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学問空間

「『増鏡』を読む会」、金曜日開催に変更し、今月は16(金)・23(金)・30日(金)に行います。

レーニン夫妻とイネッサ・アルマンドの「三角関係」

2017-11-14 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月14日(火)10時59分28秒

エレーヌ・カレール=ダンコースの『レーニンとは何だったか』を通読すると、『ワイドカラー版少年少女世界の名作』シリーズの「レーニン」には決して登場しないレーニンの傲岸・粗暴・不寛容・冷酷、また労働者・農民に対する蔑視の深さに、まあ、ある程度の予備知識はあったとはいえ、改めて驚かされます。
暖かい家庭に育ったお坊ちゃまなのに、何故こんなに歪んだ人間になってしまったのだろうか、という謎は残ったままなのですが、女性関係については、家庭環境の影響が比較的ストレートに残ったようですね。
レーニンとイネッサ・アルマンドの関係について、次のような記述があります。(p212以下)

-------
 手紙の断片から明らかとなる二人の関係は、レーニンに深刻な問題を課していた。ナジェージダ・クループスカヤの問題である。確かな歴史家たちの行なった研究によれば、クループスカヤは早い時期にこの状況を悟り─彼女はレーニンと離れることが決してなかったのだから、彼の気持ちのいささかの変化にも気付くのだった─苦しみ、反発し、それから毅然として地位を明け渡すと申し出た。しかしレーニンにはそのつもりはなかった。イネッサ・アルマンドとの関係は内密の関係なのだ。イネッサはレーニンを彼女に返し、クループスカヤは敬われる妻であり続け、イネッサに友情を感じるようになった。夫と妻と愛人の三角関係ということだろうか。もちろん違う。レーニン夫妻とイネッサはよく会い、時には一緒に旅行していたが、この三人の行く所、瞠目すべき品位と相互の深い尊敬の念が明らかにうかがえた。彼女にとってクラクフは退屈な町であり、そこに住むのが嫌でならなかったが、おそらくは困難な感情的状況に困惑したためでもあろう。一九一三年に彼女はしばらくレーニンの許を離れ、パリに居を構えた。しかしイネッサと別れる決心をしたのはレーニンの方である。もっとも従来通りの親密な関係は続いた。一九一三年十二月、彼女はレーニンに「彼のそばに残ることさえできるのならば、キスしてくれなくてもかまわない」と手紙を書いている。一九一四年五月の手紙でレーニンは彼女にこう懇願している。「私のことを怒らないでくれ給え。君の大きな苦しみの原因は、私のせいだということは良く分かっている」。一ヵ月後、レーニンは彼女にこう頼んでいる。「こちらに来る時には、二人の手紙をすべて持って来てくれ給え」。二人の書簡は、保存されているものを見た限りでは、信頼に溢れると同時に悲痛で、レーニンが自分自身と彼女とにいかに犠牲を強いたかを露に示している。その理由はレーニンの性格を考えれば理解できる。彼は恋愛に関しては、多くのボリシェヴィキが抱いた自由な考え方を持つことは決してなかった。アレクサンドラ・コロンタイが自由恋愛を擁護し、さらにはより一般的にセックスの自由を擁護したのに対して、彼は厳しく批判した。謹厳実直な秩序の人であるレーニンは、仲睦まじい家庭で受けた教育、そして十九世紀末のロシア社会の倫理規範の命ずる行動様式に常に忠実であった。
--------

<彼女はレーニンに「彼のそばに残ることさえできるのならば、キスしてくれなくてもかまわない」と手紙を書いている>とありますが、これは直接話法で書くのであれば「あなたのそばに」でないと意味が通じないですね。
ま、正直、理屈っぽすぎてなかなか理解しにくいレーニン・クループスカヤ・イレッサの「三角関係」は、少なくとも精神的な関係としては相当長く続いたようで、

-------
彼女が他界した時、打ちのめされ悲嘆に暮れたレーニンの姿は、居合わせた者すべてに深い印象を与えた。それでも彼は彼女を終の棲家まで送る葬列に加わるのであった。心に距離を強いたにもかかわらず、あらゆることが証明しているように、彼女に対して抱く愛は無傷のまま残ったのである。
-------

のだそうです。(p213)

ウィキペディアのイネッサ・アルマンドの記事は日本語版もそれなりにしっかり書かれていますが、写真が多いのは英語版なので、英語版にリンクを張っておきます。

Inessa Armand(1874-1920)
https://en.wikipedia.org/wiki/Inessa_Armand
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「少年少女世界の名作 レーニン」(その4)

2017-11-12 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月12日(日)10時56分51秒

国会図書館サイトで「深田良」を検索すると「個人著者標目」に「飯野彰, 1914-1977」と出てくるのですが、これが本名なのですかね。
この人は飯野彰の名前で『牛一匹の広場』(現代社、1959)を出した後、深田良の名前で、

『鏡の中の顔』(創思社、1969)
『断層回路:共産党背面史』(都市問題・出版部、1971)
『法燈を掲げる人々:本願寺の苦悩と栄光』(医事薬業新報社、1973)
『小説久保勘一』(創思社出版、1974)

の四冊を出していますが、テーマにあまり一貫性が感じられません。
『断層回路:共産党背面史』というタイトルからは、日本共産党を除名された人なのかな、と想像(妄想?)したくなりますが、これも実物を見ないと何ともいえないですね。
ま、それはともかく、もう少し引用を続けます。(p152以下)

-------
 ところでこのシルビンスクの町は、三つの区に分かれていました。山の手の丘はベネツ(かんむりという意味)とよばれ、金持ちや貴族が住み、町を見おろしていました。そしてその下のだらだら坂の途中が、商人の住むところで、商業の中心地となっていました。
 麦やさかな、羊毛、石炭などの市場が開かれ、名物の馬市では、近くの村から農民がおおぜい集まり、一週間仕事を休んで、お祭りさわぎをするのです。
 一番下の谷底のような低いところは、貧しい人たちの住まいでした。倒れそうな小屋やバラックからは、いやなにおいが鼻をつき、ぼろをきた子どもだちが、地面でどろだらけになり、やせおとろえたぶたや、毛のぬけた犬などが、うろうろと食べ物を捜しもとめていました。
-------

川又一英氏の『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(PHP研究所、1984)には、シルビンスクに住む「ナターシャ叔母さん」について、

-------
 ナターシャ叔母さんは父の妹にあたる人だった。家はシルビンスクの大通りに面していて、ピカピカに磨かれた硝子窓がはまっていた。町でいちばん早く電気を引いたのは叔母さんの家で、その夜は見物人が山のように押し寄せたそうだ。叔母さんは小さなチョコレート工場をもっていて、町一番の高級チョコレートを売っている。ワレンティンの家もチェレンガ一の雑貨商だが、とても叔母さんのところの比ではない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b2c84d2eba3ce5b688586f12950208a5

とありましたが、時期はレーニンの子ども時代から少しずれるとしても、たぶんナターシャ叔母さんの「小さなチョコレート工場」も「だらだら坂の途中」の商業地区にあったのでしょうね。

Ulyanovsk
https://en.wikipedia.org/wiki/Ulyanovsk

※追記1
「切手と文学」というブログに、川端康成から飯野彰宛てに出された昭和28年の年賀状が載っていて、ブログ主は、

------
宛名人である飯野彰氏は、日本文芸家協会会員、日本美術教育会員、東京作家クラブ会員であった小説家飯野一雄氏のことと思われます。飯野氏は、深田良の筆名で執筆を行っていましたが、昭和34年には飯野彰の筆名にて『牛一匹の広場』なる本を出版しています。
http://ikezawa.at.webry.info/200905/article_2.html

と書かれていますね。

※追記2
九州大学の「スカラベ人名事典」によると、深田良は、

-------
1914(大正3)年、東京の生まれ。小説家・出版業。本名・飯野一雄。早稲田大学卒。「日本文化財」の編集長を経て、無形文化財の専門書の出版にたずさわり、以後執筆に専念する。日本文芸家協会会員、日本美術教育会員、東京作家クラブ会員。昭和52年6月27日死去。経営していた創思社出版からは『麻生百年史』『定本嘉穂劇場物語』など、福岡・筑豊に関する著作を刊行し、また福岡県筑紫野市に九州編集部を置き、周辺地域の出版に貢献した。〈著書〉『牛一匹の広場』(飯野彰の筆名・現代社、昭34)『鏡の中の顔』(創思社, 昭44・6)『断層回路―共産党背面史』(都市問題出版部、昭46・9)『小説久保勘一』(創思社出版、昭49・5)『遠賀川 筑豊三代』(創思社出版、昭50・8)『小説三木武夫』(創思社出版、昭50・11)『日本の美術』(飯尾一雄著・岩崎書店、昭36、中学生の美術科全集7)『法燈を掲げる人びと―本郷寺の苦悩と栄光』(医事薬業新報社、昭48)〔参考〕「卍」第5号(1978.7.5)追悼号 【坂口 博】
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/recordID/442204?hit=-1&caller=xc-search

という人物だそうですね。
国会図書館サイトで検索した著書を見て、どうにもテーマに一貫性がないように感じましたが、これは小さな出版社の経営者として、自己の好みとは関係なく、経営を維持するために確実に利益が出る出版物を社長自ら執筆していた、といった事情があったのでしょうね。
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「少年少女世界の名作 レーニン」(その3)

2017-11-11 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月11日(土)10時59分42秒

下斗米伸夫氏がどこかで「渓内先生」と書いていたので、下斗米氏は渓内謙氏の弟子筋にあたるのでしょうが、私は遥か昔の学生時代、渓内謙氏の講義を聴講したことがあります。

渓内謙(1923-2004)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%93%E5%86%85%E8%AC%99

といっても、別にソ連に特別な興味があった訳ではなく、割と簡単に単位を取れそう、くらいの軽い気持ちで、階段教室の後ろの方で時々居眠りしながら聞いていただけなのですが、当時、私が渓内氏の講義から漠然と受けた印象は、レーニンは立派だったけどスターリンがソ連の方向を歪めてしまった、みたいな感じでした。
ま、そこまで乱暴に要約すると今は亡き渓内先生も怒るかもしれませんが、ソ連崩壊前はレーニンの活動の実態について史料的な制約が大きくて、レーニンとスターリンの関係は専門家でも明確には把握できていなかったはずですね。
フルシチョフによるスターリン批判の後でも、レーニンまで否定するとソ連の体制が最初から全然ダメだったという話になってしまいますから、レーニンのあまり芳しくない行動についての史料はずっと隠されていた訳ですね。
そうした史料がソ連崩壊後、公開されるようになって、結局、スターリンはレーニンを否定してソ連を誤った方向に導いたのではなく、仮借なき政治的暴力の行使においても、スターリンこそがレーニンの最も正統的な後継者であることが、少なくとも学者の世界では争えなくなってしまった、というのが現状なんでしょうね。
ま、結論は既に出ているのですが、そのあたりの事情を具体的に見てみたいと思って、今はダンコース女史の『レーニンとは何だったか』を読んでいるところです。

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エレーヌ・カレール=ダンコース『レーニンとは何だったか』

『崩壊した帝国』で、ソ連崩壊を世界に先駆け十余年前に予言した著者が、崩壊後の新資料を駆使して〈レーニン〉という最後の神話を暴き、「革命」の幻想に翻弄された20世紀を問い直す。ロシア革命を“簒奪”し、革命を“継続”する「ソ連」というシステムを考案したレーニンの政治的天才とは何だったのか?
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=765

さて、息抜きも兼ねて読み始めた深田良「レーニン」ですが、これは意外に面白いですね。
もう少し引用してみます。(p151以下)

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(二)レーニンのおいたち

 レーニンの本名は、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤーノフという長い名まえで、ウォロージャは愛称です。
 また、ロシア革命を起こしたレーニンですから、純粋なロシア人と思われるかもしれませんが、レーニンにはロシア人の血すじはまざっていないようです。
 それは、レーニンの父方の祖母が、ボルガ川のほとりを遊牧していた部族チュバシ人の血を受けていたからのようです。
 そして母方の祖父はドイツ系で、祖母はスウェーデン系の血すじを、ひいているといわれています。
 これらのことは、レーニンがロシアの革命家というより、いまでは世界の大革命家とされているのに、なんらかの意味があるように思われます。
 このように、異民族の血すじをもつ偉大な革命家レーニンは、いまから百年ほどまえの一八七〇年四月二十二日(旧暦四月十日)に、ボルガ沿岸のシルビンスクで生まれました。─現在では、この地方はレーニンの功績をたたえる意味で、かれの名まえをとり、ウリヤーノフ州の主都、ウリヤーノフスクとなっています。
 シルビンスクは、人口三万人ほどの小さな都市でしたが、静かでおだやかなボルガ沿岸地方の、商業の中心地でした。レーニンが生まれたころは、鉄道はまだ敷かれていません。乗り物は馬車を利用するだけで、いちばん近い駅まで、百六十キロもはなれていたのですから、ずいぶん不便なところでした
 そのころの首都、ペテルブルク(今のレニングラード)からは千五百キロ、モスクワからは、九百キロもはなれていました。
 しかし、ゆるやかなボルガ川の流れに沿って、右の岸は高い山やまが連らなり、その山の斜面は、緑の木ぎと、甘いかおりをはこぶ果樹園におおわれ、左の岸は、かぎりなく広がる平野が見わたせました。
 シルビンスクの人びとは、ロシアでいちばん美しい町だと、誇りに思っていました。
 冬のあいだ氷にとざされていたボルガ川も、氷が割れる音とともに春が近づき、汽船が通れるようになります。すると町のはとばは、息をふきかえし活気をおび、汽笛が鳴り響きます。
-------

「レーニンの父方の祖母が、ボルガ川のほとりを遊牧していた部族チュバシ人の血を受けていた」としても、父方の祖父はロシア人ですから、「レーニンにはロシア人の血すじはまざっていないようです」は明らかな誤りですね。
ま、それはともかく、この後、シルビンスクの紹介がもう少し続きますが、いったん切ります。
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「少年少女世界の名作 レーニン」(その2)

2017-11-11 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月11日(土)09時54分51秒

ウォロージャが「三頭立ての張り子の馬のついた、そりのおもちゃ」を持ってどこかへ行った後、「頭が、人一倍大きく、いつもかけだしては頭からひっくりかえり、そのたびに大声で泣き叫」び、「ことに無器用で、満三歳になるまで、満足に歩くことのできなかったウォロージャ」がやっと歩けるようになったときの感動的な話が続きます。
そして、いつまでもウォロージャが戻って来ないので大騒ぎになり、

------
 そのうち、兄のアレクサンドルの、
「なんだ、こんなところにいるよ。」
という声で、みなが集まっていきますと、とびらのうしろにかくれるようにして、ウォロージャがなにかしきりにやっています。
 それは、いまうばから贈られたばかりの三頭立ての馬の足を、全部もぎとっているのです。
「まあ、この子は・・・。」
 母のマリアは、大きな目をあきれたようにあけて、ウォロージャをじっと見つめました。かの女は、子どもをしかるとき、けっして大声を出したり、感情的になったりしません。しずかにじぶん自身で悪いことをしたことを、悟るように、何度もいい聞かせていました。
 けれども、物をこわすことに、興味を持っているウォロージャの、いたずらとらんぼうをとめることは、なかなかできませんでした。子供たちのうちで、一番手のやけるむすこでした。
 このようにレーニンの幼児期は、やんちゃで、いたずらっ子だったのです。
------

という展開になります。(p150以下)
スターリンの場合、靴職人の父親がアルコール依存症になって理由もなく息子を殴りつける崩壊家庭に育ち、また地域の環境もサイモン・セバーグ・モンテフィオーリがマフィアを産んだシシリー島に喩えるような暴力的風土だったので、まあ、血に飢えた陰謀家に成長するのも不思議ではないのですが、レーニンはスターリンとは対照的に、経済的にも知的にも恵まれた良家に育ったお坊ちゃんで、周囲も温和な風土なのに、何であんなに狂暴な人間になってしまったのか、本当に謎です。
深田良氏は全く出典を示さないので、この優しい乳母からプレゼントされたばかりの馬のおもちゃをバラバラに解体するという事件が事実なのかもわかりませんが、レーニンの将来を暗示するような、けっこう不吉な、禍々しいエピソードではありますね。
栴檀は双葉より芳しいというか何というか。
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「少年少女世界の名作 レーニン」(その1)

2017-11-10 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月10日(金)22時21分42秒

何気なくレーニンの母方の祖父が購入した領地だという「コクシキノ」を検索してみたら、「古本斑猫軒」というサイトで小学館の『ワイドカラー版 少年少女世界の名作35巻 ソビエト編2』が紹介されていて、そこに、

------
レーニン(文:深田良 挿絵:霜野二一彦)
 {一 誕生日/二 レーニンのおいたち/三 いたずらっ子ウォロージャ/四 果樹園のある家/五 コクシキノ村の夏休み/六 中学校と友人たち/七 父の死/八 兄の処刑/九 その後のレーニン/年表/読書ノート}

https://hanmyouken.net/?pid=61908287

とありました。
何じゃこれ、と思って近くの図書館で探してみたら、小学館が1972年(昭和47)に出した児童書なんですね。
B5版で上下二段組み、全部で360ページの立派な本で、その内、「レーニン」は約50ページ程の結構な分量です。
ちょっと不思議なのは、「レーニン」以外は「トルストイ童話」、ビアンキ作「森の動物新聞」、「クルイロフ童話」、バイコフ作「偉大なる王」、「チェーホフ短編」という具合にロシア・ソ連の作家の翻訳なのに対し、「レーニン」だけ日本人が書いた実在の人物の伝記である点ですね。
作者の深田良氏の名前は聞いたことがありませんでしたが、「原稿と絵をかいてくださった先生がた」の中に「深田良(ふかだりょう)大正3年東京に生まれる。日本文芸家協会会員」とあります。(p358)
内容を少し紹介してみると、最初のページ(p147)にタイトルと禿頭のレーニンの写真があって、その下に、

-------
 レーニンの少年のころは、暖かい家族にかこまれた、元気のいいわんぱく小僧でした。
 しかし、その後、兄の死刑をさかいに、貧しい農民や労働者たちのために、血のにじむような苦労と努力を重ね、ついに革命の主人公になっていったのです。
 これは、そのレーニンの少年のころをまとめたものですが、平和で楽しい社会をつくるには、人びとが力を合わせ、手を握っていかねばならない、ということを、知ることでしょう。
-------

という一文があり、次のページから本文となって、

-------
(一)誕生日

 きょうはウリヤーノフ家の、三番めの子どものウォロージャのお誕生日です。
 食堂であたたかい料理の湯気をかこんで、父と母、そして六つちがいの姉のアンナ、四つちがいの兄のアレクサンドル、それにやっといすにすわれるようになった妹のオーリャたちが、この日の主役のウォロージャを、え顔でつつんでいました。
 ウォロージャは、まるまるふとったからだを、さらさ模様のルバシカ(ロシア風のつめえりの男性用うわぎ)につつみ、ひろい額に赤いまき毛が、かわいくたれさがった顔を、母のほうにむけて、小さい口をひらき、
「ワルワーラ、おそいね」
と、いすの下で、足をばたつかせながら、子どもに似合わない、大きな声でいいました。かれはすこしもじっとしていられない、元気にあふれた、いたずらっ子でした。
 ワルワーラは、ウォロージャが生まれたときにきたうばです。そのうばが買い物にでかけて、まだ帰ってこないのを、みんなで待っていたのです。
 よいにおいのライラックの白い花が食卓をかざり、卵や肉、ソーセージのごちそうが、おいしそうな湯気をたてています。
「おにいちゃま、おたんじょび、おめでと。」
 オーリャのたどたどしい片言がおかしくて、家族の笑いがとまりません。
 父イリヤは、教育者らしい、ゆったりとしたおだやかなまなざしで、満足そうに家族たちをながめまわしています。
「まあ、まあ、おそくなってすみません。」
 うばのワルワーラが、もめんの大きなスカートをゆさぶるようにして、へやにはいってきました。よほどいそいできたのでしょう。赤い顔に汗をかき、大きな箱をかかえて息をきらしています。
「はい、ぼっちゃま。これは、わたしからのお誕生日のプレゼントですよ。」
といって、その包みをウォロージャの両手におしこむようにして、手わたしました。
「わーい、なんだろう。まえのときのように、ねずみとりのおもちゃでないといいがな・・・。」
「ウォロージャ、そのいい方はいけません。ちゃんとお礼をいうものですよ。」
 母マリアは、しずかに少しきびしく、ウォロージャをたしなめました。
 ウォロージャは、首をすくめ、ひょうきんな顔をして、ぺろっと舌をだしました。それでもすなおに、
「ばあや、ありがとう。」
というなり、包み紙をびりびりと、やぶいていきました。
「わあー、馬だ、馬だ。」
 ウォロージャは、喜びの声をあげ、いすからとびおりました。それは三頭立ての張り子の馬のついた、そりのおもちゃでした。かれはそれを頭の上に高く持ちあげ、テーブルのまわりをとびはねるようにして、ぐるぐるとまわっていましたが、やがてとびらの外へかけだしていきました。
「ぼっちゃま、ぼっちゃま、ころびますよ。」
 大きな頭を前のめりに、ころびそうな足どりでかけていくウォロージャのあとを、うばのワルワーラが追おうとしました。
-------

といった具合に、まあ、児童書ですから、ほのぼのとした文体で続きます。
ただ、このおもちゃの馬のエピソードも結末はあまりほのぼのとはしていないのですが、長くなるので、いったん切ります。
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H・カレーヌ=ダンコース『レーニンとは何だったのか』

2017-11-09 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月 9日(木)10時41分28秒

>筆綾丸さん
ご紹介の記事、グーグル翻訳で英語で読んでみましたが、私は最近のロシアではソ連礼賛、スターリン礼賛の勢力がもう少し強くなっているような印象を受けていたので、ちょっと意外でした。

『スターリン 青春と革命の時代』 は面白すぎて、本文だけで六百ページを軽く超える厚さなのに、あっさり読めてしまいました。
これでスターリンは一応押さえたので、後はレーニンとトロツキーかなと思って、とりあえずエレーヌ・カレーヌ=ダンコースの『レーニンとは何だったのか』(石崎晴己・東松秀雄訳、藤原書店、2006、原著は1998刊)を読み始めたのですが、最初の方に筆綾丸さんが言及されたレーニンの家系がかなり詳しく出ていますね。(p22以下)

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 伝説の語るところとは逆に、若きウリヤーノフの家は貧しくもなければ労働者階級に属してもいない。彼が育つ家は広々とした立派な家で、二階建であり、これは相対的繁栄の印である。何人もの召使が奉公していた。これはまさしく、数学の教師を経て、シンビルスク地方の公立学校の視学という、人も羨むポストに任命された一家の長としては当たり前の暮らし向きである。未来のレーニンの父親、イリヤ・ニコラーエヴィチ・ウリヤーノフは、長い間、十月革命の英雄を農奴出身とするための根拠とされてきた。確かに曾祖父にヴァシーリー・ウリヤノフという農奴はいたが、彼は一八六一年の改革〔農奴解放〕よりもずっと早い時期に解放されていた。【中略】彼は町に住むことになり、こうして始まった社会的地位の上昇を彼の子孫はさらに継承したのである。息子ニコライ・ヴァシーリエヴィチはアストラハンで仕立屋を営んだ。孫のイリヤ・ニコラーエヴィチはレーニンの父であるが、カザン大学で数学を勉強し、前述のごとく教授となり、総視学となり、とうとう国務院参事官の地位にまで昇りつめ、これにより世襲貴族の地位に到達した。農奴から勲章に身を飾る貴族へと、わずか三世代で昇りつめたのだから、まことに急速な上昇であった。
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アストラハンはヴォルガ川沿いの街ですが、ウラル海に近い場所で、シンビルスク(現ウリヤノフスク)とは直線距離でも千キロメートルくらい離れてますね。


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 このイリヤ・ニコラーエヴィチ・ウリヤーノフという人物は、ロシア帝国を代表するような顕著な特質を備えていた。つまりこの上なく異なる文明と民族の坩堝たりうるという特質である。彼はもちろんロシア人だが、その母親はカルムイク人であった。彼女はモンゴルの血を引き、アストラハンで結婚した。エカチェリーナ二世によって自治権が制限された後、ロシアに留まったカルムイク人の大部分は、仏教を捨てて、アストラハンに居住していた。レーニンが父親と同じく、かなり目立ったアジア系の風貌をしており、特に切れ長の目をしていたのは、この祖母の血によるものである。カルムイクの血を引くことは、父親が貴族に列せられる妨げにはいささかもならなかったのである。
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ウィキペディアの写真で見ると、レーニンの父親は確かに「かなり目立ったアジア系の風貌」をしていて、特に頭の形が独特ですね。
名前を隠して写真だけ見せられたら、何だか明治の元勲にこんな人がいたような感じもしてきそうです。

Ilya Nikolayevich Ulyanov(1831-86)

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 このイリヤはマリヤ・アレクサンドロヴナ・ブランクと結婚したが、これによって家系はさらに複雑になった。将来レーニンとなる人物の母方の祖父、アレクサンドル・ディミトリエヴィチ・ブランクはジトーミルのユダヤ人で、ユダヤ商人とスウェーデン人女性との子供であった。彼は正教会に改宗し、それによって彼にはあらゆる門戸が開かれた。医学部、要職─彼は警察医、次いで病院医に任命された─、そしてとりわけ世襲貴族の門戸が開かれ、この地位に彼は一八四七年に到達した。彼はまた領地としてコクシキノ村を買うが、これは困難な時期にレーニンの母とその子供たちにとって収入源あるいは避難場所となる。ロシア帝国ではユダヤ人は原則として公職から遠ざけられ、土地の所有も不可能であったことを考えるなら、この驚くべき上昇は、ロシアの大歴史家、レオナルド・シャピーロが力強く主張していることの確証となる。つまりロシアの権力はユダヤ人がユダヤ人のアイデンティティーを主張すると直ちに敵意を持ったが、改宗するとなるとユダヤ人を対象とするあらゆる禁止が取り払われたのである。
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ジトーミルはウクライナ西部、キエフの百キロメートルほど西にある街ですね。
ただ、ウィキペディアによれば、レーニンの母はウクライナのジトーミルではなく、セント・ペテルスブルクで生まれたそうですね。

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Ulyanova was one of six children born in Saint Petersburg. Her father was Alexandr Blank (born Israel Blank), a well-to-do physician, who was a Jewish convert to Orthodox Christianity. Her mother, Anna Ivanovna Groschopf, was the daughter of a German father, Johann Groschopf, and a Swedish mother, Anna Östedt.
In 1838, Ulyanova's mother died and her father turned to his sister-in-law, Ekaterina von Essen, to help raise the children. Together they bought a country estate near Kazan and moved the family there.


そして、レーニンの母方の祖父、アレクサンドル・ディミトリエヴィチ・ブランクが領地として買ったコクシキノ村は、ウィキペディアの記述を見るとカザン近郊のようで、カザンでレーニンの母と父の接点ができたようですね。

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After marrying Ilya Nikolayevich Ulyanov, an upwardly mobile teacher of mathematics and physics, the couple lived in moderate prosperity in Penza. Later, they moved to Nizhny Novgorod and then Simbirsk, where Ulyanov took up a prestigious position as an inspector of primary schools.
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結婚後、二人はペンザ、ニジニ・ノヴゴロド、シンビルスクとヴォルガ川沿いの地域で転居を重ね、シンビルスクでレーニンが生まれる訳ですね。
血統だけでなく、レーニンの祖父母の代からの居住地を見てもなかなか複雑かつ広汎で、ソ連の雄大さを感じさせます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

百年の孤独 2017/11/08(水) 12:46:28
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%95
ナージャ・アリルーエワの写真を見て、ヴァージニア・ウルフに似ているな、と思ったのですが、比べると、そうでもないですね。

http://www.rfi.fr/europe/20171106-octobre-1917-heritage-controverse-revolution-russe
フランスの国営ラジオ放送局 rfi にしては珍しいのですが、十月革命について比較的長い記事を載せています。閑古鳥が鳴くような百年記念の祭典だったらしく、本文二行目に、

Une centaine de personnes assiste à un spectacle son et lumière consacré à la révolution,

革命を寿ぐ音と光の祭典の参加者は百人位、とあって、centenaire(百年祭)に une centaine(百人位)の参加者というのは、符節が合いすぎていて笑いを誘いますね。革命について、肯定者と否定者の意見がバランスよく紹介されていますが、なかには、

entre 1921 et 1954, il y a eu 3 millions de personnes arrêtées, c’est vrai, mais il n’y a eu que 600 000 condamnations à mort.・・・

1921~1954の間、三百万人が逮捕されたのは確かだが、しかし、死刑宣告を受けたのは六十万人にすぎない(それは負の側面であって、スターリンの政治はソ連に多大の利益をもたらしたのだ)、とスターリンを肯定する若者もいて、場所がサンクトペテルブルクの冬の宮殿前広場だけに、『罪と罰』のラスコーリニコフのような青年は、現在も、ロシアにうろうろしているんだな、と思いました。要するに、理解するのが難しい国ではありますね。

http://www.rfi.fr/europe/20171106-video-revolution-russe-1917-destin-etonnant-statues-lenine
これは世界各国にあるレーニン像の栄枯盛衰物語です。

http://eumag.jp/questions/f1014/
欧州逮捕状に関して、簡単な説明がありますね。
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ナージャの母、若しくはボリシェビキの妖婦

2017-11-05 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月 5日(日)09時22分54秒

『スターリン 青春と革命の時代』 はピカレスク・ロマンの趣があって、けっこう面白いというか、ノンフィクションなのにこんなに面白くて良いのだろうか、みたいな感じもしてきますね。
例えばナージャ・アリルーエワの父母について、次のような記述があります。(p215以下)

------
第13章 ボリシェビキの妖婦

 アリルーエフ一家はやがてスターリンと身内同士になり、スターリンと共に、監獄と死と陰謀のこの世界から権力の絶頂へと旅をし、それからまた、スターリン自身の手により、監獄と死と陰謀の世界へと逆戻りさせられることになるだろう。
 セルゲイは「ジプシーの先祖に似て魅力的で冒険好きな男だった。彼はよく喧嘩をした。誰かが労働者たちにひどい扱いをすれば、その男を叩きのめした」。妻のオリガ(旧姓フェドレンコ)は「灰色がかった緑の目をした金髪の本当の美人」だったが、性的に奔放な、マルクス主義者の妖婦だった。オリガは「しょっちゅう男たちと恋に落ちた」と彼女の孫スヴェトラーナ〔スターリンの娘〕は書いている。
 オリガの両親はドイツ系で、大きな志を持ち、オリガに高い望みをかけて一生懸命働いていた。しかし、当時二十七歳のセルゲイ・アリルーエフが下宿人になった。セルゲイは農奴出身の整備工でジプシーのルーツを持ち、十二歳から働いていた。オリガは十三歳になったばかりで、地元のソーセージ製造職人に嫁ぐことが決まっていたが、この下宿人と恋に落ちた。二人は駆け落ちした。父親は鞭を手にしてセルゲイを追跡したが、間に合わなかった。セルゲイとオリガは革命運動に熱中し、その一方で娘二人、息子二人の家庭を築いた。
 アリルーエフ家の末娘ナジェージダ(ナージャ)はまだ赤ん坊だったが、年上の子供たちはこの落ち着かない淫乱な母親と大義に献身的な家族と共に成長した。この家は絶えず顔ぶれが入れ替わる若い陰謀家たちでにぎわっていた。とりわけそれは謎めいていて、神秘的で、一家の母親の趣味に合った陰謀家たちだった。グルジア人は彼女のタイプだった。「時折、彼女はポーランド人、ハンガリー人、ブルガリア人と、さらにはトルコ人とも浮気した」とスヴェトラーナは言っている。「彼女の好みは南方の男で、時々『ロシア人の男は田舎者だわ』と腹を立てることがあった」
 オリガ・アリルーエワのお好みは、レーニンの沈思熟考型の特使で目下シベリア流刑中のヴィクトル・クルナトフスキー、そしてスターリンだった。彼女の息子パーヴェル・アリルーエフは、母親が最初にスターリン、それからクルナトフスキーを追い回したとぼやいていたらしい。母親がその両方と寝たことを認めたと、ナージャが言ったという主張がある。孫のスヴェトラーナがはっきり書いているところによると、オリガは「常にスターリンに弱いところを持っていた」。しかし、「子供たちはこのことと折り合いをつけていた。情事は遅かれ早かれ終わり、家庭生活はそのまま続いた」
 情事は実際にあったように聞こえる。そうだとしても、それはこの時代にはよくあることだった。
-------

こういう家庭に育ったにしてはナージャ・アリルーエワはずいぶん生真面目な女性に成長したようですが、そうはいっても、ボルシェビキのような異常な人たちの集団の中では比較的マシだっただけ、という感じもします。
ボルシェビキはウラジミール・レーニン以下、問題が生じるのは「敵」が破壊工作をしているからだ、問題を解決するには「敵」を皆殺しにすればよい、という共通の確信を抱いていた人々で、要するに基本的に頭のおかしい狂暴な人たちの集団ですね。
ナージャも内乱期にはボルシェビキによる凄まじい殺戮を間近で見て、完全にそれに同調していた人ですが、農業集団化に際して無抵抗な農民を虐殺し、餓死に追い込んだ点は、親しい友人だったブハーリンの影響もあって、さすがにやりすぎだろうという懸念を持った程度だったようですね。

Nadezhda Alliluyeva(1901-32)
https://en.wikipedia.org/wiki/Nadezhda_Alliluyeva
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『スターリン 青春と革命の時代』

2017-11-04 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月 4日(土)12時26分57秒

『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』は、かねてから不思議に思っていたトハチェフスキー元帥以下の赤軍大粛清の経緯についてある程度理解できたのでいったん打ち切り、時代を遡って、同じ著者の『スターリン 青春と革命の時代』(松本幸重訳、白水社、2010)を読み始めてみました。
原著の発行は『Stalin: The Court of the Red Tsar』が2003年、『Young Stalin』が2007年ですが、翻訳は前者上下巻が2010年2月、後者が同年3月で、白水社はほぼ同時期に三冊、合計約二千ページの訳書を出したのですね。
白水社サイトの紹介はずいぶんあっさりしているので、アマゾンの商品説明を転記すると、

-------
《「若きスターリン」の実像》
 スターリンの後半生を描いた前作『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』に続き、謎に包まれた前半生を描いた、評伝二部作の第2弾。
 一八七八年、グルジアの貧しい靴職人の家庭に生まれ育ったスターリンは、神学校在学中にマルクス主義に目覚め、聖職者になる道を捨てる。同志たちとデモやストライキなど労働運動を始め、コーカサス地方一帯で頭角を現す。また、銀行強盗や強請り、殺人や放火などで活動資金を調達するようになる。
 その後、度重なる逮捕・投獄・脱走・流刑を経験し、数多の女性関係ももった。最初の結婚では家庭を顧みず、若妻カトは息子を遺して病死。流刑地では落とし子をもうけ、後には二十歳も年下の妻ナージャをめとることとなる。
 やがてスターリンは、亡命中のレーニンに活躍が認められ、地方の活動家からロシアの活動家へと転身し、ボリシェヴィキ中央委員に選出される。しかし一九一二年、二月革命後、酷寒のシベリアに四年間も流刑される。やがて帰国したレーニンの腹心となり、一九一七年、十月革命の成功後、レーニン首班の一員となる。
 グルジア公文書の最新公開資料が、「若きスターリン」の知られざる実像を明かしてくれた。故郷コーカサス人の派閥、強盗の頭目で幼馴染のカモー、二度の結婚と派手な女性遍歴、レーニンやトロツキーとの複雑な関係など、驚愕のエピソードが満載だ。まさに独裁者誕生の源流に迫った、画期的な伝記。映画化進行中。
-------

といった具合いですが、映画化は中止になったようですね。
若干重複しますが、「序論」から少し引用してみます。(p15以下)

-------
 若き日のスターリンに関する研究はわずかである(若い頃のヒトラーに関する多くの研究に比べれば)。しかし、これは資料がきわめて少ないように見えたからだ。だが、実際はそうではない。彼の子供時代、そして革命家、ギャング、詩人、神学生、夫、行く先々で女性と庶子を見捨てる女たらしとしての経歴をよみがえらせる大量の生々しい新資料が、新たに解放された各地の公文書館に、とりわけ、これまでとかく軽視されがちだったグルジアの公文書館に潜んでいた。
 スターリンの若年期は謎に包まれていたかもしれない。しかし、それはレーニンやトロツキーの若い時代とまったく同じように並外れていたし、あるいはもっと波乱に富んでいたとさえ言える。そしてそれが彼に数々の勝利と悲劇のための、最高権力獲得のための身支度を調えさせたのだ(そして同時にダメージをも残した)。
 スターリンの革命前の働きと犯罪は、知られていたよりもはるかに大きかった。銀行強盗、みかじめ料稼ぎ、ゆすり、放火、海賊行為、殺人(政治的ギャング行為)で彼が果たした役割を、初めて史料で証明することができる。これらの行為こそレーニンに感銘を与えたのであり、スターリンはソヴィエトの政治ジャングルの中ですこぶる有益な技術を仕込んだのである。しかしまた、彼が単なるギャングのゴッドファーザーをはるかに超えていたことも示すことができる。彼は政治的オルガナイザー、行動家であり、そして帝政側の治安機関に浸透する名人でもあった。大政治家としての名声が、皮肉なことに大テロルにおけるみずからの破滅に立脚しているジノヴィエフ、カーメネフ、あるいはブハーリンとは対照的に、スターリンは一身の危険を冒すことを恐れなかった。けれども彼がレーニンに感銘を与えたのはまた、年長のレーニンと対立し意見を異にすることを決して恐れない、独立の思慮深い政治家、精力的な編集者、ジャーナリストでもあったからだ。スターリンの成功の源となったのは、少なくとも一つには教育(神学校での)と街路での暴力行為の特異な結合である─彼はそのまれなる結合であって、「インテリ」と殺し屋が一身に同居していた。一九一七年にレーニンがその暴力的な、窮地に立たされた革命のための理想の副官としてスターリンを頼りにしたのは、不思議でもなんでもない。
------

スターリンが1907年6月にグルジアのチフリスで起こした「銀行強盗」は「プロローグ」で詳しく紹介されていますが、堅固な銀行支店にピストルを持った強盗団が乗り込むのかと思ったら、スターリン配下のギャング20人が、警官とコサック騎兵に囲まれた現金輸送中の馬車二台の下に手製の手榴弾(愛称は「りんご」)を10個以上投げ込み、同時に警官・コサック騎兵を周囲から銃撃して無辜の通行人を含め約40人を殺害したという荒っぽいもので、殆ど西部劇の世界ですね。

>筆綾丸さん
>カタルーニャ
カタルーニャの独立運動についてエマニュエル・トッドはかなり冷ややかな書き方をしていましたね。
法的問題については法律雑誌で特集が組まれるでしょうから、面白そうな記事や論文があれば紹介したいと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

亡命か送還か 2017/11/03(金) 13:24:17
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
Sebag と Jaffé がユダヤ系の姓なのでしょうね。Montefiore はイタリア語で「花の山」ですが、そういえば、花山院という風変わりな人もいました。月岡芳年の画は、不謹慎ながら、哀れっぽくて笑えます。

http://www.rfi.fr/europe/20171102-catalogne-huit-anciens-ministres-places-detention-provisoire-puigdemont
カタルーニャ州政府の元閣僚達が sédition, rébellion et détournement de fonds publics(暴動、内乱、公金横領)の疑いで中央政府の司法当局に拘束された、とありますが、とうとう、ここまでこじれてしまったのですね。Haute trahison(国家反逆)という言葉はまだ使われていませんが。ベルギーに逃亡(?)した Carles Puigdemont は、本国に強制送還されるのか、亡命が認められるのか、EU内における難しい国家間問題になりました。
法律の専門家には興味深い問題かもしれませんが、日本で法律論が話題になることはないでしょうね。??

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「第1部 素晴らしかったあの頃─スターリンとナージャ」

2017-11-02 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月 2日(木)10時53分39秒

サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ氏の名前にはイタリア系っぽい響きがありますが、ウィキペディアを見ると、

--------
His father was Stephen Eric Sebag Montefiore and his brother is Hugh Sebag-Montefiore. They are descended from a line of wealthy Sephardi Jews who were diplomats and bankers all over Europe and who originated from Morocco and Italy. At the start of the 19th century, his great-great-uncle, Sir Moses Montefiore, was an international financier who worked with the Rothschild family and who became a philanthropist.

https://en.wikipedia.org/wiki/Simon_Sebag_Montefiore

ということで、父方の先祖はモロッコとイタリアに遡り、ロスチャイルドとも密接な関係を持つ富裕なユダヤ一族の人なんですね。
母方もユダヤ系ですが、

-------
His mother, Phyllis April Jaffé, comes from a Lithuanian Jewish family of scholars. Her parents fled the Russian Empire at the beginning of the 20th century. They bought tickets for New York City, but were cheated, being instead dropped off at Cork, Ireland. Due to the Limerick boycott in 1904 his grandfather Henry Jaffé left the country and moved to Newcastle, England.
-------

ということで、母親の両親はリトアニアに住んでいたんですね。
20世紀初頭、ロシア帝国の支配を逃れてニューヨークに行こうとしたものの、騙されてアイルランドのコークで降ろされてしまい、そこからイングランドのニューキャッスルに移動した訳ですね。
Limerick boycott は知りませんでしたが、Limerick は「五行詩」ではなくアイルランドの地名で、ここで一種のポグロムがあったということですね。

Limerick boycott
https://en.wikipedia.org/wiki/Limerick_boycott

さて、『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』は次のような文章で始まります。(p25以下)

--------
プロローグ
革命記念日の祝宴
一九三二年十一月八日

 一九三二年十一月八日、夕方の七時ごろ、ボリシェビキ党書記長スターリンの妻ナージャ・アリルーエワは、革命十五周年祝賀パーティーに備えて身づくろいをしていた。毎年の革命記念日の翌日、幹部たちは内輪のパーティーを開いて大騒ぎするのが恒例だった。面長の顔に茶色の目をした三十一歳のナージャは倫理観の強い真面目な女性だったが、繊細で傷つきやすい一面もあった。自分が「ボリシェビキにふさわしい質素な生活」をしていることが誇りで、普段は至って地味な装いだった。着古したスカート、無地のショール、四角い襟のブラウスという姿で、化粧はほとんどしなかった。しかし、今夜はさすがのナージャも装いを凝らしていた。スターリン夫婦の住まいは、十七世紀に建てられた二階建てのポテシュヌイ宮殿の中の陰気な一角にあったが、その一室で姉のアンナの方にくるりと向き直ったナージャは、赤いバラの刺繍をふんだんにあしらった黒のロングドレスを身にまとっていた。場違いなほどにファッショナブルなそのドレスはベルリン仕立てだった。いつもはさりげなく束ねて丸めただけの髪も、今夜は「最新流行の髪形」に仕上がっていた。遊び心からか、黒髪には真紅のティーローズの花が一輪挿してあった。
 パーティーには、首相のモロトフをはじめボリシェビキ党の有力者たちが妻を同伴して出席するのが恒例だった。モロトフの妻ポリーナは頭の切れる、すらっとした体つきの、なまめかしい女性でナージャとは親友の間柄だった。例年、パーティーの主催者を務めるのは国防人民委員のヴォロシーロフだったが、パーティーの会場となるヴォロシーロフの住所はポテシュヌイ宮殿とは小路をはさんでほんの数歩の距離にある細長い旧騎兵隊宿舎にあった。ボリシェビキのエリートたちは仲間内でたわいのないパーティーを開いてたのしむことがたびたびあったが、その種のパーティーでは有力者たちが女性をまじえてコサック風のダンスを踊り、最後には哀調をおびたグルジアの歌を歌って締めくくるのが決まりだった。しかし、この夜のパーティーはいつもと同じようには無事に終わらないであろう。
--------

「ナージャは倫理観の強い真面目な女性だったが、繊細で傷つきやすい一面もあった」とありますが、この後、約二百ページ続く「第1部 素晴らしかったあの頃─スターリンとナージャ」の随所に描かれたナージャ・アリルーエワの過去と当時の行動を見ると、精神的に少し病んでいたような印象を受けます。
死亡当時の描写の引用は省略しますが、やはり自殺だった可能性が高いようですね。
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『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』

2017-11-01 | ナチズムとスターリニズム
サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』(染谷徹訳、白水社、2010)は上巻だけで635ページという結構な分量で、やっと上巻の半分ほどを読んでみましたが、これは良い本ですね。
日経新聞2010年3月21日の書評で青山学院大学教授・袴田茂樹氏が、

-------
 スターリンについて、彼の広範な人間関係、家族関係や日常生活まで、ここまで掘り下げて生き生きと描いた本はない。その生々しさは、例えは悪いが、週刊誌のゴシップ記事並みで、読者の好奇心を大いに満たしてくれる。全巻、その場に居合わせたような具体的描写の連続で、エジョフ、ベリヤなどが陣頭指揮した血のしたたる政治的粛清、モロトフ、ジダーノフ、ミコヤンなどスターリンを取り巻くソ連の貴族たちの凄惨(せいさん)な権力闘争、彼らの奢(おご)った生活や淫(みだ)らな私生活などが極彩色で描かれている。その迫力ゆえに、上、下2巻千数百頁(ページ)を一気に読ませる力を持っている。
 著者は膨大な資料を漁り、新資料を発掘し、多くの関係者へのインタビューを行った。これを超えるスターリン伝は今後も出ないだろう。

https://www.nikkei.com/article/DGXDZO04373870Q0A320C1MZA000/

と書かれていますが、まるで映像を見るような詳細な描写は確かに大変な迫力です。
ロシア・ソ連史に全くの素人だった私がナージャ・アリルーエワに着目したのは我ながら良い選択でした。
スターリンの人生の中で、アリルーエワの死ほどスターリンの異常に強靭な精神に影響を与えた出来事は他に見当たらないですね。
「鋼鉄の男」スターリンがその75年の人生において茫然自失、情けない腑抜け男となったのはたった二回だけで、最初が1932年11月のナージャ・アリルーエワの死に際して、二回目は1941年6月、ヒトラーに騙されてドイツ国防軍の電撃侵攻を許した時ですが、後者の際は間もなく回復して、獅子奮迅の勢いで最高戦争指導者としての活動を開始しています。
しかし、アリルーエワの死がもたらした精神的衝撃は、革命と内乱の渦中で夥しい殺戮を行なった後でもスターリンに僅かに残されていた「人間性」を最終的に消滅させたようで、その影響は非常に長引きますね。
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『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(その2)

2017-10-30 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月30日(月)10時06分40秒

「シンビルスク郊外にあるチェレンガという田舎町」のモロゾフ家の出自については次のような説明があります。(p19以下)

------
 ワレンティン一家は姓をモロゾフといった。先祖は農民の出であったが、フョードルの祖父の代に商人に転じた。フョードルの父の代はまだ蝋燭を造って教会に納めていた程度だが、フョードルの時代になると故郷のチェレンガで雑貨商をいとなむいっぽう、広く交易に手を染めた。
 いちばん大きな仕事は犂などの農耕具をドイツから輸入することだった。次いで繊維製品。こちらは大部分がモスクワ製だが、高級品は英国から輸入する。金持の地主向けにフランスから<クリコ>印シャンパンを取り寄せたりした。
 日露戦争が終わり一九一〇年代に入ると、ロシア経済はめざましい成長をとげ、穀物などは年毎に輸出高を伸ばしていた。野心家で次々と新しい仕事に手を伸ばしたフョードルは、この波に乗った。そして一九一四年、第一次世界大戦が始まると政府の委託を受け、軍馬の徴用や軍服製造などの兵站活動も始めるようになった。町で初めて自転車というものを輸入して乗りまわしたのもフョードルなら、学校のなかった近郊農村のために資金を捻出して学校創設にこぎつけたのもワレンティンの父フョードルであった。いまではチェレンガの町で、フョードルは神父、獣医、農業技師などとならんで押しも押されぬ名士となっていた。
 しかしこの名士一家も、いまは人の目をのがれるように町を離れ、東へ、シベリアへ向かっている。この年三月、ペテルブルグで勃発し、じりじりと不吉な烽火を広げている革命のためである。
-------

「先祖は農民の出」とありますからユダヤ系ではないですね。
帝政ロシアではユダヤ人に農地経営を認めていませんから。
ま、要するに洋菓子のモロゾフ家の先祖は「田舎町」の小金持ちの商人であって、モスクワのモロゾフ財閥とは全く関係ない訳ですね。
チョコレートとの縁については、少し前にシルビンスクに住む「ナターシャ叔母さん」に関する記述があります。(p14以下)

-------
 ナターシャ叔母さんは父の妹にあたる人だった。家はシルビンスクの大通りに面していて、ピカピカに磨かれた硝子窓がはまっていた。町でいちばん早く電気を引いたのは叔母さんの家で、その夜は見物人が山のように押し寄せたそうだ。叔母さんは小さなチョコレート工場をもっていて、町一番の高級チョコレートを売っている。ワレンティンの家もチェレンガ一の雑貨商だが、とても叔母さんのところの比ではない。
-------

ただ、ワレンティン一家が洋菓子店をやろうと決めたのは、ハルビン、アメリカ・シアトルでの流浪の生活の後、やっと落ち着いた神戸で様々な商売の可能性を探り、洋菓子店がそれなりに有望そうだったからであって、「ナターシャ叔母さん」がチョコレート工場を持っていたこととの直接の関係はないですね。
ワレンティン一家とモロゾフ株式会社の関係については九年前にあれこれ書きましたが、少し検索してみたら現在はウィキペディアにもずいぶん詳しい記述がありますね。
ま、出典を見ると川又一英氏の『大正十五年の聖バレンタイン』に全面的に依拠しているようですが。
ロシア語版も出来ていたので、リンクはそちらに張っておきます。

ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ(1911-99)

川又一英氏についても九年前はウィキペディアの記事はなかったはずで、私はご著書の奥付やカバーの著者略歴から僅かな知識を得ていただけだったのですが、2004年に亡くなられていたのですね。

川又一英(1944-2004)

>筆綾丸さん
>レーニンの血筋の複雑さ
ユダヤの血筋が入っている点については、レーニン没後、相当経ってからも政治的意味を持ち、公表すべきか否か問題になりましたね。
サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち(上・下)』(染谷徹訳、白水社、2010)を読み始めたので、次の投稿が少し遅くなるかもしれません。



※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ウリヤノフ家 2017/10/28(土) 15:43:30
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3
--------------
父方の祖父は解放農奴出身の仕立屋で民族的にはチュバシ系で、曽祖父はモンゴル系カルムイク人(オイラト)であった(曾祖母はロシア人であったという)。この様に幾つもの民族や文化が混じるウリヤノフ家は帝政ロシアの慣習から見て「モルドヴィン人、カルムイク人、ユダヤ人、バルト・ドイツ人、スウェーデン人による混血」と定義された。
--------------
レーニンの血筋の複雑さには目が眩みますね。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784004316749
抵抗のある岩波新書ですが、高橋敏氏の『一茶の相続争い―北国街道柏原宿訴訟始末』は面白く読めました。一茶の場合、幕府の公的機関による公事(民事訴訟)ではないから、正確には「訴訟(始末)」とは言えないのでしょうが。

句碑の撰文末尾の五絶、
感神松下詠 知命暮鐘声
一自茶煙絶 科山月独明
を、
神を感ぜしむ松下の詠 命を知る暮の鐘声
一自茶煙絶え 科山の月独り明らかなり
と訓じていますが、これでは「一自茶煙絶」の意味が通じない(164~165頁)。「一自」はおそらく天保期の筆写の間違いで、「一度」であれば、「ひとたび茶煙絶え(一茶を火葬に附した煙が消えて)」となり、意味がわかります(あるいは「一目」か)。

http://www.sankei.com/life/news/171027/lif1710270034-n1.html
尊氏の肖像は、これでほぼ決まりでしょうね。
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『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(その1)

2017-10-27 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月27日(金)09時30分2秒

『自壊する帝国』を読み終えてから、久しぶりに川又一英氏の『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(PHP研究所、1984)を手に取ってみました。
「プロローグ」から少し引用してみます。

-------
 物語の主人公はワレンティンという名である。フル・ネームはワレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフと少々長い。名のとおりロシア人であるが、滞日すでに六十年になるから準日本人と呼んでもさしつかえあるまい。
 ワレンティンは英語読みではヴァレンタイン、今日の日本語表記ではバレンタインとすることが多い。そこで同人もみずからをバレンタイン・F・モロゾフと名乗っている。
 ひょっとして<バレンタイン・デー>に関係があるのではないか。勘のするどい読者は、ワレンティン(バレンタイン)の聖名〔クリスチャン・ネーム〕をもつ主人公に、そう思われるかもしれない。語り手〔わたし〕はここで結論を出すのは控えておく。
 ひとつだけ申し添えておくと、ワレンティンは日本におけるチョコレート菓子の創始者〔パイオニア〕として知られており、その手になる<コスモポリタンのチョコレート・キャンディ>といえば、今日高級洋菓子の代名詞ともなっている。それゆえ、チョコレートが飛び交う二月十四日〔バレンタイン・デー〕の珍現象もまんざら迷惑ではないことは容易に想像がつこう。
 さて、ワレンティンは大正十五年、父とともに洋菓子店を開業して以来、神戸に住んでいる。経営するコスモポリタン製菓の工場も本店も神戸にある。しかし毎年、バレンタイン・デーだけは上京して銀座支店の店頭に立つ。これはある新聞に<クラーク・ゲーブルとグレゴリー・ペックを足して二で割ったような>と書かれたワレンティンの恒例行事となっている。昭和四十九年のバレンタイン・デーすなわち二月十四日もそうであった。
-------

ということで、同日、投宿先の帝国ホテルでソルジェニーツィンがソ連政府によって西ドイツのフランクフルトに追放されたという新聞記事を見たワレンティンが、宛先も知らないままソルジェニーティンに無事の出国を祝福する電報を打とうとするエピソードが紹介されます。
次いで、

-------
 ワレンティンには国籍がない。いまは亡き父も母も同様である。一家は帝政ロシアに国籍を残したまま、二度と故国に戻らない亡命者〔エミグラント〕であった。亡命者にとって喪った故国の重みがどんなものか、島国で国家の保護下に生きてきた語り手〔わたし〕には想像の域を超える。
 われらの主人公がなぜ見ず知らずの作家ソルジェニーツィンに電報を打たずにはいられなかったか。語り手〔わたし〕はチョコレートとシャンパンの話をして以来、温厚な紳士に問いただしたことはない。
-------

との説明の後、ワレンティンの出生地について、

-------
〔カスピ海から〕この中部ロシアの大動脈ヴォルガ河を遡ること緯度にして十度弱、樺太の最北端に当たる地点にウリヤーノフスクという町がある。町出身の革命家レーニンの姓をとって現在はこう名づけられているが、革命前まではシンビルスクと呼ばれていたヴォルガ河畔有数の町である。
 物語の主人公ワレンティンが生まれたのは、このシンビルスク郊外にあるチェレンガという田舎町である。奇しくも愛の守護聖人ヴァレンティヌスと同じ聖名をなづけられたロシア少年がいかにしてチョコレート造りを始めるようになるか。またなぜ、地球を四分の一も東漸し、日本で暮らすようになるか。
 話はロシア革命が勃発した一九一七年、シンビルスクの町に遡る─。
-------

とあって、「プロローグ」が終わります。

ウリヤノフスク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%8E%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AF
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『自壊する帝国』

2017-10-25 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月25日(水)22時41分4秒

>筆綾丸さん
私は『自壊する帝国』(新潮社、2006)は未読だったのですが、今日、半分ほど読んでみました。


モロゾフの話は佐藤氏が「モスクワ大学哲学部学生。沿バルト三国ラトビア共和国出身で金髪の美青年」であるサーシャに誘われて、リガ中心部から「車でニ十分程走った市の郊外」にある分離派の「白壁で囲まれた大きな修道院」を訪問した際の会話に出てきますね。(p166以下)

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「サーシャ、スターリン時代にこの修道院はどうして閉じられなかったんだい」
「スターリンが教会を激しく弾圧したのは、一九二〇年代終わりから三〇年代初めまでだ。この時期にバルトはソ連に併合されていなかった。その後は教会には手をつけていない。スターリン自身が中退だけれども神学教育を受けているので、宗教の強さをよくわかっている。だから、弾圧すれば徹底的に抵抗する面倒な分離派には手をつけなかったんだ」
「フルシチョフ時代に相当数の教会が閉鎖されたけれど、あの嵐をどうやって乗り切ったんだい」
「モスクワのイデオロギー官僚は、リガに分離派の修道院があることを知らなかったのだと思う。知っていたら弾圧されていた。ラトビア共産党の官僚はこの修道院について、モスクワに告げ口をしなかったんだと思うよ」
「温情からかい」
「それも少しはあると思うが、分離派と構えると面倒なので、引いてしまったのだと思う」
「そうだろうな。ここの人たちは信念が強そうだからな。ところで分離派出身のインテリはいないのか」
「もちろんいるとは思うが、分離派はそもそも知性自体に悪魔性が潜んでいると考えるから、インテリとして社会的に認知されるとどうしても分離派の宗教共同体とは距離が出来る」
「この修道院の人々はどうやって食べているのだ」
「集団農場(コルホーズ)をもっているので、食糧はそこで自給し、それ以外の人々は工場で勤務している。帝政ロシア時代にも分離派出身の技師や労働者は結構いた。それから商人に多い。帝政ロシアのモロゾフ財閥も分離派だ」
「モロゾフ一族の一人が日本に亡命し、お菓子屋を作った。モロゾフという会社で、今もロシア風のチョコレート菓子(コンフェエート)を作っている」
「マサル、それは話の種になる。いちど土産にもってこい」
「わかった」
 私はモロゾフのチョコレート菓子を土産にし、日本の食文化にロシアが入っている例としてロシア人に説明すると、とても好評だった。北方領土を訪れるときもモロゾフのチョコレート菓子を必ず土産にもっていった。外交の世界で食に絡む話はよい小道具になる。
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時期は明確に特定されていませんが、1988年冬か翌89年春頃の話のようで、この当時から佐藤氏はモロゾフ財閥一族の亡命者が洋菓子のモロゾフを創業したと思い込み、社交の小ネタに使用していた訳ですね。
佐藤氏はこの修道院の名前を明示していませんが、

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 余談だが、後にこの修道院を訪問したことが、私の情報収集活動に思わぬ影響を与えることになる。前に述べたソ連維持運動の中心人物だった「黒い大佐」アルクスニスは、この修道院の関係者だったのである。
 政治犯として祖父が銃殺された後、中央アジアのカザフスタンに流刑になったアルクスニスの父親は、一九五六年、ソ連共産党第二十回大会のスターリン批判の結果、名誉回復がなされ、リガに戻った。このときこの修道院に住んでいた女性と知り合い、彼女がアルクスニスを産んだ。アルクスニスはこの修道院で洗礼を受けているのである。
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とのことで(p168)、特定は簡単にできそうです。

ヴィクトル・アルクスニス

佐藤氏は特に説明を加えていませんが、「黒い大佐」ヴィクトル・アルクスニスの祖父、ヤーコフ・アルクスニスは著名な将軍で、ソ連空軍の育成に大変な功績があったにも拘らず、大粛清に巻き込まれてしまった人ですね。
トハチェフスキー元帥の秘密裁判に審判団の一員として加わった後、自身もラトビアのファシスト組織を創設した疑いで逮捕され、銃殺されてしまったとか。

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In June 1937 Alknis sat on the board of the show trial against members of Trotskyist Anti-Soviet Military Organization; he himself was arrested on 23 November 1937, expelled from the Communist Party,charged with setting up a "Latvian fascist organization" and shot 28 July 1938.


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ぐだぐだ感 2017/10/23(月) 13:22:43
小太郎さん
今も進歩はありませんが、10年前の私もトンチンカンなことを言っていたのですね。やれやれ。

今日の日経朝刊(社会面)の「私はこう見る」に、ベストセラー作家の呉座勇一氏の寸評が掲載されています。
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 室町時代の応仁の乱は、「幕府内野党」の西軍が「与党」の東軍に挑んだ戦いだった。しかし双方の大将に政策的な対立軸はなく、勝ち馬に乗ろうと諸将が離合集散した理念なき乱だった。そのぐだぐだ感は、500年以上たった今回の総選挙にも通じる。(後略)
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歴史家という人種は、なぜ、自分の専門分野にかこつけて、つまらぬ我田引水の言を弄するのか。新聞社が望んでいることを「忖度」して冗談を言ったまでさ、というのが本音かもしれないが、きっぱり断ればいいのに。優秀な研究者ですが、こんなことを言い始めると、バカだと思われますね。過去は過去、現在は現在です。
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>佐藤優さん、「洋菓子のモロゾフは、もともと分離派のモロゾフ財閥」ではありませぬ。

2017-10-23 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月23日(月)10時23分26秒

まだ本調子ではないので、気晴らしに五木寛之・佐藤優氏の対談集『異端の人間学』(幻冬舎新書、2015)を眺めていたら、次のような記述がありました。(p86以下)

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佐藤 【中略】五木さんが言うように、確かに分離派の動きを見ると、いままで見えなかったロシア帝国史の姿が浮かび上がってくると思います。たとえば、ロシアには分離派の資本家が大勢います。日本で知られているところでは洋菓子のモロゾフは、もともと分離派のモロゾフ財閥で、ここがレーニンたちに資金を供給していました。分離派は、官吏や地主にはなれなかったので、商業面で頭角をあらわす人が多かったんですね。

五木 そうなんだよね。帝政ロシアに資本主義は育っていないというけど、初期の資本主義は、この古儀式派から生まれています。モロゾフ一族のほか、リャブシンスキー一族など、繊維工業から出発して、やがて石油、自動車産業にまで発展した資本家がいた。初期の工場労働者は、多く分離派から出ています。彼らは古くから共同生活をし、労働で生きる人たちでしたから。このネットワークがソヴェート(会議)と呼ばれた。
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「洋菓子のモロゾフは、もともと分離派のモロゾフ財閥」というのは佐藤氏の積年の思い込みですね。
川又一英氏の『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(PHP研究所、1984)によれば、神戸に来たモロゾフ一家はヴォルガ河畔のシンビルスク郊外にあるチェレンガという町の出身で、モロゾフ財閥とは関係ありません。
この点は9年前、筆綾丸さんが佐藤氏の『自壊する帝国』(新潮社、2006)を引用されたのをきっかけに洋菓子のモロゾフと野坂参三の関係などを調べていたときに気づいたのですが、逆にモロゾフ財閥や古儀式派(分離派)については基礎的な知識も乏しいままです。

ドストエフスキー(筆綾丸さん)
モロゾフ財閥

正直、9年前は佐藤優氏が訳の分からんことを言っているなあ、程度の認識だったのですが、『ロシアの歴史を知るための50章』(明石書店、2016)を見ると、下斗米伸夫氏は古儀式派の重要性を力説されていますね。
ちょっと検索してみたら、東京新聞の2017年9月23日記事で、下斗米氏は、

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 「ソビエト」とは日本語で「会議」と訳されますが、本来は古儀式派の会合の場を指します。当局に弾圧されて教会を持てない古儀式派が、長老を選んで宗教行事を行ったりする場です。
 古儀式派の拠点はモスクワやその近郊のイワノボ・ボズネセンスク(現イワノボ)などが有名です。繊維産業が栄え「ロシアのマンチェスター」の異名をとったイワノボは、革命期にできたソビエト発祥の地。労使交渉の場から生まれました。
 日露戦争では古儀式派のコサックも大量動員されたが、信仰が違うという理由でお弔いの儀式をしてもらえなかった。これに古儀式派が激怒。反帝政に動き一九〇五年の民主化革命を主導します。一七年の二月革命で実権を握ったのも古儀式派の資本家です。
 レーニンは古儀式派をうまく利用しました。第一次世界大戦で動員された七百万の農民兵たちに分かりやすく説いた。「働かざる者食うべからず」とか「一人は全員のため、全員は一人のためという精神が社会主義だ」と。こうしたスローガンは古儀式派の持つ社会倫理観です。レーニンはそれをパクって農民を味方につけたわけです。「全権力をソビエトへ」と。


などと熱く語っています。
下斗米氏の説明には分かりにくいところもけっこうあるのですが、従来のソ連史研究には欠けていた視点であることには間違いないので、少し調べてみようかなと思っています。

「カテゴリー:佐藤優『国家の罠』&モロゾフ・野坂参三」
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今週はダメダメだった。

2017-10-21 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月21日(土)23時29分20秒

暫く風邪気味だったのですが、熱はそれほどなくて本を読もうと思えば読めたはずなのに、ついついサボってしまいました。
ロシア・ソ連史は全くの門外漢なので、当面の手がかりにと思って読み始めた栗生沢猛夫氏の『図説 ロシアの歴史 増補新訂版』(河出書房新社、2014)がやっと八割程度、下斗米伸夫編著『ロシアの歴史を知るための50章』(明石書店、2016)が二割ほど、アーチー・ブラウン著・下斗米伸夫監訳『共産主義の興亡』(中央公論新社、2012)に至っては約800ページのうちの30ページ程度を眺めただけです。
ただ、この掲示板でナチズムとスターリニズムを、素人なりにある程度納得できるような形でやろうと思ったら前者・後者でそれぞれ半年、ティモシー・スナイダーを参考にして両者の関係を調べて更に半年くらいかかりそうなので、どこまでやるかはけっこう悩みますね。

書評『共産主義の興亡』、東京大学教授・塩川伸明氏
同、ノンフィクション作家・保阪正康氏

>筆綾丸さん
1932年生まれというと、峰岸純夫氏は85歳ですか。
私も何度かお見かけしたことがありますが、峰岸氏は気さくな人柄で、研究者だけでなく一般のファンも多いようですね。
ま、私はもともと戦国時代に全然興味がないので、『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』も特に読みたいとは思いませんが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

天才と苦役 2017/10/16(月) 20:34:27
小太郎さん
http://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/17_bloom.html
https://de.wikipedia.org/wiki/Die_Blumen_von_gestern
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AC%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC
脈絡がなくて恐縮ですが、『ブルーム・オブ・イエスタディ(Die Blumen von gestern)』のホロコーストを巡るブラックユーモアは凄まじいもので、この映画をみたドイツ人やユダヤ人がどんな感情を抱いたのか、想像もつきません。
主人公の男性(ラトビア・リガの強制収容所の責任者親衛隊ブルーメン大佐の孫)と女性(収容所で殺されたユダヤ人女性ローゼンクランツの孫)の性愛は、なんとも際どいものでした。女性が言う、加害者と被害者が融合して無意識の超自我に達するのだ、というフロイト的言説は、Blumen(花々)=ゲルマン民族とRosenkranz(薔薇のロザリオ)=ユダヤ人が孫の世代で交配して超越的な何かを残す、という暗喩のように思われました。
ラストシーンには不満が残りましたが、レベルの高い秀作ですね。

https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000885322017.html
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 学校が生徒に宿題を課すのはおかしいのではないか、というのが藤井の自説である。宿題となれば、答えを引き写して提出する子もいる。そういう不合理が生じるよりも、授業を真面目に聞いている方がいいし、それで十分ではないか、という趣旨の理屈だ。
 「宿題が終わらないと、居残りしてくる時もあるんですけど、その居残りについてまた文句があるらしくて。これは憲法に違反しているんじゃないか、とか(笑)」(裕子)
 藤井も、母にそんなことを言ってもしょうがないのはわかっている。実際に、学校の先生に向かって直談判したこともあった。(同書214頁)
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憲法第18条「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」が該当するのでしょうが、天才はさらりとオシャレなことを言ってのけるものですね。

追記
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062586641
少し立ち読みしてみました。あとがきに、40万部を超えるベストセラーである呉座勇一氏『応仁の乱』における東国への無関心(?)にいささかの不満を覚えた、というようなことが書いてあり、なんとも元気な爺さん(1932生)ではありますね。飽きもせず同工異曲のことを続けられる、その地獄のような不気味な情熱はどこから来るのか。九十歳に垂んとすれば、享徳の乱なんて、もう、どうでもいいじゃねえか、と思うのですがね。
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