学問空間

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再開に向けての備忘録(その14)

2022-10-29 | 唯善と後深草院二条

「昭慶門院二条」を除く「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の参加者五人のうち、冷泉為相と二条為道は早歌の作者です。
即ち、「冷泉武衛」為相は「龍田河恋」(宴曲集巻第三)と「和歌」(究百集、ただし「自或所被出 冷泉武衛作云々」)の作詞者であり、「冷泉羽林」二条為道は「名取河恋」(宴曲抄中)と「暁別」(同)の作詞者であって、二人は『撰要目録』序に「涼しき泉の二の流れには、龍田河名取河に、恋の逢瀬をたどり」という具合いに、明空によって意識的に並置されています。

『とはずがたり』の政治的意味(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/125260a220b20ba675c6445c91c2d24c
『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その16)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e5c90a1330ae403536f208158c6019b3

また、飛鳥井雅有自身は早歌の作者ではありませんが、雅有の甥で、雅有の養子となって飛鳥井家を継いだ「二条羽林」飛鳥井雅孝(1281-1353)は「蹴鞠」(拾菓集下)の作詞者です。

外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/616d3fa969cc0656ebeb09fdc147cc12

宇都宮景綱(蓮瑜)も早歌の作者ではありませんが、「宇都宮叢祠霊瑞」(拾菓集上)という曲は、宇都宮氏の当主が最高位の神官を務める宇都宮社を讃えた長大な曲です。
この曲に関して、乾克己氏は「やゝ大胆な推測になるが、あるいは明空と宇都宮氏との間には何等かの接触があり、宇都宮氏の要請によってこのような曲が作詞されたのではないかと思われる」(『宴曲の研究』、桜楓社、1972、p348)とされ、外村展子氏も「景綱の要請により作成した「宇都宮叢祠霊瑞」を、後に、寺社物の流行にあわせて、明空が収録した可能性もあると思われるのである」(『沙弥蓮瑜集全釈』、p71)とされていて、景綱も早歌の世界と全く無縁であったとは思われません。
また、前回投稿で述べたように、慶融は早歌の作詞・作曲者である「素月」と、間接的ではあるものの何等かの関係が窺われる人です。
そして、仮に「昭慶門院二条」が後深草院二条であって、後深草院二条が「白拍子三条」であるならば、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の参加者六人のうち、実に半数が早歌の作者で、宇都宮景綱と慶融も早歌の世界と多少関わっているようです。

 

※参考までに「宇都宮叢祠霊瑞」も載せておきます。(外村久江・外村南都子校注『早歌全詞集』、三弥井書店、1992、p192以下)
早歌の「寺社物」は他に「熊野参詣」(宴曲抄上)、「善光寺修業」(同)、「三島詣」(宴曲抄中)等、結構な数がありますが、それぞれ当該寺社に関わる由来・地名・名所などを細かく鏤めていて、精巧な細工物の趣があります。
こうした作品の大半は明空作ですが、明空個人が各地の寺社を崇敬し、その宗教的感懐を披露したというよりは、寺社側からの要請を受けて注文生産しているような感じですね。
もちろん、その際には相応の謝礼が必要でしょうが、「宇都宮叢祠霊瑞」クラスの長大な作品となると、宇都宮氏が極めて多額の謝礼を提供したように感じます。

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   108 宇都宮叢祠霊瑞〔うつのみやそうしのれいずい〕

南無再拝三所和光 南無再拝三所和光 仰〔あふい〕で神恩の高〔たかき〕を貴〔たつと〕み 伏〔ふし〕て結縁のふかく 悦しき事を思へば 国に神の名を受〔うけ〕 叢祠を崇神に崇〔あがめ〕しより 光を和〔やはらぐ〕る玉垣は いづれもとりどりなりといへども 当社明神は 内証の月円〔まとか〕に 明徳一天にくもりなく 外用〔げゆう〕の雨あまねく 万人の祈願にそそかしむ 遠く其旧記〔きうき〕をとぶらへば 代は称徳の徳にほこり 時は慶雲の雲おさまりし御宇かとよ 筑波根〔つくばね〕のそがひにみゆる二荒〔ふたあら〕の 山より山によぢのぼる 勝〔すぐれ〕たる道の聖跡 感見の補陀落の湖水をうかべ 慈愍〔じみん〕のふかき余〔あまり〕に 陰陽を玉体にあらはし 済度の船に棹指て 流〔ながれ〕を此砌〔このみぎり〕にたたへしかば げに御手洗のみづかきの 久〔ひさし〕き御影をすましむ 北に望〔のぞめ〕ば即 霊岳亀に備て 蓬莱洞に異ならず 所々の奇瑞は 旧苔旧木跡を埋〔うづ〕み 隠〔かくし〕て納〔をさめ〕し法〔のり〕の箱も ひそかに徳をや開〔ひらく〕らむ 千顆万顆の玉をみがく この社壇とぼそををしひらけば 六八〔はつ〕の誓約鎮〔とこしなへ〕に 因位の悲願に答るのみかは 千手千眼のたぶさには 様々の標示三摩耶形〔さまやぎやう〕 馬頭一男〔いつなん〕の御子としては 慈悲の忿怒濃〔こまやか〕に 誓は余聖に猶すぐれ 踵〔くびす〕をめぐらす貴賤の はこぶ歩〔あゆみ〕の数々に 其こころざしをみそなはす <あの>くもりなき世を照す日の 光もおなじく影をたれ 明星天子の由ありて 星をつらぬる御垣に たがひに主伴〔しゆはん〕のへだてなく 覚母〔かくも〕はさとりの花開け 内薫の匂〔にほひ〕芳しく 般若の室をやかざるらん 内の高尾神と祝〔いはは〕れ 能化〔のうけ〕の薩埵は 忉利〔たうり〕の附属をあやまたず <此>六の巷の外にいで 外〔と〕の高尾神と名にしほふ 阿遮〔あしや〕の利剣〔りけん〕は剣〔つるぎ〕の宮 左に業縛〔ごふばく〕の索を持し 瑟々〔しつしつ〕の座を動〔うごかし〕てや 太神〔たいしん〕に台〔うてな〕をたてまつりし 西にめぐれば甍あり 堂閣尊像の粧〔よそほ〕ひ 念仏三昧退転なく 蓮〔はちす〕に生〔うまる〕る願望 うらもひなく憑〔たのみ〕あり 節にふれたる花紅葉 色々の荘厳微妙〔みめう〕にして 宝樹の下の宝池は <あの>瑠璃にすきて玉の橋 光をかはす珊瑚の砂〔いさご〕 禅侶軒を並べつつ 四明円宗の学窓には 蛍を拾ひ雪を集め 三密瑜伽の道場には <や>五相成身月すめり 東にかへりみれば又 宝塔裳越〔もこし〕に重〔かさな〕りて 宝鐸〔ほうちやく〕雲にやひびくらん 彼是〔かれこれ〕何〔いづれ〕も天長地久のはかりこと 顕密の法施豊なれば 神徳いよいよ威光をます 抑〔そもそも〕此霊神は 朝家擁護〔おうご〕の霜を積〔つみ〕 旧〔ふり〕にし天応のいにしへより 終に朱雀の聖暦に 神威の鉾〔ほこさき〕を幣帛に揚〔あげ〕 逆臣楯を引〔ひき〕しかば 果〔はたし〕て勅約かたじけなく 極れる位に備り 二季の祭礼も新〔あらた〕なり そよや九月〔ながつき〕の重陽の 宴にかざす菊の花も えならぬ祭なれや 紅葉の麻〔ぬさ〕の夕ばへ 秋山かざりの手向〔たむけ〕に 憑〔たのみ〕をかくる神事〔かんわざ〕 さても神敵をしへたげし 猟夫が忠節の恩を憐て 恩愛の契〔ちぎり〕も睦しく 孝行の儀も重かりき さればにや今も織〔おん〕の森の 梢にしげき恵〔めぐみ〕は 法界体性〔たいしやう〕の 円満無碍の功徳ならむ 冴かへる霜夜の月も白妙〔しろたへ〕の 袖の追風ふけぬるか 神さびまさる音旧〔おとふり〕て 鈴倉に其しるしを なす野の男鹿の贄〔にへ〕も 故有なる物をな
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再開に向けての備忘録(その13)

2022-10-28 | 唯善と後深草院二条

前回投稿で引用した井上宗雄氏『中世歌壇の研究 南北朝期 改訂新版』に「「正安三年三月日於鎌倉大仏亭書写畢 右筆素月<有判>」とある。素月は撰要目録にみえる宴曲の作者であろう」とありますが、早歌(宴曲)の曲目リストである『撰要目録』を見ると、素月は「宴曲集巻第三 恋部」冒頭の「吹風恋」の作者で、作詞だけでなく作曲もしています。

「白拍子三条」作詞作曲の「源氏恋」と「源氏」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a90346dc2c7ee0c0f135698d3b3a58fd
『とはずがたり』の政治的意味(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3154a0d9d8f4394be56c3ae20560bf3b
(※素月は写本によっては「春月」となっていて、上記リンク先記事では「春月」)

これは早歌の初期作者では非常に珍しくて、明空を除くと「或女房」(早大本には「白拍子三条」の朱注)と「権少僧都頼慶」の三人だけです。
従って素月は早歌の世界に相当深く関係していた人と思われますが、「正安三年三月日於鎌倉大仏亭書写畢 右筆素月<有判>」という記述それ自体は、正応三年(1290)の正月に慶融が「大懸禅房」で写した『拾遺愚草』(定家の自撰歌集)を、十一年後の正安三年(1301)三月に素月が「鎌倉大仏亭」で写した、というだけのことで、慶融と素月の直接の関係を示すものではありません。
しかし、こうした貴重な資料に接することのできる人は実際上非常に限られていたでしょうから、慶融と素月の社交圏は接近しており、慶融自身は早歌の作品は残していないものの、早歌の世界とも近い人だった、とは言えると思います。
さて、小林論文の段落の途中からの続きです。
小林一彦氏は何故に「玉くしげはこ根の山の峰ふかくみづうみ見えて澄める月影」という歌を「慶融歌の写実性は異彩を放つ」とまで高く評価されるのか。(p110以下)

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和歌で用いられる「みづうみ」の語は、圧倒的に琵琶湖を指し、稀に諏訪湖の例が数えられる程度であることを思えば、なおのこと「みづうみ」をもって芦ノ湖を指す慶融歌の斬新さは際立つであろう。また、四句「みづうみ見えて」は、三句「峰ふかく」とともに極めて珍しい句でもある。「箱根の水海」や「芦の海」という固有名詞を使わずに、「はこ根の山の峰ふかくみづうみ見えて」と芦ノ湖を含む箱根の山岳風景の叙述に徹しながら、結句の「すめる月影」へと一首を流れるように導いていく描写には、新しい表現手法が感じられるであろう。嶮しい山中にあって、静かに水を湛える芦ノ湖は、都から下向した歌人の胸に鳰の湖とは違った感興をもたらしたに違いない。
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鳰の湖(におのうみ)は琵琶湖の異称ですね。
正直、私には慶融歌が格別優れた歌にも思えないのですが、ただ、素材と「表現方法」が「斬新」であることは確かですね。
そして小林氏は続けて次のように書かれています。(p111)

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 これまで慶融は二条派の重鎮と目されてきた。しかし、三井文庫蔵古筆手鑑「高㮤帖」に押された『伝伏見院宸筆判詞歌合』の断簡に作者として慶融の名が見え、為兼との仲は悪くなかったのではないか。関東に在住することも多く、為相とも写本の貸借などを介して交流を結んでいたらしい。

  ふかからぬ雪のあさけの窓の前にさ枝かたよるいささむらたけ (夫木抄・冬三・雪・七一七六)
  山本に柴つむ小舟ほのみえて朝霧のこるうぢの川島      (拾遺風体集・秋・一〇六)

等々の作を見ても、慶融という歌人を改めて考えてみなければならないと思う。
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「高㮤」は「たかまつ」と読むそうです。

三井文庫開設50周年・三井記念美術館開館10周年 記念特別展Ⅱ 三井家伝世の至宝
https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/114

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再開に向けての備忘録(その12)

2022-10-27 | 唯善と後深草院二条

「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の参加者六人のうち、慶融(生没年未詳)については全く触れてきませんでしたが、この人は為家(1198-1275)の息子で、為氏・為教の異母弟、為相の異母兄、為世・為兼の叔父です。
小林一彦氏の「「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」を読む」(『京都産業大学日本文化研究紀要』5号、2000)によれば、慶融の歌は、

12 玉くしげはこ根の山の峰ふかくみづうみ見えて澄める月影
  (夫木抄・雑五・はこねのうみ、相模・一〇三一〇・「三島社十首歌、山月」・慶融)

というもので、『夫木抄』のおかげでこの一首だけが残された訳ですね。
ちなみに『夫木抄』は勅撰集未収歌一七三五〇余首を部類した類題集で、編者は地方武士で冷泉為相の門弟・勝間田長清です。

夫木和歌抄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E6%9C%A8%E5%92%8C%E6%AD%8C%E6%8A%84

さて、井上宗雄氏の『中世歌壇の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987)によれば、慶融は次のような人物です。(p55以下)

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慶融 正応三年、木田本拾遺愚草に次の如き奥書を記した(岩波文庫本参照)。

 正應三年正月於大懸禅房以
 京極入道中納言家眞筆不違一字少生執筆寫之畢、以同本校合之  隠遁慶融<有判>

次に「正安三年三月日於鎌倉大仏亭書写畢 右筆素月<有判>」とある。素月は撰要目録にみえる宴曲の作者であろう(なお次の正徹の応永十七年の奥書略す)。恐らく関東においての書写であろう。五年には貞時の勧めで三島社十首を詠じた(夫木抄)。
【中略】
 乾元本八雲御抄の奥書に

 <本云>
 建治二年正月九日以冷泉御本書寫之、此草子部類十帖也、肝心有此帖間別書留也、
 件本文永十一年秋比、不思懸自東方出来等云々         慶融

とあり、私付傍点の部分から推すと、彼はかなり早くから関東に縁があったのかもしれぬ(この奥書、『校本万葉集』首巻より引用)。
 勝間田長清とも交際があり(夫木抄巻四)、為相その他関東在住の公武と歌を詠みかわす事も多かった事であろう。
【中略】
 慶融は僧であるから「一家」を樹立しようとしたのではなく、「一家の風」をたてようとしたかもしれぬ。が、源承和歌口伝によると、慶融は宗家に敢て反抗しようというような強い立場はとらなかったらしい。さればこそ続拾遺の撰集にも関与し(井蛙抄)、新後撰や続千載等の二条派の集にもかなり多い歌数が採られている。関東に滞在した事があったから冷泉家とも多少は親しかったが(この点はのちにも述べる)、玉葉に一首しか入っていないという事は、親京極派ではなかったからである。立場としてはやはり宗家に近い人物と見るべきで、要するに甥の定為と同じように、歌道執心の僧であったのではなかろうか。【後略】
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慶融は定家の孫で、冷泉為相や飛鳥井雅有ほどではないにしても、関東の武家歌人と相当親しく交わっていた人ですね。
井上氏は「親京極派ではなかった」とされますが、二条派・京極派の対立がさほど激烈ではなかった、というか京極派の歌風がまだ確立されていなかった「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の時点では、意外にも慶融の歌は後の京極派に通じるところもあります。
その点、小林一彦氏は上記論文で極めて興味深い指摘をされています。(p109以下)

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 『金槐集』(定家本)には、先に取り上げた「はこねぢをわがこえくれば…」の歌の直前に次のような詠作が存在する。

    又のとし二所へまいりたりし時はこねのみうみを見てよみ侍歌
 たまくしげはこねのみうみけゝれあれやふたくにかけてなかにたゆたふ  (六三八)

「はこねのみうみ」とは芦ノ湖のことである。12「玉くしげ…」の歌では、この芦ノ湖が詠まれている。「山月」の題で、慶融は箱根の山の奥深くに照る月はもとより、芦ノ湖の水面に澄み宿る月をも同時に写し取ろうとしたのである。『東関紀行』に「岩が根高く重なりて、駒もなづむばかりなり。筥ばかりなる山の中に至りて水海広くたたへり。箱根の湖水と名づく。また芦の海といふもあり。」とあるように、芦ノ湖は呼称が一定していない。そのことは、いまだ歌枕として確立していなかったことを意味している。『東関紀行』の作者は、さらに筆を箱根権現の描写へと進めた後、

 今よりは思ひ乱れじ芦の海のふかき恵みを神にまかせて         (四九)

の一首を詠じていた。数少ない芦ノ湖を詠じた作として、しかもその最初期のものとして注目されるこの歌は、しかしながら、あくまでも箱根権現への崇敬の念を主としており、「芦の海」は「乱れ」「芦」の縁語に加え、「深き」を導く有意の序としても、修辞上の役割を負わされているに過ぎず、芦ノ湖を写実的に詠じた叙景歌ではあり得なかった。その点、慶融歌の写実性は異彩を放つ。
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段落の途中ですが、少し長くなったので、いったんここで切ります。

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再開に向けての備忘録(その11)

2022-10-25 | 唯善と後深草院二条

(その1)で数回で止めると誓ったはずの「再開に向けての備忘録」シリーズが既に十回を超えてしまいましたが、「二所詣」(実際には三嶋社を含む三社詣)の歴史は妙に面白くて、あと十回くらいは書けそうですね。
ただ、国会図書館サイトで検索してみたところ、田辺旬氏に「鎌倉幕府二所詣の歴史的展開」(『ヒストリア』196号、2005)、矢田美保子氏に「二所詣の参詣形態から探る鎌倉幕府における将軍と執権の攻防」(神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科編『歴史民俗資料学研究』18号、2013)という論文があるそうで、先行研究と重複しても仕方ないですから、とりあえずここで止めておきます。
この二つの論文は遠隔複写を依頼しているので、入手後に何か気づいたことがあれば、また書くつもりです。
さて、「二所詣」に執念を燃やした第四代将軍・藤原頼経に続いて、第五代藤原頼嗣、そして第六代宗尊親王の時代にも「二所詣」をめぐる将軍と得宗との確執があったようですが、文永三年(1266)に宗尊親王が鎌倉を追放された後、

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建治二年(一二七六)一月二〇日の北条時宗邸の火災により惟康将軍の二所参詣精進が延期されたのを最後として(鎌倉年代記裏書)、将軍の二所参詣の記事はみえなくなる。永仁三年(一二九五)二月二四日には北条貞時が二所参詣のための精進を始めており(永仁三年記)、正安四年(一三〇二)三月一九日には北条貞時が二所参詣を行った(鎌倉大日記裏書)。文保二年(一三一八)二月一七日と嘉暦二年(一三二七)三月五日北条高時も二所権現と当社に参詣している。これは北条得宗が将軍に取って代わったことを象徴するものではなかろうか。
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とのことです。(p104)
貞時による「二所詣」が「北条得宗が将軍に取って代わったことを象徴するもの」であったとすれば、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」はその準備段階の行事と位置づけることが出来そうです。
なお、『日本歴史地名大系第22巻 静岡県の地名』には、

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〔旅人の参詣と和歌等の奉納〕
【中略】
正応二年(一二八九)三月初旬後深草院二条は鎌倉へ赴く途中当社に参詣し、千早という衵のようなものを着た乙女子が三、四人入れ違いながら離れて舞う神楽を興味深く夜が明けるまでみていた(とはずかたり)。同五年冷泉為相・公朝・京極為兼・飛鳥井雅有・二条為道・法眼慶融らによって和歌が奉納されている(夫木抄)。永仁元年蓮愉(宇都宮景綱)は当社に奉納された北条貞時一〇首に寄せて、「神まつるこころにはあらぬさかきはにゆふしてかけてふれるしら雪」などと詠んでいる(沙弥蓮愉集)。【後略】
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とありますが、『とはずがたり』の原文を紹介しておくと、

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 伊豆の国三島の社に参りたれば、奉幣の儀式は熊野参りにたがはず、ながむしろなどしたる有様もいと神々しげなり。故頼朝の大将しばし願をこめられたりける、はまの一万とかやとて、ゆゑある女房の壺装束にて往き返るが、苦しげなるをみるにも、わればかり物思ふ人にはあらじとぞおぼえし。月は宵すぐるほどに、待たれて出づるころなれば、短か夜の空もかねてもの憂きに、神楽とて少女子〔をとめご〕が舞の手づかひも、見なれぬさまなり。襅〔ちはや〕とて衵〔あこめ〕のやうなるものを着て、八少女舞とて、三四人立ちて入りちがひて舞ふさまも、興ありておもしろければ、夜もすがら居あかして、鳥の音にもよほされて出で侍りき。
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というものです。(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p211)
また、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」に関する記述は間違いが多いのですが、公朝(北条朝時猶子)は参加者ではなく、これは宇都宮景綱(連瑜)との混同です。
そして、「神まつるこころにはあらぬさかきはにゆふしてかけてふれるしら雪」という歌は『沙弥蓮瑜集』の391番ですが、この歌には詞書はなく、三嶋社と関連があるかどうかは不明であり、「当社に奉納された北条貞時一〇首に寄せて」は誤解ですね。
宇都宮景綱(連瑜)が「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」に寄せた六首は、

33  なみのうへもはれたるおきのゆふなぎにかすみをのこす浦のはつしま
79  みるまゝによこ雲うすくあけそめてみねのこずゑぞ花になりゆく
150 いつまでと心とゞめぬおいが世にまつことのこすほとゝぎすかな
237 しら露を枝に玉ぬくあき萩はをるべき花の色とだにみず
385 うづもれぬかたえの雪にあらはれてあらしの跡ぞ松に見えける
439 ふけとだにまたぬゆふべにかなしきはわがためつらき人の秋風

というものです。

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再開に向けての備忘録(その10)

2022-10-24 | 唯善と後深草院二条

安貞二年(1228)の「直御参」か「二所奉幣使」の代参かの争いは、二所詣は将軍が直々に行なうべきか否かという原理原則の問題と、将軍の代理として三浦義村が行くのが適切かという問題が混在していて、三浦義村への露骨な批判もできないので「直御参」という原則を主張した人もいそうですね。
この時期は承久の乱(1221)を指導した北条義時・大江広元・北条政子が相次いで没した後、泰時が御成敗式目(1232)を定める前の、政治的にはやや不安定な時期ですから、二所詣論争の背後に北条氏と三浦氏の主導権争いを見るべきなのかもしれません。
さて、続きです。(p103)

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嘉禎三年(一二三七)一一月九日、延応元年(一二三九)一月二五日、仁治元年(一二四〇)八月四日に頼経が当社に参詣し、また同年七月一三日には二所と当社に神馬を贈っている。さらに頼経は同年八月五日参詣して延年舞におよび、一二月には二所・三嶋および大和春日社等において毎日神楽を行うことを立願したが、莫大な用途が必要となるので、所領一ヵ所の寄進が幕府の評定によって決議された。しかし寄進に適当な場所がないため功銭を定めて毎月神楽を奉納することとなり、翌春一月一七日より開始された。寛元二年(一二四四)一月二三日頼経は当社に奉幣し、供奉の人々とともに千度詣をした後、管弦・詠歌などの遊びに及んでいる。
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ここも段落の途中ですが、いったん切ります。
『吾妻鏡』によれば、嘉禎三年(1237)十一月一日条に「将軍家被始二所御精進」、七日条に「辰刻御進発」、八日条に「箱根御奉幣。有御経供養。導師大納言律師隆弁<依此事。自鎌倉被召具>」、九日条に「三嶋」、十一日条に「伊豆山」、十二日条に「自二所還御」とあり、五泊六日の行程ですね。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma31b-11.htm

暦応二年(延応元、1239)以降の二所詣も行程のパターンはほぼ同じですが、二所詣という行事の幕府にとっての重要性を確認するため、少し丁寧に見て行きたいと思います。
まず、暦応二年(延応元、1239)一月十七日条に「将軍家二所御精進始」、二十七日条に「今日巳刻。自二所御帰着。一昨日廿五日曉昏。三嶋伊豆両社御奉幣云々」とのことで、前回より簡単な記述ですが、日程はほぼ同様と思われます。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma33a-01.htm

ついで仁治元年(1240)七月二十六日条に「将軍家二所御精進始也。未刻。為浴潮給。出御于由比浦。御先達一乗房阿闍梨云々」、八月三日条に「箱根御奉幣也。当山衆徒并供奉人々延年。各施芸。相互莫不催興云々」、四日条に「着御三嶋。今日無御奉幣之儀。於此所又及延年云々」、五日条に「今曉被遂三嶋御奉幣。入夜。走湯山御奉幣也。当山衆徒延年」、六日条に「今日御還向。入夜着酒匂宿給」、七日条に「終日甚雨暴風。自二所御下向之間。路次煩也。随兵以下供奉人皆不及取笠。濡衣裝云々」とあり、行程のパターンは固まっていますね。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma33b-08.htm

更に寛元二年(1244)正月十七日条に「将軍家二所御精進始也。雨令浴潮給。出由比浦御」、二十一日条に「二所御進発。北条左親衛供奉給」、二十二日条に「箱根御奉幣也。衆徒与供奉人等方(及)延年。各施芸云々」、二十三日条に「三嶋御奉幣。将軍家并供奉人々有千度詣。其後及管絃歌詠等御遊」、二十四日条に「甚雨暴風。令参伊豆山給。降雨之間。供奉人皆舐鼻。彼山衆徒等。終夜催延年興」、二十五日条に「有走湯山御奉幣。昨日依爲坎日。延而及今朝。入夜。着浜部宿給」、二十六日条に「未刻入御幕府」とあります。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma35b-01.htm

さて、このあたりから将軍と執権との関係が相当に微妙になります。(p103以下)

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しかし頼経は同年四月執権北条経時の強要により将軍職を子頼嗣に譲り、同三年鎌倉久遠寿量院で出家させられた。翌四年二月二二日、頼経は「殊御願」のため二所参詣の精進を七日間行い、二八日二所参詣に出発しているが、付き従ったのは名越光時・三浦光村ら数輩のみであったという(以上「吾妻鏡」)。五月には執権北条時頼により光時ら側近は処断され、頼経も京都に追返された(「葉黄記」同年六月六日条など)。しかし、頼経はその後も権力の回復に努めており、たびたびの三嶋社参詣の裏には執権北条氏との間で権力をめぐる確執があったと思われる。
-------

頼経は将軍を退いた後も二所詣に行っていますから、二所詣への執着は凄いですね。
『吾妻鏡』を確認しておくと、寛元四年(1246)二月二十二日条に「入道大納言家令始二所御精進給。七ケ日間有御座于御精進屋。依殊御願也云々」とあり、「入道大納言」が前将軍・頼経です。
ついで二十八日条に「二所御進発也。越後守。相摸右近大夫将監。相模八郎。太宰少弐為佐。但馬前司定員。備後前司広将。能登前司光村以下数輩云々」とあり、三月三日条には「甚雨暴風。入道大納言家還御。自走湯山直御下向也。依風雨煩。及曉更云々」とあって、頼経にとって最後の二所詣は、まるでこの後の頼経の運命を予言しているかのような感じもします。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma37-02.htm
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再開に向けての備忘録(その9)

2022-10-23 | 唯善と後深草院二条

「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」に戻ると、意外に資料が少なくて調べるのに手間取っているのが中世の三島社信仰です。
三島大社クラスの神社であれば、史料を入れて数百ページくらいの公式神社史があってもよさそうですが、どうもパンフレットに毛が生えたようなものしかないらしく、研究者の論文も古代と近世以降に偏っていて中世は余り数が多くありません。
私が入手できた範囲では『日本歴史地名大系第22巻 静岡県の地名』(平凡社、2000)がよく纏まっているので、「三島大社」の項目から中世の部分を引用させてもらいます。(p103)

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〔中世〕「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)八月一七条に「三嶋社」とみえ、挙兵を目前にした源頼朝は当社の神事が始まる以前に、安達藤九郎盛長を使者として戦勝祈願の奉幣をしている。佐々木兄弟の遅参で暁には挙兵できなかったが、同日夜三嶋明神神事のため人が衢に満ちている中、牛鍬大路を通って平信遠を襲撃、ついで当社神事参拝のため郎従が多く出払っている隙をついて山木兼隆の館(現韮山町)を襲って兼隆らを討取った。同年一〇月平家軍を迎え撃つため西上する際にも、頼朝は足柄山を越えて伊豆国府に入り、三嶋大明神を伏し拝んだという(「源平盛衰記」巻二三畠山推参附大場降人の事)。この後当社は鎌倉鶴岡八幡宮や二所権現(伊豆山神社・箱根神社)と並んで鎌倉幕府の崇敬をうけることとなる。
〔将軍参詣と奉幣使の派遣〕文治三年(一一八七)一二月二七日、源頼朝は明春の二所参詣のための供奉人を定め、翌四年一月二〇日に「伊豆・箱根・三嶋社」参詣のため源範頼・足利義兼ら随兵三〇〇騎を従えて鎌倉を立っている。このことから史料上は二所とのみあっても、参詣の際は当社も含まれていることは確実である。建久元年(一一九〇)一月一五日頼朝は二所参詣に出発したが、伊豆山(伊豆山神社)へ行く途中石橋山(現神奈川県小田原市)で戦死した佐奈田義忠らの墳墓をみた頼朝が哀傷のあまり落涙したため、参道においてはばかるべきであると先達が主張し、鎌倉に戻った同月二〇日、翌年よりの二所参詣の順路は当社および箱根権現(現神奈川県箱根町箱根神社)への奉幣を先とし、伊豆山より鎌倉へ戻ることと定められている。その後建保二年(一二一四)一月二九日に源実朝が参詣したのを始めとして、代々の将軍が当社に参詣している(以上「吾妻鏡」)
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いったん、ここで切ります。
三嶋社は鎌倉幕府創業の象徴たる地であり、将軍が参詣すべき神社だった訳ですね。
ただ、摂家将軍の時代になると、将軍の直接の参詣か「二所奉幣使」の代参かで紛糾も生じたようです。

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 しかし、最も多く当社に参詣したのは嘉禄二年(一二二六)一月に将軍となった藤原頼経であった。安貞二年(一二二八)一月一三日二所奉幣使として三浦義村が進発を命じられたが、その直後頼経の直参が決定され、二九日には延引となり義村に再び参詣が命じられた。しかし頼経はなお自らの参詣を希望していたらしいが、二月二日に起きた走湯権現(伊豆山神社)の火災により正式に頼経の参詣が中止され、一三日義村が二所奉幣使として進発している。
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段落の途中ですが、『吾妻鏡』を見ると些か不可解な展開なので、ここで切って細かく見て行きます。
即ち、『吾妻鏡』安貞二年一月九日条に「為周防前司奉行。二所奉幣御使発遣事有其沙汰云々」とあり、十三日条に「為二所奉幣御使。可令進発之由。被仰駿河前司義村。即申領状之処。猶有其沙汰。止御使之儀。可有直御参之由。今日治定云々」とのことで、最初は「二所奉幣使」を派遣することが前提となっていたようで、当該「二所奉幣使」には三浦義村が選ばれ、義村も了承したにもかかわらず、十三日に何故か将軍の「直御参」に変更されてしまったようです。
そして十九日条に「於将軍家御前。有二所御奉幣日時之定。陰陽師等参進。来月十四日可有御進発之由。親職。晴賢。文元等。先日択申之。而四不出日也。不可然之旨。泰貞内々依令言上。直及御問答。各有相論矣。武州并義村。家長等祗候。皆可被用他日之由。被傾申。仍重択之。二月廿五日可有御進発云々」とのことで、将軍の「直御参」を前提に、その出発日に関する細かな議論があった後、二十九日条に「将軍家二所御参事。今年者可有御延引之由。有沙汰。如元為御使。可令参詣之由。今日被仰含義村云々」ということで、事情は全く分かりませんが、とにかく今年は将軍の「直御参」延引、振出に戻って三浦義村の派遣となります。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma27a-01.htm

ところが、これで確定したのかと思ったら、翌二月八日条に「二所御精進始也。可有御参詣歟事。猶日来雖有予儀。依走湯山火災事。令留之給云々。凡就彼火事。今朝条々有評議等云々」とあり、これまた事情は不明ですが、やはり将軍の「直御参」がよろしいとの意見が通り、将軍が「御精進」を始めたところ、二月三日の走湯山の火事のため取り止めになったようです。
結局、二月十三日条に「今朝。三浦駿河前司義村為二所奉幣御使進発云々」、十八日条に「駿河前司自二所帰参。往還無風雨難云々」とのことですが、この二転三転のドタバタ喜劇はいったい何だったのか。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma27a-02.htm

『日本歴史地名大系第22巻 静岡県の地名』の執筆者は「頼経はなお自らの参詣を希望していたらしいが」とされますが、将軍とはいえ、頼綱は建保六年(1218)生まれで、安貞二年(1228)には数えで十一歳ですから、自身の判断とは思えません。

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再開に向けての備忘録(その8)

2022-10-22 | 唯善と後深草院二条

「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」とは離れてしまいますが、後深草院二条の乳母一家については少し纏めておきたいので、ついでにここに書いておきます。
乳父の藤原仲綱は『小右記』の著者・小野宮右大臣こと藤原実資(957-1046)の子孫ですが、『尊卑分脈』にかろうじて極官が記される程度の家格で、『とはずがたり』や『春の深山路』・『都路の別れ』がなかったら全く何の痕跡も残さずに歴史から消えていった人ですね。
そして『尊卑分脈』には仲綱の男子として、『とはずがたり』に登場する仲光・仲頼を含め四人が載っていますが、いずれも母親の名はなく、二条の乳母の出自を探る手掛かりは得られません。
ただ、(その6)で紹介した部分に「御ははにてありしものは、さしもの古宮の御所にて生ひ出でたるものともなく、むげに用意なくひた騒ぎに、今姫宮が母代ていなるがわびしくて」(【次田訳】私の乳母だった者は、あんなに由緒のある古い宮様の御所で成長したものにも似ず、ひどくたしなみがなくて、むやみにさわがしく、まるで(『狭衣物語』の)今姫君の母代のようであるのがやりきれなくて)」とあります。
また、「女楽事件」で二条が行方不明になる場面には、「小林といふは、御ははが母、宣陽門院に伊予殿といひける女房、おくれ参らせてさまかへて、即成院の御墓近く候ふところへ……」とあります。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その5)─「宣陽門院の伊予殿」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f06418db732477905db11318c567bd30

更に、「小林」から下醍醐の勝倶胝院にある久我一族の真願房の庵室に移った二条のもとを「雪の曙」が訪問し、四条隆顕と三人で語り合う場面の後、

-------
 今日は、一すじに思ひ立ちぬる道も、またさはり出で来ぬる心地するを、あるじの尼御前、「いかにも、この人々は申されぬと覚ゆるに、たびたびの御使に、心清くあらがひ申したりつるも、はばかりある心地するに、小林の方へ出でよかし」といはる。さもありぬべきなれば、車のこと善勝寺へ申しなどして、伏見の小林といふ所へまかりぬ。
 今宵は何となく日も暮れぬ。御ははが母伊予殿、「あなめずらし。御所よりこそ、これにやとてたびたび御尋ねありしか。清長もたびたびまうで来し」など語るを聞くにも、……
-------

という具合に、再び「伏見の小林といふ所」が出てきます。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p379以下)
「女楽事件」が史実かどうかは疑わしいものの、乳母の母が「宣陽門院の伊予殿」であり、「女楽事件」が起きた(と設定されている)建治三年(1277)頃には「伏見の小林」に住んでいたことは間違いなさそうです。
ところで、小川剛生氏は『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)において、従来、金沢貞顕の書状とされていたものの、小川氏が倉栖兼雄の書状と判断された文書(金文五〇三号)に登場する「故黄門上人位」が兼好の父で、「小林の女房」が兼好の母ではなかろうかと推定されています。(p52)
私はこの「小林の女房」が「宣陽門院の伊予殿」が住む「伏見の小林」と関係するのではないか、兼好の母は「宣陽門院の伊予殿」の親族ではないか、と疑っているのですが、五年近く経っても未だに何の手がかりも得られていません。
せめて「伏見の小林」という場所が明らかになれば何かの糸口になりそうなのですが、「伏見の小林」自体が地名辞典の類に全く出て来なくて、調査は行き詰まったままです。
「伏見の小林」について何かご存知の方がいらっしゃればご教示願いたく。

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f10322cc7ebe53e562e3ab38c0d6a5d

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再開に向けての備忘録(その7)

2022-10-21 | 唯善と後深草院二条

榎原雅治氏『中世の東海道をゆく 京から鎌倉へ、旅路の風景』(中公新書、2008)の飛鳥井家と雅有についての説明はとても良いですね。
「第一章 旅立ち─京・近江」の冒頭を少し紹介します。(p17以下)

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 本章より第五章までは飛鳥井雅有の旅を追うことを軸に、中世における東海道の交通の様子やその周辺の景観の復元を試みたいが、それに先立ち、いわば旅の案内役となる雅有という人物について、紹介しておきたい。
 飛鳥井雅有は仁治二年(一二四一)の生まれ。この年は『東関紀行』の作者が東海道を東へと旅した年の一年前にあたる。すでに見た弘安三年(一二八〇)の東海道旅行は数え四十歳のときのことである。生家の飛鳥井家は藤原北家に属し、関白師実(道長の孫)の子忠教より分かれた流れである。忠教の子頼輔は刑部卿、蹴鞠に長じ、「本朝蹴鞠一」と謳われた。その子頼経も刑部卿であったが、平家滅亡後、源義経に同心したことを罪に問われて官を解かれ、文治五年(一一八九)に伊豆に配流となった。
 一家は不運に沈むわけであるが、結果的にはこれが子孫たちのその後の繁栄の契機となった。飛鳥井家の祖とされる雅経は頼経の次子、いつ関東に赴いたのかははっきりしないが、和歌と蹴鞠に長け、鎌倉において将軍源頼家の厚遇を受けた。その妻は幕府開創以来の重臣大江広元の女である。建久八年(一一九七)、後鳥羽天皇の命によって京都に呼び返され、和歌所の寄人となって藤原定家らとともに『新古今和歌集』の撰進に携わったが、のちに再び鎌倉に下り、将軍源実朝の歌と蹴鞠の師匠として遇されている。雅経と大江広元の女の間に生まれた教定もまた歌と蹴鞠をもって、実朝なきあとの藤原頼経、頼嗣、宗尊親王(後嵯峨天皇の子)の三代の将軍に仕え、その妹は幕府重臣安達義景の妻となっている(図1-1)
 雅有は教定の子として鎌倉で生まれた。その妻は好学の士として知られる北条(金沢)実時の女である。雅有はまぎれもない廷臣でありながら、大江広元の血を受け、北条氏、安達氏とも縁戚になるという、幕府中枢ときわめて深い関係にある人物なのである。飛鳥井家は室町時代においても公家社会における歌鞠の匠として幕府から厚遇され、その地位はさらに近世末まで続いたが、こうした武家との結びつきによる隆盛の基礎は、雅経から雅有にかけての時代に形成されたのである。
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国文学者の人物紹介だと、例えば井上宗雄氏は、

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 飛鳥井雅有は新古今撰者の雅経の孫で、雅経以来関東と縁が深く、いわゆる関東伺候の廷臣であったが、またその姉妹は為氏室・為世の母、文永六年二十九歳の折には為家から古今・伊勢・源氏の講義を受け(嵯峨の通ひ路)、為世は雅有の鞠の弟子であって、二条家とも親しかったが、またその古今には独自の説もあり(春のみやまぢ)、更に源氏の聖といわれる程の古典学者であり(弘安源氏論議)、政治的には持明院統に参仕すると共に、その女宰相典侍は後宇多天皇(大覚寺統)に伺候、政治的にも歌壇的にも独自の立場をとっていた。因みにいうと、雅有は二条家ばかりでなく、既に阿仏尼とも親交があった。【後略】
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と書かれていて(『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』、p10以下)、簡にして要を得た説明ではあるものの、武家社会に交わるためには極めて重要であったはずの「大江広元の血を受け、北条氏、安達氏とも縁戚になるという、幕府中枢ときわめて深い関係」は捨象されていますね。
さて、「このような出生からして、雅有の半生は、当時の公家としては類がないほどに鎌倉と京の間を行き来するものであ」り(榎原著、p19)、「雅有は少なくとも六度の上京と、五度の鎌倉下向、計十一度の東海道旅行を行ってい」ます(同p24)。
雅有は建治四年(弘安元、1278)、三十八歳で従三位に叙されて公卿となり(『公卿補任』、以下同)、弘安七年(1284)に正三位に昇りますが、亀山院政下では散位のままです。
鎌倉滞在が多かったので散位は仕方ないでしょうが、弘安十一年(1287)三月の伏見践祚後は、正応二年(1289)四月に従二位に叙され、正応四年(1291)七月に参議となり、五十歳にしてやっと散位を脱します。
もっとも参議は同年十二月二十五日に辞してしまいますが、翌五年(1292)正月十九日「本座」(前官待遇)を許されるということで、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」に参加した時点では、雅有は官人としては人生のピークに達していたと言ってよさそうです。
以上、雅有の人生を概観してみましたが、「昭慶門院二条」が後深草院二条であるかどうかはともかくとして、鎌倉滞在期間の長い雅有と二条は、まず間違いなく鎌倉で何らかの接点を持ったでしょうね。
しかし、既に述べたように『とはずがたり』には雅有は一切登場せず、『増鏡』にも登場しません。
いったい、二条は雅有をどのように思っていたのか。
『とはずがたり』での藤原仲綱・仲頼の描かれ方と『都路の別れ』・『春の深山路』での藤原仲綱・仲頼の描かれ方を比較すると、まあ、二条にとっては雅有など、どんなに歌や蹴鞠が上手であろうと、せいぜい自分の家の家司レベルということになるのでしょうね。

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再開に向けての備忘録(その6)

2022-10-20 | 唯善と後深草院二条

藤原仲頼は『とはずがたり』には三回登場していて、最初は巻一の「乳母の家で雪の曙と契る」場面です。
父・雅忠の死の僅か二ヶ月後、文永九年(1272)十月、十五歳の二条は四条大宮の乳父・乳母の家で「雪の曙」(西園寺実兼)と関係を持ちます。
「雪の曙」の訪問初日は「長き夜すがら、とにかくに言ひつづけ給ふさまは、げに唐国の虎も涙おちぬべきほどなれば、岩木ならぬ心には、身にかへんとまでは思はざりしかども、心のほかの新枕は、御夢にや見ゆらんといと恐ろし」(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p140)、浮気が後深草院の夢に出て来るのではないかと心配だ、などと書いているのですが、二日目は突如としてコメディタッチの展開となります。(p147以下)

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 暮るれば、今宵はいたく更かさでおはあしたるさへそら恐ろしく、はじめたることのやうに覚えて、物だにいはれずながら、めのとの入道なども、出家の後は千本の聖のもとにのみ住まひたれば、いとど立ちまじるをのこ子もなきに、今宵しも「めづらしく里ゐしたるに」などいひて来たり。乳母子どももつどひゐてひしめくも、いとどむつかしきに、御ははにてありしものは、さしもの古宮の御所にて生ひ出でたるものともなく、むげに用意なくひた騒ぎに、今姫宮が母代ていなるがわびしくて、いかなることかと思へども、「かかる人の」などいひ知らすべきならねば、火などもともさで、月影見るよしして、寝所にこの人をばおきて、障子の口なる炭櫃によりかかりてゐたるところへ、御ははこそ出できたれ。
 あなかなしと思ふほどに、「秋の夜長く侍る。弾碁などして遊ばせ侍らんと御てて申す。入らせ給へ」と、訴訟がほになりかへりていふさまだに、いとむつかしきに、「何ごとかせまし、誰がし候ふ、彼も候ふ」など、継子・実の子が名のり言ひつづけ、「心地わびしき」などもてなしてゐたれば、「例の、わらはが申すことをば御耳に入らず」とて立ちぬ。なまさかしく、女子をば近くをにやいひならはして、常のゐ所も庭つづきなるに、さまざまなことども聞ゆるありさまは、夕顔のやどりに踏みとどろかしけん唐臼の音をこそ聞かめと覚えて、いとくちをし。
-------

いったん、ここで切ります。
この話のどこがコメディタッチなのかを説明すると長くなるので省略しますが、「めのとの入道なども、出家の後は千本の聖のもとにのみ住まひたれば」から、乳父の藤原仲綱が出家後は千本釈迦堂の近くに住んでいたことが分かり、『春の深山路』の記述とつながります。
さて、続きです。(p148以下)

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 とかくのあらましごとも、まねばんもなかなかにて漏らしぬるも、念なくとさへ覚え侍れども、ことかくもむつかしければ、とくだに静まりなんと思ひて寝たるに、門いみじくたたきて来る人あり。誰ならんと思へば仲頼なり。「陪膳おそくて」などいひて、「さてもこの大宮のすみに、故ある八葉の車立ちたるを、うち寄りてみれば、車のなかに伴の人は一はた寝たり。とほに牛はつなぎてありつる。いづくへ行きたる人の車ぞ」といふ。
 あなあさましと聞くほどに、例の御ははは、「いかなる人ぞと人して見せよ」といふ。御ててが声にて、「何しにか見せける。人の上ならんによしなし。また御里ゐのひまをうかがひて、忍びつつ入りおはしたる人もあらば、築地のくづれより、うちも寝ななんとてもやあるらん。ふところのうちなるだに、高きもいやしきも、女はうしろめたなし」などいへば、また御はは、「あなまがまがし。誰か参り候はん。御幸ならば、また何ゆゑか忍び給はんなどいふもここもとに聞ゆ。「六位宿世とやとがめられん」と、御ははなる人いはるるぞわびしき。
-------

ということで、乳母一家には実子・継子が集まって騒がしいところに仲頼が「御所のお給仕で遅くなって」と言い訳を言いつつ、登場します。
そして、「大宮通りのすみに、わけがありそうな八葉の車が立っていて、近寄ってみると、車のなかにお供の人がいっぱい寝ているんです。牛は遠くにつないでありました。あれはどこへ行った人の車です」(次田訳、p152)と言います。
もちろんそれは「雪の曙」の車であって、乳母が「どんな人か、誰かやって見させなさい」と言うと、事情を察した乳父・仲綱入道がそんなことをする必要はないと言い、更に乳母が口答えします。
この後、乳母が「御好みの白物」を持ってきて、「雪の曙」が「御たづねの白物は何にか侍る」と二条に問い、二条は「霜・雪・霰とやさばむとも、まことしく思ふべきならねば、ありのままに、「世の常ならず白き色なる九献を、ときどき願ふことの侍るを、かく名だたしく申すなり」といらふ」という展開となります。
そして、酒好きが「雪の曙」にバレてしまって笑われたけれども、「憂きふしには、これほどなる思ひ出、過ぎにし方も行末も、またあるべしとも覚えはてず」ということで、このエピソードは終わります。
ま、仲頼は割と長く発言しますが、勘が鈍い朴念仁的な役割ですね。
『とはずがたり』で仲頼が登場する二番目は、巻二の「亀山院来訪、遊宴ののち文 」の場面です。

-------
 さるほどに、両院、御仲心よからぬこと、悪しく東ざまに思ひ参らせたるといふこと聞えて、この御所へ新院御幸あるべしと申さる。かかり御覧ぜらるべしとて、御鞠あるべしとてあれば、「いかで、いかなるべき式ぞ」と、近衛大殿へ申さる。「いたく事過ぎぬほどに、九献、御鞠の中に御装束なほさるるをり、御柿浸しまゐることあり。女房して参らせらるべし」と申さる。「女房は誰にてか」と御沙汰あるに、「御年頃なり、さるべき人がらなれば」とて、この役をうけたまはる。かば桜七つ、裏山吹の表着、青色唐衣、くれなゐの打衣、生絹の袴にてあり。浮織物の紅梅のにほひの三つ小袖、唐綾の二つ小袖なり。
【中略】
「まづ飲め」と御言葉かけさせ給ふ。暮れかかるまで御鞠ありて、松明とりて還御。
 つぎの日、仲頼して御文あり。

  いかにせんうつつともなき面影を夢とおもへばさむるまもなし

 紅の薄様にて柳の枝につけらる。さのみ御返りをだに申さぬも、かつはびんなきやうにやとて、はなだの薄様に書きて、桜の枝につけて、

  うつつとも夢ともよしや桜花咲き散るほどと常ならぬ世に

http://web.archive.org/web/20070126004420/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-7-kameyamain-raiho.htm

亀山院に上北面として仕えている仲頼は二条に亀山院の手紙を運んで来る役ですね。
二条と亀山院の贈答歌を除き、この蹴鞠のエピソードは『増鏡』にも描かれますが、『とはずがたり』とは時期が異なっているようで、どこまで史実を反映しているのかは不明です。

『とはずがたり』に描かれた「持明院殿」蹴鞠(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/960f629a5cc08b7f21f6c03ef780b260

さて、『とはずがたり』に仲頼が登場する三番目は、二条が伏見殿で「近衛大殿」と契る場面です。
「近衛大殿」は久我家と二条を誉めまくりますが、その発言の中で、まずは仲綱が高く評価され、次に仲頼も出てきます。

-------
地体、あの家の人々は、なのめならず家を重くせられ候。村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかりにて候。あの傅仲綱は、久我重代の家人にて候ふを、岡屋の殿下、ふびんに思はるる子細候ひて、『兼参せよ』と候ひけるに、『久我の家人なり、いかがあるべき』、と申して候ひけるには、『久我大臣家は、諸家には准ずべからざれば、兼参子細あるまじ』と、みづからの文にて仰せられ候ひけるなど、申し伝へ候。隆親の卿、女・叔母なれば、上にこそと申し候ひけるやうも、けしからず候ひつる。
 前の関白、新院へ参られて候ひけるに、やや久しく御物語ども候ひけるついでに、『傾城の能には、歌ほどのことなし。かかる苦々しかりしなかにも、この歌こそ耳にとどまりしか。梁園八代の古風といひながら、いまだ若きほどにありがたき心遣ひなり。仲頼と申してこの御所に候ふは、その人が家人なるが、行方なしとて、山々寺々たづねありくと聞きしかば、いかなる方に聞きなさんと、我さへしづ心なくこそ』など、御物語候ひけるよし承りき」など申させ給ひき。

http://web.archive.org/web/20150512051739/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-25-konoeno-otono.htm

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その9)─近衛大殿
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f71f109655ed3559cb528b1ffc346a00

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再開に向けての備忘録(その5)

2022-10-20 | 唯善と後深草院二条

飛鳥井雅有の関東下向の旅については榎原雅治氏の『中世の東海道をゆく 京から鎌倉へ、旅路の風景』(中公新書、2008)に詳しいですね。
同書の「本章〔第一章〕より第五章までは飛鳥井雅有の旅を追うことを軸に、中世における東海道の交通の様子やその周辺の景観の復元を試み」(p17)たものです。
その主たる素材は『春の深山路』ですが、『都路の別れ』(同書では『都の別れ』)も補足的に用いられていますね。

-------
弘安三年(一二八〇)十一月、ひとりの貴族が馬に乗り、わずかな随伴者とともに東海道を京から鎌倉へと向かっていた――。中世の旅路は潮の干満など自然条件に大きく左右され、また、木曾三川の流路や遠州平野に広がる湖沼など東海道沿道の景色も、現在とはかなり異なっていた。本書は鎌倉時代の紀行文を題材に、最新の発掘調査の成果などを取り入れ、中世の旅人の眼に映った風景やそこに住む人々の営みを具体的に再現するものである。

https://www.chuko.co.jp/ebook/2013/07/514563.html

榎原氏は2019年に吉川弘文館からも同名の本を出されていますが(私は未読)、内容は全く同じみたいで、中公新書で出した本を吉川から復刊というのも珍しい感じがしますね。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b427395.html

ま、それはともかく、『都路の別れ』の続きです。
コマ番号で55、ページ数で86からです。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1707992

-------
神なびの森とかやいふ所より、左衛門大夫仲頼、又かねてより待ちけると覚えて、うち出でたり。道々、名残かたみに惜しみてゆく。瀬田の橋渡りて、四五丁ゆく。道傍らなる所に、、女の招くを見れば、京にて馴れ遊びし白拍子なり。この四五日、物参りとて、尋ねしに、ここにて待ちけるなるべし。心ざしあはれなれば、うちゐる、田舎だつ住まひ、竹植へわたして、ことなる事なけれど、あるべしく住みなしたる所なり。この者、あるじだちて、こゆるぎの急ぎ肴持ち出でて、酒勧む。酔ひ乱れて、各々懐より、笛、笙、篳篥など取り出でて吹き合はす。名残の勺など数ふるに、皆涙落す。いとど越し方恋しくて、進まれず。さのみあるべきならねば、心は留まりながら、出でぬ。道の程、この名残、また酔、取り重ねて覚ほれて、何の事も覚えず。鏡に暮るる程に着きぬ。仲頼、猶これまで慕ひ来ぬ。又、かわらけ一流れ下りて、物語りしつつ、よもぎの丸寝みなしたり。

  こし方のおもかげとめよかゞみ山けふより後のわすれがたみに
-------

いったん、ここで切ります。
「神なびの森とかやいふ所」は逢坂の関から瀬田橋の間にあり、ここで「左衛門大夫仲頼」が登場します。
瀬田橋から四・五丁進むと道端で手招きする女がいて、それは「京にて馴れ遊びし白拍子」であり、その案内に従って一軒の家に入ると、白拍子はまるで自分の家であるかのように手際よく酒の肴を運んできて、酒を勧めます。
そこで酒宴となり、酔っぱらって各々が懐から笛・笙・篳篥などを取り出して演奏も楽しみます。
仲頼も何か楽器を持参していて、合奏に加わったのでしょうね。
さんざん酔っぱらったものの、初日から余りゆっくりしている訳にも行かないので、その家から再出発し、日の暮れる頃、鏡宿に着きます。
そして宿でまた酒宴となり、そのまま寝込みます。
「仲頼、猶これまで慕ひ来ぬ」とあるので、鏡の宿で仲頼は引き返したのかと思ったら、そうではありません。

-------
愛知川といふところにおりたれば、十一二ばかりなる尼の、白子とかやいふなる、髪より始めて、目の内まで黒き所なき者出で来て、物を乞ふ。年頃名ばかりは聞けども、未だ見ざりつるに、目当てられず、かはゆし。これも、様変はりたりと思ひてゆくに、又六七ばかりなる幼き者行き合ひたり。これは、額の半ばより鼻の端まで、まろく毛生いたり。かかる姿こそ、世になきものなれ。かやうなることどもも、旅ならではいかでか見るべきと覚ゆ。させる事ならねど、ためし少なきによりて、記し置く。暮れ方に、磨針山を越ゆ。限りなく都恋しく物あはれなり。またなく悲しきは、旅の山路の夕べの景色なりけり。思ふ人々ある都だに、秋の夕は、猶身しむものなるに、ただ言はん方なし。

  これならで何をさびしと思けん旅の山路の秋の夕暮

番場といふ所にとどまりぬ。仲頼これより帰らんといへば、名残りに、夜もすがら遊ぶ。皆袖濡らしぬ。ひとところに寝て、名残惜しむ。ただ止む時なく、京のみぞ恋しきや。

  ふる里をこふる泪も草枕ひとつにむすぶ袖の白露

これより帰る人々に、人の許へ申しつかはし侍りし。

  恋しさのなぐさむとしはなけれどもかこつかたとてねをのみぞなく
-------

ということで、結局、仲頼は番場宿までついて行って、番場宿でも「夜もすがら遊」び、「ひとところに寝」たそうで、雅有とは本当に親しい間柄のようです。
なお、雅有は愛知川で「十一二ばかりなる尼の、白子とかやいふなる、髪より始めて、目の内まで黒き所なき者」と「額の半ばより鼻の端まで、まろく毛生いた」「六七ばかりなる幼き者」と出会って「目当てられず、かはゆし」と書いていますが、この「かはゆし」はもちろん「気の毒な」という意味ですね。

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再開に向けての備忘録(その4)

2022-10-19 | 唯善と後深草院二条

飛鳥井雅有が建治元年(1275)、三十五歳の時に書いた『都路の別れ』は佐々木信綱校注『飛鳥井雅有日記』(至文堂古典文庫、1949)に載せられており、国会図書館デジタルコレクションで読めます。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1707992

コマ番号で53、ページ数で82からが「都路の別れ」ですが、文学的香気に溢れる名文で綴られている訳ではなく、『春の深山路』などと比べてもかなり気楽に書いた紀行文ですね。
ただ、『とはずがたり』では地味な脇役として三か所に垣間見えるだけの藤原仲頼が、『都路の別れ』ではずいぶん雅有と親しく、親友といっても良さそうな雰囲気で登場するので、『とはずがたり』との比較のため、冒頭から少し丁寧に見て行きたいと思います。
原文はひらがなが多くて読みづらいので、適宜漢字に直していますが、歌はそのままにしておきます。

-------
  みやこぢのわかれ 建治元年

過ぎにし弥生の頃より、雲の通ひ路朝夕踏み慣らし、藐姑射の山常盤の御蔭に馴れ仕へて、いとど都の名残、昔にもまさりて立離れ難く覚ゆれど、心に任せぬ身、逃がるる方なきことさへあれば、心ならず急ぎ出で立つ。頃は七月廿日あまりのことなれば、秋のあはれにうち添へて、都の名残を歎く。

  いかに又わすれがたみにおもひいでん都わかるるころの有明
  から衣つまを宮こにとどめ置きてはるばるゆかん道をしぞ思ふ

賀茂の御やしろにて、

  をしからぬ身を祈るかな帰こん後のたのみも命ならずや

八月ついたちの暁深く立つ。とどまる人々見だに送らんとにや、車二ばかりにて、粟田口のわたりに立たる、轅の前をすぐる程、いひ知らず悲し。やうやう明けゆく空の横雲、風に乱れて、雨さへそぼ降る。松坂といふ所に、院の上北面前左馬権頭しげきよといふ者追い来たり。歎きの日数幾程なくて、ありきなど思ひ寄らぬ程なるを思ひ、送るもいぶせければ、人目も知らずなど言ふ、互ひに駒を控へて、涙をぞのごふ。とかう躊躇ひて、名残のことどもを言ひて別れぬ。これは飛鳥井の近きわたりにて、朝夕来つつ遊ぶ。御鞠の奉行にて、殊に言ひ慣れたり。又端々いささか尋ねしことも侍りし故にや、近く妻に遅れて、籠りゐて侍りしが、これまで思ひ立ち侍る、いと有難し。相坂にて、

  たち帰又あふさかとたのめ共別をとめぬ関守はうし
  あふ坂のゆきゝをまもる神ながらなどせきとめぬ別成らん
  旅衣たもとすゞしき秋風にむすばで杉の木かげもる水
-------

いったん、ここで切ります。
「院の上北面前左馬権頭しげきよ」は飛鳥井邸の近所に住んでいて、「御鞠の奉行」として仕事の面でも付き合いが深かった人のようですね。
最近、妻に死なれたので、自宅に籠っていたにも関わらず、雅有の出発を聞いて追いかけてきてくれた、というエピソードです。
さて、建治元年(1275)は政治的には非常に微妙な時期で、文永九年(1272)の後嵯峨法皇崩御後、亀山天皇の親政となり、ついで同十一年(1274)に亀山皇子の後宇多天皇が即位して亀山院政となります。
自分の子孫が皇統から排除される可能性が高まったことに危機感を抱いた後深草院は、文永十二年(建治元年、1275)四月九日、出家の決意を公表したところ、幕府の介入があり、半年後の同年十一月五日に煕仁親王の立太子となります。

「巻九 草枕」(その3)─元寇(文永の役)と後深草院の出家の内意
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94f3d9b355824ec3f1380faeac8dddb7
「巻九 草枕」(その5)─煕仁親王立太子
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a215e2fdd16eebd3030158d91937ae8

雅有は八月一日に京を出発し、十三日に「ふるさと」鎌倉に到着しているので、その旅行は後深草院の出家内意後、熈仁親王立太子が決まるまでの間です。
従って、『春の深山路』の思わせぶりな記述に鑑みれば、この鎌倉下向もあるいは政治的目的があったのか、などと勘ぐりたくなりますが、「心に任せぬ身、逃がるる方なきことさへあれば、心ならず急ぎ出で立つ」以上の示唆はありません。
まあ、文永五年(1267)に正四位下、同十一年(1274)に右中将となった程度の三十五歳の雅有は、率直に言って政治的にはさほど重要な人物でもさなそうなので、深く考えても仕方ないのかもしれません。
少なくとも『都路の別れ』は旅の宿での遊興記事が目立つ気楽な紀行文であり、歌日記ですね。
仲頼はこの直後の場面に登場しますが、少し長くなったので次の投稿で紹介します。

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再開に向けての備忘録(その3)

2022-10-18 | 唯善と後深草院二条

早歌における「白拍子三条」と同様、「昭慶門院二条」が後深草院二条の「隠名」ではなかろうかと疑っている私としては、飛鳥井雅有が『とはずがたり』『増鏡』に登場しているかも気になりますが、『とはずがたり』には全く出て来ません。
『増鏡』にも本人は登場しませんが、巻十四「春の別れ」には、正中元年(1324)の後宇多院崩御後、「雅有の宰相の女〔むすめ〕」である「宰相典侍」が万秋門院と哀傷の歌を贈答する場面があります。(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、p126以下)
ということで、『とはずがたり』『増鏡』いずれにも雅有と後深草院二条の直接の関係を窺わせる記述はありませんが、しかし、『春の深山路』には、雅有が久我家の家司で『とはずがたり』にも登場する藤原仲綱(「尾張守仲綱入道」)とその息子・仲頼と親しく交流する様子が出てきます。
まず弘安三年(1280)三月七日、雅有が亀山院の近臣や女房たちにせがまれて千本釈迦堂に花見に行ったところ、雨が激しく降り出してきたので、一行は釈迦堂で雨宿りします。
そして、

-------
帰りざまに、尾張守仲綱入道、もとより籠り居て侍りしが許へ駆けて逃げ侍りし。
  暮れぬとて今日来ざりせば山桜雨より先の色を見ましや
皆々人々は道よりあかれぬ。今ただ雅藤・業顕ばかりにて帰り参りぬ。猶雨降る。さらばとて、この人々を引き連れて帰りて、夜もすがら物語してぞ、遊びぬる。

【外村南都子訳】
帰り道に、前尾張守仲綱入道が以前からこもっていた家へ、走って逃げ込んだ。
  暮れぬとて……(日が暮れたからといって今日来なかったならば、雨に降られる前の
  美しい山桜の様子を見られただろうか、いや見られなかっただろう)
人々はみな道の途中で別れた。今はもう雅藤と業顕だけで、一緒に帰ってきた。まだ雨が降っている。それではと、この人々を連れて家に帰って、夜通しおしゃべりして遊んだ。
-------

ということで(p326)、仲綱入道は極めて唐突に登場しますが、雅有が大勢を引き連れて突然訪問しても驚きもせず歓待してくれたようなので、雅有とはよほど気心の知れた間柄ですね。
ところで、『とはずがたり』には、文永九年(1272)八月、仲綱は後深草院二条の父・雅忠の死の直後に出家して千本の聖のもとに住んでいたとあります。
即ち、

-------
 五日夕がた、仲綱こき墨染(すみぞめ)の袂(たもと)になりて参りたるをみるにも、大臣(だいじん)の位にゐ給はば、四品(しほん)の家司(けいし)などにてあるべき心地をこそ思ひつるに、思はずにただいまかかる袂をみるべくとはと、いとかなしきに、「御墓へ参り侍(はべ)る。御ことづけや」といひて、彼も墨染の袂、乾くところなきを見て、涙おとさぬ人なし。

【次田香澄訳】
 五日の夕方、仲綱が濃い墨染(すみぞめ)の衣の姿にあらためて参ったのをみるにつけても、父が大臣の位になっていらっしゃったならば、仲綱は四位(しい)の執事(しつじ)などになるはずと、みな思っていたのに、思いがけずただいまこういう出家の姿を見ようとはと、まことに悲しい。「お墓へまいります。何かおことづけでも」といって、彼も墨染の袂(たもと)が乾くところもないほどであるのを見て、涙を落さない人はなかった。

http://web.archive.org/web/20150512051734/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa1-18-menotorashukke.htm

とのことで、雅忠が大臣に出世していたら仲綱も「四品の家司」になれたはず、というのが後深草院二条の見立てです。
そして仲綱が千本釈迦堂の近くに住んだことは少し後、父親の四十九日が済んで間もない時期に、後深草院二条が乳母の家で「雪の曙」(西園寺実兼)と契る場面に、「めのとの入道なども、出家の後は千本の聖のもとにのみ住まひたれば」と出てきます。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p147)
『春の深山路』は雅忠の死の八年後、弘安三年(1280)の仲綱の様子を描いていますが、出家して千本釈迦堂の近くに住んでいることは『とはずがたり』の記述と一致していますね。
さて、仲綱の息子の仲頼は雅有が関東に向けて出発する直前、十一月十一日に登場します。

-------
十一日、下るも幾程なければ、いとど名残も多くて、暮るる程に東宮に参りぬ。廂に出御あり。いかに思ふらむなど打ち湿りおはしまし、常灯も参らず、月御覧ぜられておはします。大方にだにこぼれやすき涙の、いかでかかかる御気色につれなからむや。いひ知らぬ袖の上なり。月をだに宿して見むには、げに濡るる光にいてもあらまし。「仲頼といふ新院の上北面、名残とてまうで来たり」と申せば、ただ今出でむもいと口惜し。又出でざらむも人のため情なかるべし。とばかりありて、ちとこの由を申して、やがて帰り参らむとて、頼成を申して相具して出でぬ。盃廻る程なく又参りぬ。【後略】

【外村南都子訳】
十一日、関東下向も間近であるから、いっそう名残惜しさもまさり、夕暮の頃、東宮御所へ参上した。東宮は廂間にお出ましであった。出立の後はどのように思うであろうかなどと、しおれておいでになり、灯火もつけさせずに、月を御覧になっていらっしゃる。そうでなくてもこぼれそうな涙なのに、どうしてこのようなご様子に平気で、涙せずにいられようか。言いようもないくらい涙に濡れる袖の上である。その袖に月を宿して見るならば、本当に濡れたように輝く月光であろう。「仲頼という亀山院の上北面の武士が、お別れを、といって参っております」と申すのだが、今退出するのもたいそう口惜しい。また、退出しないのも相手に対して情のないことであろう。しばらくいて、ちょっとこのことを申して、すぐ帰ってくるといって、頼成を申し受け、一緒に退出した。盃が一巡する間もなく、また御所に参上した。
-------

ということで(p265)、ここだけ見ると、せっかくの東宮(熈仁親王、伏見天皇)との別れの場を仲頼に邪魔されてしまったのは残念だ、と言っているように見えますが、藤原頼成と三人で一杯やってから東宮御所に戻って来ている訳ですから、雅有は仲頼とも相当に親しい間柄ですね。
仲頼は五年前の関東下向の際の紀行文である『都路の別れ』にも登場しており、こちらでは雅有との親しさがよりはっきりと描かれています。

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再開に向けての備忘録(その2)

2022-10-18 | 唯善と後深草院二条

「昭慶門院二条」を除く「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の参加者のうち、飛鳥井雅有は永仁元年(1293)の「永仁勅撰儀」で二条為世・京極為兼・九条隆博とともに勅撰集の撰者に選ばれたほどの歌人であり(政治的事情により実現はせず)、蹴鞠の名人でもあり、関東伺候廷臣の代表格として歴史研究者にもなじみのある人ですね。

飛鳥井雅有(1241-1301)
https://kotobank.jp/word/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E9%9B%85%E6%9C%89-14314
「千人万首」(「やまとうた」サイト内)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masaari.html

弘安三年(1280)、雅有が四十歳のときの仮名日記『春の深山路』には雅有が関東下向の途中で寄った三島社についてかなり詳しい記述がありますが、中世人の宗教心について考える上でも興味深い素材なので紹介しておきます。
引用は『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』(小学館、1994)から行います。
雅有は十一月十四日に京を出発して東海道を下りますが、二十四日の記事の後半に次のようにあります。(p382以下)

-------
〔四七〕黄瀬河より三島神社まで

黄瀬河は足柄へかかる道なれば、よそに見て過ぐる。駿河の国府近くなりて、小河あり。「雨降り河となむいふ」と申せば、その故を問へば、「雨降らむとては水無くなる」と申す。興あることなり。水無しの池こそ、さやうには清少納言枕の草子に書きたれ。国府に着きぬれば、まことに御手洗河の潔さ、神の御心も推し量られて、尊し。これは三島の明神にておはします。伊予の三島よりはこの三島を本神と申し、これより伊予を本社と申すなること、いとめでたけれ。仁徳天皇と東宮と位を互ひに譲りおはしまししことも思ひ出でられて、今の世の人の、我々と争ひいふこそ恥づかしけれ。十首の述懐歌を詠じて、報恩せむと思ひてぞ詠み居たる。この家主、巫女の第四の座とかや、ゆゆしく正しき童巫女ある由申せば、試みむと思ひて、呼ばせて神下させて、人して問はず。「身の訴えへあり」「やがて叶ふべし」「官達の所望あり」「少し遅くあらむかし。始終は喜びあるべし」「又忝き人の御事を鎌倉にて申さむと思ふ、いかがあるべき」「めでたかるべし」「構へて喜びどもして、明年の秋より先に、京へ返し上せ給へ」と申せば、「『易き事』と仰せらる」と申せば、まづ嬉しくて、「思ふ如く叶ひて、秋より先に帰り上らむ時は、喜び申すべし。よくよく祈れ」とぞ申し遣る。大方かやうの巫女体のことは、耳の外におぼえ侍れど、所に従ひ、又あまりに上りたさといひ、かたがたあらましも心地よければ、問ひて慰むぞはかなきや。暁発つとて御幣参らせて、この十首の歌を読み上げさせつ。宿の主をぞ師と頼むる。
-------

文章は比較的平易ですが、外村南都子氏の現代語訳も紹介しておきます。

-------
黄瀬河は足柄越えの道にあたるので、横目に見て通過する。駿河の国府の近くになって、小さい川がある。「雨降り河という」と人が言うので、そのわけを聞くと、「雨が降りそうなときは水が無くなる」と言う。興味深いことだ。水無しの池について、そのように清少納言が『枕草子』に書いている。国府に着いたところ、本当に御手洗河の清く澄んでいることは、神の御心もこのようかと推量されて、ありがたい。これは三島明神でいらっしゃる。伊予の三島からこの三島を本神と申し、こちらからは伊予を本社と申すということは誠にけっこうなことである。仁徳天皇と東宮とが互いに位を譲り合われたことも思い出されて、今の世の人が、自分が自分がと争い主張することは、恥ずかしいことだ。十首述懐の和歌を詠んで、報恩しようと思って詠んでいる。泊った家の主人は、巫女の第四位とかいうことで、すばらしくお告げがあたる子供の巫女がいると申すので、試してみようと思って、呼ばせて神を降ろさせて、人をして質問させる。「私には願いごとがあります」「すぐさまかなうであろう」「官位栄達の願いがあります」「少し遅れるであろう。結局は満足できよう」「また畏れ多い方のことを鎌倉で申そうと思いますが、どうでしょうか」「結構であろう」「きっと十分に御礼をし、来年の秋より先に都へ帰京させてください」と申すと、「『たやすいこと』とおっしゃる」と申すので、ともかく嬉しくて、「思うように願いがかなって、秋より先に帰京する時には、御礼申し上げましょう。よくよくお祈りして」と言ってやる。一体、こういう巫女風情の言うことは、聞き入れるべきものとも思われないが、所の風に従い、また、あまりに都に帰り上りたい気持が強いことといい、いずれにつけても、将来の予想もこころよいことであるので、質問をして心を慰めるのは、思えばはかないことだ。夜明け前に出発するというので、この十首の和歌を読み上げさせた。宿の主人を師として頼む。
-------

「忝き人の御事」とは出発前に後深草院・東宮(伏見天皇)から受けた指示のことです。
十一月十三日の記事に、

-------
康能朝臣承りとて召せば、暮れる程に参りぬ。院の御方より仰せ下さるる事ども多し。まづ忝く身もあらぬかとのみ辿らるる程のことも交はれり。やがて東宮御前にて、関のあなたにて申すべき事書きなど賜ひぬ。御沙汰のやうあはれにも忝し。

【外村訳】康能朝臣が御命令を承るようにといって召すので、日暮れ頃に御所へ参上した。院からの仰せ言がたくさんある。その中には畏れ多くて、身の置き所もないと思われるほどのことも混じっていた。すぐに東宮の御前で、関東で申すべきことの文書などを下された。御手配の次第は身にしみてかたじけないことである。
-------

とあり(p367)、具体的な内容は明記されていませんが、建治元年(1275)十月に熈仁親王が皇太子となってから既に五年が経過しているので、早期の皇位交替を希望する、といった話でしょうね。
とすると、「仁徳天皇と東宮と位を互ひに譲りおはしまししことも思ひ出でられて、今の世の人の、我々と争ひいふこそ恥づかしけれ」も、些か皮肉な味わいが出てきます。
また、雅有が巫女による神降ろしの話を詳しく書くので信心深い人かと思ったら、「大方かやうの巫女体のことは、耳の外におぼえ侍れど」とシニカルな態度を取っている点も面白いですね。
たいして信じてはいないけれど、自分に都合の良いお告げだったら有難く聞きましょう、ということで、大半の現代日本人の宗教的感情とさして違いはなさそうです。
なお、六条康能は雅有関東下向の直前の弘安三年(1280)十月、熈仁親王の文芸サークル内で催された「弘安源氏談義」に雅有とともに参加している人で、後に「善空事件」で失脚します。

坂口太郎氏「禅空失脚事件」への若干の疑問(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7d295ec22dffdd32c01dbd66fc7f53e2

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再開に向けての備忘録(その1)

2022-10-16 | 唯善と後深草院二条

今年は年初にマルクス考古学者・斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』の検討を少し行った以外は、主に、

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」
小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」
今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」
林幹弥氏「金沢貞顕と東山太子堂」
善空事件に関する森幸夫説への若干の疑問
善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問
坂口太郎氏「禅空失脚事件」への若干の疑問
永井晋氏「倉栖氏の研究─地元で忘却された北条氏被官像の再構築─」
東国の真宗門徒に関する備忘録
西岡芳文氏「初期真宗へのタイム・トリップ」
平松令三氏「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」
「甲斐国等々力万福寺旧蔵の親鸞聖人絵伝(六幅)」
性海の第四の夢に登場する二人の僧は誰なのか。
津田徹英氏「親鸞の面影─中世真宗肖像彫刻研究序説─」
「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」と「昭慶門院二条」
『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?
外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」

といったテーマで中世史・中世文学・中世宗教の検討を続けてきました。
そして、「昭慶門院二条」を除く「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の参加者のうち、二条為道・冷泉為相・宇都宮景綱の検討が一応終わったばかりの段階ですが、些か唐突ではあるものの、ここでちょっと一休みしたいと思います。
何故一休みするかというと、前々からやってみたいと思っていた別のテーマがある上に、和歌の基礎的な勉強をきちんとしておく必要を感じたからです。
後者の直接のきっかけは『沙弥蓮瑜集』を読んだことで、この歌集は予想していたより遥かにレベルが高いように感じたのですが、自分に和歌の基礎的な素養が乏しいので、他の歌人との比較がうまくできません。
鎌倉末期は政治と和歌の世界が複雑に交錯する、日本史上でも極めて珍しい時代ですが、従来、朝廷における持明院統と大覚寺統の対立と和歌の京極派・二条派の対立の関係については一応の注意が払われていたものの、武家歌人の和歌愛好は単なる個人の趣味ないし社交の道具と捉えられていて、公武関係の問題として和歌を考察する研究は乏しかったように思います。
この点、私は従来から些か異なる見方をしていて、今の時点でもそれなりの理屈を言うことは可能なのですが、『沙弥蓮瑜集』に触れてみて、どうにも自分に和歌そのものの素養が乏しいことが、より深い認識に達することを妨げる阻害要因になっているように思えてきました。
そこで、いったん直近の問題意識から離れて、和歌を分析するための基礎的な知識と感性を底上げした上で、改めて鎌倉末期の歌人たちに向かって行きたい、などと思っています。
その上で、改めて「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」から再開するつもりですが、一応の見通しはいくつか立っているので、それだけ備忘録として少し書いておくことにします。
ま、私は7月14日の投稿で、

-------
7月8日に安倍元首相が亡くなって以降、何となく投稿の意欲が減退してしまい、暫く休んでいましたが、またボチボチと始めたいと思います。
ただ、あんな風に突然に生命が断ち切られてしまう出来事を見ると、まあ、私の場合は特に重要人物ではないので殺されるようなことはないにしても、交通事故で死んだりする可能性はそれなりにある訳で、やはり物事に優先順位を付けないといかんなあ、などと思ったりもしました。
私が投稿しているのは大半が遥か昔の時代に関する些末な考証ですが、実は前々から書きたいと思っているテーマもあって、これを先送りせず、ある程度纏めて置こうかなと考えています。
とはいっても、現在進行中のテーマをいきなり全て断ち切るのももったいないので、後日の再開の準備として、ほんの少しだけメモを残しておきたいと思います。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c37b5d63c266f8a5d8e3062a5b6a7c1d

などと書いてから三ヶ月経っても中世を脱していないので、備忘録として少し、などと言ってもダラダラ続きかねないのですが、今回は本当に数回でとどめたいと思います。

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2022年10月の中間整理(その5)

2022-10-15 | 唯善と後深草院二条

善空事件と浅原事件の関連性を考察した研究は今まで存在しないと思いますが、私は若干の検討を試みており、仮に私見が正しいとすれば宇都宮景綱の役割も相当に重要だったように思います。
平禅門の乱では、景綱は平宗綱が安東重綱の尋問を受けた後に宗綱を預かっており、北条貞時からは相当に信頼されていたことが窺えます。

外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ee2d4f8b3283ba45b08af7e4272787d

外村氏の『とはずがたり』の引用はかなり変で、北条貞時と平頼綱を混同していますね。

(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75b22cca5a0498a6a23a0aeb7f21e0ca

外村氏は貞時の和歌愛好をあくまで個人の趣味と捉えており、こうした認識は外村氏だけでなく国文学者・歴史学者の大半の共通認識でしょうが、私はかなり異なった考え方をしています。
それは、貞時の和歌への執着は貞時の統治者意識が幕府(東国)だけでなく、西国を含む日本全体に及んでいることの反映ではなかろうかというものです。

(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6ee7787c1c2c16a61ab4aa3deb720c8a

京極為兼と深い関係を持った関東の武家歌人には景綱と長井宗秀(1265-1327)がいますが、為兼より十一歳年下の長井宗秀が露骨に京極派風の歌を詠んでいるのに対し、為兼と景綱の関係は難しいところがあります。
外村氏によれば、為兼が景綱に影響を与えたのではなく、逆に為兼より十九歳年長の景綱の歌風が新しい和歌を創造しようとしていた為兼に刺激を与えた可能性があるそうです。
この外村説が国文学界においてどのように評価されているのか私は知りませんが、斬新な見解ではあります。

(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a062c2aba6a94cbe45545ff52988d45

『沙弥蓮瑜集』には景綱と為兼の贈答歌が五回・十首も載っていて、贈答歌の多さでは為兼が一番です。
為世も『沙弥蓮瑜集』に頻出しますが、贈答歌は一回分だけで、為世が二首贈ったのに対し、景綱が二首返しています。

(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8c749761fbcc1f980cb18e9670f8e623

『沙弥蓮瑜集』全部を通してみても贈答歌は為兼と為世との間のものだけで、かなり珍しいですね。

(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc1407b2a331e3fd6441c2d53ffb11e1

『沙弥蓮瑜集』は景綱の人生の回顧集ではなく、景綱の歌人としての社交の範囲をそのまま反映したものでもなく、あくまで晩年の景綱が自身の作として価値があると認めた歌を集めたものです。
そのような『沙弥蓮瑜集』において、贈答歌の相手が為兼と為世だけであることは注意を要すると思いますが、為兼との贈答歌は五回・十首であるのに対し、為世とは一回・四首であることは、景綱にとって二人との関係が相当に異なることを示唆しているようです。

(その13)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c2248b05301c67d2bb93083356e47823

『伏見天皇宸記』永仁元年(1293)八月二十七日条によれば、為兼が見た夢に景綱が登場し、「叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰」すると告げたのだそうです。
この夢について、本郷和人氏は「伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していたのではないか」と解されますが(『中世朝廷訴訟の研究』)、同日条の記事全体に占める景綱関係の記事の比率を見れば明らかなように、この時点で伏見天皇にとって最も重要なのは勅撰集の撰集です。
従って、「叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰」といっても、別に討幕とかではなく、伏見天皇の撰集方針に従わず、妨害するものは景綱が許さないぞ、程度の話と考えるのがよさそうです。
『伏見天皇宸記』だけ見ていると、宇都宮景綱の登場はあまりに唐突な感じが否めませんが、『沙弥蓮瑜集』で景綱と為兼の交流の深さを知ると、さもありなん、と思われてきます。

(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b80c400f30c1c3eb443d5cbfac3a0ea9

外村氏は為兼が『玉葉集』に景綱の歌を六首入集させていること、後に『風雅集』にも一首採られていることから「景綱の和歌が、単なる鎌倉和歌を脱して、京極派も認める、新式の和歌であったことを証している」とされますが、二条為世も景綱を高く評価していて、嘉元元年(1303)奏覧の『新後撰集』に六首、元応元年(1318)奏覧(年次には争いあり)の『続千載集』にも六首入れています。
つまり景綱の歌は為世の立場からも評価できる要素が相当にある訳で、そうした要素を無視するような外村氏の立論には若干の疑問を覚えます。

(その15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5d033df012d2650c886f533494ab0dd

コメント
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