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金沢貞顕は何故歌を詠まなかったのか。

2022-03-31 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月31日(木)11時26分47秒

旧サイト時代、及び四年前の若干の検討において、早歌が金沢北条氏の周辺で発展し、「越州左親衛」が金沢貞顕で「白拍子三条」が後深草院二条であれば、二人は直接の面識があったのではないか、と考えてみました。

『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26c6e1bde1b9e0a358f5eb0d5e4e7e3d

今回、金沢貞顕の社会圏と後深草院二条の社会圏が重なっていることをもう少し具体的に確認できないかと思い、何人かの早歌作者の周辺を当たってみたところ、「因州戸部二千石行時」(二階堂行時)など、それなりの関係を窺わせる材料は出てきました。
また、今までの投稿では触れませんでしたが、「余波」(『玉林苑下』)という作品の作詞者について、早大本だけに「内大臣法印通忠作」とあり、その傍らには朱書きで「号通阿」とあります。
若干の誤記の可能性を踏まえた上での外村久江氏の考証(『鎌倉文化の研究』、p293以下)によれば、この人は久我通光の嫡子(ではあるものの相続から外された)通忠の孫・道恵である可能性が高く、二条にとっては従兄・具房の子に当たります。

久我具房(1238-89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E5%85%B7%E6%88%BF

そして通忠は『文机談』第四冊で、二条の琵琶の師である弟・雅光と並んで登場します。
即ち、岩佐美代子氏『校注文机談』(笠間書院、1989)に、

-------
一、久我太政大臣通光のをとど、これも孝道にならはせ給。舎弟の孝敏などまいらせをく。また少輔大夫家季とてゆかりありしも、つねにまいりかよひき。出家の後は花下の十念とぞ申ける。をとどいみじく御すきありて、御比巴もめでたくきこえさせ給き。御嫡子右大将通忠と申、これも御比巴あそばされき。その御をとうと中納言雅光とてをはします。尾張守孝行にならはせ給。又ひめ君もせいせう聞へさせ給。されども大相国〔通光〕の御比巴には、はしたててもをよび給ざりけり。
-------

とあって(p116)、通阿は家系だけでなく、音楽的才能の点でも二条とつながります。
こんな具合に補強材料はあるのですが、さすがに貞顕と二条の直接の接点となるような話は見つかりません。
ところで、貞顕と二条との関係を考える上で非常に不思議なのは、貞顕が勅撰歌人ではないことです。
貞顕は古典の教養が極めて豊かなのに、何故か和歌を詠まず、勅撰歌人になっていません。
小川剛生氏の『武士はなぜ歌を詠むか―鎌倉将軍から戦国大名まで』(角川叢書、2008)などにより、北条一族の間で和歌が相当流行し、多数が勅撰歌人であったことは歴史研究者にも周知されているでしょうが、例えば北条貞時などは本当に歌が好きで、器用に京極派風の歌を詠むなど、それなりの実力の持ち主です。
しかし、貞時は勅撰集に二十五首も入集していて、これはいくら何でも多すぎであり、政治的配慮の結果ですね。

北条貞時(1271-1311)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sadatoki.html

こんな事情ですから、古典の教養溢れる貞顕は歌を詠むこと自体は可能であり、公武交渉の中心に位置していた貞顕の作品であれば、当然に勅撰集に採用されたはずです。
しかし、勅撰集には貞顕の作品は皆無ですが、これは何故なのか。
理由として考えられるのは、例えば早歌などに耽溺する息子を見て、父・顕時が和歌を含め文芸活動を禁止したとか、貞顕自身が政治家として成長するため、自ら趣味の世界を断ち切った可能性などはありそうです。
また、もうひとつの理由として考えられるのは若き貞顕が京極派に影響を受けた可能性ですね。
貞顕は永仁二年(1294)、十七歳で東二条院蔵人となっており、その政治的キャリアの出発点は持明院統に近い人ですから、伏見天皇の寵臣である京極為兼の歌風も熟知していたはずです。
しかし、為兼の専横が憎まれて、永仁六年(1298)に逮捕・流罪となるのを見て、貞顕は京極派に親しむことの危険性を感じた可能性は考えられます。
貞顕は後に大覚寺統、特に後宇多院に近い存在となり、大覚寺統は二条派なので、貞顕が内心では京極派が正しいと思っていたら、大覚寺統関係者との交際にも問題が生じたかもしれません。
もちろん貞顕の歌が存在しないので、その歌風を検証することもできませんが、貞顕は非常にバランス感覚に優れた政治家であり、そしてなまじ古典の教養があるため京極派・二条派の対立もその根本部分から理解できたので、自分が歌を作れば何かトラブルを生む可能性があるのではないかと配慮して作歌は断念した、などと考えてみたのですが、小説的な話に過ぎるでしょうか。

>筆綾丸さん
>『甘美なる誘拐』
最近、殆ど小説に手が伸びなくなってしまって、同書の存在も知りませんでした。
後で読んでみます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「応仁の乱で家を焼かれた人は多いが、家を建てたのは呉座先生だけだろう」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11237
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外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その8)

2022-03-29 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月29日(火)11時51分18秒

『撰要目録』の第二段階の序文に「いまは六そじのあまり」とあって、これが「嘉元四年三月下旬之比重加注畢」ですから、嘉元四年(1306)から(数えの年齢であるので)59を引き算して、明空の生年は宝治元年(1247)前後となります。
ただ、「六そじのあまり」と言っても四捨五入して六十になるような用例もあるようなので、生年は1250年代初めの可能性もありますね。
いずれにせよ、明空は文芸や音楽などの文化的活動が活発だった宗尊親王の時代の雰囲気は知っていたはずですが、文永三年(1266)になると宗尊親王が不可解な事情で鎌倉を追放されてしまいます。

『容疑者Mの献身』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d4a1f9b005f64433725e626cc367b7f4
「巻七 北野の雪」(その11)─宗尊親王失脚
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d2dc607027cdaf8a10a74526fb0f3c7

そして二年後の文永五年(1268)にはフビライの国書を持参した高麗の使者が太宰府に来ますが、幕府は返書を送らず追い返し、以後、対外的緊張が高まる中、文永九年(1272)には鎌倉で名越時章等、京都で六波羅南方北条時輔が殺される二月騒動が起きます。

『とはずがたり』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c92d56320b834026aea6cfd673d3fcc
『五代帝王物語』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bd1ccb41cc6bef78e04218bd13df9c4
金沢貞顕の恐怖の記憶
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/096bb952f1ddd3d4d767277c56195f74

ついで文永十一年(1274)には文永の役、弘安四年(1281)には弘安の役と本格的な戦争の時代となって、文芸や音楽にとっては「冬の時代」が続いたものと思われます。
そして、二度の元寇の後も侵攻への警戒を緩めぬ体制の中で、弘安九年(1285)に霜月騒動が勃発し、安達泰盛の娘を正室としていた北条顕時は逼塞を余儀なくされます。
霜月騒動の頃には明空は四十歳前後になっていますので、既にそれなりの音楽活動を行っていたでしょうが、正応六年(1293)、平禅門の乱で平頼綱が滅ぼされるまでは金沢北条氏の支援を得られなかったのではないかと思われます。
そのため、金沢北条氏の庇護の下、寺院社会・武家社会、そして公家社会の人を含め、多数の協力を得て作品を撰集の形にまとめることができたのは更に数年を要し、正安三年(1301)まで遅れたのではないか、というのが私の一応の推測です。

>筆綾丸さん
筆綾丸さんの御指摘を受けるまでは「因州戸部二千石行時」に関する外村久江氏の説明は軽く読み流していたのですが、単に金沢貞顕に近いだけでなく、その叔父に琵琶の相伝を受けた人がいて、『文机談』の跋文に近いところに登場していることにはびっくりしました。
前々から『文机談』は気になっていたのですが、公武社会の交流という観点からも本格的に調べないといけないなあ、などと思っています。

-------
岩佐美代子『文机談全注釈』

楽人たちのやり直しのきかぬ、真剣勝負の面白さ。

録音技術もなかった当時、ぬきさしならぬ一回の真剣勝負に生命を賭け、歴史の中に埋没していった楽人の生きざまを、如実に写しとどめた、中世音楽史の魅力溢れる逸話の数々。
中世楽家、琵琶「西流」師範家、藤原孝道・孝時にかかわる音楽史と、いろんな分野の有名人が琵琶でつながっている、そうしたエピソードを綴った物語。
ようやく人を得て、翻刻・現代語訳対象の読みやすい2段組みでその全貌が明らかになる。

http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305703637/

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「冬(Allegro non molto) 」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11235
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外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その7)

2022-03-28 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月28日(月)14時02分0秒

「第三章 早歌の流行と鎌倉の武士たち」で、個別の事例分析を総括した第五節「武士社会における早歌の盛行」も、その最後の部分を引用しておきます。(p75)

-------
 以上鎌倉武士で早歌の作者と考えられる人々につき、早歌の成立に重要な役割を占めている事を述べて来たが、それではこのような人々が輩出する為の、文学方面、特に本題と密接な関係にある音楽方面の系譜が彼等に辿れるであろうか。この点についての詳細は別の機会に述べたいと思うが、概して、源頼朝・北条泰時をはじめ鎌倉幕府代々の将軍及び執権は音楽について熱心な人が多かった。特に公家将軍頼経は小侍所の番毎に芸能の堪能な一人を必ず加える事を命じ、手跡・弓馬・蹴鞠・管弦・郢曲等志に随って一芸を修めるように小侍所別当北条実時に命じている。頼嗣将軍も近習に対し、同様一芸修練を要請していて、宮将軍宗尊親王も同様であった。いきおい幕府に直接近侍する御家人等はその子弟を以上の芸能のお役に立つよう要請せざるを得なくなったのでその中には、管弦・郢曲の達者も交ることになったと思われる。これらは勿論雅楽や催馬楽・今様・朗詠等の伝統的な音楽であるが、こういう貴族的なものの流入を多分にもって成立している早歌にとっては、以上の事は注目すべき事実である。
-------

いったん、ここで切ります。
外村氏は「音楽方面の系譜」を源頼朝まで遡らせ、特に摂家将軍の頼経・頼嗣の二代を重視されていますが、ただ、早歌の創始者であり大成者である明空は1240年代半ばに生まれているので、摂家将軍の時代を直接に知っている訳ではありません。
私としては、明空に直接の影響を与えた音楽的環境は宗尊親王の周辺にあったのではないかと考えています。
この点、外村氏も次のように宗尊親王に着目されてはいますが、その時代に格別の重要性は認められておられないようです。(p75以下)

-------
 所で、私がこれまで考究した早歌の作者の比定者には、鎌倉幕府に近似した人々の子孫が多く見られる。前章に述べた、越州左親衛の金沢貞顕の父・祖父である顕時・実時共に宗尊親王の幕府に於て、芸能に堪能な人々を選んだ昼番衆に入っている。同様の番衆の中には、因州戸部二千石行時の二階堂行時の父行佐も活躍している。この他行佐兄行頼、弟行重も同様であり、作者宗光の兄行宗も活躍している。作者春朝の祖父備前三郎長頼も番衆の一人であるが、この一族長頼の叔父教時・時基・従兄公時も皆その一員である。吾妻鏡に見られる範囲内では父兄や祖父であるが、もし後々もこのような幕府の行事記録があれば、早歌の作者等は多分父祖同様幕府に於て同方面に活躍していたことであろうと推察せられる。また早歌の作者中には雲岩居士のような北条氏の被官もいるが、藤原助員も御家人というよりは北条氏の庇護下にあった人であろうと思われる。早歌の成立期は北条氏の権力が増大しその被官等も地位を高めた鎌倉時代末期であったから、これを反映して御家人と並んで堂々作者となっているのではあるまいか。鎌倉幕府上層武士が本来の乱舞宴酔といった無礼講ばかりではなく、幕府に於て半ば儀式に近い宴を多く持たざるを得なかった事、その習慣が幕府以外の武士間の交遊圏にも浸潤してくる、そういった環境に醸成せられて結晶されたものがこの早歌ではなかったろうかと考えられるのである。
-------

明空は1240年代半ばに生まれているので、宗尊親王が鎌倉を追放された文永三年(1266)までにはそれなりに音楽に接していたでしょうが、しかし、その作品が撰集の形で纏められるのは永仁年間で、その間、相当の空白期間があります。
そして、『吾妻鏡』の最終記事は宗尊親王追放なので、それ以降の「幕府の行事記録」は僅少であり、早歌の萌芽期の実態をつかむのは困難です。
ただ、外村氏の研究に照らせば、この長い空白期間において明空の活躍を準備したのは金沢北条氏であることは間違いなさそうです。
その点は、既に『早歌の研究』(至文堂、1965)の「第二章 早歌の成立と金沢氏」で相当に明確になっているのですが、以後も外村氏は金沢氏周辺を探って自説を補強され、その成果が『鎌倉文化の研究』(三弥井書店、1996)の「早歌の大成と比企助員」等に結実している訳ですね。
なお、「雲岩居士」は小串範秀で、金沢貞顕と足利氏の関係を考える上でかなり重要な人物です。

高義母・釈迦堂殿の立場(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/353124b361d535704d03c1411784328b
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外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その6)

2022-03-27 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月27日(日)16時38分9秒

>筆綾丸さん
>戸部が何処を指すのか

戸部は民部省の唐名ですね。
「因州戸部二千石行時」についても外村氏の説明を紹介しておきます。(p57以下)

-------
   二 因州戸部二千石行時・附「永福寺勝景」「同砌并」

 次に因州戸部二千石行時について述べよう。この人の作品は「永福寺勝景」(玉林苑上)「同砌并」(同)の作曲をしている。前述の如くこの玉林苑は文保三年(一三一九)二月の撰集である。この時に因幡守の家の人で戸部即ち民部関係の官職の人、この条件に相応する人は誰であろうか。この頃、因州と呼ばれた一人は、工藤二階堂行政の系統の行佐である。しかもその子に民部丞になった行時があるので、この人ではないかと思われる。

 工藤二階堂系図(尊卑文脈)
     【略】

 行佐が因幡守になったのは文永九年(一二七二)七月廿一日で、建治三年(一二七七)二月十四日(尊卑分脈では三月)に出家、同六月五日に卒した(関東評定伝)。彼の家はこれ以来因州を冠して呼ばれていたらしい。行佐の弟行重の玄孫の一女子の肩書に「因幡三郎左衛門尉行清妻」と記されており、行清は行時の孫で、行佐以来因幡守になった人はこの家にいないから、彼以来こう呼ぶ習慣があったことが判る。
 二階堂家は鎌倉幕府の創業時代の行政以来、行光・行盛・行泰・行佐と代々文筆に秀でていて、特に三代将軍実朝の頃は行光の邸で将軍を招いて和歌・管弦等の遊宴が催されたことが吾妻鏡に見られ(建保元年十二月十九日)、鎌倉の御家人中では伝統文化の面で特に秀でた家の一つである。行光の息行盛、行光の弟行村等は北条泰時の評定衆設置に当って、中原・三善・大江と共に政務に通じた家柄の一として選ばれてその任に就き、後も代々この要職にあって鎌倉時代末期に及んでいる。行時は正安三年(一三〇一)八月廿四日出家し行勝と云った。正安三年十月に書かれたと思われる金沢貞顕の書状に、前民部少輔行時とあるのはこの人のことであるらしく、また元亨元年と考えられる他の一通には因州戸部禅門と出て来、この書状によると病気であった様子で、その後、円覚寺文書北条貞時十三年忌供養記に因幡民部大夫と出て来るのはその子行憲のことであろうが、当時の幕府及び北条氏関係の人々が殆ど列挙されている中に彼の名がないのはこの元亨三年(一三二三)には既に病没していたためではなかろうか。それはとにかく彼が金沢貞顕と特に近い関係にあったことがこれらの書状に於てうかがわれる。
-------

いったん、ここで切ります。
『尊卑文脈』で二階堂氏の系図を見ると、行政の子の行村・行光の代で隠岐流・信濃流に大きく分れ、その後、それぞれが複雑に分岐して行っており、鎌倉時代における二階堂氏の隆盛を窺うことができますね。

二階堂氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E6%B0%8F

行時の父・行佐は建治三年(1277)に没していますが、『尊卑分脈』によれば享年は四十一歳です。
ということは嘉禎三年(1237)生まれであり、仮に行時が父の二十五歳の時の子とすると弘長元年(1261)生まれで、正安三年(1301)の出家時には四十一歳となりますね。
「彼が金沢貞顕と特に近い関係」であったとしても、金沢貞顕は弘安元年(1278)生まれなので、貞顕よりは相当年上の人ですね。
さて、続きです。(p59)

-------
 彼が作曲したと考えられる作品の題材となった永福寺は源頼朝が奥州の藤原氏の中尊寺大長寿院を模して造営した二階堂と、その廻りに泉石の美を経営したので有名であり、この一族の家も近くにあったので、二階堂の名を冠している。又前述の行光の弟行村(山城判官)は二階堂の事を奉行するように命ぜられているので、単に近隣にあったという関係ばかりでなく、一族とこの寺とは、特別縁が深い様子で、その後も何かと密接な交渉があったのであろうと思われる。それに、行佐の弟の行重ではないかと思われる人物が琵琶の相伝を、一族の宗藤・知藤が笙の相承をうけている事等を考え合せ、題材の面、環境及び交遊の面から二階堂行時は、この早歌の作者として、相応しい人物と考えられる。
-------

「行佐の弟の行重ではないかと思われる人物が琵琶の相伝を、一族の宗藤・知藤が笙の相承をうけている事等」に付された注(4)を見ると、

-------
(4)文机談「廷尉従五位下藤原行重このなかれをうく。但流泉の曲をは孝行にうけり。」
 続群書類従管弦部鳳笙師伝相承
-------

とありますが、『文机談』を確認したところ、全五冊の最後の最後、聞き手として設定されている尼と作者・隆円とのやり取りの直前に「廷尉従五位下藤原行重」云々の一文がありますね(岩佐美代子『校注文机談』、笠間書院、1989、p154)。
その少し前には隆円の師匠・藤原孝時から教えを受けた人として「西園寺大納言実兼」「中納言公宗」「東院【ママ】中納言公守」等の名前が登場し、更に孝時の娘「刑部卿局」から教えを受けた人として大宮院・東二条院、そして後深草院の名前も出てきます。
二階堂行時は作詞ではなく作曲の才能に恵まれた人ですが、叔父が琵琶の相承を受けるほどの人であったら、行時も琵琶を習っていた可能性はありそうです。
そして、行時と同世代の後深草院二条は、

-------
 琵琶は七つの年より、雅光の中納言にはじめて楽二三習ひて侍りしを、いたく心にも入らでありしを、九つの年より、またしばし御所に教へさせおはしまして、三曲まではなかりしかども、蘇合・万秋楽などはみな弾きて、御賀の折、白河殿くわいそとかやいひしことにも、十にて御琵琶をたどりて、いたいけして弾きたりとて、花梨木の直甲の琵琶の紫檀の転手したるを、赤地の錦の袋に入れて、後嵯峨の院より賜はりなどして、折々は弾きしかども、いたく心にも入らでありしを、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c27ba6c45e5a0a0dca79c8196e4b18f

と書いているので、仮に「白拍子三条」が後深草院二条であって、鎌倉滞在時に何かの機会で二階堂行時と会ったならば、きっと二人は琵琶談義に花を咲かせたことだろうと思います。
なお、『文机談』には「久我太政大臣通光のおとど」「御嫡子右大将通忠」「その御をとうと中納言雅光」も登場し(『校注文机談』、p116)、雅光については重ねて、

-------
一、久我中納言雅光卿、この孝経にならひ給き。灌頂の後いくほどなくてうせ給にき。御比巴がらあしからず。
-------

とあって(p129)、琵琶灌頂を受けた相当の名手であったようであり、琵琶の腕前についての二条の自負も、まんざら根拠のないことではなさそうです。
また、「白拍子三条」が後深草院二条なら、琵琶との関係でも「洞院前大相国家」公守との接点が出て来ることになります。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「秩石」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11231
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外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その5)

2022-03-26 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月26日(土)09時22分5秒

早歌の研究水準は外村久江氏(1911-94)によって格段に向上していて、外村氏以前の段階では早歌が鎌倉中心の歌謡であることもきちんと意識されていませんでした。
早歌の作者も『尊卑分脈』や『公卿補任』の索引で適当な人を見つけて、何らかの補強材料があればそれで決まり、程度の考証が多かったのですが、外村氏は鎌倉との関係があるかを厳密に問い直し、従来の学説の誤りを相当修正されています。
もちろん「法印忠覚」のように外村説にも若干の問題はありますが、外村氏が『早歌の研究』(至文堂、1965)で仮説として比定していた人名が早大本の発見により実証された例が多いように、その研究水準は極めて高いですね。
さて、筆綾丸さんが言及された「左金吾春朝」は外村氏の推論の方法を見る上でちょうどよい素材なので、『早歌の研究』所収の「第三章 早歌の流行と鎌倉の武士たち」という論文から、「左金吾春朝」関係の部分を少し引用してみます。
この論文は、

-------
 はじめに
一 左金吾春朝
二 因州戸部二千石行時・附「永福寺勝景」「同砌并」
三 左金吾藤原宗光
四 藤原助員・藤原親光・平義定
五 武士社会における早歌の盛行
-------

と構成されていますが、外村氏の問題意識を確認するため、「はじめに」も紹介しておきます。(p56)

-------
   はじめに

 前章は「早歌の成立と金沢氏」と題して、金沢貞顕(越州左親衛)・その甥顕香・顕茂(与州匠作)が作者の比定者に考えられることと、この家がその成立に重要な位置を占めていることを記したが、これに関連して、鎌倉幕府の上層武士たる御家人や北条氏の被官たちが、創始成立に主導的な役割を果たしていることが考えられる。それで、以下に鎌倉武士の作者に比定せられる、左金吾春朝・因州戸部二千石行時・左金吾藤原宗光・藤原助員・藤原親光・平義定につき述べ、且つ、それらの作品が早歌の諸作品の中で如何なる位置にあるかを考察したいと思う。
-------

この段階では外村氏は「与州匠作」を金沢顕茂と推定されていた訳ですが、後に早大本によって顕香であることが判明した訳ですね。
続きです。(p56以下)

-------
   一 左金吾春朝

 左金吾春朝は「寝寤恋」(玉林苑下)「琴曲」(同)の作曲者である。前田家本「平氏系図」並びに正宗寺蔵書「先代一流」に

    備前守 三郎 修理亮 ○○(正宗寺本兵庫頭)
義時─朝時─時長─長頼─※長─春朝
          【※ 草冠に「馬」】

とある春朝ではないかと思われる。この家については、故関靖氏が「金沢文庫の研究」中で、

  「又(ロ)(ハ)(共に群書類従収載の系図を指す。……筆者註)には実時に二人の女子を挙げている。その註書に二人には
  備前三郎長頼妻とあり、他に二条侍従雅有室とある。長頼は備前守時長の子で、定長の舎弟である。系図にはその妻を掲げ
  ていないので、傍証することは出来ないが、名越氏と金沢氏は甚だ近しい関係があり、その兄の定長は実時の所領六浦庄
  富岡に住んで、東漸寺を開き、東漸寺殿を以て呼ばれている位であるからその弟の長頼が実時の娘を妻としたこともあり得
  べきことである。」

と述べられており、これによると、同じ北条氏中でも金沢氏と特に深い関係にあた家である事が判る。
 金沢氏は前述の通り貞顕をはじめ、顕茂乃至顕香等の作者の比定者を出しており、その上、金沢文庫には早歌の最も古い断片を遺していて、早歌の大成には並々ならぬ関係がうかがわれるのである。早歌が従来「綴れの錦」といわれていて、王朝の公卿的教養を継承して成った歌謡であることを考えると、この関東では金沢家は最もこういった方面にも先駆的な役割を果たしているので、作者を何人か出していることもあまり不思議ではない。同じ北条氏一族中でも、このような家と、特に近い関係にあった春朝を早歌の作者に比定することは、早歌作者の交友圏の上からも妥当であるように思われる。ただこの春朝は正宗寺本では兵庫頭となっており、目録では左金吾とあって、この点に問題がある。しかし、玉林苑は文保三年(一三一九)二月に書かれているので、この時左金吾であったとし、兵庫頭は最終の経歴を記したものと解すると、必ずしも別人と断定することもできない。北条氏の一門の若い人々は左金吾は普通である上に、又北条氏は勿論他氏に於いても春朝という名は案外例が少ないのである。
-------

「左金吾」は左衛門督の唐名で、確かに「北条氏の一門の若い人々は左金吾は普通」ですね。
そして「春朝」という珍しい名前ですから、名越氏の春朝で良いのでしょうね。
外村氏はこんな具合に考察を進め、

 因州戸部二千石行時(「永福寺勝景」「同砌并」の作曲)……二階堂行時
 左金吾藤原宗光(「鹿島霊験」「同社壇砌」の作詞)……二階堂宗光
 藤原助員(蹴鞠」「琵琶曲」「山王威徳」「余波」の作曲)……比企助員
 藤原親光(「紅葉興」「屏風徳」の作詞作曲)……結城親光
 平義定(「遊仙歌」の作詞)……三浦義貞

という結論を出されています。
この内、例えば藤原親光について、「後藤丹治氏は、北家長家流大炊御門光能の子親光と同一人ではあるまいかと記されている」(p64)そうですが、年代が古すぎる上に関東との関係がありません。
外村氏は「そこで私は武士中で一人比定者を出したい」(p65)ということで結城親光について検討されます。
結城親光は建武政権における「三木一草」の一人で、尊氏暗殺計画など武人としてのエピソードは豊富ですが、文芸関係の事績は確認されていないようです。
しかし、早歌作詞・作曲の教養人であれば、後醍醐に積極的に近づこうとした親光の背景を知るひとつの手がかりとはなりそうですね。

結城親光(?-1336)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E8%A6%AA%E5%85%89
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外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その4)

2022-03-25 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月25日(金)09時59分49秒

念のため「法印忠覚」について外村久江氏の見解も紹介しておくと、次の通りです。(『早歌の研究』、至文堂、1965、p138)

-------
【前略】法印忠覚は後藤氏が大炊御門冬忠の子、山の僧正忠覚と比定されたが、嘉元三年(一三〇五)十二月の序のある続門葉和歌集に権少僧都忠覚として、「玉の緒のかゝる憂世に永らへばよその哀れをいつまでか見む」という和歌を残している人と同一人ではないかと考えられる。玉林苑下に集められた時まで十四年間あるので、その頃法印となることも考えられる。続門葉集には同じ早歌の作者たる漸空上人と法印憲淳との贈答歌も載せられており、この憲淳は為相とも交わりがある人で、また、同集に、「あづまにすみ侍りけるに云々」の詞書のある歌詠をのこしているので、交遊圏の上からも充分問題にしてよいようである。
-------

外村説にはかなり問題があって、『続門葉和歌集』は醍醐寺関係者の歌集ですから「権少僧都忠覚」も醍醐寺の人ですね。
醍醐寺関係者が「山王威徳」という曲を作詞する可能性は皆無ではないか、と私は考えます。
なお、憲淳は『朝日日本歴史人物事典』によれば、

-------
没年:延慶1.8.23(1308.9.8)
生年:正嘉2(1258)
鎌倉後期の真言宗の僧。醍醐寺報恩院4世として報恩院流の全盛を築く。近衛良教の子で醍醐寺報恩院の覚雅に師事して出家。後宇多天皇の幼少時に侍僧として仕えたことから,のちにその帰依を受ける。延慶1(1308)年には後宇多法皇に小野流の伝法灌頂を授ける。弟子隆勝に付法相承する一方で,法皇寵愛の道順にも法を授ける。このため,憲淳の死後その正嫡をめぐって勢力争いが起こり,法皇の大覚寺統と花園天皇の持明院統の対立へ巻き込むなどして南北朝の争いの一要因を担うことになる。<参考文献>栂尾祥雲『秘密仏教史』(井野上眞弓)

https://kotobank.jp/word/%E6%86%B2%E6%B7%B3-1073439

という人物で、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』には「歌人として知られ,「続(しょく)門葉和歌集」の撰定にかかわり,同集の序文をかいたとされる」という追加情報もありますね。
私も一時期、後宇多院の密教受法に興味を持って、憲淳・隆勝・道順などの周辺を少し調べたことがあるのですが、真言密教の話は難しくて、結局何だかよく分かりませんでした。
ただ、隆勝は四条隆行息で後深草院二条の母方の又従弟、道順は久我通能息、後深草院二条の父方の従兄弟であって、寺院社会も最上層部は公家社会のカーボンコピーだな、などと思ったことがあります。

辻善之助「第十四節 密教興隆」(『日本仏教史 第三巻中世篇之二』)
http://web.archive.org/web/20061006214458/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tuji-zennosuke-mikkyokoryu01.htm
辻善之助「両統対立の反映として三宝院流嫡庶の争」(『日本仏教史之研究 続編』)
http://web.archive.org/web/20061006214342/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tuji-zennosuke-sanpoinryu.htm
藤井雅子氏「後宇多法皇と「御法流」」(『史艸』37号、1996)
http://web.archive.org/web/20061006214409/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/fujii-masako-gouda.htm
真木隆行氏「後宇多天皇の密教受法」(大阪大学文学部『古代中世の社会と国家』、清文堂、1998)
http://web.archive.org/web/20061006214421/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/maki-takayuki-gouda.htm
横内裕人氏「仁和寺と大覚寺─御流の継承と後宇多院─」(『守覚法親王と仁和寺御流の文献学的研究・論文篇』、勉誠社、1998)
http://web.archive.org/web/20150821011139/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yokouchi-hiroto-ninnajitodaikakuji01.htm

結局、私としては「法印忠覚」は大炊御門冬忠息でよいのでは、と思います。
外村氏は大炊御門冬忠息の「忠覚」と鎌倉社会との接点を見出せなかった訳ですが、「白拍子三条」が後深草院二条であれば、一応の接点はあることになります。
ま、寺院社会の人ですので、他の鎌倉ルートの可能性ももちろんあるとは思いますが。

>筆綾丸さん
>左金吾春朝

この人については外村氏の『早歌の研究』に詳しい考証があるので、後で紹介します。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「シンガー・ソングライター明空」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11228
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外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その3)

2022-03-24 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月24日(木)12時05分35秒

続きです。(p357)

-------
 けれども、助員の場合は曲も出来てからの取捨で、弟子に手を取って教えている感が濃い。助員のこの作品の他に「文字誉」(拾菓抄)には「宮円上人禅林寺長老 月江成取捨 高階基清調曲」というのがあるが、これも、明空即ち月江が作詞に手を入れている。そして基清に曲を作らせている点、この基清も弟子の一人とみられる。この人は単独でも調曲していて、梅華(拾菓集下)・袖情(同)・暁思留記念(拾菓抄)・善巧方便徳(玉林苑上)・鹿山景(同)等があるが、梅華をのぞき、あとの曲はすべて明空=月江の作詞であるから、すでに調曲し易く作られているといえるので、取捨はもちろん必要がないわけである。梅華は「自或所被出之」とあるものである。基清の他にも、こういう仕方で入江羽林源定宗・菅武衛頼範・因州戸部二千石行時・金沢顕香・左金吾春朝等、晩年になるにしたがって、調曲者がふえて来る。
------

うーむ。
「宮円上人禅林寺長老 月江成取捨 高階基清調曲」などという表現と比較すると、「明空成取捨調曲」は「明空が作詞に手を入れて、明空自身が作曲すること」との外村説が正しそうですね。
そうだとすれば、「越州左親衛」(金沢貞顕)は作詞のみということになります。
調曲者の内、高階基清は足利家被官の高一族の人ではないか、などと思って少し調べたことがありますが、今のところ手がかりはありません。
金沢顕香は貞顕の兄・顕実の息子で、「日精徳」(「玉林苑上」)の作曲者「予州匠作」に比定されています。
外村氏は「第四章 早歌の撰集について─撰要目録巻の伝本を中心に」に、早大本によって解明された事項の一つとして、

-------
(九) 玉林苑上の日精徳の作曲者予州匠作は「顕香」の朱書きがある。この人については、私は竹柏園文庫本に日精徳の作詞者として「頼老・顕香」、作曲者に「与州道作」となっているのをたよりに、金沢文庫で有名な金沢氏の顕時の孫頼茂・顕香の兄弟、特に顕香を比定した(『早歌の研究』四六頁・四七頁)が、これで、金沢顕香と決めてよいようである。柴田氏は筆者の説にふれず六条家の顕香説を出されたが、玉林苑の集められた文保二年二月(或いは三年)には既に従三位となっており、右中将を経ている(公卿補任、文保二年正月五日従三位、前右中将)ので、撰要目録の官職位記載の正確さからみて、予州匠作即ち予州修理大夫とは書かれることはないはずで問題にはならない。
-------

と書かれており(p291)、「予州匠作」は金沢顕香で確定ですね。
さて、続きです。(p357以下)

-------
 ところで、助員に戻って、この人は蹴鞠の他に、単独で琵琶曲(別紙追加曲)・山王威徳(玉林苑下)・余波(同)の三曲も作曲している。琵琶曲は洞院左幕下家(比定者左大臣実泰)の作詞で、山王威徳は法印忠覚の作詞、余波は内大臣法印道恵(通阿と号す)の作詞で、ともに軽いものではなく、弟子としてもこの頃は十分独立して作曲できる実力を養っていたと思われる。明空=月江の弟子の中でも、助員は比較的早く撰集に載ることやその扱いなどからみて、第一の弟子であったのではなかろうかと察せられる。そう考える理由は次の異説や両曲に関する撰集についての助員の作品・行動をみても言えることである。
-------

「洞院左幕下家」に比定されている洞院実泰は「洞院前大相国家」(公守)の嫡子で、『園太暦』の公賢の父ですね。

洞院実泰(1270-1327)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saneyasu.html

「法印忠覚」は岩波日本古典文学大系の新間氏の注に「大炊御門冬忠の子、山の僧正忠覚か(後藤博士説)」とあり(p47)、確かに『尊卑分脈』等を見ても「山王威徳」という曲にふさわしい「忠覚」はこの人くらいです。
ところで大炊御門冬忠の名前は『とはずがたり』に二箇所出て来て、最初は巻三の冒頭、二条と有明の月の関係を知った後深草院が述懐する場面に、

-------
わが新枕(にひまくら)は故典侍大(すけだい)にしも習ひたりしかば、とにかくに人知れず覚えしを、いまだいふかひなきほどの心地(ここち)して、よろづ世の中つつましくて、明け暮れしほどに、冬忠・雅忠などに主(ぬし)づかれて、ひまをこそ人わろく窺ひしか。腹の中にありし折もこころもとなく、いつかいつかと、手のうちなりしより、さばくりつけてありし。

【次田香澄訳】
わたしの新枕はおまえの母(故大納言典侍)から教えてもらったので、とにかくにも人知れず思いを寄せていたが、まだ少年の年ごろで、大人たちに気をつかいながら明け暮れしていたその間に、おまえの母は冬忠や雅忠などの愛人になってしまって、わたしはみっともなくも、隙(ひま)をうかがってこっそり逢っていたものだよ。おまえが母の胎内にあった間も、気に掛かり、生れてからも、まだ赤ん坊のときから、はやく大きくならないかと楽しみに、あれこれかまったりしていたものだよ。

http://web.archive.org/web/20150512043602/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-2-kokuhaku.htm

とあります。
つまり二条の母「典侍大」(四条近子?)が中院雅忠と結婚する前の愛人ないし前夫が大炊御門冬忠ですね。

大炊御門冬忠(1218-68)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%82%8A%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%86%AC%E5%BF%A0

そして二番目は、巻四で鎌倉から戻った二条が奈良の春日社を経て法華寺を訪問した場面に、

-------
 明けぬれば、法華寺へたづね行きたるに、冬忠の大臣の女、寂円房と申して、一の室といふところに住まるるに会ひて、生死無常の情なきことわりなど申して、しばしかやうの寺にも住まひぬべきかと思へども、心のどかに学問などしてありぬべき身の思ひとも、われながらおぼえねば、ただいつとなき心の闇にさそはれ出でて、また奈良の寺へ行くほどに、春日の正の預祐家といふ者が家にゆきぬ。
-------

という具合いに、「寂円房」という尼の父親として「冬忠の大臣」が出てきます。(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p274)
「法印忠覚」が大炊御門冬忠の息子であれば法華寺の「寂円房」とは同母ないし異母兄妹、または姉弟の関係ですね。
そしてこの二人は二条とも異父兄弟ないし姉妹の可能性もなきにしもあらず、ということになります。

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外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その2)

2022-03-23 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月23日(水)14時47分0秒

『撰要目録』は「夫れ当道の郢曲は、幼童の口にすさみ、万人の耳にさへぎるたぐひ、様々多しと雖も」で始まる序文の後に十巻・百曲の曲名と作詞・作曲家の名前等が記載されたリストが載り、最後に「正安三年八月上旬之比録之畢 沙弥明空」と記されて、これで一旦完結します。
その後、「いまは六そじのあまり」云々の序と『拾菓集』上下二巻・二十曲のリストが追加され、「嘉元四年三月下旬之比重加注畢」と記されます。
即ち、正安三年(1301)の原リスト成立の五年後、嘉元四年(1306)に追加がなされ、更に正和三年(1314)に再追加、文保三年(1319)に再々追加がなされて、結局、全体で四つの段階に区分されることになります。
この内、序が付されるのは第二段階までで、第二段階の序は、

-------
いまは六十路の余り、つれなき命の程、思知らざるべきにもあらねば、静かなる住ひに身を隠して、ひたすら仏の御名を頼むより外はと、万を思ひ捨て侍(り)しを、逃れ難う、此所彼所より、あながちに勧められしかば、なまじひにうけひき、上の目録にこそ漏れ侍(れ)ども、なほざりにて止まむも、しかすがなるべければ、重ねて記す。然かあれば、外の家の風に、吹(き)伝ふる言葉の花の匂(ひ)は、先づ先立ちて手折らまほしく、色にうつる数々も、多くこれを選び、拙きそともに、寂しき老木に残る言の葉は、かつは古り果てぬるも珍らしからず。冬枯の梢稀れに人に知られぬ隠家の、深き林に庵を占めし後に、拾ひ集むる業なれば、拾菓集と名づけ、巻を二つに分ちて上下と言へるなるべし。
-------

というものです。(岩波古典文学大系、p44)
第一段階の序に比べると、有力者の名前を『古今集』序の六歌仙になぞらえて並び立てるといった気負いもなく、「いまは六十路の余り」の心境を淡々と述べるといった趣になっていますね。
この冒頭の一文から、明空は1240年代半ばに生まれたのだろうという推測がなされている訳です。
さて、外村論文の続きです。(p356以下)

-------
 ただ、この拾菓集の頃から、明空にはこれ以前と相違している行動のあることも注目させられる。すなわち、拾菓集を境に、弟子の養成に尽くしはじめている様子がうかがわれるのである。それは、この集の作詞・作曲の記載に珍しいものが出てきていることで察せられる。
 比企助員がその一人で、例えば拾菓集下にある「蹴鞠」には「二条羽林作歟 助員調曲明空加取捨」の注記がみられる。作詞の二条羽林は早稲田本の朱注によれば、蹴鞠の家の飛鳥井雅孝とみられるが、それを助員が作曲し、その上、明空が手を入れ取捨を加えて完成させたものである。
 こういう取捨の方法はこれまでに見られないことである。拾菓集以前には、明空が作詞に手を入れて、明空自身が作曲することはあった。概して、それぞれの内容に応じて、専門分野の人が作詞する場合が明空以外では多かったから、調曲の際に、詞章の取捨がまず行なわれて、節付けがされる必要があったのであろう。
-------

いったん、ここで切ります。
外村氏は第一段階の曲にもあった「明空成取捨調曲」を「明空が作詞に手を入れて、明空自身が作曲すること」と考えておられる訳ですね。
私は「曲だけの調整の意」に改説したばかりですが、早歌研究に一生を捧げた外村氏の説明を聞くと、再びグラついてしまいます。
ま、それはともかくとして「二条羽林」が誰かは諸説があったのですが、これも早大本により飛鳥井雅孝であることが確定しました。
飛鳥井雅孝は飛鳥井雅有の甥で、雅有の養子となって飛鳥井家を継いだ人ですね。

飛鳥井雅有(1241-1301)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masaari.html
飛鳥井雅孝(1281-1353)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masataka.html

蹴鞠の家に生まれた飛鳥井雅有は歌人としても著名で、京都と関東を頻繁に往来し、『春の深山路』なども書いた才人です。
その正室は金沢実時の娘なので、早歌の作者であってもおかしくない人ですが、雅有自身の曲は確認されていません。
ただ、「名取河恋」と「暁別」の作詞者「冷泉羽林」(二条為通)は雅有の娘を妻としているので、早歌の世界に近い人であったことは間違いないですね。
そして雅有が「洞院前大相国家」(洞院公守)や「花山院右幕下」(花山院家教)との接点となり、明空とは身分が隔絶したこの二人を早歌の世界に結び付けた可能性もありそうです。
ま、私自身は「白拍子三条」が仲介した可能性を疑っている訳ですが。
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外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その1)

2022-03-22 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月22日(火)21時59分15秒

今まで金沢北条氏が明空のパトロンであることを前提に論じてきましたが、「或人」が「越州左親衛」(金沢貞顕)だとしても、名門武家の貴公子が流行歌謡に夢中になっただけで、それがパトロン云々の話になるのは変ではないか、と思われた方がおられるかもしれません。
もちろん、従来の研究でも早歌と金沢北条氏の関係は別の観点からも検討されています。
それは明空を嗣いだ一番弟子、比企助員という人物に関係するのですが、「員」という字が想起させるように、この人は建仁三年(1203)の比企氏の乱で殺された比企能員の子孫と思われます。

比企能員
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E8%83%BD%E5%93%A1

外村氏の『鎌倉文化の研究』を読むまでは、百年前に族滅したはずの比企氏にそんな人がいたこと自体が私にとって驚きだったのですが、同時に、『とはずがたり』に「比企」らしき人名が唐突に登場する場面があって、これと何か関係があるのだろうかと感じました。
即ち、後深草院皇子の久明親王が新将軍として鎌倉に下って来る場面で、その準備のために、二条も平頼綱に呼ばれて頼綱邸、ついで新造の将軍御所に向かうのですが、そこに、

-------
「将軍の御所の御しつらひ、外様のことは比企にて、男たち沙汰し参らするが、常の御所の御しつらひ、京の人にみせよ」 といはれたる。とは何ごとぞとむつかしけれども、ゆきかかるほどにては、憎いけしていふべきならねば、参りぬ。

http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm

とあります。
ま、この部分は本当に「比企」なのか、「日記」ではないか、という説もあって、私にとっても未だに謎です。
そこで、少し脱線気味になりますが、この人物を検討した外村氏の「早歌の大成と比企助員」(『鎌倉文化の研究』所収、初出は『芸能史研究』76号、1982)という論文を少し紹介しておきます。(p355以下)

-------
   一

 早歌は鎌倉中期の末頃から流行しはじめた長編の新歌謡である。応仁略記にも、この歌謡の元祖と記されている明空(晩年月江と称す)はその大部分の作詞・作曲者であり、また、歌曲の蒐集・撰集にも終始貢献している。というよりも、現在では早歌については明空の書きのこしたこれらのものによる他は、当時の状態を知ることが出来ないという事情がある。この明空の出自が実は不明で、歌曲の題材やこの人以外の作者の検討などから、鎌倉幕府周辺の社交圏内の人であろうとは想像されるが、はっきりとした事は判っていない。明空がどんな階層に属する人であったかということはそれだけでも興味深いものがあるが、私は、それ以上に、この人の出身が明らかになれば、早歌が何故この東国から創められ、流行しなければならなかったのかという、早歌としてはもっとも核心に迫る問題が解明され、それにともなって、さまざまの疑問が氷解されるに違いないと期待してきた。
 ところが最近、その弟子と考えられる比企助員について新しい史料が加わり、その関係から、明空の死没の頃もほぼ推定され、また、早歌の担い手の問題もこの方面からより鮮明になってきた。そこで以下に、比企助員を中心として、この人と明空の関係、ことに助員が早歌の大成にどのような働きをしたかを明らかにし、同時に、早歌とこの社会における役割、すなわち、何故この歌謡が鎌倉幕府下の東国に必要であったのかという問題も考えてみたい。

   二

 明空の書きのこした撰要目録によると、嘉元四年(一三〇六)三月下旬の識語をもつ拾菓集の序に、

  いまは六そぢのあまり、つれなき命のほど、思しらざるべきにしもあらねば、しづかなるすまゐに身をかくして、
  ひたすら仏の御名をたのむより外はと、よろづにおもひすて侍しを、のがれがたう、ここかしこより、あながち
  にすすめられしかば、なまじゐにうけひき……(以下略)

と記している。彼はこれより五年ほど前までに、宴曲集五十曲・宴曲抄三十曲・真曲抄十曲・究百集十曲の計百曲十巻を撰集し終っていた。究百集の名の通り、百曲で一応この仕事は完了したと考えていたようである。けれどもこの序によれば、周囲はこれを許さず、続いて拾菓集二十曲が作られることになったのであろう。そうして、結局、拾菓抄十一曲・別紙追加曲十曲・玉林苑二十曲と計六十一曲が要望にこたえて次々と創作され、また集められて行ったのである。
-------

いったん、ここで切ります。

>筆綾丸さん
>若き貞顕の才気が迸っているような名品ですね。

「明王徳」の方はエリートとしての自覚を持って猛勉強している様子が伺えて、これもたいしたものですね。
まあ、文芸作品としてはあまり面白くもないですが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「金沢貞顕という人」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11224
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『とはずがたり』の政治的意味(その9)

2022-03-21 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月21日(月)21時45分11秒

比較のために『撰要目録』序文に登場する六人以外の初期作者も見ておくと、僧侶らしい人が多く、また「不知作者」と記されている作品も多いですね。
百曲の曲名リストにコメントを付しているのは明空で間違いないと思いますが、早歌の創始者である明空が作者を知らないとはどういうことなのか。
まあ、創始者といっても全くの無の状態から特殊な産物を作り上げた訳ではなく、早歌も歌謡のスタイルですから、何らかの流行の素地があるところで明空が魅力的な作品を作り、それを真似する人が大勢出て来た、というようなことかと思います。
ジャズやラップに厳密な意味での創始者がいないように、明空は新しい流行を作り出したグループの最先端にいた人なのでしょうね。
そして、初期作者に僧侶が多く、仏教絡みの作品も多いということは、流行の素地の部分は仏教に関連しているように思えます。
この点、『徒然草』の第188段、「ある人、子を法師になして」という話は興味深いですね。
『徒然草』の中でも有益な人生訓として有名なこの段には、

-------
仏事の後、酒などを勧むることあらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/turez_4.htm

とありますが、早歌は僧侶の社交の道具的な面があることを示唆しているように思われます。
さて、『撰要目録』の初期百曲の作者の話に戻ると、僧侶の中で一番高位なのは「法眼頼順」で、新間氏の注に「法眼大和尚位の略。法印に次ぐ僧位。「任僧綱土代」(続類従)に乾元二年(一三〇三)三月法眼に叙位の僧頼順の名がある。(井浦芳信氏説)」(p43)とあります。

 君臣父子道 法眼頼順作 明空成取捨調曲

「明空成取捨調曲」については新間進一氏の注に「曲だけの調整の意か、詞句を選択訂正の上での意か両義に解される」(岩波大系、p41)とあり、私は以前、ちょっと無理な解釈を試みたことがあるのですが、ここは素直に「曲だけの調整の意」と考えるべきだろうと思います。
お経だって音楽的な要素はありますから、僧侶に作曲の才能があっても不思議ではないですね。

『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26c6e1bde1b9e0a358f5eb0d5e4e7e3d

次に身分が高そうなのは二曲を作っている「権少僧都頼亮」で、この人も作曲が出来ます。

 袖志之浦恋 権少僧都頼亮作 同調曲
 十駅 権少僧都頼亮作 明空成取捨調曲

「漸空上人」については後藤丹治氏の研究がありますが、この人は作詞だけですね。

 郭公 漸空上人作 明空調曲

早歌の作者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f49010df5521cc5aa7d50c242cec62c6

「春月」は作曲も出来る人で、出家者のようですが、いかなる人物かは不明です。

 吹風恋 春月作 同調曲

以上が僧侶ないし出家者らしい人たちですが、作者不明の作品も多いですね。
次の四曲は「宴曲抄中」に連続して出てきますが、同一人物の作品なのかも分かりません。
「懐旧」・「舟」(作者の欄が空白)・「水」も同様です。

 文武 自或所被出不知作者 明空成取捨調曲
 朋友 同前 同
 山寺 同前 同
 松竹 同前 同

 懐旧 自或所被出不知作者 明空成取捨調曲
 船 * 明空成取捨調曲
 水 自或所被出不知作者 明空成取捨調曲

ま、誰が作ったのかも分からないけれど、詞はそれなりの出来で、明空が曲だけ手を入れた、ということだろうと思います。
さて、私にとって最も興味深いのは早大本で「越州左親衛」(金沢貞顕)であることが判明した「或人」で、この人は次の二曲に関与しています。

 袖余波 或人作 明空成取捨調曲
 明王徳 自或所被出之 明空成取捨調曲

「明空成取捨調曲」については、先述したように私は以前の無理な解釈を改め、貞顕は作曲も出来て、明空が曲だけに若干の手を加えたものと考えます。
貞顕は作曲にも手を出す程ですから、早歌に相当に入れ込んでいたようですね。

「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c6f654a75b33f788999dc447bda1e48
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「明王徳」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae842c9469091ef7c8930ee108d9daad

「不知作者」ではないので、明空は「或人」が「越州左親衛」金沢貞顕であることを知っていた訳ですが、では何故に明空は貞顕の名を秘したのか。
まあ、おそらくそれは、貞顕の出世に何か悪い影響が出ることを懸念した、といった事情かと思います。
正安三年(1301)の貞顕はまだ二十四歳ですが、ちょうどこの年の三月に父・顕時が死去し、貞顕が兄たちを超越して家督を嗣ぎますので、なかなか微妙な時期ですね。
そして翌年、貞顕は六波羅探題南方として上洛し、以後、出世街道を驀進することになります。

金沢貞顕(1278-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E9%A1%95

>筆綾丸さん
>出家者の明空をからかっているのかもしれず

明空は相当の教養人ですが、『源氏物語』に関する話なので、そもそも明空に「或女房」の作品の是非を判断する能力があったかも問題となりますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「小悪魔のように」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11222
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『とはずがたり』の政治的意味(その8)

2022-03-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月20日(日)23時02分10秒

序文に登場する六人のうち、分量的には「藤三品」(藤原広範)の次に「或女房」への言及が多く、更に作品数を考慮すれば「或女房」の方が「藤三品」よりむしろ重視されているように見えます。
その理由を探るため、『撰要目録』序文に続く百曲の中で明空の作詞・作曲でない作品に付されたコメントを抜き出し、それらの特徴を比較してみたいと思います。
まず、六人の中でも特に身分の高い洞院公守と花山院家教はそれぞれ一曲、しかも作詞だけです。

 雪 洞院前大相国家作 明空調曲
 道 花山院右幕下作 明空調曲

二人はいずれも関東伺候廷臣ではなく、またその経歴を見ると、おそらく関東に行ったこともなさそうです。
次に「藤三品」(藤原広範)ですが、この人は関東伺候廷臣で、『吾妻鏡』に正嘉元年(1257)から登場しているほどですから明空と直接の面識があっても不思議ではない、というか、おそらく古くからの知人なのでしょうね。

 花 藤三品作 明空調曲
 年中行事 藤三品作 明空調曲
 山 同前 同

なにしろ三曲も書いているのですから、頼まれたから嫌々やったというようなことではなく、早歌が相当に好きだったはずです。
しかし、この人も作詞だけで、作曲は全て明空ですね。
次に「冷泉武衛」(冷泉為相、阿仏尼息)ですが、この人は関東伺候廷臣です。
為相には序文で言及されている「龍田河恋」だけでなく、「和歌」という作品の作者でもあるようですが、「自或所被出冷泉武衛作云々」という何だかすっきりしない書き方です。

 龍田河恋 冷泉武衛作 明空調曲
 和歌 自或所被出冷泉武衛作云々 明空調曲

序文で「冷泉武衛」とひとまとめになっている「冷泉羽林」(二条為通)は関東伺候廷臣ではないものの、関東に下った経験はあります。
序文では「名取河恋」だけが言及されていますが、もう一曲、「暁別」という曲も作詞しています。

 名取河恋 冷泉羽林作 明空調曲
 暁別 同前 同

冷泉為相・二条為通の二人は、言及の分量が極端に少ないだけでなく、二人とも二曲書いているのに一曲は無視されている点でも共通で、明空からあまり重んじられていないことは明らかですね。
さて、以上の五人は作詞だけですが、「或女房」は、

 源氏恋 或女房作 同調曲
 源氏 或女房作 同調曲

ということで、二曲とも作詞のみならず作曲もしており、しかも作曲については他の箇所で見られる「明空成取捨調曲」といった留保もなくて、明空から完全に独立した存在ですね。
そもそも早歌は鎌倉の武家社会で生まれた、文字通りスピード感を特徴とする歌謡なので、鎌倉で実際にその歌唱を聞いたこともない人が、作詞はともかく作曲をするのは無理と思われます。
従って、早歌を自ら作曲できるか否かが鎌倉との関係の重要なメルクマールとなり、「或女房」は鎌倉在住か、あるいは少なくとも関東に下った経験はあると言ってよさそうです。
関東伺候廷臣の藤原広範・冷泉為相、関東に下ったことのある二条為通は、作曲の才能はなかったのでしょうね。
関東に行ったこともなさそうな洞院公守・花山院家教は、明空ないしそのパトロンの依頼で作詞だけしたのではないかと思われます。
以上、序文に登場する六人を比較してみましたが、「或女房」は女性だからということで、古今集の六歌仙になぞらえて無理やり序文に組み込まれた訳ではなく、明空にとって実質的にも相当重みのある存在だったことが窺えます。

>筆綾丸さん
>或女房の作がともに源氏(「源氏恋」と「源氏」)であるというのは、『源氏物語』の名をを借りて、実は、この女房は源氏の出だ、というシャレなのかもしれませんね。

「白拍子三条」が後深草院二条の仮の名であれば、その可能性は高そうですね。
実際、二条の父・中院雅忠は「源氏長者」にもなっていますから、源氏といえば何と言っても村上源氏、それも源通親の子孫でなければ本当の源氏ではないのよ、といった意識は二条にはあったでしょうね。

源氏長者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「女房風情」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11219
「閑話」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11220
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『とはずがたり』の政治的意味(その7)

2022-03-18 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月18日(金)22時45分58秒

>筆綾丸さん
藤三品の作品は「花」「山」「年中行事」の三つですね。
「三品」にかけた駄洒落、という訳でもないでしょうが。
それと、「涼しき泉の二の流れには、龍田河名取河に、恋の逢瀬をたどり」は「冷泉武衛」(為相)の「龍田河恋」と「冷泉羽林」(為通)「名取河恋」の二人分で、為通(1271-99)は二条家の総帥・為世の長男です。
ここで言う「冷泉」は定家の子孫程度の意味のようですね。

二条為道(「千人万首」より)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tamemiti.html

さて、筆綾丸さん御指摘のように、『撰要目録』序文に記された六人の記述のバランスの悪さは私も気になっていました。
そこで、まず純粋に数量的にそれぞれの割合を見てみます。
前回投稿で岩波古典文学大系本に拠って原文を紹介しましたが、新間進一氏が括弧付きで補った部分、例えば「抑彼(の)洞院家の」の「(の)」などを除くと、原文は、

-------
抑彼洞院家の詠作には瑞を豊年に顕し孫康が窓、袁司徒が家の雪、ふりぬる跡を尋て、情の色をのこし、

花の山の木高き砌、三笠山の言の葉にも、道の道たるす直なる世々、五常の乱らざる道を能くし、

南家の三の位、風月の家の風にうそぶきて、春の園に桜をかざし、花を賦する思を述べ、足引の山の名を、うとき国までにとぶらひ、なほなほ年中に行事態、霞てのどけき日影より、霜雪の積る年の暮まで、あらゆる政につけても、君が御代を祝ふ。

涼しき泉の二の流には、龍田河名取河に、恋の逢瀬をたどり、

藻塩草かき集めたる中にも、女のしわざなればとて漏らさむも、古の紫式部が筆の跡、疎かにするにも似たれば、刈萱の打乱れたる様の、をかしく捨がたくて、なまじひに光源氏の名を汚し、二首の歌を列ぬ。
-------

と五つに区分されます。
「涼しき泉の二の流には」云々は為相・為通の二人分ですね。
ここで、句読点を除外して各部分の字数を数えると、

「洞院前大相国家」(洞院公守):43
「花山院右幕下家」(花山院家教):40
「藤三品」(藤原広範):101
「冷泉武衛」(冷泉為相)・「冷泉羽林」(二条為通):25
「或女房」:86

合計295字となります。
従ってその割合は、小数点以下四捨五入で、順に、

「洞院前大相国家」(洞院公守):15 %
「花山院右幕下家」(花山院家教):14 %
「藤三品」(藤原広範):34 %
「冷泉武衛」(冷泉為相)・「冷泉羽林」(二条為通):8 %(二人分)
「或女房」:29 %

100%を六等分すれば16.7%ですから、洞院公守・花山院家教は単純平均より僅かに少なく、冷泉為相・二条為通は一人僅か4%なので極端に少なく、その分、「藤三品」藤原広範と「或女房」が極端に多いことになります。
そして、「藤三品」と「或女房」を除く四人の作品数は一つだけですが、「藤三品」は三作品で34%、「或女房」は二作品で29%ですから、作品数で比較すれば「或女房」の割合が突出して高くなりますね。
序文は明空が練りに練って作った文章ですから、単なる偶然ではあり得ません。
このバランスの悪さをどのように考えるべきか。
まず、この六人の順番ですが、これは作品の優劣ではなく、身分的な上下でしょうね。
この中では何といっても洞院公守の従一位・前太政大臣が光ります。
公守は洞院実雄の嫡子で、伏見天皇の母・愔子(玄輝門院、『とはずがたり』の「東の御方」)の異母弟ですね。

洞院公守(1249-1317)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%85%AC%E5%AE%88

花山院家教は正二位・左近衛大将・権大納言と相当高い地位にありましたが、序文が記された正安三年(1301)の四年前、永仁五年に三十七歳で亡くなっていますね。

花山院家教(1261-97)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E6%95%99

藤原広範は嘉元元年(1303)年に亡くなっていて、「藤三品」と呼ばれたように官位は従三位です。
年齢は不明であるものの、相当早くから幕府に仕えていた関東伺候廷臣の学者ですね。
冷泉為相は阿仏尼の息子の関東伺候廷臣で、正安三年(1301)の時点では従四位下。

冷泉為相(1263-1328)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E7%82%BA%E7%9B%B8

二条為道は二条為世の嫡子であり、歌の才能にも恵まれ父から期待されていたようですが、正安元年(1299)、二十九歳の若さで亡くなっており、この時の官位は正四位下です。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「素人の疑問」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11217
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『とはずがたり』の政治的意味(その6)

2022-03-17 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月17日(木)21時17分14秒

『撰要目録』序文の続き(後半)です。
ここからは六人の代表的作者を取り上げ、それぞれの作品の表現を随所に鏤めつつ簡潔に紹介しており、これ自体が一種の詩です。
そのため現代語訳は極めて困難ですが、無理を承知で、何となく雰囲気が分る程度に訳してみました。
まずは原文です。

-------
抑彼の洞院家の詠作には、瑞を豊年に顕し、孫康が窓、袁司徒が家の雪、ふりぬる跡を尋ねて、情の色をのこし、花の山の木高き砌、三笠山の言の葉にも、道の道たるす直なる世々、五常の乱らざる道を能くし、南家の三の位、風月の家の風にうそぶきて、春の園に桜をかざし、花を賦する思を述べ、足引の山の名を、うとき国までにとぶらひ、なほなほ年中に行ふ事態、霞みてのどけき日影より、霜雪の積る年の暮まで、あらゆる政につけても、君が御代を祝ふ。涼しき泉の二の流れには、龍田河名取河に、恋の逢瀬をたどり、藻塩草かき集めたる中にも、女のしわざなればとて漏らさむも、古の紫式部が筆の跡、疎かにするにも似たれば、刈萱の打乱れたる様の、をかしく捨てがたくて、なまじひに光源氏の名を汚し、二首の歌を列ぬ。残りは事繁ければ、心皆これに足りぬべし。よりて今勒する所、撰要目録の巻と名づけて、後に猥りがはしからしめじとなり。此外に出で来り、世にもてなし、時に盛りならむ末学の郢作、善悪の弁へ、人のはちに顕れざらめや。

「撰要目録」を読む。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff69e365c35e0732e224f451e70fbc8f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d40419fb4040d03777431b35d63a54a7

次いで、本当に文字通りの拙訳です。

-------
そもそも彼の洞院家の前太政大臣(公守)の詠作(「雪」)は、豊年の予兆である雪、孫康の窓、袁司徒の家に降った雪の故事を尋ねて風流の趣があります。
花山院家の右大将(家教)の作品(「道」)には、道の道たる素直なる世々、五常の乱れぬ道が上手に表現されています。
藤原南家の三の位(広範)は風雅な家風に従って春の園に桜をかざし、花への思いを述べ(「花」)、諸々の山の名前を異国にまで尋ね(「山」)、更に宮中の行事を、霞みのどかな春の日影から霜や雪の積る年の暮まで、つぶさに紹介しつつ我が君が御代を祝います(「年中行事」)。
冷泉家の二つの流れ、冷泉武衛(為相)の「龍田河恋」と冷泉羽林(為通)の「名取河恋」は、それぞれに恋の逢瀬を辿ります。
藻塩草をかき集めた中にも、女性の作品だからといって取り上げないのは古の紫式部の筆の跡を疎かにするような行為なので、刈萱の打乱れた様子も趣深く捨てがたく、あえて光源氏の名を汚して、或る女房の「源氏」「源氏恋」の二首を採りました。
これ以外の人の作品をいちいち取り上げるのも煩雑であり、このあたりで十分でしょう。よって撰要目録の巻と名づけて、後世に混乱をきたさぬように選びました。この外に世間でもてはやし、時に流行するであろう末流の学者の作品も、善し悪しの分別は人々の評判に明らかとなるでしょう。
-------

この序文の後に、

宴曲集巻第一 四季部 ……10曲
宴曲集巻第二 賀部付神祇……7曲
宴曲集巻第三 恋部……9曲
宴曲集巻第四 雑部上付無常……12曲
宴曲集巻第五 雑部下付釈教……12曲
宴曲抄上……10曲
宴曲抄中……11曲
宴曲抄下……9曲
真曲抄……10曲
究百集……10曲

という分類で合計100曲のタイトルが列挙され、その一部に作詞・作曲者の名前が付されています。
「宴曲集巻第一 四季部」の「春」ならば「藤三品作 明空調曲」、同じく「雪」ならば「洞院前大相国家 明空調曲」といった具合ですね。
名前が書かれていない作品は全て明空の作詞作曲です。

>筆綾丸さん
>ついつい、『宴曲集』を中断して、『閑吟集』の方をを見てしまいます。

早歌はいかにも武家社会の芸能らしい無骨さがあるので、芸術的な香気という点では『閑吟集』に負けてしまいますね。

>洞院家と南家の三位(藤三品?)と或女房へ言及した各々の文の量がほぼ同じ

新間進一氏の注には「「南家の三の位」とは、藤三品のことか」(p39)とずいぶん自信なさそうに書かれていますが、『日本古典文学大系44 中世近世歌謡集』は1959年刊行なので、その時点では「藤三品」が誰か不明でした。
早大本が発見されて、その注記から藤原広範であることが明確になった訳ですね。
この点、外村久江氏は『早歌の研究』(至文堂、1965)において、例えば「藤三品」が藤原広範、「二条羽林」が飛鳥井雅孝、「或女房」は阿仏尼などと比定していたところ、その上梓後間もなく、早稲田大学図書館で新しい伝本の存在が確認された上、「早大本のもっとも貴重な点は、作者の傍らに朱の注記があり、これが作者の調査にはまことに好資料」となったのだそうです。
例えば「藤三品」には「広範卿」、「二条羽林」には「雅孝朝臣飛鳥井」との朱注があって、外村氏の研究の正しさが証明された一方で、「源氏恋」「源氏」の作者「或女房」には「白拍子号三条」とあって、阿仏尼との外村説は無理であることが明らかになったそうです。

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/812300a147aea9cb5f760c2d0b02c991

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「老耄鳩杖 」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11215
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『とはずがたり』の政治的意味(その5)

2022-03-16 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月16日(水)11時31分39秒

早歌の創始者・明空の出自は不明ですが、外村久江氏は「明空の生涯-浄土欣求の歌謡作者-」(『鎌倉文化の研究』所収、初出は『日本歌謡研究』25号、1987)において次のように推定されています。

-------
 明空の出身は残念ながら不明である。しかし、古今集をはじめ勅撰集や源氏物語以下の物語類・仏典・中国古典等を存分に使いこなし、また、雅楽・声明等のこれまでの音楽・声楽に通じていることを考えると、並々の人ではなさそうである。ただ、晩年に、比企助員を介して、長く幕府引付頭を務めた北条顕実(金沢貞顕兄)の庇護を受けている様子や、助員がもと将軍の外戚で、政権争いで滅亡した家の後裔らしいことなぞ考え合わせると、武家社会の第一線の政治・軍事に参画することは許されないが、この種の教養を身につけることの出来る階層で、宗教・儀礼・娯楽方面には大いに働きえた人、そういう点から考えると、明空もやはり、鎌倉幕府の御家人(将軍直属の臣)の没落した家の末裔ではなかったろうか。

http://web.archive.org/web/20090821120709/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tonomura-hisae-myokuno-shogai.htm

早歌の普及・発展に金沢北条家の援助があったことは、明空の宗匠としての地位を受け継いだ二代目・比企助員の代になって明確になりますが、明空自身が財産家であったなら何も永仁年間、五十歳近くになってから撰集を始めることなく、もっと若い時期にやっていたはずです。
また、弘安元年(1278)生まれの「越州左親衛」金沢貞顕の作品が相当早い段階で登場することを考えると、これも巨額の資金援助をしてくれるスポンサーのお坊ちゃまを優遇したと考えるのが自然で、明空の代から金沢北条家が早歌の世界に深く関わっていたことは間違いないと思います。

「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c6f654a75b33f788999dc447bda1e48
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「明王徳」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae842c9469091ef7c8930ee108d9daad

さて、前回投稿で触れたように、早歌の創始・発展期の約三十年間は作曲・作詞家リストである『撰要目録』の序文が記された正安三年(1301)を境として前期・後期に分かれますが、前期の作者には公家社会の相当上層の人物が含まれます。
つまり、早歌の場合、民衆の芸能が次第に社会の上層に受け入れられて行くのではなく、いきなり社会の上層が部分的に参加し、以後は作者の範囲は拡大するものの、社会的階層としては低下することになります。
これはいったい何故なのか。
私としては、公家上層の部分的参入は創始者たる明空、そしてその庇護者である金沢北条氏の文化戦略であって、早歌が田舎芸能と見られるのを避けるため、最初に早歌の箔付けを狙ったのではないかと考えます。
ただ、その場合、誰が公家社会の接点となったのかが問題となります。
普通に考えれば、そうした役割は関東伺候廷臣あたりがふさわしいということになりそうですが、この点をもう少し具体的に、前期の早歌作者の具体的人名に即して検討してみたいと思います。
そこで先ずは基礎作業として、『日本古典文学大系44 中世近世歌謡集』(岩波書店、1959)の新間進一による校注を参照させてもらいつつ、拙いながらも『撰要目録』序文の現代語訳を試みることとします。

-------
   序
 いったい我が道の郢曲(早歌)は、幼童の口ずさみ、万人の耳を遮る類、様々に多いのですが、愚かな老人である私が選び集めた作品は全部で十巻、合計百に及びます。この内、二十余首は私の作品ではないので、その作者の名前を記憶を辿りつつ記すことにします。これらの中には貴人の命によるものもあれば、私が聞き及んだものもありますが、その中で私の耳に留り、由緒のある作品を先としつつも、都会と田舎の玩びのような作品や世間で広まっている作品も避けてはいないので、定めて誤記もあり、本来の作品を正確に再現したのかもはっきりしないことも多く、後世の誹りを逃れるのは難しいと思われます。まして、私自身が他人の意見を参考にすることなく作った作品は、儚い筆の迷いであって愚かで拙いものです。ただ、私のような老人が鳩の杖にすがることもないまま、幼稚な竹馬のような営みを世間に知らせるためのものであるので、仰々しく主張することもできません。そういった事情なので、特別に調律や修辞の技巧を凝らさず、戯れの口ずさみ、寝覚の独り言のようなものを誰が漏らしているのだろうと、このように真面目になって編集することすら世人の賛成するところではないのでは、などと他人の思惑も気にならない訳ではありませんが、ひたすら自分の好きな道なので、世間の誹りも忘れる程熱中してしまうのは、必ずしも私のような愚かな人間だけの振舞いでもあるまいと自分で慰めるのも、やはり老人のひがみというものでありましょうか。
-------

いったん、ここで切ります。
非常に謙虚なフリをしながら、満々たる自負が漲っている点で、現代の学者であれば「古筆学」の小松茂美氏あたりを連想させますね。
原文はこちらです。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff69e365c35e0732e224f451e70fbc8f

>筆綾丸さん
>明空が僧だとすれば、金沢北条氏の菩提寺(称名寺)との関係から、西大寺系の真言律宗の僧で、明空の空は空海の空というようなことになりますか。

出家者であることは間違いないのですが、明空の宗派ははっきりしないようですね。
「法華」という天台宗っぽい作品もあれば、「浄土宗」や「曹源宗」といった作品もあります。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「間奏」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11213
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『とはずがたり』の政治的意味(その4)

2022-03-14 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月14日(月)12時41分30秒

田渕句美子氏の「関東の文学と文芸」(『岩波講座日本文学史第5巻一三・一四世紀の文学』、1995)を見ると、武家社会でも相当に文芸活動が盛んであったことが窺えますが、しかし田渕氏の視点はあくまでも和歌中心ですね。
早歌への言及は僅かに、

-------
為相は自ら関東祗候廷臣であると言うように、壮年以後関東に本拠を張り鎌倉歌壇を主導した。為相女は久明親王側室となっている。『拾遺風体和歌集』『柳風和歌抄』を撰んだと推定され、連歌でも活躍し『藤谷式目』を作り、早歌の作者でもあって秀れた文化人であった。

鎌倉後期はこのように、和歌と連歌の盛行、独自の文芸早歌の創造と大成など、層の拡大と質の高さ、多彩な活況とを示す。この早歌は明空(月江)により大成され、為相、飛鳥井雅孝(雅有猶子)、藤原広範(茂範の子)、金沢貞顕などが作者として名を連ねる。それにしても長清、明空、仙覚、西円、住信など関東の文学に大きな足跡を残すこれらの人々は、出自さえ定かには知り得ない。

http://web.archive.org/web/20150522012557/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tabuchi-kumiko-kantonobungaku.htm

とあるだけです。
早歌という芸能の概要を知るには外村南都子氏の「歌謡の流れ」(『日本文学新史〈中世〉』所収、至文堂、1990)が便利ですが、早歌には鎌倉後期に鎌倉の武家社会で生まれたという際立った特徴があります。
そして、その創始者は寛元三年(1245)前後に生まれた明空(後に改名して月江)という人物であり、明空は遅くとも三十代くらいまでには早歌を作り始めたようですが、作品が撰集の形で纏められるようになったのはかなり遅れて永仁年間に入ってからであり、明空は既に五十歳前後となっています。
ただ、いったん撰集が始まってからの動きは非常に活発で、

-------
撰集名と成立年次は次のようである。『宴曲集』一~五、『宴曲抄』上中下、『真曲抄』(永仁四年〈1296〉、『究百集』(正和三年〈1301〉【ママ】)、『拾菓集』上下(嘉元四年〈1306〉)、『拾菓抄』(正和三年〈1314〉)、『別紙追加曲』、『玉林苑』上下(文保三年〈1319〉、本により前年とも)以上一六一曲。これらの曲の一部をかえたり、小曲を付加したりする異説・両曲という替え歌があり、それぞれ四八ずつ『異説秘抄口伝巻』(文保三年〈1319〉)『撰要両曲巻』(元亨二年〈1322〉)として集大成されている(志田延義編『続日本歌謡集成』巻二、文献4)。各曲の実作の時期は、後期になると撰集とほぼ同時に行われたことがわかり、結局1322年に至る数十年の間に作られたとみられる。

http://web.archive.org/web/20080311114827/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tonomura-natuko-kayononagare.htm

という具合に、僅か三十年程度の期間に次々と撰集が編まれて行きます。
そして、この期間は『撰要目録』序文が記された正安三年(1301)までの前期と、以後の後期に大きく分けることができますが、前期は僅か数年の間に百曲ほどが編集されていて、その八割が明空作です。
ということは、明空は既に相当数の曲を書き溜めており、それを永仁年間以降、次々と纏めて行ったものと思われますが、何故にこの時期になったのか。
それはおそらく、明空のパトロンであった金沢北条氏の政治的事情が影響したものと思われます。
金沢実時から数えて三代目の当主・顕時(1248-1301)の正室は安達泰盛(1231-1285)の娘であったため、弘安八年(1285)、顕時は霜月騒動に連座し、出家して下総国埴生荘に隠棲します。
そして八年後の永仁元年(1293)四月、平禅門の乱の僅か五日後に鎌倉に復帰し、十月、北条貞時が引付を廃して新設した執奏の一人に選任されます。(永井晋氏『人物叢書 金沢貞顕』、p12)
明空がいったい何時から金沢北条氏に近付いたのかは不明ですが、金沢北条氏が逼塞状態から脱して幕政の中心に復帰し、精神的にも経済的にも余裕ができるようになって、はじめて明空への支援が活発化した訳ですね。
さて、『撰要目録』序文が記された正安三年(1301)までの前期と、以後の後期では、早歌の作者の社会的階層には顕著な相違があります。
外村南津子氏によれば、

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 『究百集』までの百曲は、ほとんどの曲を明空が作曲し、作詞者として、冷泉為相・藤原広範ら東下りの公家、金沢貞顕らの武士、漸空ら僧侶が顔を見せている。ところが、『拾菓集』以後になると、幕府近侍の武士達が作曲者として登場し、明空が作詞してこれら弟子と見られる人々に作曲させたり、共作するなど、養成にあたっていることが知られる。この中で高弟とみられるのが比企助員であり、四曲の作曲と異説一篇を残し、明空最晩年の両曲は助員の要請によって成ったもので、その最後の一二篇は、助員が作り足して完成した(外村久江「早歌『撰要両曲巻』の成立と比企助員」文献20、同「早歌の大成と比企助員」文献22)。その後『異説秘抄口伝巻』を約三十年ごとに相伝して行った宗家的存在の人々も同じ階層の武士であった。
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といった具合です。
「『究百集』までの百曲」というのは『撰要目録』序文が記された正安三年(1301)までの前期の作品ですが、外村氏の「作詞者として、冷泉為相・藤原広範ら東下りの公家」云々という表現は若干不正確で、公家社会の作者の中には京都在住の、それもかなり身分の高い公家が目立ちます。
他方、後期になると作者の幅が相当に広がりますが、しかし、その身分はあまり高くはありません。
いったい、これは何故なのか。
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