「39.三浦胤義の自害 5行」は、
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平判官ハ、敵少々討取〔うちとり〕テ思様〔おもふやう〕、「胤義コソ弓箭〔ゆみや〕ノ冥加〔みやうが〕尽タリトモ、帝王ニ向〔むかひ〕マイラセテ、軍ニ討勝〔うちかち〕、世ニアランズル人ヲ討取テハ、親ノ孝養〔けうやう〕ヲモ誰カハスベキ」ト思ヒツゝ、大宮ヲ上リニ一条マデ、西ヘゾ落ニケル。西獄〔にしのごく〕ニテ敵ノ頸ヲ懸〔かけ〕、木島〔このしま〕ヘゾオハシケル。木島ニテ十五日ノ辰ノ時ニ、平判官父子自害シテコソ失〔うせ〕ニケレ。「アハレ、武士ナリツル人を」ト、オシマヌ人モ無リケリ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa05aa70336d1e38674b1b939cfe27a6
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平判官ハ、敵少々討取〔うちとり〕テ思様〔おもふやう〕、「胤義コソ弓箭〔ゆみや〕ノ冥加〔みやうが〕尽タリトモ、帝王ニ向〔むかひ〕マイラセテ、軍ニ討勝〔うちかち〕、世ニアランズル人ヲ討取テハ、親ノ孝養〔けうやう〕ヲモ誰カハスベキ」ト思ヒツゝ、大宮ヲ上リニ一条マデ、西ヘゾ落ニケル。西獄〔にしのごく〕ニテ敵ノ頸ヲ懸〔かけ〕、木島〔このしま〕ヘゾオハシケル。木島ニテ十五日ノ辰ノ時ニ、平判官父子自害シテコソ失〔うせ〕ニケレ。「アハレ、武士ナリツル人を」ト、オシマヌ人モ無リケリ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa05aa70336d1e38674b1b939cfe27a6
というものですが、流布本と比べると、慈光寺本における胤義の最期は本当にあっさりしていますね。
流布本では藤原秀康・山田重忠と共に四辻殿に敗戦の報告に行き、後鳥羽院に門前払いされた三浦胤義は、「いざ同くは坂東勢に向ひ打死せん」と淀へ向いますが、鎌倉方が押し寄せてきたため、東寺に立て籠もります。
そこに三浦義村配下の「佐原次郎・天野左衛門尉」の軍勢がやってきて、胤義子息の「次郎兵衛」は、最初は同じ三浦一族と戦ってもしかたないと様子を見ていますが、胤義が「佐原又太郎」を見つけて、あいつだけは許し難いと「子息太郎兵衛・次郎兵衛・高井兵衛太郎」に攻撃を命じ、この後、些かコミカルな展開となります。
流布本も読んでみる。(その46)─「殿原をも見養〔そだ〕てたり」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b53c80a818239c07d4e8e88f9eb868cd
その後、千葉一族の「角田太郎・同弥平次」が胤義を討とうとし、胤義の郎党「水戸源八」と戦って、これを討ち取ります。
そして「次郎兵衛」と一門の「高井兵衛太郎」は東山まで落ちて、互いに刺し違えて死にます。
流布本も読んでみる。(その47)─「暫く打払ひ候はん。御自害候へ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0b1c777b2beb73162b85b9f613f0cc
胤義と「子息太郎」は散々に戦って父子二騎だけとなり、「東山なる所、故畠山六郎最後に、人丸と云者の許〔もと〕へ行て」暫く休みます。
それから、「父子二人と人丸三人」は「女車」に乗って太秦に向かいますが、敵が充満しているため「子の嶋」という神社に隠れます。
そこに「古〔いにし〕へ判官の郎従なりし藤四郎頼信」という者が来て、「天野左衛門」の配下が沢山いるので太秦に行くのは無理だと告げると、「太郎兵衛」は母(「太秦の女房」)への伝言を「藤四郎入道」に託して自害します。
そして胤義も、「太秦の女房」に自分の首を見せてから兄・義村の許に持って行き、「一家を皆失ふて、一人世に御座〔おはす〕こそ目出度〔めでたく〕候へ」と言えと「藤四郎入道」に命じてから自害します。
流布本も読んでみる。(その48)─「一家を皆失ふて、一人世に御座こそ目出度候へ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dabce5398462e9aa0f6732cf70330845
「藤四郎入道」が胤義に言われた通りに首を義村に届けると、義村は「一腹一生の兄弟として、思合ひたりし中なれば、実〔まこと〕に哀れに覚へて涙を流し、座〔そぞ〕ろに袖をぞ被絞ける」後に、胤義の首を北条泰時に送ります。
流布本も読んでみる。(その49)─「一腹一生の兄弟として、思合ひたりし中なれば」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a19b3cdf271ba52a150ee0bc509a8229
ということで、後鳥羽院に門前払いされて以降、『新訂承久記』では実に71行を費やして三浦胤義父子の敗走と自害が延々と語られます。
『新訂承久記』は上下巻全体で1530行なので、
71/1530≒0.046
ですから、約5%と結構な分量です。
この流布本の描写と比較すると、慈光寺本は本当にあっさりとしていますね。
さて、流布本の長大かつ複雑なエピソードは、「藤四郎入道」が実在し、慈光寺本作者が「藤四郎入道」から直接取材したような特別の事情がなければとても書けない話で、創作っぽい感じは否めません。
他方、慈光寺本も38の和田合戦の話は変であり、39の胤義の述懐も綺麗事に過ぎるような感じなので、重要な部分に創作がありそうです。
そこで、38・39は「C」(ストーリーの骨格は史実を反映しているが、脚色が多く、信頼性は低い)と評価します。