学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その22)─坂井氏は何故に慈光寺本の和歌贈答場面を採らないのか。

2023-10-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p210以下)

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 七月十三日、後鳥羽は鳥羽殿から隠岐島に移送される旅路についた。「慈光寺本」によれば、伊東祐時が身柄を受け取り、「四方ノ逆輿」に乗せたという。輿を進行方向と逆向きにする、罪人移送の際の作法である。供奉したのは「伊王左衛門入道」藤原能茂と、坊門信清の娘で頼仁親王の母「西ノ御方」(坊門局)ら女房二、三人、旅先での急死に備えて用意された聖一人であった。『吾妻鏡』は「内蔵頭(高倉)清範入道」も従ったが、途中で召し返されたため、「施薬院使(和気)長成入道」と「(藤原)能茂入道」が追って参上したとする。いずれにせよ護送の武士以外は、ほんの少数の供奉人だけであった。
 道中では遥かに水無瀬殿に思いを馳せつつ、播磨国・美作国・伯耆国を経て、「慈光寺本」によれば十四日ほどで「出雲国ノ大浜浦」に着いたという。また、『吾妻鏡』七月二十七日条には、出雲国大浜湊に着いた後鳥羽は、ここでいったん船に乗り換えたとある。武士たちの多くはここで帰京した。その機会を捉え、後鳥羽は母の七条院殖子と寵姫の修明門院重子に和歌を送った。
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「四方ノ逆輿」は慈光寺本にしか登場しませんが、慈光寺本では当該場面は、

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 去程ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ西ノ御方・大夫殿・女官ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕ニテモ御命尽サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。「今一度、広瀬殿ヲ見バヤ」ト仰下サレケレドモ、見セマイラセズシテ、水無瀬殿ヲバ雲ノヨソニ御覧ジテ、明石ヘコソ著セ給ヘ。其ヨリ播磨国ヘ著セ給フ。其ヨリ又、海老名兵衛請取参セテ、途中マデハ送リ参セケリ。途中ヨリ又、伯耆国金持兵衛請取マイラス。十四(日)許ニゾ出雲国ノ大浜浦ニ著セ給フ。風ヲ待テ隠岐国ヘゾ著マイラスル。道スガラノ御ナヤミサヘ有ケレバ、御心中イカゞ思食ツゞケケン。医師仲成、苔ノ袂ニ成テ御供シケリ。哀〔あはれ〕、都ニテハ、カゝル浪風ハ聞ザリシニ、哀ニ思食レテ、イトゞ御心細ク御袖ヲ絞テ、
  都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル
 伊王左衛門、
  スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉
 御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ、女院ノ御返シニハ、
  神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881

となっています。
私は目崎徳衛氏の『史伝 後鳥羽院』(吉川弘文館、2001)を検討した際、何故か9月12日の投稿で、

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私はこの「逆輿」に興味を持って慈光寺本を調べ始めたのですが、「逆輿」を史実と明言する歴史研究者にはなかなか出会えなくて、私が鋭意作成中の「慈光寺本妄信研究者交名(仮称)」において大将格に位置づけている坂井孝一氏(創価大学教授)ですら、『承久の乱』(中公新書、2018)では「逆輿」に言及されていません。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c261120149a5dfe7eafc5b1590ff81cd

などと書いてしまったのですが、単なる勘違いでした。
お詫びした上で、坂井氏は『承久の乱』(中公新書、2018)では、一切の留保なしに「逆輿」に言及されていると訂正させていただきます。
さて、坂井氏が引用されている『吾妻鏡』七月二十七日条は、原文では、

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上皇着御于出雲国大浜湊。於此所遷坐御船。御共勇士等給暇。大略以帰洛。付彼便風。被献御歌於七条院并修明門院等云々。
 タラチメノ消ヤラテマツ露ノ身ヲ風ヨリサキニイカテトハマシ
 シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥嶋々シホル袖ノケシキヲ

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

となっています。
『吾妻鏡』では後鳥羽院は七条院と修明門院に歌を贈ったとなっていますが、ここは慈光寺本と全く違いますね。
慈光寺本では後鳥羽院と「伊王左衛門」が「御母七条院」へ歌を贈り、七条院が一首を返したとあります。
坂井氏は、この場面については何故に慈光寺本を採らないのか、その理由は不明です。
なお、渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)によれば、「現実には高貴な女院が、能茂のような臣下に直接返歌をすることはまず考えられない」とのことです。

慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/581532859e25780fef4ee441ea4ce703
渡邉裕美子論文の達成と限界(その1)(その2)

コメント
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その22)─坂井孝一氏の「匠の技」

2023-10-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
時間的には五番目ですが、メルクマールの四番目、

(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

を見て行くこととします。
結論から言うと「慎重な留保」は全くありませんが、少し前の場面から様子を見ることにします。(p209以下)

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後鳥羽の運命
 後鳥羽に対する幕府の処断は、都から遠く離れた隠岐島への配流であった。承久三年(一二二一)七月六日、後鳥羽は身柄を洛中の四辻殿から洛南の鳥羽殿に移された。後鳥羽を載せた牛車の後ろには、西園寺実氏、藤原信成、藤原(伊王)能茂の三人が騎馬で付き随った。鳥羽殿は水無瀬殿と同じく、後鳥羽がしばしば遊興のために訪れた離宮である。ただ、今回は囚われの身としての御幸であり、君臣ともに断腸の思いであった。
 七月八日、後鳥羽は似絵の名手藤原信実に御影を描かせた。大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮に所蔵される肖像画である(「はじめに」の後鳥羽院画像を参照)。その後、子の仁和寺御室道助法親王を戒師に出家した。警固の武士に懇願して対面を許された母の七条院殖子は、悲涙を抑えて帰っていった。
 「慈光寺本」は、七月十日、北条泰時の子「武蔵太郎時氏」が鳥羽殿に参上し、弓の片端で御簾をかき揚げて「君ハ流罪セサセオハシマス。トクトク出サセオハシマセ(君は流罪におなりになりました。早くお出でくださいませ)」と責め立てたと叙述する。後鳥羽は返事すらできなかった。しかし、再び責められると、昔から寵愛していた「伊王左衛門能茂」に今一度会いたいと答えた。時氏が泰時にその旨を書状で訴えると、泰時は能茂を出家させた上で鳥羽殿に行かせた。後鳥羽は能茂の姿をみて、「出家シテケルナ。我モ今ハサマカヘン(出家したのだなあ。自分も今は姿を変えよう)」と仁和寺御室を戒師に出家し、斬った髻(髪を頭上に束ねたもの)を七条院に送った。これをみた母は声も惜しまず涙を流し、悲しんだという。そこには正統な王たろうと志し、諸勢力の上に君臨した稀代の帝王、多芸多才の極致に達した文化の巨人の姿はみられない。勝者に屈し、憐れみにすがるしかない敗者の姿があった。
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慈光寺本には七月六日の鳥羽殿御幸に、「昔ナガラノ御供ノ人」として「左衛門尉能茂」が西園寺実氏・藤原信業と共に供奉したとありますが、この話は『六代勝事記』や『吾妻鏡』にも出てきます。
『吾妻鏡』には、

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上皇自四辻仙洞。遷幸鳥羽殿被。大宮中納言〔実氏〕。左宰相中将〔信成〕。左衛門少尉〔能茂〕以上三人。各騎馬供奉御車之後。洛中蓬戸。失主閇扉。離宮芝砌。以兵為墻。君臣共後悔断腸者歟。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

とあって、「君臣ともに断腸の思い」云々と書かれていることから、坂井氏が直接には『吾妻鏡』を参照されていることが分かります。
「七月八日、後鳥羽は似絵の名手藤原信実に御影を描かせた」も『吾妻鏡』同日条の「今日。上皇御落飾。御戒師御室〔道助〕。先之。召信実朝臣。被摸御影」を受けていますが、これが「大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮に所蔵される肖像画である」かどうかは、実はけっこう問題です。
というのは、『吾妻鏡』に先行する慈光寺本では信実が描いたのは法体の後鳥羽院像であり、流布本でも同様だからです。
この点、最近の美術史学界での評価を知りたくて、土屋貴裕氏の「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(『美術フォーラム21』44号、2021)という論文を読んでみたところ、「『吾妻鏡』のみに頼って「後鳥羽天皇像」を「隠岐配流直前、藤原信実によって描かれた落飾前の御影」と決着する」傾向は極めて強固ですね。
私自身は、俗体像か法体像かという問題に限っては、慈光寺本を疑う必要はなく、そして(私見では)慈光寺本に先行する流布本も法体像であることを明確にしている以上、後鳥羽院出家時に信実が描いたのは法体像だろうと考えます。
従って、水無瀬神宮所蔵の「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」は、少なくとも承久三年七月八日に描かれたものではなく、信実が描き、七条院に贈られた法体像はいつしか失われてしまったのだと思います。
ただ、「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」が信実作を騙った偽物かというと、出家以前、全く別の機会に後鳥羽院が信実に描かせていた可能性もあるので、そこは何とも言えないですね。

土屋貴裕氏「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/79a15796f435584388f3a9608b6d1748
土屋貴裕氏「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(補遺)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fb0051f3c00150675d251224a001d86f

さて、上記引用部分の前半では『吾妻鏡』に依拠されていた坂井氏は、後半では慈光寺本に全面的な信頼を寄せておられるようです。
こちらの場面の原文と拙訳は下記投稿を参照して下さい。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その58)─「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a204b22519ff861aada15f0e4942569
(その61)─「其時、武蔵太郎ハ流涙シテ、武蔵守殿ヘ申給フ事」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3412d6a819e9fd4004219b4ca162da01
(その62)─後鳥羽院出家の経緯と能茂の役割
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0ab4d253ecb86d173f2f9136b6f2e8

「消しゴムマジック」の名人である坂井氏は、後鳥羽院が「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂」と藤原能茂の出自を丁寧に紹介した上で、「伊王左衛門能茂」に今一度会いたいと答えると、それまで閻魔王の使いのように後鳥羽院を責め立てていた北条時氏が突然涙を流し、父・泰時に手紙を書いて能茂を後鳥羽院に会わせるように提案し、その手紙を見た泰時は、時氏は十七歳の若さなのに、これほど立派な手紙を書きました、と「殿原」に見せびらかす、という場面を消去されています。
原文では極めて不自然なストーリーが坂井氏の「消しゴムマジック」のおかげでそれほど不自然になっておらず、まさに「匠の技」ですね。
コメント
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