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『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)

2020-05-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月31日(日)11時22分39秒

「義時追討説」を唱える研究者軍団の棟梁と思われる野口実氏の最新の見解も少し紹介しておきます。
引用は「序論 承久の乱の概要と評価」(野口編『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』、戎光祥出版、2019)から行います。

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これまで乱の勃発要因や合戦の動向の解明に主眼が置かれてきた承久の乱を主題に取り上げ、後鳥羽院が率いる朝廷や後鳥羽院周辺の人物、さらには幕府の諸将や構造等を多面的に再検討することで、承久の乱の前と後で、中世社会の何が変化したのかを明らかにする。

https://www.ebisukosyo.co.jp/item/522/

「義時追討説」派の特徴のひとつとして慈光寺本『承久記』の重視が挙げられるので、まずはこの点について、論文の冒頭部分を引用します。(p8以下)

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 承久の乱の史料

 従来、承久の乱の顛末は、鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』や流布本『承久記』によって叙述されてきた。本来なら、一次史料である貴族の日記などに拠らなければならないのだが、乱後の院方与同者にたいする幕府の追及が厳しかったため、事件に直接関係する記事を載せた貴族の日記などの記録類がほとんどのこっていないからである。しかし、『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、勝者の立場あるいは鎌倉時代中期以降の政治秩序を前提に成立したものであって、客観的な事実を伝えたものとはいえない。承久の乱後の政治体制の肯定を前提に後鳥羽院を不徳の帝王と評価したり、従軍した武士の役割などについて乱後の政治変動を背景に改変が加えられている部分が指摘できるからである。
 そうした中、最近その史料価値において注目されているのが、『承久記』諸本のうち最古態本とされる慈光寺本『承久記』である。本書は、乱中にもたらされた生の情報を材料にして、乱の直後にまとめられたものと考えられる。そこで、ここでは、できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成してみたい。
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そして、野口氏も「コントロール」に言及されているので、この点を確認しておきます。
後鳥羽が藤原秀康を使って在京中の三浦胤義を味方に取り込み、次いで承久三年五月十五日に京都守護の伊賀光季を討った後の記述です。(p11以下)

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京よりの使者

 光季は討死の前に、院の挙兵を伝える文書を下人に託していた。この下人が京都を発ったのは十五日戌刻(午後八時頃)であったが、これと同時刻に三浦胤義の使者も義村宛の書状を携えて鎌倉に向かっている。また、院からは幕府の有力御家人である北条時房・三浦義村・武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏らに、五機七道諸国に宛てた義時追討の官宣旨と義時の幕政奉行を停止すべしとする院宣が下された(とりわけ北条時房・三浦義村の両人に対しては、院の内意を伝える秀康の秀康の書状が添えられた可能性がある)。これらを携えた院の下部押松が、鎌倉を目指して京都を出発したのは、十六日の寅刻(午前四時頃)のことであった。
 早馬を駆って夜を日についで東海道を走り抜けた押松が鎌倉に到着したのは、十九日の申刻(午後四時頃)のことであった。一方、光季の使者も僅かに遅れて酉刻(午後六時頃)に鎌倉に入り、すぐに北条政子のもとに参上したのである。政子は即座にこの情報を諸方に伝え、政子のもとには武田・小笠原・小山・宇都宮・長沼・足利氏ら義時追討宣旨の発給対象となった有力御家人たちが参集した。
 ここで政子は、義時追討を幕府追討にすり替えることによって彼らを説得してしまう。すなわち、義時が討たれれば、頼朝以来築き上げてきた幕府という組織とその機能が消滅し、御家人たちの既得権が失われてしまうことを、頼朝の後家、頼家・実朝の母、義時の姉という立場から情を交えて切々と語りかけたのである。
 後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとしたのであって、決して幕府を消滅させようと考えていたのではなかった。北条氏の専権に不満を持つ御家人たちが義時追討の宣旨を受けて立ち上がることを期待していたのである。しかし、この政子の説得によって、院の目算は水泡に帰してしまった。
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坂井孝一氏は「後鳥羽が目指したのは義時を排除して幕府をコントロール下に置くことであり、討幕でも武士の否定でもなかった」(『承久の乱』、p156)と言われますが、具体的に何を、どのように、どの程度「コントロール」するのかは明示されていません。
野口氏の場合、「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」ということで、「完全に」ですから、何を、どのように「コントロール」するのかは不明ですが、「コントロール」の程度は相当に強力のようです。
しかし、他方で野口氏は「義時が討たれれば、頼朝以来築き上げてきた幕府という組織とその機能が消滅し、御家人たちの既得権が失われてしまうこと」は政子による「すり替え」だと言われているので、どんなに後鳥羽が「コントロール」を強化しようとも、「頼朝以来築き上げてきた幕府という組織とその機能」は「消滅」しないし、「御家人たちの既得権」は失われないことになりそうです。
まあ、確かに抽象的にはそういう微妙な中間領域が想定できない訳でもないのかもしれませんが、具体的に幕府諸機関の役職の人事権や守護・地頭の人事権を誰が掌握するのかを考えて行くと、後鳥羽が「幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうと」すれば、人事権は最終的には全て後鳥羽が掌握することにせざるをえず、その場合には「幕府という組織とその機能」は「消滅」しないにしても形骸化は否めず、「御家人たちの既得権」も相当弱体化するのではないですかね。
ま、坂井氏の場合も野口氏の場合も、北条義時を追討すればそれだけで後鳥羽が満足するという純度100%の「義時追討説」ではなく、プラスアルファとして、何らかの幕府への「コントロール」を想定していることは確認できました。
ま、それは当たり前で、北条義時を追討したとしても、「幕府という組織とその機能」をそのまま温存すれば第二・第三の「義時」が登場するだけの話であり、骨折り損のくたびれ儲けになってしまいますからね。
なお、野口氏は北条政子が「義時追討を幕府追討にすり替え」たと言われる訳ですが、これは幕府の有力御家人らに事態を正確に認識する能力がなく、彼らは政子の「すり替え」に騙されるほど莫迦だった、と言うに等しい評価ですね。
果たして彼らは本当にそこまで莫迦だったのか。
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