学問空間

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鉄の親子

2009-03-30 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月30日(月)23時41分6秒

>筆綾丸さん
>『戦国仏教―中世社会と日蓮宗』(中公新書、湯浅治久著)
湯浅氏は緻密な論文を書く人ですね。

>『ワルキューレ』
私も見たいと思っていました。
28日の投稿でリンクしたサイトはルートヴィヒ・ベック著『鉄の歴史』を翻訳した中澤護人氏に関するものですが、このルートヴィヒ・ベックの同名の息子がヒトラー暗殺計画の首謀者の一人だった元参謀総長だそうですね。



※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「ワルキューレ」 2009/03/30(月) 20:15:03
小太郎さん
最近出版されたこの本は、戦闘的な日蓮宗が中心のようですね。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%90%ED%8D%91%95%A7%8B%B3

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AC_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC

昨日、トム・クルーズ主演『ワルキューレ』をみたのですが、サイエントロジーという
新興宗教の影響があった、とは知りませんでした。
導入部で、トム・クルーズのドイツ語が聞こえてくるシーンがありましたが、ドイツ人
はどう思ったのだろう、と感じました。
ワーグナーのワルキューレはどんな風に使われているのだろう、と期待していました
が、なるほどと思いました。
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ひげ文字

2009-03-30 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月30日(月)01時23分14秒

>筆綾丸さん
私は日蓮宗のひげ文字が苦手で、あの美的感覚にはとてもついて行けないですね。
日蓮宗のお寺の墓地を歩くと、墓石に彫られた無数のひげ文字がザワザワと迫ってくるようで、少しコワいです。

墓地までも 騒々しくて 日蓮宗

ところで、今日は岩田規久男編『昭和恐慌の研究』(東洋経済、2004)を途中まで読んでみましたが、石橋湛山の頭脳の明晰さには本当に驚かされます。
石橋湛山の経済理論は当時の欧米の最先端の学問的成果を反映したもので、日蓮宗には全く関係ありませんが、どんなに論敵が強力で多数であっても一歩も譲らない剛直さは日蓮ゆずりなんでしょうね。

『昭和恐慌の研究』
http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20071002/1191337684

石橋湛山
http://www.ishibashi-mf.org/

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「日蓮さん」 2009/03/28(土) 21:08:29
小太郎さん
日蓮さんの思想にはあまり惹かれないのですが、身延山久遠寺、佐渡島妙宣寺、下総
中山法華経寺、池上本門寺・・・と、結構、尋ねているので、我ながら、驚きです。

「・・・大きな宝篋印塔があり、その基礎の上に年老いた猫が日向ぼっこをしていて、
まあ寄ってけよ、みたいな顔をしていたので・・・」
老猫の表情が髣髴としてくるようで、この感じ、実にいいですね。
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中澤徳兵衛の墓

2009-03-28 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月28日(土)01時22分36秒

中沢新一氏の『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書、2004)には次の一文があります。(p29以下)

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キリスト教・皇国史観・マルクス主義

 網野さんが家族の一員となることによって、父親もほかの叔父たちもそして私も、大きく変っていった。しかしそれ以上に、この結びつきをとおして網野さんの精神には大きな変化と飛躍がもたらされたのではないか、と私は思っている。銀行家の一家の末子に生まれ、お兄さんたちはみな金融や実業の世界で早くから活躍するようになっていたのに、網野さんだけが貧乏な学者の人生を選んだのである。お兄さんたちからは、小さな頃から、頭でっかちで観念的で泣き虫な性格を批判されてきたという。それが、中沢家にやってきてみると、新しく「兄」となった人たちの誰もが、ほかの世界ではありえないほど強烈に、「理念」や「理想」や「観念」ということを追い求めている人々だったのだ。それは今にはじまったことではなかった。この家ではもう何世代もそうなのである。生糸の生産と藍染めを正業とする「紺屋徳兵衛」という人が、私から数えて四代前のご先祖であるが、この人は平素から神官のような白い袴を身につけて神祈祷をおこなう人だったという、かすかな記憶が残されているだけだ(家紋が諏訪大社と同じ梶の葉であるところから見て、諏訪大社に深いかかわりをもっていた人なのではないか、と私は推測している)。人々の記憶に鮮明な痕跡を残しているのは、そのつぎの中澤徳兵衛である。幕末に生まれ、明治の文明開化を全身で受け止めて成長した彼は、生糸の生産販売と貿易で大きな成功をおさめて、財産をなしていわゆる名士となるや、周囲の人々の驚きを尻目に、友人二人とともに堂々とキリスト教に改宗してしまったのである。
 洗礼をほどこしたのは、甲府にあった日本メソジスト教会の牧師・山中共古(きょうこ)だった。この人は江戸城大奥勤めののち、維新後静岡で出会った元新撰組隊士結城無二三(ゆうきむにぞう)から洗礼を受けてクリスチャンとなった人だが、そのことよりもむしろ民俗学の草分けとして、今日ではよく知られている。柳田國男と交わした往復書簡をもとに著された『石神問答』は、日本民俗学の出発点を飾る書物として名高い。徳兵衛はこの山中共古の力添えを得て、日下部教会を創設する(このあたりのことが、なぜか山口昌男『「敗者」の精神史』に詳しく書いてある)。そんなわけで、子供の頃に教会に通っていたとき、なんとなく自分がまわりの信者から特別な目で見られていることを、私はうっすら感じていた。
 このときのキリスト教への改宗が、その子孫たちの精神的遺伝子に、「理念」や「思想」をことのほかに重んずる、観念的な傾向を植えつけることになったのだ、と私はにらんでいる。(後略)
--------

先日、甲府の山梨県立図書館を訪問後、JR山梨市駅からタクシーで根津嘉一郎の生家を保存する根津記念館に行きました。
たいした距離ではなかったので、帰りは山梨市駅までブラブラ歩いて戻ったのですが、途中で少し道に迷ってしまい、困ったなと思いつつ歩いていると、小さなお寺がありました。
門の脇には明らかに近世に作られたと思われるかなり大きな宝篋印塔があり、その基礎の上に年老いた猫が日向ぼっこをしていて、まあ寄ってけよ、みたいな顔をしていたので、入ってみました。
すると、入ってすぐのところに、大きな箱の上に饅頭を載せたような形のお墓があり、お寺さんの墓地の中なのに、何故か十字架が彫られているので近寄ってみると、中澤徳兵衛の墓でした。
私は中澤徳兵衛の名前は山口昌男『「敗者」の精神史』で知っていましたが、お墓は日下部教会の墓地にあるのだろうと思っていたので、ちょっと驚きました。
山梨市駅に着いてから、何となく気になって近くの日下部教会まで足を伸ばしてみると、そもそも教会の周りに墓地などないんですね。
単に私が無知なだけなのでしょうが、これにもちょっと驚きました。

根津記念館

中澤徳兵衛

>筆綾丸さん
>誕生寺
私も去年行きましたが、夕方の閉門間際に行ったので参詣客はおらず、土産物店も閉まっていて、ずいぶん寂しい思いをしました。
意外に狭いなという印象を受けましたが、確かに建物は立派ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「南総里見八犬伝」 2009/03/26(木) 20:32:20
房総に行ってきました。
香取神社の拝殿は見事なものですが、鹿島神宮の要石は、まあ、子供だましですね。
小湊にある日蓮の誕生寺も尋ねてみましたが、立派な建築でした。
頼朝伝説のある鴨川の仁右衛門島は、なかなか面白い所ですね。
館山城の展示は、馬琴の八犬伝が中心でした。
最後に保田の菱川師宣記念館を見ましたが、小さな町の財政では、維持管理が大変でしょうね。
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閑話休題

2009-03-26 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月26日(木)00時57分22秒  

「甲州財閥」一般や、東京電灯の支配をめぐる若尾と三井の争いの概要を知るには『新編 甲州財閥物語』(斎藤芳弘著、山梨新報社、2000年)が手ごろですが、サービス精神溢れる読み物なので、個々の事実の信頼性については不安が残ります。
きちんと調べたい人にとっては、山梨大学教授・齋藤康彦氏の諸論文が参考になります。

http://erdb.yamanashi.ac.jp/rdb/A_DispInfo.Scholar?ID=990876E2DDBC3101

『紳士録』に類する資料を引用する場合、家族関係については特に必要がない限り省略していますが、家風がうかがえて面白い点もありますね。
例えば学歴を見ると、網野善右衛門氏は東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒で、その子供は男子3人のうち長兄は武蔵高校・東京帝国大学法学部、次兄は東京高校・東京帝国大学法学部、三男(善彦氏)が東京高校・東大文学部、女子2人は聖心女子学院ですね。
お金持ちには違いありませんが、真面目で教育熱心、そしてキリスト教に親和的な家庭のようです。
他方、若尾璋八・鴻太郎父子の場合、若尾璋八は東京法学院(中央大学の前身)出身ですが、子供は鴻太郎以下男子5人全員慶應義塾大学、また鴻太郎の男子1人も慶應義塾大学で、男子は慶応に入るものと決まっていたようです。
トップクラスのブルジョワ家庭ですね。
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「網野夫人の手紙」

2009-03-25 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月25日(水)00時10分48秒

次は先に紹介した『甲州人材論』の著者・川手秀一の別の著書、『甲州士魂』(自費出版、昭和18年)所収の随筆です。(p237以下)
かなり奇妙な印象を与える文章ですが、感想は後で書きます。

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網野夫人の手紙

 永い事網野善右衛門氏の高風に接する機会が無かったので、暫く振りで同氏の謦咳に接し、色々と御高説を拝して貧しい紙面を豊にしようと思ひたつて、先日二本榎の東京邸を訪ねると、鎌倉大町の別荘にずつと居られると聞いて、しばらくたつて私は鎌倉まで押しかけて行つた。今から十余年前一度鎌倉の別邸を訪ねた記憶があつたが、今度の邸宅は移られた別の構へであつた。
 私がだしぬけに鎌倉へ行つた日は霞が棚引いて、微かな風さへなく、空気は行儀よく少しも動かぬ日であつた。誰しも湘南を旅して一番心をひかれることは、あの雑木を交へた篁のある小山続きの風景が何とも言へぬ美観を呈してゐることであらう。私は此の日車窓から、霞に包まれた小山つづきの藁家を交へた田園に梅が咲き匂ついてゐるのを眺めて恍惚となり、何とも言へぬ詩境に浴る事が出来た。これだけの風景を眺める事が出来ただけで、もう網野氏訪問の御利益は充分あると思つた。
 後に山を背負つて庭前に清楚な松を植ゑ込んだ網野邸は、如何にも住む人の高雅さを無言に語つてゐるかの如くであつた。玄関に立つて案内を乞ふと、四十四五の品のよい婦人が来られた。後で解つたことだが、この方が網野氏の令夫人であつた。私の名刺をみられて、主人は今病気で静養中だとの事に、私が突然訪問の非礼を詫びて辞去しようとすると、でも折角来たのだからまあ上れと言はれたが、病気中のところに上つたりなどしては失礼だから重ねて帰らうとすると、お茶でもとの事だつたから、それでは、此処でいただきますと言ふと、まあ上れと 言はれたので、上げてもらう事にしたが、私は心中、御病気だが一寸位は会へるから上れ、と、かう言はれたのだと思ひながら靴をぬいで一歩上ると、廊下を白衣をまとつた看護婦が通つた。看護婦が居る様ではと、私は上げてもらつた軽率さに冷汗をかいた。すぐ玄関へ戻るもどうかと考へて、日本間の立派な大きい部屋に通されて二三口ばやに世間話を奥様として、逃げる様にして帰つたが、大変失礼な事をしたと、帰宅してからも、何だか体が落ちつかぬ風であつた。
 野人の私とは言へ、何んとも、知らぬ事とは言へ無礼をしたものだ、お詫びの手紙を出さうかと思つたまま、又次の日の忙しさ、(心や身の)のためについそれもならずにゐて、其の次の日を迎へた朝、はからずも、網野令夫人が代筆の御手紙に接した。こちらから、非礼を詫びたお手紙を差上げ、且つ御病気見舞の意をも表さねばならぬと思つてゐた矢先に、身分の高い方からあべこべに書状を賜つたといふ事は、私をして、身の置きどころもない迄に、感銘を深刻にさせた。文面は御令息様方が十四日の日曜に鎌倉へ行かれるのを、二十一日の日曜に変更させた位だからだと言ふのである。私は先方の事情もきかずに唐突に訪ねる無礼の人物などに迄、こんな手紙を下さる網野先生御夫妻の人柄のよさに、ノツクアウトされてしまつた。御詫びの御手紙を差上げた事は勿論である。
 其処で私は、網野先生夫人の手紙の達筆さといふよりか、気品の高さを語らねばならない。文字は上手だからと言つて必ずしも視る者に好感を与へるものではない。此の文字はまさしく達筆である。達筆であるけれども達筆以上に高雅を秘め蔵してゐる。私は此の御手紙に接して、達筆ならん事よりか、此の高雅さを知らず/\のうちに自らあらはせる様な、人柄の、人物になり度いと、しみじみ思つた。文は人なり、文字も又人なり、私は網野先生の令夫人のことは、全然知らぬが、此の一巻の書状によつて、その高潔さの一部を窺知する事が出来て嬉しい。
 日本人は外国人と違つて、男が全部世間の表面に立つて総ての事に当るが故に、裏に居る夫人のよさ悪るさといふものが、殆んどわからずに居る事が多いが、流石に甲州の豪家網野家の方だけに教養の高さに尊敬の念を一段と高めざるを得ないが、日本には、全然世間にもてはやせられないがかうした立派な女性が多数居ることに私達は気づいて、日本女性の尊さといふ事に再認識をせねばかうした立派な方に申訳がないと想ふ。
(昭和十八年四月)
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江戸川石油

2009-03-24 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月24日(火)22時13分7秒  

『大協石油40年史』(大協石油株式会社社史編さん委員会、昭和55年)を見ると、江戸川石油との合併について、次のような記事がありました。(p42以下)
記事自体はかなり詳しいのですが、江戸川石油創立者の網野善右衛門氏は会社を大日本麦酒に売却し、その後で大協石油との合併がなされたとのことなので、残念ながら網野善右衛門氏の時代の様子は殆どわからないですね。
なお、文中に「江戸川石油は、大正5年に甲州の網野善右衛門が江戸川区東長島町に製油所を建設して以来」とありますが、これは明らかに昭和5年の誤りでしょうね。

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第1章 創業のころ
 第5節 江戸川石油との合同

 昭和16年8月2日、当社は、本社を麹町区丸の内の丸ビルから京橋区銀座西3丁目1番地(旧読売新聞社の裏隣)に移転した。移転後間もない8月12日、当社は本社で臨時株主総会を開催して江戸川石油との合同を付議し、これを承認可決した。その合同に至る経緯は次のとおりであった。
 この合同問題は、石油業法に基づいて商工省燃料局があっせんしたもので、業法に定める企業規模に達していない当社と江戸川石油を合同させ、業法に定める規模に拡大させることを目的としていた。
 江戸川石油は、大正5年に甲州の網野善右衛門が江戸川区東長島町に製油所を建設して以来、ライジングサンから購入するミリ、タラカン重油を原料油として機械油を精製している製油会社であったが、当社が創立された昭和14年ごろには、大日本麦酒がこれを買収して同社社長高橋竜太郎の従兄弟にあたる高橋真男が経営していた。本社も深川区常盤町1丁目から京橋区京橋3丁目1番地の第一相互館4階に移転しており、当社の本社京橋分室とは目と鼻の先にあった。そこで、江戸川石油の販売課長金子美喜は、機械油の売込みで頻繁に京橋分室(以前は斉藤製油所東京営業所)に出入りしていたので、当社とは昵懇の間柄であった。
 商工省燃料局の合同あっせんによって、両者は合同委員会を設け、当社からは山岸清剛、鈴木吉之助、星野竜二、高橋健三郎、石崎重郎が、江戸川石油からは野田武夫、金子美喜が委員に選出されたが、実際に交渉をすすめたのは、石崎重郎、金子美喜の両名であった。
 江戸川石油は当時、名古屋地区への進出を図っており、すでに昭和15年10月1日付で愛知県西春日井郡新川町大字西堀江に製油工場をもつ牛田石油株式会社(社長牛田裕逸、機械油生産能力600缶、これは1日当たり約11kℓに当たる)を買収して名古屋地区進出の足掛かりとしていたため、四日市に製油所建設計画をもつ当社との合併に乗り気であったが、一方の当社側には、問題が残っていた。
 そこで江戸川石油の専務取締役野田武夫は新潟に赴いて、当社取締役石橋清助に協力を要請した。
 合同問題は、この要請を受けた石橋清助の努力によってようやく役員会全体の合意を取り付けるに至ったのであった。
 以上の経緯からみると、江戸川石油との合同は、野田武夫が推進し、石橋清助がこれを支持したため、斉藤英二、山岸清剛、鈴木吉之助以下の役員たちも同意したということになる。
 こうして難航した江戸川石油との合同は、当社が江戸川石油を吸収するということで落着をみ、新資本金は720万円(払込み540万円)となった。江戸川石油の資本金は牛田石油(資本金50万円)の買収後も150万円にすぎなかったが、資産内容から評価してそれを220万円としたのである。
 昭和16年10月15日、当社は、本社で臨時株主総会を開催し、取締役に高橋真男、野田武夫、中村市之助を、監査役に高橋誠一を選出し、つづく取締役会で高橋真男を取締役会長に、野田武夫を専務取締役に選任した。また、11月7日には、8月14日付で商工省に提出していた合同申請が正式に許可された。
 当社と江戸川石油との合同が実現する2カ月前には、日本石油と小倉石油の大型合併が完了しており、翌17年には丸善石油グループ、昭和石油グループが相次いで合併を完成させた。その経緯を図示すると右図のとおりであり、これらの合併によってわが国の石油会社は8社に統合され、商工省は昭和9年以来の集約化の目的を達したのであった。
 その8社とは、日本石油、三菱石油、東亜燃料工業、日本鉱業(昭和14年8月早山石油船川製油所を買収)、興亜石油(昭和16年5月東洋商工石油を興亜石油に改称)、丸善石油、昭和石油および当社である(四国の太陽石油のみが8大石油会社に集中合併されずに存続した地方製油業者の唯一の事例であった)。
 これらの集中合併は、いずれも企業それぞれの内部的必然性から出た自発的行動であったかどうかについては疑問が残るが、しかしバスに乗り遅れた秋田の製油業者などの結末をみると、結果的には、政府の要請にいち早く応えて早期合併を果たしたことは、新潟の8製油業者たちにとっても成功であったし、江戸川石油にしても最後のチャンスをつかんだとみてよいだろう。
 江戸川石油との合同を完了した結果、当社原料油蒸留能力は1日当たり147kℓとなった。当時の石油8社の原油および原料油蒸留能力の状況は次の通りであった。
(図表省略)
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「本邦実業界の重鎮として活躍せり」

2009-03-24 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月24日(火)01時37分27秒

次は同じく『山梨県紳士録』(萩原為次編集、山梨県紳士録刊行所、昭和13年)から、若尾璋八・若尾鴻太郎父子に関する記事の紹介です。
5年前に調べたときは網野善右衛門氏と若尾璋八との関係は気づいていたのですが、若尾鴻太郎が山市商事社長であることを考えると、網野善右衛門氏と若尾鴻太郎との間にも相当緊密な関係があったのでしょうね。
年齢は若尾鴻太郎の方が2歳下ですね。

「三ツ引商事」「三ツ引物産」の「三ツ引」というのは若尾家の家紋で、甲府市・長禅寺にある若尾家の墓所は「三ツ引」だらけです。

峡陽文庫 若尾公園と銅像
http://kaz794889.exblog.jp/9967744/

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若尾璋八

正五位勲三等、貴族院議員、大連中央土地株式会社々長

妻  きよの 明治一一、一〇生、甲府市山田町養父民造長女
長男 鴻太郎 明治二九、一二生、慶応義塾大学卒業、山市商事株式会社社長、京浜コークス、名岐自動車各取締役、共保生命保険会社監査役
(中略)

東山梨郡塩山町広瀬久政の弟、同為久、風間久高、神戸久誠の兄、若尾金蔵、同鉄之助の義兄にして明治六年七月出生、同二十九年若尾民造の養子となり、大正六年義兄謹之助方より分家す、曩に東京法学院を卒業し若尾銀行支配人となり、養父を扶けて同行の経営に与はり、此の間水戸瓦斯、日本化学工業株式会社各重役に選任さる、大正六年以来代議士たること前後三回政友会総務に列し重きをなしたるが、同十五年東京電燈株式会社々長に就任すると共に衆議院議員を辞任し、東京電燈の経営に専念し、次いで大同電力、揖斐川電気、三河鉄道、静岡電力、東京乗合、東北電力、信越電力、東京発電、京浜電力、富士製紙、東京株式取引所、三ツ引商事、同物産、同絹糸、同同族、東京商業銀行外数社の社長又は重役に挙げられ本邦実業界の重鎮として活躍せり、昭和五年東京電燈会社々長を始め一切の関係会社重役を辞任し、同年欧米各国を視察す、同二年貴族院議員に勅選され、同六年鉄道次官に任ぜらる。現時貴族院議員たる外大連中央土地株式会社々長にして政友会顧問たり、(後略)


若尾鴻太郎

山市商事株式会社社長、京浜コークス、名岐自動車
各取締役、共保生命保険会社監査役
(中略)
貴族院若尾璋八の長男にして明治二十九年十二月出生す、慶應義塾大学を卒業し、欧米各国を視察し、帰朝後大正八年三ツ引商事株式会社、同物産、同絹糸、同陶器、バクナル、エンド、ヒレス、三ツ引保全、東京商業銀行等を創立して何も社長又は頭取となり、活躍す、又中央電力、桂川電気興業株式会社、東洋モスリン株式会社等の重役に挙げられ、東都実業界に進出し令名ありたり、現時山市商事株式会社々長たる外前記諸会社の重役を兼ぬ、尚山市商事株式会社は三ツ引商事株式会社の称号を変更せる会社にして従来の商業部門の外事変下の国策に沿ひ工業部門を拡大し、業績見るべきものあり、当社の業績如何は懸つて若尾家の更生を左右する気運にあり、是が前途を嘱目されつゝあり、(後略)
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「当家は地方屈指の旧家にして」

2009-03-22 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月22日(日)23時28分51秒

次は『山梨県紳士録』(萩原為次編集、山梨県紳士録刊行所、昭和13年)p43からの引用です。

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網野善右衛門

多額納税者、江戸川石油株式会社
東京パームチツト商会各社長、甲州
銀行取締役、山市商事会社監査役

養母 まつの 明治一一、四生東山梨郡塩山町広瀬久政妹
妻 さちゑ 明治二九、八亡網野善一長女甲府高女出身
(中略)
東山梨郡塩山町広瀬久政の三男同久忠の弟若尾璋八、広瀬為久の甥にして明治二十七年二月出生大正二年網野家に入婿し同九年先代善右衛門隠居に因り家督相続と共に前名勝丸を改め襲名す、日川中学校を経て東京高等商業学校を卒業し帰郷して網野銀行頭取に就任専ら之が経営に与はり昭和六年大蔵省の勧奨に依り 銀行合同に参画して網野銀行を合同せしめ同年新設せられたる甲州銀行取締役に就任す其後一家を挙げて上京し同八年江戸川石油株式会社々長に就任せる外株式会社東京パームチツト商会を設立して社長となり、目下何れも就任中にして傍ら山市商事会社監査役を兼ぬ、当家は地方屈指の旧家にして代々名主、戸長等の役儀を勤め、先代祖父善右衛門は明治二十四年以郡会議員に当選すること数回、同二十五年貴族院議員に当選し地方自治公共に尽したる功労少なからず同四十五年古稀に際し地方有力者より等身大の鋼像を寄賜さる(後略)
--------------

広瀬家との関係が若干複雑なので、上記を補足しつつ少し整理してみます。
先代祖父善右衛門は明治45年(1912)に古稀なので、1843年生まれとなりますが、この人には善一という明治10年(1877)生まれの男子がいて、広瀬久政の妹である広瀬まつの(1878生)と結婚し、明治29年(1896)長女さちゑが生まれた。
ところが善一は日露戦争に志願兵として参加し、旅順攻防戦で戦死(明治37年[1904]、28歳)。
大正2年(1913)、広瀬久政の息子である広瀬勝丸は網野まつのの養子となり、さちゑと結婚。
広瀬勝丸(網野善右衛門)氏にとって、まつのは16歳上の実の叔母であり、かつ養母となりますね。

また、広瀬久政の弟で22歳上の叔父、若尾璋八(1873[明治6]~1943[昭和18])との関係を加えて簡単な年表を作ると以下のようになります。

1895年(明治27)生まれ
1913年(大正2、19歳)入婿
1920年(大正9、26歳)家督相続
※1926(大正15)若尾璋八、東京電燈社長となる
※1927年(昭和2)金融恐慌、渡辺銀行倒産
1928年(昭和3、34歳)三男善彦誕生
※1928年、若尾銀行整理
1929年(昭和4、35歳)東京移転
※1930年(昭和5)若尾璋八東京電燈社長辞任(1896年以来34年間の若尾財閥による支配終了)
1931年(昭和6、37歳)網野銀行、合併のため解散
1944年(昭和19、50歳)死去
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「温厚の紳士網野善右衛門」

2009-03-22 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月22日(日)22時00分8秒

18日の投稿で「若尾璋八は・・・昭和2年に社長から引き摺り下ろされます」と書きましたが、これは勘違いでした。
昭和2年に三井銀行の池田成彬の意向で取締役会長に郷誠之助、取締役に小林一三が送り込まれ、以後、昭和5年に若尾璋八が追放されるまで、若尾は一応社長の地位を保ちます。
また、若尾璋八と網野善右衛門氏との関係は、網野誠氏のエッセイ「運・根・胆」(『青少年に贈る言葉 わが人生論 山梨編(下)』(文京図書出版、平成3年、p16以下)に、次のように書いてあるのを確認しました。

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私の生まれ育った家は錦生村(現・東八代郡御坂町)で地方銀行と造り酒屋をやっていたが、昭和四年、私が錦生小学校五年のとき、父善右衛門は当時東京電燈の社長であった叔父の若尾璋八に支援を要請されたということで、子供の教育旁ら一家を挙げて東京に移り住んだ。父は昭和五年以降の若尾財閥の没落のため、叔父からの話は実らなかったようであるが、病を得るまでは郷里の銀行とともに、東京では石油会社をも経営していた。
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網野善右衛門氏については、『甲州人材論 第一編』(川手秀一著、山梨協会、昭和5年)という本に以下の一文があります。
この本は少し、というかかなりクセのある本で、目次を見ただけでも「甲州財閥の南瓜頭」「仁義を解せざる堀内良平」「財界百鬼」「脳味噌のない神戸徳太郎」「守銭奴の大崎清作」「呆学博士の猪俣湛清」などという強烈な表現があり、本文はもっとすごいですね。
しかし、網野善右衛門氏に関しては、ずいぶん好意的な書き方をしています。
なお、「はしがき」によると、「文中六七人は、浅川保平氏の筆になるもので、文の末尾に、YまたはYAの記号のあるものが其れ」とあるので、以下に紹介する文章の実際の執筆者は浅川保平という人物です。

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温厚の紳士網野善右衛門

 金持の子としては珍しい、謙遜な温厚な、而して聡明な人だと聞いて居る。彼は徳望と人格とに於て、甲州地方政界に於て随一と云はるゝ広瀬久政翁の令息である。年少、東都の豪農、先々代善右衛門氏の孫養子となり、先々代の没後、今の名を襲名したのだ。日川中学の出身、その同僚で誰一人彼の悪口を云ふ者がない様に、今日甲州の農村は到処、小作争議の為めに、非常の闘争を続けて居るに係らず、彼に対しては矯激な農民党の連中も反感を有つて居らぬ様である。而し、それとて特に小作料を軽減して居るとも聞かぬ。畢竟彼の徳望の然らしむる所である。最も彼の居村たる錦村二之区の農民党の県会議員大鷹貴祐などの経営して居る産業組合に対しては、農村振興の意味よりして、初めより絶大の援助を与えて来た者だ。産業組合が破綻に瀕しても、普通の金貸の様に、決して無理な注文も出さず、只管に組合の後図の発展を希望して、種々の便宜を与えて居るのを見れば、誰れでも有徳の士として之を迎えねばなるまい。目下東京麻布に住むで居る。彼の農村問題に就いての考だと云ふのを聞くに、争議は一時的のもの、我が農業は永遠のものである。地主が農村の先達となつて、農業指導の任に当らねばならぬ、肥料金の貸付や、深耕多産の方法や、都市に対しての交換経済の保護や協調思想の涵養や──幾多の点に於て努力すべき者となし、商大出の彼は現に暇を作つては、官民協会の講演に出かけたり、埼玉や、奥州に実地農業視察に出かけたりして居るとの事である。
 甲州の地主諸君も、時勢の大流が分らず、世の中は所有権者よりも、実際産業に携はれる利用権者(小作人)の方を保護せなければ、社会が進歩しない、国運の発展を期する事は出来ないと云ふ、思想が今、漸時日本に台頭して来て居る矢先、土地会社など云ふ愚にもつかぬ者を作つて、小作人を激発せしめ、宛ら隻手を以つて、大河の決するを止めるが如き、馬鹿の事をして居るが、少しは我が網野氏の進歩せる思想にあやかつて欲しい者である。彼は今尚、少壮有為、その聡明と、其の徳望と、今後の勉強努力とを以つて、既に我が農業に対して指導的実力を失墜し、遊食無為の徒となり、生産者を圧迫する事を以つて、只能事となせる我が農村の地主に対しての一大清涼剤となり、兼ねて、現に破綻に陥れる我が農業を一日も早く救はんが為めに、現下の忌む可き争議より脱出せしめ、(争議は結局両者の損だ、無産運動者と称する大小無数の、利権屋や、名誉欲者を満足せしむるのみだ。一日早く争議が中止すれば、一日早く国家は更生の道に這入る。而し、それには我が地主諸君が合理的に生産者たる小作人を保護し得る丈け保護し、自己の取分を合理点に退却する外に道はない)我が故郷の農業を維新後より、日露戦争の時頃迄の状態に復帰せられん事を望むのである。前途有為なる彼に対して、此の希望を持つのは決して記者は無理とは思はぬ。(Y)
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網野銀行

2009-03-22 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月22日(日)00時09分23秒

昨日・今日と山梨に行ってきました。
少し書いてみたいことがあるのですが、その前に基本的な事実関係を押えておくため、いくつか資料を紹介しておきます。
まず、『創業百年史』(山梨中央銀行、1981年)p625以下から引用します。

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無限責任網野銀行

設立の経緯
 東八代郡(現御坂町)は甲府盆地の東南部に位置し、金川と浅川が形成した御坂扇状地のほぼ中央に位置する純農村であった。同村の産業は、米・麦・綿・大豆などの生産が中心であったが、明治10年以降は、養蚕業も盛んとなった。その後、養蚕業の発展によって製糸工場が設立され、30年末の同村所在の製糸工場は9社を数えた。同村には、15年1月に銀行類似会社「済通社」が設立され、近郊農家や製糸業者の金融の利便を図ってきたが、同社が25年12月に業務を終えて以後、同村の金融は地主・質屋などに委ねられていた。
 明治31年、網野善右衛門によって無限責任会社網野銀行の設立が計画された。そして同年12月に設立認可を得て、資本金5万円をもって東八代郡錦町320番戸の自宅に設立され、32年1月2日に開業した。初代行主網野善右衛門は東八代郡でも有数の地主で"網野酒造店"を営むかたわら、30年には貴族院多額納税議員互選人となり、34年には貴族院議員となった有力者であった。

実業の推移
 同行は地元製糸業者や周辺農家などを主な経営基盤とし、これらへの貸出しを積極的に行なった。32年6月末の資金運用をみると、その構成割合は、貸出金63.2%、有価証券36.8%となっている。
 しかし、明治末から大正初期にかけては有価証券が増大し、資金運用面に大きな変化がみられるようになった。有価証券は開業当初30%前後の構成比であったが徐々に増加し、大正5年末には残高25万6,405円、構成比61.3%にも及んだ。その後、10年ごろには20%程度に低下したが、この要因は貸出金の著しい拡大によるものであった。10年6月末の状況をみると、資本金15万円、預金55万6,000円に対し、貸出金60万4,000円(構成比81.4%)、有価証券13万8,000円(18.6%)であった。
 一方、預金は開業時は少なく、その後、徐々に増加していったが、貸出金・有価証券の伸びには追いつかず、このため、明治42年には資本金を15万円に増額して資金の充実を図った。大正期に入って、預金は著しい伸びをみせ、2年末には資本金、貸出金を上回った。
 大正9年、網野善右衛門の子善一の養子であった勝丸(七里銀行取締役広瀬久政の次男)が家督を相続して善右衛門を襲名し、2代行主となった。2代行主網野善右衛門は、14年6月の貴族院多額納税者議員互選人の名簿によると、直接国税5,650円を納める多額納税者で、多くの会社役員をつとめるなど名望家として知られた。
 昭和2年の金融恐慌以後、同行は経営不振を余儀なくされ、預貸金とも急激に減少した。貸出については、個人銀行という性格から放漫に流れることもあって、4年上期には不良債権が32万円にものぼった。当時、行主が東京に在住していたことから、このなかには東京方面の大口貸出が相当含まれていたといわれる。(1)

甲州銀行の新立
 同行は銀行法の施行によって無資格銀行となり、また時を同じくして、大蔵省から経営不振を理由に業務停止の勧告を受けた。しかし、行主網野善右衛門は同行が東八代郡唯一の銀行であるため、廃業した際の地域金融を憂えて、他行との合同を望んだ。
 こうしたなかで、県当局によって七里、盛産および同行の3行合同が慫慂された。そして、前述のように紆余曲折を経て、ようやく6年12月に甲州銀行が新立された。これによって、行主網野善右衛門および支配人穴山春夫は、新銀行取締役に就任した。

注:(1)昭和4年6月製『網野銀行答申書』
-------------

山梨中銀金融資料館 山梨中央銀行史
http://www.yamanashibank.co.jp/shiryo/history.html
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韜晦or天然

2009-03-18 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月18日(水)23時39分7秒  

>筆綾丸さん
>鼠
鼠に鈴木商店と聞くと、私は何となく速水優・元日銀総裁を思い浮かべてしまいます。
ミッキーマウスを糠床で古漬けにしたような風貌の速水優氏は、岳父が鈴木商店を経て日商を創立した人だった関係で日商岩井の社長になって会社を傾け、ついでに運命のいたずらというか、橋本龍太郎首相に魔が差して日銀総裁になってしまい、日銀の独立性は確保したけれど日本経済を傾けた立派な総裁だなあ、というのが私の偏見です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9F%E6%B0%B4%E5%84%AA

>網野善右衛門さん
網野善彦氏自身は父親について次のように書かれています(『歴史としての戦後史学』p277以下)

---------
─山梨のお生まれで小学校は東京だそうですが、何歳のときに東京に・・・。
網野 何しろ記憶がない頃なので正確には知らんのですが、たぶん生まれて間もなくだと思います。父が東京で事業をやることになって、家族が全部東京に出てきたんです。
─父上は何をされていたのですか。
網野 小作人から地代をとる地主で、父のときはもうやめていたかもしれませんが、造り酒屋もやっていました。山林ももち、養蚕もやっていたようです。それから高利貸し─こう言うと兄などはいやな顔をしますが、金融業で「網野銀行」という地方銀行をやっておりました。これは甲州銀行と合併して、やがて山梨中央銀行に合併されるのですが、東京に出てきたのは合併の前後ぐらいでしょうか。確かのちの大協石油の前身で、「江戸川石油」という石油会社を始めたようです。
ところが父は運の悪い人で、僕が小学校に入る前後に肺結核にかかってしまった。あの時代には治りようのない病気で、しばらくは頑張ったと思うのですが、一進一退を繰り返して結局、一九四四年(昭和十九年)に亡くなりました。だから、僕は父や母とは縁が薄いんです。父は療養のために沼津や鎌倉を転々として、母もいつも看病に行っておりましたからね。祖母が私たち子供の面倒をみてくれたわけで、まことに気ままな育ち方をしてしまった(笑)。
─すると、ご両親の影響は・・・。
網野 兄たちはともかく、僕の場合はありませんねぇ。もっぱら祖母に育てられたので、家ではみんな甲州方言だったんです。(後略)
---------

網野氏が語る父親の仕事は、「父のときはもうやめていたかもしれませんが、造り酒屋もやっていました」などという部分からも伺えるように、正確さを欠いていますね。
最初はこれは韜晦なのかなと思ったのですが、どうも天然の可能性が高いようです。
ホントに興味がなかった、知らなかった、と。
私としては、『網野善彦著作集』の月報に、網野家関係者、できれば著名な弁護士・弁理士である長兄の網野誠氏あたりが網野家から見た網野善彦像を描いてくれたら面白いなと思っていたのですが、今のところ期待薄のようです。

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「山市商事・山市物産」と山一證券

2009-03-18 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月18日(水)00時47分29秒

>筆綾丸さん
>三井広報委員会
普通に読み流してしまいましたが、確かに三井の名にふさわしくない雑な記述ですね。

>パームチット
5年前には「パームチット」に気を取られて「山市商事・山市物産各㈱監査役」には特に注意しなかったのですが、これは若尾銀行・若尾財閥との関係を示すものかもしれないですね。
ウィキペディアで「山一證券」を見ると、

---------
山一證券は、1897年4月15日に山梨県出身の創業者小池国三が東京株式取引所仲買人の免許を受け、1週間後兜町に小池国三商店を開店したことをもって創業としていた。国三は上等小学校卒業後、若尾銀行・東京電灯の若尾逸平の番頭として働いた後に独立した人物であった。開業にあたっては、旧主若尾家の商標・山市(^の下に「市」)にちなんで、山一(^の下に「一」)という商標を使用した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%80%E8%AD%89%E5%88%B8

とありますが、網野家は善右衛門氏の実家である塩山の広瀬家を通して若尾家と親戚関係にあります。
広瀬家から若尾家に養子に入った若尾璋八は東京電力の前身である東京電灯の社長となって権勢を振るっていたのですが、三井と対立して、昭和2年に社長から引き摺り下ろされます。
ただ、その後も若尾璋八は三井に推された小林 一三(阪急グループの創業者)と闘って、結局は敗れるのですが、網野善彦氏の「一歳にもならない一九二九年の一月、父が東京に出てから山梨をずっと離れており」(『甲斐の歴史をよみ直す』あとがき)との記述と照らし合わせると、若尾璋八の甥である網野善右衛門氏は、三井と抗争中の若尾璋八から東京に応援団として呼ばれたのではなかろうか、というのが私の一応の推測です。
ま、だから何なんだという気もするのですが、このところ昭和恐慌を詳しく知りたいという気持ちが強くなっているので、若尾銀行の崩壊過程を調べるついでに網野善彦氏の引越しの背景を探るのも面白いかなと思っています。

報知新聞 1931.1.22-1931.1.24(昭和6)
金融産業両資本の対立と抗争 電力界 東電の整理問題
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00057290&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA

若尾璋八
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/W/wakao_sho.html

コメント (2)
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パームチットの謎

2009-03-17 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月17日(火)01時06分43秒

『網野善彦著作集』の月報をパラパラ読むと、二人の方が白金にあった網野邸のことに触れていますね。
私は網野氏の訃報を聞いた後、網野家は何だか面白そうだなあと思って、網野銀行に関することを調べていろいろ書いてみたのですが、ある資料で旧網野邸の住所を知ることができたとたん、何だか自分は興信所みたいなことをやっとるなあ、と急に全てイヤになってしまって、それっきりにしていました。
その資料は谷元二編・発行『大衆人事録 第一四版』(昭和17年)というもので、1987年に日本図書センターから『昭和人名辞典』として復刻されています。
発行時の出版社は「帝国秘密探偵社」となっています。
うーむ。
帝国・・秘密・・探偵社・・・。
ひじょーに怪しい名前なのですが、ま、それはともかく、第1巻38pの「網野善右衛門」氏の項目を見ると、「東京パームチット商会㈱社長 甲州銀行取締役 山市商事・山市物産各㈱監査役」とあり、以下、住所・電話番号・「閲歴 山梨県広瀬久政二男明治廿七年二月生れ 網野まつのの養子となり前名勝丸を改め襲名す 趣味ゴルフ」と続いて、「家庭」の最後に「四男善彦(昭三)」とあります。
この「パームチット」というのがちょっと気になっていまして、『広辞苑』によると「パームチット【permutite】 硬水の軟化剤。アルミノ珪酸ナトリウムの商標名」だそうですが、ではどういう事業なのかとなると、今ひとつイメージが浮かびません。
あるサイトによると、洗濯石鹸にはこれが入っているようです。

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石けんカスを防ぐには、水を軟水にするしかない・・・
そこでいつしか石けんには「硬水軟化剤」という薬が混ぜられるようになりました。
泡立ちの良い石けん=「硬水」を「軟水」に変えてしまう薬が入っている。
石けんだと、代表的なもので「エデト酸塩」。
(表示指定成分。硬度を包み込んでしまう。アレルギーを起こす)
洗濯石けんだと、「アルミノケイ酸塩」(ゼオライト)
(粘土状の微粒子。硬度を吸いつける。いろんなところにこびりついてしまう)
その薬の正体は・・・お肌に悪かったり、環境に悪かったり。
特にお肌にトラブルのある方は、なるべく使いたくない薬だと思います。

http://www.geocities.jp/tururionsen/ohanasi2.html


5年ぶりに石鹸の泡のような疑問がふつふつと湧いてきましたので、ちょっと書いてみました。

>筆綾丸さん
>三野村
この人がうまく立ち回らなければ三井家も徳川幕府と心中しかねなかった訳ですから、三井広報委員会が「三井史を彩る人々」の二番目として特筆するのももっともですね。
ただ、三井家の「三」をもらったといえば聞こえはいいですけど、ずいぶんいい加減な名字のつけ方のような感じもします。

三井広報委員会
http://www.mitsuipr.com/history/hitobito.html

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「運動も結構だが勉強もして下さい」(by 坂本太郎)

2009-03-15 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月15日(日)19時44分3秒

昨日、『網野善彦著作集第四巻』の「月報15」を読んでいたら、網野善彦氏に関して私がかねて疑問に思っていた点について、犬丸義一氏が言及されていました。
2002年12月、「歴史学研究会創立70周年記念シンポジウム」という行事があり、私も物見遊山気分で聴講していたのですが、質疑応答の時間になると、私のすぐ近くにいた老人が立ち上がって、発表者との間であまり噛み合わない議論をしていました。
それが犬丸義一氏だったのですが、中国密航など普通の学者とは違った経歴を持つ方なので、やはり一種独特の雰囲気がありましたね。
何の本だったか、学生時代の犬丸義一氏が仲間と山辺健太郎宅を訪問したところ、足の踏み場がないほど本がうず高く積まれたボロアパートの片隅で、山辺健太郎が本に埋もれるように暮らしていた、という一文を読んで、ちょっとうらやましいなと思ったことがあります。
ま、それはともかく、犬丸義一氏の文章を少し紹介してみます。

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網野さんと私 ─学生時代を中心に

東大入学のころ
 網野善彦さんとの最初の出会いは、一九四九年四月の東京大学入学式の日のことである。網野さんと私は一九二八年生まれの同い年だが、福岡での教師生活などを経てから上京・入学した私にとって、網野さんはすでに二学年上の先輩であった。
 入学式後の学友会(自治会)の歓迎会で、委員長として挨拶に立たれた佐藤※子(ようこ)さん(のちの藤原彰夫人)に、まず鮮烈な印象を受けた。挨拶の中身はほとんど覚えていないが、女性の委員長ということ自体がある種のカルチャーショックだった。そのあとは、各学科ごとに研究室に散らばっていき、われわれ国史学科の新入生は、坂本太郎・岩生成一両教授、宝月圭吾助教授の話を聞いた。坂本主任教授が話のなかで「君たちはおそらく学生運動をやるのだろうが、運動も結構だが勉強もして下さい」と言われたほどに、学生運動が昂揚している時期だった。先生方に続いて登場したのが三年生の網野さんで、東大歴研(歴史学研究会)を代表して挨拶し、各研究会の紹介などをしてくれた。
(中略)
 そうした高揚の中で、私たち国史学科の四九年入学組十六人のうち実に九人までが共産党に入党する。入党に際しては推薦者が二名必要という規約上の決まりがあって、私の推薦者は東大歴研の先輩のうち特に影響を受けたお二人、藤原彰さんと網野さんであった。この一九四九年という年は、一月の総選挙で共産党の議席が一挙に三五に伸長し、『東大新聞』の意識調査でも東大生の支持政党の第一位が共産党という、今から見れば特異ともいえるほど左翼化の進展した時期で、「九月革命説」が流布していた。
(中略)
 東大国史専攻の党員メンバー同士のつながりは、ある種の生活共同体ともいうべき密接なものだったのだ。そのリーダーが藤原さんと網野さんであった。

卒業前後の網野さんと私
 ところで、網野さんは自らの歩みを振り返るいくつかの文章の中で、この頃の自己のあり方について厳しく批判し反省している(『歴史としての戦後史学』所収の「戦後の"戦争犯罪"」「戦後歴史学の五十年」など)。たとえば、一九四九年から五〇年にかけて、卒業論文に専念していたことを、「優遇され」「"学問"の名の下に特権的な道に身を寄せ」などとしているが、その過大、過剰ともいうべき負い目の感じ方については、同じ時代を身近に過ごした者として、私はかなり違和感を持っている。
--------

続きはまた。

九月革命説
山辺健太郎(1905‐77)
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「近代国家権力の本質」

2009-03-15 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月15日(日)10時18分16秒

1954年生まれの小松裕氏が長年にわたって歴史を研究し、思索した結果として到達した地点は、「はじめに」に集約されているように思いますので、それを引用してみます。(p11以下)

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「いのち」の序列化

 いのち。
 それは、近代国家権力のもっとも本質にかかわる存在である。国家権力は、身体(しんたい)のみならず人びとのいのちをも支配し、管理しようとしてやまない。その意味で、あらゆる政治は「いのちをめぐる政治」にほかならない。
 本巻が対象とする時期は、一八九四年(明治二七)の日清戦争から一九二〇年代までである。これまでの通史ではありえない時期区分を行なった理由は、近代国家権力の本質ともいうべき「いのちをめぐる政治」がこの時期にこそ明確に出現してくるからである。それをひとことで表現するならば、「いのち」の序列化である。人びとのいのちに序列をつけ、一方は優遇し一方は抹殺するという政策を実施し、それを人びとに当然のこととして受容させていく政策のことである。
 日清戦争に始まり、その後ほとんど一〇年ごとに繰り返された対外戦争で失われた無数のいのち。もちろんそれは日本人だけのいのちではない。そこで敵とされた人びとのいのちは、殺されて当然のものと位置づけられ、喪われても悼まれることさえなかった。しかも、国家は、死者をも序列化する。国民国家は、一般に国のために戦った死者を「英霊」として祀るが、じつは祀られなかった人もたくさんいた。悼まれることのなかった死者の存在が、そこには隠されている。それだけではなく、軍の階級によって一時金や年金にも歴然とした差別があり、序列化されていた。
 植民地支配とは、「いのち」の序列化と同義であった。(中略)

「いのち」の序列化を支えたもの

 「いのち」の序列化を生み出し、それを強化していった最大の要因は、人びとの「文明」意識にあった。「文明」の対極に「野蛮」が存在した。(中略)
 つぎに大きかった要因は、「民族意識」である。近代日本人の民族的優越感は、「文明」意識と重なり合い、対外戦争の相次ぐ勝利と植民地の獲得という帝国日本の発展そのものによって、かきたてられていった。(中略)
 第三には、「国益」や「公益」という考え方である。往々にして資本家の利益を代弁したにすぎないそれは、何が「国益」であり「公益」であるかを決定する権限を政府が独占していただけに、あらがいようもない大きな力で人びとにのしかかってきた。(中略)
 以上の三つと比べるとその比重は小さいが、ジェンダー(性差)の問題も忘れてはならない。(中略)
 最後に、一九二〇年代から強調されはじめた「健康」という概念である。(中略)
大きくまとめるならば、これらの五つの要因が相互にからまりあって、「いのち」の序列化をささえていったのである。
 (後略)
---------

小松裕氏は「国家権力は、身体のみならず人びとのいのちをも支配し、管理しようとしてやまない」、それが「近代国家権力の本質」なんだ、近代国家は「一方は優遇し一方は抹殺するという政策」をとってきたんだ、と言われますが、私にはどうも理解できないですね。
同時代の欧米諸国を見ても、例えばアメリカなど、移民をドンドン受け入れて、この国の基本原則はとにかく「自由」だから、みなさん勝手に生きてください、国家は干渉しません、と言っていた訳で、「管理」の対極にあるように見えますね。
また、「一方は優遇し一方は抹殺するという政策」と言われると、私としてはナチスドイツのホロコースト、スターリンの大粛清、毛沢東の文化大革命くらいしか思い浮かべることはできないですね。(某将軍様の国は「近代国家」といえるのか疑問もあるので、一応除いておきます)
帝国主義の時代だったのだから、日本を含めて近代国家は戦争や植民地支配をしてきた訳ですが、それが「いのちの序列化」「一方は優遇し一方は抹殺するという政策」と同義だと主張するのは、まあ、扇動のためのレトリックとしては面白いですけど、果たして学問と言えるんですかね。
更に、「いのち」の序列化の要因が、①人びとの「文明」意識、②「民族意識」、③「国益」や「公益」という考え方、④ジェンダー(性差)の問題、⑤「健康」という概念、だと言われても、それが「一方は優遇し一方は抹殺するという政策」と直接結びつくかというと、そうでもないんじゃないですかね。
逆に、この五つの「要因」は、現代的な福祉国家観と結びつくと言うこともできそうです。
まあ、小松裕氏は一応は大学教授なのだから、そんなに頭が悪い訳じゃないでしょうけど、種々雑多な情報を集める能力はあっても、複雑な近代国家の通史を描くのに要求される高度な情報統合能力があるかというと、多少の疑問を感じますね。


>筆綾丸さん
>渋沢翁
全く言及はないですね。
小松裕氏は、「国益」や「公益」という考え方は「往々にして資本家の利益を代弁したにすぎない」、という発想をする人なので、「資本家」などには特に興味はないのでしょうね。
経済に何の関心もない人に近代資本主義の成長期の通史を描かせるのだから、五味文彦氏等の『全集日本の歴史』編集委員の見識もなかなかのものです。
『全集日本の歴史』に比べると、網野善彦氏以下、編集委員の中に一人も近代史の専門家がいない講談社の『日本の歴史』シリーズは意外に近代史のバランスがとれていて、充実していますね。
誰が中心となって人選したのか、ちょっと気になります。
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