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慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その7)

2023-02-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「三、作り替えられる辞世歌」では、斬首の替わりに早河での水死を選んだ「甲斐宰相中将」藤原範茂の辞世の歌、「遥ナル千尋ノ底ヘ入時ハアカデ別シツマゾコヒシキ」について、渡邉氏は「歌壇活動に参加できる程度の心得はあったと思われる」(p81)範茂が「流れの早い川を前にして「千尋の底」と詠むとは考えられない。おそらくこの歌は物語に合わせて、慈光寺本作者が作ったものであろう」(同)とされます。
そして、「いずれにせよ流布本や前田家本が載せる「思ひきや」の歌も、和歌に習熟した者が作ったとは考えられないという点では同じ」(同)であるものの、しかし、渡邊氏はこうした作者の行為を非難されている訳ではなく、「こうした例は、歌は物語に合わせて作られ、地の文が変れば作り替えられることがあったことを物語る。作り物語では当然のことなので、このような営為は自然であったろう」(同)とされます。
渡邉氏は慈光寺本が最初に成立したという立場なので、私は渡邉説に若干の意見を持っていますが、それは後で論ずることとし、第四節に入ります。(p81以下)

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  四、応答しない贈答歌

 登場人物の和歌が場面に合わせて作られたと思われるのは、臣下の歌に限らない。配所に着いた後鳥羽院が詠み、母である七条院に届けられたという次の歌も同様である。

   都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル

 都からの音信が途絶え、謫居に響くのは波の音ばかりであることを歎いた歌である。配所の隠岐で院が詠じた『遠島百首』に以下のような歌がある。

   浪間より沖の湊に入る舟の我ぞこがるるたえぬ思ひに    (七六)
   おきの海をひとりやきつるさよ千鳥なく音にまがふ磯の松風 (八五)
   われこそは新島守よ隠岐の海のあらき波風心してふけ    (九七)

 これらの歌では、遥か彼方の都とつながる可能性のある、隠岐(「沖」の掛詞)の湊に入ってきた「舟」から望郷の念をかき立てられ(七六)、「磯の松風」の音に紛れて聞こえてくる、ひとりで夜に鳴く「千鳥」の声に耳を澄ませている(八五)。荒く吹く「波風」に穏やかに吹くよう呼びかける「われこそは」の歌(九七)は殊に著名で、『承久記』の後続諸本でも取り入れられている。慈光寺本で院が詠んだとする「都ヨリ」の歌には、以上のような歌の表現や心情との共通性を認めてよいだろう。
 しかし、下句の「沖ウツ波」という表現には、伝統的な和歌表現と齟齬が見られる。『後拾遺集』には恵慶の「松風も岸うつ波ももろともに昔にあらぬ音のするかな」(雑三・一〇〇〇)という述懐歌が見える。波が「打つ」のは、恵慶歌のように「岸」であるか、あるいは「岩」「渚」「浜」等であって、「沖ウツ波」という表現は破格だろう。伝統的表現を尊重しつつ歌を彫琢する後鳥羽院が、安易に用いるとは思えない表現なのである。
 この場面の不審はこれだけではない。この歌は、都にいる後鳥羽の母七条院に贈られ、「御返」が詠まれたとある。院の歌と七条院の歌の間には、隠岐に同行した「伊王左衛門」(能茂)の歌が挟まり、慈光寺本では七条院の返歌は二人に向けたもののように読める。しかし、現実には高貴な女院が、能茂のような臣下に直接返歌をすることはまず考えられない。よしんば返歌をしたとしても、二人に一首ずつ贈るのが贈答歌の基本である。そうした贈答歌の基本的な枠組みから、ここは外れている。その七条院の返歌を挙げてみよう。

  神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ

 「神風」「ミモスソ河」は伊勢神宮の表象である。ここで皇祖神を持ち出して、院が還京できるようにと祈る歌を詠むことは、特に問題がないようにも見える。しかし、院の贈歌が伊勢に触れているわけではなく、また、七条院歌は伊勢の神に奉納されるわけでもない。このような歌を返すのはやはり唐突だろう。
 さらに言えば、この歌は贈歌の後鳥羽の歎きにきちんと応答していない。後鳥羽が、都から音信がなく、繰り返される波音以外に訪れるもののない謫居の寂しさを詠んでいるのに対して、音信ができなかった弁明もせず、寂しさへの慰めの言葉もかけていない。まるで、独詠歌のように、院の帰京を神へと祈っているだけなのである。
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第四節はこれで終りです。
渡邉氏は「院の歌と七条院の歌の間には、隠岐に同行した「伊王左衛門」(能茂)の歌が挟まり、慈光寺本では七条院の返歌は二人に向けたもののように読める」とされますが、

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 (後鳥羽院)
  都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル
 伊王左衛門、
  スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉
 御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ、女院ノ御返シニハ、
  神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ee67ada9eeeeca23f3d8d5485199ac5b

という具合いに、七条院の返歌は「此御歌ドモ」に対応しているのですから、「七条院の返歌は二人に向けたもの」としか読めません。
「現実には高貴な女院が、能茂のような臣下に直接返歌をすることはまず考えられない」にもかかわらず、慈光寺本には何故にこんな奇妙な贈答歌が載せられているのか。
また、慈光寺本の作者は「よしんば返歌をしたとしても、二人に一首ずつ贈るのが贈答歌の基本」であるのに「そうした贈答歌の基本的な枠組み」を知らないのか。
それとも、知ってはいても敢えて無視して独自の「枠組み」を創造しているのか。

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