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小川剛生「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」(その4)

2020-01-30 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月30日(木)12時49分44秒

(その1)で「永和二年卯月十五日」が「擱筆の年記である可能性」を「論じた研究者は今まで誰かいたのでしょうか」と書いてしまいましたが、宮内三二郎氏の『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』によれば、石田吉貞氏が「増鏡作者論」(『国語と国文学』昭和28年9月)において「応永本の奥書にあつた『永和二年卯月十五日』といふ日附」は「良基と考へられる作者が増鏡を擱筆した時の日附ではなからうか」とされているようですね。(p715)
石田説は古すぎるような感じがして、私はあまり重視しておらず、記憶にもなかったのですが、念のため後で内容を確認しておきます。
さて、「ついのまうけの君」ですが、いきなり極めて細かい話になってしまって、非常に分かりにくいと思います。
問題の箇所を井上宗雄氏の『増鏡(下)全訳注』(講談社学術文庫、1983)で確認すると、

-------
 内には女御もいまださぶらひ給はぬに、西園寺の故内大臣殿の姫君、広義門院の御傍らに今御方とかや聞えてかしづかれ給ふを、参らせ奉り給へれば、これや后がね、と世人もまだきにめでたく思へれど、いかなるにか、御覚えいとあざやかならぬぞ口惜しき。三条前大納言公秀の女、三条とてさぶらはるる御腹にぞ、宮々あまたいでものし給ひぬる、つひのまうけの君にてこそおはしますめれ。

http://web.archive.org/web/20150907005517/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu16-hinosukena.htm

とあり、井上宗雄氏の現代語訳は、

-------
 光厳天皇には女御もまだいらっしゃらないので、西園寺の故大納言実衡公の姫君で、広義門院のおそばに、今御方とか申して、だいじに育てられている方を、(後宮として)さし上げられたので、この方が(ゆくゆく)お后になられる方かと、世人も早いうちから結構なことだと思っていたが、どういうわけか、御寵愛のあまりぱっとしないのが残念である。三条大納言公秀の娘三条といって仕えていられる方の御腹に、宮々がたくさんお生まれになったのだがその方が結局は皇太子になられるようである。
-------

となっています。
「三条前大納言公秀の女、三条」は後に女院号を得て陽禄門院(1311~52)と尊称された女性ですが、この人は北朝第三代の崇光天皇(興仁親王、1334~98)と北朝第四代の後光厳天皇(弥仁親王、1338~74)の母です。
「宮々あまたいでものし給ひぬる」とありますが、この女性が生んだ皇子は興仁親王と弥仁親王の二人だけで、他に皇女が一人いるようです。

崇光天皇(1334-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%85%89%E5%A4%A9%E7%9A%87
後光厳天皇(1338-74)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

ところで、後醍醐天皇が元弘の変に敗れた後、元弘元年(1331)に即位した光厳天皇の皇太子には、両統迭立を維持しようとする幕府の意向で木寺宮・康仁親王(後二条天皇孫、邦良親王男、1320-55)が立てられますが、元弘三年(1333)、後醍醐が隠岐から戻って来て光厳天皇の即位自体を否定すると、康仁親王の立太子も当然否定されます。
そして後醍醐は阿野廉子が生んだ恒良親王(1324-38)を皇太子としますが、建武の新政が短期間で崩壊した後、延元元年(建武三年、1336)、足利尊氏に擁立された光明天皇(北朝第二代、後伏見院皇子、光厳院弟、1322~80)が即位すると、両統迭立に固執する尊氏の意向で後醍醐皇子、恒良親王同母弟の成良親王(1326~44)が皇太子となります。
しかし、同年末に後醍醐が京都を脱出して吉野に籠もり、南北朝の分立が始まると、翌延元二年(1337)四月、北朝は成良親王の皇太子を廃します。
このように、天皇と共に皇太子も転変しますが、ちょっと意外なことに、康仁親王・恒良親王・成良親王はいずれも大覚寺統ですね。
以上が小川氏の言う「元弘・建武の動乱の間、三人の皇太子が立ち、それが激変する政情のなかで皆廃された事実」の概要です。
そして、暫くの空位期間を経て、暦応元年(1338)八月十三日、光厳院皇子の興仁親王が皇太子に立てられます。
この時、光厳院は自分の子の興仁親王ではなく、叔父である花園院の皇子、直仁親王(1335~98)の立太子を望んだのですが、その理由が小川氏の引用する「康永二年(一三四三)四月十三日、光厳上皇が長講堂に奉納した置文」に出ていて、実は直仁親王は光厳院が花園院の妃・宣光門院と密通して出来た子なのだそうです。
光厳院は興仁親王より直仁親王を鍾愛した、というか、おそらく愛人の宣光門院に良い顔をしたかったのでしょうが、周囲に止められて断念した訳ですね。
小川氏は「「ついのまうけの君」という字句は、作者が、光厳院の意が直仁にあることを知らなかった時期、あるいはそれが世間に公表されなかった時期に記されたことを意味するとも思われる。これだけではまだ微小な可能性にとどまるものの、『増鏡』の記述は、貞和年間以前とも考えられることを附言しておきたい」としていて、この宮中秘話にずいぶんこだわります。
しかし、1343年の光厳院が「子細朕並母儀女院之外、他人所不識矣」と記しているような事実を妙に重視するのはいかがなものかと思います。

直仁親王(1335-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
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小川剛生「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」(その3)

2020-01-29 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月29日(水)09時57分34秒

従来の通説が作者論と成立年代論を混同し、「<作者は良基>という先入観に支配され、それに依存しすぎたために、おもに良基の年齢から考えて、彼が本書を著わす可能性のあった時期は何時であったか、ということで本書の成立時期を見定めようとし」ていたという宮内三二郎氏の指摘を私は正しいと考えますし、また、かかる混同を排するため、「まず、作者の問題を棚上げして、もっぱら作品の内部に徴証を探って、成立(執筆)年時の推定をこころみることにする」という宮内氏の方法論も正しいと考えますが、小川氏の宮内説に対する言及の仕方はかなり屈折していますね。
『増鏡』が小西甚一・伊藤敬氏の言うように「現在時制で記された物語であるとすれば」、「作品の内部」の「徴証」を探るという宮内氏の「方法そのものが無効」であり、宮内氏が列挙する「徴証」の「殆どは証拠能力を失う」としながら、しかし、「それでも不思議なことに、あるいは不注意にというべきか、作者が執筆時点に於ける自らの経験や知識を反映させた記述も、やはり認められる」ので、「証拠能力に欠ける記述を除外していった結果」、なお残る「最も有力な徴証」二ヵ所、即ち「ついのまうけの君」と「いまの尊氏」については「再検討してみたい」のだそうです。
だったら、結局のところ、「作品の内部」の「徴証」を探るという宮内氏の「方法そのもの」は、限界はあるにしても決して「無効」ではなく、むしろそれなりに「有効」として肯定的に扱うべきではないかと思いますが、小川氏は自分が宮内説の影響を受けたことを否定、ないし目立たなくしたいようですね。
ま、それはともかく、第三節に進んで、「ついのまうけの君」に関する小川氏の説明を見たいと思います。(p2以下)

-------
     三 「ついのまうけの君」

 「くめのさら山」の末尾に、次のようにある。
  三条前大納言公秀女、三条とてさふらはるゝ御腹にそ、宮
  々あまたいてものし給ぬる、ついのまうけの君にてこそ
  おはしますめれ。
 即ち、作者は光厳院と、正親町三条秀子(のちの陽禄門院)との間に多くの子女が生まれ、そのうち一人が儲君となったことを知っている。従って、第一皇子の興仁親王(一三三四-九八、のちの崇光院)が暦応元年(一三三八)八月、春宮に立てられた時点が、作品成立の上限となる。この考えは和田英松によって提唱されて以来、承認されている。
 「まうけの君」(儲君)皇位継承者の意、ただし『源氏物語』桐壷巻の「まうけのきみ」にもよるのであろう。のちの朱雀院のことで、桐壷帝の皇太子であり、皇位もその子孫に継承されていく。『増鏡』で、それに「ついの」が冠せられたのは、元弘・建武の動乱の間、三人の皇太子が立ち、それが激変する政情のなかで皆廃された事実を踏まえていて(後述)、最終的な、という意味が込められているのであろう。従って若干精度は落ちるが、興仁親王が受禅した貞和四年(一三四八)十月より以前の筆致である可能性も認められるであろう。
 但し、興仁も厳密にいうと「ついのまうけの君」ではなかった。治天の君である光厳上皇は、興仁の立坊の時点で、花園法皇の皇子直仁親王(一三三五-九八、興仁より一歳若い)を持明院統の正嫡とすることを定めていたからである。
 康永二年(一三四三)四月十三日、光厳上皇が長講堂に奉納した置文には、以下のように記されている。
    定置 継体事
  興仁親王備儲弐之位先畢、必可受次第践祚之運、但不可有
  継嗣之儀<若生男子者、須必入釈家、善学修仏教、護持王法、以之謝朕之遺恩矣>、以直仁親王、所備将来継
  体也、子々孫々稟承、敢不可違失、件親王人皆謂為法皇々
  子、不然、元是朕之胤子矣、去建武二年五月未決胎内<宣光
  門院>之時、有春日大明神之告已降、偏依彼霊倦(ママ)所出生也、
  子細朕並母儀女院之外、他人所不識矣、
直仁は、光厳上皇が花園院の妃宣光門院との間に儲けた子であるという。表向きは花園の子となっているが、光厳はこれを鍾愛した。興仁立坊の時には「天の時を得ざるに依り」直仁のことは秘したが、既にこの時点で皇位に就けることを決め、興仁の子孫は行為を践んではならぬと定めているのである。同じ日、上皇は興仁親王に持明院統累代の所領因幡国衙領と法金剛院領などを譲ったが、それも一期分としてであり、興仁の後は直仁に譲ることを厳命した。しかも、光厳は暦応元年の時点で直仁を立坊させるつもりであったが、勧修寺経顕の諫言に従って興仁の立坊を沙汰したとも記しているのである。

       持明院統系図【略】

上皇の悲願は、崇光即位とともに直仁を立太子させたことで達成されるかに見えた。ところが正平一統のために廃位された直仁は、そのまま上皇とともに南朝に拉致され、賀名生に幽閉を余儀なくされた。その間、足利義詮は、皇位を践むことを予測していなかった光厳院第三皇子を急遽践祚(後光厳天皇)させた。直仁は延文二年(一三五七)二月、漸く光厳とともに帰京したが、もはやその出番はなく、遂に皇位に就くことなく終わった。しかし、光厳は直仁を継承者と思い定めていて、後光厳とは終生不和であった。なお、直仁出生の事情は、実際には何人かの廷臣が承知していたようである。
 「ついのまうけの君」という字句は、作者が、光厳院の意が直仁にあることを知らなかった時期、あるいはそれが世間に公表されなかった時期に記されたことを意味するとも思われる。これだけではまだ微小な可能性にとどまるものの、『増鏡』の記述は、貞和年間以前とも考えられることを附言しておきたい。
-------

「光厳上皇が長講堂に奉納した置文」は正確に再現できておらず、持明院統系図も省略したので、「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」の方を参照してください。

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00296083-20000900-0001

第三節はこれで全てです。
検討は次の投稿で行います。
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小川剛生「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」(その2)

2020-01-28 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月28日(火)11時57分30秒

2020年の小川氏は「この本の末尾には「永和二年卯月十五日」とある。転写を示すとする意見が大勢であるが、擱筆の年記である可能性も捨てきれない」と言われていますが、「擱筆の年記である可能性」を論じた研究者は今まで誰かいたのでしょうか。
「転写を示すとする意見」は「大勢」ではなく「いまの小川」氏以外の全員のような感じもしますが、ま、それはともかく、続きです。(p2)

-------
 通常(歴史)物語は過去時制を採るが、小西甚一氏の「物語である『増鏡』が現在時制〔テンス〕の語りかたになっている」という指摘を受け、伊藤敬氏が「増鏡中の「今」は、副詞の用法などを除くと、話題の人物・事件の現在時点を指示する」と述べられている。「このころ」「ちかころ」などの語も同様である。
 従って、宮内三二郎氏が『続後拾遺集』奏覧の記事の、
  兵衛督為定、故中納言のあとをうけてゑらひつる選集の事、
  正中二年十二月のころ、まつ四季を奏するよしきこえしの
  こり、この程世にひろまれる、いとおもしろし。(春の別れ)
より、この集が「世によろま」りはじめたのは、「嘉暦二~三年から元徳年間(一三二九~三一)へかけてのころ」であるから、そのことを「この程」と記した増鏡第十四の記事も、この嘉暦・元徳のころか、またはそれにごく近い時期に書かれたことになろう」との推測が誤りであったことは、氏自身後に気づかれて撤回された如くである。こうした徴証を、氏は他にも多く挙げられているのだが、殆どは証拠能力を失う。
 『増鏡』が、現在時制で記された物語であるとすれば、このような方法そのものが無効となるが、それでも不思議なことに、あるいは不注意にというべきか、作者が執筆時点に於ける自らの経験や知識を反映させた記述も、やはり認められるのである。証拠能力に欠ける記述を除外していった結果、最も有力な徴証が、「くめのさら山」における「ついのまうけの君」と、「月草の花」における「いまの尊氏」という、二つの表現である。そこで、これを再検討してみたいと思う。
-------

鹿児島大学教授だった宮内三二郎氏(1918~75)は、なかなか強烈な個性の人だったようですね。
宮内氏は東京帝大文学部国文学科に入学したものの、美学美術史学科へ転科し卒業したのだそうで、論文も美学と国文学の両方にわたっています。
宮内氏の没後まもなく関係者によって編まれたのが約八百ページの大著『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』(明治書院、1977)で、数多くの非常に鋭い着想と、『増鏡』の作者が兼好法師だ、といった奇妙な結論が混在する不思議な書物です。

『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』
http://web.archive.org/web/20150918011455/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miyauchi-shinken-jo-sonota.htm

小川氏は『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』を否定的に引用されていますが、『増鏡』の成立年代に関する宮内三二郎氏の次のような基本認識は現在でも重要と思われるので、少し引用しておきます。(p713以下)

-------
【前略】しかし、この通説には、一つの根本的な疑問がある。それは、承久の変に幕府討滅・王政復古を企てた後鳥羽上皇の治世の記事にはじまり、元弘の変に後鳥羽院の素志を承け継ぎ、これを実現した後醍醐天皇の、隠岐からの還幸と新政開始の記事で完結する増鏡が、なぜ、元弘から三〇年も経た時期、しかも建武の新政が約三年で破綻し、つづいて起った南北両統の分裂と抗争の動乱期を経て、ようやく北朝・足利幕府の支配権が確立した時期に、着想され、起筆されたのか、という点である。
 その点をしばらく措くとしても、私の見るところでは、通説の諸論拠(それは意外にもわずか三箇しか挙げられておらず、しかもそれらはいずれもきわめて不確実な、薄弱なものにすぎない)は、実はさらに一つの不確実な推測を前提としているようである。つまり、増鏡の作者は二条良基であろう、という古くから行われている推測を、暗黙の、または公然の前提とし、それにもとづいて良基の年齢(元応二年~嘉慶二年<一三二〇~八八>。元弘三年には一四歳、応安元年四六歳)を顧慮して、彼が増鏡を著わし得るほどの年齢になったころ、また彼が増鏡と種々の点で類縁性を持つ宮廷儀礼・行事関係の諸小著作を著わしはじめたころ、に目星をつけ、これを裏づける徴証を増鏡の記事の内外に物色して論拠としたのが、応安・永和期成立説であると思われる。【中略】
 以上みてきたように、応永末・永和初年成立説は、その論拠はいずれもきわめて薄弱であり、またいずれも二条良基作者説を確定的とみなし、これを前提として主張されているものである。そして、<作者は良基>という先入観に支配され、それに依存しすぎたために、おもに良基の年齢から考えて、彼が本書を著わす可能性のあった時期は何時であったか、ということで本書の成立時期を見定めようとし、また、そのために、別の時期に成立したことを示唆する徴証を黙殺して、わずか一、二の、しかも説得力に乏しい推測材料を見出したことで満足する、という結果となったようである。
 そこで私はまず、作者の問題を棚上げして、もっぱら作品の内部に徴証を探って、成立(執筆)年時の推定をこころみることにする。
-------
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小川剛生「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」(その1)

2020-01-28 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月28日(火)10時06分5秒

それでは「北朝廷臣としての『増鏡』の作者─成立年代・作者像の再検討─」(『三田国文』32号、2000)を少しずつ読んで行きます。
この論文は「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」で全文を読むことができますが、参照の便宜のため、こちらでも引用します。
全体の構成は、

-------
一 はじめに
二 成立年代考証のために
三 「ついのまうけの君」
四 「いまの尊氏」
五 元弘三年以後の事実の投影
六 昭慶門院御所をめぐる記述から
七 『増鏡』の作者像
八 両統迭立下における廷臣の立場
九 鎌倉後期体制の終焉
一〇 おわりに
-------

となっており、注を含め、全部で十七ページです。
二十年前の論文なので、後に学界への影響を全く残さずに消えて行った「新」学説への批判など、今となっては改めて検討する必要のない部分も若干ありますが、最初の方は丁寧に見て行きたいと思います。

-------
     一 はじめに」

 『増鏡』という作品の性格は、誠に捉え難いものがある。
 もちろん本書は長い研究史を有し、作者・成立年代・依拠史料・歴史観などについても、一通り説明され尽くしたかのように思われる。しかし、作者や成立年代といった基礎的な事柄も、それぞれに見解が示されているとはいえ、それが確乎たるものとはなお言い難い。
 『増鏡』が何を描きたかったのか、という議論もそうで、粗くまとめれば、次のような経過を辿ったと思う。後鳥羽・後醍醐らの朝権回復を讃美するとか、あるいは公家のアナクロニズムの所産といった皮相な評価にかわって、治天の君を中心に栄えた、王朝盛代を再現したかのような、宮廷文化の諸様相こそ力を込めて描かれているという見解が出された。一方で時流に翻弄されて浮沈を繰り返す人間の営みが構造的に把握されており、因果流転の相を示した、中世的な無常観に裏打ちされた作品との見方もされる。この「二家系対照」「明暗循環」という言葉によって、『増鏡』の取り上げた世界が相当に深く広いことが、漸く明らかになりつつある。
 それにしても、鎌倉時代の宮廷史の流れのうちから、こうした主題や構図を見出し、見事に首尾相応した物語として(しかもよく練られた文章で)まとめ上げた作者の力量には、正直驚きを禁じ得ない。しかも、元弘三年(一三三三)の最終記事より、遅くとも数十年の間に記述されたとされているので、かなりの部分が近現代史の性格を持つことにもなる。物語としてみれば、その完成度の高さには奇異の感さえ抱かされよう。
 しかし、いかなる作品も、その成立した時代精神と無関係ということはなかろう。『増鏡』が、鎌倉後期から南北朝期にかけて生存した、ある北朝の廷臣の手になるのは確かである(後述)。本稿は、『増鏡』の構造に対する研究の深化を受けた上で、作品の成立年代という、もっとも基礎的な問題を再度検討してみたい。もとよりそれもある幅の期間を推定するにとどまるが、成立年代をさらに特定することで、こうした記述をなし得た作者像の一斑を明らかにし、膠着状態にある作者問題を考える一助となると思うからである。なお、『増鏡』の本文の引用は、尊経閣文庫蔵後崇光院筆本を用いる(句読点、傍点は私意)。
-------

「二家系対照」「明暗循環」は、注1に出てくる島根大学教育学部教授・福田景道氏の用語ですね。
注1では「『増鏡』の世界─「皇位継承」の意義をめぐって」(日本文芸論叢2 昭和58・3)と「『増鏡』の基調─二家系対照と明暗循環の構図」(文芸研究128 平3・9)の二論文が参照されていますが、リンク先でも福田説の概要を知ることができます。

福田景道「『増鏡』と両統問題」 (『島根大学教育学部紀要 人文・社会科学編』第25巻、平成3年)
http://web.archive.org/web/20150918011104/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/fukuda-kagemichi-ryotomondai.htm
福田景道
https://www.edu.shimane-u.ac.jp/staff/staff81.html

続いて第二節に入ります。

-------
     二 成立年代考証のために

 『増鏡』の成立を直接示した文献はいまのところ求め難いので、作品の記事内容より、成立年代を割り出す試みがなされている。最終記事は、元弘三年六月であり、現存諸本のうち応永本系統の奥書に、永和二年(一三七六)四月の書写奥書が見える。従って、本書の成立は、最大その四十三年間にあることになる。これを出発点とし、その幅を少しでも縮めるべく、様々な推論が重ねられて来た。それは、作者が最終記事より後に起きた出来事についての知識を反映させたと思われる記述を本文より析出し、もってその部分の執筆時点を探ることであった。しかし、外部徴証が見当たらない以上、他に有用なやり方もないという消極的な理由もあるが、危うさと限界をはらむことを念頭におかなければならない。
-------

いったんここで切ります。
「応永本系統の奥書に、永和二年(一三七六)四月の書写奥書が見える」とあるので、2000年の小川氏はこの記述が転写を示すことを疑っていませんが、二十年後には「この本の末尾には「永和二年卯月十五日」とある。転写を示すとする意見が大勢であるが、擱筆の年記である可能性も捨てきれない」と変化した訳ですね。
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小川剛生「『増鏡』の問題」(その2)

2020-01-27 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月27日(月)11時23分4秒

1971年生まれの慶応大学教授・小川剛生氏は、『増鏡』に関する最初の本格的な論文「北朝廷臣としての『増鏡』の作者─成立年代・作者像の再検討─」(『三田国文』32号)を2000年に発表されていますが、この論文は本当に円熟した筆致で描かれていて、とても二十九歳の若手研究者が書いたとは思えない内容です。
そして小川氏は五年後に『二条良基研究』(笠間書院、2005)を出され、国文学のみならず歴史学研究者からも絶賛されましたが、同書の「終章」は『増鏡』の成立年代について前論文を踏襲した上で二条良基監修説を提示しています。
即ち、前論文を受けて『増鏡』の成立年代を従来の通説より相当前に置いた結果、直接の作者として1320年生まれの二条良基を想定することが困難となったため、小川氏は丹波忠守という人物を作者と推定した上で、「増鏡は良基の監修を受けたというような結論にもあるいは到達できるかもしれない」とされました。
私は丹波忠守程度の身分の者では『増鏡』作者に全く相応しくないと思うので、『二条良基研究』の「終章」は個人的にはあまり感心できませんでした。
そこで、当掲示板で若干批判しました。

「そこで考察しておきたいのは、やはり増鏡のことである。」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/49dbeba4c7774d1eb4f141136f759990
「二条良基が遅くとも二十五歳より以前に、このような大作を書いたことへの疑問」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4e837cb0f61b5b824a6eff499a04cc9f
「そもそも<作者>とは何であろうか」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/16665e8f7d97eaf7bdb417181c2f1cb2
「後醍醐という天子の暗黒面も知り尽くしてきた重臣たち」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5c7d07b297545c971292249247e7391
「増鏡を良基の<著作>とみなすことも、当然成立し得る考え方」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4f997bafafa8b1a1bb6d5bd12546fa69

今回、人物叢書『二条良基』において、小川氏は『増鏡』の成立年代についての自説を全面的に撤回し、大幅に後ろにずらして従来の通説に従うことにされたので、丹波忠守の必要性もなくなり、その名前は消えています。
しかし、従来の通説に復帰したことにより、小川氏は「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」で自身が批判された従来の通説の欠点を全て引き受けることになったばかりか、新たな問題点も抱え込むことになったように思われます。
というのは、『増鏡』の問題とは全く別個独立に、小川氏は「即位灌頂」という儀礼を創出して二条家の権威を高めた二条師忠という人物について詳しく研究され、その二条家にとっての重要性を解明されたのですが、実は二条師忠は『増鏡』の中で極めて滑稽な役回りを演じさせられています。
『増鏡』全体において摂関家の存在感は極めて稀薄なのですが、他家はともかく、二条家にとって特別な功績を持つ二条師忠すら、直接の子孫である二条良基が軽く扱うようなことがあり得るのか、私は疑問に思いますが、小川氏にはそのような問題意識はないようです。
さて、三段階を経て変遷した小川氏の『増鏡』の成立年代・作者論のうち、私には一番最初の「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」が最も優れているように思えるのですが、この論文については今まできちんと検討したことがありませんでした。
そこで、この論文に即して、『増鏡』の成立年代・作者論を改めて考えてみたいと思います。
なお、「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」は「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」で全文を読むことができます。

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00296083-20000900-0001

また、「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」で参照されている文献の多くは私の旧サイト「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女についてー」で読めるようにしていたのですが、同サイトは2016年に閉鎖されてしまいました。
しかし、私自身も知らない間に「INTERNET ARCHIVE」で保存されていたので、現在はこちらで読めます。

「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女についてー」
http://web.archive.org/web/20150830085744/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/
『増鏡』-従来の学説とその批判-
http://web.archive.org/web/20150831083929/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/jurai2.htm
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小川剛生「『増鏡』の問題」(その1)

2020-01-26 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月26日(日)11時31分46秒

なかなかニコライから抜け出せませんが、プロテスタントの視座から眺めた日本キリスト教史に些か食傷気味であった私にとって、正教会の歴史は本当に新鮮で、『宣教師ニコライの全日記』全九巻は汲めども尽きぬ泉のような存在です。
ただ、つい最近、小川剛生氏の吉川弘文館人物叢書『二条良基』が出て、『増鏡』についてかつての自説を改め、成立年代を後ろにずらして従来の通説に復帰した旨を書かれていたので、ちょっと脱線して、小川新説を少しだけ検討してみようと思います。

-------
南北朝時代の関白。当初後醍醐天皇に仕えながら北朝で長く執政し、位人臣を極める。南朝の侵攻、寺社の嗷訴、財政の窮乏等あまたの危機に立ち向かい、室町将軍と提携し公武関係の新局面を拓く。かたわら連歌や猿楽を熱愛し、『菟玖波集』を編み世阿弥を見出す。毀誉褒貶激しい複雑な内面に迫り、室町文化の祖型を作り上げた、活力溢れる生涯を描く。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b491656.html

対象を黒く塗ってから、その黒さを批判するのは私の好むところではありませんので、まず、小川新説の内容をそのまま紹介したいと思います。(p202以下)

-------
  四 『増鏡』の問題

 さて、永和二年は『増鏡』が成立したとされる年である。
 『増鏡』は後鳥羽院の生誕より始め、後醍醐天皇の討幕に終わる、鎌倉時代百五十年を公家の視点で描いた歴史物語で、「四鏡」の掉尾の作品である。作者は良基、成立時期は応安・永和年間(一三六八-七九)であるとの説があり(石田吉貞「増鏡作者論」、木藤才蔵「増鏡の作者」)、多くの賛同を得て、現在定説となっている。
 良基説の根拠には、良基が仮名文の執筆に当代最も長けたこと、その作品でしばしば高齢の老人が語り手になること、発想・語彙とも『源氏物語』への傾倒がはなはだしいことなどが挙げられている。とはいえ、これらは作者にふさわしいという徴証であり、断定はできない。良基の仮名文はいずれも短いもので、『増鏡』のごとき長編の書き手たり得るかの疑問もある。同じ仮名文といっても、文体の印象もかなり違う。ただ、これも否定説の決め手にはならず、作者問題の議論は膠着状態である。
 成立時期は、元弘三年(一三三三)を最終記事とし、後醍醐の治世の出来事が最も詳細で、かつ作者・読者が実際に経験したことを前提に語るので、観応年間(一三五〇-五二)以前とする見解がある。著者はかつて、暦応・康永年間(一三三八-四五)まで遡ると考え、良基では若年に過ぎるとしたが(小川「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」)、現在は考えが変わっている。『増鏡』は現在時制を取る物語で、たとえ記事に「今の」「近き」とあっても、あるいは迫真の描写であっても執筆の時点に近接するとはいえない。年代記としては正確ではあるが、描写は理想化の度が甚だしく、悪くいえば画一的で、創作の要素も色濃い。したがって、成立時期は最終記事よりかなり降ると考えるべきであろう。これは『大鏡』でも同じである。さらに『増鏡』諸本のうち、応永九年(一四〇二)に書写された奥書を持つ写本群には、第七巻北野の雪、後宇多院誕生の場面で、母后が「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」と願ったとして、その子孫つまり大覚寺統(南朝)の衰頽を暗示する一節があり、これは少なくとも応安以後の状況の反映であろう。
 そして、この本の末尾には「永和二年卯月十五日」とある。転写を示すとする意見が大勢であるが、擱筆の年記である可能性も捨てきれない。現に流布し始めるのはこの後である。すると成立をおよそ応安・永和年間と見るのはやはり蓋然性が高い。
 結論の出ないことであるが、これまで述べてきた良基の伝記の知見から、作者問題に改めて言及したい。
 良基が生涯、後鳥羽院と後醍醐天皇を敬慕していたことはもちろん、そこでは両者の「宮廷の主」としての優美な振る舞いを美化する傾向があった。「二条良基内奏状」では後鳥羽院の多芸多才に深く共感したり、後醍醐の追善を強く訴えたりしており、それが応安四年であったことが重視される。また、『増鏡』のみ見える、後醍醐が隠岐配流の途上で歌に詠んだ「三ヶ月の松」という珍しい地名が、応安七年の大原(野)千句でも詠まれ、良基が注文で「名所なり、秋に非ず」と指摘した事実も注目される(『連歌』島津忠夫著作集第二巻)。こうなると良基が『増鏡』の内容を熟知し、共鳴していたことは否定しがたい。ならば誰かに書かせてみずからの名で世に出したか、またはみずからが筆を執ったとするのが最も自然であろう。
 『増鏡』は中世のみならず、古典の散文作品のうち屈指の傑作である。老境の良基が連歌その他の厖大な業績に加え、もし『増鏡』を生み出していたとすれば、文学史上でも稀有の作家となる。ただ、それは生涯では比較的閑暇を得ながら順境とはいえない時期であったことになる。
-------

『増鏡』に関する記述はこれが全てです。
「三ヶ月の松」云々は今回初めて出てきた論点ですが、後は従来の論文・著書に出ている内容で、材料自体に新しいものは殆どなく、単に見方が変ったということのようですね。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その19)

2020-01-25 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月25日(土)20時04分14秒

副島種臣とニコライの宗教観はかけ離れているので、そもそも二人が何故に親しくしていたのかが不思議に感じられるほどですが、その事情は1905年1月、副島が亡くなったときのニコライの日記に出ています。
遥か昔、後に東京復活大聖堂が建てられる土地を正教会が利用できるよう便宜を図ってくれたのが、当時外務大臣だった副島だったそうです。(『宣教師ニコライの全日記 第8巻』、p157以下)

-------
一九〇五年一月二〇日(二月二日)、木曜。

 会計報告につける領収書の翻訳。【中略】
 一月一八日(三一日)、副島種臣伯爵逝去。わが良き知人で、一八七二~七三年には外務大臣だった。当時、宣教団が現在の地をたいした苦労もなく取得できるよう助けてくれた。わたしは副島にキリストの教えについていろいろ話した。かれも進んで聞き、喜んでわたしからの贈り物としてキリスト教の書物を受け取っていた。あるときなど救世主キリストのイコンをほしいと言うほどであった。その後わたしはそのイコンがかれの家の目立つところにかけてあるのを見たことがある。しかしながら、儒教を奉ずる者の自己充足的で、誇り高い魂には、キリストの教えは入らなかった。キリストの教えは、人間にたいし、まず第一に、謙遜と神の前に自己の罪を認める心を求めるものだ。だから、副島は霊的には眼が開かれないまま亡くなってしまった。一八七三年、副島は紫色の上質の絹の布地をわたしに贈ってくれた。清国に対する功績(清国人を乗せたチリの船の難破の件で)に対し、清朝政府から贈り物として受け取った布地の一部であった。いただく際、わたしはかれにこう言った。「この布地で、あなたに洗礼を施すとき、祭服をつくるつもりです」と。一昨年、副島が訪ねてきたとき、そのことを思い起こさせて、聞いてみた。「布地はそのときに備えてずっとしまってありますが、どうしたものですか」と。すると、伯爵は静かな微笑を浮かべて、「捨ててください」と答えた。しかし、私は捨てはしない、柩覆い布〔ポクロフ〕、そして宝座および奉献台に置いておく祭服を作るつもりだ。もしかして、無意識にしたこの贈り物によってかれの魂が安寧を得、キリストの光をいささかでも受けることができるかもしれない。かれはもちろん善良な気質の持ち主だった。しかし、この善なる金も、天の御父を知らない子の場合には、御父の前にもたらされることはなく、戸外に積まれていたのだ。天の御父はかれを非難されることもないし、誉めもなさらないだろう。なぜなら、この金が得られたのは天の御父を思う思いからでも、御父を敬う思いからでもなかったのだから。
 わたしは、副島伯爵の逝去にたいし、直接ご遺族に哀悼の意を表すこと、あるいは葬儀に出席することはできない。警察官を尻尾のように従えて行かねばならないのは不愉快だから。きょう、ご遺族に弔意を表すべく、わたしの名刺を持たせて宣教団書記のダヴィド藤沢〔次利〕を遣わした。
-------

日露戦争が継続中で、正教会に対する脅迫めいた事件も頻繁に起きていた時期ですから、ニコライは不測の事態を避け、警備側に負担をかけないために副島の葬儀には出席しなかった訳ですね。
ちなみに1904年3月15日の記事によれば、東京復活大聖堂は「昼も夜も三人あるいは四人の警官があらゆる方面から教団を護っていてくれるのだ。それに加えて憲兵が二人、警護のために教団内に住んでいる」という状態だったそうです。(第8巻、p36)
なお、当掲示板でも筆綾丸さんの投稿をきっかけに副島種臣について少し言及したことがありますが、それは副島の書家としての側面についてでした。
副島の書は極めて独創的で、書家としては殆ど天才と言ってよい水準にある思いますが、「儒教を奉ずる者の自己充足的で、誇り高い魂には、キリストの教えは入らなかった」にもかかわらず、副島がニコライに「救世主キリストのイコンをほしいと」言い、それを「かれの家の目立つところにかけて」いたのは、あるいは芸術的な観点からの行為なのかもしれません。

副島の血(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5327
副島種臣の後半生
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ba3c6090fd154b02bac6d8674f62e56
「副島種臣の借金問題について」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84c59163c3cf887eaff31e829c897388

なお、去年、日露戦争中の松山ロシア兵捕虜収容所を舞台にした『ソローキンの見た桜』という映画が公開されたそうですが、私は全然知りませんでした。

https://sorokin-movie.com/

ソローキンは『宣教師ニコライの全日記』にもほんの少しだけ登場しますが、あまり好意的な描かれ方ではないですね。
1904年7月31日の記事です。(第8巻、p103)

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【前略】松山にいる捕虜の一人、ミハイル・ドミートリチ・ソローキンという少尉から手紙がきた。英語を学びたいので本を送ってほしいという。すぐに、ロベルトソンの本を二冊、レイフの辞書、そして英語で書かれた世界史を送った。手紙に親切に助言も書いて、先生としてミス・パーミリーを教えてやった。しかしこの少尉の短い手紙のぞんざいな態度やものの考え方から、これが宗教心のない若者だということがわかり、悲しい気持ちになる。
-------

ソローキンについてはこれだけですが、その後、ニコライの悲痛な心情が縷々語られます。

-------
 日本人はわれわれを打ち負かしている。あらゆる国の人びとがわれわれを嫌っている。主なる神はわれわれに怒りを注いでおられるようだ。それもむべなるかなだ。われわれには、愛され褒められる理由はない。
 わが国の貴族は何世紀にもわたって農奴制に甘やかされ、骨の髄まで堕落してしまった。一般民衆はその農奴制に何世紀にもわたって圧しひしがれ、手のつけようのない無知蒙昧で粗野な者になってしまった。軍人階級と官吏は、賄賂と公金横領で暮らしてきた。いまやかれらは上から下まで一人残らず良心のかけらもなく公金着服の風習に染まってしまい、機会さえあればところ嫌わず盗みに精を出している。上層階級はさまざまな狼の集まりであって、ある者はフランスを、ある者はイギリスを、ある者はドイツを、そしてその他もろもろの外国を崇拝してそのまねをしている。聖職者階級は貧困にさいなまれ、教理問答集だけはやっと手放さないでいるという有り様だ。そういう聖職者がキリスト教の理想を広め、それによって自分や他人を啓蒙していくことなど、できるわけがない。
-------

まだまだ続きますが、この辺で止めておきます。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その18)

2020-01-24 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月24日(金)11時34分13秒

それでは1889年1月14日の記事を見てみます。(『宣教師ニコライの全日記 第2巻』、p240以下)

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一八八九年一月二日(一四日)、月曜。

 副島伯が新年の挨拶に来た。「議会(来年開催予定の)では、おそらく、日本にとっての信仰の問題が取り上げられるのでしょうね」というわたしの問いに答えて曰く。「そうはならないでしょう。なんとなれば、信仰に政府は関与しないのです。信仰は個人の意思に委ねられることになるでしょう」。「しかし、天皇はどんな信仰を持つことになるのですか」。「これはかれの個人的な問題です」。─「しかし、信仰は国家の見地から見てたいへん重要ですし、政府も信仰に対して無関心でいるわけにはいかないでしょう。日本は今、自分の信仰を模索する時期ですよ。ただ政府だけがどんな信仰が真の信仰であるかを調査し決める権限をもっているのです。個々の人間にとってこれを決めるのは難しいことです。手段も十分ではありません。個人は真理を見つけても、これを国家に伝える権威を持っていません。もし政府がこの問題で国民を助けることがないならば、ここにはあらゆる宗派が入り込んできて、日本を分断してバラバラにしてしまうでしょう」などなど。こうしたことをかれに説明したのは初めてではないが、きょうはわがヴラヂミル聖公〔九八八年にロシアが正教を国教と定めた時のキエフの大公〕がいかに真の信仰を探し出したか、話して聞かせた。政府に対するキリスト教諸派の対応のしかたの違いについても話した。ここにカトリックが入ってきたら、日本の天皇は教皇の僕〔しもべ〕(奴隷)になってしまうことだろう。もしプロテスタントが入ってくれば、信仰は政府に奉仕することになるだろう。さもなければ、今のアメリカ(「自由な国家における自由信仰」を標榜している)やフランスのように、政府によって殲滅されてしまうだろう。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
ニコライの日記を読んでいると、その思考の明晰さ、実務処理能力の高さ、更には悪口雑言罵詈讒謗の面白さから、ついついニコライを現代人のように錯覚してしまいますが、宗教と国家の関係について「ただ政府だけがどんな信仰が真の信仰であるかを調査し決める権限をもっているのです」などと論ずるこのあたりの記述を見ると、発想の根本が全く異質な人であることに改めて驚かされます。
ただ、それは日本国憲法下の現代日本人にとって常識的な国家と宗教の関係が、漠然とアメリカ・フランスの「政教分離」観をモデルにしているからであって、現代でもドイツなどは「政教分離」にほど遠い状態ですね。
そして、帝政ロシアは国家と宗教が密着し、国家が宗教を監督し、財政的にも丸抱えする宗教国家であって、ニコライにとっては当然これが日本にとっても望ましい国家と宗教のモデルです。
さて、副島の反応をもう少し見ておきます。

-------
伯はこうしたことをみな聞いていたが、ただときおり「わたしは自分で信仰をこしらえますよ」などという、愚にもつかない反論で話の腰を折るのであった。あるいはどうやら、聞いていても耳に入らず、自分の考えに耽っているといった様子であった。というのは、この人はいい年をして、どんな宗教的信念の影響もいささかなりとも受けていないのである。かれを見ていると、日本がかわいそうになる。日本の最良の人々のうちの一人が、どうやら民衆の精神を代表し表現する人と見なされかねない。はたして(外国人が皆、日本人について評しているように)この国民は本気で宗教というものに期待するところがないのか、本性からして無関心あるいは無信心なのだろうか。
 いま東京で伝道活動をしているアメリカ渡来のユニテリアン派のナップ〔一八八七年来日、福沢諭吉の支援を受けて伝道した〕がどうやらかれのお気に入りらしいが、そのナップは、驚くほどに多数の聴衆と上流階級にも信奉者を持っているということだ。もしかりにほとんどゼロに等しい宗教信仰のひき割り麦の粒を、かれ〔副島〕がその精神の胃袋によって消化しおおせるとしても、真の信仰を渇望するほどに成長するには、まだ長い時間がかかることだろう。
-------

1月14日の記事はこれで終りです。
1月2日の記事では、副島は「わたし自身のことは別にして、─と彼は答えた─他の人たちの言うところによれば、プロテスタントです。官吏はみなそういっています。政府高官の娘たちの多くがプロテスタントを受け入れています」などと言っていますが、これは客観的分析に止まらず、別にそうなってもかまわない、なるようなればよいのだ、といったニュアンスを感じさせます。
そして、1月14日の記事では、政府が個人の信仰に関与しないのはもちろん、天皇の信仰ですら「かれの個人的な問題」だと言う訳ですから、副島のサバサバした個人主義的宗教観は本当に徹底していますね。
副島自身は「いい年をして、どんな宗教的信念の影響もいささかなりとも受けていない」無神論者であり、「本気で宗教というものに期待するところが」なく、「本性からして無関心あるいは無信心」な人だと思いますが、副島のような宗教観を持った人は明治政府の高官に相当多かったのではないかと思います。
「政府高官の娘たちの多くがプロテスタントを受け入れて」いて、それを親の政府高官たちが許容していたのは、宗教など極めて軽いもので、個人の趣味みたいなものだから、各自が好きなようにやればいいのだ、といった認識を前提にしていますね。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その17)

2020-01-24 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月24日(金)10時29分38秒

続きです。(p235)

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 プロテスタンチズムが日本人には「一番都合がいい」のではないかという予想は、ニコライの日記にくりかえし現われる。
 「日本人はきわめて皮相的で、浮気で、真剣ではない。その意味ではプロテスタントがかれらに合っている。……きょう、副島〔種臣。ニコライの友人だった〕に、<日本にはどの信仰が入ると、あなたは見ているか>と尋ねた。かれは<自分のことは別として、他の連中はプロテスタントだろうと言っている。役人たちはみなそう言っている。身分の高い人々の娘がたくさんプロテスタントになった。教師たちが実に大勢来ておるからな>と言った。副島のことばによれば、ユニタリアンも日本へどんどん入りこんでくるだろうという」(一八八九年一月二日)
 「何百人もの外国人宣教師が日本のあらゆる町に、津々浦々に広がっている。外国人だらけだ。かれらはいたるところで文明と実利性と上昇志向の魅力をふりまいている」(一八八九年八月一六日)
 ここに、正教布教の困難と苦しさがあった。ニコライは宗教を伝えたかったのに、日本人は文明と上昇志向の魅力に惹かれていた。
-------

副島種臣の発言は些か奇矯な感じもするので、『宣教師ニコライの全日記 第2巻』を確認したところ、次のような内容です。(p237)

-------
一八八八年一二月二一日(一八八九年一月二日)、水曜

 上野の例のお気に入りの二つの並木道を散歩しながら決心した。今度は大聖堂の周りに塀をめぐらそう。神学校の校舎のほうはしばらく待とう。なぜならば、古くはなったがまだ手狭というわけではないからだ。【中略】
 神は日本にどのような運命を定めておいでなのだろう。正教の日本であろうか。それとも他会派の日本であろうか。それを誰が知ろう。日本は物質的で卑小だ。外見には飛びつくが、外見をとれば、数百人の宣教師や男女の教師がいて、文明のあらゆる魅力を備えた他会派のほうに分がある。正教にできることはただ、自分たちの内面的な力、内面的な説得力、内面的な強固さを確信させることだけだ。深く究明し、体験してみて初めて信心を起こそうというのだから。こんな教えに耳を貸そうという者がいるだろうか。これが問題だ。日本人というのはほんとうに皮相的でせっかちで軽薄だ。その意味ではプロテスタントが連中には似合っている。だが、果たして神を前にして、かれらには、プロテスタントと呼ばれるこの腐臭を発しつつある死体を抱かされている程度の取り柄しかないのだろうか。この死体はプロテスタントの昨今の印刷物(Japan Mail─この軽蔑すべき召使ら)のなかでなんという悪臭を放っていることだろう。いったいまだ何人の人々が、bishop Williams〔聖公会の監督ウィリアムズ〕や Bickeit〔Bickersteth?〕等々と言った連中に騙されなければならないのか。そして騙された当の連中が、今度は別の連中を騙し、愚かにしているのだ。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
ニコライは「上野の例のお気に入りの二つの並木道」がよほど好きだったようで、日記に頻繁に登場します。
1月2日の次に記されている1月10日の記事では「朝上野の、わたしの話し相手であるわたしの並木道を散歩」といった具合に、並木道を擬人化しているほどです。
ま、それはともかく、「プロテスタントと呼ばれるこの腐臭を発しつつある死体」といった表現はあまりに強烈で、ちょっとびっくりしますね。
そして、この後に副島種臣が登場します。

-------
わたしはきょう副島に訊いてみた。「あなたのお考えでは、どんな信仰が日本に合っていますか」。「わたし自身のことは別にして、─と彼は答えた─他の人たちの言うところによれば、プロテスタントです。官吏はみなそういっています。政府高官の娘たちの多くがプロテスタントを受け入れています。教師もたくさんいます」。いやはや、なんということだ。そんな理屈があるものか。「官吏」と「娘たち」によって日本がプロテスタントの国になると決められるなんて。もし、こうした連中が決めるというなら、日本などもはや哀れむにも値しない。副島の言によれば、ユニテリアニズムがきわめて強く浸透しているのだそうだ。(このことはきのう長沢がユニテリアンの徳川公爵のところでの晩餐会の話をした時にも言っていた。)と言うのもアメリカ人教師ナートと四〇人の客人がいたからだ。長沢の話だと、ナートのところにはもう上流階級の中から四〇人もの改宗者がいる。徳川はもうユニテリアニズムを受け入れ、洗礼名も「イマヌイル」というのだそうだ。(やがては心霊術も浸透することだろう。副島はヨーロッパでベネトとかいう人物のところで、この信仰とそのからくりに蒙を啓かれた津田某のことを話してくれた。)不幸な日本、一日も早く正教を選ばねば。悪魔の弟子たちがみなで寄ってたかってその肉体に食い入り、その体液を吸い取り、毒で汚染してしまうだろう。……主よ、この国に哀れみを。この苦い杯からこの国を救いたまえ。もし、この国がこの苦い杯を首尾よく免れたなら、この国をしてなによりもまず、あなたの唯一の救済的真理の光によって、毒と闇から癒したまえ。至純なるあなたの母とあなたのすべての聖人の祈りによって、この国の上に平安を賜らんことを。
-------

副島種臣は1828年生まれなので、1836年生まれのニコライより八歳年上、1889年1月時点では61歳ですね。
1887年に宮中顧問官、翌1888年に枢密顧問官になっています。
副島は1月14日の記事にも登場するので、そちらも見てから少し検討したいと思います。
なお、ユニテリアンになったという「徳川公爵」は德川家達のことです。

德川家達(1863~1940)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%81%94
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その16)

2020-01-22 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月22日(水)12時04分36秒

続きです。(p231)

-------
 ニコライは沢辺や酒井についても「かれらは頭がよく、日本的意味合いにおいて教育もあり、きわめて道徳的で」あると言っている。もちろんニコライは日本人の入信の動機を詮議しているのではない。ニコライはとにかく正教を宣教し信徒を獲得したいのであって、何に動かされたのであれ正教徒になった日本人はニコライにとって実りでありわが羊群であった。ただ、おそらくかれは、自分に近づいてきた「頭のいい」沢辺たちの動機の根が宗教的な寄りすがりではないことは感じとっていただろう。
 沢辺も仙台藩士たちも、新しい日本の支配体制のバスに乗ることはできなかったが、その形成に参加しようとする意欲に燃える国士たちであった。仙台藩士たちが正教へ向かうきっかけを作った金成善右衛門は後に自由民権運動に強く共鳴していった。かれらは、ニコライのもたらした「ハリストス教」を新しい時代へ漕ぎ出す新しい船と見て、日本社会に新たな益をもたらし自分たちも雄飛できるはずの「事業」と想像して、それに近づいたのであろう。
-------

「酒井」は沢辺琢磨が函館で親しくしていた医師、酒井篤礼のことで、沢辺・酒井と浦野大蔵の三人が、まだキリスト教が禁止されていた1868年5月にニコライから最初の洗礼を受けます。

酒井篤礼(1835-82)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E7%AF%A4%E7%A4%BC
金成ハリストス正教会(栗原市公式サイト内)
https://www.kuriharacity.jp/w038/010/010/010/100/668.html

武士階級出身で、この種の「国士」的信念を持ち、身分制秩序の解体後も農業や商工業その他の職業に転ずることのできなかった人々の一定割合がキリスト教に流れ込んで初期の指導層を形成した、という事情はプロテスタントも全く同様ですね。
信者の社会的階層が広がってくると、もちろん「国士」タイプではない人も増えますが、それでもプロテスタントとの「互換性」は継続します。
そしてニコライは、次第に正教会がプロテスタント的な方向に変質するのではないかと心配するようになります。(p234以下)

-------
 そうであるからニコライには、自分は、いわば合わないものを無理に合わせようとしているという感覚があった。自分の「本当のキリスト教」は日本には適さないのではないか、特に欧米の新しい知識を求める日本の知識人は「本当の宗教」になじまないのではないか、かれらはプロテスタンチズムへ向かうのではないかという予感を持っていた。
 「ひょっとすると日本は実際に本当のキリスト教にふさわしくないのかもしれないという考えが、ますます頻繁に頭に浮かんでくるようになった。日本人は、とりわけその上層は、もっぱら西欧の文明を追っている。信仰については、かれらは考える様子も、配慮する様子も見えない。……〔文明化のためには〕日本人にはプロテスタントが一番都合がいいのだ。なんといっても、プロテスタントの宣教師たちは教育の高い国々の人々であり、日本人はそれらの国々にぺこぺこ頭を下げている。
 しかし、そんなことはみんな、本当のキリスト教からなんと遠いことか! <霊的目的><永遠の救い>、これらは日本のリーダーたちの考えからなんと遠いことか!」(一八八五年一月二三日)。
-------

この後、ニコライが親しく付き合っていた副島種臣のエピソードが引用されますが、『宣教師ニコライの全日記 第2巻』で当該箇所を確認したところ、非常に興味深い内容だったので、次の投稿で併せて紹介します。
ま、副島も年をとって、ちょっとボケてしまったのかな、と思わせるような部分もあるのですが。

副島種臣(1828-1905)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%AF%E5%B3%B6%E7%A8%AE%E8%87%A3
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その15)

2020-01-21 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月21日(火)10時29分5秒

1904年7月17日の「公会」ではニコライが正教会の統計資料を読み上げているので、参考までにその記述を引用しておきます。(『宣教師ニコライの全日記 第8巻』、p98以下)

-------
一九〇四年七月五日(一八日)、月曜。

 八時から十字架教会において公会。全部で二〇名の司祭とわたしが参加した。他の司祭たちはさまざまな理由で公会に来ることはできなかった。
「景況表(統計資料)」はすでに司祭たちによって「内会」で検討されていたので、わたしはすぐに全体の統計だけを読み上げた。一年間の受洗者数の総計七二〇名、死者二八九名、よって現在の信徒に加わる増加分は四三一名。ということは現在の日本の信徒総数は二万八三九七名。これまでの教役者数は一八〇名であった。いまこれに、神学校卒業者四名、伝教学校卒業者一〇名が加わった。したがって現在の総数は一九四名。これだけでも神に感謝だ!【後略】
-------

1895年の三国干渉でロシアに対する国民の悪感情が顕在化して以降、日露戦争に至るまで、正教会にはなかなか厳しい状況が続いていたはずですが、開戦後も信徒が微増しているのはちょっと驚きです。
正教会の信徒数はこのあたりがピークだったようですね。
さて、『宣教師ニコライと明治日本』に戻って、(その10)で引用した部分の続きです。(p229以下)

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c3a8825dc5b6cf2045a68834182ad52a

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 内村鑑三はニコライ師は「新教の宣教師の如く文明を利用することなく、赤裸々に最も露骨に基督を伝えた」と言ったが、たしかに、ニコライがもたらしたキリスト教は、西洋文明に寄りかかっていない宗教だった。ニコライの場合は、内村の流れの、明治以降の日本の「中産知識層」の個人的倫理主義としてのキリスト教とも異質な、生々しい宗教だった。奇蹟を約束し、歴史の終わりを告げ、あの世での死者との再会を約束し、イコンに接吻して聖歌に歓喜しかつ涙する宗教であった。
-------

これは一応もっともな説明ですが、ロシア正教を受容した側からすれば、やはり多くの人が正教も「西洋文明に寄りかかって」いるものと考えたのではないかと思います。
キリスト教を受容した人は、カトリック・プロテスタント、そして正教を全部合計したとしても、日本の全人口比から見れば圧倒的に少数派で、基本的には「西洋文明」への好奇心に満ち溢れた人々ですね。
そして、複数の選択肢の中から自分の必要とする宗派を選択した人よりは、たまたま最初に出会った宗派のキリスト教に入信した人が多く、また、正教からプロテスタントへ、といったキリスト教内部での移動もかなりあります。
もちろん、中村氏も正教に近づいた人と他の宗派のキリスト教に近づいた人との類似性には気づかれていて、次のように続けます。

-------
明治の日本人とキリスト教

 ドストエフスキーも言うように、プロテスタンチズムは宗教でありながら宗教的感性を非合理として批判する諸刃の剣であって、宗教として本質的な矛盾をはらんでいるのかもしれない。しかし、この「本当のキリスト教」であるロシア正教は、ニコライによって日本にもたらされて仙台藩士たちに伝えられた当初から、日本という地盤のゆえの布教上の困難と矛盾をかかえることになった。文明開化へ向かおう、必死に近代化の波に乗ろうとしている日本へ、豊かな前近代性をたたえた「本当の」宗教がやってきたのである。受け入れた日本人たちもいわばこの矛盾の創造に加担した。初期の正教徒となった仙台の人たちの入信の動機は、沢辺において見られたものと重なっている。
 「国家の事に当らんと欲せば、文明の知識なからざるべからずを以て、外国人と交り、其学問を修め、これによりて一事業を挙げ、名をなさざるべからず。……仙台藩の志士は一度函館に於ける宣教師の事を聞き、又人心の統一は真性の宗教に依らざるべからずとの沢辺の論を聴くや、彼らの理想は忽ちに此一事に向かつて進みたり」(『日本正教伝道誌』)
 函館での暗中模索の学習に見られるように、仙台藩士たちの正教受容の仕方は沢辺を先達とする半ば自力の教義学習であって、プロテスタントの、多数の外国人宣教師による宣教とは大分違っていた。西洋文明を宣教に利用する点でもニコライは最初から不利な立場にあった。
 しかし、そうではあったが、ニコライに近づいて「福音伝道の前駆」となったかれら仙台の士族の根にあった動機は、プロテスタントに向かった日本人のそれと基本的に同じであったと考えられる。それは儀礼や神秘に惹かれる宗教的感性ではなく、あるいは苦しむ者が救われようとして綱にすがる依頼の願望でもなく、「国家の事」「人心の統一」を思う武士の志であり、「一事業を挙げ、名をなさざるべからず」という実践的な向上の精神であった。
-------

いったん、ここで切ります。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その14)

2020-01-20 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月20日(月)22時37分51秒

1904年7月13日の記事の続きです。(『宣教師ニコライの全日記 第8巻』、p95以下)

-------
 実際、もし最初の「建議書」が沢辺両神父の入れ知恵で出されたのであれば、その衰退した精神と無力には、絶望しそうになる。教会の運営、その運営の基礎となっている教会の典範について、二人の神父は学んでいないのか。そして得られるかぎりの知識を与えられていないのか。しかも、日本の高度の文明開化という流砂の上ではなに一つしっかりと立ってはいられない。すべては崩れて塵となる! 教会運営がたちまちのうちにプロテスタンティズムにすべってゆきはしないかという懸念を感じないで日本教会の運営をまかせられるような、そういう人材がいつになったら育ってくるのだろうか。わたしの後継者は、日本人のこの精神的能力不足をしっかりと頭に入れて、忍耐強くかれらを教育すべきである。しかし、おそらくわたしの後継者も、日本教会がしっかりと自分の足で立つようになるまで、まだ数世代かかるだろう。
-------

パウェル沢辺琢磨(1834-1913)は幕末にニコライが最初に洗礼を施した最古参の信者で、アレキセイ沢辺はその息子です。

『ニコライの見た幕末日本』(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b88ed129f95780d03279dd85ffddcdf2

沢辺父子が背後にいそうな麹町教会の不穏な動きに関連して、三日後の7月16日には次のような記述があります。(p97)

-------
一九〇四年七月三日(一六日)、土曜。

 統計的報告書、請願、手紙、提案等々、公会に宛てて送られてきたものや集められたものについて、司祭たちは事前の打ち合わせ会を続けている。もう四日目である。きっとたくさん知恵が溜まったことでしょう。拝見いたしましょう。どうぞ、神さま、司祭たちが考えてことがすべて賢いことでありますように! ほんとうに賢い共同立案者がいてほしいと心から思う!
 麹町教会の信徒マトフェイ丹羽がやってきた。丹羽は長年伝教者として働いてきたが、妻と別れたことから教会の勤めもやめさせられてしまった。なんとも鼻もちならぬ性格である。あきらかにかれは、公会で提出された教会運営改変案の起草者の一人だ。
 遠まわしに、やや媚びた調子で話を切り出し、だんだん核心に近づいてきた。
「日本中の人がわれわれの教会をニコライの教会と呼んでおりますが、これはよいことじゃありません」
 わたしもそう思う、と言った。
「これは、あなたが他の者たちは加わらせないで一人で教会を取り仕切っておられるせいです」
「それは違う。教会の運営には常に司祭たちが加わっている。わたしは、いかなる教区においてもその教区を管轄している司祭とあらかじめ相談しないでは、なに一つ決めたことはない。そして重大な事柄はすべての教役者の加わった場で決定されている。そのためにわれわれは公会を開いている」
「しかし、司祭たちばかりでなく平信徒も加わった常設の会議が設けられるべきです」
「平信徒は、必要な場合には教会運営の仕事に加わることが認められている。たとえば、聖務執行者の選出に加わっている。さらにわれわれの公会において伝教者たちの任地の割り振りにも、また教会の資産の管理にも、必要なかぎりにおいて加わっている。あなたはそのことを知っているではないか……」
「日本は以前は天皇による統治がなされていました。しかし天皇は権限を国民に譲られた。われわれの教会でも同じようにする必要があります」
「教会の運営は不変の教会典範に基づいて行われている。われわれはそれから外れることは許されていない。もしそれを踏みはずせば、われわれは全世界正教会に属する者ではなくなってしまう」
「しかしですな……」とマトフェイは、堂々めぐりしながらもしゃべるわしゃべるわ。しばらく黙って聞いてやってから、司祭たちの集まりがあるから、そこで考えを述べるようにと言って立ち去らせた。
-------

マトフェイ丹羽の「日本は以前は天皇による統治がなされていました」以下の発言は面白いですね。
マトフェイ丹羽にとっては明治憲法の制定により「天皇は権限を国民に譲られた」ことは自明の歴史的事実なのでしょうが、明治憲法が「外見的立憲制」に過ぎないという、現在では些か賞味期限切れの感がある「戦後歴史学」の認識とはズレており、これ自体が興味深い発想です。
ま、それはともかく、マトフェイ丹羽は、現在の日本正教会ではニコライが統治権を掌握した「天皇」だが、帝国憲法の制定により天皇が権限を国民に譲ったように、「われわれの教会」でもニコライはその権限を信徒に譲るべきだ、と主張します。
世俗の動向をそのまま教会に反映させようとするこのような主張が「不変の教会典範」に基づく教会運営を行なってきたニコライに受け入れられるはずもありませんが、ニコライがこうした批判を頭から撥ね付けるのではなく、一応、マトフェイ丹羽にしゃべりたいだけしゃべらせ、司祭たちの集まりの場でも話すように仕向けているのはちょっと不思議ですね。
言いたいことは言わせてガスを抜く、というのがニコライの一貫した組織運営のコツなのか、それとも日露戦争が日本に有利に展開されている状況の下で「うぬぼれで頭がおかしくなっている」信徒をあまり刺激したくないという、この時期特有の事情の反映なのか。
さて、「内会」の準備の後、7月18・19日に「公会」が開かれますが、それが無事終了した翌20日の茶話会において、ニコライは、「わたしのあとにはロシアから主教を招くようにせよ。また全体に日本教会は独立した教会になることを急いではならない。さもないと体質をゆがめることになり、プロテスタントの一派のようなものになりかねない」云々という話をします。
ここまでの経緯を見ると、この話は決してニコライが唐突に持ち出したのではなく、「公会」の準備段階から多くの司祭が問題の所在を認識しており、沢辺父子などはともかくとして、おそらく司祭たちも多くはニコライの方針を受け入れていたのでしょうね。
そもそも経済的に「独立」しておらず、戦争中であっても運営資金を敵国ロシアに依存しているような状態で「独立した教会」を目指すなどというのはあまりに無理が多い話です。
ニコライの後継者にロシアから主教を招かなかったら、その時点でロシアからの資金援助がなくなり、教会組織は崩壊することになりますね。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その13)

2020-01-20 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月20日(月)11時21分57秒

(その10)で引用した、

-------
 ニコライが、日本人伝教者こそ教会の柱だと認めていながら、自分の後の日本正教会の教育を日本人にゆだねたくなかった理由はそこにあった。かれは、公会に集まった教役者たちに「正しい伝統」が築かれるまでは百年はロシアから主教を招くようにと教えた。日本人に任せておいたならば「プロテスタントの教会と同じようになってしまう」と予感していたのである(一九〇四年七月二〇日)。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c3a8825dc5b6cf2045a68834182ad52a

という部分ですが、『宣教師ニコライの全日記 第8巻』を見ると、これは日露戦争中の記事ですね。(p99以下)

-------
一九〇四年七月七日(二〇日)、水曜。

 朝から午後四時まで、松山の捕虜たちに送る本のリストを作った。すべて予備としてあった本である。返却不要ということで、今回、一四〇点の書籍と一〇〇〇冊のパンフレットを送った。書籍のうちの多くは複数部数である。たとえば新約聖書七冊、ロシア語の福音経二五冊、等々。全部で三五三冊。すべての書籍とパンフレットは、宗教道徳あるいは教理関係の内容のものである。例外として、数冊の文法、数学などの教科書がある。
 それらを、セルギイ鈴木神父とニコライ・イワーノヴィチ・メルチャンスキー〔ハルチャンスキーと同一人物か?〕大佐宛に送った。セルギイ神父には手紙を添えた。メルチャンスキー大佐には、セルギイ神父を助けて、本を将校たちと兵隊たちに分配してもらいたいと頼んだ。
-------

松山はロシア兵捕虜収容所が最初に設けられた土地ですね。
リンク先の論文にはロシア兵捕虜に対する正教会の活動が詳しく出ています。

平岩貴比古「日露戦争期・国内収容所におけるロシア兵捕虜への識字教育問題」
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia13-4.html

さて、この後に主教後継者に関するニコライの発言が出てきます。

-------
 四時から、司祭全員、神学大学を卒業した神学校教師たち、そして翻訳局員たちと茶話会。かれらがわたしを招いてくれたのである。この機会を利用して、かれらに次のような話をした。すなわち、わたしのあとにはロシアから主教を招くようにせよ。また全体に日本教会は独立した教会になることを急いではならない。さもないと体質をゆがめることになり、プロテスタントの一派のようなものになりかねない。日本教会は一〇〇年以上は宗務院の監督下に留まり、ロシアから主教を迎えて、それらの主教たちの厳格な指導に従順に無条件に従わなければならない。そうしてこそ日本教会は成長して、「使徒以来の唯一の共同体なる教会」の一本の枝になってゆくのだ、と話した。
-------

ずいぶん傲岸で硬直的な考えのように見えるかもしれませんが、ニコライがこうした話をする必要を感じた背景としては、教会運営をめぐる内部の不満の存在があります。
この記事の一週間前、7月13日には、

-------
 きょうは「内会」である。司祭たちは公会前の事前の打ち合わせをしている。そのために「景況表」、公会に宛てた手紙と請願書、その他さまざまな提案(建議書や議案)を持っていった。提案はかなりたくさん集まっている。ありとあらゆることが提案されている!
 パウェル沢辺とアレキセイ沢辺が管轄する麹町教会の信徒たちから「教会運営の仕方を改善し、今日〔こんにち〕の文明開化された日本の状況に合ったものにすべきである」という要求書がだされた。これが両沢辺神父のすすめによって書かれたものであるなら、ご立派な指導者ですなと言ってやりたい。とりわけ最長老のお方〔パウェル沢辺琢磨〕は問題だ。
 柏崎から、教役者の教育のための機関を設けるべきだ、なぜなら現在の教役者は全員教養が足りず、今日の日本人の教育のたかさにぜんぜん応えていないからだ、という要求がなされた(あきらかに、いまの日本軍のロシア軍に対するうち続く勝利と、日本および外国の新聞にあふれるロシア人に対するどぎつい罵倒のために、日本人はうぬぼれで頭がおかしくなっているのだ)。
 パウェル新妻から次のような要求が出ている。
 一、日本教会の独立。
 二、宗務院と諸総主教に「勝利」ではなく「和解」を祈るよう提案する。なぜなら、ロシア人も日本人も勝利を与えたまえと祈ったら、主神はどちらの祈りを聴いたらよいのか。
 三、公会は日本人兵士の自殺を食い止める手段を講ぜよ。
 四、司祭たちの公会に輔祭の出席も認めよ。
 モイセイ葛西〔原衛。福島方面の伝教者〕が、宗務院は一〇〇年間日本教会を支える約束をせよという要請を出してきた。その間に、現在信徒一人がひと月一銭出している寄付が何百万円にもなるから、そうなれば日本教会は自らの力で自らを支えられるようになる、という。
 ニコライ高木〔久吉。米子、松江の伝教者。作曲家高木東六の父〕は、「教役者たちは筆紙に尽くし難い貧困のなかにある。ゆえにその妻と娘が産婆、付添看護婦、教師などになることを許可せよ」という要請を出してきた。
 ほかにもこの類の提案や要請が出ている。そのほとんどすべてはくだらないたわごとだ。しかし遠慮なく提案し論議するがよい。だめなものは実現しない。こうした「建議書」の意義は、それらが診断と警告になるということだ。現在出ているたくさんの「建議書」からわかるのは、日本教会は、物質的に無力だからもあるが、それ以上に内的状態がまだ「ドクリツ」(自立)からは遠いということだ。
-------

とありますが(p95)、日本の正教会は経済的に自立できていないどころか、現に戦争している敵国から運営資金を得ているという奇妙な存在です。
それにもかかわらず、日露戦争が自国優位に進展している状況の下で「うぬぼれで頭がおかしくなってる」信徒も多数いて、日本教会の「独立」を要求するパウェル新妻もその一人のようです。
「宗務院は一〇〇年間日本教会を支える約束をせよという要請を出してきた」というモイセイ葛西も同様ですね。
それに比べると高木東六の父、ニコライ高木の要請は伝教者の自立を促すものと思われるので、ニコライがこれについても否定的な書き方をしている理由がよく分かりません。
ウィキペディアを見ると高木東六は1904年7月7日生まれだそうですから、ニコライがこの記事を記した僅か六日前に誕生したのですね。

高木東六(1904-2006)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%9D%B1%E5%85%AD
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鈴木範久『日本キリスト教史─年表で読む』

2020-01-18 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月18日(土)13時30分49秒

前々回の投稿で書いたように、ニコライが「イエス・キリストの神性を信じない人々は、たとえば、海老名や植村たちのようにたいていは組合派に属している」と書いている点は誤解、というかニコライの無関心の反映ですね。
海老名弾正(1856-1937)や植村正久(1858-1925)が日本のプロテスタント界でどれだけ大物だとしても、ニコライ(1836-1912)にとってみれば、つい最近本格的にキリスト教の導入を始めたばかりの国の、自分より20歳以上年下の若輩者に過ぎません。
ただ、両者の思想の違いは、明治日本の思想動向を見る上ではそれなりに重要なので、ウィキペディアへのリンクでお茶を濁すのではなく、日本キリスト教史の中での位置づけを確認しておきたいと思います。
そこで、立教大学名誉教授・鈴木範久氏の『日本キリスト教史─年表で読む』(教文館、2017)から少し引用します。(p174以下)

-------
  3 海老名・植村論争(一九〇一年)

 日本組合基督教会に属する海老名弾正と日本基督教会に属する植村正久との間に、一九〇一(明治三四)年から翌年にかけて交わされたキリストの神性をめぐる論争がある。前述の「自由キリスト教と新神学」を受け継いだ性格の論争ともいえる。
 論争の発端は、海老名がキリストを「神」とする植村の所論に疑問を唱えたことから始まる。両者の応答は、事実上海老名の主宰する雑誌『新人』と、植村が中心的存在の新聞『福音新報』を通じてなされた。
 海老名は植村らの奉じる「三位一体」の思想を時代的産物とみなし、キリストと「神」との間にある「宗教的意識」としての「父子有親」を強調、そこではキリストは「神にしては人、人に対しては神」とみた。だが、あくまでキリストは「神」ではないとした。したがって、海老名においては、三位一体を唱える植村らの思想のもつ罪と贖罪の考えもなく、したがってキリストを救済者とみる思想もない。
 両者のおもだった応答は次のとおり。

 植村正久「福音同盟会と大挙伝道」『福音新報』三二四号、一九〇一年九月一一日
 海老名弾正「福音新報記者に与ふるの書」『新人』二巻三号、同年一〇月一日
 植村正久「海老名弾正君に答ふ」『福音新報』三二八号、同年一〇月九日
 海老名弾正「植村君の答書を読む」『新人』二巻四号、同年一一月一日
 植村正久「挑戦者の退却」『福音新報』三三二号、同年一一月六日
 海老名弾正「再び福音新報記者に与ふ」『新人』二巻五号、同年一二月一日
 植村正久「海老名弾正氏の説を読む」『福音新報』三三七号、同年一二月一一日
 (これらの論争を集めたものとして福永文之助編『基督論集』(警醒社書店、一九〇二)がある)

 このあと海老名が「三位一体の教義と予が宗教的意識」を『新人』二巻六号(一九〇二年一月一日)に発表後、論争は植村はもとより、三並良、小崎弘道、アルブレヒト(George E.Albrecht)、高木壬太郎も意見を発表、日本のキリスト教界の神学論争として稀有なほどの関心を集めた。
 また、右の海老名のキリスト観「神にしては人、人に対しては神」は、ユニテリアンたちのキリストをあくまで「神」ではなく人とみる思想との違いがわかりがたい。これに対し海老名は『基督教本義』(日高有隣堂、一九〇三)を著し、今少しわかりやすい説明を与えている。同書によるとキリストは「人類以上としての超絶ではない、人類其のものとしての超絶である」とみている。この言葉の限りでは、植村らのいう「神」ではない。
 さらにキリスト教の本義を、「正義公道の霊、博愛慈善の霊」とみて、その霊の完全な発露がキリストの「宗教意識」であり、そのキリストの「宗教意識」と一体化して生きることとする。ここにはキリスト教の儒教的、陽明学的理解がみられ、海老名の門より少なからぬ社会事業家の生じる一因となる。
-------

ま、長々と引用しましたが、私には海老名理論とユニテリアンの違いがきちんと理解できません。
ただ、これだけプロテスタントの本流と異質な考え方をする人が教会を離脱しないばかりか、後に同志社の総長にまでなることは、ちょっと不思議な感じがします。
この点、鈴木範久氏は次のように「自由キリスト教と新神学」の時代からの変化で説明されます。

-------
 植村・海老名の論争は、これまで日本のキリスト教界では見過ごされてきた「神学と信仰との関係」が関心を高める役割を果たした。それのみでなく、先の「自由キリスト教と新神学」の時代においては、「新神学」は金森通倫および横井時雄らが教職を去るほどの衝撃を与えたのに反し、今回の一方の中心人物である海老名は、教会内にとどまり同志社総長にも迎えられる。このことは、聖書の歴史的研究の浸透をもあらわすものとみてよい。
-------

ということで、信仰の深化と肯定的にとらえるのが多くのキリスト教史研究者の見方なのでしょうね。
ただ、こういう理屈っぽい話について行けない古くからの信者も相当いたように思われます。
かつて見られたようなプロテスタント信者の爆発的増大がなくなる原因のひとつとして、こうした理論的な争いの複雑・先鋭化を挙げてもよいのかもしれません。
なお、三並良・金森通倫・横井時雄については、以前、深井英五を検討した際に少し言及したことがあります。

「教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dba8684a32224ba07f9d5669214ebcee
「宗教を信ぜずと言明する人の中に却て宗教家らしい人がある」(by 三並良)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/caa939de572224d0778a282b372bfddf
「マルクスの著作の訓詁」の謎、回答編
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34b1e7e6eca291c2adcbfaf5fcb38167
『日本に於ける自由基督教と其先駆者』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b7538250dc17e008116840e7344e915
金森通倫の「不穏な精神」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3714454a5575dd567a9c5144dab52b65
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その12)

2020-01-18 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月18日(土)10時17分11秒

次いで、前々回の投稿で引用した「正教青年会の会長ワシリー山田が「数名の大学教授も招いて、経済学、民族誌学〔エトノグラフィヤ〕などの講義をしてもらおう」と提案した。その提案を聞いてニコライは怒る」という記述ですが、中村氏はこれを1902年3月13日の記事としています。
しかし、『宣教師ニコライの全日記 第7巻』を見ると、関連する記事は二ヵ所に分かれていて、ニコライが怒ったのは同年5月11日ですね。
まず、3月13日に、

-------
一九〇二年二月二八日(三月一三日)。大斎第一週の木曜。

【中略】東京の「青年会」会長兼記者のワシリイ山田〔蔵太郎〕が計画書を持ってやって来た。それによると、「公会のため本会に集まる伝教者たちのために夏のセミナーを開催する。かれらの学術的、宗教的知識を一新する必要があるからである。神学校の指導者たち、たとえば瀬沼は道徳神学、パンテレイモン佐藤は教会史、編集長のペトル石川はキリスト教哲学の講義をすることを約束してくれた。それ以外の人々とはまだ話をしていないが、講義に備えることを断るものはまずあるまい。セミナーは公会後一週間行なう。そこにとどまる伝教者はおそらく少ないであろうが、かれらを一週間にわたりできるだけ安く生活させるために、神学校に住まわせることになる」。しばらく考えたのち、わたしは同意することにした。おもな問題点は出費である。このために三〇〇円は余分にかかるだろう。利益はもちろん少ないだろう。第一に、講師たちはそれを準備するために本職を怠ることになろう。第二に、聴講者は凡庸で、なにも記憶にとどめることはできまい。だがそこには、よい種ならば捨てられない、もしくは、いくらかでも頭を新鮮にし、浄めてくれるような、よい気晴らし、それになにかの息吹がある。【後略】
-------

とあります。(p92)
ニコライはもともとワシリイ山田の企画にそれほど乗り気ではなかったものの、この種の提案が自発的に出された点を高く評価して、まあ、一つの試みとしてやらせてみるか、みたいな感じで賛成したようですね。
そして、問題の記述が5月11日に出てきます。(p109以下)

-------
一九〇二年四月二八日(五月一一日)。携香女の主日。

【中略】イオアン・アキーモヴィチ瀬沼の言葉によれば、公会に集まる予定の伝教者のために青年会会長ワシリイ山田が企画している夏の講習会について、「すでに講義の準備を約束してくれた四人の博士候補と神学校の教授陣以外に、山田は経済学、民俗学などのテーマで講義をしてくれる大学〔東京帝国大学〕の教授も何人か招こうと企画しており、かれらへの謝礼として伝教者から一円五〇銭ずつ徴収しようとしている」という。くだらん。ワシリイ山田を呼びだして、浮かれることのないように、馬鹿な考えを起こさないように厳しく叱責した。しかもこれが、そうでなくとも金に苦しんでいる伝教者に負担を強いるとなればなおさらである。うちの教授陣に話させればよい。そうすれば、楽しみ以外にも、なんらかの利益をもたらしてくれるだろう。かれらの講義の内容は宗教についてであろうから、伝教者も居眠りせずに聞いていれば、自分にとってなにか新しい、必要な情報を得ることができようし、忘れていたことをおさらいすることもできよう。ところが、経済かなにかの話では、三〇分聞いたところで、馬の耳に念仏で、なんの役にも立たないし、今後それを生かすこともできない。しかもその話に一円五〇銭支払わねばならないとなれば、笑止千万である。しかも自分や人類全体を猿の子孫と考えているような無神論者に自分の汚らわしい思想を語ってもらうために呼ぶというのか。馬鹿馬鹿しい、こんなことは思いもよらないことだ。伝教者のなかで政治やあらゆる最新の夢物語について知りたいと思う者は、一円五〇銭でそのたぐいの本を買い込めば、そこから、三〇分の講義で得られるよりも五〇倍も多くを知ることができるだろう。
-------

うーむ。
第7巻の訳者は半谷史郎・清水俊之氏ですが、これと、

-------
「何と恥かしいことだ! ワシリー山田を呼びつけて気球で空中を旅するようなことをするな、ばかなことを計画するなときびしくしかった。……神学校の教師たちの講義は宗教に関するものだろうから、伝教者たちは、まじめに聴けば、何か新しいことや必要なことを学び、前に習ったが忘れたことを復習することにもなるだろう。しかし経済学その他について、益もなく後で活用することもできないおしゃべりを半時間聴いてどうなる。自分自身をも全人類をも猿の子孫だと思っているような無神論者たちを招いて、くだらないでっちあげをしゃべってもらうなんて! そんなことをするなんぞ、考えるのもごめんだ!」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c3a8825dc5b6cf2045a68834182ad52a

という『宣教師ニコライと明治日本』の中村訳を比較すると、「浮かれることのないように」が「気球で空中を旅するようなことをするな」となっているなど、中村訳は全体的にかなり強烈な表現になっていますね。
もちろん私には翻訳の適否を判断する能力はありませんが、ニコライは3月13日の時点で「おもな問題点は出費である。このために三〇〇円は余分にかかるだろう」と懸念しており、5月11日の記事でも、ワシリイ山田が宗教とは関係のない話をする大学教授への「謝礼として伝教者から一円五〇銭ずつ徴収しようとしている」点を一番問題視しているように見えます。
新知識を学びたい者は勝手に学べばよいが、貧しい伝教者から1円50銭も徴収するのはダメだ、そんなことは許さない、というのがニコライの基本的な立場であって、様々な悪口はいつものニコライの習慣のように見えます。
この割と軽めの記事からニコライの「反啓蒙」性を強調するのは少し大げさなようにも感じます。
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