続きです。(p53以下)
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廷〔さて〕も鎌倉殿に誰をか可奉成〔なしたてまつるべき〕と云ふに、都には冷泉宮・六条宮、此間にて可御座すといへば、京・田舎に御兄弟の御門にて双び給はん事、如何が有べからんとて留られぬ。其比、一条二位入道と申は、故右大将頼朝の妹聟、世の覚、時のきら、肩を双る人もなし。其御娘、巴の大将の御台所、(其)の御娘、九条禅定殿の北政所にて御座〔おはしま〕す。其御腹の三男の若君、二歳にならせ給ふ。是ぞ母方の源氏なればとて、所縁〔ゆか〕りの草の馴敷〔なつかし〕さにや、関東の将軍に備り給ふ。即〔すなはち〕鎌倉殿とぞ申ける。
去程に、関東より御迎に参〔まゐる〕輩、三浦太郎兵衛尉、同平九郎左衛門尉・大河津次郎・佐原次郎左衛門尉・同三郎左衛門尉・天野左衛門尉・子息大塚太郎・筑後太郎左衛門尉・結城七郎・長沼五郎・堺兵衛太郎・千葉介、以上十二人ぞ参りける。先陣、三浦太郎兵衛尉友村、後陣、千葉介胤綱とぞ聞し。忽に一の人の家を出て、武士の大将となり給ぞ珍敷〔めずらし〕き。
角〔かく〕て承久元年六月廿六日、都を立せ給ひて御下向あり。路次〔ろし〕の間、旅宿の有様珍敷、我劣らじとぞ色めきける。相模国国村に五日御逗留、七月十九日、鎌倉へ下著あり。又、近く御迎に参る輩、嶋津左衛門尉、伊藤左衛門尉、小笠原六郎、是等を始として十人の随兵也。時の花、何れの世に劣べし共見へ給はず。
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「一条二位入道」は一条能保(1147-97)で、その娘が「巴の大将」西園寺公経(1171-1244)と結婚し、二人の間に生まれた娘(倫子)が「九条禅定殿」九条道家(1193-1252)と結婚して、「三男の若君、二歳にならせ給ふ」頼経(幼名・三寅、1218-56)を産んだ、という関係ですね。
三寅の関東下向に随行した武士の交名は『吾妻鏡』七月十九日条に出ていて、これと流布本を比較すると若干の異同がありますが、細かい話になるので省略します。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma24a-07.htm
さて、続きです。(p54以下)
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其比、鎌倉に右京権大夫兼陸奥守平義時と云ふ人あり。上野介直方に五代の孫、北条遠江守時政が次男なり。権威重くして国中に被仰、政道正しうして、王位を軽しめ奉らず。雖然〔しかりといへども〕、不計〔はからざる〕に勅命に背き朝敵となる。其起〔おこり〕を尋れば、信濃国の住人、仁科二郎平盛遠と云ふ男あり。十四・十五の子ども、未〔いまだ〕元服もせさせず、宿願有に依て、熊野へ参りける。折節、一院、御熊野詣で有けるに、道にて参合ぬるに、「誰ぞ」と御尋有しかば、「然々〔しかじか〕」と申。「清気なる童なれば、召仕れん」とて、西面にぞ被成ける。子共が召るゝ間、面目の思をなして、盛遠もゝう参りけり。権大夫、此事伝承りて、「関東御恩の者、被免〔ゆるされ〕も無て、院中の奉公不心得」とて、関東御恩二箇所、没収〔もつしゆ〕せられぬ。盛遠、嘆き申間、院中に此事聞召〔きこしめ〕されて、盛遠が所領を返し被付べき由、院宣を被下〔くださる〕といへ共、権大夫更に不奉用。
又、摂津国長江・倉橋の両庄は、院中に近く被召仕ける白拍子亀菊に給りけるを、其庄の地頭、領家を勿緒〔こつしよ〕しければ、亀菊憤り、折々に付て、是〔これ〕奏しければ、両庄の地頭可改易由、被仰下ければ、権大夫申けるは、「地頭職の事は、上古は無りしを、故右大将、平家を追討の勧賞に、日本国の惣地頭に被補。平家追討六箇年が間、国々の地頭人等、或〔あるいは〕子を打せ、或親を被打、或郎従を損す。加様の勲功に随ひて分ち給ふ物を、させる罪過もなく、義時が計ひとして可改易様無〔なし〕」とて、是も不奉用。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d1d5f99d668d0f60dca6f9724b11de8e
北条義時は実朝暗殺場面で「前駆廿人」の十九番目に「右京権大夫義時」と名前だけ出て来て(p50)、次いで阿野時元誅殺を指示した「権大夫」(p53)として登場済ですが、きちんとした紹介はここが初めてです。
慈光寺本では義時の方が後鳥羽院に先行していますが、流布本では冒頭で後鳥羽院が登場し、それから義時の本格的登場までがずいぶん長いですね。
さて、慈光寺本では後鳥羽院と義時の対立の直接の原因として亀菊エピソードのみが挙げられていますが、流布本では亀菊エピソードの前に仁科盛遠エピソードが出て来て、この二つのエピソードの分量はほぼ同じです。
仁科盛遠は『朝日日本歴史人物事典』での本郷和人氏の解説によれば、
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生年:生没年不詳
鎌倉初期の武将。盛朝とする史料もある。父は信濃国住人仁科中方。後鳥羽上皇は熊野参詣の途次,盛遠の2児を召して北面においた。その縁で盛遠も院の北面武士となった。しかし院への臣従が鎌倉幕府に無断でなされたために,所領2カ所を没収された。この例でわかるように,後鳥羽上皇の熊野参詣には,地方武士との接触をはかる狙いがあったとおもわれる。承久の乱(1221)では京方につき,北陸道に派遣される。越中,加賀国境礪波山に布陣するが,北条朝時率いる幕府軍に敗れる。こののちの動静は不明であるが,近江国勢多で戦死したともいう。
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%81%E7%A7%91%E7%9B%9B%E9%81%A0-591687
という人物ですが、流布本等、『承久記』の記事以外にはたいした史料はなさそうです。
私も少しだけ調べてみたのですが、長野県の郷土史関係の事典や書籍類には多少の記述があるものの、結局は『承久記』の焼き直しみたいな記述が多いですね。
さて、慈光寺本と流布本での亀菊エピソードの比較は既に行っていますが、慈光寺本では義時は野心満々の極悪人として描かれているのに対し、流布本では「権威重くして国中に被仰、政道正しうして、王位を軽しめ奉らず。雖然、不計に勅命に背き朝敵となる」という立派な人物として描かれています。
また、慈光寺本での亀菊エピソードの分量は岩波新日本古典文学大系本で16行、約530字ほどですが、流布本では『新訂承久記』で8行、230字ほどで、流布本に比べると慈光寺本は本当に詳細ですね。
そして、慈光寺本では、長江荘は「右大将家ヨリ大夫殿【義時】ノ給テマシマス所」という設定なので、義時は「長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍頸ヲ被召トモ、努力叶候マジ」とのことで、自分自身が頼朝からの御恩として得た所領だから絶対拒否、という態度なのに対し、流布本では義時はあくまで頼朝が「勲功に随ひて分ち給ふ物を、させる罪過もなく、義時が計ひとして可改易様無」という幕府側の原理原則論を主張しているだけです。
即ち、慈光寺本では義時自身の私利私欲を主張しているのに、流布本では御家人一般の利益を代表して主張しているだけですね。
長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da
慈光寺本と流布本での亀菊エピソードの比較
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d1d5f99d668d0f60dca6f9724b11de8e
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