学問空間

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George Bailey Sansom

2008-06-30 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月30日(月)00時28分34秒

今日、細谷千博氏の「ジョージ・サンソムと敗戦日本 一《知日派》外交官の軌跡」(『中央公論』1975年9月号)という論文を読んでみたのですが、サンソムは連合国の対日占領政策の形成において、非常に重要な役割を果たした人だったのですね。
「知日派外交官」という言葉から私が当初予想したような内容では全くありませんでしたが、細谷氏の分析の深さに驚きました。

http://en.wikipedia.org/wiki/George_Sansom

英語のウィキペディアにはサンソムについて若干の紹介がありますが、日本語版には立項すらされていないので、細谷氏の論文から少し引用してみます。

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 サー・ジョージ・サンソムは、一八八三年十一月二十八日にイギリスのケントに生れ、一九〇四年、二十歳の若さで公使館の日本語研修生として来日、それから一九四〇年の夏まで、時おり本国に帰るほかは、青壮年期のほとんどを外交官として日本で過した。一九二三年からは大使館の商務参事官として経済問題を担当、一九三三年のシムラ(インド)での日印綿業会談には、イギリス代表として参加している。
 この三十五年に及ぶ滞在経験は、サンソムを駐日イギリス大使館きっての日本通とする。この間、その日本への関心は政治、経済的事象から、さらに歴史、文化の深奥へと向けられていった。この点で、日本仏教史に造詣の深い、サー・チャールス・エリオット大使に仕えたこともひとつの機縁であった。卓抜した日本語の読解力にものをいわせて、厖大な文献を渉猟し、日本の過去を探る一方、奈良や京都にたびたび足を運んでは日本の伝統の美に接し、また能や陶芸の世界に身をいれて、日本文化への深い愛情を育てていったのである。
 『日本文化小史』を一九三一年に出版したサンソムは、もはや一大使館員というより、西欧におけるすぐれた日本研究者としての存在を築いていた。日本学士院は一九三四年、彼を名誉会員に推薦する。
 この頃から彼は、『西欧世界と日本』の執筆準備にとりかかる。そこで展開しようとしたモティーフは、西洋世界の衝撃をうけて、自己変容をとげてゆく日本の《近代化》の過程を、西欧史家の目によって明らかにすることであり、そこには伝統的な文化を保持しつつ、西欧文化の摂取と、これへの適応を鮮やかになしとげてゆく日本人の能力への敬愛の念がひそんでいた。
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>筆綾丸さん
>「久安四年夏法勝寺の塔上にして天狗詠歌の事」
この話は最近どこかで読んだな、と思って調べてみたら、先に紹介した中根千絵氏の「法勝寺蔵書と三昧僧─法勝寺伝承文化圏の再現を目指して─」(愛知県立大学国文学会『説林』2003.3)に載っていました。
中根氏の見解に多少の疑問もあるのですが、参考までに関係する部分だけ引用してみます。
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『台記』康治元年(一一四二)五月十五日条には、鳥羽院が頼長に次のようなことを語っている。故白河院の時、故少僧都観重が、法勝寺九重塔が崩れ、その跡に松の樹が生えたという夢を見た。これは吉事がある予兆であると思っていると、程経ずして白河院が崩御したという。この場合の法勝寺九重塔は白河院自身を象徴しており、松の樹は新たな王権の誕生を物語っていると見ることができる。長年、確執のあった鳥羽院側からすれば吉兆の夢ということになったのであろう。(中略)『古今著聞集』巻第十七(五九七)には、次のような説話が記されている。

  久安四年夏法勝寺の塔上にして天狗詠歌の事
久安四年の夏の比、法勝寺の塔のうへに、夜ながめける歌、
われいなばたれ又こゝにかはりゐむあなさだめなの夢の枕や
 天狗などの詠侍けるにや。

『台記』久安四年五月二十日条に、「丁丑、京師訛言、法勝寺九重塔、夜々歌云、ワレイナバ、タレマタコヽニ、カハリヰン、アナサダメナノ、クサノマクラヤ、」とあることから、この説話は当時の人々の噂から出来上がったものと考えられる。鳥羽院と頼長の交わした話からすれば、法勝寺九重塔は故白河院その人を象徴するものであるから、『台記』にあるように塔そのものが歌ったのだとすれば、この歌は故白河院の詠じた歌ということになろう。
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言語感覚

2008-06-28 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月28日(土)10時00分47秒  

>筆綾丸さん
私も新日吉社のことではないかと思います。
山本真紗美氏の「新日吉小五月会の成立と展開―行事開催における院と鎌倉幕府―」(『鎌倉遺文研究』第21号)という論文が参考になりそうですが、手元にないので後で確認してみます。

Mikael S. Adolphson 氏はスウェーデン出身、京都大学で大山喬平氏の指導を受け、現在はハーバード大学ライシャワー日本研究所に所属している方だそうです。
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A premodernist, he was inspired by the similarities between medieval Europe and Japan to focus his attention on pre-1600 Japan. He spent two years studying Japanese at Stockholm University before receiving a scholarship from the Japanese Education Ministry in 1986. During the next two and a half years he lived in Kyoto and Osaka while studying at Kyoto University under the guidance of Professor Oyama Kyohei. In 1989, he entered Stanford University's Ph.D. program with Professor Jeffrey P. Mass as his mentor. Returning to Kyoto University in the spring of 1992 for dissertation research, he also worked for the Japan Volleyball Association as an interpreter. He resumed at Stanford in the fall of 1993 and finished his dissertation two years later.
http://www.fas.harvard.edu/~rijs/people/faculty/m_adolphson.html

グーグルのブック検索は非常に便利で、"The Gates of Power: Monks, Courtiers, and Warriors in Premodern Japan"の内容を詳しく確認できますが、基本的には黒田俊雄氏の権門体制論の紹介のようですね。
黒田俊雄氏の著作自体が英訳されていたら、この本の存在意義も影響を受けるでしょうね。
http://books.google.co.jp/books?id=kjT8_78YAwAC

それにしても、権門を"The Gates of Power"と訳す言語感覚は、ちょっと問題がありますね。
http://ja.trekearth.com/gallery/North_America/photo910287.htm
http://www.gates.com/
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The Gates of Power

2008-06-27 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月27日(金)19時10分50秒

英語圏の人が本格的に日本の歴史を研究しようとしたらどんな本を読むのだろうか、と思って探してみましたが、コロンビア大学のDavid Barnett Lurie氏作成のシラバスはなかなか参考になりますね。
鎌倉時代が貧弱なのが残念ですが。

http://www.columbia.edu/~dbl11/
http://www.columbia.edu/~dbl11/Lurie.Pre1600Japan2007.pdf

Amino Yoshihiko氏の"Rethinking Japanese History" などと並べてMikael Adolphson氏の"The Gates of Power"という本が紹介されていますが、The Gates of Powerとはずいぶん謎めいた表現です。
ま、たぶん「権門」のことなんでしょうね。
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知的資産の構築

2008-06-27 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月27日(金)06時38分53秒

清水克行著『室町社会の騒擾と秩序 』
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中世は騒擾の世界ではなく秩序も存在した。公権力が定める制定法とは別の多様な法習慣や民間習俗を解明。外国史や人類学の成果も取り入れて騒擾の原因や秩序のあり方を探り、新たな室町社会像を描き出す。
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清水克行氏の発表は一度聞いたことがありますが、この本は未読です。
外国史の成果の中には、直接的な言及がされているかはともかく、Kanunも当然入っているんでしょうね。

清水克行氏の研究に刺激されて最も優れた論文を書ける潜在的な可能性を持った学者は、もしかしたら東欧の小国あたりにいるのかもしれないですね。
現在は日本語の壁があるから、日本の歴史学者の研究成果は、どんなにレベルの高い研究であったとしても世界中の学者が共有できる知的資産にはなれないですね。
「世界遺産」も重要だろうけど、過去の遺物の保存ではなく、将来に向かって新たに知的資産を構築して行く方が、遥かに大事なのではないかと私は思います。

ブルガリア出身でアメリカ在住の政治学者であるBranislav L. Slantchev氏は、日本の歴史や文学に大変興味を持っていて、優れたホームページを作っている方ですが、この人のように知的能力が極めて高く、意欲に満ちた人であっても、日本の歴史の概要を把握するために読んでいるのは、George Sansomの「A History of Japan」程度のようですね。
もちろん Sansomの本は立派なものではあるけれども、あまりに古くて、現在の日本の歴史学のレベルとは程遠い存在です。
しかし、Sansomの本に代わるような概説書を提供する努力すら、日本はやっていませんね。

http://gotterdammerung.org/index.html
http://gotterdammerung.org/japan/literature/classics.html
http://gotterdammerung.org/japan/history/
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Vendetta

2008-06-26 | 近現代史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月26日(木)19時33分14秒  

>筆綾丸さん
最初は中世の遺物として面白いなあ、などと思っていたのですが、ウィキペディアのリンク先をいくつか読んでいたら、気味が悪くなってきました。

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He isn't alone. There are an estimated 2,800 Albanian families living in self-imposed isolation, trying to avoid becoming victims of blood vengeance. In the years since the collapse of communism,
http://www.rferl.org/features/2001/10/12102001123602.asp

面積は四国の1.5倍、人口300万人程度の小国で、2800家族というのは大変な割合ですね。

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In 1991, Kapsari, a carpenter, was standing in line for eggs. Two young men began pushing him and trying to take his place. Kapsari stood his ground, but says that after he left the store, the two men attacked him with knives and iron bars. Kapsari describes what happened next: "The two young men fled. One of them was on a bicycle, and he crashed into an electric power pylon and died on the spot. When I saw he was dead I went straight to the police."
Kapsari was jailed during each of the three investigations into the young man's death. But after authorities pronounced him innocent for the third and final time, the dead man's family posted a $15,000 bounty on his life, insisting he should be killed on the principle of "blood for blood." Kapsari says he likewise turned to the kanun for guidance.
"After I was released from jail, I decided to proceed according to the kanun of Lek Dukagjini. I went to church and swore before the priest that I was innocent. The father of the dead man then said he wanted to forgive me but that his wife and surviving children wouldn't let him. They said, 'As long as you're alive, we will try to kill you.'"
無実であることが公的に証明された人でも狙われ、賞金稼ぎの殺し屋もオッケーとは。

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In Japan's feudal past the Samurai class upheld the honor of their family, clan, or their lord by katakiuchi (敵討ち), or revenge killings. These killings could also involve the relatives of an offender. While some vendettas were punished by the government, such as that of the 47 Ronin, others were given official permission with specific targets.
http://en.wikipedia.org/wiki/Vendetta

日本の説明はレベルが低すぎますね。
材料はいくらでもあるのに。


>鎌倉の大仏様「素材は中国銭」 別府大グループが解明
>『経筒が語る中世の世界』(思文閣出版)としてまとめられたこの研究に、黒田明伸東京大教授(中国経済史)は
>「日本で銭の流通が突然始まる理由が分からなかったが、疑問が解けた」と納得する。

『貨幣システムの世界史<非対称性>をよむ』(岩波書店,2003)の黒田明伸氏が太鼓判を押しているのであれば、
相当信頼できると判断してよいのでしょうね。
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Obama bin Laden

2008-06-25 | 近現代史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月25日(水)18時51分44秒

びみょーな誤植発見。
間もなく訂正されるでせう。

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"Why haven't we captured Obama bin Laden almost seven years after 9/11?" he said. "Why does Al Qaeda have a sanctuary in Pakistan? Why has it gained new recruits worldwide? That is the debate the American people deserve."

http://www.iht.com/articles/2008/06/24/america/campaign.php
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アルバニアの変成男子

2008-06-25 | 近現代史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月25日(水)00時35分31秒

Sworn to virginity and living as men in Albania
http://www.iht.com/articles/2008/06/23/europe/virgins.php

タイトルに少し妄想を抱きながら、この記事を読み始めたのですが、まあ、驚きましたね。

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The tradition of the sworn virgin can be traced to the Kanun of Leke Dukagjini, a code of conduct that has been passed on orally among the clans of northern Albania for more than five centuries. Under the Kanun, the role of women is severely circumscribed: Take care of children and maintain the home. While a woman's life is worth half that of a man, a virgin's value is the same - 12 oxen.
The sworn virgin was born of social necessity in an agrarian region plagued by war and death. If the patriarch of the family died with no male heirs, unmarried women in the family could find themselves alone and powerless. By taking an oath of virginity, women could take on the role of men as head of the family, carry a weapon, own property and move freely.

アルバニア北部においては、5世紀に亘って、Kanun という口頭で伝承される法がclanを規制しており、Kanunの下では非常に厳しい男女差別があった。sworn virgin は、男性にしか相続権を認めない家父長制の下、戦争と死が蔓延した農業地域の社会的必要から生まれた制度で、女性はvirginity を誓うことにより、家父長としての男性の役割を担い、武器を扱い、財産を所有し、移動の自由を得ることができた。

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Known in her household as the "Pasha," Keqi says she decided to become the man of the house at age 20 when her father was murdered in a blood feud. Her remaining four brothers opposed the communist regime of Enver Hoxha, who ruled Albania for 40 years until his death in 1985, and they were either imprisoned or killed. Becoming a man, she said, was the only way to support her mother, her four sisters-in-law and their five children.

(現在78歳の)Pashe Keqi 氏は、20歳のとき、父が(他家との)激しい反目の中で殺されたとき、男となることを決意した。彼女の四人の兄弟は、アルバニアを40年間支配することになるホッジャの共産主義体制に反対し、投獄されるか殺されてしまっていたのである。男になることが、母と4人の義理の姉妹、そして彼女らの5人の子供たちを生計を支えるための唯一の手段だったと彼女は言う。
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ま、ここまでは、そんなこともあるのだなあ、程度に思って読んでいたのですが。

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Being the man of the house also made her responsible for avenging her father's death, she said, including the Kanun's edict that spilled blood must be met with spilled blood. When her father's killer was released from prison five years ago, by then a man of 80, Keqi said she ordered her 15 year-old nephew to shoot him. Then the family of the man took revenge and killed her nephew.
"I always dreamed of avenging my father's death. My brothers tried to, but did not succeed. Of course, I have regrets my nephew was killed. But if you kill me, I have to kill you."

家父長になることは、殺された父の復讐の責任を負うことでもあった。流された血は血で贖わねばならない、それがKanunの命ずるところである。5年前、父を殺した男が80歳で刑務所から釈放されると、Keqi は15歳の甥に、その男を射殺するように命じた。すると、男の家族は彼女の甥を殺した。「私はいつも父の復讐を夢見ていた。私の兄弟も復讐を試みたが、成功しなかった。もちろん、私は甥が殺されたことを残念に思う。しかし、もしあなたが私を殺すなら、私はあなたを殺さなければならない」
-----------

うーむ。
Keqi 氏は現在78歳ですから1930年生まれで、1950年に父が殺され、sworn virgin となった訳ですね。
そして53年後の2003年、80歳で刑務所から出てきた父の殺害者を、15歳の甥に命じて殺させた。すると、甥も殺されてしまった、と。
数字の面で、若干の疑問がないわけではないですね。
27歳のときの殺人で53年間服役することがあるのか、それとも他の罪で出たり入ったりしていたのか。73歳のKeqi 氏に15歳の甥がいたのか。
Keqi 氏自身、明らかに殺人教唆なのに、つかまらないのか。
しかし、こう淡々と語られると、そういう社会が今でもあるのだなあ、未だに中世が続いているのだなあ、と納得するしかないですね。


>筆綾丸さん
網野氏の論文を読むと、西園寺家の支配が強固なものだったような印象を受けますが、実際はどうなんですかね。
多少、疑問も感じます。
コメント (2)
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『平安期の願文と仏教的世界観』

2008-06-24 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月24日(火)19時07分47秒

>筆綾丸さん
私は工藤美和子氏の『平安期の願文と仏教的世界観』を入手して読み始めているところです。
仏教の基礎的知識に乏しい私には難しい本ですが、工藤氏は非常に優秀な方ですね。
後で少し紹介してみます。
http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=9784784213931

>恋ー緒絶橋(上野)
少し気になったのですが、これは陸奥ではないですか。
以前話題になった「姉歯」の近くに「緒絶橋」という歌枕がありますね。

>hermit
ヤドカリに隠者の趣きを感じるんですかね。
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実朝つながり

2008-06-23 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月23日(月)00時03分31秒

>筆綾丸さん
>小督の琴に笛をあわせた人
そうですね。
http://www3.ocn.ne.jp/~mh23/heike75.htm

そして、仲国は実朝と一緒に殺されてしまった源仲章の兄弟でもありますね。
ウィキペディアによると源仲章は京と鎌倉の「二重スパイ」だそうで、愉快な見解ではありますが、賛成はしかねますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E7%AB%A0

ところで、実朝はかなり早い段階で障子歌を知っていたようです。
-------
 歌書テキストとして成立した本障子歌の影響を受けたであろう歌は、建保三年(一二一五)成立の『内裏名所百首』にしばしば見出すことができる。『内裏名所百首』は歌題構成をみても、本障子歌の名所題をほとんど吸収した上で部立を替えることが多く、本障子歌を強く意識していることは明らかで、当然といってよいだろう。それ以前の早い段階で、個人として、本障子歌テキストを享受した例に、次の二人が知られる。
 一人は源実朝である。定家所伝本『金槐和歌集』の詠歌の中に、本障子歌の影響を受けた歌が見られ、その中に障子歌撰外歌の影響も含まれるため、実朝は本障子歌の全容を知っていたであろうと推測されている(片野達郎、志村士郎、奥山陽子)。
(『最勝四天王院障子和歌全釈』p481)
--------

また、源仲章は定家とも直接接触していたとのことです。
--------
建保元年八月一三日条
  仲重朝臣以書状重借歌文書、関東事浮説歟、将軍好和歌、求如之文書、欲下向由密々語之、
 ここは『明月記』自筆本がない部分であるが、「仲重」は仲章の誤りであろうと推測されている(杉山次子、久保田淳)。仲章は源光遠男、最勝四天王院の造仏の奉行などを勤めた仲国の兄弟である。やはり、頻繁に京と鎌倉の間を往還し、鎌倉に多くの文書をもたらしたと推測されている(志村士郎)。ここでは、実朝の和歌への関心の高さをよく知る仲章が、定家の和歌文書の借用を申し込んでいる。
(『最勝四天王院障子和歌全釈』p482)
--------
上記記事は建保元年のものですが、実朝が『新古今和歌集』の成立後間もなく、その写本を入手した例から見ても、実朝は相当早い段階で、それこそ仲章あたりに催促して、障子歌の入手を急がせたのでしょうね。
ちなみに、もう一人、障子歌テキストを早期に入手したのは、定家の医僧の空体房鑁也だそうです。
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制作過程

2008-06-22 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月22日(日)00時38分19秒  

障子絵・障子歌の制作過程はずいぶん面白いものですね。
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『明月記』から知られる本障子歌の成立過程では、歌と絵はほぼ並行して制作されている。名所の撰定・配置の初めての衆議が行われたのが、承元元年四月二一日で、この時名所の「景気」と「時節」が詳しく定められて一巻に記された。詠進歌人一〇名が定められたのがそれから約半月後の五月五日。定家が詠歌を進上したのは六月十日で、六月七日の時点で十日以前に詠進せよとの院の仰せが下っている。有家も十日の詠進を目指していたことが知られるので、他の歌人もほぼ同じ頃に詠進したものと考えられる。四六首の名所歌の制作期間はほぼ一ヶ月ということになる。一方、絵師が集められて担当名所の割り当てや絵の構図の指示が下されたのが、五月一四日(光時一人は遅れて五月二二日)。その後、五月二〇日(康俊)、二四日(兼康)、二五日(尊智)、六月四日(光時、進上は五日)と四人の絵師から下絵が続々と定家の許に届けられ、「絵様」(下絵)は定家からすぐさま院に進上されている。六月二一日に光時の絵障子一間が院から返し下されたという記事が見え、六月二二日には次のように見える。
  仲国朝臣今日遣召絵師、参会御堂可会合之由、昨今相示、仍参向御堂、仲国・清範来会、重仰含退帰蓬戸、暫
  休憩、乗燭之程又参入、戌終許頗有催、関白殿乗燭以前参給云々、
定家は、絵師らと新御堂で会合するよう前もって指示されており、六月二二日になって仲国が新御堂に絵師を召し、定家もそこへ向かい、仲国・清範も参会している。仲国は新御堂の仏像を奉行する役を担い、清範は院と諸臣の連絡調整役に当たっている人物である。二一日の時点で、院により点検されてきた各絵師の下絵にすべて許可がおり、二二日には御堂において実際に障子絵が配置される場を、定家が中心となって絵師に指示し、確認する運びとなったのであろう。障子絵の完成は少なくともこの後である。いずれにせよ、歌人たちは完成した障子絵は見ず、一巻に書き記された名所の「景気」と「時節」に従って詠歌しているのである。ただし、本障子歌の場合、名所の撰定や配置、絵師への指示は、一方的に障子の注文主(後鳥羽院)が定めたものではなく、参加歌人の衆議によって定められており、常に衆議の場に加わっている定家をはじめ、有家・家隆・通具(四月以上二一日)、雅経・秀能(以上五月一四日)と障子歌詠進予定歌人の半数以上が衆議に名を連ねていることは、平安期の屏風歌の製作過程との明確な相違点と言えるだろう。
(『最勝四天王院障子和歌全釈』p439~440)
------------

この「仲国朝臣」というのは、妻に後白河法皇の霊託が下ったと騒ぎ立てて建永元年(1206)に解官された人物ですが、ちゃっかり復活している訳ですね。
また、通具の名前が出ていますが、通具は四月二一日の名所選定の衆議には加わったものの「何らかの事情により詠進しておらず」(p433)、通光に取って代わられてますね。

>筆綾丸さん
>なぜ46なのか
渡邉裕美子氏は、「歌書テキストの名所の配列はかなり現実の建造物の障子の配置に縛られているように思われる。そもそも、定数歌が主流のこの時代に五〇題ではなく、四六題という特殊な名所数になったのも、建物の構造に由来するのではあるまいか」(p446)と言われてますね。

>承久二年に、なぜ「幻想の王国」をぶっ壊したのか
こちらは特に言及はないですね。
なお、「関東調伏」説についてはかなり否定的な書き方をされてますね。
ま、当然だと思いますが。
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「幻想の王国」

2008-06-21 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月21日(土)01時08分0秒

>筆綾丸さん
実は私も、最終クリック前に固まったまま自己解凍できず、図書館でのコピーで済ませることにしました。
『最勝四天王院障子和歌全釈』の「解説」から少し紹介してみます。(418p)
------
 さて、そうして完成した御堂の内部には、晴儀性の強い堂舎中核部には春日野・吉野山などの名所中の名所が、私的な常御所には鳥羽・水無瀬など院の親しんだ離宮の地などが、御所から離れた人気のない場所には異郷性を残していた陸奥がというように、中心部から周縁部へというベクトルを持ちつつ地理的な連続性が考慮されて名所が配置された。ここにはさらに季節の連続性も加味されていて、堂舎はさながら帝王後鳥羽が中核にいてその時空を統率する幻想の王国だったのである。名所絵を鑑賞しながら歩く者の視線の動かし方を制御し、二次元の絵画に空間的な奥行きや時間の流れを与え、その幻想性を加速する役割を担ったのが、添えられた歌であった。周縁部「陸奥」への道程では『伊勢物語』の東下りが意識された名所の配置となっていて、その中にたたずむ者は歌と絵と物語が相乗して現出する世界に連れ去られた。
------
なかなか名文ですね。

>大黒屋さん
>大永年間
西暦だと1521~28年ですか。
恵範の時期ですね。
---------
水戸市の六地蔵寺に所蔵される二対四口の盥(たらい)は、直径四〇センチあまり、三足を設け、黒漆地に朱漆と一部透漆を塗布した、まさしく根来塗である。その底には「細工根来寺重宗 六蔵寺二対内 本願法印恵範」と記されている。願主の恵範(一四六二~一五三九)は六地蔵寺中興第三世の僧。根来寺において修学し、書写した多数の経典を六地蔵寺に持ち帰っており、おそらくはこの盥も帰国に際してあつらえたものであろう。作者がわかり、製作時期もほぼ推定できるこの盥の存在は、根来塗を考える上で極めて貴重であり、重要文化財に指定されている。
http://www.d3.dion.ne.jp/~kairyu/page047.html
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続・いとこ婚

2008-06-21 | その他
続・いとこ婚 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月21日(土)00時19分36秒

リンク先のBBCのニュース番組は、
---------
The risks of cousin marriage
Many people would find the idea of marrying a first cousin shocking, but such marriages are not unusual in some British communities.
---------
で始まっていますが、法的に禁止されていないイギリスにおいても、多くの人がいとこ婚を shocking と考えている訳ですね。
ふーむ。

http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/newsnight/4442010.stm

そして、次に、
---------
It is estimated that at least 55% of British Pakistanis are married to first cousins and the tradition is also common among some other South Asian communities and in some Middle Eastern countries.
---------
となっていますが、イギリス在住のパキスタン人の55%がいとこ婚だというのは、確かに shocking な数字です。
姻族が共通だと、
---------
"You have the same family history and when you talk about the old times either here or in Pakistan you know who you are talking about. It's just a nicer emotional feel."
---------
という長所があるそうですが、まあ、確かに一族の歴史的つながりを重視すると、こんな発想も自然なんでしょうね。
近親婚が何世代も続けば、当然、遺伝的な障害の問題も出てきて、BBCの番組ではその事例も紹介されてます。
ただ、1世代だけだったら、特に危険もないですからね。
アメリカでいとこ婚禁止が維持されている理由として、宗教的タブーでは合理化がむずかしいので、遺伝的な危険性が強調されているようですが、かなり無理があるようですね。

キリスト教的価値観から、いとこ婚禁止を支持する人たちにとっては、“Christ's parents- Joseph & Mary- were first cousins.”というのは相当 shocking なんでしょうね。
http://www.cousincouples.com/?page=religion
http://www.newadvent.org/cathen/07204b.htm

>Emmanuel Chanelさん
ひとつ問題が残っているので、それが片付いてからですね。
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藤原親子願文

2008-06-20 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月20日(金)00時59分52秒

吉原浩人氏の「王朝貴族の信仰生活─『江都督納言願文集』にみる女性の願い─」(『国文学 解釈と鑑賞』1992年12月号)に、次の一文がありますね。
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ところで、これまで縷説してきたのは、経説に見られる転女成仏を前提としたものであったが、驚くべきことに匡房は、女身のまま浄土に往生する可能性を論じているという。これは西口順子氏の指摘によるものであるが、巻五の藤原親子の善勝寺供養願文に、「浄土広懸望於阿弥尊、依被聴女身往生也」(一七九頁)と述べるのがそれである。ここで、「女身の往生を聴(ゆる)さるるに依りてなり」というのは、女性が男性に転ずる必要のないことを示しているのかもしれない。(中略)ただ、藤原親子願文の例は、単に女性の往生の可能性を論じているだけとも受け取れ、他の用例を検討の上、いずれ稿を改めて論じたい。
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藤原親子願文の全体を載せた方が理解しやすいでしょうが、ちょっと手間がかかってしまいますね。
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いとこ婚

2008-06-20 | その他
いとこ婚 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月20日(金)00時31分58秒

また英会話学校ネタですが、今日、アメリカ人講師が、「日本ではいとこ同士の結婚は禁止されていないのか?」と聞いてきたので、生徒全員、「禁止されてないですけど、それがどしたの?」的な冷たい反応をしました。
その上、隣り合わせで座っていた20代の女性二人が、自分の親戚はいとこ同士で結婚したと言ったので、講師は驚愕し、「子供はいるのか?」「いません」「なるほど。(それはよかった-推定-)」、てなやりとりが続きました。
講師は内心ではたぶん、「何たる野蛮人ども!」と思っていたはずですが、表面的にはそんな気持ちを隠しつつ、アメリカではかなり多くの州でいとこ婚が法的に禁止されていることを説明した上で、first cousin、 second cousin 、third cousin といった表現を教えてくれました。
いとこ婚が禁止されている文化があることは、それこそ文化人類学の初歩なのでしょうが、正直、私はアメリカでいとこ婚が禁止されていることを全く知らず、カリフォルニアのように同性婚すら認める州までありながら、変に潔癖なところがある国だなあ、それにしても自分で常識だと思っていることは他人には決してそうではないのだなあ、と改めて思いました。
気になったので、帰宅してから少し調べてみたら、ヨーロッパ諸国では別に禁止されておらず、アメリカだけ特殊なんじゃないの、という感じは残りますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%93%E5%A9%9A
http://en.wikipedia.org/wiki/Cousin_couple
http://www.cousincouples.com/?page=facts

実をいうと、わずか10人くらいの生徒の中で、親戚にいとこ同士で結婚した人がいると答えた人が2人もいたことが、私にとって一番の謎です。
戦前はともかく、今時、いとこ同士の結婚なんて、そんなに多くないように思いますけどね。

>筆綾丸さん
>『最勝四天王院障子和歌全釈』
風間書房は良い本をたくさん出している良心的な出版社だとは思いますが、値段は良心的ではないですね。
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『最勝四天王院障子和歌全釈』

2008-06-18 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月18日(水)23時02分29秒

渡邉裕美子氏の名前で検索したところ、同氏が昨年『最勝四天王院障子和歌全釈』を出されていると知ったので、購入しようかと思ったのですが、552ページで16800円というのは幾らなんでも高いですね。
アマゾンで注文確定をクリックする前に、一瞬、固まってしまいました。

http://www.kazamashobo.co.jp/cgi-bin/search/details.asp?Action=details&BookCode=56D372FC745F5B6E8AB0B18874B3D982

最勝四天王院も謎の寺で、鎌倉幕府の調伏を願って後鳥羽院が建立した、などと言われていますが、元久二年(1205)の時点で鎌倉調伏というのもずいぶん変な感じがします。

http://www51.tok2.com/home/ncnycy/geohome257-97-7.html
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mitobe-masao-gotoba.htm

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「四六駢儷体としての御願寺」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4577
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