学問空間

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「多言語状況を引きうけ、複数の言語を往還する経験」(by 高澤紀恵氏)

2014-10-31 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月31日(金)20時45分9秒

『歴史学研究』922号(2014年9月号)をパラパラめくっていたら、「シリーズ3.11からの歴史学【その4】」で、高澤紀恵氏(国際基督教大学教授)が「歴史学が存続するために」というタイトルの「提言」を書かれていました。
いささか大袈裟なタイトルであり、「Ⅰ 歴史学の課題?」「Ⅱ 反知性主義に抗して」の内容にはあまり賛同できなかったのですが、「Ⅲ 再び歴史学の課題」の次の文章には、歴史学研究会にもこうしたことを考える人がいるのか、と少し驚きました。(p26)

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 では、こうした人間観に裏付けられた反知性的学術体制の中で、そしてまた、3・11の衝撃が取り戻すべき対象としての「日本」再建物語に回収されてしまった現在、歴史学に関わる者はいかにその責務をはたしていけばよいのであろうか。この数年、個人的経験を通して考えていることを二点述べてみたい。
 第一は、大学の歴史教育についてである。現在も、歴史学を教える多くの大学では、日本史、東洋史、西洋史という学科やコースの枠組みが残っている。高校の教科は、周知のように、日本史と世界史の二教科に区分されている。私たちの認識を堅固に再生産するこうした枠組みを、組み替えることはできないのであろうか。もとより、史料に基づく緻密な実証に歴史学の強みがあることを否定するつもりはないし、フィールドとする地域によって習得すべき言語も史学史的伝統も異なる。しかしその習得は、「日・東・西」の枠組みでなければできないわけではないだろう。たとえば、歴史を専攻する学生たちが、複数の地域を主専攻、副専攻として学び、卒業論文は主専攻で書くといったシステムが作れないだろうか。複数地域は、日本と朝鮮半島でもいいし、日本とイギリスでも、メキシコと中国でもいい。母語だけで思考するのではなく、多言語状況を引きうけ、複数の言語を往還する経験が、世界を読み解く上で大切な意味をもつと思うからである。いわゆる「外国史」を学ぶ者は、フィールドの事象を日本語に置き換える中で半ば無意識にこの往還を行っているのだが、日本列島の過去について一定程度の知識を持つことで、この営為を自覚化することが可能となる。逆に日本史を学ぶ者には、この営為が列島の過去を相対化する視点を育むことになる。歴史を学ぶ者が言語や国家によって区切られた境界を幾重にも越えることこそ、「過去を共有した私たち」という物語を揺さぶる上で有効なはずである。(後略)
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「多言語状況を引きうけ、複数の言語を往還する経験が、世界を読み解く上で大切な意味をもつ」との一般論を否定する人はいないと思いますが、「歴史を専攻する学生たちが、複数の地域を主専攻、副専攻として学び、卒業論文は主専攻で書くといったシステム」を作ることは実際には極めて困難でしょうね。
「いわゆる「外国史」を学ぶ者は、フィールドの事象を日本語に置き換える中で半ば無意識にこの往還を行っている」のですから、高澤氏の実際上の懸念はいわゆる「日本史」を学んでいる人たちに向けられているはずですが、少なくとも現状では、「日本史」を専攻する人たちは文学部の中でも外国語への対応能力が低い人々ですね。
冷たい言い方ですが、実際にそうなのだから仕方ありません。
私も、いわゆる「日本史」を専攻する研究者にこそ「多言語状況を引きうけ、複数の言語を往還する」能力を持った人が必要だと思うのですが、そうした研究者を育てるための現実的なひとつの手法は、要するにエリート育成ですね。
つまり「歴史を専攻する学生たち」一般ではなく、その中から高度な外国語能力のあるグループを選別し、そのグループだけに「複数の地域を主専攻、副専攻として学び、卒業論文は主専攻で書くといったシステム」を適用するという訳です。
まあ、これが唯一かどうかは別として、ひとつの現実的な提案ではありますが、こうした提案を「日・東・西」の枠組みを堅持する大学に受け容れてもらうことができるか、また、そもそもこのような発想を歴史学研究会内部で受け容れてもらうことができるかというと、まず無理でしょうね。
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「ふしぎな知性の饗宴」(by 清岡卓行)

2014-10-31 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月31日(金)09時54分17秒

>筆綾丸さん
戦前の共産党について調べていた頃、旧制五高の出身者には各方面に優秀な人が多いなあと漠然と思っていたのですが、考えてみれば卒業生の人数が多いという一番単純な事実を見逃していました。
ま、優秀な人が多ければ変てこな人も多い訳で、筆頭はやはり蓑田胸喜でしょうね。
渋沢栄一の子で廃嫡された篤二も五高時代に遊里に入り浸っていたそうで、不良学生の代表格ですね。

>旅順高等学校
こちらは卒業生が極めて少ないので、有名人に乏しいのも仕方ないですね。


ウィキペディアの同校の項目には『アカシヤの大連』の清岡卓行が「昭和17年度卒。一高に再入学」とありますが、さすがにそんな経歴はありえないだろうと思って検索したら、「清岡卓行の世界」というサイトの詳細な年譜には「1940年(昭15) 4月、旅順高校入学。しかし軍国調に馴染めず3ヶ月で自主退学」とありますね。


清岡卓行は『渡辺一夫著作集』別冊「追悼文集」で、次のように書いています。(「哀悼 渡辺一夫先生」)

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(前略)
 思い出はいろいろあるが、その一つを述べさせてもらうなら、昭和十九年の秋、東大仏文の小さな研究室で聞くことができた、先生のラブレーの講義がある。すでに戦争は末期に近く、それは空襲のあいまに行われる、ふしぎな知性の饗宴のようであった。学徒動員の後であったから、学生の数は五、六名に過ぎなかったが、先生は情熱的に、そして、グロテスクでエロチックであったりする個所には、かすかに顔を紅らめる羞恥を示したりしながら『ガルガンチュワとパンダグリュエル』物語のいわゆる<哄笑>を、高らかにひびかせてくれた。(中略)
 その頃、日本の現役の文学者に、つぎつぎ失望しなければならなかった一人の青年の心に、渡辺一夫先生が思いがけない救いとして映ったのは当然のことであっただろう。そうした状況における深い感動は、生涯忘れられるものではない。
 私の見るところでは、先生は魂の奥底に深い虚無をかくしていた。しかし、それに少しでも溺れることを、自分に許さなかった。その虚無を克服するかのように、フランスのルネッサンスの文芸思潮などに、飽くことを知らぬ精緻さで取り組んだのである。その自由な精神はもちろん、フランスの文明をも批判する自立のきびしさを失わなかった。(後略)
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同じ時期の国史学科あたりの荒涼とした知的環境に比べれば、仏文はずっと恵まれていたようですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

人生いろいろ校歌いろいろ 2014/10/29(水) 19:24:35
小太郎さん
秦郁彦氏の『旧制高校物語』を繙いてみました。
http://blog.goo.ne.jp/momotyann_1937/e/7678191c34e4dfec6521c571a0a208a8
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/bufugentouni.html
旧制五高の校歌「武夫原頭に草萌えて」(124頁)の「武夫原(ぶふげん)」の故事来歴は如何と調べてみると、たんに「もののふのはら」という意味にすぎないようで、漱石先生なら馬鹿にしたろうな、と思われました。巻頭言末尾「一(あいん) 二(つばい) 三(どらい)」のドイツ語は、ラテン語にしておけばもっと格調高くなったのに、今となっては悪い冗談のようですね。
松本高等学校の「春寂寥の洛陽に」(136頁)は、僭称というか、なぜ松本が洛陽なのか、よくわかりません。姫路高等学校の「ああ白陵の春の宵」(138頁)の「陵」は、日本ではふつう天皇等の墓の意味なので、白陵は白鷺城のことだと言われても、これでは、春の夜に徘徊するオバケの歌ですね。広島高等学校の「銀燭揺らぐ花の宴」(140頁)は、まるで華燭の典のようで、勉学はさておき、在学中に妻帯しろ、と催促しているような前衛的(進歩的?)な感じがしますね。成蹊高等学校の「膚を濡らす時の風」は、なんだか花街の遊蕩児のようです。

旅順高等学校(146頁)の存在は、はじめて知りました。
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昭和十五年、戦前期でもっともおそく創立された旅順高校は、官立ではあるが文部省の管轄ではなく、拓務省所管の関東州立であった。また存続期間が五年と短いが、内容的には他高校と変るところはない。(146頁)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E5%AE%AE%E9%9B%8D%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
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1936年(昭和11年)2月26日早朝に皇道派青年将校らによって二・二六事件が発生した。秩父宮は翌日の27日に上京した。平泉澄が群馬県水上駅まで迎えに行き車中で会談している。
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雪と所要時間を考えれば、平泉澄は卒業論文の審査を終えたあと、その日の内に上野駅から汽車に飛び乗って水上へ行き、とりあえず温泉で一風呂浴びるなどしたものの、いよいよ目が覚めて眠れず、翌日、今か今かと宮を待ちわびた、というようなことになるのでしょうね。
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旧制高校とラテン語(その2)

2014-10-29 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月29日(水)10時38分32秒

>筆綾丸さん
秦郁彦氏の『旧制高校物語』(文春新書、2003年)に「旧制高等学校一覧」という表が出ていますが(p38以下)、それを見ると、明治時代に創立された「ナンバースクール」の昭和15年時点での一学年定員は、

一高(東京) 文理合計400人
三高(京都)・五高(熊本) 320人
二高(仙台)・四高(金沢)・六高(岡山)・八高(名古屋) 280人
七高(鹿児島) 240人

となっていて、五高の位置づけが少し高い感じですね。
意外、と言っては熊本に失礼かもしれませんが。
ちなみに大正期に増設された新潟・松本以下、数多くの「地名スクール」は文理合計200人で、一高の半分です。(但し、七年制の東京高校は160人)

語学については、同書に次の記述があります。(p60)

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 入試ばかりでなく、その後の進級・卒業判定の厳格さは、語学重視とならんで旧制高校の伝統となっていく。その語学だが、試みに外国語学の授業時間を見ると、予備門時代に英語が一週あたり一年次が八時間、二年次が六時間、三年次が四時間だったのに対し、高等中学校では文部省令により、各年次とも第一外国語が四時間、第二外国語(ドイツ語かフランス語)が四時間、それに何とラテン語の二時間が加わっている。
 さすがにラテン語は開講しないところが多かったせいか、明治二十七年の高等学校令では削除された。そのかわり第一外国語が九~八時間、第二外国語が六~四時間とふえている。全体の時間数の三割から四割に当る。教科書も原書がほとんどで、学校が一括購入して生徒に貸与した。国語、漢文は一貫して半分以下の時間数だから、「和魂洋才」どころか、「洋魂和才」をめざしたと言われかねない。
-------

旧制高校の前身の高等中学校時代にラテン語を週二時間としたものの、高等学校令では削除とのことなので、ラフカディオ・ハーンによるラテン語講義は五高独自の特別メニューみたいですね。
まあ、ラテン語を教えられる人は欧米だって限られますから、明治の日本で2時間必修はさすがに無理がありますね。
それにしても「全体の時間数の三割から四割」というのはやはり驚きです。

『旧制高校物語』には語学教育に関しての時期的な変化は特に記述されていませんが、フランス語の比重はだんだん軽くなったのですかね。
1925年生まれの辻邦生は一年浪人して旧制松本高校に入り、普通は三年で卒業のところ、二年落第して合計五年在籍した人ですが、『のちの思いに』において「全国でフランス語を専攻できる文丙のある学校はほんの四校か五校であった。したがって私たちは自学自習しなければならなかった」と書いています。
これはちょっと少なすぎるような感じがしないでもないですが、明治期からそうだったのか、あるいはドイツ語一辺倒の風潮で、フランス語が軽視されるようになってしまったのか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

柿くへば鐘が鳴るなり・・・ 2014/10/28(火) 21:53:45
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A7%E5%88%B6)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E7%B4%8D%E6%B2%BB%E4%BA%94%E9%83%8E
五高教授の在任期間は、ハーンが1891~1894年、漱石が1896~1900年なので、黒板勝美が漱石の講義を受けることは、幸か不幸、なかったことになりますね。
嘉納治五郎の校長在任期間は1891~93年ですが、黒板勝美が校長から直々にぶん投げられたことはなかったのでしょうね。

http://www.nikkei.com/article/DGKKZO78956360X21C14A0EL1P00/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E5%AF%BA%E4%B8%B8
今日の夕刊に、「日本の柿は本来、渋柿で、日本最古の甘柿「禅寺丸柿」は、1214年(建保2年)、王禅寺で偶然に発見された」というような記事がありました。王禅寺の寺伝にすぎないのでしょうが、本当だとすれば、実朝もこの甘柿を食べたかもしれないですね。金槐和歌集に甘柿の歌があったかどうか・・・。
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エスペランチスト黒板勝美

2014-10-28 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月28日(火)21時22分48秒

黒板勝美(1874-1946)はザメンホフがエスペラントを発表してから19年後、1906年に日本エスペラント協会を設立したそうですが、よっぽど語学好きであり、また理想主義者だったんでしょうね。
日本エスペラント学会サイトには<1906年は「組織的エスペラント運動」の元年>とありますね。

http://www.jei.or.jp/jjj/jjj1.htm
黒板勝美
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%9D%BF%E5%8B%9D%E7%BE%8E

私は群馬県の高崎高校出身ですが、高崎市は黒板勝美と多少の縁があります。
といっても、病気で倒れたのが高崎というだけのことですが。
坂本太郎氏の「古代史の道」から少し引用してみます。(『坂本太郎著作集第12巻』、p86)

-------
 昭和十一年は、黒板先生が病に倒れて再起不能になった年である。このことは前の国史大系の所でも触れたが、今少し詳しく述べねばならぬ。この年群馬県下史跡調査並びに臨時陵墓調査委員会の用務によって出張せられた先生は、十一月十一日、高崎市の旅館において脳溢血のために倒れた。すぐに動かすことは危険なのでそのまま静養の上、十二月二十日帰京し、一時駿河台の杏雲堂病院に入院加療せられ、やがて自宅療養の生活に入った。その後加療の効があって、手足の運動機能は恢復したが、言語障害はなおらず、こちらから言うことはわかっても、ご自身の意志の表明はできなくなった。常に熱弁をふるって自己の主張を通し、口をついて出る諧謔で相手を烟にまいた先生が、もの言わぬ人となったことは悲しみのきわみであった。いつも頑健を誇りにしていた先生に、六十歳を越えたばかりにこうしたことが起ころうとは誰も予期しないことであった。先生はすでにしかけている仕事、これから取りかかろうという事業を山ほども持っていた。国史大系の刊行、古文化研究所の運営は前者の例であり、国史館の建設は後者の例であった。
 このうち、国史大系は丸山、井野辺の両氏に私も、先生の意を汲んであとを継ぐ自信があったし、古文化研究所も、丸山氏、和田軍一氏らが熱心に事業の継続に当った。ただ国史館は紀元二千六百年奉祝記念事業のうちに取上げられたが、主唱者の先生が出席できないために、日の目を見ずに終わった。
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病気で倒れた年齢といい、その後の経過といい、石母田正氏と若干似てますね。
文中、「群馬県下史跡調査並びに臨時陵墓調査委員会の用務」とありますが、群馬県には陵墓はないはずなので、どのような案件だったのか、少し気になります。

「古代史の道」を読み直してみたら、この記述の少し前の部分、ちょっと面白いですね。

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 昭和十年度の学年末、初めて卒業論文の審査に加わった。国史学科では四人の教授、助教授が全学生の論文を読み、最後に一同に会してその成績を決定する手順になっていた。その会議の日が、何と十一年二月二十六日(二・二六事件)であった。場所は史料編纂所の所長室、私は何も知らずに出席したが、中村助教授が少しおくれて血相かえてとび込んで来て、「宮内省から来ましたが、門は閉鎖されていて、中々通さない。やっとのことで来ました」という。中村助教授は明治天皇御記編修会に関係されていたので、そのことで宮内省に朝行かれたのだそうである。後から考えれば、平泉教授は事情をご承知であったろうが、そのことについては何の立入った話もなかった。
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まあ、このとき平泉澄が置かれていた状況を考えれば、さすがに「立入った話」は無理だったでしょうね。
この時点では黒板勝美は退官していて、「四人の教授、助教授」の内訳は主任教授・辻善之助(1877-1955)、平泉澄教授(1895-1984)、中村孝也助教授(1885-1970)、そして新米の坂本太郎助教授(1901-87)ですね。
中村孝也は平泉澄より10歳上なのですが、平泉澄の方が先に教授になったので、もともと仲が良くなかった二人の関係はいっそう険悪になったそうです。
ちなみに中村孝也は高崎出身です。

中村孝也
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%AD%9D%E4%B9%9F
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旧制高校とラテン語

2014-10-28 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月28日(火)09時54分19秒

>筆綾丸さん
天皇陛下も伝毛松筆の「猿図」に描かれた猿を一目で日本猿と判断されたくらいの鋭い方なので、最初に「山百合であれば那須御用邸での情景ではないか」と指摘されたとしても別におかしくはないのですが、可能性としては歌人にしか分からない世界を昭和天皇と共有されているであろう皇后陛下の方が高そうですね。


>黒板勝美のノート
ご紹介の記事には市河三喜が登場しますね。

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 ハーンは1891年から3年間、五高で英語とラテン語を教えた。ノートは当時、五高生だった黒板勝美(1874~1946年)が講義の内容を英語で筆記したもの。黒板は東京帝大(現東大)の教授を務め、後に日本史学の大家となった。
 東京帝大教授で英語学者の市河三喜(1886~1970年)がハーンの没後に関連資料を集めた際、黒板が提供したようだ。他の資料と一緒に長く保管されてきたが、ハーン研究で知られる平川祐弘東大名誉教授(比較文学)が最近、黒板のものと確認した。


またラフカディオ・ハーンがラテン語も教えていたとありますね。
旧制高校は語学を極めて重視した教育を行っていましたが、ラテン語の講義はさすがに珍しかったでしょうね。
明治期に一時的にラテン語をカリキュラムに組み込んだけれど直ぐに廃止となった、という話を何かで読んだ覚えがあります。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

あたかも“昭和・平成の王朝絵巻”を見るような 2014/10/26(日) 14:55:04
小太郎さん
「深読み」の通りだ、と思います。
http://www.sankei.com/life/news/141025/lif1410250021-n1.html
『皇后美智子さま 全御歌』秦澄美枝釈には「公表された全御歌438首」とあり、意外と少ないことに驚かされます。歌を詠まれたときの時代背景は、当然のことながら、全部記憶されているでしょうね。昭和天皇と美智子皇后の歌を継承しうる皇族が残念ながら現在一人もおらず、皇室の和歌は先細りの感が強く、式子内親王のように、玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば・・・という御心境かもしれないですね。

追記
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG18007_Y4A011C1CR0000/
http://marilyn-m.at.webry.info/201410/article_3.html
本日の日経夕刊に、黒板勝美のノートの一部の写真が紹介されていますが、見事なノートですね。
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昭和天皇実録の訂正

2014-10-25 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月25日(土)13時11分40秒

このニュース、そもそものきっかけになったのが読売新聞記事なので、読売が一番詳しいですね。

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昭和天皇実録、陛下指摘で訂正…和歌巡る記述

 宮内庁の風岡典之長官は23日の定例記者会見で、同庁が今年9月9日付で公表した「昭和天皇実録」の本文中、昭和天皇が詠んだ和歌に関する時期や背景に誤りがあったとして訂正し、謝罪した。
 天皇陛下の指摘を受け判明したという。
 風岡長官によると、この和歌は、皇太子妃(今の皇后さま)が浩宮(今の皇太子さま)を乳母車に乗せて歩かれる情景を詠んだ「山百合の花咲く庭にいとし子を車にのせてその母はゆく」。実録では、昭和天皇が1960年7月1日に東宮御所を訪問した際の情景を詠んだと記述していた。
 この和歌と背景について、読売新聞が9月12日朝刊の実録に関する連載記事「天皇の昭和」で紹介したところ、記事を読まれた天皇陛下から同庁に「山百合であれば那須御用邸での情景ではないか」と指摘があり、誤りが判明。同庁が皇后さまにも聞くなどして確認したところ、60年8月6日の那須御用邸(栃木県)での情景を詠んだ歌と分かった。風岡長官は会見で「思い込みで資料の十分な検討も行わなかった。両陛下におわび申し上げた。読者の方々にもご迷惑をおかけした」と述べた。


高齢の天皇陛下の注意力・記憶力の高さに驚く、というのが普通の読者の反応だと思いますが、昭和天皇御製、しかも皇太子妃時代の美智子さまを詠まれた歌のことなので、あるいは最初に気づかれたのは皇后陛下かもしれないですね。
私見では昭和天皇は同時代の短歌の風潮とは全く関係のない場所にひとり屹立する和歌の天才であり、今の皇室で昭和天皇の歌風を承継されているのは皇后陛下で、皇后陛下は昭和天皇の歌を相当深く研究されていますね。
皇后陛下ならば記述の誤りに一瞬で気づかれたでしょうが、自ら宮内庁に指摘するのもどうか、ということで、奥ゆかしくも天皇陛下に伝えていただいた、ということではないですかね。
そのあたりの事情が「同庁が皇后さまにも聞くなどして確認したところ」という記述にそこはかとなく現われているのでは、というのが私の深読みです。
ま、動植物へのご造詣が深い天皇陛下が最初に「山百合」に気づかれたとしても別に不自然という訳ではありませんが、失礼ながら天皇陛下はそれほど和歌にはご執心ではないようなので、以上のように拝察する次第です。

>筆綾丸さん
>「故」を付けた理由
これは全く分かりません。
渡辺一夫が装幀した本を悉皆調査して、具体的に何時、どんな本の装幀に際して使ったのか、「六隅許六」系統と「故六隅許六」系統ではどのような使い分けがなされているのかを分析すれば何か出てきそうですが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

望月の腰掛 2014/10/24(金) 17:03:18
http://www.momat.go.jp/CG/architecture.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
昨日、北の丸公園を散歩したついでに、旧近衛師団司令部庁舎を眺めてから、北白川宮能久親王の銅像(昭和60年建立)の碑文を読むと、「北白川能久親王は近衛師団長として台湾に出征・・・炎熱瘴癘の地で疫病に罹患せられ、台南で御薨去遊ばされ・・・」(碑文には「宮」の字はなかったですね)。植民地時代の台湾ならともかく、昭和60年において、「炎熱瘴癘の地」は台湾に失礼だろう、と思いました。

小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%BC
『ガルガンチュワとパンタグリュエル』は、はじめ、フランソワ・ラブレー(François Rabelais)のアナグラムであるアルコフリバス・ナジエ(Alcofribas Nasier)の名で出版されているので、渡辺一夫もラブレーの顰に倣って、「ミクロコスム」(microcosme)のアナグラム「六隅許六」を考えた、まではわかるのですが、「故六隅許六」としてしまうと、アナグラムではなくなってしまいますよね。渡辺一夫が「故」を付けた理由などはわかりますか。普通、物故した職人の作品に「故」などは付けないので、「故六隅許六」は俺はまだ生きている職人なんだということを逆説的に強調したかったのでしょうか。とすると、「故」の字に嫌味な外連味が生じるような気がします。あるいは、「故六隅」は相撲の小結を示唆し、ガルガンチュアのような巨人族つまり横綱や大関にはとても及ばない、というような謙遜なんでしょうか。

https://ja.glosbe.com/ja/fr/%E3%81%8A%E5%B0%BB
『ガルガンチュワとパンタグリュエル』には糞尿譚(スカトロジー)が多くありますが、「ぼくは君のお尻がなめたい」という作品において、渡辺一夫は「尻」にどんなフランス語を宛てたのでしょうね。
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fesse; cul; fessier; pleine lune; fesses; miches; érieur; séant; fouindé; postérieur; croupe; derrière; post; arrière; âne; mégot; lune
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ラブレーの国だけあって、「尻」の仏語は呆れるほど豊富ですが、「原文」がわかれば面白いですね。ラブレーをまねて下品な語にしたのか、あるいは、pleine lune(望月)のような婉曲的な美辞麗句で奥様を礼賛したのか。
「ぼくは君のお尻がなめたい」という文を見て、一字違いですが、一瞬、不倫小説の巨匠(?)渡辺淳一の遺言かと思いました。
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六隅許六 or 故六隅許六

2014-10-24 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月24日(金)08時59分6秒

投稿のトップがいつまでも「ぼくは君のお尻がなめたい」なのは心苦しいので、小さなことですが、書いておきます。
『渡辺一夫著作集』第13巻別冊付録の清岡卓行・大江健三郎以下22名による追悼集を見ると、3人が装幀家としての渡辺一夫の別名について触れていますね。
まず、中野好夫氏(「追悼 渡辺一夫さんのことども」、p18)は、

-------
(前略)最後は拙著『蘆花徳冨健次郎』の装幀をお願いしたことである。もっとも、これは戦前から渡辺さんが、故六隅許六などという仮面の下に、専門家のそれとは異なったセンスの美しい装幀をしておられたのを知っていたからであり、強ってわたしからお願いをして快諾をえたのだった。内容よりも装幀の方がいいなどと、ひどいことをいった人物もいる。
-------

と書かれていて、渡辺一夫は戦前から「故六隅許六などという仮面」を被っていたことが分かります。
ついで中島健蔵氏(「渡辺一夫のこと」、p28)は、

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 彼は、晩年に近く、『熊さんと八つぁんの対話』という軽妙な世相批評を書いていた。この発想は、江戸文学、特に式亭三馬あたりの庶民的な目の明るさに学んだものと思われるが、それだけでなく、彼は、本質的な意味で生活を愛した人間だった。そして、文筆だけでなく、みずから絵画を描き、六隅許六という仮名で、本や雑誌の表紙の飾画を作っていた。かんたんな工作も好きで、たえず生活を愛することにつとめていた。
------

としています。
ま、「本や雑誌の表紙の飾画」の話になっていますが、「六隅許六という仮名」ですね。
三番目に市原豊太氏(「渡辺さん」、p31)は、

------
 学生時代から五十年に亙る友の一人として、私も渡辺さんからずゐ分いろいろな恵みを与へられた。すべての著作を贈られて、その度に教へられたことは多く、又私が雑文集を出す時には、絵心の深い渡辺さんに装幀を四遍ほどお願ひして快諾して頂いた。それには常に六隅許六<ムスミコロク>の雅号が用ひられたが、ムスミコロクはミクロコスム(小宇宙)の文字変換<アナグラム>であつて、人間は小宇宙であるといふギリシャ以来の思想、ルネッサンス期のフランス・ユマニスムの一観点でもあつた。
------

と書かれています。
「ムスミコロク」なら確かに「ミクロコスム」のアナグラムになりますね。
ウィキペディアでは、

-----
ミクロコスモス(人間を意味する小宇宙)のアナグラムである六隅許六(むすみ ころく)という変名で、中野重治や福永武彦、師の辰野隆らの著書装丁を行っている。
-----

とあり、「ミクロコスモス」は七文字ですから、カタカナで考える限り、どう工夫してもそのアナグラムが「ムスミコロク」になるはずがないので変だな、と思ったのですが、「ミクロコスム」(microcosme)なら納得です。
ちなみに英語ではmicrocosmですが、『英語語義語源事典』(三省堂)によれば、「ギリシャ語 mikros kosmos(=litle world)が中世ラテン語を経て中英語にはいった」とありますね。
「ミクロコスモス」という表現は和製英語なんですかね。
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「ぼくは君のお尻がなめたい」(by 渡辺一夫)

2014-10-22 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月22日(水)23時00分10秒

『のちの思いに』には仏文科の名物教授・渡辺一夫への言及も多いのですが、次の部分は傑作ですね。

-------
 先生が故六隅許六のペン・ネームを使って、以前から独特のスタイルの本の装丁をされていたことは、よく知られていた。おそらくその延長だったのであろう、先生は駒込の新らしいお宅の日の当たるテラスで、彫刻刀を器用に動かしながら、木工細工に熱中されていた。ブック・エンドのような簡単な細工物に始まり、もっと複雑な両開き扉が二重についた厨子型の「作品」まで、だんだんに手の込んだ木工品が増えていった。この厨子は、おそるおそる二度扉を開けると、中ににっこり笑った奥様の肖像写真が入っているという念入りな傑作だった。あちこちに銘文が彫り込まれ、きれいに着色されたものもあった。
 時にはふざけて風呂場の小さな腰掛けを作り、それに丹念にフランス語の文字を刻まれた。そこには「ぼくは君のお尻がなめたい」とあった。こんなラブレーそこのけのいたずらに、これを毎晩使われる奥様は、「本当にはずかしくて困ります」と言いながら、それでも、風呂場のドアを開けてこの「作品」を見せて下さった。
-------

ウィキペディアを見たら渡辺一夫の装丁者としての名前は「六隅許六」とありますね。

渡辺一夫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%B8%80%E5%A4%AB

ただ、新潮社サイトでも確認できるように、『のちの思いに』には間違いなく「故六隅許六」とあります。

http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/plain/plain44.html

リンク先のブログによれば、どうも「六隅許六」と「故六隅許六」を両方使っていたようで、生前に「故」とつけるあたり、いかにも渡辺一夫らしいですね。

http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/22023313.html

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市河三喜とは犬猿の仲?

2014-10-22 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月22日(水)22時38分55秒

>筆綾丸さん
多芸多才の中島健蔵といえども、「進歩的文化人」的立場からの評論はさすがに古臭くて、今の時点で読み返す価値のあるものは少なそうですね。
ウィキペディアを見たら、中島健蔵自身も戦争責任に絡んで奇妙なことを書かれていますね。
また、

--------
1928年、東京帝大を卒業。副手として研究室に残る。英文科教授の市河三喜から、フランス語の動詞の変化に関して質問を受けたが即答できなかったために侮りを受け、以来、市河とは犬猿の仲となる。


などとありますが、これはウィキペディアのルールとしても「要出典」でしょうね。

>記念プレート
『辻邦生全集』第20巻の井上明久編「辻邦生年譜」によれば、

-------
平成十五年(二〇〇三年)
誕生日にあたる九月二十四日、二十年間借りていたパリ、デカルト街三十七番地のアパルトマンの壁面に記念のプレートがつけられ、パリ第四大学総長ピット教授、パリ五区のティベリ区長、平林駐仏大使、パリ日本文化会館磯村館長、そして日本からも訪れた多くの参加者の前で、佐保子と弟の愛也の手によって除幕式が行われる。(後略)
-------

とありますね。
「磯村館長」は元NHKの磯村尚徳氏なんでしょうね。

>『知ろうとすること。』
評判はツイッターでいろいろ聞いているのですが、未読です。
早速、読んでみます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

カルチェ・ラタンの男 2014/10/21(火) 13:37:19
小太郎さん
中島健蔵の講義内容から察するに、「はしにも棒にもかからない」「札つきの神がかりの学者」という筧克彦評は、「べらんめいを混えた江戸前の早口」による「高座の落語」のようなエピソードのひとつ、くらいに受け取ったほうがいいのかもしれませんね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E9%82%A6%E7%94%9F
-----------------
後年はパリ5区、Rue Descartesに位置するポール・ヴェルレーヌが没した建物の左隣に在住した。没後はヴェルレーヌと並び記念プレートが掲げられている。
-----------------
http://4travel.jp/travelogue/10861164
私もこの通りが好きで何度も歩きましたが、記念プレートを見て、辻邦生はフランスでも有名なんだね(駐仏日本大使あたりがパリ市長と交渉して掲げさせたのかもしれませんが)、と驚いたものです。パンテオンの裏は名門アンリ4世校で、その裏通りに面していて、辻邦生はヴェルレーヌよりもデカルトの名に惹かれて滞在したのかな(séjourné という表現からすると、所有ではなく賃借のようですね)、と思いました。デカルト通りを南下したムフタール通りの両側は商店街で、おそらく最もパリらしい通りのひとつで、辻(辻子)という言葉が似合いそうな通りですね。

2011年4月、福島原発の4号機が予断を許さぬ危険な状態にあったとき、東大工学部は授業の開始を5月に遅らせた、とあって、次のような会話になります(『知ろうとすること。』54頁~)。
--------------
糸井 それは、どういう理由で?
早野 はっきり発表されたわけではないんですが、要するに、原発でさらによくないことが起こった場合に、首都圏が混乱に陥る可能性がゼロではないという認識を持ったみたいでした。
糸井 東大の工学部がそういう認識だというのは、ちょっと怖いですね(笑)。
早野 自分たちが知り得ないことを知ってるんじゃないかと、ちょっと思っちゃいますよね。実際、本当にそういう可能性があるんだったら、そのことをきちんと言って東大全体を遅らせるべきだ、というような議論がかなりありました。(後略)
--------------
首都圏の大学の内、文系などは論外として、どのくらいの理工系学部がこういう認識を共有していたのでしょうね。半分皮肉ですが、さすが東大工学部だね、という感じです。
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「リスちゃん登場」(by 辻邦生)

2014-10-21 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月21日(火)12時03分0秒

>筆綾丸さん
神田千里氏の『織田信長』(ちくま新書)、読んでみました。
信長研究の最近の動向は知らなかったので、金子拓氏の『織田信長<天下人>の実像』を読み終えた時点では多少疑問も残ったのですが、神田氏の「天下」に関する説明は読者が抱くであろう疑問を全て予想して懇切丁寧な検討を加えており、実に説得的ですね。

装飾写本の世界、面白そうだなあと思って、とりあえず日本語の文献を少しずつ読んでいるところなのですが、私のような初心者には辻佐保子氏の解説が役に立ちます。
辻佐保子氏も2011年に亡くなられていたのですね。


遥か昔の大学生の頃、私は何故か辻邦生がけっこう好きだったのですが、『夏の砦』を本当に久しぶりにパラパラめくってみたら、装飾写本のこともかなり詳しく出ていますね。
結果的に未完の遺作となった『のちの思いに』(日本経済新聞社、1999)も読んでみたところ、真面目そうなタイトルに反して、古希を過ぎた辻邦生が気楽に書いた自伝風小説でしたが、ここには東大文学部で一年下だった「リスちゃん」こと佐保子氏が頻繁に登場します。
後に名古屋大学・お茶の水女子大学教授となった佐保子氏の生真面目な文体からはちょっと想像し難い、美術史科初の女子学生で人気者だった当時ののんきな日常が面白いですね。
ちなみに『夏の砦』の主人公の少女時代の思い出は、辻佐保子氏の思い出がベース、というか殆どそのままだったみたいですね。

『のちの思いに』から、昭和二十年代半ばの東大仏文科の様子が伺える箇所を少し引用してみます。(p30)
同じ東大文学部でも国史学科あたりとはずいぶん雰囲気が違ったようですね。

--------
 そんな中で学生たちの人気を集めていたのは、中島健蔵講師であった。中島健蔵はフランス文学者というより、幅広い文化人として知られていた。教室はそうした評判もあって、いつも学生たちで満員だった。当時はまだ日常のおしゃべりに江戸前のべらんめい調を使う人がまま残っていた。あまり頻繁になるとそれも嫌みだが、歯切れのいい江戸前の言葉で喋られると、それなりの粋な感じがあった。
 中島健蔵の喋りの特色は、このべらんめいを混えた江戸前の早口であった。講義の語り口も同じだったから、聞いていても気持ちよかった。「おめえさん、そんなとこで何を突っ立っていやがるんだい」という調子を教室で耳にすると、最初はかなりどぎまぎするが、決して悪い気はしなかった。江戸前の切り口上で喋るうえ、フランス文学の内容も立て板に水式で、とても講義ノートをとる暇がなかった。はじめはノートをとろうとする勇者もいたらしいが、その喋りの面白さにひかれて、高座の落語を聞くようにみなが聞きほれた。ケンチ(中島先生は学生たちにも健蔵、略してケンチと呼ばれていた)はフランス文学科の顔のような存在だったから、スタンダールの『赤と黒』のジュリアンとレナール夫人の恋愛については、法学部の学生でも知っていた。ケンチの名調子はそれほどまでに評判が高く、もぐりで聴講にくる学生も多かったからである。(中略)
 鈴木信太郎、渡辺一夫両先生も名講義をされたが、中島ケンチのような講義は前代未聞であり、これぞ同時代に生まれた余徳といったものであった。ケンチの飛ばす与太のようなお喋りのなかにも、人生の知恵のようなものがふんだんに含まれていた。べらんめいで喋る中島健蔵のような先生の方が、人間として一まわりも二まわりも大きいのではないか、と思うこともあった。
-------

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

京極表の篝の前 2014/10/18(土) 19:59:36
小太郎さん
「breathed her last」はまさに「御こときれ」という感じがしますが、この時の南方(金沢貞顕)の最期を考えると、なんだかとても印象的なシーンですね。「京極表の篝の前に、床子に尻掛けて」、文人肌(?)の武将は何を考えていただろう、といったような。また、黒澤映画の一場面のような感じもしてきますね。

http://www.shinchosha.co.jp/book/118318/
早野龍五氏の本が出たので、読んでみようかと思います。
補遺
さきほど、読み終わりました。専門外の領域で、これほどの業績を残してしまうのだから、早野龍五氏はほんとに優秀な科学者なんですね。ジュネーヴのCERNにおいて英語でプレゼンしたという福島高校の三人の生徒も、うーむ、見事なものだな。

追記
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG17004_R20C14A4CR0000/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AE%E5%AE%B6
以前、レンブラントの家(Museum Het Rembrandthuis)を訪ねたとき、和紙に描かれたデッサンに驚いたものですが、産地がわかれば面白いですね。
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Her Majesty and His Majesty

2014-10-17 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月17日(金)13時31分15秒

>筆綾丸さん
東二条院と後深草院の崩御はそれぞれ次のように訳されています。

"Then word came that Her Majesty had breathed her last."(p238)
"Around noon on the sixteenth His Majesty's passing was announced,"(p242)

「帰洛、東二条院の病と死を聞く」
「院死去、御所の庭にたたずむ」

敬語表現の細かいニュアンスは、やはり翻訳には反映されないようですね。
参考までに後深草院崩御の場面、もう少し載せてみます。

-------
 On the night of the fifteenth, thanks to Sanekane's help, I entered GoFukakusa's palace from Second Avenue, and caught a dreamlike glimps of His Majesty. Around noon on the sixteenth His Majesty's passing was announced, and although I had tried to prepare myself for this event, when it actually happened I could not suppress my sorrow nor assuage my loneliness and grief. I returned to the palace and saw attendants dismantling the altars where prayers for his recovery had been offered. Others seemed to be milling aimlessly about, yet it was deathly still, and all the lights in the palace had been extinguished. Before dusk the crown prince retired to the palace on Second Avenue, and gradually other people also disappeared. Early that evening the two Rokuhara deputies came to pay their final respects. Together they arranged for a most impressive tribute: The deputy of the north ordered that torches be placed in front of the houses facing Tomi Street, and the deputy of the south had two lines of retainers sit on stools in front of watch fires along Kyogoku Street.
--------

六波羅探題北方は"the deputy of the north"、南方は"the deputy of the south"、二人併せて"Rokuhara deputies "というのは妙に面白いですね。
deputy は普通、代理人または副官と訳しますが、ここでは前者でしょうか。

>ザゲィムプレィアさん
>ラジオマンガ
これは知りませんでした。
Ithacaは人口僅か3万人程度だそうですね。


コーネル大学は学生だけで2万人いるとのことなので、全員がIthacaに住んでいる訳ではないにしても、殆ど町と大学が重なりあっているような状態ですね。

※筆綾丸さんとザゲィムプレィアさんの下記投稿へのレスです。

二人の死 2014/10/16(木) 19:48:54(筆綾丸さん)
小太郎さん
Karen Brazell 氏の訃音にある after a brief hospitalization という表現からすると、あまり苦しまない穏やかな死であったのでしょうね。
『とはずがたり』を開くと、東二条院の死は「はや御こときれさせ給ひぬ」、御深草院の死は「はや御こときれ給ひぬ」で、尊敬の度合いを東二条院>御深草院としているのは何故だろう、と思いましたが、Karen Brazell 氏は訳し分けていますか。
全米図書賞翻訳部門では、サイデンステッカーの「山の音」(1971年)、リービ英雄の「万葉集」(1982年)なども受賞しているのですね。
http://scienceportal.jp/news/newsflash_review/newsflash/2014/10/20141015_03.html
東野圭吾「夢幻花」ではありませんが、黄色い朝顔が出来たようですね。


Ithaca & Odyssey 2014/10/17(金) 00:16:25(ザゲィムプレィアさん)
小太郎さん、こんにちは
ニューヨーク州のIthacaは知らないのですが、この地名を見て思い出したことがあります。
Brazell氏が本を出した1973年を挟む時期にラジオマンガというラジオドラマのシリーズが放送されていて、シリーズの中に
「明日は帰ろうオデッセイ」という作品があり、単なる駄洒落ですが「イタカの国の三鷹」という科白があったことを思い出しました。
つまらないことを書きましたが、小太郎さんは年齢が近いようなのでひょっとしてラジオマンガを聞いていたかなと考えました。
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National Book Award 受賞作品

2014-10-15 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月15日(水)23時02分56秒

Karen Brazell 氏、一度、お話を聞いてみたいと思っていたのですが、亡くなられていたとはショックです。
学者の73歳というのはまだまだ業績を残せる時期で、もったいない感じがしますね。
同氏は1938年生まれで、1973年、35歳のときに最初の著書として"The Confessions of Lady Nijō"を出版。
これが翌1974年に"National Book Award"(翻訳部門)を受賞して、学者としての地位を築く大きなきっかけとなったみたいですね。

National Book Award

>筆綾丸さん
>『蜩の記』
かなり複雑な構成の作品みたいですね。
ご紹介から受ける印象としては、一揆についての理解は近世のそれとしても若干古いような感じもしますが、小説だから仕方ないのでしょうね。
和知の場面については、また後ほど。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Putsch と Vertrag の間 2014/10/14(火) 19:43:58
小太郎さん
http://higurashinoki.jp/
『蜩の記』は、原作ではあまり感じなかったものの、映画で観ると、なんだか不自然な話のような気がしましたが、それはともかく、江戸時代の過酷な年貢取り立てに対する百姓一揆の話が出てきて、中世の領主一揆における「一揆」とは似て非なるものだなあ、とあらためて感じました。ドイツ語で言えば、前者の一揆は Putsch 、後者の一揆は Vertrag で、両者の間にはほとんど関係がないというようなことになるのでしょうね。
一揆の「法人格」性になると、 Putsch とも Vertrag とも違いますが、なるほど、こういう使い方もあるのか、と納得しました。

「Bingo province(備後の国)」はビンゴ・ゲームの bingo ようですね。

「I (disembarked at once and )set out for the home of the lady I had met earlier on board the ship to Itsukushima, following her writen directions to Wachi.」(船のうちなりし女房、書きつけて賜びたりしところをたづぬるに、程近くたづねあひたり」という文があるのに、二条の下人扱いは欧米人に理解されるものなのかどうか。一泊一飯の恩義ではないけれども、何らかの負債の感情は生まれるにしても、なぜ下人にされてしまうのか。中世のスコットランドやブルターニュなどにもよく似た風習があったな(?)とか、サンティアゴやエルサレムなどの聖地巡礼者にもときどき起きたことだ(?)・・・というような具合に受容されるのでしょうか。
この文の少し前には、
------------
船のうちによしある女あり。「われは備後の国、和知といふところのものにて侍る。宿願によりてこれへ参りて候ひつる。住まひも御覧ぜよかし」などさそへども、「土佐の足摺の岬と申すところがゆかしくて侍るときに、それへ参るなり。帰さにたずね申さん」と契りぬ。(講談社学術文庫『とはずがたり(下)』350頁)
------------
とあって、「由有る女」の誘いなので帰途寄らせてもらいましょう、となったのに、下人云々となったのでは、「由有る女」は奥ゆかしい女どころではなく、いわくつきの女つまりは女だてらの proxénéte(プロクセネート・女衒)の如きものになってしまわないか。この女は「和知のあるじ」がどのような人間なのか、充分承知の上で招いたはずで、こんな展開になるのは想定外だとすれば、ただの馬鹿女でしかあるまい・・・などと考えてゆくと、二条は何が言いたくてこんなエピソードを書き連ねたのか、どうにもわからない。この場面は、今となっては何が面白いのか不明ながら、同時代人にはニヤニヤするほどのファルス(farce)だったのだろうか。

竹簀垣の歌の英訳中 bamboo pickets は bamboo knots とでもしないと(シラブルの制約があるでしょうが)、「憂き節々」のニュアンスが消えてしまうような気がしますね。
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Professor Emerita Karen Brazell dies at age 73

2014-10-15 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月15日(水)22時27分16秒

久しぶりにKaren Brazell 氏の名前で検索してみたら、2012年に亡くなられていました。

-----------
Karen Brazell (April 25, 1938 - January 18, 2012) was an American professor and translator of Japanese literature. Her English language edition of The Confessions of Lady Nijō won a U.S. National Book Award in category Translation.
Karen Brazell held a PhD from Columbia University, and was, until her death, Goldwin Smith Professor Emeritus of Japanese Literature and Theatre at Cornell University.She died in 2012 at the age of 73.


この掲示板でもずいぶん前に同氏について触れましたが、保管庫のブログの方で検索してみたら、実に2007年8月のことでした。

The Confessions of Lady Nijo

上記投稿でKaren Brazell氏を紹介するためにリンク先としていたコーネル大学サイト内のページ、質的にも量的にも本当に充実していて、プロフィールでは確か日本留学中に次田香澄氏に指導を受けた、といったようなことが細かく書いてあったはずなのですが、残念ながら今は消滅していますね。
代わりに"Cornell Chronicle"に2012年1月23日付の訃報がありました。
これもいつか消えるかもしれないので、念のため全文を保管しておきます。

--------
Professor Emerita Karen Brazell dies at age 73

Karen Brazell, the Goldwin Smith Graduate Professor Emerita of Japanese Literature and Theatre, died Jan. 18 in Ithaca after a brief hospitalization. A renowned scholar in her field, Brazell was also a translator of Japanese literature and an innovator in digital humanities.

Brazell was founder (1998) and director of the Global Performing Arts Consortium, a multilingual digital archive for global performance traditions that was launched when such endeavors were in their infancy.

Brazell, who was born April 25, 1938, earned her B.A. and M.A. from the University of Michigan and her Ph.D. from Columbia University.

Her many published volumes include the National Book Award winner, "The Confessions of Lady Nijo" (1983), her first book. While Brazell chaired of the Department of Asian Studies (1977-82), she founded the Japanese studies doctoral program and helped strengthen the humanities at the university. She also served as director of the East Asia Program (1987-91), establishing the Cornell East Asia Series of publications. She also served on the Cornell Board of Trustees (1979-83).

In addition, she was the author or co-author of numerous other publications, including "Her Nô as Performance" (1978), which introduced the perspective of performance studies to what had been a predominantly textually oriented field, and "Dance in the Nô Theatre: Dance Analysis." She edited the anthologies "Twelve Plays of the Nô and Kyôgen Theaters" (1988) and "Traditional Japanese Theater" (1999).

She served as visiting professor at University of California-Berkeley, Columbia University, Singapore National University, the National Institute of Japanese Literature in Tokyo and the Kyoto Center for Japanese Studies. Her many awards include Fulbright, National Endowment for the Humanities and Japan Foundation fellowships.

Brazell was was predeceased by husbands George Gibian and Doug Fitchen, both of Ithaca. She is survived by nine children and stepchildren and extended family. A memorial service took place Jan. 21 at Kendall at Ithaca. Memorial donations can be made to the Cancer Resource Center of the Finger Lakes, 612 W. State St., Ithaca NY 14850.


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和知の場面の英訳(その3)

2014-10-12 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月12日(日)21時15分48秒

続きです。
和知の場面はこれで完結。

-------
 As we entertained ourselves composing verses, I was able to get a closer look at the lay priest and realized that we had both attended a linked-verse party at Lord Iinuma's house in Kamakura. We spoke of the many things that had happened since then. When he left to return to his home in nearby Ita it was snowing hard, and the landscape with its bamboo picket fences was unfamiliar to me.

 I have renounced this world and yet
 My sorrows still are numerous
 As bamboo pickets are numerous
 How doleful winter is!

Lord Iinuma:「飯沼の左衛門」、飯沼助宗。
※「世を厭ふならひながらも竹簀垣憂き節々は冬ぞ悲しき」

 With the arrival of the new year I wanted to set out immediately on my return trip to the capital, but everyone discouraged me. "It's still much too cold. And what about a ship?" My resolve wavered until the end of the second month. When he heard of my definite plans to leave now, the lay priest Hirosawa came over from Ita, and we again composed poems together. He also presented me with many going-away gifts. Hirosawa was the gurdian of Prince Munetaka's daughter, who was then living with my friend Lady Komachi, and I suspected that he had considered these connections in giving me the presents.

※「小町殿のもとにおはします中務の宮の姫君の御傅(めのと)」が"the gurdian of Prince Munetaka's daughter, who was then living with my friend Lady Komachi"に対応。
「中務の宮」は鎌倉幕府第六代将軍宗尊親王。

 The cherry blossoms were in full bloom when I arrived at Ebara in Bitchu province. I broke off a branch and asked the man who had accompanied me on this stage of my journey to deliver it to Hirosawa with this poem :

 Though rising mist divides us,
 O cherry blossoms,
 May the things of the wind
 Carry thoughts of me.

※「霞こそ立ち隔つとも桜花風のつてには思ひをこせよ」

Two days down the road a special messenger came with this reply:

 Is it only blossoms
 I cannot forget?
 My heart goes with you
 But cannot speak.

※「花のみか忘るゝ間なき言の葉を心は行て語らざりけり」

 Kibitsumiya Shrine lay on the way to the capital, so I dropped in for a visit. The buildings were furnished in a style quite different from that of most shrines, with portable curtains and other accouterments typical of a nobleman's mansion, making it altogether a fascinating place. I did not linger, however, for the day was still young, and the weather was fine. Before long I reached the capital, where I pondered the strange experience I had had. What awful fate might have befallen me had not the lay priest arrived? That man at Wachi was certainly not my master, but who would have defended me? What could I have done? I realized how dangerous pilgrimages can be.

portable curtain:几帳

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和知の場面の英訳(その2)

2014-10-12 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月12日(日)20時49分24秒

続きです。

---------
 A few ladies had come to Wachi especially for the lay priest's visit, among whom were daughters of the master's elder brother, who had an estate in Eta. "Why don't you come and visit us?" they asked. "Eta is beautiful."
 I was beginning to feel acutely uncomfortable in this house, and yet the snow made it impossible for me to head back toward the capital, so I decided to accept their invitaion and remain with them until the end of the year. My departure was quite casual, but afterward the master of Wachi became inexplicably angry and threatening. "A servant I had had for many years escaped. Then I found this one at Itsukushima, and now she has been spirited off to Eta. I'll murder somebody for this," he ranted.
 I could not comprehend his outburst. "He's out of his mind to say such things," I was told. "Just ignore him."

※二条が和知の領主の屋敷から、その兄で江田の領主の屋敷に移動すると、弟は激怒。「我が年頃の下人を逃がしたりつるを」は "A servant I had had for many years escaped. "に対応し、「下人」をservantと訳している。
※原文では逃亡した下人=二条を「打ち殺さむ」とあるが、英訳では何故かsomebodyを殺すとなっている。

 At Eta there were many congenial young ladies around, and though I was not particularly fond of the place, it was certainly more pleasant than where I had been staying. I was still fretting over what had happened when the lay priest stopped again at Wachi on his return from Kumano. The master there complained to him of the "outrageous thing" that had happened. "My elder brother stole one of my servants," he claimed.
 The lay priest was not only the steward of the region but the uncle of the brothers as well, and he intervened : "What is all this? Are you actually quarreling over some unknown servant? Who is she, anyway? It is quite natural for people to travel about on pilgrimages, and you have no idea what her status might be in the capital. The crudeness you are displaying is embarrassing to all of us."

fret:やきもきする。じれる。「(いかなる事ぞと)いとあさましきに」に対応。
※原文「我が下人を取られたる」が "My elder brother stole one of my servants," に対応。
※「地頭」を "steward of the region"としているが、欧米の読者は「領主の館に雇われた執事・家令」といった意味で受け取るのではないか。

 The lay priest then came to Eta, where we had made preparations to receive him. The master here explained how matters stood, concluding with the remark, "My brother and I have ended up quarreling over a traveler we don't even know."
"This is most unusual," the lay priest agreed. "Have someone accompany her to Bitchu province and see her off." I rejoiced at his suggestion.
 When I met the lay priest in person he said, "Talent can be the souce of difficulties. I understand that the master at Wachi wanted to keep you because you are so accomplished."

※「よしなき物参り人」が"a traveler we don't even know"に対応。
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