学問空間

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金華山・黄金山神社、シカの角切り中止

2011-09-29 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月29日(木)21時19分58秒

東日本大震災の震源地に一番近い神社である金華山・黄金山神社で10月2日に予定していた鹿の角切りが中止になってしまったそうですね。
ここは牡鹿半島の鮎川から出る遊覧船を主要な交通機関として年間70万人の参拝客を受け入れていたのですが、地震と津波で鮎川港と島の港の両方が被災したため、モーターボートで細々と参拝客を運んでいるのが現状です。
鹿の角切りを復興のきっかけにしようとしていたところ、先日の台風で島の道路が崩壊してしまったため中止を余儀なくされたとのことで、本当に踏んだり蹴ったりですね。
私は先月3日に参拝しており、鹿の角切りも見学するつもりでモーターボートを予約していたのですが、残念ながら予定を変更しなければなりません。
写真は先月参拝した際のものです。

以下、「河北新報」より。

----------------------
◎私道不通、安全を考慮/金華山・63年以来初

 石巻市の離島・金華山で、来月2日に予定されていた秋の風物詩「シカの角切り」が中止となった。1963年の開始以来、中止は初めて。
 台風15号による土砂崩れで会場の鹿山公園に通じる私道が通行できなくなり、主催する金華山黄金山神社などが来場者の安全面から判断した。
 神社によると、台風15号が接近した21日、鹿山公園に通じる私道の一部が高さ10メートル以上の土砂で埋まり、所々でコンクリートがめくれた。神社は道路を立ち入り禁止とした。
 震災で、金華山は神社の鳥居や常夜灯が倒壊するなどの被害が出た。神社などは角切りを復興に向けたシンボルにしようと、1日短縮して1日のみ開催する予定だった。
 角切りは、地元の鹿友華角(ろくゆうかすみ)会が仕掛け縄を雄ジカの角に引っかけて捕獲し、神職がのこぎりで角を落とす行事で、多くの観光客が毎年訪れていた。
 神社権禰宜(ごんねぎ)の日野篤志さん(36)は「復旧の見通しは立っていない。復興に弾みを付けようと思っていたので、残念だ」と話した。
2011年09月29日木曜日

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/09/20110929t15023.htm

※写真
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5988



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久ノ浜の「ガレ花」

2011-09-26 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月26日(月)05時59分29秒

昨日は久しぶりにJヴィレッジのある福島県双葉郡広野町に行き、海に沿っていわき市久ノ浜まで南下し、津波で流されてしまった神社の復興の様子を見てきました。
写真は久ノ浜の「ガレ花」ですが、面白いことを考える人たちがいますね。
リンク先の一番下に出てくる蔵は既に取り壊されていて、「ガレ花」の傑作を見ることはできませんでした。

http://blog.livedoor.jp/sagelovesjapan/archives/5540965.html

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5987


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漁港で見つけた変なもの

2011-09-23 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月23日(金)21時12分45秒

今日は2009年に気仙沼市に編入された旧・本吉町を中心に見てきたのですが、蔵内地区の漁港にある防波堤の先端で妙な機械を見つけました。
リアス式海岸のギザギザの先端が大好きな私はクネクネと曲がった防波堤の先端も大好きで、立入が禁止されていない場合や、禁止されていても誰も見ていない場合は出来るだけ先端まで近づくことにしているのですが、こんな機械を見たのは初めてですね。
これが何かご存じの方がいれば教えてください。
ま、この掲示板を見ているような方にはあまり縁がないとは思いますが。

(追記)
ま、これは灯台でしたね。
海に関する知識が乏しい私は、灯台はある程度の高さがあるものと思い込んでいたのですが、小さい漁港の灯台はこれで十分なんですね。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5985

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吉水神社など

2011-09-23 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月23日(金)04時53分49秒

ネットでちょっと検索してみたところ、有名な神社では吉野の吉水神社で「吉水院宗信法印」が合祀されていますね。

http://www.yoshimizu-shrine.com/

また、高知市の薫的神社は、

--------------
「土佐のイゴッソウ」の元祖のような「薫的和尚」が御祭神。
藩主山内忠義の戒名に文字の間違いを指摘し、冤罪を受け投獄
されるがが、信念を屈せず、食を断ちて抗議。絶命後、藩主、
子女に怪異が生じる。怨霊鎮魂の社。日々参詣者が参道を埋める。

http://www.amy.hi-ho.ne.jp/aicon-m/kunreki.htm

とのことで、石巻の栄存神社とタイプが似ていますね。
ついで、種子島の上中神社は、

--------------
河内神社とも呼ばれています。上中神社は、明治2年(1869年)に廃仏された極楽寺跡地にできた神社で、祭神は極楽寺の僧、日悦上人と西之表市大花里にある伊勢神社から勧請した豊受大神をまつっているとのことです。境内に「日悦上人之碑」と日悦上人の墓があります。秋季大祭では、郷土芸能を奉納しています。

http://www.furusato-tanegashima.net/js/minamitanetyou/mi-ippan-jinsya.html

とのことで、「極楽寺」という名前からすると修験ではないようですが、これだけではちょっと事情が分からないですね。
修験の場合、もともと神と仏を二分するという発想自体になじまない、ともいえそうですし、修験以外であっても、神仏分離に際してそれまで僧侶だった人々が突然神官になるのだから、過去に僧侶だった人が祭神になったっていいじゃないか、てな感じなんですかね。
いずれにせよ、数はあまり多くはないみたいですね。


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神社の祭神となった僧侶

2011-09-21 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月21日(水)20時37分27秒

羽黒山では宥俊に次ぐ第50代別当の天宥という僧侶が中興の祖として重要視されていて、境内に天宥社という非常に立派な摂社がありますが、僧侶を神社の祭神にしてしまう感覚が私にはどうも理解しにくいですね。
もちろん神仏分離の時期にそうしている訳ですが、普通に考えれば僧侶を祀ったお堂はお寺として分離すればすっきりするはずで、それを神社の祭神にしてしまうのは当時としてもアクロバチックな、ずいぶん変な行為だったように思えるのですが。
僧侶を神社の祭神にしている例は、全国的にはどのくらいあって、地域的にはどんな分布になっているのですかね。
私が宮城に来てからの僅かな知見の範囲では、石巻市牧山の零羊崎(ひつじざき)神社の摂社に栄存神社というのがあり、17世紀の僧侶である栄存なる人物が祀られているのですが、こちらは随分奇妙な、というか気味の悪い伝説を伝えている神社ですね。

天宥社
http://www.bashouan.com/pzPhoto07.htm

栄存神社
http://8.pro.tok2.com/~tetsuyosie/miyagi/ishinomakisi/eizon/eizon.html
http://legend.main.jp/50-onagawa-004-eizonhouin1-00-a.htm

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5983



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第四十九代羽黒山別当宝前院権大僧都宥俊

2011-09-20 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月20日(火)07時30分36秒

>筆綾丸さん
手元にきちんとした資料が全くないのですが、下記サイトによれば「寛永7年(1630年)、宥俊は、51歳の時に別当を弟子宥誉(後の天宥)に譲り、自らも山内にあって一山の宗政を統括する執行職に就いた」とのことなので、宥俊は1580年生まれとなります。
とすると、「第四十九代羽黒山別当宝前院権大僧都宥俊 造立」が裏づけられているのであれば、製作年代は江戸初期と言ってよいのでしょうね。

http://www.bashouan.com/pzDewasanzan.htm

彌永信美氏の『仏教神話学・1 大黒天変相』にも三面大黒天の例がいくつか載っていたので確認したいのですが、引越荷物の山の中に埋もれてしまっており、図書館で見た方が早そうです。

http://www.bekkoame.ne.jp/~n-iyanag/buddhism/mythbuddh/vol1_contents.html

参考までに「出羽三山歴史博物館」展示解説の残りの部分も載せておきます。

--------------
大黒天信仰
元来大黒天は、天地の暗黒面の働きを示すシバァ神であった。または閻魔王の同格神として、戦闘・財福・冥府神の三神格を兼ねる神で三面六臂の像容であらわされた。七世紀末唐に渡ると厨房を守る護法善神とされ、わが国には天台宗を開いた伝教大師・最澄がもたらしたという。最澄は比叡山開創にあたり、大黒天は千人を養う力があるが、三面大黒天は三千人を養う福分があると語られ、叡山では毘沙門天・弁才天の三面を持つ出世大黒が厨房に祀られた。また叡山の地主神を大物主とするところから大黒天と大国主とが習合され、福袋と打出の小槌を持ち米俵を踏まえる姿も一般化した。大黒天信仰は鎌倉から室町時代にかけて民間に定着し、江戸時代には特に商家では七福神の一つと仰がれ、農家では米俵の霊として農神または田の神とする風習が浸透した。
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三面大黒天

2011-09-17 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月17日(土)22時28分43秒

今日は山形県の月山周辺に行ってきました。
写真は羽黒山の「出羽三山歴史博物館」に展示されていた三面大黒天です。
館内撮影禁止だったのですが、周囲に誰もいなかったので、まあいいかな、と思って撮ってみました。
解説から抜き書きすると、

---------------
木像三面大黒天立像

室町~江戸初期の作品
第四十九代羽黒山別当宝前院権大僧都宥俊 造立
像高 71.0センチ
特長 像造法は寄木造り。正面大黒天、向かって左に毘沙門天、向かって右に弁才天を配し、三福神を合わせた三面一身の像である。三面ともに頭巾風の烏帽子を戴き、顔面は黒色玉眼入りで、眼光は輝く。肉身部は黒色で、朱の狩衣を着け、沓を履き、二俵の俵上に直立する。手前から右手に小槌、左手は肩に掛けた袋を握る。左右脇の手は空拳で持物はない。後方左手には宝棒を持つが、右手は空拳である。俵の表面には宝珠三種の高彫が付き古色深い姿である。
-----------------

というものですが、何というか、一種独特のブキミな迫力がありますね。
真ん中の大黒天、どこかで見たような気がして暫く考えてみたところ、商標権の問題で何度か相談に行った弁理士さんの顔に似ていました。
普通の仏像だったら、先生に似ている仏像がありますよ、てな形で世間話の材料にできますが、この三面大黒天の場合、相手が気を悪くするかもしれないので、ちょっと話題にしにくいですね。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5980


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「うかつなことに」

2011-09-17 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月17日(土)09時13分47秒

保立道久氏のブログを見たら、やっと「被曝」と「被爆」の違いに気づかれたようですね。

----------------
2011年9月12日 (月)
内部被曝、核時代と世界史(3)
 先日、やっと肥田俊太郎・鎌仲ひとみ氏の『内部被曝の脅威』を読み終わる。前回のエントリーで「内部被爆」と書いたが、被曝でなければならない。この本を最後まで読んで前回のワープロミスに気がついた。この本では「被爆」「被曝」「被ばく」が使い分けられている。ヒバクは被爆でもあり、被曝でもあるというのは、「ヒバクシャ」という言葉が国際的な反核運動で広まったことと深く関係している事柄だが、うかつなことに、これを文字レヴェルではじめて認識したことになる。

http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-cedb.html

まあ、誤りに気づいたら修正するのは良いことですが、単純な「ワープロミス」というレベルの誤りではないですね。
「被曝」と「被爆」は「この本」、即ち『内部被曝の脅威』が独自に使い分けている用語ではなく、放射線の実務に関わる人はもちろん、放射線に関心を持っている通常人なら誰でも認識し、使い分けている用語です。
筆綾丸さんもご指摘のように、保立氏が「内部被爆と世界史─歴史家の考え方(1)」「内部被爆と世界史(2)」で書いている文章は、「放射能粒子」を始めとして基礎的な用語がグズグズで、東京大学教授・史料編纂所元所長・歴史学研究会元事務局長としての知的水準を疑いたくなるレベルの文章ですね。

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『北国の春』

2011-09-16 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月16日(金)22時26分28秒

『日本民俗写真大系2 みちのくの北と南』(網野善彦他監修、日本図書センター、1999)を眺めていたら、色川大吉氏が次のように書かれていました。(p66)

-----------
八戸断想

 八戸は美しい種差海岸めざして歩く柳田国男の『北国の春』で懐かしい。
とくにその一節「清光館哀史」に出てくる月明下の浜辺の盆踊りは、胸にしみるような柳田の感傷をあらわにしている。私もまたその跡を辿った。
(後略)
-----------

まあ、これは『雪国の春』の勘違いでしょうね。
『北国の春』は柳田国男の著作ではなく、陸前高田出身の千昌夫が歌った演歌のタイトルですね。

「清光館哀史」
http://www.touhoku.com/00x-10-44yk-kikou-04.htm


>筆綾丸さん
閉伊頼基伝説はおそらく近世に創作されたものなのでしょうが、その形成の背景をきちんと調べれば、結構面白いことが出てきそうですね。
平川新氏の『伝説のなかの神 天皇と異端の近世史』(吉川弘文館、1993)は、内容が少しずつ異なる複数の神社の神社縁起を詳細に分析し、その作成に関与した地元と京都の関係者を具体的に明らかにした上で東北地方の白鳥伝説の形成を解明した大変な名著ですが、同様の分析手法は閉伊頼基伝説にも適用できるのではないかと思います。
ま、私が知らないだけで、誰か既にやっているのかもしれないですけど。

『伝説のなかの神 天皇と異端の近世史』
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34311.html



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閉伊頼基

2011-09-14 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月14日(水)20時46分15秒

宮古市内や近辺の市町村の神社を歩いていると、閉伊頼基という名前をしばしば見かけますね。
正直、そんな人は聞いたこともなかったのですが、何でも鎮西八郎為朝の子供なのだそうです。
そして、「伝説によると、閉伊頼基は佐々木四郎高綱の娘、音羽姫を妻とし、父為朝の家臣であった近能左七郎近良、太田嶋源五太忠連、猪狩右馬之丞諸深、広沢兵馬之丞忠季、安蘇権太郎重休、明石監物宗晴、石関兵庫勝時らを従えていたとされ、重鎮であった家臣等は閉伊頼基の死後、殉死したと伝えられる」(宮古百科事典wiki)のだそうで、鎌倉初期に殉死とはずいぶん奇妙な話です。

「宮古百科事典wiki」
http://www.miyakojikan.com/miyapedia/index.php/%E9%96%89%E4%BC%8A%E6%B0%8F

ま、それはともかく、私はリアス式海岸のギザギザの先端部分が大好きで、地図を見ているだけで胸がワクワクするのですが、その先端好きの私がどうしても訪問してみたいと思っていたのが閉伊岬です。
宮古市の中心部の対岸に非常に綺麗な二等辺三角形が伸びていて、その先端が閉伊崎ですね。
手持ちの数種の地図を見ても閉伊崎には神社マークが見当たらないのですが、神社マニアの私の菅直人、じゃなくてカンでは、ここに神社が存在しないはずがないんですね。
うーむ、変なものを単語登録してしまいました。
で、実際に行ってみたところ、舗装道路が尽きた後、三つに分かれたルートのうち神社の匂いがする道を択び、途中2か所の倒木を乗り越えて5百メートルほど歩くと、しっかりした鳥居が見えてきました。
そして、鳥居に到達して海側を眺めると、いったん急坂を下って登り返したその先に、妙に立派な神社が存在していました。
鳥居に書かれていた名前は黒崎神社でしたが、この祭神がやっぱり閉伊頼基なんですね。
(たぶん続く)

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5976



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「観世音菩薩勧請縁起」

2011-09-14 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月14日(水)19時49分54秒

「姉吉+観音」で検索してみたら、群馬大学の「津波 ディジタルライブラリィ」の画像が出てきました。
過去の津波被害者を供養するための観音像があったんですね。
奉納者の名前を記した石碑の下部は、数十メートル離れた場所に流されていました。

http://tsunami.media.gunma-u.ac.jp/TSUNAMI/JAVASCRIPT/iwate/image/miyako31.jpg
http://tsunami.media.gunma-u.ac.jp/TSUNAMI/JAVASCRIPT/iwate/miyako.html

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5975

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姉吉の純粋階段

2011-09-14 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月14日(水)18時57分10秒

13日(月)・14日(火)の二日間、岩手県の宮古から釜石までの海岸線を廻って、神社の様子を中心に見てきました。
写真は宮古市重茂姉吉で撮ったものです。
姉吉は津波の遡上高が40メートルを記録した場所ですが、明治29年と昭和8年の二度の津波による壊滅的被害を経て住宅は全て高所に建てており、海辺には漁業施設とキャンプ場を置いていただけで、人的被害はなかったそうですね。
海に近い岩場に石段が見えたので登ってみると、狭い平らな空間に建物の痕跡がありました。
一番下の写真に見えるのは観音像か何かの一部のように見えるので、仏堂があったようです。

------------------
史上最大、40mの津波が駆け上がった宮古市

 東日本大震災で陸地を駆け上がった津波の高さ(遡上(そじょう)高)が、観測史上最大の40・4メートルに達していたことがわかった。
 全国の研究者らによる合同調査グループが、北海道から沖縄県まで、5400か所のデータを集め、16日に大阪府で開かれた報告会で発表した。
 調査には、48の研究機関の研究者約150人が参加。建物や樹木などに残された津波の痕跡から遡上高を調べ、国や自治体による観測データも併せて分析した。40・4メートルを記録したのは岩手県宮古市重茂姉吉(おもえあねよし)地区。4月の調査でも、明治三陸地震(1896年)の38・2メートルを上回る38・9メートルが確認されていたが、今回は同じ地区内で、これを上回る地点が見つかった。

http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110717-OYT1T00152.htm

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5974



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海蔵庵への道

2011-09-12 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月12日(月)04時19分31秒

海蔵庵へは大川小学校のある釜谷から入って行くのですが、釜谷診療所近くの道路は殆ど遺跡発掘現場の趣ですね。
二枚目の写真、地図では両側とも陸地なのですが、一面水没していて、橋の上を進むような感じです。
三枚目は尾ノ崎橋ですね。ただし、渡り切った尾崎地区側から撮っています。海蔵庵のすぐ近くですね。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5973

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「よりとも様」

2011-09-11 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月11日(日)21時11分47秒

今日は石巻市の北上川(追波川)河口に近い曹洞宗海蔵庵に行ってきました。
もともと板碑の多いお寺さんでしたが、平成10年に大量の板碑が出土したので有名なところです。
寺の入口付近にあった板碑群は津波で若干損傷しているようでしたが、寺の建物は無事で、高台にある平成10年出土の板碑群も無事でした。
最も古くて以前から露出していた板碑は「よりとも様」と呼ばれていたそうですが、ちょっとすごいネーミングですね。

河北町海蔵庵板碑群
http://www.pref.miyagi.jp/bunkazai/photo-page/kaizouan.html

海蔵庵
http://www5.ocn.ne.jp/~assilia8/1-1frame.html

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5972


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金砂神社再訪

2011-09-10 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 9月10日(土)11時34分41秒

南相馬市鹿島区南海老の金砂神社の痕跡が見つからなかったことを8月14日に書きましたが、森幸彦氏(福島県立博物館)のツイッターに、「8月24日、兵庫県神道青年会に和歌山、滋賀の神青が加わり、30名の皆さんが、南相馬市鹿島区南海老の金砂神社、磯ノ上稲荷神社、北右田御刀神社境内八坂神社の3ヶ所に仮社殿を設置してくださいました」とあったので、川口神社の慰霊祭に伺う前に、この三社を参拝してきました。
金砂神社の位置は私が歩き廻っていた場所で間違いありませんでしたが、本当に海のすぐ近くなので、これでは何も残らないなあ、と改めて感じました。
また、磯ノ上稲荷神社の場合、手持ちの地図で単に稲荷神社と記載されていて大きな石碑等があった場所で探してもなかなか見つからず、道路を挟んで少し離れた高台に小さな社殿を発見したものの、屋敷神のようにも思えたので本当にここでよいのかと不安でした。
で、兵庫県神道青年会のホームページを見たところ、間違いないようですね。
写真はいずれも金砂神社ですが、一番下の写真の植物がマルハシャリンバイのようです。

兵庫県神道青年会
http://www.jinja-hyogo.jp/kiji-hyogo-fukushima2-H23.html

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5971
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