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長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター

2023-01-19 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

長村祥知氏は、『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』(吉川弘文館、2022)において、

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 いま一つの問題は、後鳥羽院領摂津国長江庄・倉橋(椋橋)庄の地頭職である。『吾妻鏡』承久元年三月九日条・承久三年五月十九日条には、後鳥羽が、寵女亀菊の申状を受けて、使者藤原忠綱を関東に遣わし、両庄の地頭職の停止を要求したが、北条義時が拒絶したとある。流布本『承久記』上にも、両庄の地頭が領家亀菊をないがしろにしたので、泣きつかれた後鳥羽が鎌倉に地頭改易を仰せ下したとある。ただし慈光寺本『承久記』上によれば、亀菊が所職を有した長江庄は院領で、長江庄の地頭は北条義時であったらしい。『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、義時が執権として鎌倉御家人の権益を保護したように描くが、むしろ義時自身が地頭職を有する所領にかんして、後鳥羽からの要求を拒絶したのが真相のようである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dbce4ae481988ee4658a379aba137edb

とされており(p108)、長村氏以外にも呉座勇一(『頼朝と義時』、p281)、山本みなみ(『史伝北条義時』、p225)、岩田慎平(『北条義時』、p164)の諸氏が慈光寺本を信頼して長江庄の地頭が北条義時だったと解されています。
また、上記の中堅・若手研究者以外でも、野口実(「序論 承久の乱の概要と評価」、『承久の乱の構造と展開』所収、戎光祥出版、2019、p9)、菊池紳一(『源家滅亡』、山川出版社、2022、p321)、岡田清一(『北条義時』、ミネルヴァ書房、2019、p175)、高橋秀樹(『北条氏と三浦氏』、吉川弘文館、2021、p99)等の大家も長江庄の地頭が義時だったと判断されています。
しかし、慈光寺本『承久記』の亀菊エピソードは、

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 爰〔ここ〕ニ、太上天皇叡慮動キマシマス事アリ。源氏ハ日本国ヲ乱リシ平家ヲ打平〔うちたひ〕ラゲシカバ、勲功ニ地頭職ヲモ被下〔くだされ〕シナリ。義時ガ仕出〔しいだし〕タル事モ無テ、日本国ヲ心ノ儘ニ執行〔しゆぎやう〕シテ、動〔ややも〕スレバ勅定〔ちよくぢやう〕ヲ違背スルコソ奇怪〔きつくわい〕ナレト、思食〔おぼしめさ〕ルゝ叡慮積〔つも〕リニケリ。【中略】十善君〔じふぜんのきみ〕忽〔たちまち〕ニ兵乱ヲ起〔おこし〕給ヒ、終〔つひ〕ニ流罪セラレ玉ヒケルコソ浅増〔あさまし〕ケレ。
 其〔その〕由来ヲ尋ヌレバ、佐目牛〔さめうし〕西洞院ニ住ケル亀菊ト云〔いふ〕舞女〔ぶぢよ〕ノ故トゾ承ル。彼人〔かのひと〕、寵愛双〔ならび〕ナキ余〔あまり〕、父ヲバ刑部丞〔ぎやうぶのじよう〕ニゾナサレケル。俸禄不余〔あまらず〕思食〔おぼしめし〕テ、摂津国長江庄〔ながえのしやう〕三百余町ヲバ、丸〔まろ〕ガ一期〔いちご〕ノ間ハ亀菊ニ充行〔あておこな〕ハルゝトゾ、院宣下サレケル。刑部丞ハ庁〔ちやう〕ノ御下文〔おんくだしぶみ〕ヲ額〔ひたひ〕ニ宛テ、長江庄ニ馳下〔はせくだり〕、此由〔このよし〕執行シケレ共〔ども〕、坂東地頭、是ヲ事共〔こととも〕セデ申ケルハ、「此所ハ右大将家ヨリ大夫殿〔だいぶどの〕ノ給テマシマス所ナレバ、宣旨ナリトモ、大夫殿ノ御判〔ごはん〕ニテ、去〔さり〕マヒラセヨト仰〔おほせ〕ノナカラン限ハ、努力〔ゆめゆめ〕叶〔かなひ〕候マジ」トテ、刑部丞ヲ追上〔おひのぼ〕スル。仍〔よつて〕、此趣ヲ院ニ愁申〔うれへまうし〕ケレバ、叡慮不安〔やすからず〕カラ思食テ、医王〔ゐわう〕左衛門能茂〔よしもち〕ヲ召テ、「又、長江庄ニ罷下〔まかりくだり〕テ、地頭追出〔おひいだ〕シテ取ラセヨ」ト被仰下〔おほせくだされ〕ケレバ、能茂馳下〔はせくだり〕テ追出ケレドモ、更ニ用ヒズ。能茂帰洛シテ、此由〔このよし〕院奏シケレバ、仰下〔おほせくだ〕サレケルハ、「末々ノ者ダニモ如此〔かくのごとく〕云。増シテ義時ガ院宣ヲ軽忽〔きやうこつ〕スルハ、尤〔もつとも〕理〔ことわり〕也」トテ、義時ガ詞〔ことば〕ヲモ聞召〔きこしめし〕テ、重テ院宣ヲ被下〔くだされ〕ケリ。「余所〔よそ〕ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計〔ばかり〕ヲバ去進〔さりまゐら〕スベシ」トゾ書下サレケル。義時、院宣ヲ開〔ひらき〕テ申サレケルハ、「如何ニ、十善ノ君ハ加様〔かやう〕ノ宣旨ヲバ被下〔くだされ〕候ヤラン。於余所者〔よそにおいては〕、百所モ千所モ被召上〔めしあげられ〕候共〔とも〕、長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙〔かうぶる〕始ニ給〔たまひ〕テ候所ナレバ、居乍〔ゐながら〕頸ヲ被召〔めさる〕トモ、努力〔ゆめゆめ〕叶候マジ」トテ、院宣ヲ三度マデコソ背〔そむき〕ケレ。
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というもので(新日本古典文学大系、p304以下)、私にはかなり創作的要素が含まれているように思われます。
そこで、長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者の諸兄姉におかれては、この亀菊エピソードのうち、長江庄が「右大将家ヨリ大夫殿ノ給テマシマス所」とする箇所を除いた下記の八つの要素、即ち、

(1)後鳥羽院が亀菊の父を「刑部丞」に任じたこと
(2)後鳥羽院が「摂津国長江庄三百余町」を「一期」限り、亀菊に「充行」たこと
(3)亀菊父の「刑部丞」が「庁ノ御下文」を持参の上、「関東地頭」(長江庄の地頭・義時の地頭代か)と折衝したこと
(4)「関東地頭」が「刑部丞」に、「宣旨」(院宣)があろうと、「大夫殿ノ御判」がなければ従えないと拒否したこと
(5)それを聞いた後鳥羽院が藤原能茂に「地頭追出」を命じたこと
(6)藤原能茂が「地頭追出」を実行しようとしたところ「関東地頭」が拒否したこと
(7)後鳥羽院が義時の言い分も聞いた上で、「余所ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計ヲバ去進スベシ」との院宣を下したこと
(8)義時が「如何ニ、十善ノ君ハ加様ノ宣旨ヲバ被下候ヤラン。於余所者、百所モ千所モ被召上候共、長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍頸ヲ被召トモ、努力叶候マジ」と言って、院宣を拒否したこと

について、どの要素を事実の記録として信頼されるのか、仮に(1)~(8)の全てを信頼するのでなければ、事実の記録として信頼できる部分とそうではない部分を区別する基準は何なのか、を御教示いただければ幸いです。

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