続きです。(p210以下)
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七月十三日、後鳥羽は鳥羽殿から隠岐島に移送される旅路についた。「慈光寺本」によれば、伊東祐時が身柄を受け取り、「四方ノ逆輿」に乗せたという。輿を進行方向と逆向きにする、罪人移送の際の作法である。供奉したのは「伊王左衛門入道」藤原能茂と、坊門信清の娘で頼仁親王の母「西ノ御方」(坊門局)ら女房二、三人、旅先での急死に備えて用意された聖一人であった。『吾妻鏡』は「内蔵頭(高倉)清範入道」も従ったが、途中で召し返されたため、「施薬院使(和気)長成入道」と「(藤原)能茂入道」が追って参上したとする。いずれにせよ護送の武士以外は、ほんの少数の供奉人だけであった。
道中では遥かに水無瀬殿に思いを馳せつつ、播磨国・美作国・伯耆国を経て、「慈光寺本」によれば十四日ほどで「出雲国ノ大浜浦」に着いたという。また、『吾妻鏡』七月二十七日条には、出雲国大浜湊に着いた後鳥羽は、ここでいったん船に乗り換えたとある。武士たちの多くはここで帰京した。その機会を捉え、後鳥羽は母の七条院殖子と寵姫の修明門院重子に和歌を送った。
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「四方ノ逆輿」は慈光寺本にしか登場しませんが、慈光寺本では当該場面は、
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去程ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ西ノ御方・大夫殿・女官ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕ニテモ御命尽サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。「今一度、広瀬殿ヲ見バヤ」ト仰下サレケレドモ、見セマイラセズシテ、水無瀬殿ヲバ雲ノヨソニ御覧ジテ、明石ヘコソ著セ給ヘ。其ヨリ播磨国ヘ著セ給フ。其ヨリ又、海老名兵衛請取参セテ、途中マデハ送リ参セケリ。途中ヨリ又、伯耆国金持兵衛請取マイラス。十四(日)許ニゾ出雲国ノ大浜浦ニ著セ給フ。風ヲ待テ隠岐国ヘゾ著マイラスル。道スガラノ御ナヤミサヘ有ケレバ、御心中イカゞ思食ツゞケケン。医師仲成、苔ノ袂ニ成テ御供シケリ。哀〔あはれ〕、都ニテハ、カゝル浪風ハ聞ザリシニ、哀ニ思食レテ、イトゞ御心細ク御袖ヲ絞テ、
都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル
伊王左衛門、
スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉
御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ、女院ノ御返シニハ、
神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881
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七月十三日、後鳥羽は鳥羽殿から隠岐島に移送される旅路についた。「慈光寺本」によれば、伊東祐時が身柄を受け取り、「四方ノ逆輿」に乗せたという。輿を進行方向と逆向きにする、罪人移送の際の作法である。供奉したのは「伊王左衛門入道」藤原能茂と、坊門信清の娘で頼仁親王の母「西ノ御方」(坊門局)ら女房二、三人、旅先での急死に備えて用意された聖一人であった。『吾妻鏡』は「内蔵頭(高倉)清範入道」も従ったが、途中で召し返されたため、「施薬院使(和気)長成入道」と「(藤原)能茂入道」が追って参上したとする。いずれにせよ護送の武士以外は、ほんの少数の供奉人だけであった。
道中では遥かに水無瀬殿に思いを馳せつつ、播磨国・美作国・伯耆国を経て、「慈光寺本」によれば十四日ほどで「出雲国ノ大浜浦」に着いたという。また、『吾妻鏡』七月二十七日条には、出雲国大浜湊に着いた後鳥羽は、ここでいったん船に乗り換えたとある。武士たちの多くはここで帰京した。その機会を捉え、後鳥羽は母の七条院殖子と寵姫の修明門院重子に和歌を送った。
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「四方ノ逆輿」は慈光寺本にしか登場しませんが、慈光寺本では当該場面は、
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去程ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ西ノ御方・大夫殿・女官ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕ニテモ御命尽サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。「今一度、広瀬殿ヲ見バヤ」ト仰下サレケレドモ、見セマイラセズシテ、水無瀬殿ヲバ雲ノヨソニ御覧ジテ、明石ヘコソ著セ給ヘ。其ヨリ播磨国ヘ著セ給フ。其ヨリ又、海老名兵衛請取参セテ、途中マデハ送リ参セケリ。途中ヨリ又、伯耆国金持兵衛請取マイラス。十四(日)許ニゾ出雲国ノ大浜浦ニ著セ給フ。風ヲ待テ隠岐国ヘゾ著マイラスル。道スガラノ御ナヤミサヘ有ケレバ、御心中イカゞ思食ツゞケケン。医師仲成、苔ノ袂ニ成テ御供シケリ。哀〔あはれ〕、都ニテハ、カゝル浪風ハ聞ザリシニ、哀ニ思食レテ、イトゞ御心細ク御袖ヲ絞テ、
都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル
伊王左衛門、
スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉
御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ、女院ノ御返シニハ、
神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881
となっています。
私は目崎徳衛氏の『史伝 後鳥羽院』(吉川弘文館、2001)を検討した際、何故か9月12日の投稿で、
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私はこの「逆輿」に興味を持って慈光寺本を調べ始めたのですが、「逆輿」を史実と明言する歴史研究者にはなかなか出会えなくて、私が鋭意作成中の「慈光寺本妄信研究者交名(仮称)」において大将格に位置づけている坂井孝一氏(創価大学教授)ですら、『承久の乱』(中公新書、2018)では「逆輿」に言及されていません。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c261120149a5dfe7eafc5b1590ff81cd
などと書いてしまったのですが、単なる勘違いでした。
お詫びした上で、坂井氏は『承久の乱』(中公新書、2018)では、一切の留保なしに「逆輿」に言及されていると訂正させていただきます。
さて、坂井氏が引用されている『吾妻鏡』七月二十七日条は、原文では、
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上皇着御于出雲国大浜湊。於此所遷坐御船。御共勇士等給暇。大略以帰洛。付彼便風。被献御歌於七条院并修明門院等云々。
タラチメノ消ヤラテマツ露ノ身ヲ風ヨリサキニイカテトハマシ
シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥嶋々シホル袖ノケシキヲ
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm
となっています。
『吾妻鏡』では後鳥羽院は七条院と修明門院に歌を贈ったとなっていますが、ここは慈光寺本と全く違いますね。
慈光寺本では後鳥羽院と「伊王左衛門」が「御母七条院」へ歌を贈り、七条院が一首を返したとあります。
坂井氏は、この場面については何故に慈光寺本を採らないのか、その理由は不明です。
なお、渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)によれば、「現実には高貴な女院が、能茂のような臣下に直接返歌をすることはまず考えられない」とのことです。
慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/581532859e25780fef4ee441ea4ce703
渡邉裕美子論文の達成と限界(その1)(その2)