学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その20)─「39.三浦胤義の自害 5行」

2023-10-09 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「39.三浦胤義の自害 5行」は、

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 平判官ハ、敵少々討取〔うちとり〕テ思様〔おもふやう〕、「胤義コソ弓箭〔ゆみや〕ノ冥加〔みやうが〕尽タリトモ、帝王ニ向〔むかひ〕マイラセテ、軍ニ討勝〔うちかち〕、世ニアランズル人ヲ討取テハ、親ノ孝養〔けうやう〕ヲモ誰カハスベキ」ト思ヒツゝ、大宮ヲ上リニ一条マデ、西ヘゾ落ニケル。西獄〔にしのごく〕ニテ敵ノ頸ヲ懸〔かけ〕、木島〔このしま〕ヘゾオハシケル。木島ニテ十五日ノ辰ノ時ニ、平判官父子自害シテコソ失〔うせ〕ニケレ。「アハレ、武士ナリツル人を」ト、オシマヌ人モ無リケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa05aa70336d1e38674b1b939cfe27a6

というものですが、流布本と比べると、慈光寺本における胤義の最期は本当にあっさりしていますね。
流布本では藤原秀康・山田重忠と共に四辻殿に敗戦の報告に行き、後鳥羽院に門前払いされた三浦胤義は、「いざ同くは坂東勢に向ひ打死せん」と淀へ向いますが、鎌倉方が押し寄せてきたため、東寺に立て籠もります。
そこに三浦義村配下の「佐原次郎・天野左衛門尉」の軍勢がやってきて、胤義子息の「次郎兵衛」は、最初は同じ三浦一族と戦ってもしかたないと様子を見ていますが、胤義が「佐原又太郎」を見つけて、あいつだけは許し難いと「子息太郎兵衛・次郎兵衛・高井兵衛太郎」に攻撃を命じ、この後、些かコミカルな展開となります。

流布本も読んでみる。(その46)─「殿原をも見養〔そだ〕てたり」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b53c80a818239c07d4e8e88f9eb868cd

その後、千葉一族の「角田太郎・同弥平次」が胤義を討とうとし、胤義の郎党「水戸源八」と戦って、これを討ち取ります。
そして「次郎兵衛」と一門の「高井兵衛太郎」は東山まで落ちて、互いに刺し違えて死にます。

流布本も読んでみる。(その47)─「暫く打払ひ候はん。御自害候へ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0b1c777b2beb73162b85b9f613f0cc

胤義と「子息太郎」は散々に戦って父子二騎だけとなり、「東山なる所、故畠山六郎最後に、人丸と云者の許〔もと〕へ行て」暫く休みます。
それから、「父子二人と人丸三人」は「女車」に乗って太秦に向かいますが、敵が充満しているため「子の嶋」という神社に隠れます。
そこに「古〔いにし〕へ判官の郎従なりし藤四郎頼信」という者が来て、「天野左衛門」の配下が沢山いるので太秦に行くのは無理だと告げると、「太郎兵衛」は母(「太秦の女房」)への伝言を「藤四郎入道」に託して自害します。
そして胤義も、「太秦の女房」に自分の首を見せてから兄・義村の許に持って行き、「一家を皆失ふて、一人世に御座〔おはす〕こそ目出度〔めでたく〕候へ」と言えと「藤四郎入道」に命じてから自害します。

流布本も読んでみる。(その48)─「一家を皆失ふて、一人世に御座こそ目出度候へ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dabce5398462e9aa0f6732cf70330845

「藤四郎入道」が胤義に言われた通りに首を義村に届けると、義村は「一腹一生の兄弟として、思合ひたりし中なれば、実〔まこと〕に哀れに覚へて涙を流し、座〔そぞ〕ろに袖をぞ被絞ける」後に、胤義の首を北条泰時に送ります。

流布本も読んでみる。(その49)─「一腹一生の兄弟として、思合ひたりし中なれば」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a19b3cdf271ba52a150ee0bc509a8229

ということで、後鳥羽院に門前払いされて以降、『新訂承久記』では実に71行を費やして三浦胤義父子の敗走と自害が延々と語られます。
『新訂承久記』は上下巻全体で1530行なので、

71/1530≒0.046

ですから、約5%と結構な分量です。
この流布本の描写と比較すると、慈光寺本は本当にあっさりとしていますね。
さて、流布本の長大かつ複雑なエピソードは、「藤四郎入道」が実在し、慈光寺本作者が「藤四郎入道」から直接取材したような特別の事情がなければとても書けない話で、創作っぽい感じは否めません。
他方、慈光寺本も38の和田合戦の話は変であり、39の胤義の述懐も綺麗事に過ぎるような感じなので、重要な部分に創作がありそうです。
そこで、38・39は「C」(ストーリーの骨格は史実を反映しているが、脚色が多く、信頼性は低い)と評価します。
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慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その19)─「38.三浦胤義と義村との戦い 9行」

2023-10-09 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
野口実氏は「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」(『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』所収)において、

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 ところで、問題なのは「紀内殿」の方である。「紀内」という名字を持ち、と同時に慈光寺本の成立段階までに「殿」と呼ばれるにふさわしい一定のステイタスを確立していた有力者を探さなければならない。
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と書かれています。(p168)
「殿」は、一般論としては「一定のステイタスを確立していた有力者」に相応しい呼び方なのかもしれませんが、敬語が濫発されている慈光寺本では「殿」も濫発されていますね。
鎌倉方では鎌倉出発時の軍勢リストで、「足利殿」は良いとしても、「大河殿」「新井田殿」「峰川殿」といった出自がはっきりしない人々にも「殿」が使われています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その30)─「此上ニ何ノ御不足有テカ、義時御勘気ニ預リ候ラン」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f0771e5f272c883b9d8e016f52826d14

尾張河合戦では「二宮殿」もいますね。
また、京方は「山田殿」を始めとして「高桑殿」「上田殿」「寺本殿」「蜂田殿」「安原殿」「石黒殿」「神土殿」「下条殿」「榎殿」など、「殿」の水浸し状態です。
この「殿」の問題は、後で改めて整理してみるつもりです。

森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その6)─「特定の武士に対する別格的待遇を云々することはできない」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5eb6514704b0b5a9cb0773423c3099a

さて、「38.三浦胤義と義村との戦い 9行」に進むと、

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 其次ニ、黄村紺〔きむらご〕ノ旗十五流〔ながれ〕ゾ差出タル。平判官申サレケルハ、「是コソ駿河守ガ旗ヨ」トテカケ向フ。「アレハ、駿河殿ノオハスルカ。ソニテマシマサバ、我ヲバ誰カト御覧ズル。平九郎判官胤義ナリ。サテモ鎌倉ニテ世ニモ有ベカリシニ、和殿ノウラメシク当リ給シ口惜〔くちをし〕サニ、都ニ登リ、院ニメサレテ謀反オコシテ候ナリ。和殿ヲ頼ンデ、此度〔このたび〕申合文〔まうしあはせぶみ〕一紙ヲモ下シケル。胤義、オモヘバ口惜ヤ。現在、和殿ハ権太夫ガ方人〔かたうど〕ニテ、和田左衛門ガ媒〔なかだち〕シテ、伯父ヲ失〔うしなふ〕程ノ人ヲ、今唯、人ガマシク、アレニテ自害セント思〔おもひ〕ツレドモ、和殿ニ現参〔げんざん〕セントテ参テ候ナリ」トテ散々ニカケ給ヘバ、駿河守ハ、「シレ者ニカケ合テ、無益〔むやく〕ナリ」ト思ヒ、四墓〔よつづか〕ヘコソ帰ケレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e19d58a3e31ad3b612ce848bfe020d1a

ということで、私訳を再掲すると、

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 その次に、「黄村紺」(黄紫紺。三引両の上画を黄、中画を紫、下画を紺に彩った、三浦氏の紋所)の旗が十五流(ながれ)現われた。
「平判官」三浦胤義は、「これこそ駿河守(三浦義村)の旗よ」と言って向かって行った。
「そこに駿河守殿はおられるか。そうであれば、我を誰と思われるか。平九郎判官胤義である。我は鎌倉で世を渡って行くべきであったのに、貴殿に疎まれて口惜しくも都に上り、後鳥羽院に召されて謀反を起こしたのだ。貴殿を頼んで、相談の手紙の一本をも鎌倉に下したのに、貴殿は「権太夫」北条義時の味方だった。思えば伯父の「和田左衛門」義盛を裏切って殺させてしまうような貴殿を頼ったのは本当に愚かなことだった。何とも口惜しい。今はもう、名誉を重んずる武者らしく御所で自害しようかとも思ったが、貴殿にだけは会って自分の思いを伝えようと考え、ここまで来たのだ」
と言ってさんざんに駆けると、駿河守(義村)は「馬鹿者の相手をするのは無意味だ」と思い、四塚の方に戻って行った。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa05aa70336d1e38674b1b939cfe27a6

となります。
ここに和田合戦の話が出てきますが、他人が義村を裏切り者と非難するのならともかく、胤義が義村を非難するのは相当に変な話です。
というのは、和田合戦において、胤義は義村と共に当初は和田義盛に同心しながら、後に「権太夫ガ方人」になって、義盛を裏切っているからです。
このように38には重要部分に明らかな脚色がありますが、ここは「39.三浦胤義の自害 5行」と連続した場面なので、その評価も39と共に行うこととします。
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