学問空間

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『古代文化没落の社会的諸原因』

2014-03-31 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月31日(月)20時06分32秒

ここ暫く、石母田氏は一体いつからウェーバーを読んでいたのだろう、というプチ疑問を抱いていたのですが、石井進氏の「『中世的世界』と石母田史学の形成」(『中世史を考える─社会論・史料論・都市論』所収、初出は『歴史学研究』556号、1986年7月)によれば、1943年の「宇津保物語についての覚書」執筆時までは確実に遡りますね。

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(前略)
 やがて一九四三年四月、歴史学研究会日本史部会で口頭発表され、同年末『歴史学研究』に掲載された「宇津保物語についての覚書─貴族社会の叙事詩としての」は、先生の研究の一つの転機を示す重要な論文です。平安朝の文学として注目されることの少なかった「宇津保物語」をとり上げ、「没落しようとする古代社会及び古代都市の歴史的表現として」理解しようとする視角は斬新であり、後年の「英雄時代論」や「平家物語論」につながる指摘もすでになされています。特に古代的世界の没落という問題意識が正面におし出されたことが特徴的です。
 先生に伺ったところでは、「学生時代、西洋史の山中謙二さんの講義をききながら、古代から中世への展開の過程を、西欧のような諸民族の隆替、交渉史でなく、一民族内にローマ的、ゲルマン的なものをともにふくむ日本史の舞台で明らかにしたい、と考えたことがまず一つあった」、「それを社会構成論の奴隷制への展開としてとらえようとした。そこで<寺奴>の問題が出てきた」ということでした。また「古代世界の没落という関心は西洋史からですね。ウェーバーは読みましたよ。あの<ウンターガング・・・>、短いものだが、あれだったかな?」とも伺いました。その後、数日たって又お訪ねしましたが、その時には机の上に『社会経済史論集』が出しており、「これが『古代文化没落の社会的諸原因』ですよ。<没落(ウンターガング)>にひかれて読んだところ、これが面白くてねぇ」とのお話でした。
 この論文は、古代社会構造の独自性を①都市文化、②沿岸文化、③奴隷文化の三点でとらえた後、その基礎構造をなす奴隷制が、ローマ帝国による侵略戦争の停止後、人間商品の供給不足の結果決定的に変質し、①’田園文化、②’内陸文化、③’荘園制という対極的特徴をもつ中世社会に移行したことを強調する、きわめて鋭い内容であります。とくに社会的諸原因のうち、奴隷制の変質の一点に問題をしぼりこんだところは、マルクスの歴史観を想起させる部分があります。先生が強い印象をうけられたのも、さこそと思われます。
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まあ、石母田氏の教養からすれば、全く当たり前の話でしたね。
もしかしたら旧制二高時代くらいまで遡るのかもしれませんが、ウェーバーにはマルクス主義の文献のような熱さはありませんから、石母田氏が面白いと思うようになったのは直接的な政治運動から離れた後なんでしょうね。

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石母田氏が砂漠に立った時期

2014-03-30 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月30日(日)22時52分59秒

著作集第16巻に載っている板垣雄三氏の「追想・砂漠に立つ石母田さん」というエッセイは、『日本の古代国家』に至る石母田氏の思考の変化を探る上で、非常に興味深いものですね。

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(前略)
 砂漠の地平線を眺めながら、石母田さんはしみじみと、独特の計数と管理の対象たる財をかかえて移動する遊牧民という存在のおもしろさを語った。そして、世界史において、生産関係のあり方がたえず土地所有形態に還元されうるような社会ばかりがあるのではないという問題に多大の興味を示された。私もつりこまれ、遊牧民・職人の商人的性格やヨーロッパ人が持ち込んだ抵当権の観念とイスラム法との関係についてのべたりした。
 のちに石母田さんが岩波講座『世界歴史』別巻に書かれた「東洋社会研究における歴史的方法について─ライオット地代と貢納制─」を読んで、実は不満だった。トンガなどポリネシアの社会が海の民のそれとして十分に論じられていないと思ったからだ。しかし、『日本の古代国家』(岩波・日本歴史叢書)を読んで納得した。国家成立史における国際的契機の論議は、私には、エジプトでの対話の続編のように感じられたからである。
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ただ、このエッセイは冒頭に変な記述があります。

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 四半世紀もむかしのことなのに、不思議にも印象は鮮やかに残っている。石母田さんがローマからカイロに飛んできて、一週間エジプトに滞在されたのは、一九六六年三月下旬のことだった。私の記憶に間違いがなければ、法政大学法学部長の任期を終えられたあとヨーロッパ遊学の旅に出られ、ドイツや英国にしばしとどまったのち、帰国の途次、中東を訪問されたのであったと思う。そのとき、私は在外研究のため単身カイロに居住していた。
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著作集第十六巻の「年譜」を見ると、

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1965年(昭和40) 52歳
4月 ヨーロッパに留学、1か所2か月滞在の原則で、オーストリア・ドイツ・イギリスの大学と研究所を巡り、研究する。 その間、10月にコンスタンツ中世史研究会で講演(10月、ライヒェナウ)。
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とあり、板垣雄三氏が「ヨーロッパ遊学の旅に出られ、ドイツや英国にしばしとどまったのち、帰国の途次、中東を訪問された」石母田氏を案内したという「一九六六年三月下旬」と時期が合わないですね。
「年譜」には1966年の記述は全く存在していないので謎としか言い様がありませんが、可能性としては時期は板垣氏の記憶が正しくて、エジプトは短期の旅行だったので「年譜」には記載されなかった、ということですかね。

※追記(4月9日)
上記は私の完全な勘違いで、ヨーロッパ留学は1年間だったそうです。
帰国時にエジプト訪問ということで、何の問題もありませんでした。
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「戦後の日本古代史研究の最大の成果」

2014-03-30 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月30日(日)22時29分51秒

大津透氏の「古代史への招待」(『岩波講座日本歴史第1巻 原始・古代1』(2013年)を見たら、石母田正氏の『日本の古代国家』が絶賛されてますね。(p5以下)

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一 石母田正『日本の古代国家』

 戦後の日本古代史研究の最大の成果は、石母田正『日本の古代国家』(一九七一)であろう。古代国家の特色を考える上で、避けて通れない、現在の日本古代史の基礎に存在する著作といえる。石母田は、いうまでもなくマルクス主義にもとづく戦後の歴史学と運動を支えた人物だが、本書では、単純に既存の理論をあてはめるのではなく、日本の歴史に実際に適合する新たな理論を、文化人類学の成果を学ぶことによって作り上げた─在地首長制という─点に、大きな意味があり、戦後の古代史研究の画期ともいえる。また著者は、唯物史観にもとづく歴史学研究会の中枢にいたのだが、本書においては、そうした左派的研究よりもむしろ、対立していたはずの右派というべき実証的考証論文が多く参照されていて、戦後二五年余りで積み重ねられた実証的研究成果を見事に統合し、それに新たな意味を与えたという点でも、画期といえるだろう。
 詳しく内容には立ち入らないが、第一章「国家成立史における国際的契機」では、国際関係を、国家成立のための契機、原因として(対外交渉史ではなく)とらえる。現在では東アジア史のなかで日本の古代を考えることは常識になっているが、これはそのさきがけとなった。マルクス主義では、歴史は社会の階級分化にはじまり社会・経済要因により自律的に発展すると考えるので、その歴史像は一国中心主義になりがちであり、それへの反省でもあるだろう。
(中略)
 実証的研究をとりこんでなされた天皇制や律令官制の分析には独自な視点があり、そうした面でも本書の影響は大きい。しかし本書の主眼は、第二、四章の、首長が共同体を代表し、共同体の生産力自体を体現するとする「在地首長制」論にある。戦後の国民的歴史学運動の挫折をふまえて、新たな理論を作り、日本の古代国家が首長制の上に成り立っているという特質を鮮やかに示したのである。(後略)
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普通の人だったら「国民的歴史学運動の挫折」でへこたれたんでしょうけど、元々タフな石母田氏はその後の「歴研危機」(岩波書店との金銭的なトラブル、「歴史学研究」の発売元の青木書店への変更等)を乗り切り、60年安保闘争で頑張って、おまけに1963年には法政大学法学部長になって約2年間職務に忙殺されたそうですね。
法学部長の任期を終えた後、石母田氏は1965年に52歳でヨーロッパに半年間留学し、また板垣雄三氏に案内されてエジプト旅行をされたそうですが、これはけっこう大きな出来事だったようで、この後は文体もペシミスティックな気配がすっかり消えた感じがしますね。(個人の感想です)

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明治維新で帳尻合わせ?

2014-03-30 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月30日(日)13時31分18秒

桜井英治氏の「中世史への招待」では、「腕のよい職人たちのそろった下請け町工場」 に所属する職人さんの名前を 具体的に挙げてはいませんが、桜井氏が本文中や注記で取り上げるに値すると思った人は基本的には「職人」ではない、ということですかね。
法史学関係では、新田一郎氏の『日本史リブレット19 中世に国家はあったか』は(注)14に登場しますね。
本文p13以下に、

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 一方、これは過去との連続性を強調する議論に往々にしていえることだが、かつて石井進も注目した三上次男の日本文化の累積性に関する発言をいま一度想起してみる必要はないだろうか。
 文化には移り変わる文化と累積する文化があり、日本の歴史はたしかに多くの点で後者の特徴を示していると思われる。そこでは古い要素が保存される傾向が強い。過去に使える皮袋があれば、わざわざ新調したりはせず、古いものをそのまま使いつづける傾向があるのだ。(14) そのようなタイプの文化においては、社会や制度のなかに古い要素、過去との連続性を見つけだそうと思えばいくらでも見つけだすことが可能である。それは当然のことだろう。
 しかしそれには代償がともなう。過去との連続性を強調することは、不可避的に変化の画期を先送りすることにつながるのだ。その先のどこかに別の画期、しかもひじょうに大きな画期を設けないことには帳尻が合わなくなるわけである。その先のどこかとは秀吉の太閤検地であったり、さらにはずっと下って明治維新であったりするのだろうが、本人にその意図がなくても、結果的にはそれらの革新性を強調せざるをえなくなるだろう。その結果描き出される歴史像は、漸進的に変化するイメージではなく、長い停滞とドラスティックな変化とをくり返す革命史的なイメージとなることが必至だが、はたしてそのことは自覚されているだろうか。
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とあって、注記に、

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(14)三上次男『日本の美術 別巻 陶器』平凡社、一九六八年、註4石井文献。なお、新田一郎『日本史リブレット19 中世に国家はあったか』(山川出版社、二〇〇四年)のいう「政治的資源」も、このような「皮袋」のひとつに数えられよう。
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とあります。
秀吉の太閤検地で帳尻合わせをするのは、古くは「中世を家父長的奴隷制社会と見る安良城盛昭説」(p10)、新しくは「室町・戦国期における荘園制の存続を強調する」見解(p11)でしょうが、明治維新で帳尻合わせしようとする学説とは何なのか。
中世史の研究者で明治維新まで言及する人自体が極めて稀であることを考えると、もしかしたらこれは水林彪氏の『天皇制史論 本質・起源・展開 』(岩波書店、2006年)への批判ですかね。
桜井氏が水林氏の描く歴史像は「漸進的に変化するイメージではなく、長い停滞とドラスティックな変化とをくり返す革命史的なイメージ」だと捉えているとすれば、それはたぶん誤解だと思いますが。

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大杉栄『自叙伝』

2014-03-30 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月30日(日)10時50分28秒

>筆綾丸さん
>フューチュア
勝俣鎮夫氏、ちょっと訛ってますね。
もともと鎌倉時代の貴族社会が好きで中世の勉強を始めた私にとって勝俣氏は全然縁のない人だったので、同氏の著書・論文もあまり読んでいなかったのですが、例の「国民国家」論には呆れてしまいました。
正直、何でこの人が東大教授になれたのだろう、くらいに思っているのですが、でもまあ、勝俣「国民国家」論についての検討を急ぐ必要もないので、同氏をより正確に理解するためにご紹介の論文を含め、いくつかあたってみるつもりです。

>日影茶屋
昔、大杉栄の『自叙伝』を読んだことがありますが、父母とも軍人の家系に生まれた大杉栄はしょっちゅう猫や犬をいじめて殺していたような、本当に変な子供だったそうですね。
長じてからもあまりに自由奔放、というか異常な行動を続け、人に刺されたのも神近市子が初めてではなかったそうですから、NHK大河ドラマにできない有名人番付を作ったら上位入賞は間違いなしですね。
まあ、甘粕事件でも殺されたのが大杉栄一人だけだったら、世間もそれほど騒がなかったかもしれないですね。

ネットで検索したら、大杉栄にずいぶん好意的な人のサイトがありました。

『自叙伝』も今は「青空文庫」で読めますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

日蔭茶屋事件のあとさき 2014/03/28(金) 21:16:38
小太郎さん
勝俣鎮夫氏『中世社会の基層をさぐる』の中の「バック トゥ ザ フューチュアー」を読みましたが、僭越ながら、素晴らしい論考ですね。
むかし、永井荷風の『つゆのあとさき』を読んだとき、小説の内容はともかく、なぜ「あとさき」で「さきあと」ではないのだろう、と思い、以来疑問でしたが、なかなか難しい問題なのですね。
-------------------
(心中して生きのびた二人が)さきにて行あひ、幽霊かと思ひ胆をけし、(「昨日は今日の物語」一六二〇刊)
(中略)
「アトヨリモ見事ナ花が開イタゾ」(「江湖風月集略注鈔二」寛永十年・一六三三年刊)(12頁)
-------------------
前者の「サキ」は未来の意、後者の「アト」は過去の意で、戦国時代、特に16世紀に新たな語意が生まれたようだ、と勝俣氏は言われます。「あとさき」という語への言及はありませんが、おそらく、これは戦国時代以後のもので、「つゆのあとさき」は「梅雨の前後」となり、時間の因果がスッキリしますね。
Back to the Future という表現はホメロスの『オデュッセイ』に由来し、背中から未来へ入って行く、というニュアンスがあり、ポール・ヴァレリーもよく同じような文句を好んだ、といような記述が続き、格調の高いエッセーのようですね。こういう洒脱な文章を読むと、中世史はいいなあ、と思いますが、桜井氏の『中世史への招待』では、中世史はつまらんのだろうな、という気になります。

http://www.chaya.co.jp/hikage/hikage_news.html
なお、同署の「あとがき」と桜井氏の「解説」には、葉山の海辺の茶屋に遊び、美味しい料理を楽しみ盃を重ねた、とありますが、これは葉山マリーナに近い日影茶屋なのだろうな、きっと。以前行ったとき、店員さんに、大杉栄が神近市子に刺されたのはどの辺でしたか、と尋ねたら、中庭の灯篭を指して、あの辺だと聞いております、ということでした。茶屋の前の道を三浦方面にしばらく行くと、『吾妻鏡』所載の森戸神社があり、そのさきは葉山の御用邸で、さらに行くと、鏡花の『草迷宮』の舞台ですね。運慶の仏像がある浄楽寺もこの辺ですね。

また、東島誠氏『公共圏の歴史的創造』には、
---------------------
・・・詩歌の世界においては、宗末元初の漢詩集『江湖風月集』(松坡宗憩編)が鎌倉末期から愛好されており・・・(274頁)
---------------------
と、江湖風月集への言及がありますね。
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「石母田正の父とその周辺」

2014-03-28 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月28日(金)20時27分50秒

掲示板投稿の保管庫にしているブログ「学問空間」にて、カテゴリー「石母田正の父とその周辺」を新設しました。

http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/c/ecc7972bf7c00747a1e8f1adb4c25a4c

タイトルは以前纏めたカテゴリー「網野善彦の父とその周辺」と揃えてみました。

http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/c/a9ab45770a418a97b1ce43a79826bb4d

4ヶ月前の時点では石母田正氏に何の親しみも尊敬の念も覚えず、『中世的世界の形成』すらまともに読んだことがなかった私ですが、今では親戚のおじさんみたいな感じになりました。
ここまでのめり込んだ理由のひとつは大震災後、石巻に土地勘が出来ていたことで、何で石巻から石母田氏のようなタイプの歴史家が出たのだろう、という疑問がありました。
まあ、様々な偶然から石母田氏は石巻に生まれ、恐ろしいほど明敏な頭脳を持ちながら、仙台での旧制高校時代に当時流行の最先端だった共産主義思想に関わり、通常のエリートコースからはずれて歴史の渦の中に自ら飛び込んで行った訳で、なかなかドラマチックな人生ですね。

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鯖色の手紙

2014-03-28 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月28日(金)09時21分33秒

>筆綾丸さん
いつものクセでブチブチ文句を言ってしまいましたが、桜井英治氏の学説整理は相変わらず見事なものですね。
私は法的な面での関心が強いので、時期区分などの点では若干の違和感を覚えるのですが、現時点での学説の到達点を経済を中心に概観すると、おそらく桜井氏が一番正確な見取り図を描いているのでしょうね。

>かぎりなく透明に近い「理論」
これは権門体制論があまりに形式的という従来からの批判を、ちょっと洒落た言い方にしてみただけなんでしょうね。
ただ、「限りなく透明に近い」にしろ「権門体制論の一人勝ち」にしろ、桜井氏のレトリックは少し陰気くさいですね。

 限りなく 透明に近い鯖 深海魚


桜井氏のレトリックが陰気くさいのは持って生まれた内省的な性格によるんでしょうけど、長い間、中世史の世界で「職人」さんたちに囲まれていて、いいかげんうんざりしているという事情もあるのでしょうね。
「職人」の青い群れに囲まれた孤独な知識人の悲しみですかね。

 白鳥は 哀しからずや 空の鯖 海の鯖にも 染まずただよふ


無駄に明るい網野善彦氏あたりと比べると「一般読者層」に人気がないのは仕方ありませんが、誰しも認める中世史学界のリーダーとしては、もう少し元気があった方がよいように思います。
ということで、応援歌として昔なつかしいあべ鯖江のメロディーなど。

---------
 鯖色の手紙

 Ça va?(サバ?)

 “お元気ですか
 そして 今でも
 愛しているといって下さいますか”

 鯖いろは涙いろ そんな便箋に
 泣きそうな心をたくします
 あれこれと楽しげなことを書きならべ
 さびしさをまぎらす私です


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Almost Transparent theory と 限りなく透明に近い中世 2014/03/27(木) 17:18:37
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%90%E3%82%8A%E3%81%AA%E3%81%8F%E9%80%8F%E6%98%8E%E3%81%AB%E8%BF%91%E3%81%84%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC
桜井英治氏の「中世史への招待」を読んでみました。
ご引用中の「このようにかぎりなく透明に近い「理論」」という表現は、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』のパロディらしく、権門体制論を小馬鹿にしたものかな、と思いました。この小説は未読なので、桜井氏が何を言いたいのか不明ですが、要するに空虚な理論、LSD による乱交パーティの後のような荒廃した理論にすぎぬ、ということが言いたいのか・・・大雑把な感覚的文章のため真意が見えにくいですね。しかし、Almost Transparent theory(theoretical?)などという言い方は、そもそも論理的に意味があるのでしょうかね(blue ならば意味があるけれども)。権門体制論に対して、この程度のことしか言えないのか、という感じです。

注(27)が面白いので、『中世社会の基層をさぐる』で確認してみます。
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勝俣鎮夫「バック トゥ ザ フューチュアー」(『日本歴史』七〇四号、二〇〇七年、のち勝俣『中世社会の基層をさぐる』山川出版社、二〇一一年、に再録)は、「サキ」と「アト」という語の用例を吟味した結果、中世以前の「サキ」がすべて過去を、「アト」が未来をさしていたのにたいし、十七世紀初頭から前半ごろをさかいに意味が入れ替わって「サキ」が未来を、「アト」が過去をさすようになることを明らかにし、その背後に時間意識、歴史認識上の大きな転換があったことを推測している。(後略)(27頁)
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「理論を生むのに必要な渇きが足りない」(by 桜井英治)

2014-03-27 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月27日(木)10時49分59秒

桜井英治氏の「中世史への招待」、面白いと思ったのは前回引用したところまでで、そこから先は妙な文章が続きますね。(p7)

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 そもそも理論というものはどのような環境から生まれてくるのか。狭義の歴史家ではないけれども、イマニュエル・ウォーラーステインやベネディクト・アンダーソンがそれぞれアフリカ研究やインドネシア研究からスタートしたことはその点で示唆的である。茫漠とした荒野にも似た貧しい資源と、そこから来る一定の開き直り(もしくは一発逆転を狙う射幸心)が理論の形成にとって不可欠な条件をなしているとすれば、日本中世史がそこからもっとも遠い環境にあることは一目瞭然ではないか。たぶんそこには理論を生むのに必要な渇きが足りないのである。
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「茫漠とした荒野」が具体的に何を意味するのかはわかりませんが、アフリカ研究やインドネシア研究の例に即して考えると、文書史料の乏しい研究領域ということでしょうか。
とすると、「腕のよい職人たちのそろった下請け町工場」から任意の職人を選んで、そのような文書史料の乏しい「茫漠とした荒野」に放り込めば、そこで「理論」が生まれるのですかね。
また、「一発逆転を狙う射幸心」が「理論の形成にとって不可欠な条件をなしているとすれば」とありますが、例えば誰しも理論家と認めるところのマックス・ウェーバーには「一発逆転を狙う射幸心」など欠片もないですね。
「不可欠な条件」とあるので、反証をひとつあげれば桜井英治氏の「一発逆転を狙う射幸心」が「理論の形成にとって不可欠な条件をなしている」という莫迦莫迦しい命題は粉砕することが可能ですね。

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 あらためて近年の中世史研究の動向を見るとき、あいかわらず勢力を誇っている「理論」とは黒田俊雄の権門体制論である。あまりに常識的で予定調和的としかいいようのないこの「理論」が、かくも強靭な生命力を保っている理由がどこにあるかといえば、それはまさにすべてを包みこんでしまう包容力にあろう。理論を生産する力量に欠ける時代─もっと正確にいえば、理論を心底からは渇望していないのかもしれない時代─には、このようにかぎりなく透明に近い「理論」が時を得るのは見やすい道理である。
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「理論を生産する力量に欠ける時代」は明確ですが、「理論を心底からは渇望していないのかもしれない時代」は極めて不明確で、何故に「もっと正確にいえば」でつながるのか、全く理解できません。
「あまりに常識的で予定調和的としかいいようのないこの「理論」が、かくも強靭な生命力を保っている理由がどこにあるかといえば」、それは後続の研究者が黒田俊雄氏より知性において劣るからではないですかね。
ごくごく素直に考えれば、「理論」の不在の理由は「理論を生むのに必要な渇きが足りない」からではなくて、理論を生むのに必要な「知性」が足りないからだと思います。
現在の大多数の中世史研究者の知的水準が、それなりの理論を生んだ石母田正・永原慶二・黒田俊雄氏らの先行する世代の研究者に比べて劣化していることは「一目瞭然」ではないですかね。


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牧野雅彦氏『マックス・ウェーバー入門』

2014-03-27 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月27日(木)09時15分11秒

自分はマックス・ウェーバーを本当に偏った観点から眺めているだけかもしれない、という漠然とした不安を感じていたので、最近の研究動向を知りたいと思い、牧野雅彦氏の『マックス・ウェーバー入門』(平凡社新書、2006年)を手に取ってみたところ、非常に良い本でした。
牧野氏はウェーバーを知的世界に聳立する単独峰と捉えるのではなく、ウェーバーが自らの問題意識を明確化するに至った学問的な環境、特に「歴史学派」の知識人の基本的発想を丁寧に説明してくれていて、なるほどなあと思いました。
中世史関係と平行して、牧野氏の著作はいろいろ読んでみたいですね。
『ヴェルサイユ条約―マックス・ウェーバーとドイツの講和』(中公新書、2009年)は、以前書名が気になって購入したのですが、暫くして行方不明になってしまったので、まず捜索せねば。

※『マックス・ウェーバー入門』の感想の一例
http://d.hatena.ne.jp/nikkou365/20090911/1252626570

牧野雅彦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E9%9B%85%E5%BD%A6

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「腕のよい職人たちのそろった下請け町工場」

2014-03-26 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月26日(水)08時46分42秒

>筆綾丸さん
>鳩杖
近代でも鳩杖下賜の慣行が残っており、吉田茂元首相が最後だったと知ったときは、ちょっと驚きました。
源知行が正式に鳩杖をもらっているのか、後で調べてみます。

矢野憲一氏、『杖』(ものと人間の文化史88)

桜井英治氏の「中世史への招待」(『岩波講座日本歴史第6巻 中世1』)を読みましたが、同業者への醒めた観察が面白いですね。(p6以下)

--------
 社会史的傾向の後退ということを別にすれば、歴史学が網野とともに失った最大のものは一般の読者層であろう。それは通史物などの発行部数をみれば一目瞭然だが、とりわけ中世のような、現代には必ずしも直結してこない遠い過去のできごとに、一般読者層の(できれば娯楽的興味以上の)関心を向けさせるのはいまや至難の業となった。一方、これもまたいまにはじまったことでないとはいえ、歴史家の書くものは一般読者層のみならず、いわゆる知識人とよばれる人たちの関心もあまり引かなくなったようにみえる。それは戦後マルクス主義歴史学が傲慢に振る舞いすぎた報いなのか、それとも言語論的転回とよばれる好機に便乗した村八分なのか、いずれにしても歴史学が知の世界への貢献を期待されなくなって久しいのではあるまいか。
--------

「できれば娯楽的興味以上の」はAKB評論家の本郷和人氏へのイヤミのような感じがしないでもないですね。
ま、それはともかく、続きの部分は更にシニカル度がアップします。

--------
 中世史学界から何かを発信できないかと考えたとき、もっとも大きな障害は、逆説的ないい方になるが、中世史学が適度な史料に恵まれ、それらを分析するための精緻な研究法を発達させ、世界に誇れる実証的研究を実現させてきた、まさにそのことにありそうである。技能において世界の最高峰を踏破しながら、設計図だけはつねに天から降りてくるのを待っている状態─あたかも腕のよい職人たちのそろった下請け町工場のような様相なのだ。その設計図をみずから描き上げないことには魅力ある発信は期待できない。設計図とはいってもいきなり唯物史観のようなグランドセオリーを考える必要はない。より小規模でも汎用性の高い設計図があるはずだ。
----------

「腕のよい職人たちのそろった下請け町工場」という辛辣な比喩は、具体的にはどんな「職人たち」を想定しているのか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

築島裕氏の復刻版『歴史的仮名遣い』をめくると、源知行(行阿)の『原中最秘抄』の奥書に「貞治三年九月廿七日 俗名知行鳩杖隠士行阿 在判」という記載があるとありますが(48頁)、鳩杖とは懐かしいですね。鳩杖隠士という署名からすると、鳩杖は大変な名誉だったのでしょうね。何の根拠もありませんが、後光厳天皇あたりから賜ったのでしょうか。
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兼好法師と慈遍

2014-03-25 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月25日(火)21時48分0秒

川平氏のブログ、『国語国文研究』が『国語国文学研究』に修正されていますね。

>筆綾丸さん
兼好法師の兄弟とされている慈遍という僧侶について、以前ほんの少し調べたところ、兼好との接点は全然感じられなくて、妙だなと思ったことがあります。
この人も卜部氏とは関係ないのかもしれません。

慈遍

今回の論文では卜部氏出自の点が単純に否定されるだけではなくて、おそらく小川氏ならではの緻密な考証の過程で何か副産物が出ているのでしょうね。
個人的には堀川家との新たな接点が出てきてくれれば、という虫のよい期待を持っています。

>鎌倉期の蘭渓道隆像
もともと異相の蘭渓道隆が、いっそう不気味になっていそうですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

髑髏のような蘭渓道隆? 2014/03/24(月) 22:48:45
小太郎さん
興味深そうな論文ですね。私も探してみます。

http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/182911.html
http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXNASDG2003L_U4A320C1CR0000&uah=DF_SOKUHO_0010
鎌倉期の蘭渓道隆像だと言われても、これではなんともなあ、という感じですね。残念ながら、写真パネルだけで展示はないようですが。

http://www.bbc.com/news/world-asia-26716697
中国の懸念云々は関係ないとしても、日米間の政治的背景がわかりません。
-----------------------
US Energy Secretary Ernest Moniz described the deal to return some 300kg of plutonium as a very significant nuclear security pledge.
-----------------------
とありますが、要するに、日本政府には(高濃縮ウランも含め)プルトニウムの管理能力はない、もっと露骨に云ってしまば、3.11からすでに3年も経つというのに、日本政府の無能力さにはうんざりした、危なくてやっておれん、ということでしょうか。ここでなぜ、pledge という単語が出てくるのか。
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「家司兼好の社会圏」と『尊卑分脈』

2014-03-24 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月24日(月)08時11分17秒

風巻景次郎氏の「家司兼好の社会圏」では、ト部氏との関係について次の記述があります。

-----------
 たとえば兼好の家筋である吉田家は神道に関係の深い家筋で、ト部(うらべ)氏の一族であるが、兼好伝についてはいつも引用される『尊卑分脈』系図で見ると、平安中期一条院宸筆を染められ、兼の字を下され、兼延と名乗った男がいる。この家筋ではそれ以来兼の字をつけるようになった。家伝であるから事の真偽は容易に決しにくいであろうが、実名に兼の字をつけることについて、この家筋にそういう伝説があったことだけは分かる。代々神祇官の長官である神祇伯や次官である神祇大副を職としている。令の官位令に規定されたところでは、伯は従四位の相当官で、大副は従五位の相当官である。『尊卑分脈』によれば、曽祖父兼茂の子に神祇大副兼直と従四位下右京大夫兼名とがあつた。兼好はこの兼名の孫ということになっており、吉田家の本流は大伯父の兼直の筋であったが、その筋には、後になって神道で有名な兼倶が出る。兼倶は従二位に叙せられたのであって、紛れもなく公卿に列したわけであるが、それは兼好没後の世の変化であって、鎌倉時代に於ける吉田の一家はたしかに四位五位を極位としているようである。念のために言えば父兼顕は治部少輔とあって位記は見えないが、官位令によれば治部省の少輔は従五下の相当官である。兄の慈遍は僧籍に入って大僧正になっているが、今一人の兄の兼雄は民部大輔従五上(下ィ)と記してある。民部大輔は官位令によれば正五位下の相当官であるのだが、兼雄は従五位上でそれに任じたものであるから、官職名と位階とが併記されてあるのかも知れない。しかしそれら個々の問題は当面の事ではない。ただ少くとも鎌倉時代から南北朝時代頃までにかけての吉田家が、四位五位を極位とする家筋であったことだけは確かなこととして認めてよいであろう。兼好の系図は諸大夫の家柄の系図として、なんら不自然な点はないようだということをいちおう当たってみておきたかったわけである。

風巻景次郎氏の出発点は正徹(1381~1459)の、兼好は「久我か徳大寺かの諸大夫にてありしなり」という一節であり、『尊卑分脈』は「兼好の系図は諸大夫の家柄の系図として、なんら不自然な点はないようだということをいちおう当たって」見るために使っただけですね。
従って、卜部家の出自という点が否定されたとしても、それは直接には風巻景次郎説の致命的欠点にはならないと思います。

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小川剛生氏「卜部兼好伝批判―「兼好法師」から「吉田兼好」へ―」

2014-03-24 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月24日(月)07時51分19秒

川平敏文氏(九州大学文学部准教授)のブログで、兼好法師は卜部氏出身ではないことを小川剛生氏が解明したとの論文紹介がありました。

閑山子余録「六十年に一度の論考」

ただ、肝心な部分に誤記があり、「『国語国文研究』49」は誤りで、正しくは熊本大学の『国語国文学研究』49号のようです。
国会図書館で「国語国文研究」を検索したら北海道大学に同名の雑誌がありましたが、号数が全然合わず、小川氏と北大の接点もわからなかったので困っていたところ、ツイッターで近世文学に詳しい方に『国語国文学研究』の存在を教えてもらいました。
内容が風巻景次郎への批判を含むらしいので、小川氏がかつて北大にいた風巻景次郎へ挑戦状を叩きつけたのだろうか、などと妄想しましたが、昔の勤務校という縁で熊本大学の雑誌に載せたようですね。
早く読みたいのですが、国会図書館への複写依頼だと次号が発刊されるまで待たなければならず、近くの大学図書館にもなさそうなので対策を考慮中です。
なお、川平敏文氏は、

------
しかし、兼好は卜部氏の出身であるということは、誰も疑わなかった。「尊卑分脈」にはそのように書いてあるし、また「蔵人」「左兵衛佐」とも注記されているから、基本的にはそれが信じられてきた。とくに風巻景次郎の著名な論文「家司兼好の社会圏」は、まるで見てきたごとくに、兼好の生前の人間関係、社会的な地位、活動を「緻密に」解き明かした。爾来六十年、それが定説とされてきたのである。
------

と書かれていますが、風巻景次郎氏は『徒然草』と兼好の自選歌集の登場人物から「家司兼好の社会圏」を探っており、「尊卑分脈」に格別依拠している訳ではないので、この部分は賛成しかねますね。

風巻景次郎 「家司兼好の社会圏-徒然草創作時の兼好を彫塑する試み-」

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石母田氏へのオマージュ?

2014-03-23 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月23日(日)21時37分31秒

>筆綾丸さん
『天皇制史論』は図書館でコピーしたものを読んでいるのですが、エピグラフはコピーの対象外だったため、ご指摘の点は全く気づいていませんでした。
水林彪氏は先行研究として石母田氏の著作を極めて重視されており、『日本の古代国家』でのルソーの引用に着眼されないはずがないので、『天皇制史論』での重ねての引用は石母田氏へのオマージュかもしれないですね。

>強力
forceの訳語については事情が分かりませんが、ドイツ語のgewaltの場合、政治学の世界では「強力」「暴力」「物理的強制力」といった訳語が用いられています。
水林彪氏もごく初期の論文、例えば「近世の法と国制研究序説(一)~(六)-紀州を素材として」などでは「強力」に「ゲヴァルト」とルビを振ったりしていますね。
学問的に一番正確な訳語はおそらく「物理的強制力」でしょうが、漢字6字では何度も出てくると煩わしいですし、「強力」では小麦粉だとか富士山で荷物をかつぐ人などのイメージも浮かんでしまうので、現在では消去法的に「暴力」という訳語が定着しているようです。
石母田氏がforceを「強力」と訳した理由は分かりませんが、gewaltとパラレルで考えてよいように思います。
ちなみに、gewaltについてはマルクス主義の世界ではもう少し細かい議論があるようで、少し検索してみたところ、「京都弁証法認識論研究会」という会のサイトには「力(Kraft)、強力(Gewalt)、権力(Macht)は区別されなければならず、国家は何よりもまずイデオロギー的な権力として把握されるべきである」といった説明がありますね。

「京都弁証法認識論研究会」
http://dialectic.seesaa.net/article/367151182.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7245
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『歴史家の読書案内』

2014-03-23 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月23日(日)09時49分39秒

石井進氏編の『歴史家の読書案内』(吉川弘文館、1998年)を眺めてみたら、やはり石母田正氏の著書を挙げている人がけっこう多いですね。
吉田孝氏(1933年生まれ、青山学院大学名誉教授)は「現代と対決する歴史学」というタイトルで、次のように書かれています。(p216以下)

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 「最も強いものでも、自分の強力を権利に、服従を義務にかえないかぎり、いつまでも主人であり得るほどに強いものでは決してない」─これは石母田正『日本の古代国家』の目次と第一章とのあいだの余白に、小さな活字で組まれた、ルソー『社会契約論』の一節である(なお岩波文庫の桑原武夫ほか訳では「(他人の)服従を義務にかえないかぎり」と補っている)。私は『日本の古代国家』が刊行された直後から繰り返し読んだが、石母田がこの小文に託した思いの重さに気が付いたのは、ずい分あとのことである。
 『日本の古代国家』の中心テーマとして注目されてきたのは、「律令制国家は、国家対公民の関係と、在地における首長層対人民の関係との二重の生産関係の上に成立している」とする二重構造論であり、「第一の国家対公民の支配=収取関係は、それが律令国家として圧倒的に社会を支配した段階においても、第二次的・派生的生産関係であり、第二の首長層対人民の生産関係が第一次的・基本的である」とする構想であった。そして首長層と人民の関係を、ポリネシアのサモアやトンガについての人類学者の研究などを十分に吸収しながら、独自に新しく「アジア的首長制」という概念に構成したものであった。石母田の首長制の概念は、人類学のchiefdom(首長制社会とか首長国と訳される)と重なる部分もあるが、石母田独自の概念であり、概念構成が曖昧であるとか、マルクスの理論から逸脱している、という批判もある。しかし石母田の基本的な立場は、マルクスの理論を、マルクスが接しえなかった現代の学問的成果─とくに未開社会や東洋社会についての民族学や東洋学の新しい段階─に立って、深化し発展させることであった。石母田にとっては、マルクスの理論からの逸脱よりも、事実との緊張関係の方が大切だったのではなかろうか。
 『日本の古代国家』の刊行後、古代史学界の関心は、首長制の問題に向けられることが多かった。しかし石母田にとっての第一の関心は、その書名が示すとおり、なによりも「国家」の問題だった。石母田がこの本の執筆を構想したころ、ソ連と中国では革命の路線をめぐる論争が激化し、中国では文化大革命が進行していた。石母田はその状況を、「国家の死滅」が歴史の議事日程にのぼっている時代としてとらえ、現代の歴史学は、その問題と対決する歴史学でなければならない、という。「国家」とは何か、その本質を国家の生成する具体的な歴史過程のなかで明らかにしよう─それが『日本の古代国家』の基本的なテーマであった。(後略)
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『日本の古代国家』は1971年の刊行なので、構想時には「ソ連と中国では革命の路線をめぐる論争が激化し、中国では文化大革命が進行していた」訳ですが、その後四十年以上経過しても、なかなか「国家の死滅」に至らないどころか、ロシアのクリミア併合のように帝国主義時代の再来のような出来事まで起きる始末で、国家というのはなかなか難しい存在ですね。
ところで私も『日本の古代国家』のルソーの言葉を見て、これは何故ここに置かれているのだろうと不思議に思いました。
直接の引用はルソーの『社会契約論』からですが、この内容はまさにマックス・ウェーバーの「支配の正当性」論そのものですね。

『歴史家の読書案内』
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34489.html
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