学問空間

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北山准后の老後とその健康状態 (その1)

2019-03-31 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月31日(日)10時33分36秒

>筆綾丸さん
>北山准后(1196-1302)の介護は、歳が歳だけに、苦労したでしょうね。

鎌倉時代の御長寿・元気老人というと菅原為長(1158-1246)の名前が浮かんできますが、この人の場合、「寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件」を廻る公家政権内の大激論で独自の理論を展開し、御年八十七歳でありながらその恐るべき頭脳明晰さを誇示しています。

早川庄八「寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件」
http://web.archive.org/web/20081231165357/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hayakawa-shohachi-iwashimizu.htm

しかし、北山准后の場合、

-------
 実のところ、平清盛の曾孫に生まれ、極めて平家的な環境の中で育ち、かつ鎌倉時代を生き抜いた藤原貞子ほど『平家後抄』の著者として好適な人物は、他に求め得ないであろう。しかし貞子は、父や弟の隆親とは違って文才に恵まれなかったらしく、親しく見聞した平家一門の人びとの動きについては、なにひとつ記録を遣さなかった。『とはずがたり』の作者・二条は、貞子の義理の孫、つまり養女の近子が産んだ娘であった。なぜ貞子は、この二条に口述・筆記させなかったのであろうか。
 これは今さら悔んでも為〔せ〕ん方ないことである。しかしそれだけに北山の准后─従一位・藤原朝臣貞子─に代って壇ノ浦以後の平家の動静について綴ってみようと言う意欲も旺んに盛り上るのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/adfad97edb5de091b83c509169d1c3d7

ということで、角田文衛博士ほどの碩学が探求しても彼女の実像は見えてきません。
角田博士が探しても出てこないのだから私の能力では全く無理で、彼女の動静について究明しようという意欲は全然盛り上らなかったのですが、それでも小松茂美氏の「鎌倉 世尊寺經尹 西園寺實氏夫人願文」(日本名跡叢刊第44回配本、二玄社、1980)を見て、弘安五年(1282)に自らの逆修供養を行なった尼「尊深」が藤原貞子であることを知りました。
ただ、この願文自体は貞子が専門家に依頼したものであって、八十七歳時点での貞子自身の知的能力は分かりません。

小松茂美「鎌倉 世尊寺經尹 西園寺實氏夫人願文」
http://web.archive.org/web/20080307024211/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/komatu-shigemi-ganmon.htm

また、無外如大という禅宗史上かなり重要な女性を調べているときに、「理宝」という女性が建治三年(1277)に、如大ゆかりの景愛寺の敷地を寄進したことを知ったのですが、この「理宝」は藤原貞子とされています。
即ち、山家浩樹氏の「無外如大の創建寺院」(『三浦古文化』53号、1993)によれば、

-------
 如大は、景愛寺長老と称されることが多い。『仏光国師語録』に所収される、如大所持の無学像の自賛に付された注記も、その一例であり、存生時からの呼称だったと思われる。景愛寺創建の経緯は、『宝鏡寺文書』に案文の伝わる、建治三(1277)年の理宝の寄進状に明らかである。寄進地は五辻通りに南面する「五辻御地」、景愛寺の敷地で、他史料から、五辻大宮の北西とわかる。「代々の貴所」であるが、尼寺建立のため、「ひくに如大房」に施入するとあり、「みや/\の御いのり」「故御所の御けうよう」を頼み、「みや/\の御中」などの違乱を止めている。すなわち、如大は景愛寺の開山であり、資寿院、正脈庵に比ベ、如大の立場は、大きく異なる。なお、この寄進状に、景愛寺という名は見えない。無学が如大に与えた書に、景愛寺の語義を解したものがあったらしいが、無学の命名か否か、明らかでない。
 確証はないけれども、宝鏡寺や大聖寺の寺伝によると、理宝は、今林准后貞子とされる。貞子は、西園寺実氏の室で、その娘大宮院※子は、後嵯峨天皇中宮となり、後深草・亀山を生んでいる。理宝が貞子の場合、「故御所」とは、五年前に残した後嵯峨法皇を指すのであろう。夫実氏が関東申次を勤めたことから、泰盛娘、顕時室の如大との関わりが生じたのであろうか。また、五辻南、大宮西の地には、かつて後鳥羽天皇の御所、五辻殿があり、五辻宮という親王家も存在するなど、五辻大宮の付近は、天皇家と関わる場所が多く、寄進状に貴所と記され、宮々の違乱が想定されているのは、寄進地もそのひとつであったためだろう。

http://web.archive.org/web/20061006213232/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai-jiin.htm

という事情があるのですが、「理宝」が藤原貞子であれば、「建治三年八月二十九日理宝施入状案」執筆時点で八十二歳であった貞子は自分の財産を処分する書類を作成する能力は確かにあったことになります。
ただ、ごく短い文章ですから、耄碌してはいなかった程度のことしか判明しません。
ということで、貞子の実像はよく分からず、特に弘安八年(1285)の九十賀の時点で貞子の健康状態がどうだったのかは儀式の次第について詳細を極める『増鏡』や『とはずがたり』を見ても全然記述がありません。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話 2019/03/30(土) 21:33:38
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2019/03/102536.html
-----------------
 私事では、『朝廷儀礼の文化史』の「あとがき」にも書いたように、相変わらず母を介護の日々である。母も九十歳を超え、新たな不調が色々と出てきて、病院に連れて行くことが多くなった。そのたびに薬の量や種類も増えていく。
 介護離職というと大げさだが、現在勤務する大学の非常勤講師でさえ、今後は続けていくことができるのかという懸念も少しある。離職となれば経済的には困るから、依頼される限り続けたいし、新しい依頼にも応じていくつもりだが、母の状態次第ではこの先どうなるかは不透明である。
 ただし、母を施設に預ける気などまったくない。母にはこのまま自宅で穏やかに余生を過ごしてほしいと思っている。幸い筆者は、パワーリフティングで鍛えた体力がある。筆者も六十歳を超えたが、世間一般の老老介護にはならない。(近藤好和『天皇の装束』「あとがき」227頁~)
-----------------

今上陛下が、退位後、隠居先の高輪界隈を着流しで逍遥する姿を見たいと思いますが、そうはならないでしょうね。

北山准后(1196-1302)の介護は、歳が歳だけに、苦労したでしょうね。
藤原俊成(1114-1204)は、氷室から取り寄せた雪を食べて、死ぬべく覚ゆ、とかなんとか云って死んだ、と『明月記』にありますが、この老人の介護も大変だったろうな、という気がします。
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「晩年において貞子は、『平家公達草紙』の絵巻化を考え、これを実施……」(by 角田文衛)

2019-03-28 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月28日(木)10時17分33秒

角田文衛氏は「平家公達草紙」には藤原隆房自身が関与し、その成立時期は鎌倉初期、そして「平家公達草紙絵巻」の成立時期は鎌倉後期と考えておられた訳ですが、近時の学説の動向を見ると「平家公達草紙」の成立も鎌倉後期と考えるのが通説のようです。
とすると、何のために「平家公達草紙&絵巻」は作られたのか、という問題も新たな視座から分析する必要があるように思われます。
櫻井陽子・鈴木裕子・渡邉裕美子氏によれば、その目的は、

-------
現代で言えば、夢見る歴女が戦国武将や幕末の志士に憧れてイケメン像を作り上げることと、一脈通じるかもしれません。鎌倉時代のお嬢様やその周辺の人々が、『右京大夫集』や『平家物語』の中から、特に好きな男性のキャラクターに、自分たちの願望や憧れを込めて、様々な手法を使って、平家公達の横顔を二次創作していきました。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6703ff7fe27f91124f8f3212ecd5e21c

ということで、要するに「鎌倉時代のお嬢様やその周辺の人々」が自分たちの楽しみのために作った、ということになりそうですが、果たしてそれで良いのか。
私には若干の私見がない訳ではないのですが、それを述べる前に角田文衛氏が「平家公達草紙&絵巻」の製作目的をどのように考えておられたかを紹介したいと思います。
前回投稿で引用した部分の続きです。(p43以下)

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 『平家公達草紙』は、桑原博史氏が説かれているように、後年の隆房が自らも記述し、他の人びとにも執筆を求めて編集した回想録であると思う。とすれば、隆房は一体なんの目的でこの草紙を編んだのであろうか。
 この問題を理解するためには、当時の政治情勢を鳥瞰してみる必要がある。文治五年(一一八九)の九月、奥羽両国を平定し、全国的制覇が成功すると、頼朝の心には余裕が生じ、朝廷との融和政策が徐々に進められるようになった。これに呼応して朝廷にも勢力の交替があり、建久七年(一一九六)十一月における関白・兼実の引退がみられた。鎌倉幕府にとっては、平家の残党追及などは緊急事ではなくなったし、兼実に代って関白に返り咲いた基道の正妻、基道の下の右大臣・兼雅の正妻も清盛の娘であったし、公卿中の実力者の源通親の本妻で通具を産んでいたのは、平教盛の娘であった。つまり建久の末年は、平家追及の雪融期であった。
 平家の女性達は大勢都に生き残っていたし、隆房を初め平家と縁故の深い人びとも数多く在世していた。しかも平家に対する追憶談は、文治元年以来、都のあちことでひそかに語られていた。
 『平家公達草紙』の編集者は、疑いもなく隆房であったろうし、また彼の文才、彼の声望によってそれは成就したに相違ない。しかし彼の背後にあってこれを企画し、隆房を動かしたのは、彼の正妻─清盛の娘─であったろうと推測されることは前にも述べておいた。
 『平家公達草紙』がもと何巻あったかは皆目不明であるが、隆房はこの草紙が完成した時、早速、建礼門院を初め、平家にごく縁の深い婦人たちの閲覧に供したことであろう。そして内容が栄光に溢れているだけに、かえってそれは彼女らの号泣を招いたに相違ない。おそらく閑居における建礼門院の座右には、『平家公達草紙』全巻が置かれていたと思う。
-------

要するに角田文衛氏は「平家公達草紙」の製作目的を「建礼門院を初め、平家にごく縁の深い婦人たちの閲覧に供」するため、と捉えている訳ですね。
そして「平家公達草紙絵巻」については、

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 十三世紀の後半の宮廷社会において、最も尊崇され、権威を帯びていたのは、序章に述べた通り、北山准后こと藤原貞子(一一九六-一三〇二)であった。貞子は、清盛の曾孫であり、親平家的な雰囲気の中で成長した女性であった。貞子の座右にも必ず祖父の編著にかかる『平家公達草紙』が備えられていたに違いない。これは全くの想像に過ぎないけれども、晩年において貞子は、『平家公達草紙』の絵巻化を考え、これを実施したとみることもできよう。そして『平家公達草紙絵巻』は、永く西園寺家に伝わり、そこからまた伝播したとも想定されるのである。
-------

ということで、「全くの想像に過ぎない」との留保付きですが、「清盛の曾孫であり、親平家的な雰囲気の中で成長した」北山准后・藤原貞子の関与の可能性に言及されています。
角田文衛氏は貞子の目的までは推定されていませんが、まあ、過去の栄耀の追憶、更には先祖の鎮魂といったことなのでしょうね。

「北山の准后藤原貞子に仮託して」(by 講談社BOOK倶楽部の中の人)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffcaa6d93de5c7bbb58a6921a492fb36
「なぜ貞子は、この二条に口述・筆記させなかったのであろうか」(by 角田文衛)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4e171dde700aee21f6e94501c299f76e

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「『平家公達草紙』は「耳無し芳一の話」と違って、創作ではない」(by 角田文衛)

2019-03-27 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月27日(水)10時43分42秒

角田文衛氏の『平家後抄・下』(初版は朝日新聞社、1981)の「第六章 鎮魂の歌」と 櫻井陽子・鈴木裕子・渡邉裕美子著『平家公達草紙 『平家物語』読者が創った美しき貴公子たちの物語』(笠間書院、2017)を読み比べてみると、「平家公達草紙」に関する研究が近年大いに進展したことが伺えますね。
角田文衛氏は、藤原隆房(1148-1209)自身が「平家公達草紙」の成立に関与したものと考えていました。
「第六章 鎮魂の歌」は、

-------
冷泉大納言隆房
平家公達草紙
栄耀の日々
草紙と絵巻
女院の動静
-------

の五つの節で構成されていて、最初に角田氏ならでは濃密さで隆房の経歴が紹介され、詳細な系図と年譜も附されています。

『平家後抄』再読
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f861d949f6178e22b119d05738895a4c

ついで「平家公達草紙」の検討となります。
即ち、

-------
   平家公達草紙

 藤原隆房は、優れた歌人として、また笙、琵琶、笛、催馬楽の達人として後世に名を遺した。しかしここで強調しておきたいのは、彼が「壇ノ浦」の後も一貫して平家の支持者であったということである。彼は、建礼門院の後援者であったし、また平家の鎮魂歌ともいうべき『平家公達草紙』の成立とも深く掛かり合っていたのである。
 ところで、『平家公達草紙絵巻』は、『平家公達草紙』から採った本文に絵を加えて仕上げた白描絵巻である。本文の方は、鎌倉時代初期の成立であるが、絵の方は、『艶詞絵』などと同様に、鎌倉時代の末期に描かれたものである。これは疑いもなく白描絵巻中の逸品であるけれども、原本は早く散逸し、転写本が若干今日に遺存しているに過ぎない。
-------

ということで(『平家後抄・下』講談社学術文庫版、p22)で、「本文の方は、鎌倉時代初期の成立」というのが角田氏の認識です。
角田氏はこの後、『平家公達草紙絵巻』の伝来について考証を加えた上で、

-------
   栄耀の日々

 『平家公達草紙』は、少なくとも今日知られる限りでは、徹底的に公卿的立場から叙述されており、部門としての平家の強烈な面は全く看過されている。それはともかく、そこに収められた挿話の数々は、鎌倉時代前期における親平家的な人々─廷臣たち─がどのような回想を通じて平家の栄耀を追慕していたかを知る上で極めて重要である。平家の軍事力、政治力が壇ノ浦で消滅した後、人びとは平家に対するなつかしさを深めたのであって、それがまた平家の勢力の潜行を助けたのであった。その意味でも、『平家公達草紙絵巻』の内容、ことに詞書の梗概をやや詳しく紹介することは、役立つところが多いのである。
-------

と述べ、13頁にわたって「やや詳しく」、一般人の言語感覚で言えば鬱陶しいくらい詳細に『平家公達草紙絵巻』の内容を紹介されますが、先に引用した櫻井・鈴木・渡邉著にいう「[1]恋のさやあて─維盛と隆房」のエピソードなどは、一見しただけでは「ボーイズラヴ」なのか分からない程度に和らげて記述されていますね。
そして、節を改めて「草紙と絵巻」に入り、ラフカディオ・ハーンの「耳無し芳一の話」に寄り道した後、

-------
『平家公達草紙』は「耳無し芳一の話」と違って、創作ではない。それは鎌倉時代に生き残っていた『平家公達草紙』と因縁の深い公卿や殿上人の回想録である。その内容も怪談などではなく、あでやかで優雅な平家の公達についての思い出であり、話それ自体は明るいものである。しかしよく読んでみると、その背後からは痛烈な慟哭の声が流れ来り、鬼気を覚えさすのである。
-------

と述べられており(p43)、「創作」ではなく、「鎌倉時代に生き残っていた『平家公達草紙』と因縁の深い公卿や殿上人の回想録」とする点で、櫻井・鈴木・渡邉氏の認識と根本的に異なっていますね。

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「胸騒ぐといへば、おろかなり」(その2)

2019-03-26 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月26日(火)11時42分23秒

続きです。

【5】そうこうしているうちに、少将が来られた気配がしたので、そっと部屋を出て、たった今来たように装って咳払いをすると、少将は先ほどの部屋に私を通した。手紙は既に書き終えて使いの者に渡したのだろうか、見あたらない。

【6】少将は、香染めのごく薄い狩衣に、撫子襲(なでしこがさね)の衣を着て、薄色の指貫を穿いていて、特に装いをこらしていないにも拘らず、早朝の姿がとても美しいので、「本当に、鏡に映る私の顔とはくらべようがない。女性であれば、この人に靡くのは当然だ」と思われる。「何よりも今朝の手紙の書き振りは、筆遣いからはじめて、燻き染めた香の匂いなどまで、本当に優雅なものだったな。あの手紙を待ち受けて読む女性は、どんなにか胸をときめかせていることだろう」などと思うにつけて、少将とは固い契りで結ばれていると思っていたのに、裏切られて恨めしい。

【7】「少将殿は何事もないように装っていたのだな。世間で言うところの、心の中で密かに恋い焦がれているということなのだろう」と思うにつけても、気持ちの動揺を抑えきれなくて、「夜のお出かけのために、今この時間ももったいないとお思いでしょう。今朝のお手紙は、もうお書きになりましたか。お待ちになっている方が気の毒です」と言うと、少将は「それ、どういう意味ですか。全く身に覚えがありませんね」と冷たく言う。「いやいや、そんなに否定なされますな。相手の姫君は、言い寄った人に本気では返事をしない方と聞きました。私も、試しにときどき手紙を送ったことがありますが、姫君が受け取ることすらなかったのは、密かに心に深くお思い申し上げた方が……

ということで、唐突に終わってしまいます。
この後にも続いていたはずですが、今は伝わっていません。
自分の勉強のために一応の私訳を付しましたが、【7】については『平家公達草紙』の現代語訳(p183以下)を見て、やっと理解できた部分が多かったですね。

さて、この物語が設定されている治承元年(1177)における関係者の実年齢はというと、藤原隆房は久安四年(1148)生れなので三十歳、平維盛は平治元年(1159)生れなので十九歳です。
「久我の内大臣まさみちといひし人のむすめ」については、「補注」において、

-------
源雅通の娘には藤原実守妻、中宮御匣〔みくしげ〕、近衛殿がいることが『尊卑分脈』より知られる。実守妻の詳細は不明だが、実守は治承元年(一一七七)には三一歳である。中宮御匣は『たまきはる』の建春門院女房の名寄せの冒頭に記される三条殿かと思われる。近衛殿は建礼門院に仕え、安徳天皇誕生後は安徳天皇にも仕え、「二、平家の光と影」[1]にも登場している。本話に登場する女性は、「いまさらにとて」とあるところから、治承元年当時、既に年長けていたと考えられる。仮に二条天皇在位の最後、永万元年(一一六五)に一五歳であったとしても(雅通は一一一八~一一七五)、治承元年には二七歳である。実際にはもっと年長であろう。隆房とは同年代であろうか。維盛よりは一回り上の女性となる。
-------

とあります。(p178)
「平家公達草紙」は登場人物たちが実際に生きた時代より約一世紀くらい後に作られた「二次創作」であり、あくまで藤原隆房に「仮託」した物語なので、関係者の年齢をあまり詳しく考証しても意味がないのかもしれませんが、通読した印象としては隆房と維盛の年齢差はそれほどないようにも思われます。
ま、「ボーイズラヴ」の適齢期というのもよく分からず、別に十一歳違いでもかまわないのかもしれませんが。
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「胸騒ぐといへば、おろかなり」 (その1)

2019-03-25 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月25日(月)11時42分19秒

私の掲示板に来てくれる人はたぶん国文学より歴史学に興味を持っている人が多いでしょうが、難解な古文書や変体漢文の古記録に慣れている人にとっては前回投稿程度の古文は簡単でしょうから、解説は省略して私が気づいた点だけ述べたいと思います。

わはは。
ちょっと嫌味を言ってしまいましたが、固い史料に慣れた人ほど、この種の文章はけっこう難しいと思いますので、丁寧に解説します。
ま、私も『平家公達草紙』に付された詳細な補注や現代語訳を見ないと、どこに「ボーイズラヴ的な雰囲気」が漂っているのかも分らない程度の実力なのですが。

【1】治承元年(1177)の二月十日のころだったか、私、隆房が人目を忍んで通っていた女性のもとからの帰り道、ある所に、人の住んでいる気配はないが、構えは立派な邸の前に車が止まっていた。昼間ならともかく、まだ夜が明けはじめる頃なので、一晩中そこに止まっていたことがはっきり分った。「何か事情のある車だろうか」と思って、しばらく物陰に隠れて見ることにする。

ということで、藤原隆房の視点で物語は進行します。

【2】誰の邸だろうと思って供の者に尋ねさせたところ、「久我の内大臣雅通とおっしゃる方の姫君がお住みです」とのことだった。その姫君であれば顔立ちがたいそう美しいと評判が高く、二条院の御在位中、しきりに参内するようにとの仰せがあったのに、いまさら参内など、と全く気に掛けることもおありでなかったはずなのに、これはどのような色恋なのだろう、と思って見ていると、車を止めていた人が御門に現れた。その様子を隠れて見ていると、直衣姿のその人が車の中に入った。

「久我の内大臣まさみち」は源雅通で、源通親(1149-1202)の父ですね。
二条天皇は後白河院の皇子ですが、父親との関係はなかなか微妙だった人です。
その在位は保元三年(1158)から永万元年(1165)で、僅か二歳の六条天皇に譲位して間もなく、二十三歳の若さで崩御。
従って、物語が設定されている治承元年(1177)は二条院が没してから十二年後ということになりますね。

源雅通(1118-75)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9B%85%E9%80%9A
二条天皇(1143-65)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87

【3】誰だろうと思って見ると、小松殿の権亮少将維盛殿であった。「この姫君と関係があるようだ」と思うと、胸騒ぎがして、とても言葉に出来ない。

『平家公達草紙』の現代語訳では「胸騒ぐといへば、おろかなり」は「胸がどきどきすることといったら、とても言葉では表現できない」となっています。
このあたりから「ボーイズラヴ的な雰囲気」が漂い始めます。

【4】(隆房は自邸に戻るが)「維盛殿はいつからこのような関係だったのか。この女性とのことがあったので、私に冷たかったのだろう」と思うと、一晩中一睡もできず、思い悩んで朝を迎えた。早朝、小松殿へ参り、少将の住む東の対へ行って部屋を覗くと、誰もいない。「どこに行かれたのか」と問うと、「大臣(重盛)から急用ということで呼ばれ、そちらに行っておられます」と言う。部屋に入って、少将がいつもいると思われる所に行くと、たった今使ったばかりと見える硯の下に、白い薄様があり、何か書いてある。書きかけの手紙で、その書き始めの言葉を読むと、昨夜初めて契りを結んだのだと分る。口惜しいことといったら、言葉にならない。たちまち涙もこぼれた。

途中ですが、いったんここで切ります。

平惟盛(1159-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E7%9B%9B
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「久我の内大臣まさみちといひし人のむすめ」

2019-03-23 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月23日(土)18時37分27秒   通報

「平家公達草紙」の基礎的な知識は一応把握できたので、ここで「何やらボーイズラヴ的な雰囲気まで漂わせる」(p9)部分の原文を少し読んでみようと思います。

-------
三、恋のかたち
[1]恋のさやあて─維盛と隆房
[2]神出鬼没の隆房
[3]雪の日のかいま見

http://kasamashoin.jp/2016/12/post_3835.html

の[1]を冒頭から全文引用します。(p160以下)
翻刻と傍注をそのまま引用すると若干読みづらくなるので、傍注を参照しつつ適宜漢字に変えるなど、原文の雰囲気を損なわない程度の改変を行っています。

-------
【1】治承元年二月十日ころのことにや、隆房、しのびたる所より帰る道に、ある所に、うち放りにける家の、つくりをかしきに、車立ちたり。昼ならば、思ひとがむまじきに、いまだ、ほのぼのの程なれば、夜もすがら、立ち明かしける気色もしるきに、「ある様ある車ならむ」と思ひて、しばし、立ち隠れて見る。

【2】「いかなる人のもとならむ」と案内すれば、「久我の内大臣まさみち〔雅通〕といひし人のむすめ、ここに住み給ふ」と聞きしぞかし。「かたち、いと名高くて、二条院の御時、御気色ありて、しきりに、まゐりたまふべきよし、仰せられしかど、いまさらとて、おぼしもかけざりけるものを。いかなる好き事ならむ」と、思ひつつ見れば、御門に、車を留むる人の侍りつるを、しばし、立ち隠れて見れば、直衣姿なる人、内へ入りぬ。

【3】「誰ぞ」と見れば、小松殿の権亮少将殿になむ、おはしましつる。「あるやうある事なめり」と言ふに、胸騒ぐといへば、おろかなり。

【4】「いつよりありける事にか。さてや、つれなかりつらむ」と、夜もすがら、まどろまず、思ひ明かして、つとめて〔翌朝〕、とく小松殿へ参でたれば、少将の住む東の対に、さし覗きたれば、人もなし。「いづくにか」と問へば、「おとど〔大臣〕の御前に、とみの事とて、よびたてまつり給へる」といふ。入りて、常のすみか〔住処〕と見ゆる所に入りて見れば、ただ今使ひけると見ゆる硯の下に、白きうすやう〔薄様〕に、書きたる物あり。書きさしたると覚ゆる、うちたてのことば、はや、はじめて、よべ〔昨夜〕遭ひにけりとみゆ。口惜しといへば、おろかなり。とりあへず、涙もこぼれぬ。

【5】さる程に、権亮少将、おはする音すれば、やをら、立ち出でて、今来るやう〔様〕にて、うちこわづくれば、ありつる所へ入れつ。文は、書き果てて、遣りけるにや、見えず。

【6】香染の、あるかなきかの狩衣、撫子の衣、薄色の指貫にて、つくろふ所なき、あさけ〔朝明〕の姿しも、いみじうきよらなるにぞ、「まことに、我が鏡の影は、たとしへなし。女の心地に、これになびかむ、ことわりぞかし」と思ふ。「まづ、今朝の文の書きざま、筆遣いよりはじめて、し〔染〕めたる匂ひなど、いとえん〔艶〕なりつる物かな。待ち見るらむ所は、いかにぞ、胸うち騒ぐらむかし」など、覚へつつ、引き違へける契りのほど、うらめし。

【7】「事にいでても、見えざりし物を。例の、下に焦がれけるにこそ」と思ふに、しづめがたくて、「夜さりの御出で立ちに、御いとま〔暇〕、をしからむ。今朝の御文は、書かせたまひつや。待つらむ里こそ、心苦しけれ」と言へば、「とは何事ぞ。さらにこそ覚えね」とつれなく言ふ。「いで、いたく物あらがひ〔争〕、なせさせたまひそ。まめやかには、人の返事せずと、聞きし人ぞかし。なにがしも、心みに、文など、時々遣はししかども、ひとくだりまでは、思ひもよらず、取りだに入れざりしは、人知れず、思ひしめきこえに
-------

唐突に終わってしまいますが、この話は一応これで完結しています。
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「こうした子孫の女性たちの存在感が、隆房まで有名にしたのかもしれません」

2019-03-22 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月22日(金)11時07分31秒

『平家公達草紙』には三人の共著者の執筆分担が明示されていないのですが、櫻井陽子氏は『平家物語』、鈴木裕子氏は『源氏物語』の専門家なので、コラム「語りだしと隆房」は渡邉裕美子氏が書いているような感じがします。
ま、それはともかく、「『増鏡』「老の波」でも、正確さには欠けますが、「安元の御賀に青海波舞ひたりし隆房の大納言の孫なめり」と紹介されています」(p35)というのは、安元の御賀で実際に青海波を舞ったのは平維盛で、藤原隆房ではないからですね。
念のため『増鏡』の記述を確認すると、

-------
 今年、北山の准后九十にみち給へば、御賀の事、大宮院思し急ぐ。世の大事にて、天下かしがましく響きあひたり。かくののしる人は、安元の御賀に青海波舞ひたりし隆房の大納言の孫なめり。鷲尾の大納言隆衡の女ぞかし。大宮院・東二条院の御母なれば、両院の御祖母、太政大臣の北の方にて、天の下みなこのにほひならぬ人はなし。いとやんごとなかりける御宿世なり。昔、御堂殿の北の方鷹司殿と聞えしにも劣り給はず。大方、この大宮院の御宿世、いとありがたくおはします。すべていにしへより今まで、后・国母多く過ぎ給ひぬれど、かくばかりとり集め、いみじきためしはいまだ聞き及び侍らず。御位のはじめより選ばれ参り給ひて、争ひきしろふ人もなく、三千の寵愛ひとりにをさめ給ふ。両院うち続き出で物し給へりし、いづれも平らかに、思ひの如く、二代の国母にて、今はすでに御孫の位をさへ見給ふまで、いささかも御心にあはず思しむすぼほるる一ふしもなく、めでたくおはしますさま、来し方もたぐひなく、行末にも稀にやあらん。

http://web.archive.org/web/20150909231957/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kitayamajugoto-omiyain.htm

ということで(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p288)、『増鏡』は確かに「正確さには欠けますが」、四条家にとって名誉な方向に改変しているとも言えますね。
さて、コラム「語りだしと隆房」の系図を見ると、そこに登場している人物は、男性が、

清盛、(四条家)隆房、(後嵯峨の乳母夫)隆衡、(西園寺家)実氏、後嵯峨、後深草、亀山、伏見

の八人、女性は単に「女」とある三人を除くと、

(北山准后)貞子、大宮院、東二条院、遊義門院、玄輝門院

の五人です。
この五人が「隆房の血を引く女性たち」で、「こうした子孫の女性たちの存在感が、隆房まで有名にしたのかもしれません」という指摘は重要です。
また、再び我田引水気味になるかもしれませんが、この五人は全て『とはずがたり』の登場人物でもありますね。
ところで、角田文衛氏が『平家後抄』を執筆した時点(初版は1981年)では、『安元御賀記』の研究がそれほど進んでおらず、角田氏も「類従本系」を重要な根拠として極めて新平家的な隆房像を描き出していた訳ですが、伊井春樹氏の「『安元御賀記』の成立─定家本から類従本・『平家公達草紙』へ─」(『国語国文』61巻1号、1992)により学説の状況が変化しています。
即ち、「伊井春樹によって、類従本系にのみ見られる官位がことごとく誤っている点などから、定家本系がより原態に近く、類従本系は定家本系を増補・潤色したものであり、隆房の筆ではないことが結論づけられた。現在、この結論に関しては疑問の余地はないと思われる」(猪瀬千尋氏)という学説の状況に照らすと、角田氏が描き出した極端に親平家的な藤原隆房像は必ずしも隆房の同時代史料で基礎づけることはできず、むしろ少し後の「二次創作」の反映のように思われます。

『安元御賀記』(by 四条隆房)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/467411a2e4e0b0cd5887e2c4444b76b3

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「なぜ、これほどまで、隆房が陰に陽に登場するのでしょう」

2019-03-21 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月21日(木)21時16分59秒

私も『平家公達草紙』など今まで全く縁がなかったので、その基本的な性格についても無知だったのですが、前回投稿で引用した文章に続く部分に、

-------
 じつは、『平家公達草紙』は一つのまとまった作品ではありません。別々の三種類の小品をまとめて、仮に名付けただけのものです。平家の人々を主人公とすること、時に気になる脇役、藤原隆房を登場させることなどでは共通しているのですが、筆致、内容などは三種三様です。三種の『公達草紙』が残されていると言ってもいいでしょう。いや、もっと数多く作られたのかもしれません。きっと作られたのでしょう。その中からたまたま現代まで残ったのがこの三種であったのかもしれません。
-------

とあります。(p10)
まだ全部をしっかり読んだ訳ではありませんが、私にとって一番気になるのは三つの小話の三番目、

-------
三、恋のかたち
[1]恋のさやあて─維盛と隆房
[2]神出鬼没の隆房
[3]雪の日のかいま見

http://kasamashoin.jp/2016/12/post_3835.html

ですね。
平維盛と四条隆房の「何やらボーイズラヴ的な雰囲気まで漂わせる」話ですが、検討は後日行います。
さて、上記部分に続き、『平家公達草紙』の作者について、

-------
 実際にお話を作ったのは、どのような人だったのかはわかりません。お嬢様たちに仕えた女房たちでしょうか。親しく出入りしている貴族たちも創作意欲を掻き立てられて、創作に加わっているかもしれません。彼女・彼たちは競い合って作り、披露し合って楽しみ、元ネタをどのようにあっレンジできたかを批評し合い、平家の人々について持っている知識を自慢し合って面白がり、楽しく遊んだことでしょう。特に女性たちは、一〇〇年前の貴公子たちに熱い憧れのまなざしを送ったのではないでしょうか。
-------

とありますが、四条家が無視されている訳ではないですね。
「一、華麗なる一門」に付されたコラム「語りだしと隆房」(p35)には、

-------
 語りだしは、「御賀の素晴らしさは言うまでもないこと……」。でもこれは、第二話以降を先取りしたものです。何のこと? 次には「まだ中将・少将でありました時」とあります。一体誰のこと? では早速、左注の助けを借りましょう。「御賀」は「安元御賀」、「中将・少将」とは「隆房」。隆房って、だれ?
 藤原隆房は親平家側で活躍した貴族で、妻は清盛の娘です。しかし、平家一辺倒ではなく、後白河院にもよく仕えていたので、平家が都落ちをし、滅亡した後にもますます栄えました。『公達草紙』の資料の一つとなった『安元御賀記』の作者でもあります。他にも、自身の失恋を歌った百首歌は『隆房集』として残されています(失恋の相手は小督局と言われ、『平家物語』の題材となり、『公達草紙』成立と同じような時代に絵巻が作られました)。「三、恋のかたち」でも隆房が語り手として、維盛との怪しげな関係を作り出しています。なぜ、これほどまで、隆房が陰に陽に登場するのでしょう。
-------

という問いかけがなされ、直ちに「その理由の一つ」が示されています。即ち、

-------
 その理由の一つに、『公達草紙』製作の時代の、隆房の子孫の繁栄を考えてもいいでしょう。左の系図でおわかりのように、隆房の血を引く女性たちが、皇室との結びつきを強めています。貞子は九〇歳の御賀を祝われ、『増鏡』「老の波」でも、正確さには欠けますが、「安元の御賀に青海波舞ひたりし隆房の大納言の孫なめり」と紹介されています。こうした子孫の女性たちの存在感が、隆房まで有名にしたのかもしれません。
【参照】角田文衛『平家後抄(下)』(講談社学術文庫、二〇〇〇年九月、初版は一九八一年)
-------

ということで、角田文衛氏の影響が強いですね。
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「自分たちの願望や憧れを込めて、様々な手法を使って、平家公達の横顔を二次創作」

2019-03-21 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月21日(木)18時12分18秒

櫻井陽子・鈴木裕子・渡邉裕美子著『平家公達草紙 『平家物語』読者が創った美しき貴公子たちの物語』(笠間書院、2017)を入手し、パラパラと眺めてみました。

-------
『平家物語』に満足できないなら
自分たちで書けばいいじゃない?
『平家物語』の登場人物を借り、鎌倉時代の読者が創った
美しき御曹司たちが織りなす逸話集『平家公達草紙』。
公達への夢と憧れの詰まった、二次創作の元祖!

http://kasamashoin.jp/2016/12/post_3835.html

冒頭の「作品への招待~読者の願望が生んだもう一つの『平家物語』」から少し引用してみると、

-------
華やかな宮中を舞台とした公達との恋

 しばらく『平家物語』から離れましょう。鎌倉時代中後期(十三世紀半ばから十四世紀半ばころ)のお嬢様たちは、どのような本を読んでいたでしょう。もちろん、『古今和歌集』から始まる勅撰和歌集、『伊勢物語』『源氏物語』をはじめとする様々な物語に十分親しんでいたでしょう。また、今は失われましたが、多くの恋愛物語が作られていましたので、それらも愛読していたでしょう。
 このような物語とは別に、その時代によく読まれた作品の一つに、『建礼門院右京大夫集』(以下、『右京大夫集』)という作品があります。
-------

ということで(p5)、『右京大夫集』の内容紹介後、『平家物語』についても簡明な説明があります。
そして、暫く前から当掲示板で検討している「舞御覧」に関係する記述として、

-------
 また、『右京大夫集』には維盛の美貌が、維盛の舞の美しさと共に記されています。
【中略】
 これは維盛が熊野で入水したことを聞いて、維盛の思い出に浸って悲しみに沈む場面です。思い出とは、安元二年(一一七六)に後白河院の五〇歳をお祝いして法住寺殿で連日続いた盛大な儀式、安元御賀の時のことです。維盛は青海波という美しい舞を舞いました。それが光源氏に匹敵する美しさであったというのです。
 たまたまこの安元御賀の記録が残されています。もともと後白河院を讃えるための記録として書かれたものですが、後世改作されて、平家一門の登場場面が加筆されました。その改作された作品を利用して、さらに維盛の艶やかさを書き加えて、維盛にスポットを当てて、美しく舞う場面を書き上げました。
 また、それとは別に、『源氏物語』などを思い出しながら、維盛を恋多きプレイボーイに仕立ててみました。それどころか、何やらボーイズラヴ的な雰囲気まで漂わせることも。
 それがこの『平家公達草紙』です。現代で言えば、夢見る歴女が戦国武将や幕末の志士に憧れてイケメン像を作り上げることと、一脈通じるかもしれません。鎌倉時代のお嬢様やその周辺の人々が、『右京大夫集』や『平家物語』の中から、特に好きな男性のキャラクターに、自分たちの願望や憧れを込めて、様々な手法を使って、平家公達の横顔を二次創作していきました。
-------

とあります。(p9)
となると、「もともと後白河院を讃えるための記録として書かれた」「安元御賀の記録」に「平家一門の登場場面」を「加筆」した主体が具体的に誰なのか、更に『平家公達草紙』という「二次創作」の主体となった「鎌倉時代のお嬢様やその周辺の人々」が具体的に誰なのかが気になりますが、櫻井・鈴木・渡邉氏は候補者としても特定の人名を挙げません。
ただ、角田文衛氏の『平家後抄』における考察と照らし合わせると、最有力候補はやはり四条家関係者ではなかろうかという感じがします。
そして、「平清盛の曾孫に生まれ、極めて平家的な環境の中で育ち、かつ鎌倉時代を生き抜いた藤原貞子ほど『平家後抄』の著者として好適な人物は、他に求め得ない」とすれば、「北山准后」藤原貞子の周辺の可能性が高くなります。
角田氏が言われるように「藤原貞子自身は記録を残しておらず、貞子は、父や弟の隆親とは違って文才に恵まれなかったらしく、親しく見聞した平家一門の人びとの動きについては、なにひとつ記録を遣さなかった」としても、藤原貞子は大変な財力の持ち主であったことは間違いないのですから、「二次創作」のスポンサーとなることは可能です。
そして、いささか我田引水的になるのを承知で想像を逞しくすると、藤原貞子の周辺には『とはずがたり』の作者である後深草院二条という極めて文才に富んだ女性が存在し、更に『とはずがたり』によれば、後深草院二条は画家としての才能も有していた訳ですから、『平家公達草紙』の文章のみならず、絵の作者としても後深草院二条は有力な候補者といえるのではなかろうか、という感じがしてきます。
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「なぜ貞子は、この二条に口述・筆記させなかったのであろうか」(by 角田文衛)

2019-03-21 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月21日(木)10時53分2秒

続きです。(p17以下)
「貞子の義理の孫、つまり養女の近子が産んだ娘」の後深草院二条も登場します。

-------
 治部卿局も、壇ノ浦で夫・知盛の壮烈な最後や安徳天皇の入水を傍近くで目撃したばかりでなく、建久七年には息子の知忠の首実検を強いられた悲劇の女性であった。同じ邸内に住んでいた治部卿局は、折にふれて平家の栄光と惨劇の次第を貞子に語りきかせたに違いないのである。
 小督局とのロマンスで有名な貞子の祖父の隆房は、高階泰経(一一三〇~一二〇一)と並んで後白河法皇の寵臣中の双璧であった。そうした背景もあって、隆房は、壇ノ浦の後においても公然と平家の支持者としての態度を表明して憚らなかった。父の隆衡は、平清盛の孫であったから、これまた平家に対して親近感を抱いていた。以上によってもその一端が窺える通り、貞子は平家の縁者、同情者、関係者に囲まれた環境で成人したのである。
 やがて貞子は、西園寺家の藤原実氏(一一九四~一二六九)の正妻となり、娘を二人ほど産んだ。西園寺家は、「承久の乱」後、著しく脚光を浴びて政界に雄飛し、実氏は太政大臣にまで昇進したし、また娘の※子(後の大宮院)は、後嵯峨天皇の中宮に立てられ、後深草・亀山両天皇を産んだ。さらにはもう一人の娘の公子(後の東二條院)は、後深草天皇の中宮となった。
 これに加えて健康に恵まれていたため、貞子の福慶は、たぐい稀なものであった。しかしその間にも彼女は、残された平家の人々のさまざまな運命に心を寄せ、八、九十年に亘って彼らの禍福、浮沈を見守り続けたのである。
 実のところ、平清盛の曾孫に生まれ、極めて平家的な環境の中で育ち、かつ鎌倉時代を生き抜いた藤原貞子ほど『平家後抄』の著者として好適な人物は、他に求め得ないであろう。しかし貞子は、父や弟の隆親とは違って文才に恵まれなかったらしく、親しく見聞した平家一門の人びとの動きについては、なにひとつ記録を遣さなかった。『とはずがたり』の作者・二条は、貞子の義理の孫、つまり養女の近子が産んだ娘であった。なぜ貞子は、この二条に口述・筆記させなかったのであろうか。
 これは今さら悔んでも為〔せ〕ん方ないことである。しかしそれだけに北山の准后─従一位・藤原朝臣貞子─に代って壇ノ浦以後の平家の動静について綴ってみようと言う意欲も旺んに盛り上るのである。
-------

ということで、「平清盛の曾孫に生まれ、極めて平家的な環境の中で育ち、かつ鎌倉時代を生き抜いた藤原貞子ほど『平家後抄』の著者として好適な人物は、他に求め得ない」にもかかわらず、貞子自身は「父や弟の隆親とは違って文才に恵まれなかったらしく、親しく見聞した平家一門の人びとの動きについては、なにひとつ記録を遣さなかった」ので、角田氏は「北山の准后─従一位・藤原朝臣貞子─に代って壇ノ浦以後の平家の動静について綴ってみよう」と決意された訳ですね。
この「に代って」を講談社の編集者ないし宣伝担当者は「仮託」としてしまった訳ですが、別にどこにも北山准后に「仮に託した」記述はないので、やはり変ではないかと思います。
なお、角田氏は「貞子の義理の孫、つまり養女の近子が産んだ娘」という具合に四条隆親の娘、後深草院二条の母親の名前が「近子」だと言われているのですが、この点、私は未だに納得できていません。

※2022年10月22日追記
「近子」については、2020年4月に若干の分析を行いました。

四条家歴代、そして隆親室「能子」と隆親女「近子」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b00ceaddfb29cda1d297e2865a68055a
「偏諱型」と「雅名型」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d68c12fe57fdb5c8b3cdd20e347f5cac
二人の「近子」(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cab06b8079de0a02dcc067ca30d4c4bb
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/59c49697176f8ff9a16a3917041217e6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b5f2a26745f54da5d6e93f44843e49ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/482deb8d7d6f9bb02e583f66a0804c6b

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「北山の准后藤原貞子に仮託して」(by 講談社BOOK倶楽部の中の人)

2019-03-20 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月20日(水)23時11分13秒

「講談社BOOK倶楽部」の『平家後抄(上)』の「内容紹介」には「北山の准后藤原貞子に仮託して、壇ノ浦以後の平家の動静を克明にたどる名著」とありますが、角田文衛氏は別に「北山の准后藤原貞子」の回想録を偽造した訳でも、彼女を語り手とする小説を書いた訳ではないのですから、「仮託」という表現は変な感じですね。
講談社の編集者ないし宣伝担当者がどこから「仮託」という表現を見つけて来たかというと、それらしき箇所が「序章 北山の准后」にあることはあります。
そこに辿り着くまでの前提として、「序章 北山の准后」の冒頭を少し引用すると、

-------
   貞子の回想

 北山の准后〔ずごう〕の名で朝野の尊崇を一身にあつめていた藤原貞子がその永い生涯を閉じたのは、後二條天皇の乾元元年(一三〇二)十月一日のことであった。日本の歴史を通じて、この貞子ほど栄耀と長寿に恵まれた女性は稀であって、『増鏡』(第十『老のなみ』)にも、

いとやんごとなかりける御さいはひなり。むかし御堂殿の北方、鷹司殿と聞えしにも劣り給はず。

とみえ、貞子の幸福は、藤原道長の正妻で、九十歳の高齢まで生きた源倫子に劣らぬ旨が叙べられている。
 実際、貞子の九十歳の算賀が盛大に催されたのは、弘安八年(一二八五)二月三十日のことであったが、その祝賀は、後宇多天皇、後深草上皇、亀山上皇、大宮院(藤原※子)、東二條院(藤原公子)、新陽明門院(藤原位子)、東宮(後の伏見天皇)の臨御のもとに、北山の西園寺第(今の金閣寺のあたり)で華々しく催され、まことにそれは未曾有の盛儀であった。その次第は、『増鏡』(第十「老のなみ」)や藤原〔滋野井〕実冬(一二四四~一三〇四)の『北山准后九十賀記』などに詳しく書きとどめられており、ほとんど余すところがない。
 弘安八年に九十歳を慶祝された貞子は、その後も健在であって、乾元元年まで生き続けたのであるから、彼女の享年はなんと百七歳であった。柳原家の藤原紀光(一七四七~一八〇〇)などもこれに触れて、

按ずるに、本朝、大臣武内宿禰のほか、高位の人の百余歳は未だ曾て有らず。奇代の寿考なり。

と、愕きを示している。
 享年が百七歳であったのであるから、貞子は後鳥羽天皇の建久七年(一一九六)に生まれたわけである。つまり彼女は、鎌倉時代のほとんど全部を生き抜いた、世にも稀な貴女であった。

※女偏に「吉」
-------

といった具合です。(p15以下)
『平家後抄』は「貞子の回想」という紛らわしい小見出しで始まることは確かですが、内容は各種史料に基づき記述されたごく普通の歴史叙述ですね。
すぐ後に隆房も登場するので続けて紹介すると、

-------
 建久七年と言えば、壇ノ浦の合戦から十年ばかり後であって、幼い頃の貞子の周りには、壇ノ浦から生還した女性たちや、平家の縁故者、同情者がまだ群をなしていた。
 貞子の父は、四條家の権大納言・藤原隆衡(一一七二~一二五四)であった。この隆衡の母、つまり貞子の祖母は、太政大臣・平清盛の娘で、建礼門院のすぐ下の同母妹であった。祖母は、貞子がまだ四歳の時に歿したから、彼女の記憶には祖母の俤はほとんどあとをとどめていなかったであろうが、平家の強力な同情者、支持者として終始一貫した祖父の権大納言・隆房(一一四八~一二〇六)は、なお健在であった。
 後に述べるように、隆房夫妻は、建礼門院を大原から四條家の菩提寺の善勝寺に引き取ってお世話していたし、また平知盛の未亡人の治部卿局を自邸-四條大宮第-に住まわせていた。貞子は、少女の時分から年に何回となく祖父や両親につれられて白河の善勝寺に参詣したに相違ない。そしていくたびかその寺で静かに余生を送っておられる建礼門院を拝し、昔語りを承ったことであろう。この悲劇の女主人公であった女院の印象と懐旧談の数々は、生涯彼女の脳裡に鮮かに残っていたはずである。
-------

ということで(p16以下)、貞子自身の回想の記録は残っていないので結局は推測に止まるものの、第一章以下ではそれなりに根拠を示したうえでの説明がなされており、別に貞子に「仮託」した記述は全巻通じて存在しません。
この後、後深草院二条も登場するのですが、長くなったのでいったんここで切ります。
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『平家後抄』再読

2019-03-20 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月20日(水)12時39分4秒

久しぶりに角田文衛氏の『平家後抄』上下二巻を眺めてみました。

-------
平家は壇ノ浦で滅んだのか?『平家物語』その後
女系を通じ現代にまで繋がる平家血流の研究

平維盛の子、平家の最後の嫡流六代の斬刑により、「平家は永く絶えにけり」と『平家物語』は結ぶ。しかし、壇ノ浦の惨敗の後、都に帰還した平家の女性(にょしょう)たちの血は、皇族、貴族の中に脈々と生き続け、実に現代にまで続いていることを忘れてはならない。北山の准后藤原貞子に仮託して、壇ノ浦以後の平家の動静を克明にたどる名著。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000151034

下巻の「第六章 鎮魂の歌」は一章全体が四条隆房に割かれていますね。
その構成は、

-------
冷泉大納言隆房
平家公達草紙
栄耀の日々
草紙と絵巻
女院の動静
-------

となっていて、冒頭を少し紹介すると、

-------
   冷泉大納言隆房

 前にも触れたように、平忠盛・清盛父子と中納言・藤原家成(一一〇七-一一五四)との交誼は、想像以上に緊密なものがあった。実際、これに信西入道こと藤原通憲(一一〇六-一一五九)を加えた三者の連繋はまことに堅固であって、平安時代末期の政治史を理解する上での要諦の一つは、常にこのトリオを念頭におくことである。
 左大臣・藤原頼長が家成について、「天下無双の幸人なり」と評したことからも察知される通り、家成は鳥羽法皇随一の権臣であって、官は中納言にとどまったものの、その実力は他に比肩を許さなかった。
【中略】
 隆季の嫡男の隆房(一一四八-一二〇九)の生涯については、桑原博史氏の研究が公にされている。この隆房は、父・隆季よりさらに多芸多才であるばかりでなく、処世の方も一段と円滑であった。その官歴は、別に示した通りであるが、最も肝要なのは、まず第一に、隆房が清盛の娘を妻としていたことである。後に琴の上手として名を売ったこの女性については、前にも触れておいた。彼女は幼い頃に政略的に信頼の子の侍従・信親の妻とされた。もっとも信親は、平治元年(一一五九)においてまだ五歳の童であったから、二人の間には、無論、夫婦の営みはなかった。おそらくこの婦人もまだ五、六歳であり、前記の通り、建礼門院徳子の直ぐ下の妹であったらしい。「平治の乱」によって信親は流罪の宣告を蒙り、二人の仲は裂かれた。
 隆房とこの夫人との間に生まれた隆衡は、承安二年(一一七二)の出生であった。これから推すと、彼女は嘉応元年(一一六九)頃─十五歳頃─隆房の正妻となったものと考えられる。
 その後間もなく隆房は、中納言藤原成範の娘の小督〔こごう〕と熱烈な愛情関係に陥った。これも、家成─清盛─信西の関係に由来した恋愛であって、単に小督が美人であるためにのみ関係を結んだのではなかったと想定される。
-------

といった具合です。(講談社学術文庫版『平家後抄(下)』、2000、p9以下)
隆房と平清盛女の間に生まれた隆衡の娘が貞子(北山准后、1196-1302)ですね。
角田氏はこの後、「隆房が小督との悲恋の経過を述べた記録であると認められている」(p17)『艶詞〔つやことば〕』に触れ、更に平家物語の小督説話について「この中には少なからず虚構が織りこめられている。中でも清盛が小督に二人の聟をとられたことを怒り、ついに彼女を捕えて尼にし、追放したなどという所伝は、虚構もまた甚だしいのである」(p18)とお怒りになられた後、『安元御賀記』にも言及されます。(p19以下)

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 歌才に富み、文筆に巧みであった隆房には、安元二年(一一七六)三月における後白河法皇の五十の賀宴を詳しく録した『安元御賀記』の著述がある。注意を要するのは、この記録は、賀宴を催された高倉天皇や、賀を受けられた後白河法皇を讃仰するように見せかけて、実は平家一門の耀かしい栄光を礼讃していることである。中でも焦点がおかれているのは、隆房と共に舞を演じた若々しい平惟盛の舞のあでやかさ、横笛の巧みさなどである。父の隆季も清盛と緊密に提携していたが、隆房の場合は、単なる平家の支持者ではなく、その讃仰者ですらあったのである。
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ここで『安元御賀記』に付された注24を見ると、

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24 『群書類従』雑部所収。なお、『群書解題』第二十、四六~四七頁、参照。
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とあり(p282)、更に『平家公達草紙』に関連して『安元御賀記』に触れた部分の記述(p24以下)を見ても、角田氏が「定家本系を増補・潤色したものであり、隆房の筆ではないことが結論づけられた」(猪瀬『中世王権の音楽と儀礼』、p106)「類従本系」に依拠して議論を進めていることは明らかですね。
遥か昔に『平家後抄』を読んだときは『安元御賀記』や『平家公達草紙』に関する部分は読み飛ばしていたのですが、猪瀬氏の指摘を受けて改めて読み直すとけっこう面白い内容です。
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『文机談』の思い出

2019-03-19 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月19日(火)22時25分13秒

>筆綾丸さん
何事かと思いましたが、新元号の私案ですか。

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「古くから元号は中国の典籍を根拠としています。たとえば『平成』は、『史記』五帝本紀の『内平外成』、および『書経』大禹謨の『地平天成』が由来。しかしこれからの時代、中国古典にこだわる必要があるのかどうか。歴史の知識を踏まえつつ、現代的な要素も取り入れるべきではないか。そう考え、私は『愛鳳(あいほう)』を提案します。


個人的な好みとしては「愛」は勘弁してほしいですね。

本郷さんには昔いろいろ教えてもらって、中世の音楽関係では『文机談』という興味深い史料があると教示してくれたのも本郷さんでした。
岩佐美代子氏の『文机談全注釈』(笠間書院、2007)が出る前だったので、私には難しい部分が多く、苦労しましたが、それでもこれをきっかけに中世音楽関係の論文をそれなりに熱心に読みました。
そのおかげで猪瀬千尋氏の『中世王権の音楽と儀礼』のような難解な専門書も、昔取った杵柄、という感じで割と楽に読めました。
あれから幾星霜、本郷さんも貴族社会にはあまり言及されなくなり、私の関心もあちこち移って今では接点も少なくなってしまいましたが、歴史学界の異端児としていつまでも元気に活躍されてほしいですね。

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楽人たちのやり直しのきかぬ、
真剣勝負の面白さ。
録音技術もなかった当時、
ぬきさしならぬ、一回の真剣勝負に生命を賭け、
歴史の中に埋没していった、
楽人の生きざまを、如実に写しとどめた、
中世音楽史の魅力溢れる逸話の数々。
中世楽家、琵琶「西流」師範家、
藤原孝道・孝時にかかわる音楽史と
いろんな分野の有名人が琵琶でつながっている、
エピソードを綴った物語。
ようやく人を得て、
翻刻・現代語訳対照の読みやすい2段組みで
その全貌が明らかになる。
乞うご期待!


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Sexist 本郷 ? 2019/03/19(火) 12:56:08
https://www.news-postseven.com/archives/20190204_862420.html
最近、ネットで知ったのですが、本郷和人さんは、なぜ、こんな莫迦なことを言うようになってしまったのか。
鳳はオス、凰はメスですが、なぜ、愛鳳であって愛凰ではないのか。性差別になるんじゃないの。
織田信長が花押に用いた麒麟の麟(メス)にして、愛麟にしたらどうだろうか。アイリンをアイリーンと発音すれば、女性名の Irene を連想させて、国際的にも通用する。ただ、国内的には、大阪の某地区と同音になってしまいますね。

フランスでは、père(父)と mère(母)は性差別的な名称なので、parent 1(親1)と parent 2(親2)に変更すべきか、という馬鹿げた議論がありますね。 1 と 2 は、ただの数(number)であるとともに、序数(ordinal number)にもなるから、それもまずいのではないか。といって、parent x と parent y は、性染色体みたいで、もっと問題がありますね。parent ♂ と parent ♀ では、発音できないからダメですね。ゾンビ・カトリシズムの時代に逆行するけれど、ヨハネの黙示録の「私はαでありωである」を踏まえて、parent α と parent ω などはどうかな。
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『東アジアの王権と思想』再読

2019-03-15 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月15日(金)10時46分11秒

>筆綾丸さん
>「昭和天皇実録」の誤りは約5千ヶ所

たまたま見かけたツイートで、松沢裕作氏が、

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実録の「誤り」が結構なニュースになってますけど、明治天皇記だって奉呈した時のものを刊行時に校訂してるでしょう。原本(?)より刊本の方が正確というの、近代編纂物ではまああるのでは。
https://twitter.com/yusaku_matsu/status/1106038871630835713

と言われているのを知りました。
編纂実務に詳しい人から見れば、これが普通の見方なのかもしれないですね。

私が見つけた「論文の小さな傷」の中では、渡辺浩氏の『東アジアの王権と思想』の「序 いくつかの日本史用語について」は、小さな傷口からここまで話が拡がるのかと自分でもちょっとびっくりしました。

一応のまとめ:二人の東大名誉教授の仕事について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c72b9e6513f8ed3423832948724b2c3b
東京大学名誉教授・渡辺浩氏の勘違い
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/722bac4b55bda795aaf50e39e5765f9d

ただ、『東アジアの王権と思想』が全体として駄目な本かというとそんなことは全然なくて、特に2016年の「増補新装版」で追加された「補論『宗教』とは何だったのか─明治前期の日本人にとって─」は非常に優れた論文ですね。
つい最近、岩田真美・桐原健真編『カミとホトケの幕末維新─交錯する宗教世界─』(法蔵館、2018)を読んで、最新の神仏分離・廃仏毀釈研究の進展を概観することの出来る書物がいよいよ現れたかと喜んだのですが、神仏分離・廃仏毀釈の研究が進めば進むほど、この過渡的な宗教現象の背景に存在する近世以来の無宗教世界が浮かび上がってきます。

『カミとホトケの幕末維新』
http://www.hozokanshop.com/Default.aspx?ISBN=978-4-8318-5555-8

そして、そうした無宗教世界、カミの不在とホトケの不在の幕末維新を最も明晰に描き出しているのが渡辺浩氏の「補論『宗教』とは何だったのか─明治前期の日本人にとって─」ですね。
学問的にはこちらの方が遥かに重要な問題だったのですが、一昨年は小さな傷を追うのに疲れて、この問題に復帰しないまま検討を終えてしまいました。

「Religion の不在?」(by 渡辺浩)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52635c996a4905b98584c8fff72f46e8
「戯言の寄せ集めが彼らの宗教、僧侶は詐欺師、寺は見栄があるから行くだけのところ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4374da95a1226e9bc0ea736416ba2c70

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話 2019/03/14(木) 17:56:38
小太郎さん
https://www.asahi.com/articles/ASM375VR5M37UTIL02Q.html
「論文の小さな傷」ですが、「昭和天皇実録」の誤りは約5千ヶ所だそうですね。ほんとは、もっとあるのでしょうが。
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『安元御賀記』(by 四条隆房)

2019-03-13 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月13日(水)12時20分59秒

論文の小さな傷を見つけてそこにズリズリと塩をすり込み、更に傷口を広げて行く技術力の高さでは誰にも負けない私があれこれ書いたので、「第四章 歴史叙述における仮名の身体性と祝祭性─定家本系『安元御賀記』を初発として」の内容に多少の疑問を持たれた方がいるかもしれませんが、この論文が非常に高い水準にあることは間違いありません。
ただ、その全体を批評することは私の能力を超えるので、私の狭い関心から気づいたことだけ、もう少し書いておきたいと思います。
私は『とはずがたり』と『増鏡』の作者を同一人物、即ち後深草院二条だと考えており、その仮説に基づいて貴族社会の人間関係を細かく追っているのですが、そうした私の立場からすると、猪瀬氏が分析された「舞御覧」に関する「仮名日記」の多くに四条家と西園寺家の色彩が非常に濃厚であることに驚かされます。
まず、『安元御賀記』の作者が四条隆房であって、この人は後深草院二条の母方の高祖父ですね。
『安元御賀記』の内容については「はじめに」に纏められているので、少し引用してみます。(p106以下)

-------
    はじめに

 主上や皇后の長寿を言祝ぐ御賀や、一代一度の両席御会である中殿御会、践祚後の初度朝覲行幸など、晴の儀礼においては、屏風絵や絵巻などが作成され、公家日記だけではない様々な形でその「記録」が残された。
 そうした公家日記とは別の「記録」として仮名日記があり、その中に四条隆房の『安元御賀記』がある。これは安元二年(一一七六)三月、春の盛りに法住寺殿で行われた後白河院五十御賀を記録したものである。これをめぐっては内容の簡素な定家本系と、平家に関する記述が多い類従本系の二系統が知られている。これら諸本の系統をめぐっては、伊井春樹によって、類従本系にのみ見られる官位がことごとく誤っている点などから、定家本系がより原態に近く、類従本系は定家本系を増補・潤色したものであり、隆房の筆ではないことが結論づけられた。現在、この結論に関しては疑問の余地はないと思われるが、しかしこの論の後も、『安元御賀記』に関する研究は類従本系を中心に続けられてきた。
 それは類従本系が「平家公達草紙」といった絵画作品や、『建礼門院右京大夫集』、『平家物語』諸本と密接な関係性を持つからであって、一方では定家本系が儀礼を淡々と記しただけの退屈な作品にも見える、という点もあるように思われる。ところが逆にこの定家本系の退屈さに目を向けてみると、そこにはある重要な文脈が存在していることに気づく。それはこの作品の大部分が漢文日記の記述方法によっている、という点である(以下、定家本系『安元御賀記』について『御賀記』と略称する)。
 なによりもまず、『御賀記』の文体のほとんどが漢文日記(本論では、便宜的に公家日記などの和製漢文の日記を「漢文日記」と呼ぶ)の訓み下しであることに注意したい。例えばはじめの部分の

その日のあかつき、法住寺のみなみどのに、みゆきあり。もゝのつかさども、まいりしたがへること、つねのごとし。院御所一町にをよぶほどに、さきのこゑをとゞむ。みこしを西のよつあしにかきたつ。かむづかさ、御ぬさをたてまつる。うたづかさ、たちがくをそうす。院別当権大納言たかすゑ、事のよしを申す。

という文章は、次のように漢文化できる。

其日暁、有行幸法住寺南殿、百官共参従事、如常、院御所及一町程、止前音、舁立御輿於西四足、神祇官献御麻、雅楽寮奏立楽、院別当権大納言隆季申事由、

 こうした漢文日記訓み下しの傾向は、『御賀記』全体を貫くとともに、とりわけ御賀一日目の記録である三月四日条に強く見られる。【後略】
-------

いったんここで切ります。
「院別当権大納言隆季」は四条隆房の父親ですね。

藤原隆季(1127-85)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E5%AD%A3
藤原隆房(1148-1209)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E6%88%BF
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