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山家著(その11)「 頼朝の追善」

2021-04-29 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月29日(木)18時04分58秒

「頼朝の追善」に入ります。(p20以下)

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 尊氏・直義の京都での拠点を検討するなかでも、前掲(1)(2)にかかわる意識を垣間みることができた。新政権は、継承者であることを明示するために、このほかにも多様な場面で、さまざまなしかけを試みることになる。とりわけ、これら前政権の中心人物の死をとむらい、その仏事を主宰することは、衆人にわかりやすいデモンストレーションとなった。前政権の中心人物とは、鎌倉幕府で実権をもった将軍であった頼朝など、ついで鎌倉幕府後半の中心となった北条氏、とくに家督である得宗、そして後醍醐天皇である。
 頼朝らの場合は、その死去から年月が経過して、三十三回忌はとうにすぎているため、周忌仏事を開催する機会は少なく、既存のとむらう施設を管理下におく方向で進んだ。頼朝をとむらう施設として、鎌倉には法華堂(右大将家法華堂)があった。生前には頼朝の持仏堂で、現在の頼朝墓がある場所に建てられていたとみなされている。一二四七(宝治元)年、北条氏に立ち向かった名族三浦氏は、敗色濃厚のなか、一族五〇〇人で法華堂に籠り、頼朝の遺影の前で自害して果てた。みずからこそ頼朝の精神を受け継ぐものという意思表明だったのだろう。法華堂は、東国に武家政権を建てた頼朝を象徴する場所として意識されていたのである。
-------

うーむ。
冒頭に「尊氏・直義の京都での拠点を検討するなかでも、前掲(1)(2)にかかわる意識を垣間みることができた」とありますが、私は納得できません。
おそらく山家氏は、直義邸(三条殿)が「鎌倉時代には源姓公家である源通成の邸宅であり、邸内に八幡宮をまつっていたこと」が「(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと」と関係しているとされるのでしょうが、中院通成は公家社会では「源氏の嫡流」である村上源氏であっても、直義が「兄弟で源氏の嫡流たらんことを強く意識していた」武家社会の清和源氏とは全く別の世界に生きていた人です。
従って、村上源氏の公家の邸宅にあった「八幡宮の存在は、直義がこの地に邸宅を定める大きな要因」とはならなかっただろうと私は考えます。
また、「東山常在光院は、北条氏一門の金沢氏が京都での拠点としていた寺院である」ことは、山家氏の立場では「(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること」と関係しているのでしょうが、これは「金沢氏は尊氏にとって義母の実家であり、縁戚関係を利用している」のですから、「支配の正統性」などといった大袈裟な話にしなくとも、普通の財産相続の論理で説明できそうです。
そして、等持寺・等持院・真如寺といった「足利氏ゆかりの寺院」は源頼朝とも北条氏とも関係ないので、結局、山家氏が検討された「尊氏・直義の京都での拠点」全てにおいて「前掲(1)(2)にかかわる意識を垣間みること」は無理ではないかと思われます。
次に「頼朝をとむらう施設」についてですが、和田合戦(1213)の際には、『吾妻鏡』に足利義氏が朝夷名三郎義秀と一騎打ちをするなど大活躍をしたことが特筆されているものの、宝治合戦では足利家関係者の動向は顕著ではありません。
ただ、義氏は三浦に連坐して滅亡した千葉秀胤の遺領を恩賞として与えられているので、北条氏側に立っていたことは明らかです。

「第一節 鎌倉御家人足利氏」(『近代足利市史』第一巻通史編)
http://web.archive.org/web/20061006211642/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ashikaga-kindai-01.htm

とすると、「頼朝をとむらう施設」である「右大将家法華堂」は、その由緒の語り方によっては必ずしも足利氏にとって素晴らしい場所ではなく、むしろ「不都合な真実」を示唆する場所だったかもしれません。
もちろん「支配の正統性」を過去に求める場合、「不都合な真実」は見ないフリをすればよいだけの話で、たいした問題ではありませんが。
さて、続きです。(p21以下)

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 法華堂には、禅衆と呼ばれる僧侶が籍をおいていた。一三三五(建武二)年十二月、建武政権下で鎌倉に下向していた直義は、禅衆たちに立場を保障しており、すでに法華堂を管理する立場にあった。この年八月、鎌倉を一時占領していた北条時行は、三浦半島にあった禅衆の所領を安堵しており、鎌倉支配者にとって法華堂を管理することが重要であったことをかがわせる。こののち、尊氏・直義の共同統治期の法華堂のようすは残念ながら明らかでないが、観応年間(一三五〇~五二)になると、法華堂を僧侶として統括する別当職に、京都醍醐寺地蔵院の院主が任じられる。地蔵院主は、こののち将軍のバックアップを受けて、京都から離れた場所にあるこの職の維持につとめている。幕府は引き続き法華堂を管理下におこうとしていることがわかる。
 鎌倉には源氏一族関係の法華堂として、もう一つ、二位家・右大臣家法華堂があった。二位家は、頼朝の妻で頼朝死後に活躍した北条政子、右大臣家は、三代将軍実朝をさす。この法華堂も幕府の管理下におかれていた。直義は、一三四七(貞和三)年に、この法華堂の別当職に醍醐寺三宝院の院主賢俊を任じ、この別当職はのちに三宝院に伝領され、将軍から安堵されている。
-------

「一三三五(建武二)年十二月、建武政権下で鎌倉に下向していた直義は」云々との表現は、ここだけ読むと若干変な感じがしますが、直義はちょうど二年前の元弘三年(1333)十二月に成良親王を伴って鎌倉に下向しており、下向当初から「禅衆たちに立場を保障」していて、ただ安堵の文書が「一三三五(建武二)年十二月」のもの以外見当たらないということなのでしょうね。
ちなみに直義は同年十一月二十三日に大軍を率いて鎌倉を発ち、二十七日、三河国矢矧で新田義貞軍に敗北、十二月五日、駿河国手越でまた負けて、鎌倉に戻って尊氏を説得して一緒に反撃に出るという慌ただしい日々を送っており、「一三三五(建武二)年十二月」に鎌倉に滞在していた期間はごく僅かですね。
また、「鎌倉を一時占領していた北条時行は、三浦半島にあった禅衆の所領を安堵して」いたとのことなので、「禅衆たちに立場を保障」することは鎌倉の支配者の通常業務であり、尊氏・直義に特有の「支配の正統性」の問題でもないように感じます。
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山家著(その10)「 足利氏ゆかりの寺院」

2021-04-29 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月29日(木)15時59分34秒

山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』シリーズを九回続けてきましたが、タイトルをこのままにしておくと内容を即座に把握できず、検索の際にも不便なので、今回から少しやり方を変えました。
従来の投稿についても補正するつもりです。
ということで、続きです。(p19以下)

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 直義邸の北に隣接して、尊氏の二条高倉邸にも近い位置に等持寺が存在した。直義邸に付属する持仏堂のような存在の禅宗寺院であり、洛中にはじめて設けられた足利氏ゆかりの寺院となる。その変遷や意義は細川武稔氏の研究に詳しい。一方、洛北には等持院という似た名前の寺院があり、こちらは足利氏の葬送にかかわる寺院として位置づけられていく。
 では等持院の立地にはどのような背景があるのだろうか。等持院は、現在でも真如寺の西隣に位置している。真如寺は、夢窓疎石が高師直に勧めて、さきに存在していた正脈庵という寺院を核として、天龍寺と同時並行的に造立された。核となった正脈庵は、尼僧無外如大が、師匠である無学祖元(夢窓疎石の師の師)の遺髪などをまつって始めた禅院で、鎌倉時代末には存在していた。無外如大は、尊氏の異母兄高義の母方の祖母で金沢氏に嫁いだ無着と同一人物と伝えられるけれども、その伝記には矛盾も多く、無外如大と無着は別人であるかもしれない。その場合でも、両者が似た境遇にあったがゆえに混同されたのであろうから、無外如大も無着と同じく足利氏ゆかりの女性である可能性は高い。そこで、足利氏は、ゆかりの尼僧が開創した正脈庵に隣接した場所を選んで禅院を設け、一族の葬送にかかわる機能をもたせた、と推測することができよう。
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等持院と真如寺の関係は分かりにくいのですが、細川武稔氏の「等持院・真如寺と足利氏」(西山美香編『古代中世日本の内なる「禅」』所収、勉誠出版、2011)によると、かつての真如寺の境内は相当に広くて、真如寺の中に等持院が包摂されていたようですね。
さて、山家氏は「無外如大と無着は別人であるかもしれない」と書かれていますが、山家氏は「無外如大の創建寺院」(『三浦古文化』53号、京浜急行電鉄、1993)の後に「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』301号、神奈川県立金沢文庫、1998)という論文を書かれて、後者で二人が別人であることをご自身で明確にされています。
「かもしれない」はあまりに慎重な書き方で、ちょっと不思議ですね。

「無外如大の創建寺院」
http://web.archive.org/web/20061006213232/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai-jiin.htm
「無外如大と無着」
http://web.archive.org/web/20061006213421/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai.htm

また、「無外如大も無着と同じく足利氏ゆかりの女性である可能性は高い」とありますが、「無外如大と無着」では上杉氏関係者と推測されていて、この点、再考されたのでしょうか。
ちなみに私は山家氏の二つの論文に触発され、無外如大(1223-98)は足利義氏の娘で、四条隆親の後室となり、隆顕(1243-?)を産んだ女性ではなかろうか、などと考えたことがあります。
ただ、この女性は割と早く亡くなった可能性が高く、ちょっと無理筋だったかなと思いつつも、まだあきらめきれない状況です。

高義母・釈迦堂殿の立場(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/527766e220012abaa4256eeda165cde2
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山家著(その9)「京都での根拠地」

2021-04-28 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月28日(水)10時49分40秒

続いて「京都での根拠地」に入ります。(p16以下)

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 はじめに、尊氏・直義が京都でどこを拠点にしたかをみる。鎌倉時代の足利氏は京都にこれといったよりどころを保持していなかったと想像され、京都を本拠地とするにあたり、どこに邸宅を構え、氏寺を設けたかを整理することで、足利氏がみずからのよりどころを何におこうとしたか、垣間みえてくる。正統性の根拠と共通するものがあるはずである。
 直義は、建武政権の時代以来、一貫して三条坊門小路の南、万里小路の西、高倉小路の東に位置する邸宅に居住した。三条殿と呼ばれることが多い。この場所を選んだ理由として、後醍醐天皇の二条富小路内裏に近いことがあげられている。加えて、古く宮地直一氏は、この場所は鎌倉時代には源姓公家である源通成の邸宅であり、邸内に八幡宮をまつっていたことを指摘している。直義は、兄弟で源氏の嫡流たらんことを強く意識していた。源氏と関わりの深い八幡宮の存在は、直義がこの地に邸宅を定める大きな要因となったであろう。通成邸の八幡宮は、直義邸の鎮守八幡宮へと転化した。直義亡きあと、直義邸は別人の宅地とはならず、八幡宮として位置づけられて三条八幡宮と呼ばれ、事実上、幕府の管理下に置かれた。
-------

いったん、ここで切ります。
何故か弟の直義邸から始まっていますが、それは直義邸には「源姓公家である源通成の邸宅であり、邸内に八幡宮をまつっていた」という由緒があるのに対し、尊氏邸にはさほどの由緒を見つけられなかったからでしょうね。
ただ、「源姓公家である源通成」は村上源氏・中院家の人で、源氏は源氏でも武家社会で重んじられる清和源氏とは全く別の系統であり、直義は中院通成におよそ同族意識など感じなかったはずです。
ちなみに中院通成(1222-87)の父・通方(1189-1239)は久我通光(1187-1248)の同母弟で、通成は後深草院二条の父・雅忠(1228-72)の従兄弟にあたります。
また、中院通成の娘・顕子は西園寺実兼(1249-1322)の正室で、公衡(1264-1315)と永福門院(1371-1342)の母でもあり、国文学者の中には永福門院の本当の母親は後深草院二条なのだという人もいたりします。

中院通成(1222-87)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E6%88%90

ま、それはともかく、素直に考えれば直義が中院通成の子孫(通顕、1291-1343)から中院邸を接収したのは、そこが「後醍醐天皇の二条富小路内裏に近い」という便利な場所だったことが最大の要因で、たまたまそこに「源氏と関わりの深い八幡宮」が存在していたとしても、それが頼朝に結びつくような由緒をもっているならともかく、所詮は村上源氏の邸宅内の八幡宮ですから、「その存在は、直義がこの地に邸宅を定める大きな要因となった」訳ではなかろうと思います。
他にもっと便利な場所があれば、そちらに八幡宮がなくても直義はより便利な場所を選んだのではないですかね。
後日、その場所が「別人の宅地とはならず、八幡宮として位置づけられて三条八幡宮と呼ばれ、事実上、幕府の管理下に置かれた」のは、直義が新たな由緒を作っただけの話であり、山家氏の発想はここでも原因と結果が逆転しているように思われます。
さて、続きです。

-------
 一方、尊氏は、建武政権の時、直義邸の北、二条高倉に居住していた。この邸宅は焼失し、一三四四(康永三)年には鷹司東洞院邸に居住している。土御門東洞院内裏の近くである。細川武稔氏によると、この間、尊氏は東山常在光院に居宅を構えていた。東山常在光院は、北条氏一門の金沢氏が京都での拠点としていた寺院である。金沢氏は尊氏にとって義母の実家であり、縁戚関係を利用していると考えられる。
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常在光院は『徒然草』第238段の兼好自讃の一つに「常在光院の撞き鐘の銘は、在兼卿の草なり……」と登場するので、以前少し調べたことがありますが、納富常天氏の「東山常在光院について」(『仏教史研究』10号、1976)という古い論文以外には特に専論もないようですね。
そして納富論文にも尊氏が常在光院を取得した経緯については説明がありません。
山家氏が「金沢氏は尊氏にとって義母の実家であり、縁戚関係を利用していると考えられる」と書かれているのは、具体的には尊氏の異母兄・高義(1297-1317)の母・釈迦堂殿が金沢貞顕(1278-1333)の姉妹なので、貞顕の死後、釈迦堂殿が承継し、尊氏は更に釈迦堂殿から譲り受けた、といった経緯を想定されているのかな、と思います。

四月初めの中間整理(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5f1db273cf73164c724151a329f3d535
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山家著(その8)「正統性の確立」

2021-04-28 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月28日(水)08時36分44秒

山家著では厳密な章立てはなされていませんが、二番目の章「足利氏権威の向上」に入ります。
この章は、

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正統性の確立
京都での根拠地
頼朝の追善
北条氏の追善
後醍醐天皇の追善
頼朝の後継者尊氏
足利氏の優位性
神仏の付託
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という八節で構成されていますが、まず最初の「正統性の確立」から見て行きます。(p15以下)

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 一三三六(建武三)年八月、光明天皇が即位し、十一月には、尊氏を中心とする政権の方向性が建武式目として公表され、新政権は歩みを始める。いわゆる室町幕府である。新政権をめぐる情勢は予断を許さないものだった。後醍醐天皇は、いったんは尊氏との和議を受け入れたものの、十二月には京都を脱出して吉野に拠点をおき、その後も、もう一方の政治勢力の核であり続けた。尊氏を擁する新政権は、幅広い支持をえるため、軍事面での優位を保つことばかりでなく、政権担当者としての正統性を示すことに腐心する。一三三八(暦応元)年八月に尊氏は征夷大将軍となった。尊氏、そして足利氏が、鎌倉幕府の将軍と同等の存在として、加えてその後の諸勢力の継承者として、幅広い人びとに認知されるならば、新政権は他の勢力を排して安定へと向かうことが可能となる。ここでは、政権担当者としての正統性の確立について述べたい。
 尊氏を中心とする政権にとって、継承者としての正統性を主張する場合、その根拠は三点ほどあげられる。まずは(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと。より狭義には頼朝ら三代の鎌倉幕府将軍の後継者であることを意味し、ひいては鎌倉幕府将軍という地位の後継者を主張することにもつながる。またその将軍のもと政権の実権を掌握していたのは北条氏であった。そのため(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること。さらに、尊氏らが継承する対象として、前政権である建武政権も忘れてはならない。そこで(3)北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること。この三点が主眼となろう。
-------

山家氏が「継承者としての正統性を主張する場合」と限定されているのは興味深いですね。
「支配の正統性」については、マックス・ウェーバーの余りに有名な三類型の議論があります。
「理念型」とは何か、みたいな難しい議論は避けて、ごく一般的・通俗的な理解によれば、「コトバンク」の「ブリタニカ国際大百科事典」解説にあるような、

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権威には,他者に命令し影響を与えるだけではなく,尊敬を集め,自発的に服従させる能力が含まれている。ある政治的支配が正統であると認められる場合は,政治権力が権威に源泉を置き,支配は権利となり,服従は義務となって,安定した支配関係が成立する。 M.ウェーバーは正統性の型を伝統的・カリスマ的・合法的の3つに分類した。世襲に代表される伝統的支配は前近代社会に,個人の強い個性・魅力に基づくカリスマ的支配は主として変動期社会に,ルールや手続きに依存する合法的支配は近代社会に当てはまる。

https://kotobank.jp/word/%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%AE%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E6%80%A7-158997

といった話ですね。
仮に尊氏が頼朝のようなカリスマ的支配者で、地方で反乱を起こして自己の支配領域を徐々に拡大し、最終的には前政権を武力で圧倒して平和をもたらしたなら、それだけで「支配の正統性」としては十分で、「政権担当者としての正統性を示すことに腐心」するような必要はなかったはずです。
しかし、尊氏の軍事的勝利はなんとも中途半端なものであり、「伝統的支配」を体現する後醍醐が「京都を脱出して吉野に拠点をおき」、軍事的にもそれなりに頑張って「もう一方の政治勢力の核であり続けた」ために、「尊氏を中心とする政権」は「軍事面での優位を保つことばかりでなく、政権担当者としての正統性を示すことに腐心」しなければならなくなった訳ですね。
では、尊氏が「支配の正統性」を主張しようとする場合、それは、「継承者としての正統性」を主張することに限られねばならないのか。
極端な例をあげると、仮に尊氏が非常に見事な法制度を考案して、誰もがその法制度に納得するような事態になれば「合法的支配」だけで充分で、「継承者としての正統性」を主張する必要もないはずです。
ま、前近代においては実際上そんなことはありえない訳で、山家氏が議論を「継承者としての正統性を主張する場合」に限定しようとすることは一応理解できますが、しかし、山家氏が挙げる三点、即ち、

(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと。
(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること。
(3)北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること。

の内、(2)は非常に分かりにくいですね。
尊氏が「伝統的支配」を体現する後醍醐の命を受けてやったことは「北条氏の実権」の否定です。
自らが否定した「北条氏の実権」を「継承」しなければならないとはいったいどういうことなのか、それは明白な矛盾ではないか、という疑問が生じてきます。
そして、実際に(2)に関する山家氏の説明を見ると、それは「北条氏の追善」に過ぎません。
果たして「北条氏の追善」が「北条氏の実権をも継承していること」と結びつくのか、他の説明が可能ではないか、と私は考えますが、その点は後で詳細に論じたいと思います。
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山家著(その7)「尊氏の捧げた願文」

2021-04-27 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月27日(火)21時22分10秒

ちょっと横道にそれてしまいましたが、山家著に戻って若干の補足をしておきます。
山家氏は尊氏が篠村八幡宮で「反幕府の挙兵を宣言」したのは「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」だとされますが、私は元弘三年(1333)の時点では尊氏は征夷大将軍を望んでおらず、従って「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」もあり得なかったと考えます。
本当に尊氏がそのような「演出」を狙っていたのであれば、篠村八幡宮に捧げた願文に頼朝への言及ないし示唆が多少なりともありそうですが、そんな気配は全く感じられません。
念のため篠村八幡宮に残された尊氏の願文を確認してみると、

-------
敬って白〔もう〕す
  立願〔りゅうがん〕の事。
右、八幡大菩薩は王城の鎮護にして我が家の廟神なり。而して高氏は神の苗裔と為〔し〕て、氏の家督と為て、弓馬の道に於いて、誰人か優異せざらんや。これに依りて代々朝敵を滅ぼし、世々凶徒を誅せり。時に元弘の明君、神を崇めんが為、法を興さんが為、民を利せんが為、世を救わんが為、綸旨を成さるるの間、勅命に随い義兵を挙ぐる所なり。然るの間、丹州の篠村宿を占め、白旗を楊木の本に立つ。爰〔ここ〕に彼の木の本に於いて、一の社〔やしろ〕有り。これを村の民に尋ぬるに、所謂、大菩薩の社壇なり、と。義兵成就の先兆、武将頓速の霊瑞なり。感涙暗〔ほのか〕に催し、仰信憑〔たの〕み有り。此の願い、忽ちに成り、我が家再栄す。者〔てえれば〕、社壇を荘厳せしめ、田地を寄進すべきなり。仍ち立願、件の如し。
 元弘三年四月廿九日 前治部大輔源朝臣高氏<敬白>(裏花押)
-------

ということで(小松茂美『足利尊氏文書の研究 解説篇』、旺文社、1997、p40)、「元弘の明君」後醍醐帝が「神を崇めんが為、法を興さんが為、民を利せんが為、世を救わんが為」に綸旨を下されたから、自分は「勅命に随い義兵を挙」げるのだ、と言っているだけで、頼朝を連想させるような要素は全くありません。
この点、『太平記』の願文も確認してみると、まず次のような状況設定があります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p56以下)

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 さる程に、明くれば五月七日、寅刻に、足利治部大輔高氏朝臣、二万五千余騎を率して、篠村の宿を立ち給ふ。夜未だ深かりければ、閑かに馬打つて東西を見給ふ処に、篠村の宿の南に当たつて、陰森たる古柳疎槐の下に社壇ありと覚えて、焼〔た〕きすさめたる庭火の影ほのかなるに、禰宜が袖振る鈴の音、幽〔かす〕かに聞こえて神さびたり。いかなる社〔やしろ〕とは知らねども、戦場に趣く門出なれば、馬より下り、甲〔かぶと〕を脱ぎ、叢祠の前に跪いて、「今日の合戦、事故〔ことゆえ〕なく朝敵を退治する擁護〔おうご〕の手を加へ給へ」と、祈誓を凝らしてぞおはしける。返り申ししける巫〔かんなぎ〕に、「この社はいかなる神を崇め奉りたるぞ」と問はれければ、「これは八幡を遷しまゐらせて候ふ間、篠村の新八幡宮と申し候ふなり」とぞ答へける。「さては、当家尊崇の霊神なり。機感相応せり。一紙の願書を奉らばや」と宣ひければ、疋檀妙玄、冑〔よろい〕の引き合はせより矢立を取り出だして、筆をひかへてこれを書く。その詞に云はく、
-------

疋檀妙玄は尊氏の右筆です。
そして願文は次の通りです。(p57以下)

-------
 敬白〔けいびゃく〕す 祈願の事
夫〔そ〕れ八幡大菩薩は、聖代前烈の宗廟、源家〔げんけ〕中興の霊神なり。本地内証の月高く、十万億土の天に懸かり、垂迹外用〔げゆう〕の光明らかに、七千余座の上に冠〔かぶ〕らしむ。縁に触れ化〔か〕を分かつと雖も、尽〔ことごと〕く未だ非礼の奠〔てん〕を享〔う〕けず。慈みを垂れ生を利すると雖も、偏へに正直の頭〔こうべ〕に宿らんと期す。偉〔おおい〕なるかな、その徳たること。世を挙〔こぞ〕つて誠を尽くす所以なり。
爰〔ここ〕に承久より以来〔このかた〕、当棘〔とうきょく〕累祖の家臣、平氏末裔の辺鄙、恣〔ほしいまま〕に四海の権柄を犯し、横〔よこしま〕に九代の猛威を振るふ。剰〔あまつさ〕へ今聖主を西海の浪に遷し、貫頂を南山の雲に困〔くる〕しむ。悪逆の甚しきこと、前代にも未だその類を聞かず。且〔かつう〕はこれ朝敵の最たり。臣の道と為〔し〕て、命を致さざらんや。また神敵の先たり。天の理と為て、誅を下さざらんや。
高氏苟〔いやしく〕も彼の積悪を見て、未だ匪躬〔ひきゅう〕を顧みるに遑〔いとま〕あらず。将に魚肉の菲〔うす〕きを以て、刀俎〔とうそ〕の利〔と〕きに当たる。義卒〔ぎそつ〕力を勠〔あわ〕せ、旅〔たむろ〕を西南に張る日、上将は鳩嶺に軍〔いくさだち〕し、下臣は篠村に陣す。共に瑞籬〔みずがき〕の影に在り、同じく擁護の懐を出づ。函蓋〔かんがい〕相応せり。誅戮〔ちゅうりく〕何ぞ疑はん。
仰ぐ所は百王守護の神約なり。勇みを石馬〔せきば〕の汗に懸く。憑〔たの〕む所は累代帰依の家運なり。奇〔く〕しきを金鼠の咀〔か〕むに寄す。神将〔まさ〕に義戦に与〔くみ〕し、霊威を耀かし、徳風〔とくふう〕草に加へて敵を千里の外に靡かし、神光〔しんこう〕剣に代はりて勝〔かつ〕を一戦の中に得せしめたまへ。丹精誠あり。玄鑑誤ること莫かれ。敬つて白す。
   元弘三年五月七日 源朝臣高氏敬白す。
-------

こちらでは「源家中興の霊神なり」や「承久より以来、当棘累祖の家臣、平氏末裔の辺鄙、恣に四海の権柄を犯し、横に九代の猛威を振るふ」あたりから、源氏三代への回帰の思いを読み取ることが不可能ではないでしょうが、そもそもこの願文自体、文飾の度合いが高すぎて、どうにも信頼できかねるものですね。
二つの「二者択一エピソード」から窺えるように、『太平記』は一貫して鎌倉最末期・建武新政期の人々が征夷大将軍を大変権威のあるものと捉えていたことを前提に、「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」を重ねている訳ですから、この篠村八幡宮の場面でも、もう少し派手に「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」をしてもよさそうなものですが、実際にはそうなっていません。
ということで、尊氏が篠村八幡宮で「反幕府の挙兵を宣言」したのは「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」だとする山家説は『太平記』にすら支証を得ることができず、まあ、無理筋ではないですかね。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61a5cbcfadd62a435d8dee1054e93188
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山家著(その6)「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」

2021-04-27 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月27日(火)20時08分57秒

うーむ。
山家浩樹氏の議論、どうにも奇妙な感じがするのは、やはり戦争に対するリアリズムの欠如ですかね。
私は以前、ほんの少しだけ山家氏とお話したことがあるのですが、山家氏は温厚な人格者であって、元東大史料編纂所長として日本の実証史学の頂点に位置する研究者の一人でもあります。
しかし、そうした実証主義の権化のような研究者であってもリアルな戦争の分析ができないのは何故なのか。
その点、最近のツイッターでの騒動で世間をお騒がせした呉座勇一氏など、狷介な性格には多少の問題があるのかもしれませんが、だからこそ中世の戦争の分析は本当に鋭く、私も『戦争の日本中世史』その他の呉座氏の著書にはずいぶん教えられました。

呉座勇一氏『戦争の日本中世史』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6660880a5d0731690b574fc2291a245
呉座勇一氏『陰謀の日本中世史』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/78c38d905a374d9dc5a351afb8161781

ただ、呉座氏が「階級闘争史観」がどーたらこーたらと言われるのが私は以前から気になっていて、正直、それはあまり関係ないんじゃないかなと思います。
山家氏など「階級闘争史観」にはおよそ無縁な方ですが、リアリズムの欠如という点では呉座氏が攻撃する「階級闘争史観」の人たちと同じですね。
というか、松本新八郎あたりの、それこそ暴力革命を肯定していた本当に古い世代の「階級闘争史観」の人たちは、けっこうリアルに中世の戦争を見ていた面もあるように感じます。
「戦後歴史学」の歴史を振り返れば、昭和初期に「階級闘争史観」による歴史学研究が始まり、治安維持法下の弾圧で沈黙を余儀なくされた後、敗戦後に「階級闘争史観」の爆発的なブームが到来し、例えば東大文学部では「国史学科の四九年入学組十六人のうち実に九人までが共産党に入党する」ような状況になります。

「運動も結構だが勉強もして下さい」(by 坂本太郎)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/06ac5441a8971a3ada912df93428d77f

その影響もあって、今でも職業的な歴史研究者には共産党系の「民科」の生き残りである歴史科学協議会に属している人が多く、これが他の学問世界とは異なる歴史学界の特殊な性格を形づくっていますが、しかし歴史科学協議会の会員であっても、自分は「階級闘争史観」のような古臭い歴史観とは無縁だ、と思っている人はけっこう多いように思われます。
だいたい日本共産党自体が1955年の六全協以降、変遷に変遷を重ね、「民主集中制」の下、中国派など党内のあらゆる少数派を切り捨てて六十有余年を経た訳ですから、共産党は既に「階級闘争」や「マルクス主義」の政党ではなくなってしまっており、ソ連崩壊以降はそれこそ党の存続自体が自己目的になっているような感じです。
最近では築地市場移転反対闘争やトリチウム問題など、全く非科学的であっても当面の党勢維持・拡大に有利であればやたらめったら暴れまくっているようで、共産党は今や金看板の「科学」ですら投げ捨ててしまっていますから、党名も「ルイセンコ主義者党」とでも改めた方がよさそうですね。

トロフィム・ルイセンコ(1898-1976)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B3

ま、そんな嫌味はともかく、共産党自体が大幅に変質した現在、歴史科学協議会でも「階級闘争史観」みたいな古い話を真面目に信じている人がどれだけいるのか。
さすがに就職に有利だから歴史科学協議会に入るような、表面は赤くとも一皮剥けば真っ白な「リンゴ会員」は除くとして、それでも「階級闘争史観」なんか古臭いと思っている人が実際には多数派じゃないですかね。
ということで、個人的には呉座勇一氏の苛立ちに共感する部分はけっこう多いのですが、それでも「階級闘争史観」云々はやっぱり問題の核心を捉えておらず、どちらかといえば「平和ボケ」が適切なように感じます。
ついでに言うと、去年、呉座氏の「鎌倉幕府滅亡の原因は何か」という「難問に対する日本中世史学界の最新の回答」を眺めていて、呉座説も「皮肉なことに」、「結局、人々の専制支配への怒りが体制を崩壊させた式の議論」なのではないか、「マルクス主義歴史学の残滓」なのではないか、などと感じました。

「そう、これらの学説は「階級闘争史観」のバリエーションでしかない」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e47fb1aa07b926849bc8edb8a5f6cf6e
呉座説も「結局、人々の専制支配への怒りが体制を崩壊させた式の議論」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a05fda1f50c2afc2ca40b7feee442db
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山家著(その5)「丹波国篠村八幡宮のもつ意味」

2021-04-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月26日(月)21時54分3秒

続きです。(p13以下)

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 留意したい第三の点は、丹波国篠村八幡宮のもつ意味である。篠村は、現在の京都府亀岡市の東部、京都からみると西へ向かって老ノ坂を越えた場所にあり、京都出入りに要衝の地であった。一三三三年四月、尊氏は、幕府軍として上洛し、配流先の隠岐から脱出した後醍醐天皇を討つため、京都から西へ進軍する。しかしその途中、篠村八幡宮で後醍醐天皇側に立つことを明確にする。この時尊氏の捧げた願文が篠村八幡宮に伝わっている。また一三三六(建武三)年正月、尊氏は鎌倉から西上して入京したものの、陸奥から北畠顕家軍に追走され京都を脱出する。『梅松論』によると、二月一日篠村に陣をしき、ただちに京都に引き返さずに西に向けて体制を整えることとする。この日付で、尊氏が篠村八幡宮に丹波国佐伯庄地頭職を寄進した文書が伝わっている。こののち西国で支持者を集めることに成功し、西国を拠点とする室町幕府の原型が形成されることになる。
 丹波国篠村庄は、かつて源頼朝の周辺で伝領された所領であった。もと平重衡の所領で、平氏滅亡ののち源義経にわたり、義経は松尾の僧延朗に寄付している。延朗は八幡太郎義家の曾孫で、頼朝の曾祖父義親の孫にあたる人物である。また、頼朝の妹で一条能保妻となった女性の所領としても確認される。篠村は頼朝の色濃い場所であり、そこを選んで反幕府の挙兵を宣言している。尊氏を頼朝後継者に擬する演出とみなされる。また、丹波は足利氏にとって由縁浅からぬ地であったことも、背景としてみのがせない。有力被官上杉氏の出身地であり、自身でも丹波国内に所領をいくつかもっていた。こののち尊氏、続いて歴代の足利将軍は、篠村八幡宮に対して、別当職を補任するなど権限を保持している。あるいは挙兵以前の段階から、尊氏は篠村八幡宮と関わりをもっていた可能性も考えられよう。
-------

篠村八幡宮に伝わっている尊氏の願文は元弘三年四月二十九日付で、その内容は次の通りです。(参照:小松茂美『足利尊氏文書の研究 解説篇』、旺文社、1997、p40)

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敬白
 立願事
右八幡大菩薩者王城之鎮護我家之
廟神也而高氏為神之苗裔為氏之家督
於弓馬之道誰人不優異哉依之代々滅
朝敵世々誅凶徒于時元弘之明君為崇神
為興法為利民為救世被成 綸旨之間
随 勅命所義兵也然間占丹州之篠村
宿立白旗於楊木本爰於彼木之本有一之
社尋之村民所謂大菩薩之社壇也義兵
成就之先兆武将頓速之霊瑞也感涙暗催
仰信有憑此願忽為我家再栄者令
荘厳社壇可寄進田地也仍立願
如件
 元弘三年四月廿九日 前治部大輔源朝臣高氏<敬白>(裏花押)
-------

この願文の真偽をめぐっては古くからの論争がありますが、私には古文書学の知識がないので検討はしません。
ただ、『梅松論』には「当所篠村の八幡宮の御宝前において既に御旗を上げらる。柳の大木の梢に御旗を立られたりき」とあって、願文の「立白旗於楊木本」と符合しますね。
また、『太平記』にも尊氏が篠村八幡宮に捧げた願文が掲載されていますが、こちらは元弘三年五月七日付で、六波羅陥落のまさに当日ですから、願文の日付としては遅すぎる感じが否めません。
尊氏の位署も「源朝臣高氏敬白」という具合いに簡略で、『太平記』の一般的な創作性の高さを考えると、こちらはより信頼性は低いことになりそうです。
ま、それはともかく、山家氏は「篠村は頼朝の色濃い場所」とされ、尊氏が「そこを選んで反幕府の挙兵を宣言している。尊氏を頼朝後継者に擬する演出とみなされる」とまで言われる訳ですが、そもそも前提として山家氏の挙げる材料だけで「篠村は頼朝の色濃い場所」と言えるのか疑問です。
篠村庄は「もと平重衡の所領で、平氏滅亡ののち源義経にわたり、義経は松尾の僧延朗に寄付」したとのことですから、「かつて源頼朝の周辺で伝領された所領」ではなく「かつて源義経の周辺で伝領された所領」に過ぎません。
しかも「延朗は八幡太郎義家の曾孫で、頼朝の曾祖父義親の孫にあたる人物」ですから、義経そして頼朝にとってもずいぶん迂遠な関係です。
また、「頼朝の妹で一条能保妻となった女性の所領としても確認される」とのことですが、頼朝が直接支配した荘園は他にいくらでも存在しますから、この程度の関係で「篠村は頼朝の色濃い場所」とまでいうのも変ですね。
そもそも元弘三年(1333)四月に尊氏が篠村に入ったのは、鎌倉の指令ないし六波羅での軍議により名越高家が大手の大将として山陽道を、尊氏が搦手の大将として山陰道を経て伯耆に向かうと決定されたからで、その決定は尊氏個人の意思を超えており、尊氏が篠村へ行きたいと希望したからではありません。
「篠村は、現在の京都府亀岡市の東部、京都からみると西へ向かって老ノ坂を越えた場所にあり、京都出入りに要衝の地」ですから軍事面でも「要衝の地」であって、尊氏がここを拠点としたのは、複数の候補から六波羅攻略に最適の場所を選んだという、あくまで軍事上の判断に基づくものと考えるべきです。
「尊氏を頼朝後継者に擬する演出とみなされる」とはずいぶん凝った解釈ですが、これは尊氏が六波羅に圧勝することを知っている後世の歴史学者の悠長な感想であって、どんなに準備しても最終的な勝敗には時の運がつきまとうことを熟知している中世の武人の、これからまさに決戦に向かう時点での判断とは思えません。
だいたい尊氏と篠村との縁は二回あって、「一三三六(建武三)年正月」、「鎌倉から西上して入京したものの、陸奥から北畠顕家軍に追走され京都を脱出」した尊氏が篠村へ向かったのは、その時点で尊氏が京都から逃げ出すのに最適のルートだったからにすぎません。
「丹波は足利氏にとって由縁浅からぬ地」で、尊氏の「有力被官上杉氏の出身地であり、自身でも丹波国内に所領をいくつかもっていた」ことは、逃げ出すルートしては好ましい要素ですが、命からがら京都を逃げ出した尊氏にとって、頼朝の由緒など考える余裕もなかったはずです。
なお、一般書の中には篠村が足利氏の荘園であった、などと書いているものも散見しますが、篠村八幡宮の願文には「爰於彼木之本有一之社尋之村民所謂大菩薩之社壇也」、すなわち尊氏は楊の木の下にあった神社の祭神を知らず、村人に尋ねたところ、八幡大菩薩の社であることを知ったという訳ですから、この願文を信頼する限り、尊氏にとって篠村は全く初めての土地と考えるのが自然ですね。
この点は『太平記』でも同様で、五月七日、篠村の宿を立った尊氏は「いかなる社とは知らねども」神前に跪き、神職に「この社はいかなる神を崇め奉りたるぞ」と質問したところ、「篠村の新八幡宮」ですとの返事をもらったとされており、自分の所領の鎮守を知らない領主は珍しいと思います。
結局、史料編纂所教授の山家氏が調べても尊氏と篠村との間にこの程度の関わりしか見つけられなかったことは、「挙兵以前の段階から、尊氏は篠村八幡宮と関わりをもっていた可能性」が否定されたものと考えるべきです。
「こののち尊氏、続いて歴代の足利将軍は、篠村八幡宮に対して、別当職を補任するなど権限を保持」したのは、倒幕時にたまたま尊氏が篠村八幡宮と関わった結果、尊氏が篠村八幡宮の新しい由緒を作り出したからであって、山家氏の発想は原因と結果が逆転していますね。
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山家著(その4)「直義の二度の敗走」

2021-04-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月26日(月)11時44分10秒

続きです。(p11以下)

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 直義は、建武政権下で従四位下、左馬頭・相模守となる。直義は新政権中枢に参画せず、一三三三(元弘三)年末に京都を離れ、後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に赴いた。前々月、北畠親房・顕家が義良親王を奉じて陸奥に赴いており、息子を奉じて地方統治を行なう第二弾であった。鎌倉では、尊氏が人質として残した子息の千寿王(のちの義詮)が武士の中心としての立場を固めつつあった。新田義貞は、鎌倉を攻撃して北条氏を滅亡に導いた主力であったものの、千寿王を支持する勢力に押され、鎌倉を離れて上洛している。直義の鎌倉下向は、鎌倉を中心とする関東を足利氏が掌握するうえで大きな意味を持った。
-------

成良親王は征夷大将軍を経て皇太子にもなった人で、日本史上でも本当に稀有な経歴の持ち主ですが、誰もきちんと調べていないですね。
『太平記』には同母兄弟の尊氏・直義が同母兄弟の恒良・成良親王を鴆毒で毒殺したという陰惨なエピソードが記されていて、このエピソードが同じく『太平記』に記された尊氏による直義の鴆毒での毒殺エピソードを連想させることもあり、私には成良親王が何とも奇妙な存在に思えました。
そこで、従来の歴史学者にとって共通の盲点となっていたと思われる成良親王の征夷大将軍就任時期を中心に、成良親王の周辺を少し丁寧に調べてみました。

四月初めの中間整理(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/74fe33d19ac583e472e42a86751cac5a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d242a4ee17a501ea5162bc48f52180c

また、「千寿王を支持する勢力」とありますが、赤橋登子が産んだ千寿王は元徳二年(1330)生まれなので、鎌倉幕府滅亡の時点では僅か四歳です。
「人質」の千寿王が絶妙のタイミングで鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流して、結局のところ「鎌倉を攻撃して北条氏を滅亡に導いた主力であった」義貞を鎌倉から追い出すに至る経緯を見ると、私には同じく「人質」であった赤橋登子の役割が相当大きかったのではないかと思われます。
赤橋登子も研究上の盲点となっている女性ですが、少し詳しく検討してみました。

四月初めの中間整理(その12)(その13)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5f1db273cf73164c724151a329f3d535
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/493074c440687d0824d76e2a4d199323

さて、山家著の続きです。(p12以下)

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 室町幕府樹立までの過程で留意したい点として、次に直義の軍事行動を取り上げよう。この間、直義は尊氏とは別行動で二度敗走を経験している。一度は、北条時行軍が鎌倉に進攻した際のこと。鎌倉を明け渡して西走した。三河国矢矧で京都から下向した尊氏軍と合流している。もう一度は、時行の乱平定後に鎌倉にとどまった尊氏に対し、新田義貞軍が追討のため京都から東下した際のこと。直義と有力武将は協議して先行隊を派遣したが、三河国矢矧川で敗れ、ついで直義自身が出馬するも駿河国手越河原で敗れ、箱根山まで退いている。この時尊氏は、後醍醐天皇の意志に背くのは本意ではないと逡巡して鎌倉にとどまっていたが、周囲の説得あるいはみずからの状況判断で出陣を決意、箱根山で直義と二手に分かれた作戦が功を奏し、義貞軍を敗走させた。
 直義の二度の敗走は、軍事の大将としての実力に不安を感じさせ、尊氏の軍事面での統率力と比べると見劣りがする。一方で、新政権に対して不満を感じていた武将たちの意向を集約して、あらたな方向をめざすべく決断し、尊氏を担ぎ上げて成功に導いた政治力は卓抜している。直義のもつ、政権を構想して運営していく力量はすでにこの時点で発揮されているといえよう。
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「周囲の説得あるいはみずからの状況判断で」という書き方は若干微妙な感じもしますが、全体として、この部分は山家氏の独創的見解というより従来からの直義評を整理しただけですね。
『太平記』・『梅松論』に描かれた尊氏の「逡巡」が佐藤進一のような素人精神分析家(?)の不穏当な言説を生む原因になっていますが、「建武二年内裏千首」に寄せられた尊氏の詠歌二首は尊氏の安定した精神状態を語っているように見えます。
このような国文学者の歌壇研究の成果と歴史研究者の認識とのズレをどのように考えるべきか、という問題はもう少し検討を深めて行く予定です。

四月初めの中間整理(その17)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/820cb98acf5bb167764960c01329934b
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山家著(その3)「政権樹立の過程」

2021-04-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月26日(月)09時33分51秒

続きです。(p11)

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 従来、後醍醐天皇をはじめ新政権首脳は、尊氏の発言力増大を警戒して彼を排除し、そのために、尊氏は然るべき役職を与えられなかったと説明されてきた。最近では、尊氏もまた、征夷大将軍は別として、それ以外の役職に執着することはなかったのではないかと考えられている。征夷大将軍については、尊氏は北条時行の乱平定に下向する際にこの職を望んだが許されていない。この時具体的な職名を付されたかどうかは諸史料で異なり、『神皇正統記』では「征東将軍」になったとする。のちに弟直義に政務をまかせたことから類推すると、建武政権下でも、尊氏は責任ある立場で政務の中心にいることを望まなかった可能性は高い。
-------

「征夷大将軍については、尊氏は北条時行の乱平定に下向する際にこの職を望んだが許されていない」とありますが、私は建武二年(1335)八月の時点では尊氏はそもそも征夷大将軍を望んではいなかったと考えています。
この点は『太平記』の描く二つの「二者択一パターンエピソード」の虚構性を検討しつつ、かなり詳しく論じたつもりです。

四月初めの中間整理(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cddb89fb0fa62d933481f0cab6994b2c
(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f7b230dfc93365752e80eb88604bbfd

私見の骨子は昨年12月11日の投稿で予めまとめておきました。
その際、山家著にも少し触れておきましたが、基本的にこの時点での見通しを変更する必要は感じていません。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462

さて、尊氏が征夷大将軍を望んだという言説と尊氏を源頼朝になぞらえる言説は同時に発生しているように見えますが、山家氏のみならず尊氏と直義の「共同統治」を重視する立場の研究者は、尊氏を頼朝になぞらえた場合の、ある「不都合な真実」を直視すべきではないかと思われます。
即ち、尊氏が源頼朝ならば直義はいったい誰に当たるのか、という問題です。
直ちに範頼や義経の名前が浮かびますが、二人ともあまり縁起のよい存在とも思えません。
要するに尊氏を源頼朝の再来だと称えれば、それは必然的に頼朝による冷酷な「兄弟殺し」のエピソードを諸人に連想させることになり、これは二人の「共同統治」の正統性に暗い影を落とすことになります。
そして、あくまで結果的にということではあるものの、この不吉な「兄弟殺し」のエピソードは観応の擾乱により現実化することになります。
改めて尊氏が征夷大将軍となった経緯を鑑みると、尊氏は中先代の乱への対応で関東に下ってから関東往復と九州往復を経てちょうど一年後の建武三年(1336)八月、豊仁親王を新天皇(光明天皇)に戴いています。
そして、尊氏が望みさえすれば、この時点からいつでも征夷大将軍に就任できるはずだったと思われますが、実際に尊氏が征夷大将軍となるのは更に二年後、中先代の乱からは三年後の建武五年(=暦応元、1338)八月です。
このタイムラグはいったい何なのか。
私の仮説は、このタイムラグは尊氏と直義の「共同統治」を支える北朝・光明天皇の「支配の正統性」があまりに脆弱であることを憂慮した二人が、新たに「支配の正統性」を強化するための材料を探し求めた結果、いくつかの候補の中から、「兄弟殺し」のマイナス面を考慮しつつも、やはり征夷大将軍・源頼朝の偉人伝承に頼るしかないと判断するまでの逡巡を示唆している、というものです。
なお、中先代の乱に際して尊氏が征夷大将軍を望んだという話は、『太平記』以外に『神皇正統記』において、尊氏が「征夷将軍」を望んだとして出てきます。
即ち『神皇正統記』には、

-------
 建武乙亥の秋の比、滅ほろびにし高時が余類謀反をおこして鎌倉にいりぬ。直義は成良の親王をひきつれ奉て参河の国までのがれにき。兵部卿護良の親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申におよばずうしなひ申てけり。みだれの中なれど宿意をはたすにやありけん。【中略】
 高氏は申うけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達せずして、謀反をおこすよしきこえしが、十一月十日あまりにや、義貞を追討すべきよし奏状をたてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中騒動す。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98

とあります。
他方、この時期の史料としては一般に『太平記』より信頼性が高いとされる『梅松論』では、

-------
 扨、関東の合戦の事、先達て京都へ申されけるに依りて、将軍御奏聞ありけるは、「関東において凶徒既に合戦をいたし、鎌倉に責め入る間、直義無勢にして防ぎ戦ふべき智略なきによりて、海道に引き退きしその聞え有る上は、暇を給ひて合力を加ふべき」旨、御申度々におよぶといへども、勅許なき間、「所詮私にあらず、天下の御為のよし」を申し捨て、八月二日京を御出立あり。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

とあって、『梅松論』では尊氏は関東下向の勅許以外に何も望んでいません。
政治的立場は『梅松論』とは全く異なりますが、『神皇正統記』もそれなりに史料的価値が高いとされているので、「征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど」と明記されている点を無視することは許されません。
ただ、北畠親房は建武二年八月の時点で京都にいた訳ではなく、遥か遠くの奥州に滞在しており、『神皇正統記』を執筆したのも相当後です。
その間に尊氏・直義側は「支配の正統性」確立のための宣伝工作として征夷大将軍言説・頼朝言説を広めており、『神皇正統記』の「征夷将軍」の記載は尊氏・直義側の宣伝工作を反映しているだけではないか、と私は考えます。
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山家著(その2)「ふたりによる統治」

2021-04-25 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月25日(日)18時24分6秒

続きです。(p2以下)

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 この二つの場面に比べて、その間に挟まれた時期に、兄弟で政権を運営したようすは、あまり印象に残らない。この時期、畿内近国で南朝方との戦闘が続く一方で、京都市街は平穏であった。直義の死からのち、南朝方が一時的にせよ、しばしば京都に進攻するのとは好対照となっている。京都は意外なほど平穏が保たれる安定期となっていた。そのなか、尊氏・直義は共同して政権を運営し、政権の確立をめざした。尊氏・直義は、一定の権限分担をもちながら、実質的には、おもに直義が政権運営を担っていた。両者が対立するにいたったという結果から、両者の志向の相反をみいだすことも可能である。しかし、対立が表面化する以前は、尊氏と直義は、政権の確立という同じ目的のもと、結束して統治にあたったことも疑いない。
 尊氏・直義について、これまで多くの評伝が公にされ、研究も豊富に蓄積されている。本書では、改めて尊氏と直義を取り上げるにあたって、先行業績に多くをおいながら、よく知られた二つの場面は概観にとどめ、あいだに挟まれた安定期を中心に描きたい。そして、尊氏・直義兄弟の共同統治という視点を失わないようにしたい。そのうえで両者の共同統治がのちの室町幕府にどのように位置づけられたのか、についても考えてみたい。
 なお、尊氏の初名は高氏であるが、本書では改名後の尊氏で統一した。
-------

「共同統治」が山家説のキーワードですね。
さて、最初の章「生誕から政権樹立まで」は、

 出自と統治者への道のり
 政権樹立の過程

の二部構成ですが、「出自と統治者への道のり」は既に清水克行氏の『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)等で紹介済みの内容なので省略し、「政権樹立の過程」から少し引用します。(p10以下)

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 この過程で留意したい点を三点取り上げたい。一つは、建武政権内での尊氏・直義の位置である。まずは尊氏。正三位、ついで参議に任じられて公卿に列せられており、伝統的な官位大系のもとで一定の地位をあたえられている。一方で、その実権に即した官職・役職には就かず、伝統的な鎮守府将軍にとどまっている。尊氏は、京都において軍事を主導し、新政権の軍事面で重要な役割を果たした。また、所領などの訴訟を扱う機関として新設された雑訴決断所に、足利氏有力被官の高氏や上杉氏を送り込むなど、尊氏は実務面でも新政権を支えていた。尊氏にふさわしい役職を新設する選択肢もあったはずである。
-------

いったん、ここで切ります。
山家氏は「その実権に即した官職・役職には就かず、伝統的な鎮守府将軍にとどまっている」とされていますが、尊氏の直前の鎮守府将軍というと藤原範季(1130~1205)まで遡ることになり、鎌倉時代には誰も就任していません。

鎮守府将軍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C%E5%B0%86%E8%BB%8D
藤原範季
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%AF%84%E5%AD%A3

この百五十年以上の空白期間に「伝統的な鎮守府将軍」観念も空洞化は否めず、更に「伝統的な官位大系」を相当程度破壊した後醍醐は、鎮守府将軍についても「伝統的な鎮守府将軍」観念を排して、新しい意味を与えた可能性はありますね。
山家著の「参考文献」には載っていませんが、吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(『史学雑誌』第111編第7号、2002)は尊氏が後醍醐から「鎮守府将軍としての全国規模での軍事的権限」を与えられたという立場です。


四月初めの中間整理(その4)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cddb89fb0fa62d933481f0cab6994b2c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75504cc5649c34357c8b20a5387e69e8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f7b230dfc93365752e80eb88604bbfd

私も基本的には吉原説に賛成ですが、ただ、吉原氏は鎌倉時代を通して鎮守府将軍も相当の権威が維持されていたことを前提とされているようです。
しかし、後醍醐は鎮守府将軍を「本来鎮守府とは、北方鎮定のため陸奥国に設置された広域行政機関で鎮守府将軍はその長官である」といった古色蒼然たる由緒から切り離して、新たな意味を与えたと考える方が自然ではないかと思います。
後醍醐は「京都において軍事を主導し、新政権の軍事面で重要な役割を果たした」尊氏に対して、「その実権に即した官職・役職」として、形式的には「伝統的な鎮守府将軍」を与えたものの、それは実質的には「尊氏にふさわしい役職を新設」したものと捉えるべきではないか、と私は考えます。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その13)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b651bfd3c4c14c553d5a6c9684f0f8d0
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山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』(その1)

2021-04-25 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月25日(日)09時57分32秒

石川泰水氏の「歌人足利尊氏粗描」、既に紹介済みの部分以降は京極派・二条派の対立等に関してある程度の知識がないと分かりにくく、井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』もかなり難しい上に、さすがに少し古くなってしまった部分があります。
そこで、岩佐美代子氏の『風雅和歌集全注釈 下巻』(笠間書院、2004)「解題」の「四 歴史的背景」あたりを紹介しつつ、足利尊氏になったつもりで『風雅和歌集』を通して読んで、尊氏が京極派に感じたであろう違和感を追体験してみる、といった方向性を考えていました。
しかし、政治史の知識がないと歌壇史も理解が難しく、その政治史に関しても従来の歴史研究者の議論にそのまま乗る訳にも行かない部分がけっこう多いので、どうしたものかな、などと思っていたのですが、光厳院の院宣獲得をめぐり「支配の正統性」の議論に少し触れたので、ここをもう少し深めてから歌壇史に戻ろうと思います。
私が従来の歴史研究者の議論に飽き足らないと思っているのは、まさにこの「支配の正統性」の問題なので、山家浩樹氏の『足利尊氏と足利直義 動乱のなかの権威確立』(山川日本史リブレット、2018)を参照しつつ、従来の議論の問題点を検討してみたいと思います。
同書については、東大史料編纂所で山家氏の同僚でもある本郷恵子氏が、

-------
尊氏・直義の生涯は全国的な動乱とともにあり、彼らを取り上げる多くの書物でも、合戦の経緯や対立の構造が中心的な話題とされてきた。だが本書が注目するのは、動乱の狭間はざまで意外に平穏だった京都での政権運営の内実である。彼らは軍事面での優位を保つだけでなく、政権担当者としての正統性を示さねばならなかった。尊氏は源頼朝の後継者で、足利家は源氏の正嫡、兄弟は神仏の付託を受けて政権運営にあたっているのだと、広く社会に認知させたのである。重要な役割を果たしたのが、尊氏の祖父にあたる足利家時が、三代のうちに天下を取ることを八幡大菩薩に祈願して切腹したという伝承だった。この件への直義の関与、室町幕府が安定期を迎えた段階で、関係文書と直義の記憶とをどのように扱ったかについての著者の考証は、権力の奥深さを示して秀逸である。

https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20180409-OYT8T50012/

と評されていますが、この本郷恵子氏の評価の妥当性も検討対象とするつもりです。
なお、「支配の正統性」と「支配の正当性」のどちらが良いのか、という問題がありますが、私はあまり深く考えることなく「正統性」「正当性」のいずれも用いてきました。
この点、水林彪氏あたりが難しい議論をされておられますが、理屈の問題はともかく、「正当性」は一般的な用法として使われる範囲がかなり広い上に、ちょっと語感がチープなので、これからは「正統性」を使うことにしようと思います。
そんないい加減なことを良いのか、という意見もあるでしょうが、私自身は概念の厳密さを深く追求して何らかの学問的成果をあげることができるような理論家タイプではないので、ま、好みで使わせてもらいます。
山家氏も「正統性」を使われているようですね。
さて、まず『足利尊氏と足利直義』の構成を確認しておくと、日本史リブレット全般の方針によるのか、厳密な章立てにはなっていませんが、目次には、

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 ふたりによる統治
1 生誕から政権樹立まで
2 足利氏権威の向上
3 政策とそれぞれの個性
4 ふたりの対立とその後
5 ふたりの死後
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とあります。
そこで、序論にあたる「ふたりによる統治」を見て行きます。(p1以下)

-------
 足利尊氏(一三〇五~五八)と弟直義(一三〇七~五二)は、協力して室町幕府を築き上げた。そして、兄弟で補完しあって政権を運営した。しかし、たがいに対立するにいたり、直義は対立のなかで死を迎える。
 次の二つの場面は、ふたりの登場する政治の舞台としてよく知られている。一つは、覇権を掌握する過程。鎌倉幕府を倒す側に立って、建武政権に参加、ついで関東進軍を契機に後醍醐天皇から離反して、一度は九州へと敗走したものの京都を制圧し、光明天皇を擁して室町幕府を樹立する。二人が協力して林立する個性と競いあい、他を凌駕していくようすは、『太平記』をはじめとする軍記物語にさまざまな挿話とともに語られ、印象的な歴史の一齣となっている。もう一つは、ふたりの協力関係が瓦解して対立する過程。単なる兄弟の対立ではなく、それぞれを支持する集団の勢力争いであり、北朝・南朝という対立軸で始まった内乱状態をさらに深める結果となった。ふたりはたがいに優位さをながく保てないなか、直義の死を迎えるが、集団間の勢力争いはその死を超えて続いていく。生き残った尊氏は、みずからを支持する集団の頂点として、政権を確立することに心血を注ぐ。
-------

少し長くなったので、いったんここで切ります。
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「あるいはそれは、尊氏を督励するために直義が画策したものであったかもしれない」(by 新田一郎氏)

2021-04-24 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月24日(土)13時27分30秒

院宣獲得の日程について『梅松論』の方もスピーディー過ぎて変だ、と書きましたが、赤松円心が予め賢俊と示し合わせていたなら不可能というほどでもないですね。
『梅松論』によれば円心は尊氏に献策を二回行っていますが、仮に二月三日の最初の献策の頃までに院宣取得の発想があったとすれば、円心としては尊氏の了解を得る前に賢俊を通じて院宣を取得し、賢俊も近くに待機させておいて、十一日の第二回目の献策で尊氏の了解を得た後、実はもう院宣はもらってあります、とすればよいだけの話です。
円心は先を読む人なので、その程度のことはやっても全然不思議ではないですね。
問題はむしろ尊氏・直義やその周辺の人々にとって、建武三年二月の時点で光厳院の院宣が本当にありがたいものだったのか、です。
先に呉座勇一氏の「もっとも、尊氏が敗走している段階では院宣にもさしたる効果はなく、この布石が生きてくるのは、少し先のことになる」という見方を紹介しましたが、更に新田一郎氏の見解も見ておきたいと思います。
『日本の歴史11 太平記の時代』(講談社、2001)から少し引用します。(p112以下)

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尊氏の再起と軍事的勝利

 いったん京都を失った尊氏だが、再起への布石は早くから打たれていた。海路を経て九州へ赴く途中、備後国鞆津(現、広島県福山市)に寄港した尊氏に、持明院統の光厳上皇の院宣が、醍醐寺三宝院の僧賢俊によってもたらされたのである。そのいきさつについて、『梅松論』は赤松円心(則村)の勧めによったものとし、『太平記』は丹波国から摂津国兵庫に逃れた際に尊氏が日野資明に所縁の者を使者として院宣を求めたと記し、また田中義成氏は尊氏が在京していた間にすでに約諾があったものと推測する(『南北朝時代史』)。いずれにせよ日野家出身(資明の兄弟)である賢俊による周旋が大きな意味を持ち、そのことが後に日野家と室町幕府との間に親密な関係が結ばれる端緒となったと考えられる。
-------

「尊氏が在京していた間にすでに約諾があったものと推測する」田中義成説は『太平記』も『梅松論』もまるで無視したずいぶん大胆な仮説のように見えますが、二月十五日に「備後国鞆津(現、広島県福山市)に寄港した尊氏に、持明院統の光厳上皇の院宣が、醍醐寺三宝院の僧賢俊によってもたらされた」という日程だけを考えると、こうした考え方が出てきても不思議ではありません。
ま、この点は後で田中の見解を紹介した上で少し検討したいと思います。

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 それにしても、この光厳院宣の獲得は、後から振り返るならば、『太平記』が尊氏に「天下ヲ君ト君トノ御争ニ成シテ合戦ヲイタサバヤト思フナリ」と語らせているように、尊氏が後醍醐と訣別し「南北朝の対立」の構図を形づくる画期となったことは明らかと見える。ただ、この院宣そのものの具体的な内容は「新田義貞与党人」の誅伐を命じたものであったらしく、後醍醐の政権を否定したり、直接に敵対するためのものではない。院宣を獲得するまでもなく少なからぬ武士たちが尊氏へと靡くさまが、北畠親房や楠木正成ら後醍醐方の重鎮をたびたび嘆かせており、軍勢動員のために院宣が是非とも必要であったとも思えない。だいたい尊氏は、後醍醐に直接に敵対することには臆病といってよいほどに慎重であり、直義に叱咤激励されながら、展開してゆく事態に次々と巻き込まれてゆくことの不安な心境をしばしば吐露し、悩みふさぎこんでしまうこともたびたびであった。後醍醐と和睦して新田義貞を駆逐することに本意がありながら、状況に流されて天皇に敵対することに対する不安にさいなまれ、戦うことにいまだ確信を持てずにいた尊氏が、院宣に行動の拠りどころを求め、いわば自分に対する言い訳としたようにも思われる。あるいはそれは、尊氏を督励するために直義が画策したものであったかもしれない。
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新田氏が「この院宣そのものの具体的な内容は「新田義貞与党人」の誅伐を命じたものであったらしく」としているのは、既に紹介済みの次の文書に基づく推定と思われます。

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〔三池文書〕〇碩田叢史所収
 可誅伐新田義貞与党人等之由、所被下院宣也、早相催一族、馳参赤間関、可致
 軍忠、於恩賞者、可有殊沙汰之状如件、
      建武三年二月十七日     (尊氏)(花押)
       安芸杢助(貞鑒)殿
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18f285e6cbdc07c4837e9845bc82df53

たしかに、ここには「後醍醐の政権を否定したり、直接に敵対する」趣旨までは窺うことができず、清水克行氏のように院宣獲得をもって「両統のうちどちらでも構わないから自分に都合のいい天皇を擁立してしまおうという、このときの尊氏の打算的な対応は、その後の南北朝~室町時代の政治に混迷をもたらす"パンドラの箱"を開けるに等しい行為であった」とまで言えるかは疑問です。
また、『大日本史料 第六編之三』の延元元年二月十二日条に掲載された多くの古文書のうち、院宣に言及しているの二つだけなので、「軍勢動員のために院宣が是非とも必要であったとも思えない」という新田氏の評価にも賛同できます。
しかし、新田氏が「直義に叱咤激励されながら、展開してゆく自体に次々と巻き込まれてゆくことの不安な心境をしばしば吐露し、悩みふさぎこんでしまう」、「状況に流されて天皇に敵対することに対する不安にさいなまれ、戦うことにいまだ確信を持てずにいた尊氏が、院宣に行動の拠りどころを求め、いわば自分に対する言い訳としたようにも思われる」としている点、即ち新田氏が尊氏を一貫して「主体性のない男」として描いている点は疑問です。
だいたい、この時点では「普段は冷静な直義」が「ヤケクソになるぐらい」の状態で(呉座勇一氏)、むしろ過酷な戦況にも拘わらず冷静さを保っていた尊氏が直義に戦略的な撤退を助言するような関係ですね。
「あるいはそれは、尊氏を督励するために直義が画策したものであったかもしれない」の「それ」が正確に何を指すのかはよく分かりませんが、まるで『太平記』第十四巻第八節「箱根軍の事」に描かれた直義・上杉重能らによる綸旨偽造を連想させるような書き方で、ちょっと陰謀論めいている感じがしないでもありません。
いずれにせよ、私は「主体性のない男」としての尊氏像を「『太平記』史観」「『梅松論』史観」の産物と考えるので、新田氏も「『太平記』史観」「『梅松論』史観」に相当毒されているように感じます。

謎の女・赤橋登子(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4a66157b85d1860818a48f1708b0fd3
「建武政権が安泰であれば、尊氏は後醍醐の「侍大将」に満足していたのではなかろうか」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61b3c1e6855c84111ec08862a7c0327b

-------
 しかし、明確な構想をもたないままに尊氏が院宣を求め、それに重い意味を認めたことが、「錦旗」に重みを加えたことは間違いない。足利尊氏に求心点を見出だしつつあった武士たちの期待が、院宣を掲げた「君ト君トノ御争」という看板のもとに、形を変えて位置づけられる。かくして、新しい秩序をめぐる人々の動向が、天皇を基軸として語られる王権の物語の中に繰り込まれてゆく、ひとつのきっかけが与えられたのである。
------

「天皇を基軸として語られる王権の物語の中に繰り込まれてゆく」云々は「均衡」という表現が大好きな新田氏らしい発想ですね。
新田氏は笑いの感覚に乏しいので、『太平記』の笑い話に関する新田氏の解釈にはあまり賛同できませんが、新田氏特有の非常に粘り強い、ずるずるべったりした思考は「支配の正当性」を考える上ではそれなりに参考になります。
この点、後で論じたいと思います。

「笑い話仕立ての話」(by 新田一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92c1c8532d6547ef109352121cb419b5
『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1b1f8e19748a15aea2b63085b4c9593
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/46025f24aba5b546df4fdc2830c7663f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f37c4b29b533c855865aab015a35eee
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「普段は冷静な直義がヤケクソになるぐらいだから」(by 呉座勇一氏)

2021-04-24 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月24日(土)11時3611時36分1秒

南北朝初期の大きな歴史の流れを描いているのは『太平記』と『梅松論』だけですが、『太平記』には怨霊ものなどの変なエピソードが多く、それほど変ではない部分でもやたら大袈裟な文飾が多いので、歴史研究者はどうしても『梅松論』を重視する傾向がありますね。
ただ、『太平記』が信用できないからといって『梅松論』が素晴らしい史書かというとそうでもなく、なかなか扱いが難しい資料です。
作者についても、『太平記』は明らかに相当なインテリが書いていて、嘘は嘘として承知の上で、時には嘘を楽しんで書いている感じがしますが、『梅松論』の著者はインテリとは言い難く、自分の立場から見た「真実」を一生懸命書いたけれども、結局、それは誤解だった、みたいなところが多いように感じます。
『太平記』の著者は有能ではあっても誠意はなく、『梅松論』の著者は無能であっても誠意と思い込みに溢れている、といったら言い過ぎかもしれませんが。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7
「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a70d5946e4e7f439c188d24dea7eb54

ところで呉座氏が「普段は冷静な直義がヤケクソになるぐらいだから、この敗戦はよほどショックだったのだろう」と指摘されている部分、『梅松論』の原文では、

-------
然ると雖も、下御所は尚立帰りて摩耶の麓に御座ありければ、いかにも都にむかひて命を捨つべき御所存なりしほどに、将軍御問答頻りに有りしに依りて兵庫に御帰りあり。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

となっていますが、『太平記』ではこれと直接に対応する叙述はないようです。
しかし、この後の尊氏が乗船して西国に向かう場面では、『太平記』も相当に辛辣ですね。
第十五巻第十三節「将軍筑紫落ちの事」から少し引用してみます。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p481以下)

-------
 千度百度〔ちたびももたび〕闘へども、御方〔みかた〕の軍勢の軍〔いくさ〕したる有様を見るに、叶ふべしとも覚えざりければにや、将軍も、早や退屈したる気色に見え給ひける処へ、大友参つて、「今の如くにては、何としても御合戦よかるべしとも覚え候はず。われらが昨日参り逢ひて候ふこそ、しかるべき御運と覚え候へ。幸ひに船ども多く候へば、ただ筑紫へ御開き候へかし。少弐筑後入道、御方に候ふなれば、九国の勢参らずと云ふ者候ふべからず。御勢多く付きまゐらせ候はば、やがて大軍を動かして、京都に攻められ候はんに、何程の事か候ぶべき」と申しければ、将軍、げにもとや思しけん、やがて大友が船にぞ乗らせ給ひける。
 諸軍勢これを見て、「すはや、将軍こそ御船に召されて落ちさせ給へ」と、ののめきて、取る物も取りあへず、乗り殿〔おく〕れじと周章〔あわ〕て騒ぐ。船はわづかに三百余艘なり。乗らんとする人は、二十万騎に余れり。一艘に千人ばかり込み乗りける間、大船一艘乗り沈めて、一人も残らず失せにけり。自余の船ども、これを見て、さのみは人を乗せじと、纜〔ともづな〕を脱〔と〕いて差し出だす。乗り殿れたる兵ども、物具、衣裳を脱ぎ捨てて、遥かの澳〔おき〕に泳ぎ出で、船に取り付かんとすれば、太刀、長刀にて切り殺し、払ひ落とす。乗り得ずして渚に帰る者は、徒らに自害して、磯越す浪に漂へり。
 尊氏卿、福原の京をさへ落とされて、長汀の月に心を傷ましめ、曲浦の浪に袖を濡らして、心つくしに漂泊し給へば、義貞朝臣は、百戦の功高くして、数万人の降人を召し具し、天下の士卒に将として、花の都に帰り給ふ。憂喜忽ちに相替はりて、うつつも夢の如くなり。
-------

「将軍も、早や退屈したる気色に見え給ひける処へ」とありますが、この「退屈」は気力が屈した様子ですね。
また、兵藤氏の脚注では「大友」は「大友貞宗」となっていますが(p482)、貞宗は元弘三年(1333)十二月に病死しているので客観的には変ですね。
ただ、この場面で「大友」は九州事情に精通した老練な人物として描かれているので、千代松丸(氏泰、1321-62)では些か軽いような感じも否めません。
ま、『太平記』に登場する「役者」としては貞宗がイメージされているようです。
さて、尊氏が大友の船に乗船した後の描写は悲惨ですが、多少の脚色があるにしても、この時の尊氏が配下の将兵を見捨てて逃げ去る敗軍の将であることは間違いありません。
この辺り、『梅松論』では「勢込乗ける有様あはたゞしかりし事共なり」とあるだけで、更に「頼義・義家も奥州征伐の時、七騎になり給ふことあり。始の負は、御当家の佳例なりと申す輩多かりけり」などとありますが、これは強がりも些か度が過ぎている感じです。
この場面では、『梅松論』の作者は撤退時の悲惨な状況を熟知しつつ、敢えてそれを書かない訳で、明らかに尊氏・直義側から戦争を描写している『梅松論』の作者と、「高見の見物」を決め込んでいる『太平記』作者の客観的立場の違いが如実に現れていますね。
『梅松論』では、この直後にも「去程に、供奉仕る一方の大将共の中に七八人京都へ赴くあり。降参とぞ聞えし。此輩はみな去年関東より今に至るまで戦功を致す人々なり。然りと雖も御方敗北の間、いつしか旗を巻き冑を脱ぎ、笠印を改めける心中共こそ哀れなれ」とありますが、『梅松論』の作者はこれら「降人」の名前を知悉しながら敢えて記さない訳で、これも『梅松論』特有の配慮ですね。
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「もっとも、尊氏が敗走している段階では院宣にもさしたる効果はなく」(by 呉座勇一氏)

2021-04-23 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月23日(金)11時59分29秒

室津軍議については佐藤進一『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)に二ページにわたる叙述があって(p125以下)、「こうして室津の軍議でうち出された軍事配備が足利氏今後の守護体制の原型になる」(p126)という結論となっていますが、清水克行氏も「二月十三日、播磨国の室津(現在の兵庫県たつの市)の軍議において、軍事指揮官として「国大将」を中国・四国地方に定める。これにより西国の武士たちが足利方として組織化された」(『足利尊氏と関東』、p60)ということで、相当な高評価ですね。
しかし、室津軍議をさほど重視しない研究者もいて、中でも呉座勇一氏は冷ややかですね。
『戦争の日本中世史 「下剋上」は本当にあったのか』(新潮社、2014)から少し引用してみます。(p112以下)

-------
 同年二月、尊氏は篠村から兵庫にいったん退き、態勢を整えた上で京都奪回を試みるが、摂津豊島河原(現在の大阪府箕面市・池田市辺り)の合戦で新田義貞・北畠顕家軍に敗れ(『梅松論』では赤松円心の献策により尊氏が自主的に撤退したとあるが、脚色だろう)、兵庫に撤退する。
 この時、直義が血気にはやって兵庫から摂津摩耶城(現在の神戸市灘区摩耶山に所在)に進出し、京都奪回のため決死の突撃を行なおうとした。これを知った尊氏が使者を送って直義を説得したため、直義は兵庫に帰還した(『梅松論』)。普段は冷静な直義がヤケクソになるぐらいだから、この敗戦はよほどショックだったのだろう。
 尊氏はさらに兵庫を出帆し室津に停泊する。ここで尊氏方は善後策を検討する。結論としては、尊氏は九州に渡って再起を図り、態勢挽回までの間は諸将が山陽道各国と四国に散らばって後醍醐方の追撃を阻止するということになった。これは研究者の間では結構有名な作戦会議で、「室津軍議」と呼ばれる。室津軍議の詳細については後述する。
 再起を図るというと聞こえは良いが、九州に渡れば勢いを盛り返せるという確たる見通しがあったわけではないので、なるべく京都から遠く離れた方が安全だろうという程度の漠然とした判断に基づきひたすら逃げたというのが実情であろう。だいぶスケールは異なるが、毛沢東の「長征」のようなものである。
 とはいえ、尊氏はただ逃げていただけではなく、この間、密かに京都の光厳上皇と連絡をとり、院宣を獲得している(『梅松論』)。これまで足利方は後醍醐天皇に逆らう「朝敵」とみなされており、「官軍」である新田・北畠・楠木らと戦う際、精神的な負い目を感じていた。だが光厳上皇のお墨付きを得れば、戦争の構図は<官軍 VS朝敵>ではなく<後醍醐天皇方 VS光厳上皇方>となり、大義名分の上で対等になる。もっとも、尊氏が敗走している段階では院宣にもさしたる効果はなく、この布石が生きてくるのは、少し先のことになる。
 尊氏は九州で少弐頼尚ら地元の武士に迎えられる。同年三月、尊氏は筑前多々良浜(現在の福岡市東区)の戦いで後醍醐方の菊池武敏の大軍を撃破、九州の制圧に成功した。
 私たちは尊氏が最終的に天下を取ることを知っているので、「ああ、ここで態勢を立て直したのね」と軽く流しがちだが、現実には圧倒的に不利な戦況から逆転した奇跡的大勝利であった。尊氏は多々良浜の戦いの前に、地蔵菩薩に窮地を救われる夢を見ており、戦いに勝てたのは地蔵菩薩の御加護があったからだと考えた(『空華日用工夫略集』)。以後、尊氏は地蔵信仰に目覚め、尊氏が描いた地蔵の絵は今でも複数残っている。尊氏の主観でも勝利が"奇跡"だったことが良く分る。
-------

「室津軍議の詳細については後述する」とありますが、これはp121から四ページ分書かれていて、私にはとても説得的に思われます。
ま、室津軍議自体は専門研究者に任せるとして、私にとって興味深いのは呉座氏が「尊氏が敗走している段階では院宣にもさしたる効果はなく、この布石が生きてくるのは、少し先のことになる」としている点ですね。
前回投稿で『大日本史料 第六編之三』の延元元年二月十二日条から大友文書と三池文書をそれぞれ一点引用しましたが、実は編者が「尊氏直義西下ノ途次、或ハ書ヲ諸氏ニ移シ、或ハ所領ヲ与ヘ、寺領ヲ寄セシコト、又ハ将士ノ来リテ尊氏ニ属スル等ノコト、各文書ニ散見セリ、今其兵庫解纜ヨリ赤間関ニ至ルマテニ係レルモノヲ、左ニ合叙ス」としている多数の古文書のうち、院宣に言及しているのはこの二つだけです。
佐藤進一は、

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さて、情報伝達ルートをおさえて、兵庫の敗戦を秘したほどの尊氏であってみれば、院宣来たるの朗報を宣伝の武器として最大限に利用したとて不思議ではない。かれは即座に、京都で死んだ大友貞載の遺児にあてて「新院(光厳)の御命令によって、鎮西討伐に下る。おまえたちだけが頼りだ」と手紙を豊後へ送った。諸国の味方に錦の旗を掲げさせたことはいうまでもない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6cf438df2f963061f2b68d436b4dbc63

と言っていますが、『大日本史料 第六編之三』延元元年二月十二日条に掲載された多数の古文書を見ると、別に尊氏は「院宣来たるの朗報を宣伝の武器として最大限に利用した」訳ではなく、院宣が効き目のありそうな、この種の紙切れを有難がりそうな相手にだけ「院宣来たるの朗報」を知らせただけと見るのが素直ではないかと思われます。
普通の武士は恩賞だけに興味があるのであって、それを約束すれば十分そうな相手にはわざわざ「院宣来たるの朗報」を伝える必要はないはずです。
さて、新田一郎氏も院宣の効果に懐疑的のように見えるので、次の投稿で『日本の歴史11 太平記の時代』(講談社、2001)を少し検討したいと思います。
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「この軍議の席で、謀臣、赤松円心は……」(by 清水克行氏)

2021-04-22 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月22日(木)21時16分54秒

南北朝期を扱う一般書をいくつか眺めてみましたが、「持明院殿の院宣」に関して『梅松論』より『太平記』を信頼する歴史研究者はさすがにいないようですね。
『大日本史料 第六編之三』の延元元年二月十二日条を見ると、

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十二日、<己丑>尊氏航シテ鎮西ニ赴ク、途ニシテ院宣ヲ拝受シ、二十日、赤間関ニ達ス、

〔梅松論〕【中略】
〔神皇正統記〕【中略】
  〇尊氏直義西下ノ途次、或ハ書ヲ諸氏ニ移シ、或ハ所領ヲ与ヘ、寺領ヲ
   寄セシコト、又ハ将士ノ来リテ尊氏ニ属スル等ノコト、各文書ニ散見
   セリ、今其兵庫解纜ヨリ赤間関ニ至ルマテニ係レルモノヲ、左ニ合叙
   ス、
〔大友文書〕〇立花伯爵所蔵
 新院<〇光厳上皇、>の御気色によりて、御辺を相憑て鎮西に発向候也、忠節他にこ
 とに候間、兄弟におきては、猶子の儀にてあるへく候謹言、
 (建武三)二月十五日          尊氏(御判)
      大友千代松(氏泰)殿
【中略】
〔三池文書〕〇碩田叢史所収
 可誅伐新田義貞与党人等之由、所被下院宣也、早相催一族、馳参赤間関、可致
 軍忠、於恩賞者、可有殊沙汰之状如件、
      建武三年二月十七日     (尊氏)(花押)
       安芸杢助(貞鑒)殿
-------

ということで、佐藤著でも言及されている尊氏の大友千代松(氏泰)宛二月十五日付書状に「新院の御気色によりて」とあり、これは日程的には『梅松論』と合います。
また、ここに「新院」とあるので、『太平記』では「持明院殿」を後伏見院としているものの、実際には光厳院の院宣であったことも分かります。
他に二月十七日付の安芸杢助(貞鑒)宛軍勢催促に「所被下院宣也」とありますね。
まあ、二月初めに尊氏が「薬師丸」を使者として院宣を要請し、西下した尊氏が九州の戦争に勝利し、反転して京都へ向かう途中、五月に醍醐寺三宝院賢俊が厳島で院宣を尊氏に渡したが、その院宣は後伏見院のもので、肝心の後伏見院は三月六日(史実では四月六日)に崩御していた、という『太平記』の話は本当にいい加減ですね。
さて、院宣に関連して、清水克行氏の『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)にも少し気になる叙述があります。(p59以下)

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この世は夢のごとく
 建武政権に叛逆してからの尊氏の一年は、転変に満ちている。京都を制圧したのも束の間、建武政権の最強軍団である北畠顕家軍が遠く奥州から西上し、正月二十七日、尊氏はたちまち京都を逐われることになる。足利軍は九州をめざし落ちのびてゆくが、この途上、いくつかの重要な施策を怠らなかった。
 まず、いわゆる元弘以来没収地返付令を発令し、味方についた者に建武政権より没収された所領を返却することを約束している。かねて建武政権に不満のあった武士たちは、この施策に飛びつき、尊氏のもとに続々と馳せ参じることになる。後に北畠親房が「朝敵を追討する合戦のはずなのに、みなの士気が上がらないのは、どうも変だ」(結城家文書)と首をかしげ、楠木正成が「負けたはずの尊氏側に在京している武士たちがついていってしまい、勝っているはずの帝の側が勢いを失っている」(『梅松論』)と慨嘆したのには、こうした事情が背景にあった。
 ついで二月十三日、播磨国の室津(現在の兵庫県たつの市)の軍議において、軍事指揮官として「国大将」を中国・四国地方に定める。これにより西国の武士たちが足利方として組織化された。また、この軍議の席で、謀臣、赤松円心は「すべて合戦には旗印というものが大事です。相手側は錦の御旗を先頭に掲げているのに対し、われわれはどこにもこれに対抗する旗印をもたないので、これでは朝敵も同然です」と発言し、大覚寺統の後醍醐に対抗するために、大胆にも持明院統の天皇を擁立すべきだと献言した。尊氏は、これを容れて、かつて鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳上皇に使者を送り、その院宣を獲得する。両統のうちどちらでも構わないから自分に都合のいい天皇を擁立してしまおうという、このときの尊氏の打算的な対応は、その後の南北朝~室町時代の政治に混迷をもたらす"パンドラの箱"を開けるに等しい行為であったが、当座においては尊氏軍に正当性を付与することにつながった。
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まあ、細かいことですが、『梅松論』を素直に読む限り、赤松円心の献言は「二月十三日、播磨国の室津(現在の兵庫県たつの市)の軍議」の席ではなく、十一日の夜更けに行われたようですね。
仮に十三日の室津軍議で院宣を得るための使者の派遣が決定され、直後に使者が京都に向けて出立したとしても、その翌々日、十五日に院宣を持参した賢俊が備後の鞆に到着するというのはいくらなんでも忙しすぎます。
南北朝時代に山陽新幹線があったというような仮定をしない限り、ちょっとあり得ない奇跡のスケジュールですね。
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