学問空間

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「聖マックス伝説」の動揺

2019-07-05 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月 5日(金)14時02分21秒

>筆綾丸さん
『現代思想の断層─「神なき時代」の模索』には次のような記述があります。(p15)

-------
 マックスの「超自我」の形成にとっては、父親よりはるかに大きな比重を占めていたと考えられる母親ヘレーネの「プロテスタンティズムの倫理」観と、それにもとづくマックス自身の「職業への義務」観とは、大学を休職、さらに退職した後には、なおさら重症となってマックスを苦しめ続けた。彼は療養期間中、何度となく、スイス、イタリア、オランダなどのリゾート地に療養のための旅行を試みているが、その長期止宿先は、しばしばリゾートホテルではなくて、有名なサナトリウム、精神療養施設だった。この病気による人生の中断の意味、その原因、症状、顛末、処置などについては、死後もなおプライバシーに属するものが多く、その詳細は、クリスタ・クリューガーの『マックス・ウェーバーと妻マリアンネ』(徳永恂他訳、新曜社、二〇〇七年)などに任せることにしたい。
-------

実は私、二週間ほど前に『マックス・ウェーバーと妻マリアンネ』を図書館から借りてみたのですが、愛人との関係だとか、さすがにどうでも良さそうな内容だったので、殆ど読まずに返却してしまいました。
そのため、具体的には紹介できないのですが、病気の原因についてはおそらく徳永氏の説明が正しいだろうと思います。

-------
◆「知の巨人」の秘められた愛の生涯!◆

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で知られる偉大な社会学者マックス・ウェーバーの生涯については、その妻マリアンネの書いた浩瀚な伝記が有名で、大学者の業績や人間的側面はかなり描かれているのですが、妻の視点からは抜け落ちているものがあります。女弟子で「愛人」となったエルゼ・ヤッフェとのことなどです。本書は、妻マリアンネとの自立した夫婦関係の内実、エルゼとの三角関係、さらにはマックスの弟アルフレートとの複雑な四角関係など、今まで語られなかった側面に光を当てて、「愛の人」マックス・ウェーバーという方向から知の巨人の仕事と生涯の全体像に迫ります。

https://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1078-4.htm

エルゼ・ヤッフェについてはマーティン・B・グリーン『リヒトホーフェン姉妹 思想史のなかの女性 1870-1970』(塚本明子訳、みすず書房、2003)という本もあり、必ずしも「マリアンネの『伝記』に「聖マックス伝説」の温床を見て、それを非難する」(p12)立場の本ではないようですが、私は未読です。

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1870年の戦争でプロイセン将校だったフリードリヒ・フォン・リヒトホーフェンには二人の娘があった。姉は高い学歴と自立をかちとり、大学での研究や社会科学を修め、理性的な議論と政治的改革の道を進んだ。妹は愛と自然を信じ、自分の内側からあふれでる女性的な本能と無意識な無邪気さのもつ生命の再生力を信奉した。彼女は若くして結婚したが、相手はずっと年上で異質な人間で、その結婚は彼女にとって幸せなものではなかった。姉は同じ知的関心をもち合わせた男と結婚したが、これまた不幸な結婚であった。彼女は当時のドイツ文化の中心であったハイデルベルクの指導的サークルと交わり、そして偉大な社会学者マックス・ヴェーバーと、その弟子として、友人として、愛人としての交わりをもった。その名はエルゼ・ヤッフェ。エルゼは20世紀の批判的知識人のミューズとなった。妹は夫と子供を捨てて年下の男と駆け落ちをした。その男は彼女に導かれて偉大なロマン主義の小説家となり、世界的名声を得た。彼女の名はフリーダ・ロレンス。フリーダはわれわれのエロス的想像力のミューズとなった。

本書は二人の姉妹を主人公に、父権制と母権制の変奏を地にして、オットー・グロス、マックス・ヴェーバー、D・H・ロレンスはじめ、1870年から100年間にわたって、数多くの人物と土地と思想・文学・芸術の影響関係をつぶさに追跡した思想史=物語である。

https://www.msz.co.jp/book/detail/07008.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「閑話ー先例」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9929
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徳永恂『現代思想の断層─「神なき時代」の模索』

2019-07-03 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月 3日(水)12時26分52秒

森本あんり氏の認識と異なり、ウェーバーが自身を「宗教音痴」であると「公言」した事実はなさそうですが、掲示板をサボっている間にたまたま手に取った徳永恂氏の『現代思想の断層─「神なき時代」の模索』(岩波新書、2009)に「音痴」云々が出ていたので、備忘のためにメモしておきます。

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神は死んだ──ニーチェの宣告は,ユダヤ・キリスト教文化を基層としてきた西欧思想に大きな深い「断層」をもたらした.「神の力」から解き放たれ,戦争と暴力の絶えない20世紀に,思想家たちは自らの思想をどのように模索したか.ウェーバー,フロイト,ベンヤミン,アドルノなどの,未完に終わった主著から読み解く.

https://www.iwanami.co.jp/book/b225993.html

引用は「第1章 マックス・ウェーバーと「価値の多神教」」からです。(p54以下)

-------
 ウェーバーの信仰

 だが、信仰という面ではどうだったのか。彼は自由なプロテスタントの家庭で、とくに敬虔な信者である母親の影響下に育ち、成人してからも一緒に宗教書を読むなど、彼にとって「超自我」の形成者は母親であり、そういう母へのマザー・コンプレックス(普通言われているオイディプス・コンプレックス、すなわち父親の死への罪の意識ではなく)が、彼の後の神経障害をもたらしたとさえ考えられる。しかし少年マックスは、けっして敬虔な信者ではなかった。かれは一五才の時すでに教えられる信仰に疑念を抱き、自らの眼で「旧約」を読むために、ヘブライ語の学習を志したらしい。また広く深い宗教をめぐる学問的仕事をなしとげた後でも、「私は信仰に関しては音痴です」と述懐した、と伝えられている。私生活の面では、神の存在や秘蹟を信じるという意味でも教会に通うという意味でも、彼は信者ではない。彼が求めたのは「救い」ではなく、「救済についての確実性」であり、その確証だった。
 しかしキリスト教の倫理は彼の内面生活に深い刻印を印し、彼の学問的関心に決定的な影響を及ぼしたと考えられる。それはキリスト教を専門的な研究対象とする宗教学者になったということではなく、何よりも彼の歴史観全体、歴史的地平の下での自己の実存了解にも関わる広汎な浸透であった。そこにウェーバーにおける「大きな物語」が開けてくる。
-------

「歴史観全体」の「歴史観」には傍点があります。
なお、「「私は信仰に関しては音痴です」と述懐した」のは1909年ですから「広く深い宗教をめぐる学問的仕事をなしとげた後」が適切な表現かについては若干の疑問も感じますが、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が1904年なので、まあ良いのでしょうね。

「事態の冷静な経験的観察はそれに適合した唯一の形而上学として<多神論>を認めることへ導く」(by マリアンネ・ウェーバー)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2aa1f494acbe273331693aebaaedd033

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ボチボチ再開します。

2019-07-02 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月 2日(火)21時28分4秒

マイケル・サンデルの『これから「正義」の話をしよう』を最後に掲示板への投稿を一週間サボってしまいました。
私は哲学の素養に乏しく、法哲学・政治哲学の分野も日本の学者の著作を僅かに読んでいるだけで、英米の著名学者の著作は殆どパスしていました。
そこで、最近の学説の動向を知るために「岩波講座政治哲学」の『第5巻 理性の両義性』(斎藤純一編、2014)と『第6巻 政治哲学と現代』(川崎修編、2014)所収の論文を半分ほど読んだ後、ジョン・ロールズの『正義論』『万民の法』などを入手してパラパラ眺めてみました。
ま、私が付け焼刃で勉強したところで、わざわざこの掲示板に書くような知見もないのですが、ある程度の見通しはついたので、そろそろ掲示板に復帰することにします。
一週間前はマイケル・サンデルは頭の良い人だと思っていましたが、ロールズに比べると重厚さに欠けるというか、ちょっと軽薄な人ですね。
森本あんり氏がずいぶん感銘を受けたらしい「負荷ある自我」も、ロールズの側から見れば的外れの批判であり、発想の基礎が違うというだけの話です。
そのため、マイケル・サンデルに感心している森本あんり氏も、軽薄とまでは言いませんが、私にとっては特に注目すべき存在ではないことが確認できたので、その見解の検討は中止します。

John Bordley Rawls(1921-2002)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA
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「死してなお、ジェレミー・ベンサムは最大多数の最大幸福を促進しているのである」(by マイケル・サンデル)

2019-06-23 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月23日(日)09時20分1秒

>筆綾丸さん
>マルティン・ルターやジャン・カルヴァンを想定していて

返事が遅くなってすみませぬ。
明確ではありませんが、そこまで大物を想定している訳ではなく、無神論の潮流の中でもなお多く存在していた一般的な信仰者を念頭に置いているようですね。
「未亡人」マリアンネ・ウェーバーの文章は六歳上の旦那の文章ほど悪文ではないのですが、ダラダラと長くて鬱陶しいです。

Marianne Weber(1870-1954)
https://en.wikipedia.org/wiki/Marianne_Weber

森本あんり氏の引用の仕方、マイケル・サンデルの方もちょっと変ではないかなと思って少し調べているところです。
NHKが主導したサンデルブームは何だか胡散臭い感じがして、私はサンデルの著書をきちんと読んだことがなかったのですが、さすがにハーバード大学きっての講義の名手だけあって文章も巧みですね。
『これから「正義」の話をしよう』(鬼澤忍訳、早川書房、2010)の次の部分、ちょっと笑ってしまいました。(p76以下)

-------
 ベンサムとミルという功利主義の二人の偉大な提唱者のうち、ミルのほうがより人間味のある哲学者であるのに対し、ベンサムの方はより断固とした哲学者だ。ベンサムは一八三二年に八四歳で死んだ。しかし、ロンドンへ行く機会があれば、いまでもベンサムのもとを訪れることができる。ベンサムは自分の遺体を保存し、防腐処理を施し、展示するようにとの遺言を残した。おかげで、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジへ行けば、ベンサムに会うことができる。彼は実際に身に着けていた服を着て、ガラスケースの中で物思わしげに座っている。
 死の少し前、ベンサムはみずからの哲学に忠実な一つの問いを自分に投げかけた。死者が生者の役に立つにはどうすればいいか、と。ベンサムの結論は次のようなものだった。一つは、遺体を解剖学の研究に利用してもらうことができるだろう。しかし、偉大な哲学者の場合には、肉体そのものを保存して未来の思想家たちにインスピレーションを与えるほうがいいはずだ。ベンサムは自分をこの二番目のタイプに分類した。
 実のところ、ベンサムはあまり謙虚な人物ではなかったようだ。自分の体の保存と展示について詳細な指示を残しただけでなく、友人や弟子たちが毎年「道徳と法に関する最大幸福説の創始者を偲ぶために」会し、その折には自分もその会合に出席させるよう言い残したのだ。
 ベンサムの信奉者たちはその願いをいれてきた。ベンサムの「オートアイコン」─ベンサムみずから付けた名称─は一九八〇年代に「国際ベンサム協会」の創立式典に参列した。剥製となったベンサムは、ユニバーシティ・カレッジの運営審議会に台車に乗って出席している。その議事録には「出席すれども投票せず」と記録されるそうだ。
 ベンサムの入念な計画にもかかわらず、防腐処理を施された頭部がひどく傷んだので、いまでは本物の代わりに蝋製の頭が眠ることなく社会を見つめている。現在では地下室に保管されている本物の頭部は、一時は両脚のあいだに置いた板に載せて展示されていた。ところが、学生たちがその頭を盗み出し、身代金として慈善活動への寄付をカレッジに要求するという事件が起きたのだ。
 死してなお、ジェレミー・ベンサムは最大多数の最大幸福を促進しているのである。
-------

この文章だとベンサムは毎年、「道徳と法に関する最大幸福説の創始者を偲ぶため」の会合に出席しているように読めますが、ウィキペディアで引用されていたリンク先の記事によれば、これは「神話」で、会合への参加は一回だけのようですね。

181-year-old corpse of Jeremy Bentham attends UCL board meeting
(ブキミ画像あり。閲覧注意)
https://metro.co.uk/2013/07/12/181-year-old-corpse-of-jeremy-bentham-attends-ucl-board-meeting-3879586/

Jeremy Bentham(1748-1832)
https://en.wikipedia.org/wiki/Jeremy_Bentham
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「事態の冷静な経験的観察はそれに適合した唯一の形而上学として<多神論>を認めることへ導く」(by マリアンネ・ウェーバー)

2019-06-20 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月20日(木)12時02分35秒

マリアンネ・ウェーバーの『マックス・ウェーバー』(大久保和郎訳、みすす書房)、久しぶりにパラパラ眺めてみました。
と書くと、かつてウェーバー教徒の間では殆ど聖書扱いされていた同書を、あたかも私が熟読済みであるかような印象を与えるかもしれませんが、さにあらず。
以前パラパラ眺めたことがあり、そして今再びパラパラ眺めているだけなのですが、その主たる理由は、とにかく同書の分量が多いからです。

-------
マックス・ウェーバーを人間的にも学問的にも知っていると信じている人でも、この本には驚かされ、感動させられ、最後には圧倒されるだろう。これは彼の妻によってのみ、しかもこのような妻によってのみしか書かれ得ぬものだった。なぜなら、この人間の生活を完全に理解するためには、その生活の人間的に最も内奥のものを知悉するのみならず、その精神的内容と価値についての十全な理解を持たねばならなかったからである。
マリアンネ・ウェーバーの名は現代の精神的政治的運動のなかで鳴り響いている。彼女が自分の夫の学問的業績を述べた諸章は、資質を同じくするもの同士の理解を示しているが、夫との多年にわたる思想交流の結果なのである……。それゆえこの本は、さまざまの深淵を覗かせるにもかかわらず、その時代の学術文化の進展のうちに組込まれ、それによって限定されている一人の偉大な学者の伝説というよりはるかに以上のものなのだ。ここでその相貌をあらわされているものは、人間的な、その高低を問わず現代のすべての圏に触れて来た生活の最大の調和なのだ。

https://www.msz.co.jp/book/detail/01949.html

夏の暑い時期に難解なウェーバー沼にハマり込みたくもないので、とりあえず「宗教音痴」に関係する部分だけ引用しておきます。
みすずの新装版(といっても1987年刊)は一冊になっているようですが、私が図書館でコピーして来たのは1963年の上下二巻本のうちの上巻です。(p257)

-------
 ウェーバーが特に明言しているように、以上のような説明は哲学を説こうとするものではなく、隠されていた事実をあばきだし、一貫した論理をもってとことんまで考え抜かれた意味連関を開示しようとするものである。「さまざまの生活秩序のあいだの葛藤の観念的に構成された類型というものの持つ意味は、単に<この箇所においてはこの葛藤は内面的に可能であり『適切』なものである>ということだ─それが<止揚された>と見做し得るような観点は一つもないという意味では全然ない」それはつまりこういうことである。経験的認識の観点からすれば、たしかにいろいろの価値圏のますます増大する衝突という事実があって、これは統一的な世界像というものとは両立しない。しかし思弁や信仰が別の─勿論証明不可能な─解釈をもってこの多元的分裂を覆い包むことを妨げるものは何もない。─ウェーバー自身がこのような可能性にいかに面していたかということは、おそらく一九一九年二月九日の手紙の次のような箇所があきらかにしていると思う。「私はたしかに宗教的な意味ではまったく音痴で、宗教的性格の何らかの霊的建築物を自分の内部に打ち建てる欲求も能力も持ち合わせてはいない。しかし精密に自己検討してみると、私は反宗教的でもなければ非宗教的でもない」それにしてもやはりウェーバーにとっては、上に述べたような事態の冷静な経験的観察はそれに適合した唯一の形而上学として<多神論>を認めることへ導くという事実は変らなかった。「それは神々や魔神たちの呪力からまだ解放されていない古代世界におけると同じようなものだが、ただその意味はちがう。古代ギリシャ人はアフロディテに、次いでアポロに犠牲をささげた。そして特に各市民は自分の都市の神々に犠牲を供えた。魔術から解放され、宗教的態度の神話的な、しかし内面的真実性を持った形態性を奪われてはいても、現代人もやはり同じことをやっているのだ。そしてこの神々を、そして神々のあいだの闘争を支配するものは運命である。学問などというものでないことはあまりにあきらかだ」
-------

「以上のような説明」を引用すればもう少し分かりやすくなるのですが、これだけだとチンプンカンプンかもしれないですね。
ま、興味のある人は同書を読んでもらうことにして、「宗教音痴」に関係する部分の大久保和郎訳と生松敬三訳を比較してみると、

(大久保)
「私はたしかに宗教的な意味ではまったく音痴で、宗教的性格の何らかの霊的建築物を自分の内部に打ち建てる欲求も能力も持ち合わせてはいない。しかし精密に自己検討してみると、私は反宗教的でもなければ非宗教的でもない」

(生松)
「わたくしは……宗教的問題にはまったくの音痴です」と、かれは一九〇九年に書いている、「そしてわたくしは、自分自身のうちに宗教的性格のいかなる種類の精神的建造物をうち立てる必要も能力ももってはおりません。しかし、注意深く自己吟味をしてみると、わたくしは反宗教的でも非宗教的でもないようです。」

ということで、「霊的建築物」と「精神的建造物」の違いが若干気になりますが、大久保訳でも「音痴」は共通ですね。
一番変なのは生松訳では「一九〇九年に書いている」、大久保訳では「一九一九年二月九日の手紙」となっている点で、十年ずれています。
そこで池田光穂氏が引用されているドイツ語版を見ると、

-------
Wie Weber slelbst zu derartigen Möglichkeiten stand, erhellt vielleicht folgende Briefstelle vom 19.2.09:

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4c208bc2f4f54df71225239d60d798b3

とあるので、これはヒューズ・生松側が正しいのでしょうね。
大久保氏は「19.2.09」を1919年2月9日と勘違いされたようです。
さて、大久保訳を見てもこの手紙が誰宛てなのか分りませんが、これはおそらくマリアンネ自身宛てなので宛先が省略されているものと思われます。

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「意図的に乾燥した「学問的」スタイルで書かれているかれの宗教研究」(by スチュアート・ヒューズ)

2019-06-19 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月19日(水)10時08分51秒

マックス・ウェーバーが自身を「宗教音痴」と言ったというのは、日本の学者に喩えれば辻善之助が自分を「仏教音痴」と言ったようなものですから、謙虚さも度を過ぎて殆ど嫌味の一歩手前のような話ですね。
少し気になったのでマリアンネ・ウェーバーによるマックス・ウェーバーの伝記を見たら、この表現が誰宛ての書簡に出ているのかも明示されていませんし、周辺には「宗教音痴」と矛盾するのではないかと思われる妙な記述もあります。
ま、学問的には特に重要なことではありませんが、備忘のために当該部分を引用しておこうと思います。
ただ、いきなりその部分を紹介しても分かりにくいので、予備知識としてスチュアート・ヒューズ『意識と社会』からウェーバーの宗教研究に関する部分を少し引用しておきます。
同書の「第八章 マックス・ヴェーバー 実証主義と観念論の克服」は、

-------
序説 デュルケームと実証主義の残滓
Ⅰ ヴェーバーの知的起源と初期の労作
Ⅱ 方法論的局面
Ⅲ 宗教研究
Ⅳ 社会学と歴史
-------

と構成されていて、「宗教音痴」は「Ⅲ 宗教研究」の最初の方に出てきます。(p214以下)

-------
Ⅲ 宗教研究

 ヴェーバー自身がその理想型の方法を主として適用したのは、宗教の研究であった。この宗教の研究はまた、かれの病気のあとの十五年間の経験的研究の重要な焦点をなすものであった。この一連の研究にはじめて手をつけたのは一九〇四年、以後一九二〇年のかれの死にいたるまでほとんどこの研究をつづけていた。したがって、この宗教研究の局面と方法論的分析の局面とは重なり合っているが、この新しい経験的研究のための諸前提を与えることになったのは、後者の方法論的分析であった。【中略】
 ヴェーバー未亡人は、宗教社会学に対するかれの持続的な関心が、「かれの母方の家族における純真な宗教的感情がかれのうちに生きつづけた」変形的形態であるということを示唆している。かれ自身は特定の宗教的信仰をもってはいなかった。「わたくしは……宗教的問題にはまったくの音痴です」と、かれは一九〇九年に書いている、「そしてわたくしは、自分自身のうちに宗教的性格のいかなる種類の精神的建造物をうち立てる必要も能力ももってはおりません。しかし、注意深く自己吟味をしてみると、わたくしは反宗教的でも非宗教的でもないようです。」精神的問題に関するこの判断中止的性質は、ヴェーバーの偉大な資産のひとつをなすものであった。戦闘的な反宗教者であったフロイトやパレート、懐疑的合理主義者デュルケーム、あるいは公然たる神秘主義者ベルグソンなどとはちがって、ヴェーバーは当代の大社会思想家のうちで、特定の教義にこそ服さなかったが、宗教の与える感銘を容認したほとんどただひとりのひとであった。ソレルと同じく─しかもソレルよりもより組織的・分析的に─、ヴェーバーは魂を奪われることなく、宗教にじゅうぶんな考慮を払ったのである。
 さらにわれわれは、意図的に乾燥した「学問的」スタイルで書かれているかれの宗教研究に、ヴェーバー自身の宗教に対する精神的なかかわりをも瞥見することができる。宗教の研究によって明らかにされた人間の運命の謎とパラドクスに、かれの情感が深く大きく波打っているのをうかがい見ることができる。そしてまた、かれがプロテスタント倫理に関する著作で提示した「英雄的ピューリタニズムの崇高な形姿」のうちには、「かれ自身の特性のあるもの」があらわされていると推測することができよう。彼の宗教研究のその最初の著作において、ヴェーバーは剛毅不抜のカルヴィニスト指導者─わが魂のうちなる悪霊を征服し、義務の車輪にわが身を縛りつけたひと─に自己を投入しているかに思われる。のちにかれは─フロイトと同じく─ヘブライの一予言者のイメージに自分自身の姿を見ることになる。大戦中、かれはイェレミアのごとくに、ドイツ国民の政治的無責任と、前途に横たわる危険とを国民に警告することになったのであった。*

* Marianne Weber: Max Weber,pp.370,382~3,385,639.
-------

ということで、この翻訳(生松敬三)を読んだだけでは、「わたくしは……宗教的問題にはまったくの音痴です」が書簡の中での表現であることは分かりません。
1958年の原著を1965年に翻訳出版なので、「理念型」ではなく「理想型」としている点、あるいは「未亡人」など、少し古風な表現も見られますね。
生松敬三は1984年、56歳の若さで亡くなっていますが、この没年齢は奇しくもマックス・ウェーバーと同じです。

綾小路きみまろ的な感懐
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d22fd8c0ac4405b0f2c4898a61ad38a8

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スチュアート・ヒューズ Stuart Hughes
1916年ニューヨークに生れる。ハーヴァード大学で学位を得たのち、ヨーロッパに留学。第二次世界大戦後、国務省ヨーロッパ研究部門の部長、ハーヴァード大学歴史学助教授、スタンフォード大学歴史学教授を経て、ハーヴァード大学歴史学教授、カリフォルニア大学歴史学教授を歴任。ヨーロッパの思想的伝統のすぐれた理解者であると同時に、上院議員選挙にリベラル少数派として立候補した行動人でもある。著書『意識と社会』(1970)『ふさがれた道』(1970)(以上みすず書房)ほか。
https://www.msz.co.jp/book/author/13909.html

H. Stuart Hughes (1916~1999)
https://en.wikipedia.org/wiki/H._Stuart_Hughes

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スチュアート・ヒューズ『意識と社会 ヨーロッパ社会思想 1890-1930』

2019-06-18 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月18日(火)10時47分48秒

池田光穂氏は「マリアンヌ・ウェーバー」と書かれていますが、「マリアンネ」じゃないと別人みたいな感じもします。
ま、それはともかく、マリアンネ・ウェーバーによるマックス・ウェーバーの伝記は邦訳があるのに、何故に池田氏はスチュアート・ヒューズ『意識と社会』の生松敬三訳を引用しているのだろうと思って同書を確認してみたところ、原著は1958年、翻訳は1965年とかなり古い本ですが、概説として非常に良い内容ですね。

-------
アメリカにおけるヨーロッパ思想史のすぐれた理解者、ヒューズによる20世紀社会思想史第一部。19世紀末から第一次世界大戦にいたる社会的不安のなか、実証主義の超克をテーマとした社会思想を概観する。
歴史哲学者クローチェ、無意識を発見したフロイト、社会学の創始者ヴェーバー。20世紀の核となったこの三人の思想家を軸に、マルクス主義と格闘したパレート、ソレル、グラムシ、フロイトと同様に無意識を課題としたベルグソン、ユング、第一次世界大戦前後の小説家、ジード、ヘッセ、プルースト、ピランデルロ、20年代後半を知的総括する三冊の著作、マン『魔の山』、バンダ『聖職者の背任』、マンハイム『イデオロギーとユートピア』…「意識と社会」の問題を中心に、巧みな構成により全体的展望を与えようと試みている。
21世紀に向けて、これから台頭してくる思想に想いを馳せながら、本書を繙きたい。

https://www.msz.co.jp/book/detail/04964.html

>筆綾丸さん
いえいえ。
私は「宗教音痴」をボーッと見過ごしてしまっており、ご指摘がなければ『職業としての政治』を読み直すこともありませんでした。
『職業としての政治』を初めて読んだのは遥か昔、大学一年の頃で、教養学部の政治学の参考文献だったので眺めてみただけでしたが、当時はおよそチンプンカンブンであったはずの部分もそれなりに理解できるようになって、綾小路きみまろの「あれから四十年」的な感懐を覚えます。
ところで、「宗教音痴」の出典を明示していないのは些細なことで、「公言」も単なる勘違いでしょうが、森本氏の叙述と『職業としての政治』の関係部分を読み比べると、ちょっと引用の仕方が恣意的ではないかな、という感じがします。
森本氏の著作を読み始めた当初は同氏の学識に圧倒されるばかりだったのですが、暫く前から覚えていた森本氏に対する微かな違和感が徐々に拡大し、ウェーバーだけでなく、マイケル・サンデルの引用の仕方もおかしいのではないかな、と思って少し調べているところです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
Absolutes Gehör
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9921
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「こころ教」の代替案

2019-06-16 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月16日(日)12時00分47秒

マックス・ウェーバーの「宗教音痴」問題はひとまず置いて、

「こころ教原理主義」(by 池内恵氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8fd2209300d2f81a43fa3927ffa7cb5b

で引用した池内恵氏「日本の「こころ教」とイスラーム「神の法」」(『中央公論』2019年1月号)の続きです。(p38以下)

-------
 この日本的な「こころ教」にとって理解しがたい、あるいは受け入れがたいのは、人間の「こころ」からは対極にある、絶対的な他者としての神が律法を下し、人間に何を信じ、何をするべきかを命令する、という考え方である。この律法の要素を全面的に体系化し、宗教信仰の主要な要素としているのがイスラーム教であり、だからこそ日本ではイスラーム教が理解されにくい。イスラーム教の律法はアラビア語で「シャリーア」と呼ばれる。これは「シャルウ」すなわち「啓示」という語の派生形である。つまりアラビア語ではイスラーム教の啓示はそのまま法なのである。そのため「シャリーア」は神による啓示に基づく「啓示法」と訳してもよい。
 イスラーム教の観点からは、人間は神が命じる法を受け入れるか受け入れないかを選ぶ立場にはない。神はムハンマドを通じてこの法をすでに下してしまっている。受け入れないのであれば人間は死後に地獄に落ちるしかない。受け入れて啓示法の命じるところに従って生を送れば、死後に最後の審判でそれを認められ天国に行けるかもしれない。
 ここには人間、それも個々人が「こころ」に従って、神の啓示法のある部分あるいは全体の当否を判定したり、快・不快を論じたりするような余地は、全くない。そのことがあまりに杓子定規であると感じるのであれば、あなたはすでに幾分かは「こころ教」の信者であると言える。人間の側が神の啓示する法を拒否する、あるいはその一部分を選んで受け入れるといったことは、一神教の観点からは矛盾であり、人間側にはそのような権利がないどころか、そもそも「できない」ことである。
 しかし日本では、各人の「こころ」が、その感じるところに従って、当人にとって必要な宗教を取捨選択できるという、ある種非常にラディカルな信念が行き渡っており、これが一神教の前提を知らず知らずのうちに覆している。
 このことを一神教徒、特に啓示法の要素が明確に信仰の中核に位置づけられ体系化され現代においても教育によって広められているイスラーム教の信者には、敏感に、驚きをもって感じ取る。日本側はそのような受け止め方の存在を感じ取らない。ここに非対称性があり、ギャップがある。
 今のところはこの非対称性とギャップは、相互の無関心によって、問題化することが回避されているが、それはいつまで続くのだろうか。日本が実質上の移民国家となり、これまで以上にイスラーム圏から、当面は特に東南アジアから、移民を受け入れれば、やがてはイスラーム教の規範と、日本社会で無意識のうちに強固に信じられているこの「こころ教」の乖離は、摩擦や衝突に発展するかもしれない。
-------

ということで、多くの日本人は「当人にとって必要な宗教を取捨選択できる」ことが「ある種非常にラディカルな信念」であることを自覚できていない、という池内氏の指摘は非常に鋭いと思います。
さて、ここまで読むと、やはり「こころ教」という無色透明・無味無臭・価値中立的なネーミングが「信じるものを選べる─日本人固有の宗教観」を全然反映していない点が気になりますね。
「こころ教」の核心は「取捨選択できる」ことですから、例えば「取捨選択可能教」とすると法然上人の『選択本願念仏集』なども連想され、格調が高くて良さそうですが、反面、これでは硬すぎて融通無碍な感じが出ません。
そこで、私見では、融通無碍であり、かつ庶民的な雰囲気を醸し出すものとして、「ええじゃないか教」ぐらいで良いのではなかろうかと思います。
ま、幕末の民衆運動のパクリじゃろ、と言われたら敢えて否定はしませんが。

「ええじゃないか」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%88%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B

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「かつてマックス・ヴェーバーは、自分が「宗教音痴」であることを公言し」たのか?

2019-06-15 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月15日(土)23時20分31秒

>筆綾丸さん
>マックス・ヴェーバーの「宗教音痴」は、ドイツ語では何と言うのでしょうね。

11日の投稿で引用した森本氏の文章のうち、

-------
 外から見ると、このような不自由は哀れむべき洗脳の結果と映るかもしれない。宗教は結局われわれの自律的な判断を撓め、人間を不自由にする。だから宗教は恐ろしい、という結論にもなろう。だが、まさにそのような不自由にこそ、彼方に信じられている神が現実的な手応えとして存在を主張するように思われる。かつてマックス・ヴェーバーは、自分が「宗教音痴」であることを公言し、ナイーヴな「心情倫理」を辛辣に批判した。しかし、それにもかかわらず彼が最後に「はかりしれない感動を覚える」と書いたのは、「わたしの良心は神に囚われている。だからこうするより他にない。われここに立つ。神よ助けたまえ」というルターの言葉であった。そこに彼は、「政治への天職をもちうる真の人間」を見たのである。われわれも、いつかどこかでこのような良心の決断を迫られることがないとも限らない。その限り、人はみな平等なのである。人間が自分の意志や選択の自由にならない他者と向き合い、自己の外にある何ものかの呼びかけに応えることを求められていると感ずること、そこに神信仰の現代的なアクチュアリティがある。
-------

には「「政治への天職をもちうる真の人間」を見たのである」に注41が付されていて、これを見ると、

41) マックス・ヴェーバー『職業としての政治』脇圭平訳(岩波書店,1980年),103頁.

とあります。
そこで同書を確認してみましたが、103頁には「宗教音痴」という表現はなく、念のために最初から全部通して読んでみても、やっぱり「宗教音痴」は見当たりません。
あれれ、と思って「ウェーバー」&「宗教音痴」で検索してみたら、池田光穂氏(大阪大学教授)のサイトに、

-------
「わたくしは……宗教的問題にはまったくの音痴で す」と、かれは1909年[2月19日の書簡]に書いている、「そしてわたくしは、自分自身のうちに宗教的性格のいかなる種類の精神的建造物をうち立てる 必要も能力ももってはおりません。しかし、注意深く自己吟味をしてみると、わたくしは反宗教的でも非宗教的でもないようです」(マリアンヌ・ウェーバーの 伝記から:翻訳は生松敬三訳:ヒューズ「意識と社会」p.214)

Wie Weber slelbst zu derartigen Möglichkeiten stand, erhellt vielleicht folgende Briefstelle vom 19.2.09: »Ich bin zwar religiös absolut unmusikalisch und habe weder Bedürfnis noch Fähigkeit, irgendwelche seelischen Bauwerke religiösen Charakters in mir zu errichten. Aber ich bin nach genauer Selbstprüfung weder antireligiös noch irreligoiös.« S. 370

http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/1511Weber_religion.html

とあり、「宗教音痴」は、

Ich bin zwar religiös absolut unmusikalisch

のようですね。
ウェーバーが地味に書簡に書いているだけならば、森本氏の「かつてマックス・ヴェーバーは、自分が「宗教音痴」であることを公言し」は誤りになりますね。
ま、細かいことですが。
ついでに更に細かいことを言うと、ウェーバーが『職業としての政治』で引用するルターの言葉は、

「私としてはこうするよりほかない。私はここで踏み止まる」

だけであり、森本氏の、

「わたしの良心は神に囚われている。だからこうするより他にない。われここに立つ。神よ助けたまえ」

と比較すると、森本氏は前に「わたしの良心は神に囚われている。だから」を、後ろに「神よ助けたまえ」を付加していますね。
「われここに立つ」で検索してみたところ、札幌ナザレン教会のサイトには、

-------
 ルターの『95個条の提題』はローマ法王の怒りに触れ、破門状をつきつけられる結果となりました。その破門状を公衆の面前で焼き捨てたため、ルターは、ドイツ皇帝からウォルムスの国会に喚び出されて、訊問される羽目に陥りました。

 ウォルムスの国会では、机の上にうず高く積み上げられたルターの著書を前にして、三つの訊問がなされました。
第一問:これらの著書はすべて、お前の著書か?答:私の名前があれば、すべて私の著書です。
第二問:ここに書かれていることはすべて、お前の考えか?答:そうです。
第三問:ここに書かれていることを、すべて撤回するか?ルターが24時間の猶予を求めたため、国会は一日延期され、翌日再開されましたが、第三問へのルターの答は、こうでした。「私の良心は神の言葉に捕えられております。私の誤りが神の言葉によって指摘されない限り、私は何一つ撤回しません。良心に背くことは、正しくないし、安全でもないからです。我、ここに立つ。神よ、我を助け給え。アーメン。」

https://nazach.exblog.jp/23736481/

とあり、森本氏の引用は要約のようですね。
ま、別に森本氏のウェーバーの引用が不正確だ、などと言いたい訳ではありませんが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「宗教音痴」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9918
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「こころ教原理主義」(by 池内恵氏)

2019-06-14 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月14日(金)11時48分46秒

前回投稿で引用した森本あんり氏の文章、「ジェファソンの提出した「信教自由法」では「選択」という言葉が一度だけ使われているが、その主語は人間ではなく神である」に付された注39を見ると、

Sandel,“Freedom of Conscience or Freedom of Choice?”87.

とあり、また「良心に囚われた人は、「市民的義務に逆らってさえも、断念することを選択できない宗教的義務」を意識している」に付された注40には、

サンデル『自由主義と正義の限界』,33頁.

とあります。
ちょっとさぼってしまって原著は何れも未確認なのですが、森本氏の書き方だと、サンデルの見解はアメリカでもそれほど一般的ではなく、サンデルのような英才が長年の研究を経て辿り着いた「やや意外と思われる答え」のような感じがします。

マイケル・サンデル(1953生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB

しかし、宗教と「選択の自由」が無関係であることは、例えばイスラム教などでは全く当たり前のことですね。
森本あんり氏と五木寛之の「対談 正統なき異端の時代」を読むために『中央公論』2019年1月号を見たところ、二人の対談記録のすぐ後に池内恵氏の「日本の「こころ教」とイスラーム「神の法」」というエッセイが出ていたのですが、その冒頭には、

-------
信じるものを選べる─日本人固有の宗教観

 イスラーム教という宗教には、日本人の大多数が抱く宗教観とは対極的な要素が多く含まれる。日本の多くの人にとって分かりにくく、かつ重要な要素を二つあげれば、一つは宗教の最重要の要素が「律法」であるという点であり、もう一つは宗教共同体が信者にとって社会的、そして政治的な帰属意識の対象となるという点である。
 私の独自の仮説だが、日本人の多くの抱く宗教観にはある固有の根深い共通の特徴がある。これはイスラーム教について研究しながら日本の社会や言論に触れるなかで、徐々に思い至るようになったことであるが、日本人の多くが暗黙のうちに前提にし、しばしば言葉の端々に表す宗教観がある。これを「こころ教」と私は試みに呼んでいる。人間は各人の「こころ」が感じるままに宗教あるいは信じるものを選べばいい、という考え方である。これ自体が一つの信仰と言ってもいい。各人の宗教が仏教、キリスト教、神道であっても、あるいは無宗教と自認していたとしても、共通して抱かれている信念である。これは日本人にとって各宗教を超えた上位の信念と言えるだろう。「こころ教」は、一人一人の「こころ」がそれぞれにとって必要な、有用な、真理と思える宗教を自由に選べばよく、実際に人間は選べるという認識を前提としている。
 この日本社会に根深い信念は、人間の、それも個々人の側に、宗教を選ぶ権利や能力があると前提にしている。このこと自体が、イスラーム教などの神の啓示の法を持つ一神教、あるいは上座部仏教などの律法的要素を持つ宗教とは、根本的に相容れない面がある。そしてこのことに、多くの日本人は自覚的ではない。あたかも当然のように、キリスト教や仏教といった宗教の上位に、それを「こころ」の感ずるままに受け入れる(そして気に入らなければ捨てる)権利や能力を想定する、ある種強固な信念が社会の隅々まで広がっている。これは日本の社会の一つの重要な特徴であると私は考えるようになった。それはイスラーム教とのそれなりに長い年月の関わりの結果である。
-------

とあります。(p36以下)
「こころ教」というネーミングは今一つ熟していない感じがしますが、私は池内恵氏の著作をそれなりに読んでいるので、池内氏の言われることは理解できます。
「こころ教」の特色はイスラム教と比較すると鮮明になりますね。

-------
神の啓示法は選べない─イスラーム教の観点

 日本の「こころ教」は一方で非常に寛容と言えるものではあり、人間、それも個人の側に宗教を主体的に選び取ることを許すある種の人間主義的なものと言えようが、同時に、無自覚に宗教をそのようなものと捉え、世界各地の、前提を異にする宗教の内在的論理を頑なに認知しない、原理主義的とも言える要素を含んでいる。明文化・成文化されていないだけにこの「こころ教原理主義」は厄介なところがあり、特にイスラーム教を理解し、ムスリム(イスラーム教徒)との適切な関係を個人あるいは共同体として結ぼうとする時に、やがては障害となって立ち現れるかもしれない。
 これは欧米社会がムスリム移民との関係において抱える問題とも、異なる性質のものである。欧米社会の場合は、個人の人権や自由といった規範に優越する神の命令に基づく規範を、イスラーム教が信者に課しているということを認知するがゆえに、摩擦や衝突が生じてくるからである。
-------

いったんここで切ります。
「欧米社会の場合は、個人の人権や自由といった規範に優越する神の命令に基づく規範を、イスラーム教が信者に課しているということを認知する」のは何故かというと、キリスト教も基本的には同じような発想をするからですね。

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森本あんり『アメリカ的理念の身体』

2019-06-11 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月11日(火)22時40分12秒

森本あんり氏の『アメリカ的理念の身体 寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』(創文社、2012)、神学そのものというより政治学や憲法論に関係する部分が多いので、最初に手にしたときに感じたほど読みづらくないというか、けっこう読みやすいですね。

-------
人権概念を史上初めて提唱した17世紀のピューリタン、ロジャー・ウィリアムズ。アメリカ独立以前の、ジョン・ロックより半世紀も早い出来事であったことは、わが国ではまったく知られていない。本書は、「寛容と良心」「政教分離」「信教の自由」という倫理学上の鍵概念をめぐる哲学的探求であると同時に、それらが初期アメリカ社会の歴史においてどのような実験と紆余曲折を経てきたかを尋ねる政治学的な探求である。まず中世スコラ学の良心論から歴史的系譜を辿り、近代の愚行権の神学的由来に触れた上で、現代社会が享受する自由がいずれも宗教的主張を淵源とすることを示し、自由主義の中核概念である寛容を批判的に検討する。次に、現代憲法論の争点ともなる政教分離に焦点を当て、その原型であるウィリアムズの思想と歴史的評価の変遷を考察、発展期の矛盾と逆説から生まれた歴史的な知恵を尋ねる。さらに、信教の自由の具体的な表現として、初期ハーヴァード大学に見るピューリタニズムの知性主義、反知性主義としての信仰復興運動、市場原理に動かされる20世紀の教会を論じ、現代アメリカ社会の実利志向や大統領選挙にも影響を及ぼし続ける思想構造を分析する。わが国で手薄なアメリカの宗教理解を深化させ、アメリカを内面から思想史的に探求した画期的業績。ますます多元化する現代社会において、異なる思想が平和裡に共存するためのモデルを提供して、現代リベラリズムにも一石を投じる。

http://www.sobunsha.co.jp/detail.html?id=4-423-17153-0

序章のトクヴィルの「妹」からも伺えるように、森本氏は宗教学者の中では笑いのセンスが傑出していて、多くのエッセイや講演録は諧謔に溢れており、時に極めて辛辣ですね。
そのため、私は森本氏が本当に信仰の人なのか疑っていたのですが、次のような文章は冗談のヴェールに包まれた森本氏の内面をチラッと見せてくれているようです。(p80以下)

-------
 良心の自由はなぜかくも特別に尊重されねばならないのか。マイケル・サンデルは、この問題を正面から取り上げ、やや意外と思われる答えを引き出している。その理由は、ひとくちに言うと、良心が自由ではないからである。良心や信教の自由は、「選択の自由」が宗教へと特化したものではなく、そもそも個人の自由な選択とは何の関係もない。サンデルによれば、ヴァジニア州の政教分離を訴えたマディソンの文書には、「個人の自律や選択」という言葉は一度も使われておらず、ジェファソンの提出した「信教自由法」では「選択」という言葉が一度だけ使われているが、その主語は人間ではなく神である。つまり、良心は個々人の自由や選択の問題ではない、ということである。
 人は宗教を選ばない。宗教の自由とは、自分の好きなように何かを選択して信ずることではなく、良心が自分に命ずるままを信ずることである。土曜日を聖日として遵守する人々は、七日のうちから自由に土曜日を選んだわけではない。武器をもって戦うことを拒否する人は、たとえスポーツ競技や精神修練としてであっても、好き好んでそれを拒否しているわけではないのである。そこには、自分のライフスタイルを自由に選択するというリベラリズムの理念とは根本的に異なった「負荷ある自我」の重みがある。良心に囚われた人は、「市民的義務に逆らってさえも、断念することを選択できない宗教的義務」を意識している。良心の指示は、英語で“dictates”of conscience と呼ばれる通り、たとえそうしたくなくともそれ以外の選択をすることができない拘束力をもつ。だからこそそれは、他の自由に優る特別な保護を受けねばならないのである。
 外から見ると、このような不自由は哀れむべき洗脳の結果と映るかもしれない。宗教は結局われわれの自律的な判断を撓め、人間を不自由にする。だから宗教は恐ろしい、という結論にもなろう。だが、まさにそのような不自由にこそ、彼方に信じられている神が現実的な手応えとして存在を主張するように思われる。かつてマックス・ヴェーバーは、自分が「宗教音痴」であることを公言し、ナイーヴな「心情倫理」を辛辣に批判した。しかし、それにもかかわらず彼が最後に「はかりしれない感動を覚える」と書いたのは、「わたしの良心は神に囚われている。だからこうするより他にない。われここに立つ。神よ助けたまえ」というルターの言葉であった。そこに彼は、「政治への天職をもちうる真の人間」を見たのである。われわれも、いつかどこかでこのような良心の決断を迫られることがないとも限らない。その限り、人はみな平等なのである。人間が自分の意志や選択の自由にならない他者と向き合い、自己の外にある何ものかの呼びかけに応えることを求められていると感ずること、そこに神信仰の現代的なアクチュアリティがある。
-------

感想は後ほど。
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トクヴィルの「妹」、解答編

2019-06-07 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月 7日(金)08時56分4秒

正解は、

〔設問1〕トクヴィルの「妹」の書いた「覚え書き」は実在するか。
〔設問2〕そもそもトクヴィルの「妹」は実在するか。

いずれも「実在しない」ですね。
では、なぜ『アメリカ的理念の身体』が捏造事件に発展しなかったかというと、それは森本氏が前回投稿で引用した部分の後であっさり種明かしをしているからです。(p4)

-------
 以上は、一九九八年に出版されたジョン・ヌーナンの解釈である。もちろん、歴史上のトクヴィルに「妹」がいたことは知られていない。彼女が残したという「覚え書き」も、史実ではなく法学者ヌーナンの創作である。ヌーナンは、トクヴィルの「妹」に仮託して、われわれが今日知っている民主的で自由なアメリカという理想像に小さからぬ修正を迫っているのである。日本の研究者たちがトクヴィルの「妹」の存在を知らないのは当然であるとしても、その「妹」が注目したアメリカのもう一つの実像については、もう少し知られていてもよいように思われる。
-------

前回投稿で引用した「ロジャー・ウィリアムズの設立したロードアイランド州ですら、独立時にはユダヤ人の投票や公職就任の権利が否定されてなくなっていた」に付された注(4)、そして上記の「ジョン・ヌーナンの解釈である」に付された注(5)を見ると、

-------
4) John T. Noonan, Jr., The Lustre of Our Country: The American Experience of Religious Freedom (Berkeley,CA.: University of California Press,1998),54,99.
5) Ibid., 95-115.
-------

とあります。
ジョン・ヌーナン、そして森本あんり氏の念入りな冗談に私は完全に引っ掛ってしまいましたが、まあ、大抵の人は引っ掛るでしょうね。
ところで『アメリカ的理念の身体』は2012年刊行で深井智朗氏の『ヴァイマールの聖なる政治的精神』と同年ですから、もしかしたら深井氏は森本著をカール・レーフラー創作のヒントにしたのかな、と思ったのですが、『ヴァイマールの聖なる政治的精神』は2012年5月の刊行、『アメリカ的理念の身体』は同年12月の刊行なので、直接の影響はないようです。
ただ、深井氏がジョン・ヌーナンの The Lustre of Our Country を読んで、自分も何か面白いことをやってみようかな、と創作のヒントにした可能性はありそうですね。

John T. Noonan Jr.(1926-2017)
https://en.wikipedia.org/wiki/John_T._Noonan_Jr.
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トクヴィルの「妹」、問題編

2019-06-06 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月 6日(木)22時27分18秒

【問題】
次の文章は森本あんり『アメリカ的理念の身体 寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』(創文社、2012)の「序章」からの引用である(p3以下)。
引用に当たっては注は省略したが、文章の改変は一切行っていない。
この文章を読んで、下記設問に答えなさい。

-------
 一八三〇年代のアメリカを観察したトクヴィルの名著『アメリカのデモクラシー』は、アメリカ研究でよく知られた古典である。だが、そのトクヴィルに「妹」がおり、その「妹」が後にアメリカを訪れて「兄」の見たアメリカ像を大きく修正する「覚え書き」を残していることは、どれくらい知られているであろうか。
 「兄」のアレクシスは、アメリカに着くやいなやその若々しい社会に満ち溢れる民主的な精神に心を奪われた。彼は、母国フランスで常に反対方向に進む「宗教の精神」と「自由の精神」がアメリカでは親しく結びついており、その原因が「宗教と国家との完全な分離」にある、ということを知ってひどく驚き、あの報告書を記したのであった。しかし、三年後に「妹」アンジェリクがボストンで見いだしたのは、それとはまったく異なるアメリカであった。彼女が見たのは、神への礼拝をすべての住民の義務と定め、会衆派教会の牧師給与を税金でまかなうことを定めた州憲法に縛られたアメリカであり、市民がひと月以上にわたって礼拝出席を怠れば一〇シリングの罰金を科され、州法により日曜日の業務や労働がすべて禁じられ、音楽やダンスやスポーツが五シリングの罰金をもって禁じられた、まことに不自由で不寛容なアメリカである。マサチューセッツ州憲法はさらに、公職に就く者が「聖俗すべての外国権力」への忠誠を放棄することを誓約ないし確約しなければならないことを定めているが、これは当時増加しつつあったカトリック教徒に対する実質的な排除機能をもっていた。これらの「プロテスタント条項」は、ニューハンプシャーなどの隣接州ではさらに露骨であったし、ロジャー・ウィリアムズの設立したロードアイランド州ですら、独立時にはユダヤ人の投票や公職就任の権利が否定されてなくなっていた。マサチューセッツ州が公定教会制度をようやく廃止するのは「兄」アレクシスが帰国した後の一八三三年であるが、これとても「妹」の観察によれば、会衆派教会がそれまで有していた公定教会の地位をユニテリアン教会に奪われそうになったための対抗措置にすぎなかった。「兄」が見たアメリカは、彼が母国フランスに見たいと願った虚像の投影だったのである。彼は、当時のフランス・カトリック教会がもっていた政治的特権に批判的で、これを放棄させる政教分離の改革案を支持していた。だから彼は、自分の青写真に都合の良い部分だけを強調し、「妹」が発見して驚いたようなアメリカの政教癒着の現実には気づかなかったふりをしたに違いない──
-------

〔設問1〕トクヴィルの「妹」の書いた「覚え書き」は実在するか。
〔設問2〕そもそもトクヴィルの「妹」は実在するか。

※解答編は明日投稿します。


>筆綾丸さん
『宗教国家アメリカのふしぎな論理』は第3章までは納得できたのですが、「第4章 ポピュリズムをめぐる三つの「なぜ」─トランプ現象を深層で読む」以降は雑な議論のような感じがして、あまり感心しませんでした。
『中央公論』2019年1月号に森本あんり氏と五木寛之の対談「正統なき異端の時代に」が載っていますが、森本氏は日本の宗教史については浄土真宗以外あまりご存じないようですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
異端の熱力学?
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9913

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森本あんり『宗教国家アメリカのふしぎな論理』

2019-06-04 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月 4日(火)23時16分25秒

>筆綾丸さん
>『空母いぶき』

ネットでの評判があまりに悪いので、逆にどれほどひどい映画なのか確認してみたいという好奇心が湧いてくるほどでしたが、筆綾丸さんがそうおっしゃるなら、やっぱりやめておきます。

>森本あんり氏『宗教国家アメリカのふしぎな論理』

購入してみましたが、ビジネスマン相手の講演録とのことで、これはずいぶん読みやすいですね。

-------
なぜ進化論を否定するのか? なぜ「大きな政府」を嫌うのか? なぜポピュリズムに染まるのか? あからさまな軍事覇権主義の背景は? 歴史をさかのぼり、かの国に根づいた奇妙な宗教性のありかたを読み解き、トランプ現象やポピュリズム蔓延の背景に鋭く迫る。ニュース解説では決して見えてこない、大国アメリカの深層。これがリベラルアーツの神髄だ!

https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000885352017.html

ただ、「第1章「富と成功」という福音─アメリカをつらぬく「勝ち組の論理」」は私が既に読んでいた『世界』2017年1月号の「ドナルド・トランプの神学─プロテスタント倫理から富の福音へ」と全く同じ内容、というか使い廻しですね。

>「コリント二つ(two)」

森本氏は情報源を書いていませんが、これはクリスチャンポスト紙の次の記事のようですね。(翻訳は2016年2月27日付)

ドナルド・トランプ氏「私より聖書を読んでいる人は誰もいない」
https://www.christiantoday.co.jp/articles/19462/20160227/donald-trump.htm

私もこの記事に基づいて2017年1月24日にトランプは「なんちゃってクリスチャン」だ、などと書いてしまったのですが、トランプ自身は、自分はマーブル教会のノーマン・ビンセント・ピール牧師を通じてキリスト教の核心を掴んでおり、自分ほど確実なキリスト教徒はいないのだ、何より自分の経済的成功(そして大統領当選)こそ神が自分を祝福してくれている証拠だ、チマチマした聖書の知識など下流のキリスト教徒が学べばよいことで俺様のような高級キリスト教徒には関係ないのだ、てなことになるのでしょうね。

トランプは「なんちゃってクリスチャン」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/692744a7a3ffd7206a3a3411ea505a6f

「第3章 何がトランプ政権を生み出したのか」に登場するフィリス・シュラフリー女史のエピソードにも「コリント人への第二の手紙」が登場しますね。(p126以下)

-------
 フィリス・シュラフリーという人をご存じでしょうか。宗教右派を代表する女性活動家の一人で、二〇一六年九月に九二歳で亡くなりましたが、亡くなる直前まで活発な政治活動を行ない、大統領選ではトランプ候補への支持をいち早く表明していました。
【中略】
 なかでもよく知られているのが、一九九八年に首都ワシントンで行った彼女の講演です。当時のクリントン大統領は明らかに国際協調派だったので、その進歩主義的な姿勢に我慢がならなかったのでしょう。演説の冒頭で、まず「ビル・クリントンは権力と女性にしか目がないと思っているなら大間違いだ、アメリカのグローバル化こそ彼の悪しき目的だ」とやっつけています。
 興味深いのは、彼女がなぜ反国際主義を掲げるのか、というその理由づけです。講演によると、そもそもアメリカは、神の特別な恵みによって建国された例外的な国である。独立宣言と憲法とは、奇跡にも等しい神の導きによってわれわれに与えられたので、アメリカ人は何を措いてもそれを守らねばならない、というのです。
 シュラフリーはそこで聖書の一節を引用します。「不信者と、つり合わないくびきを共にするな」(「コリント人への第二の手紙」6章14節)。つまり、アメリカはキリスト教を信じていない他国の人びとと強調するな、その余計な負担を背負い込むな、ということです。
-------

まあ、宗教右派の人はこんな感じなのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「こりんご一つ」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9911

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「編集者は学者ではない。著書内容の文献として挙げられている文書までチェックせよ、というのは酷だ」(by 元岩波の編集者)

2019-06-02 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月 2日(日)10時58分57秒

>筆綾丸さん
>デューラーのサインはなぜ神社の鳥居に酷似しているのだろう?

浜崎あゆみのロゴがデューラーのサインに似ているなと思ったことがあります。
これも鳥居っぽいですね。

https://avex.jp/ayu/

『異端の時代』の「引用文献/参考文献」からG・K・チェスタトン『正統と異端』、ツヴェタン・トドロフ『民主主義の内なる敵』、堀米庸三『正統と異端─ヨーロッパ精神の底流』などを拾い読みしているのですが、何だか集中できなくて、いささかスランプ気味です。
気分転換にと思って購入した森見登美彦『熱帯』も、途中まではすごい小説かも、と思って読み耽ったのですが、後半に入ると急にダレてしまい、何だかなあー、という感じで終わってしまいました。
しょうがないので、ゴジラでも見に行くか、と思っています。

ところで、ツイッターで深井智朗氏の『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』(中公新書、2017)が入手できなくなっていることを知り、そういうのはちょっと行き過ぎではないかなあと思いました。
深井氏がやったことは間違いなく悪いことではありますが、そうした行為と深井氏の業績は別物なので、岩波が『ヴァイマールの聖なる政治的精神』を絶版にするのはともかく、他の出版物はそのままにしてほしいですね。

https://twitter.com/quiriu_pino/status/1134085969383026688

また、中日新聞の5月30日の記事に、

-------
 問題となった書籍を出版したのは、数多くの学術専門書を出し、人文社会系書籍の出版では定評ある岩波書店だった。各分野に精通した人材を積極的に採用するなど、アカデミズムに強いパイプを持っているのが強みである。その岩波なら編集段階で気づくことができたのではないか。
 この疑問について、元岩波のある男性編集者は「編集者は学者ではない。著書内容の文献として挙げられている文書までチェックせよ、というのは酷だ」と語る。編集者は著者の思考の綿密さや文脈の作り方を読み込んでいくが、「そこで感銘を受け、納得してしまうと、もう疑う余地がない」(男性編集者)

https://twitter.com/Annan3/status/1133964153192714240

とありますが、この「元岩波のある男性編集者」はちょっとズレていますね。
カール・レーフラーの件では学術論文に通常要求される出典がないことが根本的な問題なのであって、それは編集者が簡単にチェックできる形式的な作業項目です。
たとえ編集者が「著者の思考の綿密さや文脈の作り方」に「感銘を受け、納得して」しまったとしても、「でも先生、ここは出典が必要なので追加してくださいね」とお願いすることは全く容易な作業です。
そのような基本的な作業を怠った点で、岩波の編集者の出版倫理上の責任は免れがたいですね。

「カール・レーフラー」を探して(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3581a30f36a9a15186088d3432aa7762
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/41688dfe5dbd85f2797c4320e7b9fdb2

中日新聞記事には「他にも深井氏が一五年に発表した論文も捏造と結論づけた」とありますが、『図書』の「エルンスト・トレルチの家計簿」は「論文」ではなくエッセイで、こちらは編集者の責任を問うのはちょっと無理っぽいですね。
特定分野で最先端の研究者が、ドイツの大学の資料室に「一〇枚ほどの茶色く変色した書類の束」が存在すると言っている以上、その存在を疑え、というのは編集者に酷に過ぎます。

「エルンスト・トレルチの家計簿」を読む。(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5fc0301eef2643330ec05e69b3d27b2f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cad0a7cf2a755325dfc37106e891ebc2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ba9b2399f97450e6a8ae2e00d694561
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90f5597cb7e87b6275a0f3b4a41274c9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3dad363fe636aca5bf8d1bdf57255235


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
deus brexit
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9909

コメント
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