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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その29)─関幸彦氏は何故に「伊王左衛門」能茂に何の疑問も抱かれないのか。

2023-10-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
私が「慈光寺本妄信歴史研究者」の「大将格」と思い込んでいた関幸彦氏は、五つのメルクマールに即して検討してみたところ、意外にも(1)(2)については慎重な態度であり、僅かに(4)「逆輿」に該当するのみでした。
もちろん、このメルクマールの設定自体、慈光寺本にしか見られない多くの記事の中から、私が(ある意味、恣意的に)選択したものであり、他のメルクマール、例えば

(6)慈光寺本における藤原能茂の役回りを素直に信じるか。

といった設定をすれば、関氏はやはり「大将格」であった、という話にもなり得ます。
改めて私が何故に関氏を「大将格」と思い込んでいたかというと、それは関氏が慈光寺本と他の諸本、特に流布本との異同に極めて無頓着で、慈光寺本にしか存在しない記事を、あたかも『承久記』に共通に書かれている記事であるかのように引用されるからですね。
その典型が後鳥羽院出家の場面に描かれる「伊王左衛門」能茂の役割です。
後鳥羽院が「彼堂別当ガ子」と能茂の出自に言及した上で、最期の願いとして能茂に会いたいと北条時氏に懇願すると、それまで「琰魔〔エンマ〕ノ使」のようであった北条時氏が突然涙を流し、父・泰時に対して、「伊王左衛門能茂は、前世において「十善君」後鳥羽院とどのようなお約束をし申し上げていたのでしょうか。「能茂に今一度だけ会いたい」との「院宣」が下され、都において「宣旨」を下されるのは、今はこの事ばかりです。早く「伊王左衛門」を後鳥羽院の御そばに参上させなさるべきと思われます」という手紙を書きます。
そして時氏の手紙を見た泰時は、周囲の「殿原」に対し、「皆さん、時氏の書状を御覧くだされ。今年で十七歳の若さなのに(実際には十九歳)、時氏にはこれほどの思いやりの心があったのだ。立派なものだ」と絶賛して、時氏の言葉に従い、能茂を後鳥羽院に会わせるように手配します。
その際、「伊王左衛門、入道せよ」と命じたとのことで、能茂が出家してから参上すると、後鳥羽院は能茂を御覧になって、「出家したのだな。私も今となっては剃髪しよう」と決意され、仁和寺の御室(道助法親王、後鳥羽院皇子)を御戒師として御出家なされたので、御室を始めとして、見奉る人々、そのお話を聞いた人々は、身分の高い者も賤しい者も、猛々しい武者に至るまで、涙を流し、袖を絞らぬ者はいませんでした、という展開となります。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その58)─「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a204b22519ff861aada15f0e4942569
(その61)─「其時、武蔵太郎ハ流涙シテ、武蔵守殿ヘ申給フ事」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3412d6a819e9fd4004219b4ca162da01

関氏は、この場面について、「ここには勝者時氏の驕慢と敗者後鳥羽の失意が文学的筆致で描写されている。運命を甘受せざるを得ない敗者の定めが活写され、『承久記』でのハイライトシーンの一つでもある」(『承久の乱と後鳥羽院』、p134)などと言われていますが、私にはそんな素晴らしい場面とは思えません。
まあ、「文学的筆致」とあるので、関氏はこのエピソード全体が史実と断定されている訳ではありませんが、そうかといって、さほど疑っておられる気配も感じられません。
これほど嘘くさい場面に、関氏は何故に格別疑問を抱かれないのか。
私には、その理由は「最期の望みとして寵愛していた伊王能茂との面会を願う」(同)という表現に現れているように思われます。
藤原能茂は後鳥羽院の「寵童」であったと推定されていますが、この関係が一種のブラックボックスとなっていて、よく分からないけれども、二人の間には余人には理解困難な何か特別の世界があったのだろう、ということで、何となく済まされているのではないか。
あるいは、「寵童」がマジックワードになっていて、能茂は「寵童」だから、で多くの研究者が思考停止に陥っているのではないか。
しかし、能茂が後鳥羽院と特別に親密な関係を持つ「寵童」であったと伺わせる史料は、実際には慈光寺本の後鳥羽院出家の場面だけですね。
単に「寵童」というだけなら、おそらく「愛王左衛門」渡辺翔もそうだったのだろうと思われます。
また、『吾妻鏡』六月十八日条の「六月十四日宇治合戦討敵人々」の最後の方に、

 古郡四郎〔一人。瑠璃王左衛門尉。西面。生取〕

とあって、古郡四郎が「瑠璃王左衛門尉」を生捕りし、その人物は西面の武士だったとのことですが、

 医王左衛門尉(藤原能茂)
 愛王左衛門尉(渡辺翔)
 瑠璃王左衛門尉

と「〇王左衛門尉トリオ」になっていますから、この人物も後鳥羽院の「寵童」の可能性が高そうです。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その55)─「シレ者ニカケ合テ、無益ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e19d58a3e31ad3b612ce848bfe020d1a

それ以外にも、単に「寵童」というだけだったら大勢いたかもしれないので、「寵童」という関係をことさら重視し、これをブラックボックス、マジックワードとするのは適切ではないと私は考えます。
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