渡辺は「このランケの直弟子に、『流竄の神々』を書いた同国人ハイネのような民衆信仰への感受性を期待するのはもともと酷なのだろう」(p452)と書いていますが、ハインリヒ・ハイネ(1797-1856)の「Die Gotter im Exil」は小沢俊夫氏が「流刑の神々」と訳していますね。
そして小沢訳『流刑の神々・精霊物語』(岩波文庫、1980)の表紙には、
-------
キリスト教が仮借ない非寛容性をもってヨーロッパを席巻していったとき、大陸古来の民間信仰はいかなる変容をしいられたか。今から1世紀以上も前、歴史の暗部ともよぶべきこのテーマに早くも着目したハイネは、これら2篇のエッセーでギリシアの神々と古代ゲルマンの民族神たちの「その後」を限りない共感を込めて描いている。
-------
とあります。
これは小沢氏の「解説」(p195以下)を要約したものなのですが、しかし、このような「流刑の神々」の位置づけには根本的な批判があるようです。
といっても、私もつい先日、愛知大学教授・河野眞氏の「ナトゥラリズムとシニシズムの彼方(5)─フォークロリズムの理解のために」(愛知大学国際コミュニケーション学会編『文明21』23号、2009)という論文がPDFで読めることに気づき、通読してみただけで、小沢・河野氏の見解のいずれが正しいのかを判断する能力はありません。
ただ、河野氏によれば、「日本の民俗学界でハイネの名前が今も特筆されるのは柳田國男が言及したことに起因」し、「ハイネは民俗学の学史に名前の挙がる人ではなく,ヨーロッパの民俗学の関係者は,ハイネに〈学問の芽生〉を読むことなど絶えて無かった。ハイネを民俗学の里程標のように見るのは,日本の民俗研究者だけと言ってもよい」とのことです。
河野眞「ナトゥラリズムとシニシズムの彼方(5)─フォークロリズムの理解のために」
http://ic.aichi-u.ac.jp/aic/civilization21/files/conts023/KonoS.pdf
要するに河野氏は「流刑の神々」を学術論文っぽい雰囲気を醸し出した小説と考えておられていて、仮に河野氏が正しいのであれば、そもそもハイネの「流竄の神々(流刑の神々)」と「民衆信仰への感受性」はあまり関係ないことになり、従って渡辺京二のルートヴィヒ・リースへの批判もずいぶん妙な話となります。
そこで、ドイツ文学には全く縁のない素人の戯言になることを覚悟の上で少しこの問題を検討することとし、まずは「流刑の神々」の内容を確認してみたいと思います。
小沢訳『流刑の神々・精霊物語』は「解説」を含めて全部で213ページあり、「流刑の神々」の本文はp125~162の38ページ分、そして「訳者注」がp186~194の9ページ分ありますが、本文冒頭を少し引用します。(p125以下)
-------
ここで申し述べようとする考えを、わたしはごく初期の著作のなかですでにとりあげたことがある。つまり、わたしはここでふたたび、キリスト教が世界を支配したときにギリシア・ローマの神々が強いられた魔神〔デーモン〕への変身のことをのべてみようと思っているのである。民間信仰は今ではギリシア・ローマの神々を、たしかに実在するが呪われた存在にしてしまっている。その意味ではキリスト教会の教えとまったく一致しているのである。教会は古代の神々を、哲学者たちのように、けっして妄想だとか欺瞞と錯覚のおとし子だとは説明せず、キリストの勝利によってその権力の絶頂からたたきおとされ、今や地上の古い神殿の廃墟や魔法の森の暗闇のなかで暮らしをたてている悪霊たちであると考えている。そしてその悪霊たちはか弱いキリスト教徒が廃墟や森へ迷いこんでくると、その誘惑的な魔法、すなわち肉欲や美しいもの、特にダンスと歌でもって背教へと誘いこむというのである。このテーマ、すなわち、古代の自然崇拝がサタンに奉仕するものとされ、異教の祭司の勤行〔ごんぎょう〕が魔法につくりかえられたこと、神々の悪魔化というテーマに関しては、わたしはすでに『サロン』の第二部と第三部のいて腹蔵なく意見をのべておいた。あれ以来多くの論者がわたしの暗示の跡をたどったり、この問題の重要性についてわたしが提起したヒントにはげまされて、このテーマをわたしよりはるかに詳細に、広範囲に、そして徹底的に論じてきているので、わたしとしてはもうこれ以上意見をのべなくてもいいだろうと思っている。論者たちはその際に、イニシアチブをとった功労のある著者の名を挙げていないが、それはきっとたいして意味のない度忘れなのだろう。わたし自身はそのような権利を過度に要求するつもりはない。事実、わたしが話題にしたあのテーマは、けっして真新しいものではない。しかしこのように古い考えを流行させることについては、事情はいつもコロンブスの卵と同じようなものなのだ。誰でもそれを知っていたのに、それを口にだして言うものがいなかったのである。
-------
段落の途中ですが、いったんここで切ります。
ハイネは「イニシアチブをとった功労のある」自分の名前が後継の論者たちによって明記されないことにイヤミを言い、「わたし自身はそのような権利を過度に要求するつもりはない」と、要求する意思がたっぷりあることを表明しているのですが、こういう言い回しを見ると、本当にハイネによって重要な学問的論点が提示され、それについて「詳細に、広範囲に、そして徹底的に」学問的な論争が生じたように思えてしまいます。