しかもイデオロギーのように、現実を蔽いかくして、存在しないものを存在するように主張する、いわば政治に引きずられた解釈でなく、反対に、現実をそれに内在する理想の方に引きずって行く解釈があるとも主張し、その根拠として、カール・マンハイムの「イデオロギーとウトピー」を援用しておいた。
 ところが最近宮沢教授の右の論文(現在『憲法の原理』岩波書店一八八頁所収)を改めて読み直して見て、びっくりした。教授はこの中に、カール・マンハイムの右の著書の名をあげて、イデオロギーと理想との区別を論議していられるのである。私は自分の不勉強を恥じると共に、宮沢学説の昭和憲法学説史上に占める先駆者的役割に改めて敬意を払わざるを得なかった。
----------

鵜飼は「最近」、問題の宮沢論文を読み直したとありますが、「宮沢憲法学管見」の掲載は1984年2月15日号ですから、実際の執筆は1983年の秋くらいで、「最近」もそのあたりですかね。
ちなみに現在の『ジュリスト』は月刊ですが、この当時は月2回刊行です。

さて、「自分の不勉強を恥じ」て、「宮沢学説の昭和憲法学説史上に占める先駆者的役割に改めて敬意を払わざるを得なかった」鵜飼は、更に次のように続けます。

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 宮沢教授の右の論文は、しかしイデオロギー的解釈を批判するのに力点をおくことが主眼で、「理想」の立場からする解釈や、科学の立場からする法認識については殆ど述べていない。これはおそらく、昭和初期の日本で「現実の存続を欲する支配層」の要求のみにこたえるイデオロギー的解釈論が支配的であるのに憤激した良心的学者の怒りの静かな爆発だったからであろう。
--------

ま、といった具合で、久しぶりに「国民代表の概念」を読み直して「良心的学者の怒りの静かな爆発」を感じ取った鵜飼は、同時に「宮沢は狡猾だ」とも思ったのでしょうか。
そうだとすれば、ちょっと二重人格っぽい不気味さも漂ってきますね。
この後、議論は八月革命説の評価に移ってしまいますが、最後まで宮沢への非難は出てきません。
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「コスモス拾遺」 (その2)

2015-07-16 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月16日(木)13時18分18秒

「コスモス拾遺」の最後の部分も引用してみます。

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 心臓病の主治医から課せられた30分のリミットは、瞬く間に過ぎた。
 再び書物のトンネルをくぐった私は、もはや元の私ではなかった。ただ一度きりの、この50分に満たない邂逅を通じて、宮沢神話の呪縛から解き放たれたというだけではない。先生が、あの苦しく困難な時代に書かれた社会科学文献の読み方を、生々しく実物教育して下さっていたことに、私は気がついていた。灯火親しむ秋に、更めて学恩を想う所以である。
---------

物語は「書物のトンネル」をくぐることによって始まり、「再び書物のトンネルをくぐった私は、もはや元の私ではなかった」そうですから、まるで宮崎アニメの『千と千尋の神隠し』みたいですね。
この話が何時のことなのかというと、1962年生まれの石川氏が「われわれ助手・院生」の一員で、1987年5月に心臓病で(?)亡くなる鵜飼信成が、それでも「50分に満たない」面談は可能ということですから、1985年ないし86年くらいでしょうか。
ま、石川氏が「宮沢神話の呪縛から解き放たれた」のは大変けっこうなことですが、傍から見ていると、新たに「鵜飼神話の呪縛」にからめとられた可能性はないのだろうか、という疑問も生じてきます。
そもそも鵜飼信成は、何故に最晩年になって「宮沢は狡猾だ」と言い出したのか。
宮沢俊義は1976年に亡くなっていますが、鵜飼が宮沢の生前に正々堂々と宮沢を批判していれば、宮沢だって反論が出来たはずですね。
宮沢没後に法律雑誌でいくつか座談会が持たれていて、鵜飼も参加していますが、そこで鵜飼が「宮沢は狡猾だ」と言えば、宮沢をよく知る人々が鵜飼に賛意を表するか否かはともかくとして、宮沢憲法学の一側面に関する議論が深まったかもしれません。
しかし、鵜飼は宮沢没後の座談会で宮沢批判をしていないばかりか、おそらく鵜飼が宮沢について書いた最後の論考と思われる「宮沢憲法学管見」(『ジュリスト』807号、1984年2月15日)においても宮沢をひたすら賞賛していますね。
となると、「宮沢は狡猾だ」という着想は、気力・体力が衰えて本当に棺桶に片足を突っ込むほどの時期になって初めて鵜飼の脳裏に生じた妄想なのか。
それとも鵜飼はずっと前から内心ではメラメラと宮沢への敵意の炎を燃やしながら、何らかの事情で、それをヒタ隠しに隠していたのか。
謎は深まりますね。

>筆綾丸さん
>石川氏が論文(自他とも)をしばしば作品と呼んでいる
中央大学に安念潤司という冗談好きの非常に面白い教授がいて、何かの書評で、某憲法学者を「文士きどり」と冷やかしていましたが、まあ、「文士きどり」の評が一番似合う憲法学者は石川健治氏でしょうね。
ちょっと自分の文章に酔っているようなところがありますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「『仮面の告白』のように」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7888
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「コスモス拾遺」

2015-07-15 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月15日(水)16時51分33秒

>筆綾丸さん
>「鵜飼教授の直話」
これは石川氏の「コスモス拾遺」(『法学教室』314号、2006年11月)を読まないと理解しにくい、かなり微妙な話ですね。
私も最初に読んだときにはちょっと驚いたのですが、鵜飼信成自身がどのような人物なのか、今ひとつ分からないので、このエピソードについては判断を保留しているところです。
参考までに、少し丁寧に紹介してみます。

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 赤煉瓦の瀟洒なマンションの一室の前。われわれ助手・院生を引率してきた奥平康弘教授が、ドアのチャイムを鳴らす。思わずネクタイを締め直してから扉をあけると、そこは書物のトンネルであった。ペーパーバックの書物が、煉瓦を積み重ねるようにぎっしりと、壁を覆った廊下。くぐり抜けた先には、リビングの安楽椅子に凭れた病身の碩学が、穏やかな笑みを湛えていた。弱った体軀に若々しい魂を漲らせながら。
 読者は、鵜飼信成という名前を、知っているだろうか。
---------

このあたり、石川氏はストーリーテラーとして実に巧みですね。
そして鵜飼信成の経歴を簡単に紹介した後、次のように続けます。

---------
 その鵜飼先生が、若人にこれだけは伝えておきたいという素振りで、「宮沢は狡猾だ」と仰る。日本憲法学史上の名作中の名作、宮沢俊義の「国民代表の概念」に話が及んだときのことだ。美濃部の国民代表概念を怜悧な分析で解体した同論文は、ほかならぬ美濃部還暦記念論文集に寄稿された。恩師の Festschrift において宮沢が師説を完膚なきまでに批判したことは、それを甘受した美濃部ともども、学問かくあるべしと謳われる美しく神話化されたエピソードである。また、丸山真男の如く、本来、政治的には掩護すべき美濃部・国民代表説を、学問上の要請から否定せざるを得なかったところに、宮沢憲法学の悲劇性を読み取る見解もある。
 けれども、鵜飼先生の見方は、それらとは違っていた。この名作の誉れ高い論文は、実は、天皇機関説で断罪された美濃部を批判し、ナチスの桂冠法学者として令名高かったカール・シュミットに賛意を表する、という形式で書かれている。美濃部の直弟子として攻撃の矢面に立たされた宮沢は、論文内容など読もうともしない批判者の反知性主義を逆手にとり、そのような形式上の演出によって自らをまもろうとした、そこが狡猾だ、と先生はいわれる。
 私は、即座に、宮沢先生は文中で、ナチス学者のケルロイターを明確にやっつけているではないですか、と反論した。これに対して先生は、その当時、カール・シュミットこそがナチス法学の代表者と看做されていたのであり、本当にナチスを批判したければ、シュミットを批判しなくてはならなかったのだ、と念を押すように指摘された。表現の自由を奪われた者が「奴隷の言葉」で自らを語らざるを得ない苦渋こそが、完璧に構成された宮沢論文の名作性の源泉であったという構図。鵜飼先生が強調しようとされたのは、いまから振り返ればこの点であった。
--------

「ナチスの桂冠法学者として令名高かったカール・シュミットに賛意を表する、という形式」の「形式」に傍点が振られています。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「宮沢(俊義)は狡猾だ」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7886
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「コスモス─京城学派公法学の光芒」

2015-07-14 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月14日(火)10時15分37秒

筆綾丸さんの木村草太氏に関する投稿をきっかけに、この四月から四半世紀ぶりに憲法の勉強を始め、岸信介や「偉大なる暗闇」の岩元禎、更に三谷隆正・羽仁五郎・林健太郎等に脱線しつつ、それでも長谷部恭男氏の著書を大体読み終わった頃に突如として長谷部ブームが勃発し、また、木村草太氏はニュースステーションのコメンテーターとなってしまいました。
ま、それなりに時流に沿っている感じがしないでもない今日この頃ですが、浦島太郎の私が今どきの憲法学界を大急ぎで眺め渡した結果、この人こそ現時点で一番注目すべき憲法学者であろうと思ったのは長谷部恭男氏でも木村草太氏でもなく、1962年生まれの石川健治氏ですね。
長谷部恭男氏と石川健治氏の最大の違いは何かというと、長谷部氏があまり冴えない風貌なのに対し、石川氏は大変な美男子である点で、ちょうど美濃部達吉と上杉慎吉の関係に似ています。
また、長谷部氏はシニカルでユーモラスな文体を特徴としますが、石川氏は雄大な構想力とともに華麗な修辞の才能に恵まれ、その文体は微かに古風な美文調も混じる独特のものですね。
「コスモス─京城学派公法学の光芒」冒頭は石川氏の文体の特徴をよく示しているので、少し紹介してみます。

---------
一 「京城」という問い

 いつの日か、戦後日本の公法学を過去のなかに探ろうとする人は、そこに、戦前の「京城」に端を発した、長く尾を引き、そして強く輝く、幾筋かの光芒を発見するであろう。堅固な理論と円熟した巨匠的筆致で戦後憲法学の指導的存在となった清宮四郎、名実ともに京城学派のリーダーであり国際的にも活躍した法哲学・社会哲学の尾高朝雄、ドイツ法思想とアメリカ法思想を股にかけた活躍でそのブリリアンスが一層際立つ憲法学の鵜飼信成、寡作ではあったが学問の厳格さと犀利な知性で後進を薫陶した国際法学の祖川武夫。彼らと、彼らが戦後に残した多くの卓れた後継者たちは、いずれ劣らず個性的で、強烈なアクセントを戦後公法学史に刻んでいる。それだけに、戦後公法学における「京城」性、あるいは戦後公法学における「半島」的なるもの、という設問は、これまで問われたことはほとんどないが、慎重な配慮と十分な準備さえあれば、これを提起するに値する。
--------

この「ドイツ法思想とアメリカ法思想を股にかけた活躍でそのブリリアンスが一層際立つ憲法学の鵜飼信成」に付されたのが、前回投稿で紹介した「注2」ですね。
石川氏の論文は「注」の分量が多くて、「コスモス」は全部で60頁ページほどの論文ですが、その内、本文は40頁、細かい活字の「注」が20頁なので、字数を数えれば全体の半分が「注」なのではないかと思われまする。
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鵜飼信成のアメリカ留学

2015-07-13 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月13日(月)09時40分26秒

鵜飼信成(1906-87)は学士院会員にもなったくらいの著名研究者ですから、没後に法律雑誌で追悼記念特集が企画されたり、友人や弟子たちの座談会とかが組まれてもおかしくないと思うのですが、どうもないみたいですね。
というか、鵜飼が亡くなった1987年5月以降、数か月分の『ジュリスト』を見ても、鵜飼の死亡記事自体がないので、ちょっと奇妙な感じです。
ま、それはともかく、現時点で鵜飼の人生と業績を最も丁寧に紹介している文章は、おそらく石川健治氏の「第五章 コスモス─京城学派公法学の光芒」(『岩波講座「帝国」日本の学知』第1巻、2006)の「注2」(p211以下)ですね。
少し引用してみます。

-------
(2) 一九〇六年生まれで、清宮、尾高より若年の鵜飼信成については、是非ともとりあげたかったが、紙幅の関係で断念した。美濃部達吉門下の鵜飼は、元来、美濃部のサジェスチョンでワイマール憲法(カール・シュミットの仕事に触発されたレファレンダム論や制度的保障論)を研究していた憲法学者だったが(たとえば、「直接国民立法の一形態」『法政論纂』刀江書院、一九三一年、四九頁以下、「制度的保障の理論」『法学新報』四六巻一一号、一九三六年、一七六一頁以下)、京城大学に赴任してまもなく、天皇機関説事件および二度にわたる国体明徴宣言で美濃部憲法学説を奉ずる教員がパージされる状況になったため、年長の清宮らの配慮により、憲法担当を回避して行政法講義と演習を担当し、行政法の歴史研究やアメリカ法の比較研究、さらにはジョン・ロックの政治思想研究に従事した。美濃部門下でイギリス憲法を研究していた同じ大正デモクラシー世代の柳瀬良幹(東北帝国大学)も、同様の事情で行政法を担当することになった、とは生前の鵜飼教授の直話である(鵜飼は、戦後、東京大学社会科学研究所で、憲法学者として大活躍することになるが、柳瀬は、そのまま行政法学者として留まった)。
【中略】
留学先は、ドイツ法学中心だった戦前の学界においては異例中の異例というべき、ハーバード・ロースクールであり(一九三九年)、ロスコウ・パウンドのゼミで、アメリカに亡命してきたハンス・ケルゼンに出会っている。戦後日本におけるアメリカ憲法判例研究は、先駆者鵜飼の業績に負うところが非常に大きい。
---------

長大な「注2」はまだまだ続くのですが、ここでいったん切ります。
さて、石川教授の言われるように、鵜飼信成の経歴で非常に特徴的なのはアメリカ留学ですね。
そして、石川教授の学問的関心とは全く関係ありませんが、私の個人的関心からも鵜飼のこの時期の留学は非常に興味深いですね。
ま、要するに鵜飼信成はアメリカでジョー・小出こと鵜飼信道に会っていたのかな、ということなのですが。
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「彼の容貌は野坂参三と酷似」

2015-07-12 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月12日(日)07時42分25秒

ジョー・小出が鵜飼信成の兄との指摘を誰が最初にしたのか、ちょっと気になるのですが、野坂参三の『風雪のあゆみ(八)』(新日本出版社、1989)には、「彼の名前についての、彼自身の著書にもとづいた説明」をした後、「昨八七年に亡くなった元東京大学社会科学研究所長で国際基督教大学学長を歴任した憲法学者の鵜飼信成が彼の弟であることも、のちに知った」(p199)とありますね。
ジョー・小出の自伝『ある在米日本人の記録』(上・下、有信堂、1970)は未読ですが、大森実の『戦後秘史3─祖国革命工作』(講談社、1975)から少し引用すると、

-------
 『ジョー・禎二・小出』という名のコミンテルンの元在米オルグは、死んだ友人の名前を盗んで生きてきた男である。
 死者の戸籍を、生年月日からオヤジ、お袋の名前まで、まるごと盗んだまま生きつづけるなど、尋常な神経で耐えうるアヴァンチュールではない。実名・鵜飼信道という共産党の『逃亡者(ヒュージティブ)』にして初めてできた冒険であったろうが、その冒険は、彼がアメリカ共産党に入党し、『逃亡者』になった瞬間からはじまった。そして、妻や息子や孫にも死者の姓を冠したまま、墓場までもちこもうとしている『逃亡者』の彼は、『裏切り者(トレイター)』の汚名までかぶされ、苦悩と恐怖と矛盾の茨の道を歩んできたのである。
【中略】
 明治三十五年生まれだそうだが、矍鑠として、顔は赤く陽やけしている。七十二歳とはとても考えられない血色のよい顔であった。頭の回転がずば抜けて良さそうな老人である。だが、話すとき、つねになにかを隠そうとする『逃亡者』の習慣は抜けないものと見え、彼の過去の全貌を掴むには、長い時間が必要であった。
 『小出禎二』は、彼がデンバー大学留学時代にモデストから転校してきた先輩格の友人の名前である。デンバーからニューヨークに出て、アメリカ共産党に入党して非合法の地下活動に入ったとき、死んだ『小出禎二』の名前を騙ることを決意したそうだ。彼の実名は鵜飼信道である。東京築地の明石町、聖路加病院の近所で生まれた。原籍地は東京のはずだが、米政府外人登録番号568939。本籍、鳥取県西伯郡宇田川村本宮、明治三十三年六月十二日生まれの『ジョー・禎二・小出』を、彼が墓標の下から蘇生させたのだ。
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といった具合で(p24以下)、殆どハリウッド映画の世界ですね。
『逃亡者』と聞くと、世代によっては1960年代のテレビドラマを連想するのかもしれませんが、私にとってはハリソン・フォード主演の1993年の映画ですね。
ちなみに『戦後秘史3─祖国革命工作』に収録された「大森実直撃インタビュー」の解説によれば、

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 ジョー・小出自身がいうとおり、年が十歳くらい違うことを除いて、彼の容貌は野坂参三と酷似していた。モスクワにいた野坂参三が、ジョー・小出をスタントマンに使ったとする想定は、あまりにもうがちすぎた仮定になるかもしれないが、少なくとも小出自身はそうだと信じているのだ。
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そうで(p297)、黒澤明の『影武者』(1980)公開後であれば、「スタントマン」は「影武者」という表現になったのでしょうが、これまた映画っぽい話です。
ちなみに『風雪のあゆみ(八)』には、野坂参三とジョー・小出の容貌が酷似していたとの指摘への言及はありません。
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ウナギ追いしかの山

2015-07-11 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月11日(土)21時40分0秒

>筆綾丸さん
>『東京帝大叡古教授』
著者は1971年群馬県生まれで、この作品は直木賞候補作なのですね。

http://homepage1.nifty.com/naokiaward/kogun/kogun153KY.htm

書店で手に取ってみたのですが、どうも今は頭が小説モードにならないので、暫くお預け状態が続きそうです。
ちなみに直近で読んだ、というか読み直した小説はウンベルト・エーコの『薔薇の名前』なのですが、これはヨーロッパ中世文化史研究者の辻佐保子氏がエッセイで言及されていたからで、同氏の著作を理解するための準備作業でした。

>『ヨルタモリ』
宮沢りえの会話のセンスと着物がいいなと思って時々見ているのですが、この回もたまたま眺めていて、大ウナギの歌はすごいなと思いました。
私もかつて「来ぬ人を まつほの浦の 海老ふりゃー 揚げて尻尾(しっぽ)も 身もこがれつつ」と詠みましたが、大ウナギに完全に負けていますね。

「習作」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f6d824dffebe7d3dc1cc1bdec1c503a

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「東京帝大叡古教授と権中納言定食」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7880
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鵜飼信成とジョー小出

2015-07-10 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月10日(金)10時53分28秒

加藤哲郎氏のサイトについて少し揶揄めいたことを書きましたが、にわか勉強で『ゾルゲ事件─覆された神話』(平凡社新書、2014)に紹介されている文献のごくごく一部を読んでから、改めて同書を読むと、加藤氏の問題分析・論点整理の手際良さに感心してしまいます。
ゾルゲ事件研究も今はゾルゲの中国での活動に焦点が移っていて、相当程度の進展が見られるんですね。
もちろん本当の実態解明は、中国共産党の機密文書が公開されるようになる遠い(?)将来を待たねばならないとしても。

さて、加藤氏が現在追跡しているのは鬼頭銀一という人物ですが、同書では渡部富哉氏の「尾崎秀実を軸としたゾルゲ事件と中共諜報団事件」(白井久也編 『国際スパイ・ゾルゲの世界戦争と革命』所収)を引用した後、次のような記述があります。(p221)

-------
 ここで渡部は言及していないが、尾崎秀樹が親族から得た鬼頭銀一についての情報で重要なのは、「上海へ移住し、満鉄の系列会社である国際運輸上海支店に勤務中、コミュニストをかくまったかどで懲役二年、執行猶予三年の判決を受け、市ヶ谷刑務所で服役」「一九三八年五月、パラオ諸島のペリリュー島で食中毒のため急死」というゾルゲ事件に直接関わる問題にとどまらない。「昭和初年にアメリカに渡り、スクール・ボーイなどをしながらコロラド州のデンバー・カレッジに学び、卒業という経歴が注目される。
 奇妙なことに、昭和初年渡米、デンバー大学卒業(一九〇三年生、実際は二五年三月渡米、二七年末入党)というのは、野坂参三の一九三四-三五年、三六-三八年米国非合法滞在時の地下活動の助手で、のちにカール米田、ジェームズ小田らから「裏切り者」「スパイ」として告発されたジョー小出=本名鵜飼宣道(憲法学者で国際キリスト教大学学長だった鵜飼信成の実兄)の、アメリカ留学時代の履歴(一九〇三年生、二五年九月渡米、デンバー大学卒業、二八年頃入党)と、年齢・経歴・入党時期共に、ほぼオーバーラップする。
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実は個人的に同書の中で一番びっくりしたのは、ジョー小出が鵜飼信成の実兄という指摘でした。
鵜飼信成(1906-87)は憲法学界でもすっかり過去の人ですが、私はたまたま石川健治氏の「「京城」の清宮四郎―『外地法序説』への道」(『帝国日本と植民地大学』、ゆまに書房、2014)等、清宮四郎関係のいくつかの論文、エッセイを読んでいて、京城大学で清宮の同僚だった鵜飼信成に関する断片的な、しかし非常に興味深い記述に注目していたので、碩学鵜飼信成の兄がそんなに危険な活動に携わっていたのかとまず驚きました。
そして、大森実のジョー小出に対するインタビュー(『戦後秘史3─祖国革命工作』、講談社、1975)を読んでみたら、ジョー小出のお人柄が余りにファンキーだったので、またまたびっくりでした。
鵜飼信成が数奇な運命を辿った3歳上の実兄に対し、どのような態度を取っていたのか、ちょっと気になります。

>筆綾丸さん
>西村尚芳検事
現役の間は無理でしょうが、引退後は西村検事から見た『国家の罠』の真実、みたいな本を書いてほしいですね。
佐藤優氏も初めての拘置所暮らしの際は極限まで頭脳が冴えていたのでしょうが、今は娑婆でのびのび過ごされているためか、すっかり筆が荒れてしまいましたね。
旧著を過剰に褒め称えてしまった私としても、いささかきまりの悪い思いがします。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
TURNOUT 63 % ?
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7876
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吉河光貞についてのメモ(その5)

2015-07-05 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月 5日(日)22時08分35秒

ずいぶん前にも加藤哲郎氏の色彩感覚についてぶーたら文句を言ったような気がして検索してみたら、2008年12月2日に書いていました。

-------
加藤哲郎氏のウェブサイトは、思想がどうのこうのという問題を一切抜きにして、単にレイアウトと色彩だけを考えても、ここまで趣味の悪いサイトは珍しい感じがします。

「ピンクの豚」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4827

自分で言うのも何ですが、的確な批評だなと改めて思います。
タイトルは「ピンクの豚」ですが、これはチャーチルの言葉で、加藤哲郎氏のサイトには関係ありません。

>筆綾丸さん
>吉河はドイツ語はあんまり得意ではなかったのではないか
そうですね。
「私は彼がタイプしたものを辞書の助けを借りて読みました」とあり、これはおそらくゾルゲの面前で、ということでしょうから、ちょっと情けない光景ですね。
吉河が当時の検察の中ではそれなりに優秀な人であったとしても、多言語を駆使し、研究者としての理論的著作も多いゾルゲと比較すると、知性の落差は否めないですね。
実は三国一朗のインタビュー記事を読んだとき、ゾルゲと吉河の関係は『国家の罠』に描かれた佐藤優氏と西村尚芳検事の関係に似ているように感じたのですが、ゾルゲ事件関係の書籍を、斜め読みを含め十数冊程度読んでみて、最初の印象が間違いではなかったなと思っています。
もちろん佐藤ラスプーチンにすっかり洗脳されてしまった西村検事ほどひどくはありませんが、吉河も取り調べの最終段階では、「数ヶ月付き合って、かわいそうでかわいそうで、自分の口からはゾルゲを死刑にすべきだということは、言わずにいました。上に任せました」(『昭和史探訪』3、p170)という状態だったそうで、ゾルゲの迷宮に相当入り込んでしまっていますね。

「誤読」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4855
「クロノロジー」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4859
「ガキの使い」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4860
「ロシアンサウナ的存在」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4862
「世界は二人のために」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4864

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「Sorge、それが問題だ」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7874
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