学問空間

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渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その4)

2019-11-30 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月30日(土)20時01分6秒

渡辺は「このランケの直弟子に、『流竄の神々』を書いた同国人ハイネのような民衆信仰への感受性を期待するのはもともと酷なのだろう」(p452)と書いていますが、ハインリヒ・ハイネ(1797-1856)の「Die Gotter im Exil」は小沢俊夫氏が「流刑の神々」と訳していますね。
そして小沢訳『流刑の神々・精霊物語』(岩波文庫、1980)の表紙には、

-------
キリスト教が仮借ない非寛容性をもってヨーロッパを席巻していったとき、大陸古来の民間信仰はいかなる変容をしいられたか。今から1世紀以上も前、歴史の暗部ともよぶべきこのテーマに早くも着目したハイネは、これら2篇のエッセーでギリシアの神々と古代ゲルマンの民族神たちの「その後」を限りない共感を込めて描いている。
-------

とあります。
これは小沢氏の「解説」(p195以下)を要約したものなのですが、しかし、このような「流刑の神々」の位置づけには根本的な批判があるようです。
といっても、私もつい先日、愛知大学教授・河野眞氏の「ナトゥラリズムとシニシズムの彼方(5)─フォークロリズムの理解のために」(愛知大学国際コミュニケーション学会編『文明21』23号、2009)という論文がPDFで読めることに気づき、通読してみただけで、小沢・河野氏の見解のいずれが正しいのかを判断する能力はありません。
ただ、河野氏によれば、「日本の民俗学界でハイネの名前が今も特筆されるのは柳田國男が言及したことに起因」し、「ハイネは民俗学の学史に名前の挙がる人ではなく,ヨーロッパの民俗学の関係者は,ハイネに〈学問の芽生〉を読むことなど絶えて無かった。ハイネを民俗学の里程標のように見るのは,日本の民俗研究者だけと言ってもよい」とのことです。

河野眞「ナトゥラリズムとシニシズムの彼方(5)─フォークロリズムの理解のために」
http://ic.aichi-u.ac.jp/aic/civilization21/files/conts023/KonoS.pdf

要するに河野氏は「流刑の神々」を学術論文っぽい雰囲気を醸し出した小説と考えておられていて、仮に河野氏が正しいのであれば、そもそもハイネの「流竄の神々(流刑の神々)」と「民衆信仰への感受性」はあまり関係ないことになり、従って渡辺京二のルートヴィヒ・リースへの批判もずいぶん妙な話となります。
そこで、ドイツ文学には全く縁のない素人の戯言になることを覚悟の上で少しこの問題を検討することとし、まずは「流刑の神々」の内容を確認してみたいと思います。
小沢訳『流刑の神々・精霊物語』は「解説」を含めて全部で213ページあり、「流刑の神々」の本文はp125~162の38ページ分、そして「訳者注」がp186~194の9ページ分ありますが、本文冒頭を少し引用します。(p125以下)

-------
 ここで申し述べようとする考えを、わたしはごく初期の著作のなかですでにとりあげたことがある。つまり、わたしはここでふたたび、キリスト教が世界を支配したときにギリシア・ローマの神々が強いられた魔神〔デーモン〕への変身のことをのべてみようと思っているのである。民間信仰は今ではギリシア・ローマの神々を、たしかに実在するが呪われた存在にしてしまっている。その意味ではキリスト教会の教えとまったく一致しているのである。教会は古代の神々を、哲学者たちのように、けっして妄想だとか欺瞞と錯覚のおとし子だとは説明せず、キリストの勝利によってその権力の絶頂からたたきおとされ、今や地上の古い神殿の廃墟や魔法の森の暗闇のなかで暮らしをたてている悪霊たちであると考えている。そしてその悪霊たちはか弱いキリスト教徒が廃墟や森へ迷いこんでくると、その誘惑的な魔法、すなわち肉欲や美しいもの、特にダンスと歌でもって背教へと誘いこむというのである。このテーマ、すなわち、古代の自然崇拝がサタンに奉仕するものとされ、異教の祭司の勤行〔ごんぎょう〕が魔法につくりかえられたこと、神々の悪魔化というテーマに関しては、わたしはすでに『サロン』の第二部と第三部のいて腹蔵なく意見をのべておいた。あれ以来多くの論者がわたしの暗示の跡をたどったり、この問題の重要性についてわたしが提起したヒントにはげまされて、このテーマをわたしよりはるかに詳細に、広範囲に、そして徹底的に論じてきているので、わたしとしてはもうこれ以上意見をのべなくてもいいだろうと思っている。論者たちはその際に、イニシアチブをとった功労のある著者の名を挙げていないが、それはきっとたいして意味のない度忘れなのだろう。わたし自身はそのような権利を過度に要求するつもりはない。事実、わたしが話題にしたあのテーマは、けっして真新しいものではない。しかしこのように古い考えを流行させることについては、事情はいつもコロンブスの卵と同じようなものなのだ。誰でもそれを知っていたのに、それを口にだして言うものがいなかったのである。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
ハイネは「イニシアチブをとった功労のある」自分の名前が後継の論者たちによって明記されないことにイヤミを言い、「わたし自身はそのような権利を過度に要求するつもりはない」と、要求する意思がたっぷりあることを表明しているのですが、こういう言い回しを見ると、本当にハイネによって重要な学問的論点が提示され、それについて「詳細に、広範囲に、そして徹底的に」学問的な論争が生じたように思えてしまいます。
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渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その3)

2019-11-28 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月28日(木)20時18分26秒

ま、別にエドウィン・アーノルドもそれほど特異なことを言っている訳ではないので、私もちょっと神経質になりすぎですかね。
『逝きし世の面影』に戻ると、渡辺は「日本人にとって、神仏は神社仏閣にだけおわしたのではない。フォーチュンは野仏に捧げられた素朴な信心の姿を伝えている」として、ロバート・フォーチュンが文久元年(1861)に出会った女性三人の話を紹介します。(p450)

-------
「神奈川宿の近傍の野面にはたいてい、小さな路傍の祠があって、住民はそれに線香をたき、石に粗く刻まれた小さな神に塩や銅貨などのお供えをする。あるとき私は、かなり立派な身なりで上流階級に属すると思われる三人の女性に出会った。召使が一人ついていて、その男は神へのお供えとして、手に一束の線香と紙を持っていた。彼女らは外国人に逢ったのが嬉しかったらしく、とても丁寧な様子で、どちらから来てどこまで行かれるのか、お国はどこかと尋ねてきた。おなじ質問をすることで社交辞令のお返しをすると、神奈川からやって来て、数百ヤード前方の路傍にある小さな祠に線香をあげるところですと教えてくれた。その儀式が見たくてたまらず、私は祠まで彼女らについて行った。小さな石仏のところに着くと、身分の高そうな一人が召使の手から線香を取って火をつけ、仏像の前の石盤にそれを活けた。二番目の身分らしい女が敬虔な態度で彼女のうしろに立っており、さらにそのうしろには三番目が立っていたが、これはちょっとばかりお祈りをすると、他の二人はまだ祈り続けているのに、私に笑いながら話しかけるのだった。儀式は二分ばかりかかっただけで、それが終ると三人のご婦人は懐ろから短い煙管をとり出し、煙草入れに入っていた煙草をそれに詰め、私にシガーの火を貸してくれるように頼んだ。私はよろこんで頼みに応じ、しばらくいっしょに煙草を吸って、仲よくお別れした」。
-------

そして渡辺は、

-------
 もちろんこの女には心願の筋があったのだろう。石仏は霊験あらたかな地蔵であったに違いない。すなわち彼女の行為は、ヴィシェスラフツォフやスミスが、宗教とは無縁のものとして排撃する"迷信"であった。しかし、天にまします唯一神に祈れば迷信でなく、路傍の石仏に願をかければ迷信だという区別が、いったいどうして可能なのかという疑問はともかくとして、この女たちが地蔵に線香を供えることで、具体的な現世利益を願ったことは確かだとしても、それと同時に、彼女らがこの世を包含するさらに大いなる神秘の世界と交感したのであることは疑いようのない事実だ。
-------

と力説するのですが(p451)、フォーチュンが描くのは召使の男を連れた「かなり立派な身なりで上流階級に属するかと思われる三人の女性」が、祈りの「儀式は二分ばかり」で済ませて、後はフォーチュンから火を借りて「しばらくいっしょに煙草を吸って、仲よくお別れした」というだけの話なので、「彼女らがこの世を包含するさらに大いなる神秘の世界と交感した」のではないことは「疑いようのない事実」ではないかと思います。
要するにこの地蔵参りは有閑マダムたちの単なる行楽であり、東大名誉教授三谷太一郎氏の表現をお借りすれば、三人にとって石仏とフォーチュンは気晴らしの対象として「機能的等価物」ですね。
いくら何でも渡辺の書き方は大袈裟です。

「ヨーロッパにおけるキリスト教の「機能的等価物」としての天皇制」(by 三谷太一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/144c4e69654e57c419cadc8992ecddc6

さて、次いで渡辺はドイツ公使、マックス・フォン・ブラント(1835-1920)と一人の老婆とのエピソードを紹介します。(p451)

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 ブラントは東京医学校教授のミュラーとホフマンを伴って、小紫と権八の墓を見物に出かけたが、そこで、病いに効験があるという青銅の天狗像を熱心に足でさすっている老婆を目撃した。聞くと、彼女の孫の足が悪いので、天狗さまに願をかけているのだという。その子は下の茶屋で待っているとのことだった。ブラントは早速、二人の医師にその子を診察してもらった。少年はこの縁で医学校付属病院で手術を受け完治するに至ったが、婆さんが礼を言いに来たとき、ブラントが「天狗のところへ行くかわりに、すぐに医者へ行くほうがよくはなかったか」と問うと、彼女は「そうかも知れませんけれども、天狗さまにお詣りしませんでしたら、あなたさまにもお目にかかれませんでしたろう」と答えた。「以来私は迷信打破の努力をやめることにした」とブラントは書いている。
-------

これを受けて渡辺は「すなわちこの老女は彼に、この世界を構成する複雑な連鎖の神秘を示唆したのだった」と感想を述べます。
まあ、とても良い話ではありますが、ブラントにしてみれば、老婆の機知に富んだ応答に感心した、という程度の笑い話であって、「この世界を構成する複雑な連鎖の神秘」云々はさすがに大袈裟ではないかと思います。

マックス・フォン・ブラント(1835-1920)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88
『ドイツ公使の見た明治維新』
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001837206-00

そして渡辺は「フォーチュンもブラントも、日本人の宗教意識を理解する入口に立っていたのである」と、些か傲慢な、上から目線の感想を述べた後、お雇い外国人の歴史学者、ルートヴィヒ・リース(1861-1928)の見解を紹介します。(p452)

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リースは歴史学者らしくそれを分析する。不動、地蔵、閻魔、観音、賓頭廬の五神をあげながら彼は言う。「広く大衆に受けいれられている五柱の神々に対する信仰を、日本の庶民や女子供たちはけっして失うことはない。自分は自由精神の持ち主だという日本人がいたとしたら、かれは乳母の語ってきかせる童話の世界と同時に、以前のこのような信仰からも解放されたことを言っているのである」。つまり彼にとって、庶民や女子どもの信仰世界は、それなりの効用はもつものの、結局はそれから解き放たれるべき「迷信」なのである。折角、民衆の宗教意識への門口に立ちながら、彼はそれを放り出して、日本人の「政治的宗教」、すなわち古代から連綿として続く先祖崇拝を論じ始める。このランケの直弟子に、『流竄の神々』を書いた同国人ハイネのような民衆信仰への感受性を期待するのはもともと酷なのだろう。
-------

なかなか厳しい批判ですが、もちろん、渡辺自身は「民衆の宗教意識」を深く理解し、「ハイネのような民衆信仰への感受性」を持っていることが前提となっている訳ですね。

『ドイツ歴史学者の天皇国家観』
http://bookclub.kodansha.co.jp/title?code=1000025666
ルートヴィヒ・リース(1861-1928)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9

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エドウィン・アーノルド『亜細亜の光』と島村苳三

2019-11-28 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月28日(木)13時24分26秒

ちょっと脱線します。
前々回の投稿で「これは他の引用文献についても言えることで、もちろん個々の文献に即して、その時期的・地域的限界その他の制約を念頭に置く必要はありますが、渡辺の総合的な評価は概ね妥当と思います」とか書いたばかりなのですが、渡辺のエドウィン・アーノルドの引用の仕方はちょっと問題ですね。
エドウィン・アーノルドは相当変わった人なので、「彼はリゴリスティックなプロテスタンティズムを嫌って、むしろ仏教に理想の宗教を見出した人だった」程度の紹介をした後で、その文章を引用すると、引用自体は正確であっても、結果的に読者は誤解するのではないかと思います。
まあ、「むしろ仏教に理想の宗教を見出した人だった」も間違いではないのですが、その理想化の程度が些か極端な人ですね。
参考までに、島村苳三訳『亜細亜の光』(岩波文庫、1940)の「解説」を引用しておきます。(p297以下)

-------
 この叙事詩の原名は THE LIGHT OF ASIA,or THE GREAT RENUNCIATION (MAHABHINISKRAMANA) で、訳せば『亜細亜の光、一名、大出家』である。
 作者エドヰン・アーノルド(Sir Edwin Arnold)は、一八三二年六月十日ケント州グレーヴズエンドに生れ、ロンドンのキングズ・コレヂ、オクスフオドのユニヴァシティ・コレヂを卒業して、一八五六年印度デツカン州プウナの官立梵語学校の校長に任命された。一八六一年デエリー・テレグラフの論説記者となり、一八七三年には編輯長となつて、四十余年の間同紙の為めに手腕を振ひ、一八八八年『印度帝国勲士』に叙せられ、一九〇四年五月二十四日に死んだ。晩年我が国にも滞留し、日本婦人と結婚し、『陸と海』、『ジヤポニカ』等我が国に関する著述がある。
 第一流の新聞人であつた彼れは、詩人としての抱負もかなり大きかつたらしく、一八九二年にテニスンが世を去つた時、桂冠詩宗の後任を命ぜられると期待してゐたといふことである。併しその著作としては、『亜細亜の光』を除けば、印度に関する二三の詩集と翻訳との他にはさして著名なものとては無く、ただ一八九一年に、此の詩に於ける釈迦の如く基督を描いた『世界の光』と題する叙事詩を書いてゐるに過ぎなかつた。此の第二の詩は、余りに釈迦を讃美した為めに基督教徒から買つた反感を和らげようとしたものであるらしく、作品としては無味平凡なものなのである。此の事実は、併し、『亜細亜の光』が如何にもてはやされたかといふ証拠にはなるだらう。実際此の詩は忽ち欧羅巴各国語に翻訳され、その刊本の数は英国に於ては六十、米国に於ては八十以上に上つてゐるといふことである。
 アーノルドが此の詩を書いた時代には、仏教に関する著述は、通俗書の皆無であつたことは云ふ迄もなく、学術的のものと雖も極めて稀であつた。尼波羅〔にぱある〕の駐箚官ブライアン・ホヂスンが一八二四年に発見した梵語の教典に就いてフランスの東洋学者ビユルヌーフが研究を始めたのが、仏教の起源に関する爾後の研究の基をなしたので、『方広大荘厳経』の原本たる『ラリタ・ヴィスタラ』の翻訳を彼れが公にする迄、釈迦は、基督、摩尼、ゾロアストル、ピタゴラスなどと同一人であると欧羅巴の人々に考へられてゐたのであつた。その後数年にして巴利語の経典が錫蘭島で発見され、スペンス・ハアディ、リース・ディヴィス等の学者の著書が世に現はれてから、仏教の真相は漸く明らかにされて来たのである。現今ですら、特に仏教を研究したことの無い普通の欧米人には、仏陀は偶像崇拝を事としてゐた人々に福音を伝へた予言者であつて、其の福音は今の世の西洋の人々をも裨益するものであると考へられてゐるらしく、現に欧米に設立されてゐる幾多の仏教会は、仏教の如何なる方面にその基礎を置いてゐるのかさへ明らかで無いと云はれてゐる。然るに、学者の間でさへ未だ十分な研究の遂げられてゐなかつた頃、却つてそれに先鞭して此の詩を書いたアーノルドの功績は確かに讃嘆に値するものである。彼れは主として小乗仏教の初期の記録に拠つて仏陀の生涯とその教化とを描かうとしたのであるから、大乗仏教の見地から批評を受くべきものの見出だされるのも当然のこととしなければならないのであるが、彼れの時代としては比較的正確な事を歌つたもので、西洋人にしてこれ程迄に仏陀を讃美したのは、誠に希有な公平な態度と云はねばならぬ。此の詩の序文に「東洋と西洋との相互の認識を深める一助ともなりたいと思ふ常住の願望に鼓吹されて」筆を執つたとあるのは、彼が衷心の声として聴かねばならぬと思ふのである。
-------

この後、島村苳三(本名盛助、1884-1952)が翻訳をするに至った事情について若干の説明がありますが、それは島村の出身地、埼玉県南埼玉郡宮代町の公式サイト内の記事に詳しいので、そちらに譲ります。

宮代町の偉人・島村盛助
http://www.town.miyashiro.lg.jp/category/10-29-0-0-0.html
島村盛助(9)
http://www.town.miyashiro.lg.jp/0000002723.html
第44回 作品紹介(28)『亜細亜の光』
http://www.town.miyashiro.lg.jp/0000002780.html
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渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その2)

2019-11-27 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月27日(水)22時46分47秒

そして渡辺はスミス主教とエドウィン・アーノルドの見解を次のように比較します。(p449以下)

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 スミスは言う。「平常の時は日本人の宗教的熱意は低調で、寺院はほとんど見捨てられている。毎日の勤行に信徒が出席することは稀で、ふつうは僧侶も勤行をとりやめる。特定の祭日がめぐってくると、大衆の迷信的な信心がことごとく呼びさまされる。こういった例年の祭礼には、厖大な群衆が寺の儀式につめかける。飲食と歓楽が彼らの宗教の少なからざる部分をなしている」。だがエドウィン・アーノルドは、こういった日本人の信仰のありかたを、格別怪しからぬとも劣等とも考えはしなかったようだ。彼はリゴリスティックなプロテスタンティズムを嫌って、むしろ仏教に理想の宗教を見出した人だった。彼が「彼らはあらゆる縁日や祭─すなわち彼らの"聖者の日"を、市〔いち〕や饗宴と混ぜあわせる」といい、さらに「宗教と楽しみは日本では手をたずさえている」というとき、それが非難ではなくむしろ讃嘆に近いのは、彼のそういう祭の描写がよろこびに満ちていることで知れよう。「彼らは熱烈な信仰からは遠い(undevotional)国民である。しかしだからといって非宗教的(irreligions)であるのではない」と彼がいうのは注目すべき言表だろう。つまり彼は、神に身心を捧げるような熱烈な信仰が好きではなかったのである。彼にとって望ましい宗教とは、日本人がその例を示しているような、生活のよろこびと融けあった、ギメ風にいえば心安く親しみのある宗教だったと言ってよかろう。
-------

ジョージ・スミス(1815-71)とエドウィン・アーノルド(1832-1904)は共に英国人ですが、その訪日時期はかなり離れていて、前者は大老・井伊直弼が水戸浪士らに暗殺された1860年(万延元)、後者はその約三十年後の1889年(明治22)です。
渡辺が引用しているエドウィン・アーノルドの Japonica(1891) は2003年に翻訳が出ており(岡部昌幸訳『アーノルド ヤポニカ』新異国叢書第III輯・第8巻、雄松堂書店)、私は未読ですが、出版元の宣伝文句は、

-------
・詩人、ジャーナリストである著者が奇妙な歴史観を抱いて、19世紀の日本を芸術的に分析。
・アーノルドの友人である画家のブルームが描いた挿絵画と共に、麻布を中心に繰り広げられる文明論。

https://myrp.maruzen.co.jp/press/sin_ikoku/v308-arno/index.html

という具合に些か微妙な雰囲気が漂っています。
感想は入手後に改めて書くつもりですが、渡辺の引用を見る限り、単なる東洋趣味のような感じがしないでもありません。
ところで、ウィキペディアの日本語版を見ると、エドウィン・アーノルドは、

-------
イギリス出身の新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、東洋学者、日本研究家、仏教学者、詩人。イギリス領インド帝国成立時にナイト爵(KCIE・CSI)に叙される。ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%89

などとありますが、率直に言って「ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる」は「独自研究」の類ですね。
エドウィン・アーノルドの作品で世間の評判を呼んだのは1879年刊行の長編叙事詩『アジアの光』( The Light of Asia)だけで、仏教の創始者、ゴーダマ・ブッダの生涯という当時としては斬新な素材をテーマにしていたために相当売れて、翻訳も多数出たそうです。
しかし、二匹目のドジョウを狙ってキリストを描いた1891年の『世界の光』(The Light of the World)は全然ダメだったようですね。
ウィキペディアの英語版では、『アジアの光』についても「その文学における永続的な位置づけは相当に不確実である」(its permanent place in literature is quite uncertain.)と冷ややかです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Edwin_Arnold

私も島村苳三訳『亜細亜の光』(岩波文庫、1940)をパラパラ眺めてみましたが、正直、あまり読書欲を刺激される内容ではありませんでした。
また、エドウィン・アーノルドは三回結婚し、三番目の奥さんは37歳離れた黒川玉(1869-1962)という日本人だそうで、日本文化に相当親しみは持っていたのでしょうね。

Tama Kurokawa
https://en.wikipedia.org/wiki/Tama_Kurokawa
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渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その1)

2019-11-26 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月26日(火)12時13分14秒

渡辺京二『逝きし世の面影』におけるラインホルト・ヴェルナーの引用と原著との比較を行ってみましたが、短い引用なので読者に多少の誤解を与える可能性はあるにしても、引用自体は正確でした。
これは他の引用文献についても言えることで、もちろん個々の文献に即して、その時期的・地域的限界その他の制約を念頭に置く必要はありますが、渡辺の総合的な評価は概ね妥当と思います。
そして、渡辺京二の分析は東大名誉教授・渡辺浩の「補論『宗教』とは何だったのか─明治前期の日本人にとって」(『増補新装版 東アジアの王権と思想』、東大出版会、2016)の次の見解とも整合的です。

-------
一 Religion の不在?

 徳川時代の末に日本を訪れた欧米人は、高い地位の日本人がいかなる religion も信じていないらしいことに気づき、口々にその驚きを語っている。
 例えば、ペリーの使節団は、「高位のよく教育を受けた人々はいかなる religion にも無関心で the higher and better educated are indifferent to all religions 、様々な空想的意見を抱いたり、広範な懐疑 a broad skepticism に逃げ込んだりしているようである」と報告している。
 ついで、アメリカの初代総領事、タウンゼント・ハリスは、その日記で、日本人には「religious な事柄に関するまったくの無関心」great indifference on religious subjects があり、「実のところ、高い身分の人々はみな無神論者だと思う」 I believe all the higher classes are in reality atheists.(May 27,1857) と断言している。
 また、『ニューヨーク・トリビューン』紙の記者でもあったアメリカ人貿易商、フランシス・ホールは日記にこう記している。

この国に上陸してから今に至るまで、日本人はその religion に何の尊敬も抱いていないという印象を私は受け続けている。(中略)教養ある上流の身分においては Among the learned and the better classes 、中国の官僚と学者同様に儒教 the system of Confucius が受け入れられていることになっている。しかし、実のところ、これらすべてについて不信仰である in reality there is a disbelief in all these forms 。現代ドイツにおいても、日本における実際上の無神論 practical atheism ほどに理性主義 rationalism が浸透しているとは、私には思えない。(March 25, 1860)

 同様に、イギリス初代公使、ラザフォード・オルコックによれば、教育のある階級 the educated classes は、霊魂の不滅やあの世での至福もしくは悲惨といった教義を蒙昧なる下層民のみにふさわしいものとしてあざけって scoff いた。
 そして、デンマークの海軍士官、エドゥアルド・スエンソンの回顧によれば、「日本人はこと宗教問題に関してはまったくの無関心で有名」であり、「聖職者には表面的な敬意を示すものの、日本人の宗教心は非常に生ぬるい。開けた日本人に何を信じているのかをたずねても、説明を得るのはまず不可能だった。」という。
 武士たちも、法事・墓参をし、時には神社にも参ったであろう。しかし、その「信心」の内容を問われれば、自分でも明確ではなかったのであろう(今の多くの日本人と同様に)。例えば福澤諭吉も、「我国の士人は大概皆宗教を信ぜず、幼少の時より神を祈らず仏を拝せずして、よく其品行を維持せり。」(『通俗国権論』一八七八年)と証言している。
 それ故、西洋を訪れた教養ある日本人は、逆に、西洋における religion なるものの繁栄に衝撃を受けた(「文明国」では「世俗化」が進んでいることに衝撃を受けたのではない!)。
 では、その religion なるものを、当時の指導的な日本人はどう理解したのだろうか。本稿では、その点に関し、従来見逃されていた面の解明を目指したい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52635c996a4905b98584c8fff72f46e8

ということで、「欧米人観察者の眼には、日本人はいたって宗教心の薄い民族にみえた」(p439)という渡辺京二の認識は、社会の上層、「教育のある階級」については渡辺浩の認識と完全に一致していますね。
そしてこの結論は、両渡辺氏が認識の基礎としている訪日外国人の諸記録を読んだ研究者には既に共通認識になっているものと思われます。
さて、私が『逝きし世の面影』に若干の違和感を感じるのは「教育のない階級」についての渡辺京二の認識です。
渡辺京二は、プロテスタント的な「とほうもない基準を適用されたとき、幕末・明治初期の日本人が非宗教的で信仰なき民とみえたのは致しかたもないことだった」(p445)と認めた上で、「しかし、彼らのうちのある者は、自分たちの宗教概念には収まらぬにせよ、日本人に一種独特の信仰の形態が厳として存在することに気づいていた」(p445)とし、富士山や日光・中禅寺湖の巡礼に言及する文献を紹介した後、オールコックの「にもかかわらず日本人が、表向きは宗教的目的を持つ巡礼に病みつきだということは、一方では、少なくとも下層の人びとの間にある程度生き生きした宗教感情が存在することの明らかな証拠と考えてよい」という文章を引用します。(同)

渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(その8)(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/79b3c3612790c77e4a1001f120444487
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5d0a0f2da2b028ff1e633554d554cc8d

そして、「徳川期において、日蓮宗と並んでもっともよく民衆を組織した真宗寺院の信仰の実態」を紹介した後、「しかし何と明るく楽しげな雰囲気であることだろう」と感想を記し、「スミス主教は迷信と現世利益と娯楽の混りあったような日本の宗教のありかたにもちろん批判的であったが、にもかかわらず、日本の寺社が聖域というかた苦しさを持たぬことに気づいた」(p447)として、「大人同様、子どもにとっても寺や神社は楽しいところだったのだ」(p448)と述べます。

宮永孝訳『スミス 日本における十週間』新異国叢書第III輯・第7巻
https://myrp.maruzen.co.jp/press/sin_ikoku/v307-smit/index.html
George Smith (Bishop of Victoria)
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Smith_(Bishop_of_Victoria)

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ラインホルト・ヴェルナー『エルベ号艦長幕末記』(その4)

2019-11-24 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月24日(日)10時05分57秒

続きです。(p68以下)

-------
 神道ならびに仏教の信者の他に、日本には第三の信者がある。彼らは合理主義者で、すべての上流の教養ある階層がこれに属しているが、偶像崇拝をひどく軽蔑し、見下している。そうはいうものの彼らは、神道、仏教という二つの国家宗教のいずれかを、法的に信奉しなければならないために、一応表面的には神道信奉の形式を守っている。
 仏教の僧侶も、神官も、民衆の間では、中国におけるように尊敬されておらず、また彼らの学問的素養もけっして高くはない。彼らの主な業務は、一日の特定の時刻あるいは特定の機会に、単調に祈りの言葉を述べることにつきる。およそ精気のない目つき、白痴のような顔つきをした彼ら僧侶や神官には、ただただ驚かされるばかりであった。とくに仏僧が神官よりもひどかった。少なくとも神官の場合は、家庭生活も味わっているし、それによって生活の目的もあるところから、彼らの精神力をいわばめざめさせておくことができたようだ。
-------

以上で、「三 仏教と神道」を全部紹介しました。
渡辺の「およそ精気のない目つき、白痴のような顔つきをした彼ら僧侶や神官には、ただ驚かされるばかりであった。とくに仏僧が神官よりもひどかった」と比較すると、「ただただ」と「ただ」の違いだけで、文章自体の引用は正確ですね。
細かいことを言えば、この文章の直前に渡辺は「僧侶の社会的地位は高かったが、人びとからは軽蔑されていた」と書いているので、これも『エルベ号艦長幕末記』からの要約引用かと思ったら、同書には直接対応する文章はありません。
強いて言えば「仏教の僧侶も、神官も、民衆の間では、中国におけるように尊敬されておらず」ですが、「軽蔑」とはニュアンスが異なりますね。
ま、そんな細かなことはともかくとして、「およそ精気のない目つき、白痴のような顔つきをした彼ら僧侶や神官」というヴェルナーの冷酷な評価も、ヴェルナーが虚無僧を神社の神職と混同し、神職一般が「物乞い」をしているものと誤解している点に鑑みると、ある程度割り引いて考える必要がありそうです。
実は「三 仏教と神道」は『エルベ号艦長幕末記』の他の章と比較すると、息抜き気味というか、割と気楽に書いている感じは否めません。
軍人ヴェルナーの本領は、例えば幕府が新設した海上砲台(お台場)を見て、死角となるのはここだから、ここに陸戦隊を三十人ほど上陸させれば制圧できる、みたいな記述に発揮されており、アメリカ公使館通訳のヒュースケンが殺害された後、プロイセン部隊の厳重な警戒の下で葬列が墓地まで進んだ様子などの描写も緊迫感が溢れています。
また、ヴェルナーは決して自身の個人的な見聞だけを綴っているのではなく、江戸・長崎に滞在したプロイセン使節団の多数のメンバーと緻密な情報交換を重ねており、集団的に収集した情報を整理・分析した結果が『エルベ号艦長幕末記』に反映されているのですが、政治・軍事・経済はともかく、宗教に関しては、いくら多数が観察したとはいえ、所詮、旅行者の感想に止まっているような印象です。
更に、虚無僧に関する誤解を見ると、ヴェルナーの知的好奇心は本物だとしても、1860年代初頭という時期はまだまだ異文化接触の初期段階であって、宗教のような微妙な問題については、民衆との意思疎通はかなり難しかったのではないかと思われます。
さて、仮に私が『エルベ号艦長幕末記』から重要部分を引用するとしたら、渡辺が引用する部分の直前、

-------
 神道ならびに仏教の信者の他に、日本には第三の信者がある。彼らは合理主義者で、すべての上流の教養ある階層がこれに属しているが、偶像崇拝をひどく軽蔑し、見下している。そうはいうものの彼らは、神道、仏教という二つの国家宗教のいずれかを、法的に信奉しなければならないために、一応表面的には神道信奉の形式を守っている。
-------

という記述を選びたいと思います。
虚無僧などと異なり、ヴェルナーは「第三の信者」に属する「上流の教養ある階層」の多くの日本人と実際に交流しているので、彼らが「偶像崇拝をひどく軽蔑」しているものの、建前として「一応表面的には神道信奉の形式を守っている」だけ、という観察は信頼できるものと思います。
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ラインホルト・ヴェルナー『エルベ号艦長幕末記』(その3)

2019-11-23 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月23日(土)12時44分47秒

続きです。(p66以下)

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 礼拝は、祈りと土下座の礼拝からなる。しかし両方とも、きわめて速やかに行なわれる。信者はどこの神社にも備えられている水盤で手を清め、拝殿の前に進み、神々の注意をひきつけるために三度鈴をならす。その後、信者は三度柏手〔かしわで〕を打ち、土下座し、そのままの姿勢で数秒間祈りをささげ、立ち上り、いくらかの銅貨を賽銭箱の中に投げ入れ、これで拝礼完了ということになる。一般に神道は明朗快活な性格をもち、すべての事物を明るい面から見る。おそらく、これによってずっと真面目な仏教に大勢の帰依者が出たのであろう。神道は彼らの宗教的な祝日を喜びの祭りと化しており、したがって、不安と苦労に悩む人間など彼らの信仰活動には不適当だとみなしている。これに反し、仏教の信仰は苦悩する人々を相手どっている。彼らの数は圧倒的に多く、慰めを求めて仏教を信じ仏寺に赴く。
 神道の神官は仏教の僧侶のように僧院に住まず、また不犯を旨としない。彼らは結婚し、家族とともに神社の傍に住んでいる。彼らは長髪を頭のてっぺんで毛総〔けふさ〕にまとめている。彼らの衣服はただ祭礼など宗教的行事のさいにのみ一般人とちがえている。行事のさいは、彼らは刺繍の入った襟と袖のついた一種の寛闊な長衣をまとい、毛髪の中に様々なアクセサリーをつけている。彼らは一部は信者が神社に寄進するお賽銭によって、一部はおみくじの収入や物乞いによって生活している。物乞いへ出かけるとき、彼らは白木綿製の特別の衣服をまとい、きわめてへりの広い、竹で編んだ帽子をかぶる。彼らは背中におみこしやあるいは神像を入れたふたのあいた箱をにない、体に帯をまきつけ、それに鈴をつるし、人家の前に来ると祈りをあげるとともにこの鈴を鳴らして彼らの来訪を知らせる。しばしば彼らは家族一同を引き連れて物乞いに出かける。そしておそらく特別の許可がえられているのであろう、これときまった祭日には街路は彼らで一杯になる。
-------

「神道の神官は仏教の僧侶のように僧院に住まず、また不犯を旨としない」とあるので、ヴェルナーは浄土真宗のように公然と妻帯を認める宗派があり、また、他の多くの宗派でも実際には妻帯を黙認していたことは知らないようですね。
物乞いの話は分かりにくいですが、「竹で編んだ帽子をかぶる」云々とあるので、普化宗の虚無僧と混同しているのでしょうね。

虚無僧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E7%84%A1%E5%83%A7

-------
 ときどきおみこしを鳴物入りでかついで行く行列にめぐり合う。しかし、こうした行列は荘重な趣がまったくない。日本人にもそうした印象を与える気配がなさそうに思われる。鳴物といっても規則的な間隔をおいて三度ずつたたく大太鼓と、恐ろしいほど不調和な何とも判然としないメロディーを奏でる三つの尺八からなっている。尺八奏者はいずれも顔面をまったくかくし、あごまで達するような深い円筒形のかごを頭からかぶっているが、本人はかごの編み目のすきまから外を見ることができる。わたしはすでにこうした風態の人が物乞いに出かけるのを何度も見てきた。だが、彼らの異様な衣装は何としても理解し難かった。しかも彼らは物乞いという業務にまったくそぐわない絹服を着用していた。後になってわたしは、彼らが生活費をかせぐための物乞いを内裏から許された没落武士たちであること、さらに彼らの正体がわからないようにあのかごをかぶっているということを聞いた。彼らはとりわけ、祭の行列や、結婚式、葬式に参加した。そしてちょうどわが国で、おずおずした貧者に普通もっとも多額の施物が恵まれるように、こうした乞食武士はもっとも同情される人種であるように思われる。
-------

うーむ。
「尺八奏者はいずれも顔面をまったくかくし、あごまで達するような深い円筒形のかごを頭からかぶっている」とあるので、やはり虚無僧のことを言っているのでしょうが、「彼らはとりわけ、祭の行列や、結婚式、葬式に参加した」云々には何らかの混同がありそうな感じがします。
ということで、ヴェルナーの観察は1860年代初頭の比較的短い期間のものであり、見聞の範囲は江戸と長崎だけという地域的な偏りがあり、更に職業軍人であるヴェルナーの観察の力点は日本の政治・軍事情勢に置かれていて、宗教についてはそれほど切実な関心を持っていない、という問題がありますね。
さて、この後に「およそ精気のない目つき、白痴のような顔つきをした彼ら僧侶や神官には、ただ驚かされるばかりであった。とくに仏僧が神官よりもひどかった」が登場しますが、その直前に重要な指摘があります。
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ラインホルト・ヴェルナー『エルベ号艦長幕末記』(その2)

2019-11-23 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月23日(土)11時21分27秒

『エルベ号艦長幕末記』の全体の構成は、

-------
一 長崎
二 江戸
三 仏教と神道
四 生活と風俗
五 文化と娯楽
六 刑罰と軍隊
七 産業と貿易
八 長崎再訪
九 条約締結交渉
訳者あとがき
-------

となっていて、問題の一文は「三 仏教と神道」(p64~69)の最後に出てきます。
冒頭から丁寧に紹介してみます。

-------
 日本の都市の中で、ロマンティックなたたずまいを示しているため、つねに外国人の注意をひきつける建物は神社仏閣である。日本の全国地図を見ると、社寺の数は全体で一四万九二八〇あり、そのうち二万七〇〇〇が神道あるいは古来の日本の宗教の建物であり、残りが中国を経て日本に渡来した仏教の建物である。前者は宮〔みや〕、後者は寺〔てら〕と名づけられている。そのうち仏閣の場合は主として四つの宗派に従って四つの種類にわかれている。いずれにせよ、神社、仏閣が各地方のもっとも美しい場所が選ばれそこに建てられていること、まわりの環境が多少悪くとも、人工的な美しさによって補われていることがたがいに共通している。庭園という小空間についていえることが、社寺の境内という大きな場所についてもあてはまる。しかし社寺の中では一切矮小化は行われず、すべてが自然のままの大きさに保たれている。それというのもここでは、空間の制限などまったく必要ないからである。眼下の平野あるいは海を美しく見渡すことができる丘、人工的に満開の華麗な花を咲かせる叢林と並木道、様々に色づく葉でおおわれた樹木、竹林、大地と水平に枝をのばす巨大な唐檜〔とうひ〕、高く聳える杉、さらさらと流れる小川、単色の小石ばかりを優美に敷きつめた小道、豊かな畑、いかにも田園風な孤独な静けさ─こういった事物こそ社寺が求める不可欠な要素である。仏閣はとくに堂々たる建築様式でつくられ、建物が高く、広々していること、それが芸術的な彫刻や金めっきの装飾によって、他のすべての建物よりも立派に見える。日本の仏閣は中国のそれとあまりちがっていない。そこでわたしは詳細な記述をひかえることにするが、ただ、ずっと親しみやすく、かつ清潔である。日本の仏教徒は隣国の中国から礼拝は受容したが、不潔さは輸入しなかった。日本の仏閣の床には畳が敷きつめられ、祭壇、仏像はいずれもきらびやかに彫刻され、金めっきされている。そして、すでに中国でもわたしはカトリックと仏教の習慣の類似の多さに驚かされたものだが、こうした類似は日本の寺院の中で一層顕著に現われている。仏像の代わりに聖者像を置いてみるがよい。そしてもし仏閣の中に十字架を飾れば、まさにカトリック教会の内部そのものが再現される。
 仏教は西暦五五二年、日本に渡来し、その後まもなく強力に広がっていったため、数百年後には、単に許容されたばかりか、公認の宗教、国家宗教となった。仏教の宗教的首長の一人は、京都に住み、すぐれた宗教者を聖徒に列することまではしないまでも、ちょうどローマ教皇と似たような権力をもっている。彼は仏教の僧侶が生活しているもろもろの僧院の院長を任命する。しかし彼やこれら僧院長の影響力をひたすら宗教的な事物に限定させようと、特に配慮している幕府にこうした任命の裁可を仰がねばならない。
-------

いったん、ここで切ります。
「社寺の数は全体で一四万九二八〇あり、そのうち二万七〇〇〇が神道あるいは古来の日本の宗教の建物」の出典は明記されていませんが、神社の割合が少ないような感じもしますね。
ま、「建物」に着目した分類なので、それなりの規模の建物を持つ神社に限定した場合はこうした数字になるのかもしれませんが。
また、「仏閣の場合は主として四つの宗派に従って四つの種類にわかれている」とありますが、その四つの具体名は出ていません。
「宗教的首長の一人」で、「京都に住み」、「ローマ教皇と似たような権力をもっている」というのは浄土真宗っぽいですね。

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 神社が仏閣と共通しているのは、美しい境内だけである。その他の点では、神社は仏閣と較べまったく見ばえがせず、より小さく、しかも装飾がずっと少ない。神像などもなく、ただ拝殿の奥に神社で祀られている神の象徴である鏡がかかっているだけである。神道の教えによれば「赤面せずしてこの鏡を見れる者のみが神前に歩みより、礼拝する資格がある」。
 神道とは、カミの教えであり、カミと同義語である。カミとは天の居住者であり、現在の天皇家の先祖、日本の最初の世俗的支配者、教化者である神武天皇のさらに先祖にあたる神話的な神々の王朝を表わしている。神武天皇の先祖にあたる主神は、天照大神である。この女神は西日本の伊勢に生まれ、多くのすばらしい英雄的な行動をしたあと伊勢で死んだ〔著者がどこでこのようなまちがった情報を得たかわからないが、興味ある記述なのでそのまま翻訳しておく〕。この女神の故郷に伊勢神宮が建立された。これは日本全国にある似たりよったりの神社の完全な原型である。神道の祭式では、神々をつくり上げることは一般に全く鷹揚である。すべての英雄や聖者は、亡くなれば手厚く神にまつりあげられる。そればかりか仏陀もこの栄誉を享受しており、しばしば天照大神と同一視される。かくして日本では一般的にほとんど分離できないような宗教的理念の混合が起こる。しかしポルトガル人の渡来まで、宗教的迫害が一切なかったのも事実である。あらゆる神は、日本人の考え方に従えば、それぞれ特定の楽園を管理運営している。そこで第一の神は空中、第二の神は海底、第三の神は太陽、第四の神は月、そして第五の神は星の中に居住しているという具合になっている。しかし信者はいずれも自分にもっとも気に入る神を探し求める。そのようなわけで、普通ではどうしても説明がつかないような多数の神社が出現する。
-------

途中で訳者の感想が唐突に出てくるので驚きますが、できれば注記にしてほしいですね。
「神道の祭式では、神々をつくり上げることは一般に全く鷹揚である」、「日本では一般的にほとんど分離できないような宗教的理念の混合が起こる」といった指摘は興味深いですね。
また、「あらゆる神は、日本人の考え方に従えば、それぞれ特定の楽園を管理運営している」云々はギリシャ神話っぽい感じもします。
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ラインホルト・ヴェルナー『エルベ号艦長幕末記』(その1)

2019-11-22 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月22日(金)09時47分49秒

渡辺京二『逝きし世の面影』の検討は五、六回くらいの投稿で済ませようと思っていたのですが、少し長くなってしまいました。
以前、この本を読んだときは、「第十三章 信仰と祭」の後半のしみじみ、ほのぼのとした数々の良い話は自分の関心と関係ないので読み飛ばしていたところ、今回、改めてじっくり読んでみると渡辺に対する若干の疑問も浮かんできます。
その点は後で述べるとして、そもそも渡辺の原著の引用の仕方が適切なのかを少し確認しておきたいと思います。
何しろ渡辺は膨大な文献を渉猟しており、私が確認できた範囲は僅かなのですが、結論として、それほどおかしな引用はなさそうですね。
ただ、ごく短い引用の場合、やはり読者に誤解を与える可能性はなきにしもあらずです。
その例として、「およそ精気のない目つき、白痴のような顔つきをした彼ら僧侶や神官には、ただ驚かされるばかりであった。とくに仏僧が神官よりもひどかった」(p453)という刺激的な一文と原著とを比較してみます。
この文章を書いたのはプロイセンの海軍軍人、ラインホルト・ヴェルナー(1825-1909)で、引用は金森誠也・安藤勉訳『エルベ号艦長幕末期』(新人物往来社、1990)からなされています。
日文研データベースによれば、原著は、

Die preussische Expedition nach China, Japan und Siam in den Jahren 1860, 1861 und 1862 : Reisebriefe (Reinhold, Werner, Kapitan)
「1860,1861,1862年の中国,日本,シャムへのプロイセン遠征隊:旅行便り」

http://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/en/detail/?gid=GK061001&hid=2820

というものですが、リンク先写真の1873年版は第二版で、初版は1863年、即ち遠征直後に出ています。
「第一版への序文」によれば、

-------
 一八六〇年初頭、わたしがエルベ号艦長として東アジアへの遠征隊に合流するように命ぜられたとき、ライプツィヒのF・A・ブロックハウス出版社は、わたしに、「ドイッチェ・アルゲマイネ」新聞に東洋におけるわたしの体験と観察について一連の報告記事をのせる気もちがないかとたずねてきた。この名誉ある申込みは、大歓迎であった。それというのも、わたしは海の男としての長い生涯において、外国の土地と民族を批判的な目で観察することに、つねに大きな喜びを見出してきたからである。それに、ドイツの大衆に東洋事情を説明するという試みは、今回の遠征の目的とも一致しており、遠征隊の意図を促進することができるからである。そこでわたしは、遠い彼方から規則的に報告を送ったが、これは「中国および日本へのプロイセン遠征隊員の手紙」として、一八六一年から一八六二年にかけ、前述の新聞に掲載され、読者たちからも好意的に受け入れられた。
 一八六二年、帰国後、わたしは出版社から、この旅行中の手紙を独立した一冊の著作にまとめて欲しいという希望が多方面の人々から伝えられていることを知らされた。わたしの旅行記の一部が公開されただけでも、少なくともドイツにとって利益になるもろもろの経験を含んでいることからしても、わたしはこの希望にそうことにますます乗り気になった。それにわたしはしばしばきわめて変化のはげしいまったく奇妙な状況の下で書いた旅行中の手紙をもっと精密な視点の下で再吟味したいとの要求を自分でも抱いていた。
-------

といった事情があったそうです。(p3以下)
「プロイセンの遠征の主目的は、中国、日本およびシャムと通商条約を締結すること」(p5)で、遠征隊は「艦隊司令官ズンデヴァル海軍大佐指揮下の高速砲艦蒸気船(コルヴェット艦)アルコナ号、ヤッハマン海軍大佐指揮下の帆船フリゲート艦テティス号、レーツケ第一級海軍少尉指揮下のスクーナー、フラウェンロプ号(この船は残念ながら、日本近海で乗員もろとも失われた)、そして私の指揮下の運送船エルベ号」(p6)の四隻で構成され、四隻合計で砲72門、乗員825名、更に「外交使節団、各種専門家、学者、芸術家」19名が加わって総員844名という大規模なものですね。

Reinhold von Werner(1825-1909)
https://en.wikipedia.org/wiki/Reinhold_von_Werner
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渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(その9)

2019-11-20 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月20日(水)11時21分9秒

続きです。(p447以下)

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「突然、声がやんだので、今日のお勤めは終わったのだと私は思った。だが間違いだった。しばらくして、これまでのお勤めの声とはまったく異なる楽しげな声があがるのが聞えた。そして私は好奇心を満たすために、もう一度会衆を訪ねる気になった。お寺の前庭に入ると、奇妙な光景が眼前に現れた。さきほどまで敬虔な祈りを捧げていたのとおなじその部屋で、そしておなじその会衆が、いまや酒を飲んでいた。わき起る大きな笑い声や陽気な大騒ぎからして、早くも利き目が現れているらしかった。私が戸口にいるという情報はすぐ部屋中に伝わった。よろこびの叫び声とともに、私は会衆から迎え入れられた。酒に関する限り、この人たちのもてなしのよさは限度がなかった。いろんなグループから、いっしょにやろうという誘いがかかった。……定められた刻限に僧侶が衣を着て現われると、飲み残しの酒は片づけられ、会衆の顔つきは陽気から厳粛へと一変した。もっとも何人かの顔は赤くなっていたけれど。そしてお勤めがまた始まった」。
-------

このロバート・フォーチュンの記録について、渡辺は、

-------
 徳川期において、日蓮宗と並んでもっともよく民衆を組織した真宗寺院の信仰の実態はこのようなものだった。しかし何と明るく楽しげな雰囲気であることだろう。寺詣りは「後生の一大事」(蓮如)のためであるのみならず、このように村人どうしの心が融けあうための行事だったのだ。
-------

と感想を述べます。
厳密に言えば、1861年にロバート・フォーチュンが「神奈川の寄宿先に隣接する小さな寺」で見たこの光景は、浄土真宗の寺院に限っても一体どこまで一般化できるのかが問題になり、地方ごとに慎重な検討が必要となるはずです。
しかし、かつては戦国大名ですら畏怖した浄土真宗も、太平の世が続く中で相当に柔らかく変質してしまったことは間違いないようですね。
さて、この後、渡辺はオールコック流の「とほうもない基準」を適用されたらとても「宗教」とは呼べないような、民衆世界のほのぼのとした光景の描写を5ページ半ほど続けた後、次のように述べます。(p455以下)

-------
 日本人の宗教心を仏教や神道の教義の中に求めたり、またそれら宗教組織の活動のうちにたずねたりするのは無駄な努力というものだった。僧侶の社会的地位は高かったが、人びとからは軽蔑されていた。「およそ精気のない目つき、白痴のような顔つきをした彼ら僧侶や神官には、ただ驚かされるばかりであった。とくに仏僧が神官よりもひどかった」とヴェルナーは言う。しかし、そのような無気力な仏教界を改革しようとする新世代の僧侶の場合でさえ、彼らの活動は日本人の基層的な宗教感情といささかの関わりももたなかったのだ。バードは京都の西本願寺で赤松連城(1841~1919)と会い、日本の宗教の現状について彼の意見を徴した。赤松は明治五年に英国に留学した改革派の学僧である。「迷信的な慣習は存在するけれども、私には日本人は最も非宗教的な国民としか思えない」とバードが水を向けると、赤松は答えた。「孔子の哲学は以前から上流階級にひろまっていて、教育ありかつものを考える人間は生命の不滅を否認し、あなたのいうところの唯物主義者になった。彼らの不信仰は次第に平民にも及んでいる。だから日本には、迷信はいまだに多く存在するけれども、真の信仰はほとんど存在しないのだ」。「あなたの同胞のうちに最もひろがっている悪徳は何だと思うか」とバードが問うと、赤松は「虚偽と好色」と答えた。この問答で興味あるのは、赤松の宗教に対する判断基準が欧米人のそれとまったく一致している点である。彼はバードに対して「仏教は復活するでしょう。それは人びとに純潔を教えますからね。仏教は高潔な行いの目的はやすらぎであることを示すのです。純潔はやすらぎに至る大道です。仏教の道徳的な教えはキリスト教のそれより高いのです」と応戦これつとめるが、こういう言辞は彼の念頭にある宗教理念がまったくキリスト教モデルに従うものであることを示すと同時に、彼が日本民衆の信仰世界にいささかの理解ももたず、それを軽蔑していたことを暴露している。
 古き日本人の宗教感情の真髄は、欧米人や赤松のような改革派日本人から迷信あるいは娯楽にすぎぬものとして、真の宗教の埒外にほうり出されたもののうちにあった。【後略】
-------

この後、渡辺は「日本人の基層的な宗教感情」、「欧米人や赤松のような改革派日本人から迷信あるいは娯楽にすぎぬものとして、真の宗教の埒外にほうり出されたもの」の中にあるという「古き日本人の宗教感情の真髄」を求めて更なる探究を続け、「ロシア正教日本大主教のニコライ」が「欧米のプロテスタント宣教師とは違って、日本庶民の地蔵や稲荷に寄せる信仰に、キリスト教の真髄に近い真の宗教心を見出していた」(p455)事例などを紹介します。

赤松連城(1841-1919)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E9%80%A3%E5%9F%8E
ニコライ (日本大主教、1836-1912)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E4%B8%BB%E6%95%99)
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渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(その8)

2019-11-19 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月19日(火)12時15分4秒

『逝きし世の面影』に戻って、浄土真宗の関係だけを少し見ておきます。
石牟礼道子とともに「水俣病闘争」を行なっていた渡辺にはやはり独自の民衆観があって、訪日外国人が見た日本の武士階級、知識層の宗教への無関心、無神論者ぶりを縷々紹介した後、記述のトーンを変えて、民衆の宗教感情を探って行きます。(p445以下)

-------
 しかし、彼らのうちのある者は、自分たちの宗教概念には収まらぬにせよ、日本人に一種独特の信仰の形態が厳として存在することに気づいていた。チェンバレンが『日本事物誌』の「宗教」の項で、日本人は「気質としては信仰心が薄い(undevotional)」と書いたことは、ハーンの激怒を招いた。ハーンが日本庶民の信仰について独自の考察を行ったのは周知の事柄である。だがこの際、特異な思想家であるハーンにはご遠慮を願おう。
-------

ということで、1883年に日本を再訪したW・G・ディクソン(1854-1928)が見た富士登山の巡礼者の様子などを紹介し、ついで、

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 オールックも先の引用の直後に、「にもかかわらず日本人が、表向きは宗教的目的をもつ巡礼に病みつきだということは、一方では、少なくとも下層の人びとの間にある程度生き生きとした宗教感情が存在することの明らかな証拠と考えてよい」と認める。巡礼だけではない。W・G・ディクソンは京都で再建成ろうとする東本願寺の偉容を観た。これは信者の自発的な寄付によるもので、拠金は二千万円にのぼるといわれている。正門では地搗きが行われていた。ひとつは機械によるものだったが、もうひとつには三十人ばかりの男がロープにとりついていた。彼は信者たちがロープを曳く機会にあずかろうとしている様子に注目した。正門の傍らには、直径三インチの大きなロープが、高さ三フィート、さし渡し六フィートのコイル状に巻かれて、ふたつ置かれていた。これは女の信徒たちが捧げた黒髪でできたロープなのである。
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ことを紹介します。

William Gray Dixon(1854-1928)
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Gray_Dixon
W・G・ディクソン
https://travelsinshizuoka.wordpress.com/%E8%91%97%E8%80%85%E5%90%8D/w%E3%83%BBg%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3/

そして、更に植物学者、プラント・ハンターのロバート・フォーチュン(1812-80)が見た浄土真宗の寺院の様子を要約して引用します。(p446以下)

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 一八六一(文久元)年六月の終りから七月一日にかけて、フォーチュンの神奈川の寄宿先に隣接する小さな寺は参詣者で溢れた。その十分の九は女だった。顔の赤い娘たちを連れた陽気な農婦たちに交って、華やかな衣装をまとい、顔を白く塗った茶屋女の姿も見られた。彼女らはそれぞれ座布団に座り、前に小さな鉦を置いていた。僧が読経を始めると、全会衆が加わり、鉦を叩き「南無、南無……」とフォーチュンには訳のわからぬ文句を唱えた。お勤めは一時間あまり続くが、休みには彼女らは元気づけに酒を一杯やるのだった。七月二日、また鉦を鳴らす音と「南無、南無」の声が聞こえたので、彼は様子をのぞきに行った。二、三分いて自分の家に帰ろうとすると、全会衆があとについて来た。思うに、彼の訪問へのお返しのつもりであるらしかった。中にはやっと歩けるぐらいの老爺も何人かいたが、大部分は女と子どもだった。女どもはフォーチュンの衣服や本や標本を調べにかかった。蝶や甲虫や陸貝がおどろきと疑問の的となった。この人は何をする人なのかという訳である。少し知恵のありそうなのが「薬を作るのさ」とのたもうた。歳はいくつだろう、結婚はしているのか。「疑いもなく、私を種にして、気のいい冗談が彼女らの間に飛び交っていた」。「わたしが嫁さんになってやろうかね」などと言い出すものもいた。お勤めが残っているのを思い出して、彼女らはお辞儀をたっぷりして帰って行った。勤行の声がまた聞え出した。
-------

途中ですが、いったんここで切ります。

ロバート・フォーチュン(1812-80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%B3
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渡辺京二『父母の記─私的昭和の面影』

2019-11-19 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月19日(火)10時36分40秒

渡辺京二は『逝きし世の面影』で有名になるまでは熊本の地方文化人で、知る人ぞ知る、という存在だったようですね。

渡辺京二(1930-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%BA%AC%E4%BA%8C

私も渡辺に注目したのは非常に遅くて、同書が2005年に平凡社ライブラリー版で出てから暫く後だったように記憶しています。
渡辺は学歴もちょっと変わっていて、旧制五高を経て法政大学社会学部卒という人は珍しいと思いますが、『父母の記─私的昭和の面影』(平凡社、2016)を見たところ、旧制五高は入学して一学期通っただけで結核が発症し、翌年から四年半療養所で暮らすことになって中退したのだそうですね。
結核療養所を出たときには同級生はみんな卒業しており、また、五高入学直前に入っていた共産党の政治運動や文芸サークルの活動が忙しくて今さら大学など行くつもりもなかったところ、婚約者の父親が熊本県庁でそれなりの地位にあった人で、せめて大学だけは出てくれと懇願されたために、「仕方なく私は法政大学の通信教育部に入り、それじゃしょうがないというので一九五九年には社会学部に転部」(p63)、一年間だけ東京に出たものの結核が再発して熊本に帰り、「第四学年はまったく通学せず試験だけ受けて、大学を一九六二年に、普通より九年も遅れて形だけ卒業した」(p70)のだそうです。

-------
父母の記─私的昭和の面影

家族との思い出、引き揚げの記憶、水俣病闘争、新日本文学から戦後思想史まで――思想史家・渡辺京二が自身の昭和を語る回想記。
https://www.heibonsha.co.jp/book/b239701.html

保坂正康「愛惜込め、家族の実像赤裸々に」
https://book.asahi.com/article/11589675

1965年に熊本に戻ると、渡辺は地方文化雑誌を出したり、学習塾を経営したり、「水俣病を告発する会」の運動をしたりしつつ執筆活動を続け、『北一輝』(朝日新聞社、1978)などは相当の社会的評価を受けたものの、有名になったのはやはり『逝きし世の面影』(葦書房、1998)を出してからですね。
ネットで読める同書の書評には「松岡正剛の千夜千冊」がありますが、松岡は「第十三章 信仰と祭」には全く言及していません。
その理由は分かりませんが、松岡は廃仏毀釈に悲憤慷慨するタイプの「知識人」の代表格なので、「第十三章 信仰と祭」に描かれた明治維新当時の人々の宗教観と、自身の廃仏毀釈への見方との整合性が取れないのかもしれないですね。

松岡正剛の千夜千冊・1203夜・「渡辺京二 逝きし世の面影」
https://1000ya.isis.ne.jp/1203.html

松岡正剛氏の悲憤慷慨(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a80fe944a26ac2247dabaf7b3eadd7a
松岡正剛氏の悲憤慷慨(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7dcfc06e6340821f7355bf5a32f3b089
神仏分離をめぐる悲憤慷慨の連鎖
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f5b478b31f88f143e12cc1ea9951e53

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渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(その7)

2019-11-18 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月18日(月)10時19分40秒

続きです。(p444以下)

-------
 「"宗教─キリスト教徒が知るような宗教において不可欠とされるものを伝え保存すること、それによって心の最も高い願望と、知性の最も高貴な着想とをかき立てること、迷信の力を削ぎ寛容を説くにとどまらず、生きた信仰と行動への正しい動機、つまりは人間性に許された最高のものを最優先の地位につけること"─これが文明であるとするならば、日本人は文明をもたない」(23)。このように言うときオールコックはキリスト教文明以外の文明のありようを頭から否定しているのではない。だが、彼がキリスト教文明を最高の文明と考えていたのは確実である。そしてもし宗教がこのようなものとして定義されるならば、日本の宗教がおよそ宗教の名に値せぬ迷信と娯楽の混合物に見えるのはあまりに当然だった。オールコックだけのことではない。当時の欧米人観察者の大多数は、神との霊的な交わりによって、個人の生活と社会のいとなみにより高い精神的水準がもたらされるものとして、宗教を理解していたのである。すなわちそれは人間性の完成と道徳的進歩という十九世紀的理念に浸透された宗教観だった。そんなとほうもない基準を適用されたとき、幕末・明治初期の日本人が非宗教的で信仰なき民とみえたのは致しかたもないことだった。
-------

注記に文献名を当て嵌めると、

-------
(23) Alcock,Ratherford. The Capital of The Tycoon:A Narrative of a Three Years' Residence in Japan, vol2 (London, 1862),p.265
邦訳書は『大君の都』下巻(岩波文庫、1962)、p157~8
-------

となります。
以上で『逝きし世の面影』の「第十三章 信仰と祭」全22頁のうち、最初の6頁分ほどを引用しました。
既に紹介した平山昇氏の『初詣の社会史』で、

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 近世後期から明治前半の日本は儒学的教養が最も浸透した時期であった。まず近世後期に、当時の知識人の主体であった儒者や武士のなかで思考の脱呪術化と非宗教化が進行し、彼らは宗教的なものを「愚民」向けのものであると見なした。当然、彼らは寺社参詣とは疎遠であった。それゆえ、一八一〇年代に囚われて日本に滞在したゴローヴニンが「寺社なんかに一度も詣ったことはないといったり、宗教上の儀式を嘲笑したりして、それをいくらか自慢にしている」武士階級のことを書き留め、またあるいは、幕末に日本を訪れた英国人が箱館(現、函館)の寺院で「役人とか地位のある男性の姿はめったに見られ」ないことを観察したように、西洋から日本にやってきた人々が日本の知識人層の宗教に対する冷淡な態度について記した事例は枚挙にいとまがない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e1e0c2a00ea3b33c08537a46bb2ce4c

とあるのを読んだ人でも、まさかここまで、と思った人は多いのではないかと思います。
渡辺京二氏は、この後、記述のトーンを変えて、日本の「宗教」についてもう少し微妙なニュアンスを感じ取った訪日外国人の記録を紹介されて行くので、全22頁を読んだ後にはそれほど殺伐とした印象は残らないのですが、人数の上からはそうした繊細な分析をした外国人は少数ですね。
さて、前々回の投稿で「religion」の訳語については数多くの案が出され、明治十年代以降、「宗教」に固定されて行くことを少し書きましたが、訳語が固定された後も、「宗教」概念の内実についての混乱は相当長く続きます。
「心の最も高い願望と、知性の最も高貴な着想とをかき立てる」云々といったオールコック流の「とほうもない基準」を適用されたら日本に「宗教」は皆無となってしまいそうですが、そこまで言わなくても、何らかの超越的なものに対する信念(ビリーフ)と呼べるものが「宗教」であって、単に儀礼(プラクティス)を行なっているようなものは「宗教」ではない、という考え方は相当有力でした。
というか、十九世紀の段階では、むしろそちらが常識的な「宗教」概念であり、ニ十世紀に入って、欧米の宗教学の最新の動向を踏まえた姉崎正治を始めとする宗教学者によって「宗教」概念が拡大して行ったことが、今日では明らかになっています。
そして、このあたりが「国家神道」に関する判例に関与した裁判官や多数の憲法学者の認識と、近時の宗教学・歴史学の研究水準が大きく乖離していることを理解するためのひとつのポイントとなります。

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渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(その6)

2019-11-17 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月17日(日)20時21分51秒

続きです。(p443以下)

-------
 しかしこれは欧米人にとって、たんに寛容というにとどまらぬ意味を持つ出来ごとであったに違いない。聖職者自身が自己の守護する聖域を異教の神に譲り渡して何の苛責も疑いもおぼえぬというのは、いったいいかなる宗教であるのか。それはそもそも宗教の名に値するのか。寛容とは命をかけるべき信仰をもたぬことの結果ではないのか。そのような疑念は必ず彼らをとらえたに違いない。メーチニコフは東京外国語学校に奉職中、一学生からニコライ露語学校へ転校したいという申出を受けた。「だがあそこへ行ったら、洗礼を受けて正教徒にならねばならないよ」とメーチニコフが言うと、少年は「日本の少年に格別の魅力を与えるあの憂いを含んだ愛くるしい表情」で答えた。「洗礼されるのを、ぼくは見たことがあります。夏ならまだ我慢できますけど、冬じゃたまりませんね」。亡命ナロードニキであるメーチニコフは言う。「あきらかに、彼の頭のなかには、冷水に対する恐怖しかなかったのだ。宗教の方面で、日本人はかくも無関心であればこそ、彼らの前進的運動も容易なのである」(20)。しかし、彼自身無信仰の人であるメーチニコフからかく評価された少年は、信仰というものに自己の生命のみならず社会の根幹を見出していたヴィクトリア朝人やピューリタン的な米人からすれば、日本人が宗教の第一義を知らず、それを単なる便宜的な社会慣習とみなしていることの動かぬ証拠であったろう。
-------

注記に文献名を当て嵌めると、

-------
(20) メーチニコフ『亡命ロシア人の見た明治維新』(講談社学術文庫、1982)、p109~10
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となります。
アナーキストで無神論者のレフ・メーチニコフは語学の天才でもあり、ジュネーブで大山巌と知り合ったことをきっかけに来日した人です。
東京外国語学校で教師をしていたのは1874年から76年までですね。
正教会では洗礼も聖水を満たした水槽に体を浸す「浸礼」で、確かに冬場には大変そうです。

レフ・メーチニコフ(1838-88)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%95

-------
 全国を通じてどんな僻地山間にも見受けられる厖大な数の寺社と住民の関係、とくにその祭礼のありかたを一見したとき、彼らの喉を突いて出たのは「日本では宗教は娯楽だ」という叫びだった。オールコックは言う。「宗教はどんな形態にせよ、国民の生活にあまり入りこんでおらず、上層の教育ある階級は多かれ少なかれ懐疑的で冷淡である。彼らの宗教儀式や寺院が大衆的な娯楽と混じりあい、それを助長するようにされている奇妙なやりかたこそ、私の確信を裏づける証拠のひとつである。寺院の境内では芝居が演じられ、また射的場や市〔いち〕や茶屋が設けられ、花の展示、珍獣の見せ物、ベーカー街のマダム・タッソー館のような人形の展示が行われる。こういった雑多な寄せ集めは、敬虔な感情や真面目な信仰とほとんど両立しがたい」(21)。むろん彼は浅草のことを言っているのだ。バードはもっと簡潔に断定する。「私の知る限り、日本人は最も非宗教的な国民だ。巡礼はピクニックだし、宗教的祭礼は市〔いち〕である」(22)。彼女は寺院が広大な敷地を所有していることから、「かつては東京にも、敬虔な精神が存在したに違いない」と言っている。しかし徳川期から、巡礼は物見遊山とセットされていたし、祭礼に市はつきものだったのだ。
-------

注記に文献名を当て嵌めると、

-------
(21) Alcock,Ratherford. The Capital of The Tycoon:A Narrative of a Three Years' Residence in Japan, vol2 (London, 1862),p.303
邦訳書は『大君の都』下巻(岩波文庫、1962)、p204
(22) Bird, Isabella Lucy, Unbeaten Tracks in Japan:An Account of Travels on horseback in the Interior,vol2,p.181
邦訳書では省略。
-------

となります。
ラザフォード・オールコックは英国の初代駐日総領事ですね。
「ベーカー街のマダム・タッソー館」とありますが、ウィキペディアによればマダム・タッソー館は1835年の設立時にはベイカー街にあって、1884年に現在地に移転したのだそうです。
オールコック『大君の都』の原著は1862年刊ですから、確かに「ベーカー街のマダム・タッソー館」で正しい訳ですね。

ラザフォード・オールコック(1809-97)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF
マダム・タッソー館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%BC%E9%A4%A8
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渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(その5)

2019-11-17 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月17日(日)11時30分41秒

訪日外国人の記録を読む際に注意しなければならないのは、日本人との応答において「宗教」という概念について本当に意思疎通ができていたのか、ということですね。
英語圏の人であれば、"religion"という概念を前提に、日本人に対して「お前の"religion"は何か」と聞いているはずですが、"religion"の訳語が「宗教」にほぼ固定されたのは明治十年代に入ってからだそうです。(磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜』、p36)
それ以前はというと、最初に翻訳の必要が生じたのは日米修好通商条約(1858)の時で、この時以来、外交文書ではほぼ「宗旨」が用いられたものの、当時の啓蒙知識人による訳語は様々で、「宗門」「信教」「宗旨法教」「神道」「法教」「教法」「教門」「聖人の道」「聖道」「奉教」などが考案されたそうです。(同、p34)
従って、明治十年代以降はともかく、それ以前は通訳がどのように"religion"を訳したのかもはっきりしないことが多いのでしょうね。
ただ、そうはいっても、意思疎通に不自由な事態が生じた際には、仏教を信じるか、浄土真宗の門徒か、といった具合に、もう少し具体的なレベルに落として応答を重ねたでしょうから、丸っきり頓珍漢なやり取りにはならなかっただろうと想像されます。
さて、続きです。(p442以下)

-------
 スエンソンは「諸宗派の間にも驚くべき寛容が成立して」いるというが、これはイエズス会の宣教師以来定説となってきた陳腐な所見だろう。しかし、それはやはり驚ろきであったにちがいない。カッテンディーケも「日本人ほど寛容心の大きな国民は何処にもない」と感じた。「もし日本人が、歴史上キリスト教徒のことについて何も知らないならば、彼らは平気で日本の神様の傍にキリストの像を祭ったであろうと私は信ずる」(16)。スミス主教は長崎滞在中、崇福寺に寄宿したのだが、スミスがもっと広い空間がほしいというと、住職はいともあっさり隣接した仏間(small chapel)から仏像を撤去してくれた(17)。仮に日本の仏僧が英国の教会堂に寄宿して同様の希望を出した場合、いったい牧師が小礼拝堂のキリスト像を撤去するものだろうか。ヘボンとブラウンはともに神奈川宿の成仏寺に住んだが(ヘボンは本堂、ブラウンは庫裡)、ヘボンは本堂から仏像を全部とりのけ、そこで安息日の礼拝をとり行った(18)。ブラウンは手紙に書いている。「この国民が、外国人のためにこんなにすぐ寺院を貸してくれるとは、不思議なことです。この寺にあるたくさんの偶像や仏具類は本堂の仏壇の暗い片隅に、板戸でしきりをしてしまわれました。……住職はほかへ移りました。九〇歳かそれ以上と思われるその老僧は、今は隣接の家に住んでいます」。この寺は貧乏寺で庫裡も相当に痛んでおり、住職は宣教師たちの払う家賃に満足だったらしいが、それにしても仏壇仏像がいともあっさり撤去されたのには、ブラウン自身「驚きました」と述懐している(19)。これは安政年間の出来ごとである。
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注記に文献名を当て嵌めると、

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(16) カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』(東洋文庫、1964)、p161
(17) Smith, George. Ten Weeks in Japan (London,1861)、p13~4
(18) ヘボン『ヘボン書簡集』(岩波書店、1959)、p19
(19) ブラウン『S・R・ブラウン書簡集』(日本基督教団出版部、1965)、p17、46
-------

となります。
カッテンディーケはオランダの海軍軍人で、1957年から59年まで長崎海軍伝習所の教官を務めた人です。

ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ(1816-66)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%B1

英国国教会の宣教使、ジョージ・スミス(1815-71)の著書は2003年に翻訳出版されていますね。

宮永孝訳『スミス 日本における十週間』新異国叢書第III輯・第7巻
https://myrp.maruzen.co.jp/press/sin_ikoku/v307-smit/index.html
George Smith (Bishop of Victoria)
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Smith_(Bishop_of_Victoria)

米国長老派教会のヘボンは「ヘボン式ローマ字」の考案者として有名です。

ジェームス・カーティス・ヘボン(1815-1911)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%9C%E3%83%B3

ブラウンは米国・オランダ改革派教会の宣教師ですね。

サミュエル・ロビンス・ブラウン(1810-80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3
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