学問空間

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「債務者と債権者の共存」

2010-07-30 | 井原今朝男『中世の借金事情』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月30日(金)01時51分43秒

前の投稿で「一冊の本や論文の核心ではない部分の誤りを見つけて鬼の首を取ったように騒ぐ」と書いたので、私が「おおやにき」の井原今朝男氏に対する批判を「核心ではない部分の誤り」の指摘にすぎないと評価したように思われた方がいるかもしれません。
しかし、井原氏は『中世の借金事情』を、中世社会はこうだったという昔話としてではなく、「二一世紀将来への提言」として書かれているので、井原氏の現代社会分析に対する大屋氏の批判は核心部分についての批判になりますね。
大変紛らわしい書き方で失礼しました。
職人太郎さんからレスをもらわなければ書き直していたのですが、そのままにしておきます。
さて、最初に井原氏の「二一世紀将来への提言」のエッセンスを少し紹介しておきます。(p217以下)

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 本書を通じて、債務返済の処理方法にも歴史的変遷があることが理解してもらえたであろう。債権は、過去においても現在においても将来においても、債務者と債権者が共存してこそ権利行使ができる人類固有の権利である。そこからみると、私有財産制と自由契約を絶対として、債権者の権利のみを優越させ、債務者の権利を無視し破産に追い込む近代債権論の世界は、きわめて歪(いびつ)な歴史的段階に入り込んでいることが理解できる。債務者が破産すれば、債権者はその権利を行使できず、社会的浪費となって社会的富が消えていく。現代人はその矛盾を克服する新しい原理を見出していない。
(中略)
 債務返済の紛争処理は相対で双方が合意できればどうにでもなる世界であった。利子率が無制限であっても、利子の総額をきめて利息の増殖を禁止すれば、債務者も債権者も共存して、債務と返済の循環がスムーズに進展する方法を中世人は知っていた。したがって、二一世紀の将来の世界が、債務者と債権者の両方の権利が共存しあえる新しい原理を社会意識としてもちえるようになれば、諸矛盾の渦巻く現代社会の流れを新しいものにつくりかえることができる。二一世紀の将来の世界は債務者と債権者が互いに破産することなく共存しあう原理の中で行き抜くことが必要である。
 それならば、利息の無限増殖の原理を放棄すればよい。かわって利息の利息の増殖を一定額で抑制しあい、債権者と健全な債務者が共存して債務と返済の循環をスムーズに展開できる経済原理をみんなの社会正義にすればよい。一五世紀の中世の人々が暴力を紛争解決の手段とすることを放棄しはじめ、債権者の権利保護をみとめ共存の道を歩みだし、社会正義の流れを転換しえたのであるから、二一世紀の人類にもそれができないはずはない。すでに、現実の世界では、利息の取得を禁止しているイスラムの法世界の中でスクークという新しい投資運用型の債券が発行され、イスラム金融市場が世界的に拡大している(前田匡史『詳解イスラム金融』亜紀書房、二〇〇八)。利息が無限に増殖する世界が絶対ではないことを少数とはいえ世界の人民が知りはじめている。
 地球環境・資源の有限性の中で、二一世紀の人類社会は債務者と債権者の権利保護を両立した循環型再生産経済原理を必要としている。債権は健全なる債務者が存在してこそ、債権者が権利行使できる。利害対立者が共存しあう原理こそが社会正義であるとする社会意識が形成されたとき、人類はあたらしい債務処理の方法をつくりだすにちがいない。
-----------

わずかこれだけの文章の中に、債務者と債権者が「共存」すべきだという主張が6回も繰り返されますが、債務者と債権者の「共存」って、具体的にどういうことなんですかね。
単に「破産」がないというだけなら、そんなに望ましいことなのか。
ま、大屋氏も指摘されているように、井原氏は破産という制度自体を理解していないようなのですが、その点は後で書きます。

>筆綾丸さん
平泉須賀波氏に関連して『夜明け前』にもちょっと触れるつもりだったので、ドキッとしました。
新稲法子氏は「漢文のたのしみ」というサイトを運営されていますね。
「さすらいの漢文講師、新稲法子のしょぼいサイトです。」と書かれていて、けっこう面白い人ですね。

http://www10.ocn.ne.jp/~ninnyaka/index.html
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平泉寺白山神社、別当と宮司

2010-07-29 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月29日(木)00時30分26秒

今日は井原今朝男氏の『中世の借金事情』について書こうと思ったのですが、帰宅すると国会図書館に注文していた白洲正子氏「かくれ里(二十一)」(『芸術新潮』1970年9月号)の複写が来ていたので、冒頭部分を少し紹介してみます。

---------
 去年の秋、越前へ取材に行った時、友達から、平泉寺にはぜひ行って来い、参道がいいし、苔も美しい。京都の苔寺の比ではない、とすすめられた。
 私は取材に行っても、いつも道草ばかり食う。編集者さんも心得ていて、快くつき合ってくれる。仕事はそこそこにして、平泉寺に向かったのは、雨上がりの気持ちのいい朝であった。
(中略)
 この寺は、勝山市の郊外にある。福井から九頭竜川を東にさかのぼると、三十分あまりで勝山に着く。途中、永平寺に立ちよったが、あまりの人込みに、早々にして退散した。こういう寺はいいにきまっているが、雪の時期でもないと、ゆっくりお参りすることはできないのかも知れない。
(中略)
 石段を登った左手に、平泉さんのお住居がある。平泉家は、桃山時代からつづいた平泉寺の別当で、帝大教授をしていられた平泉澄氏は、たしか二十四代目に当られる。その一族の方を私はちょっと存じあげているので、案内書と絵葉書を頂きかたがた、御挨拶によってみると、品のいい若奥様が出て来られた。伺ってみると、御長男の夫人とかで、絵葉書を頂いた後、邸内のお庭を見せて頂く。この庭は、室町時代に造られたもので、奥様がいわれるように、人手が少ないため少し荒れているが、十何種類もあるという苔の緑は、目がさめるように鮮やかである。
---------

白洲正子氏は1969年に初めて平泉寺を訪問されているので、この「品のいい若奥様」は1980年に司馬遼太郎氏が会われた「品のいい娘さん」とは別人でしょうね。
というか、この方は平泉洸氏(金沢工業大学名誉教授、白山神社第四代宮司)の夫人ですね。
「平泉家は、桃山時代からつづいた平泉寺の別当で、帝大教授をしていられた平泉澄氏は、たしか二十四代目」というのは白洲氏の誤解で、別当の時代は世襲ではないですね。
天正二年(1574)、平泉寺は一向一揆に襲撃されて全山残らず灰燼に帰し、天正十一年(1583)、顕海僧正が再興する訳ですが、再興後はその住坊賢聖院(玄成院)が平泉寺の本坊として一山を統括します。
そして顕海僧正以降、明治維新まで、玄成院主は二十一代を数えますが、このうち第三代までは比叡山延暦寺に属し、第四代以降は東叡山寛永寺の直末になります。
そして、歴代の出自を『白山神社史』p195以下から引用してみると、

第11世 慈宏 福井藩士一柳家
第12世 実運 盛岡藩士高橋家
第13世 ※竟 大納言清水谷実栄の猶子(※「至」+「秦」)
第14世 深玄 伊勢国安濃生まれ
第16世 照州 近江国志賀生まれ
第17世 善海 武蔵国豊島郡の佐竹義貫の子
第18世 義順 武蔵国下谷の佐藤家
第19世 義隆 下総国土浦の飯島家
第20世 義敬 下野国宇都宮の佐野甚左衛門家
第21世 義章(平泉須賀波) 幕臣太田家

となっています。
他の人の出自は『白山神社史』には出ていませんが、任命は延暦寺・寛永寺の法縁によるものであって、世襲ではないですね。
そして幕臣太田家出身の義章が神仏分離令を受けて明治3年、還俗して平泉須賀波(ひらいづみすがは)と改名して神官(宮司)となります。
この人は明治3年に「急逝」し、平泉操宮司(勝山神明神社神官。もと勝山神宮寺住職で、義章僧都の門人)が相続して第二代宮司になり、その長男が平泉澄氏、という関係ですね。
別当21代と宮司3代を単純に合計すれば24代にはなりますが、白洲氏の表現は不正確、というか誤りですね。

>筆綾丸さん
近世は筆綾丸さんに全くついて行けませんが、揖斐高氏の『江戸詩人選集第五巻 市河寛斎・大窪詩仏』を入手して、少しずつ読んでいるところです。
この二人の感覚は完全に近代人ですね。
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成瀬氏と二条良基

2010-07-28 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月28日(水)01時24分23秒

>筆綾丸さん
平泉寺白山神社の境内があまりに素晴らしかったので、永平寺は殆ど越前大仏みたいなものとしか思えませんでした。

>香積寺
二条良基の名前が登場したのには驚きましたが、犬山城の成瀬氏は二条良基の子孫と称しているのですね。
14世紀の関白を家祖とするのは、武家の伝承としてはかなり珍しい部類なんでしょうね。

成瀬の君
http://homepage3.nifty.com/toukaken/7_engi13.html
飯盛山城
http://takayama.tonosama.jp/html/iimoriyama.html

王維の詩の題は「過香積寺」が正しいようですね。
リンク先の方のワープロミスではないでしょうか。
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過言のスターマイン

2010-07-27 | 新潟生活
過言のスターマイン 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月27日(火)00時33分56秒

今日は勉強をサボって柏崎市の海上花火大会を見に行ってしまいました。
地元の人からはすごく混雑すると聞いていましたが、東京の花火の人ごみとは違って、ずいぶんゆったりのんびりしていますね。
埠頭の打ち上げ現場に近い正面観覧席から見上げると大変な迫力でしたが、番神堂あたりの高台から花火が海面に映る姿を眺めるのも良いものでした。

http://www.e-cotte.com/hanabi/
http://dararan.ojaru.jp/2009/09kashihanabi1.html

>筆綾丸さん
30年前、司馬遼太郎氏はいったん永平寺に行こうと決めたものの、あまりに観光寺院化していることにびっくりして逃げ出したそうですが、私もその気持ちは理解できました。
私の場合、早朝に行ったので観光客はそれほど多くはなかったのですが、たまたま修行僧の一人が知り合いらしい若い男女の案内をしているのを眺めていて、三人の会話の品のなさに唖然としました。
その修行僧は言葉遣いが下品なだけでなく、見るからに頭の悪そうな顔をしていて、こんなのでも修行僧になれるのだなあと、ある意味感心しました。
どうせどこかのお寺の莫迦息子が、ここでちょっと我慢すれば一生食いっぱぐれはない、みたいな気持ちで嫌々来ているのでしょうが、修行僧の顔を見る限り、そんな感じの人もかなり多そうですね。
まあ、今時、知的向上心が旺盛な若者だったら永平寺なんか行かんだろう、とは思いますが。
境内の池には「一葉観音」なるものと巨大な蛙の像が並んでいましたが、田舎寺院が客寄せに作るならともかく、何も曹洞宗の大本山にこんな趣味の悪いものを置かんでもいいのでは、と感じました。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5537
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東尋坊と平泉寺

2010-07-24 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月24日(土)14時50分8秒

東尋坊の由来について、例えば『るるぶ情報版 福井』には「ある悪僧の名前なんです。暴君で、他の僧たちを困らせていた東尋坊は、恋のライバルであった僧侶らと岸壁で酒盛りをしていたときに、崖から突き落とされました。その後、49日間、海が大荒れしたことでここを東尋坊と呼ぶようになったのです。」てなことが書いてありますね。
『福井県の地名』(平凡社、1980)によると、『帰鴈記』なる書物に次のようにあるそうです。

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断崖聳へて屏風を立たるが如し。池深さ五丈余、巌の高さ七丈余、口の広さ八間、奥へ二十二間有とぞ。蚫さゞゐなどの貝多く、かつきの海士常に是をとる。むかし平泉寺に東尋坊といへる悪僧の有けるを、一山の衆徒にくみ猜みけれども、弁才強力のものなりければ、いかにとも斗ひ可申業もなくてうち過ぎけるが、或時衆徒等かの僧をいざなひ、池の辺りにて宴をもふけ、東尋坊を酔しめ、此池へ突落しけるに、顛倒のいとまに其僧と脇に居たりし児とを左右に取りて、ともに池に入て死しけるが、悪霊忽ち風雨をおこし雷と成り、あまたの人を殺せしとかや。猶あきたらずや、卯月五日平泉寺の神事の日、今もなほ暴風甚雨して、渡海の舟をわづらはしむ。浦の海士人も此日は沖へ船を出さず、
----------

この『帰鴈記』は越前の地誌で、『福井県史通史編』によると、

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 藩の組織のもと、公的に編纂されたもの以外にも、越前では多くの地誌が編集されている。そのうち、最も早く成立したのは「越前鹿子」で編者は不明であるが、寛文から延宝年間(一六七三~八一)にまとめられたものと推定されている。越前の古社・名所・河川・街道などについて略記してあり、多種の写本が伝来している。
 続いて福井藩の右筆などを勤めた松波伝蔵正有の手で、越前国内の名所・城跡・古社寺や山川などについて記録した「帰鴈記」が執筆されている。諸写本の奥書によると、正徳二年(一七一二)に一応の稿本が完成していたのを、史跡調査に関心の高かった八代の吉邦の命によって補訂し、享保年間に至って藩へ提出したもののようである。

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-5-01-03-03-03.htm

とのことです。
ここから深い考察をめざす、というようなつもりは全然なくて、ふーん、と思っただけですが。

東尋坊
http://okuromieai.blog24.fc2.com/blog-entry-1787.html
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「博士先生」

2010-07-22 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月22日(木)23時42分36秒

>筆綾丸さん
その人か、あるいはごく近いご親戚なんでしょうね。
平泉寺にはまた行くつもりなので、その時に聞いてみます。
平泉澄氏は司馬氏が泊った旅館、「板甚」の女将の言葉の中に登場しますね。(p116)

----------
 その後、雪の話が出た。
「博士先生が」
 と、女将がいった。そのような敬称でよばれている学者が土地にいるらしかった。
「昔、東京帝大の学生でいらっしゃったとき、冬休みで帰って来られると、たいていはこの宿に泊まって、雪のやむのを待たれたときいております」
「その博士先生という方の在所は、どこですか」
「平泉寺(白山神社)でございます」
 という。私どもは、あす平泉寺に行って苔を見たいと思っている。この勝山からはタクシーに乗ってわずか十数分の距離である。
 話をきいているうちに、その人は、戦前、皇国史観の学者として著名だった平泉澄博士であることがおぼろげにわかってきた。平泉寺は、明治の神仏分離で神社になった。平泉家はその白山神社の社家で、博士はいまも健在であるという。
----------

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5534
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拝観料五十円

2010-07-22 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月22日(木)01時39分9秒

>筆綾丸さん
近所の図書館で『街道をゆく』十八(昭和57年、朝日新聞社)を見たら、司馬遼太郎は平泉寺白山神社の苔を絶賛し、「京都の苔寺の苔など、この境内にひろがる苔の規模と質からみれば、笑止なほどであった」(p172)とまで言っていますね。
同書には次のような記述もあります。(p178以下)

---------
 ゆるい勾配ながら、石段が組まれている。
 石をできるだけ自然のまるさのまま畳んだ石段で、両側を杉その他の木立が縁取っている。
 春の雨の日など、終日ここで雨見をしていても倦きないのではないかと思われた。
「以前、ここを登ってゆきますと、左手に白木の材をたくましく組みあげて、ごく古寂びた屋敷がありました」
 と、須田画伯に話した。
 私の記憶のなかでは、鎌倉時代の武家の館というのはこうであったかという印象として残っている。
 鎌倉時代の武家の館を想像する手がかりは、私のなかでは、この平泉寺で見た白木の屋敷と、大和の吉野山の蔵王堂の僧坊である吉水院があるだけである。
(中略)
 往くうちに、左側にその建物が出てきた。
 門に、
「白山神社々務所」
 という大きな標札が出ており、小さな文字で「元北国白山平泉寺本坊」と書かれている。もとの玄成院である。門柱に小さく「平泉」という表札も出ていた。
 べつに入門を禁じている様子もなかったので入ってみると、屋敷の横に簡素な柵がしつらえてあって、そのむこうに庭園があるようだった。
 柵の柱に、古びた紙が二枚ぶらさがっている。

 拝観御希望の御方は必ず御申込み下さい

 とある。今一枚の紙には、単に、
「庭」
 と書かれていて、その下に説明がある。

 四百五十年前、細川武蔵守高国の作。国の名勝に指定。ツマリ国宝デス。拝観料五十円。

 拝観料五十円というのも時勢ばなれした安さだが「必ず御申込み下さい」とありながら、それを徴収するボックスのようなものもない。もともと、用心のために申し出よといっているだけで、それをもって金儲けをしようという気持がまったくないのであろう。
 結局、屋敷の一隅に立って声を出しつづけているうちに、品のいい娘さんが出てきて、拝観料をうけとってくれた。
 庭に入ると、一面の苔である。
---------

司馬氏が訪問したのは昭和55年10月、ちょうど30年前ですが、その時点で「時勢ばなれした安さ」だった拝観料は、現在もそのままでした。
ところで、前の投稿で私は「有名神社の社務所としてはお世辞にも立派とは言えない地味な建物」と書いてしまいましたが、これはさすがに言いすぎでした。
建物は二百年以上前の建築で、文化財といってもよい立派なものですね。
ただ、二階建ての仏教建築なので、司馬氏の「鎌倉時代の武家の館」という感想も、ちょっと変な感じがします。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5532
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黒瀧山不動寺

2010-07-22 | 新潟生活
黒瀧山不動寺 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月22日(木)00時59分0秒

>Akiさん
私もその部分、変だなと思いました。
梅谷文夫氏は少し雑な人ですね。
ちなみに先日の蝉の渓谷訪問時、私は大塩沢も廻ってみました。
谷川沿いの小さな集落ですが、ここを奥に入って行くと黒瀧山不動寺という寺があります。
修験っぽい名前に反して、群馬県には珍しい黄檗宗の寺なのですが、中興開山である潮音道海は「先代旧事本紀大成経事件」で有名な人ですね。

黒瀧山不動寺
http://sanzokuame.exblog.jp/3747484
http://www.pref.gunma.jp/cts/PortalServlet;jsessionid=D6151D5EACEED0699D540F1E7D2BF8D9?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=60789

先代旧事本紀大成経事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E4%BB%A3%E6%97%A7%E4%BA%8B%E6%9C%AC%E7%B4%80%E5%A4%A7%E6%88%90%E7%B5%8C
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平泉寺墓地

2010-07-20 | 新潟生活
平泉寺墓地 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月20日(火)02時06分24秒

墓地内にあった案内板には次のように書かれていました。

---------
平泉寺墓地
 この区域は、平泉寺の僧侶たちを供養した室町時代末期の石仏、五輪塔、宝篋印塔の類が数多くある極めて重要な史跡である。
 年代のわかるものでは、永正十二年(一五一五年)が最も古く、地輪に「為盛幸大姉、永正十二年■五月廿八日」と刻されている。永正からあと、大永、享禄、天文、弘治、永禄とつづく。しかも残念ながら、これらは風化、破損がひどく完成品が少ない。
 昭和五十年度の石仏調査によると、五六二体確認している。また、県下で有名な一乗谷の石仏群は、大半が俗人のものであるのに対し、ここは僧侶のものが多いというよい対象(ママ)を示している。
 この墓地は、大正三年、平泉地区民が区画整理によって造成し、同時にそれまで四ヶ所に分かれていた墓地を統合したもので、今日まで区民の手によってよく管理されてきた。
                    勝山市
---------

写真はかなりの枚数を撮ったのですが、携帯なので、あまり画質は良くないですね。
とりあえず墓地の雰囲気を紹介するために、いくつか載せておきます。
大正三年に「区画整理によって造成」したものですから、中世が直に残っている訳ではないのですが、それでも独特の趣がありますね。
さて、私が広大な墓地内を歩き回っていると、農家のおじさん風の人が現れて、「あんたはこの墓地に縁がある人かね」と聞くので、全然関係ないけれども中世の石塔に興味がある旨を話すと、石仏泥棒の疑いは一応解いてくれたようでした。
ついでに平泉澄氏のお墓はどこかと聞くと、「わしは知らんねー。あの人は特別だから、葬式も変ったやり方だったそうで、村の人でもあんまり知らん。公民館へ行けば分かるかもしれん」(方言の再現不正確)てな返事でした。
多分、神葬祭のことなんだろうなと思いましたが、その種のことに興味がありそうな人ではなかったので、詳しくは聞きませんでした。
社務所で会った女性も、墓地に行くまでが分かりにくい上に、平泉澄氏のお墓は非常に分かりにくい場所にあると言われていたので、探すのはあっさり諦めて、東尋坊に向かうことにしました。
名勝東尋坊の名前は平泉寺の悪僧に由来するそうで、鳥居近くには「東尋坊跡」の小さな石碑もありました。

>職人太郎さん
平泉寺まで行けば職人太郎さんの本拠地も直ぐ近くですね。
次は若狭あたりと思っていましたが、近江もいいですね。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5528
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「祖父のお墓」

2010-07-19 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月19日(月)00時27分44秒

この土日で平泉寺白山神社・平泉寺墓地、藤島神社、永平寺、一乗谷朝倉氏遺跡、東尋坊・雄島、吉崎御坊、柴山潟(「中谷宇吉郎 雪の科学館」)、安宅の関を回って来ました。
最初に訪問した平泉寺白山神社は苔が美しいので有名な神社と聞いていましたが、まずその量がすごいですね。
広い境内が全部苔だらけです。
そして真夏の太陽が木漏れ日となって降り注ぐ中、一面の苔が瑞々しく輝く美しさは半端ではないですね。
また、境内の「御手洗(みたらし)の池」は古来「平清水(ひらしみづ)」と称され、「平泉寺(ひらいづみでら)」の名の由来となったそうですが、ここも神秘的なまでに美しく、何となく「もののけ姫」に出てきたシシ神の森の沼を思い出してしまいました。
境内を一回りしてから社務所(旧・玄成院)の受付に行ったところ、張り紙に「『白山神社史』2千円」とあったので購入しようと思い、呼び鈴を押して暫く待っていると、私と同年輩か少し下くらいの女性が現れました。
書籍を購入した後、「何かお調べですか」と聞かれたので、少し躊躇ってから「平泉澄氏のお墓はどちらでしょうか?」と聞いたところ、「祖父のお墓はちょっと離れたところにありまして・・・」とのお返事だったので、内心、あわわ・・・とあせってしまいました。
それから平泉澄氏の著書のことを少し話し、玄成院庭園を案内していただき、「祖父の書斎はあの奥になります」などと伺いました。
考えてみれば、社務所の門には「平泉」という表札があるのですから平泉家の方が出てこられるのは当たり前ですが、その女性は知的ではあっても全然気取りのないタイプの方だったので、ちょっとびっくりしました。
また、社務所が有名神社の社務所としてはお世辞にも立派とは言えない地味な建物だったので、私がその旨を率直に言うと、戦後、進駐軍が平泉澄氏を連行しに来たとき、あまりに質素な暮らしぶりなので驚いたらしい、という話をされていました。
さて、平泉澄氏のお墓は平泉寺小学校近くの「平泉寺墓地」にあるとのことなので、駐車場に戻って車で行ってみましたが、途中で2回地元の人に聞いて、やっと辿り着きました。
そして、ここがまた非常に不思議な空間でした。
長距離ドライブで少し疲れたので、続きはまた明日。

「雪だるま倶楽部」
http://blog.goo.ne.jp/hiko9103/e/c3cb51617c05fbe9f22bd6e9e90778ae
http://blog.goo.ne.jp/hiko9103/e/b183328f46addfe5a29d5ea818d0b8ec

「よみがえる中世都市 ”白山平泉寺”」
http://www.city.katsuyama.fukui.jp/bunka/heisenji/indexhaiden.html
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『中世の借金事情』

2010-07-17 | 井原今朝男『中世の借金事情』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月17日(土)09時56分8秒

「おおやにき」というブログで井原今朝男氏の『中世の借金事情』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2009)がずいぶん厳しく、というか「買ったり読んだりする価値のまったくない本」とまで酷評されているのを見つけ、まあ、井原氏の書いたものだからそんなはずはないだろうと思って購入し、パラパラ読んでみました。
うーむ。
中世に関しては「買ったり読んだりする価値」はあると思いますが、現代社会の認識はひじょーに微妙ですね。
一冊の本や論文の核心ではない部分の誤りを見つけて鬼の首を取ったように騒ぐ、というのは、まあ正直、私なんかもその傾向があるのかなと思いますが、ただ、残りを真面目に読む気をなくさせる間違いというのもありますからねー。
ちなみに「おおやにき」を書いている大屋雄裕氏は名古屋大学大学院法学研究科・准教授で、法哲学の方だそうです。

http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000649.html
http://www.nomolog.nagoya-u.ac.jp/~t-ohya/

>筆綾丸さん
揖斐高氏の本、面白そうですね。
いくつか注文しました。
今日はこれから福井県に行ってきます。

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市河寛斎の出生地

2010-07-15 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月15日(木)00時46分34秒

『国史大辞典』(執筆者、梅谷文夫)には、市河寛斎について、

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寛延二年(一七四九)六月十六日(?)上野国甘楽郡南牧村(群馬県甘楽郡下仁田町)に生まれる。父好謙は細井広沢の門人で蘭台と号し、書をよくした。寛斎は地方に埋れるのを嫌って年少より江戸に出、昌平黌に学ぶ。のち学員長に推され、五年後病を理由に辞任。寛政元年(一七八九)江湖詩社をおこす。(後略)
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とありますが、『日本古典文学大辞典』(執筆者、揖斐高)には、「寛延二年(一七四九)六月十六日江戸に生」れる、と書いてありますね。
更に、

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はじめ兄と共に、江戸詰めの士として秋元侯に仕え山瀬新平と名乗った。このころ、河内竹洲・関松窓・大内熊耳に従学したという。安永四年(一七七五)二十七歳、秋元藩を脱藩し、本姓にかえって市河小左衛門と改称、上州甘楽郡下仁田の学者高橋道斎の女婿となった。しかし、翌安永五年には不縁となり江戸に帰来、同年十一月、林家の八代州河岸の塾頭関松窓の世話で林家に入門。天明三年(一七八三)三十五歳、湯島聖堂の啓事役となり構内に移居した。同七年十月聖堂啓事役を辞職、両国矢の倉へ転居した。江湖詩社を結んだのはこの時である。寛政の改革の動きの中で、異学の禁の申達が大学頭林信敬に下り、寛政二年(一七九〇)四十二歳、寛斎は月俸半減の処分を受け、ために辞して昌平黌との関係を絶つに至った。(後略)
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となっていて、『国史大辞典』とはかなり違っています。
まあ、全体的な印象として、『国史大辞典』より『日本古典文学大辞典』の記述の方が信頼できそうです。

>筆綾丸さん
臨済宗との関係はちょっと分からないですね。
ちなみに墓のある谷中・本行寺は日蓮宗だそうです。

http://higaeri.houkou-onchi.com/walk/23/yanaka/yanaka9.htm

>仏国国師(高峰顕日)
高峰顕日は後嵯峨院の子とされているので、以前少し興味を持って調べてみたことがありますが、あまり正確な記録は残っていないようですね。
雲巌寺には是非行ってみたいと思っています。

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市河寛斎と蝉橋

2010-07-12 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月12日(月)12時50分19秒

帰省したついでに群馬県南牧村の「蝉の渓谷」に行ってみました。
ここには加賀出身で京都東山双林寺に芭蕉堂を造ったので有名な高桑闌更が「蝉碑」なるものを建立しているのですが、「蝉碑」に向かう石段の上り口に市河寛斎の「蝉橋」の碑があります。
「蝉碑」が明和9年(1772)建立であるのに対し、こちらは昭和62年と随分新しいものですが、なかなか風景になじんでいましたね。
「蝉橋」の碑の横には、市河寛斎のご子孫による解説を記したもう一つの石碑が並んでいますが、その中には「江湖」の二字もありました。

「蝉碑」
http://members.jcom.home.ne.jp/urawa328/semi.html
http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/rankou.html

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5519
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平泉寺

2010-07-09 | 新潟生活
平泉寺 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月 9日(金)00時10分3秒

『公共圏の歴史的創造』の書評を三つほど入手して読んでみましたが、どうも物足りないですね。
もう少し集めてみるつもりです。

>筆綾丸さん
平泉澄が水戸にある六地蔵寺を学生たちと訪問した際のエッセイを読んだことがありますが、実に爽やかな良い文章でしたね。
あれ、この人がこんな文章を書くのか、と妙に感心しました。
墓好きの私としては、福井県勝山市の平泉寺白山神社にある平泉澄のお墓には一度行ってみたいような気もします。
今日は少し風邪気味なので、また後ほど。
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海辺の墓地

2010-07-06 | 新潟生活
海辺の墓地 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月 6日(火)23時11分0秒

4日(日)に再び村松浜に行ってきました。
金毘羅神社に隣接する平野家墓地は小高い砂丘の上にありましたが、白砂の上のさっぱりしたお墓というのも、なかなかいいものですね。
神社参詣後、3キロほど離れた新潟県立紫雲寺記念公園に行きましたが、ここの松林を歩いていると平衡感覚がおかしくなりそうでした。
冬場はどんだけ風が強いんだか。

日本海沿いの道路を走っていると、「密漁禁止 ○○漁業組合」だとか「海岸で不審船や不審者を見かけたら不用意に近づいたりせず110番又は118番へ通報しましょう。」といった看板を頻繁に見かけます。
最初は何だか遠くに来てしまったなあ、という感慨を抱いたのですが、この種のことも直ぐに慣れました。
ちなみに118番は海上保安庁への緊急連絡用電話番号ですね。

海を眺めてから紫雲寺潟を開拓した竹前権兵衛・小八郎兄弟の墓がある紫雲寺に行ってみましたが、硫黄鉱山で稼いだ金を大干拓事業に注ぎ込んだ事業家にしては随分ささやかな墓で、逆に好感が持てました。

>筆綾丸さん
「確か東島氏の批判を受けて網野氏が追加した部分」云々は完全な勘違いでしたね。
失礼しました。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5516
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