残りの二つのメルクマール、
(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(5)宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
は、(5)を後から追加したので時間的な順序は逆になってしまいました。
そこで、まず(5)から見て行きます。(179以下)
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山田重忠の奮戦
翌六月六日の早朝、北条時氏・同有時という十九歳・二十二歳の若武者二人が、大江佐房、阿曽沼親綱、小鹿嶋公成、波多野経朝、三善康知、安保実光らとともに摩免戸を打ち渡った。矢を放つこともなく敗走する京方の中で、山田重綱と鏡久綱(佐々木広綱の甥)は留まって戦ったが、最後には重忠が退却、久綱は自害した。
この山田重忠が、藤原秀澄に進言したことは先に述べた。尾張と美濃の境に本拠を置く重忠であるが、出自は美濃源氏の重宗流であった。鎌倉幕府の成立以降、美濃国では国房流が勢力を拡大し、重宗流は圧迫を受けていた。系図集『尊卑分脈』は、重忠・重継父子同様、開田重国・重知父子、木田重季、高田重朝・重村・重慶兄弟、小島重茂、その甥の重継・重通兄弟、足助重成らに「承久京方美濃国大豆戸において討たれ了」「承久京方討たれ了」などの注釈を加えている。彼らは「重」の字を通字とする美濃源氏重宗流の武士である。在地の現状を打開するため京方に付いたが、その思いもむなしく各所で敗走したのである。夜には海道大将軍秀澄も墨俣を棄てて退却した。
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いったん、ここで切ります。
「翌六月六日の早朝」以降は、『吾妻鏡』同日条に、
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今暁。武蔵太郎時氏。陸奥六郎有時。相具少輔判官代佐房。阿曽沼次郎朝綱。小鹿島橘左衛門尉公成。波多野中務次郎経朝。善左衛門尉太郎康知。安保刑部丞実打光等渡摩免戸。官軍不及発矢敗走。山田次郎重忠独残留。与伊佐三郎行政相戦。是又逐電。鏡右衛門尉久綱留于此所。註姓名於旗面。立置高岸。与少輔判官代合戦。久綱云。依相副臆病秀康。如所存不遂合戦。後悔千万云々。遂自殺。見旗銘拭悲涙云々。【後略】
https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(5)宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
は、(5)を後から追加したので時間的な順序は逆になってしまいました。
そこで、まず(5)から見て行きます。(179以下)
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山田重忠の奮戦
翌六月六日の早朝、北条時氏・同有時という十九歳・二十二歳の若武者二人が、大江佐房、阿曽沼親綱、小鹿嶋公成、波多野経朝、三善康知、安保実光らとともに摩免戸を打ち渡った。矢を放つこともなく敗走する京方の中で、山田重綱と鏡久綱(佐々木広綱の甥)は留まって戦ったが、最後には重忠が退却、久綱は自害した。
この山田重忠が、藤原秀澄に進言したことは先に述べた。尾張と美濃の境に本拠を置く重忠であるが、出自は美濃源氏の重宗流であった。鎌倉幕府の成立以降、美濃国では国房流が勢力を拡大し、重宗流は圧迫を受けていた。系図集『尊卑分脈』は、重忠・重継父子同様、開田重国・重知父子、木田重季、高田重朝・重村・重慶兄弟、小島重茂、その甥の重継・重通兄弟、足助重成らに「承久京方美濃国大豆戸において討たれ了」「承久京方討たれ了」などの注釈を加えている。彼らは「重」の字を通字とする美濃源氏重宗流の武士である。在地の現状を打開するため京方に付いたが、その思いもむなしく各所で敗走したのである。夜には海道大将軍秀澄も墨俣を棄てて退却した。
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いったん、ここで切ります。
「翌六月六日の早朝」以降は、『吾妻鏡』同日条に、
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今暁。武蔵太郎時氏。陸奥六郎有時。相具少輔判官代佐房。阿曽沼次郎朝綱。小鹿島橘左衛門尉公成。波多野中務次郎経朝。善左衛門尉太郎康知。安保刑部丞実打光等渡摩免戸。官軍不及発矢敗走。山田次郎重忠独残留。与伊佐三郎行政相戦。是又逐電。鏡右衛門尉久綱留于此所。註姓名於旗面。立置高岸。与少輔判官代合戦。久綱云。依相副臆病秀康。如所存不遂合戦。後悔千万云々。遂自殺。見旗銘拭悲涙云々。【後略】
https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
とあるのを受けています。
さて、坂井氏は先に、
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ところが、「海道大将軍」の藤原秀澄は、このうちの「山道・海道一万二千騎」を「十二ノ木戸ヘ散ス」、つまり十二ヵ所の防衛用の柵に分散させる戦術を取ったという。当然、各木戸の兵力はさらに少なくなり、明らかに失策であった。こうした戦術の選択について、「慈光寺本」も「哀レナレ」と批判的に叙述している。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b486fa555337df2f32af0a6ee392d603
と書かれていましたが(p173)、ここでも秀澄が「海道大将軍」だとされます。
もちろん、これは慈光寺本に存在する表現であり、間違いではありませんが、一般の読者は藤原秀澄が京方の東海道軍の「大将軍」、最高責任者だと誤解するのではないですかね。
しかし、『吾妻鏡』では、秀澄は六月三日条に「洲俣。河内判官秀澄。山田次郎重忠」と、山田重忠とともに洲俣(墨俣)に配されたことが記されているだけで、「大将軍」といった特別な資格・権限を思わせる肩書は伴っていません。
また、流布本では、秀澄は上下巻通して僅か一箇所、尾張河合戦前の軍勢配置の場面に、
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先〔まづ〕討手を可被向とて、「宇治・勢多の橋をや可被引」「尾張河へや向るべき」「尾張河破れたらん時こそ、宇治・勢多にても防れめ」「尾張河には九瀬有なれば」とて、各分ち被遣。【中略】墨俣〔すのまた〕へは河内判官秀澄・山田次郎重忠、一千余騎にて向。市河前へは賀藤伊勢前司光定、五百余騎にて向ける。以上一万七千五百余騎、六月二日の暁、各都を出て、尾張(河)の瀬々へとてぞ急ける。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dad3e44432e0103895943663b061f5ce
と山田重忠と並んで名前が出て来るだけで、ここにも「大将軍」といった肩書はありません。
結局、秀澄を「海道大将軍」とするのは慈光寺本だけですが、その慈光寺本においても、藤原秀康による第一次軍政手分に、
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「海道ノ大将軍ハ、能登守秀康・河内判官秀澄・平判官胤義・山城守広綱・六郎左衛門・刑部左衛門・帯刀左衛門・平内左衛門・平三左衛門・伊王左衛門・斎藤左衛門・薩摩左衛門・安達源左衛門・熊替左衛門・阿波守長家・下総守・上野守・重原左衛門・翔左衛門ヲ始トシテ、七千騎ニテ下ベシ。山道大将軍ニハ、蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門・高桑殿・開田・懸桟・上田殿・打見・御料・寺本殿・駿河大夫判官・関左衛門・佐野御曹司・筑後入道父子六騎・上野入道父子三騎ヲ始トシテ、五千騎ニテ下ルベシ。北陸道大将軍ニハ、伊勢前司・石見前司・蜂田殿・若狭前司・隠岐守・隼井判官・江判官・主馬左衛門・宮崎左衛門・筌会〔うへあひ〕左衛門・白奇蔵人・西屋蔵人・保田左衛門・安原殿・成田太郎・石黒殿・大谷三郎・森二郎・徳田十郎・能木源太・羽差八郎・中村太郎・内蔵頭ヲ始トシテ、七千騎ニテ下ルベシ。山道・海道・北陸道山路ヨリ、一万九千三百廿六騎トゾ註タル。残ノ人々ハ、宇治・勢多ヲ固メ玉ヘ」。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bee622726e9347aeba18024daf52e03
とあるように、「海道ノ大将軍」は別に秀澄一人ではなく、「能登守秀康・河内判官秀澄・平判官胤義・山城守広綱・六郎左衛門・刑部左衛門・帯刀左衛門・平内左衛門・平三左衛門・伊王左衛門・斎藤左衛門・薩摩左衛門・安達源左衛門・熊替左衛門・阿波守長家・下総守・上野守・重原左衛門・翔左衛門」と、秀澄を含めて十九人もいます。
その中には私が慈光寺本作者と考えている「伊王左衛門」藤原能茂もいますし、能茂の寵童仲間と思われる「翔左衛門」(愛王左衛門、渡辺翔)もいますね。
そして、「海道ノ大将軍」以外に「山道大将軍」が、「蜂屋入道父子三騎」「筑後入道父子六騎」「上野入道父子三騎」をそれぞれ一人と数えても十四人、単純に合計すれば二十三人います。
更に「北陸道大将軍」が二十三人なので、単純に合計すれば海道・山道・北陸道の三道で「大将軍」は六十五人となります。
その中には「殿」の敬称すらつかないレベルの武士も大勢いて、慈光寺本における「大将軍」はずいぶん安っぽい存在ですね。
慈光寺本においてすら、「海道大将軍」藤原秀澄は六十五人いる「大将軍」の一人に過ぎません。
こうなると、坂井孝一氏が「海道大将軍」を強調されるのは、自分は正確に史料を引用しているのであって、それを読者が誤解するのは読者の勝手、という態度のようにも思われます。
まあ、「詐欺」とまでは言いませんが、研究者としてはずいぶん危ない橋を渡っているような感じがしないでもありません。
盛り付け上手な青山幹哉氏(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddb79082206b07a41b9c10cae3a4954d
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