学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

帝国の市民権とEUの市民権

2016-06-29 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月29日(水)10時49分34秒

『政治哲学的考察』の「第4章 政治哲学問題としての欧州統合」は11年前の論文(初出は中村民雄編『EU研究の新地平─前例なき政体への接近』、ミネルヴァ書房、2005)ですが、今回のイギリス離脱騒動を眺めながら読むと面白いですね。
少し引用してみます。(p221以下)

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 このことと関連して、帝国的な市民権のあり方を考えてみたい。これまでの主権国家体制においては、バリバールの指摘するように、市民権は国民国家における国籍とほとんど同一視されてきた(Balibar 1998:46, 邦訳五九頁)。市民権を持つということは、いずれかの主権国家の国籍を有することと同義とされ、逆に国籍と切り離した形で市民権を論じる余地は少なかった。しかしながら、もし仮に帝国的な市民権というものがありうるとすれば、それは古代ローマの市民権のあり方が参考になるであろう。というのも、古代ローマは古代ギリシアのポリスと異なり、市民としての地位と権利を、被征服地域の市民にも開放していたからである。ローマの拡大の原動力は、次々に併合した地域の市民をローマの市民に加えるという、開放的な市民権のあり方に見出せる。巨大化するローマの市民権とは、ローマの公的な意思決定に参加することというよりは、むしろローマの支配下に、一定の民事的諸権利を享受することに主眼があった。それゆえに、ローマの市民権は無限に拡大していくことが可能だったのである。
 このような帝国の市民権をEU市民権と比較してみると興味深い。既に指摘したように、EUの拡大は、民主的な世論を形成し、それによって権力をコントロールする市民の力を低下させるかもしれないが、個人としての権利については、むしろその可能性を広げるものである。その意味でEU市民権は、公的意思決定への参加という側面より、一定の諸権利の享受という側面に主眼のある、古代ローマの市民権と似ているといえなくもない。しかしながら、EUの市民権が、あくまで加盟国の国籍に依拠したものであり続ける以上、近代国民国家の論理の延長線上にあり、無限に拡大していくものではないという点においては、はっきりと帝国の市民権とは異なっている。
------

日本のマスコミ報道を見ると、経済的に不利になることは明らかなのにイギリス国民は愚かな決定をしたものだ、と嘆く論調が圧倒的ですが、「EU市民権」により一般論としては「一定の民事的諸権利」を享受できるとしても、それが自己の現実の経済的利益に結びつくかはかなり個人差があり、社会階層の違いがくっきりと出ますね。
これに対し、「公的意思決定への参加という側面」が劣化したことは明らかであって、いくら経済的利益が減少しようと、この点はやはり譲れないと考える人々を単純に愚かと嘲笑することはできないように思います。
今年に入ってから、私はEUに全く否定的なエマニュエル・トッドの著作をまとめて読んでいたこともあり、今回のイギリスの国民投票について特に反感は抱かず、まあ、そういう選択肢もあるよね、と思っているのですが、これは単に私が国際経済への洞察力がないだけなのかもしれません。

ちなみに私は『EU研究の新地平─前例なき政体への接近』の編者、中村民雄氏(早稲田大学大学院法学研究科教授)と大学の語学クラスが一緒なのですが、検索して最初に出てきた早稲田大学「法学部教員紹介」の胡麻塩頭の写真を見て、あれ、あの人はこんな顔だったかな、同姓同名かな、と思いました。
ただ、「早稲田大学グローバルCOEプログラム<<企業法制と法創造>>総合研究所」サイトの写真は若かりし頃の面影を宿していますね。
ま、どうでもいいことですが。


>筆綾丸さん
>J・C・ブルンチェリの「ドイツ市民の墓にありがちなギリシャ神殿を意識した派手な墓」

私もどんな墓なのか興味津々でした。
ご紹介ありがとうございます。
ブルンチェリについて、私は国家有機体説の人、程度の知識しかないのですが、ウィキペディアを見る限り、ユダヤ系ではないようですね。

Johann Kaspar Bluntschli(1808-81)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
ベルク墓地D区画 2016/06/28(火) 14:56:45
小太郎さん
https://de.wikipedia.org/wiki/Bergfriedhof_(Heidelberg)
https://de.wikipedia.org/wiki/Johann_Caspar_Bluntschli#/media/File:Joh_kasp_bluntschli.JPG
イェリネックの墓は墓地の北の一画(区画D)にあるのですね。同じ区画にあるJ・C・ブルンチェリの「ドイツ市民の墓にありがちなギリシャ神殿を意識した派手な墓」ですが、下部の星型は、ギリシャ神殿風のペディメント(破風)と矛盾するものの、ユダヤの六芒星(ヘキサグラム)でしょうか。丸窓が烏賊の目玉のようです。

http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2013/11/post_374.html
ベルリン在住の六草いちか氏の『鴎外の恋』『それからのエリス』(講談社)の後者に、エリーゼの夫の墓の写真が掲載されています(273頁)。蛇足ながら、ふたつとも名著です。
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ヴァイセンゼー区ユダヤ人墓地に眠るマックスの墓石は意外や立派なものだった。エリーゼの見立てだろうか、切株に石板を立てかけたようなデザインは繊細な美しさ。
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https://en.wikipedia.org/wiki/Wei%C3%9Fensee_Cemetery
墓石には、「一八六四年十月十一日生まれ 一九一八年十二月三十一日没」とあります(274頁)。イェリネックの墓と共通するのは、まるで樹木葬のように、墓地内にやたらと草木が生い茂っていることで、これがドイツ風なのかもしれません。
「べルリナー・ターゲプラット」紙(1919年1月1日付)にマックスの死亡広告が載り、鴎外は帰国後もこの新聞を読んでいた(339頁)というのは、『舞姫』の後日談としていいですね。眼前に若き日のエリーゼがいるかのように。
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イェリネックの墓(その2)

2016-06-28 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月28日(火)10時55分43秒

イェリネックの墓なんかどーでもいーだろ、人様の細かいミスを見つけて喜んでるんじゃねーよ、みたいな声が天上から聞こえてきた(ような気がする)ので、ちょっと弁解しておくと、イェリネックはもちろんユダヤ人ですが、亡くなる前年(1910年)にユダヤ教からプロテスタントに改宗しているんですね。
年齢は相当離れていますが、ハンス・ケルゼンも1905年にカトリックに改宗しており、ケルゼンの友人だったオット・ヴァイニンガーは1902年にプロテスタントに改宗し、その翌年自殺しています。
イェリネックの改宗も、あるいは「ユダヤの自己嫌悪」と関係しているのかな、と思っていたので、石川氏の「大きな一枚岩に名前だけが刻まれた瀟洒な墓石」というユダヤ色もプロテスタント色も感じさせない表現が気になり、若干の検討を試みた訳です。

ユダヤ教とケルゼン
オット・ヴァイニンガー(1880-1903)
オットー・ヴァイニンガー、再び

>筆綾丸さん
>柄谷行人氏の『マルクス その可能性の中心』
宇野氏は柄谷行人がけっこう好きなようで、『政治哲学的考察』にもチラッと登場しますね。

>キラーカーンさん
>自民党の「憲法改正草案」
私は単に古くさい感じがして、あまり真面目に検討する気にもなれません。

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

Malesherbes 或いは「悪の草」 2016/06/27(月) 12:22:16(筆綾丸さん)
小太郎さん
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ちなみにトクヴィルの母方の曾祖父は、革命前には啓蒙思想家の庇護者として知られ、革命後には逆にルイ十六世の弁護人をつとめて処刑された司法官マルゼルブである。(『トクヴィル 平等と不平等の理論家』23頁)
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パリ8区~17区にマルゼルブ大通り(Boulevard Malesherbes)があり、17区にはこれと数百メートル隔てて平行するトクヴィル通り(Rue de Tocqueville)があり、道幅と長さからすると、フランス本国では曾祖父の方が大事に扱われているようです。
ウィキによれば、
Le boulevard Malesherbes fut inauguré par Napoléon III en 1863.
・・・la rue reçoit son nom actuel en 1877 en souvenir de l'historien Alexis de Tocqueville.
前者はナポレオン三世の第二帝政期の命名、後者は第三共和政期の命名という本質的な相違があるものの、メトロ3号線にはマルゼルブ駅もあって、トクヴィルの曾祖父の扱いは別格です。ちなみに Malesherbes を Males+herbes と分解すれば、「悪の芽」ならぬ「悪の草」の意となり、ボードレールの「悪の華」の生みの親のような感じになります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%84%E8%B0%B7%E8%A1%8C%E4%BA%BA
「トクヴィルの<可能性の中心>」(11頁、76頁)という表現は、柄谷行人氏の『マルクス その可能性の中心』のパクリなんでしょうね。若い頃、読みましたが、内容は忘れました。氏は歳のせいか、『憲法の無意識』(岩波新書)などというつまらぬ本を最近出しました。
レイモン・アロン(Raymond Aron)の ray は rai と同じで、フランス人である以上、レイモンではなくレモンです(16頁)。メースは Metz というドイツ語風の綴りですが、発音はメス(メッス)です(28頁)。冒頭に、フランス人だからトックヴィルよりトクヴィルの方がいいだろう(6頁)、とあるので、付け足しておきます。

トクヴィルのいう平等化社会における「多数の圧政」(85頁)という考えと、ハイエクのいうイソノミアから法の支配へという考え(『保守主義とは何か』93頁)とは、両者には時間の隔たりがあるとはいえ、ベクトルがまるで逆なので面白いと思いました。

キラーカーンさん
伊藤之雄氏の著作は、『山県有朋』『元老西園寺公望』(共に文春新書)を読んだことがありますが、緻密な文体の研究者ですね。

立憲主義等々 2016/06/27(月) 22:59:58(キラーカーンさん)
>>「我国に在て基軸とすべきは一人皇室あるのみ」

近代立憲主義とキリスト教徒の関係については、小室直樹が
『日本人のための憲法原論』
『痛快!憲法学』
『日本国憲法の問題点』
で触れられています。

その中で、冒頭の伊藤の言葉にも触れられています。
ここから、小室流の「天皇学。天皇教」へと話が発展していきます。

ここで、少し脱線しますが、自民党の「憲法改正草案」が「立憲主義」を理解していない
と不評のようですが、「わが国の憲法」を打ちたてようとすれば、キリスト教を基盤に
した「立憲主義」とは別の「日本的立憲主義」を打ち立てなければならないはずなので、
「(欧米流)立憲主義」を踏まえていないとの批判は「当たり前」です。

この文脈で、片山さつきが言ったとされる「天賦人権思想をとらない」という言葉も
「キリスト教的考え方によらない」と言う意味では、当たり前だと思います
(片山女史の真意が奈辺にあるかはわかりませんが)

わが国で民法を施行の際に「民法守って忠孝滅ぶ」と言われたことも想起すべきです

したがって、「立憲主義」を語るためには、大日本帝国憲法制定時に「憲法伯」
伊藤博文が払った知的営為について、正当な尊敬を払わなければならないはずです。

「国家神道」とは、非西欧社会であるわが国が西欧列強濁していくために必要な
「ギミック」だったのでしょう。

「8月革命説」が戦後憲法学にとって必要だったように

>>『山県有朋』『元老西園寺公望』
今回の『元老』は伊藤氏がこれまで行ってきた個別の政治家研究を総合したような
もののようです
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イェリネックの墓

2016-06-27 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月27日(月)10時08分6秒

『立憲非立憲』の「解説」によれば、佐々木惣一はゲオルグ・イェリネックの埋葬に立ち会ったそうですね。(p231以下)

-------
〔1911年〕一月五日に脳溢血で父を亡くしたばかりの佐々木は、日記によれば、毎晩夢にうなされ不眠に悩み、信仰や神について知己に問いかけては、考え込んでいたようである。そうしたなか、一月一三日の金曜日、「午後に朝永君を訪う途上」、ロシア人学生からイェリネック急死(脳卒中)の一報を得て「何となく感深く」、昼食時にその日の新聞で死亡記事を読んだ。【中略】
 翌一四日は、朝永との昼食後、イェリネックの写真を購入し、翌々一五日は、「日本人一同撮影すとの案内により」一一時に行き、やはり朝永と昼食した後、「午後イェリネック教授の埋葬式に列す、色々思う。……悲しき思あり」(洋行日記、一九一一年一月一四日、一五日)。
------

念のためと思ってウィキペディアを見ると、亡くなったのは12日とありますね。


そして、三日後の1月15日に埋葬式があった訳ですね。
さて、石川氏は上記引用部分の少し後で、

------
イェリネックの影
 佐々木惣一は、イェリネックが埋葬される場面を、目撃している。真向かいが、これまた近代日本の政治思想史に抜き難い影響を残した、『国法汎論』のJ・C・ブルンチェリの墓であることにも気がついただろう。ドイツ市民の墓にありがちなギリシャ神殿を意識した派手な墓である。それに比して、大きな一枚岩に名前だけが刻まれた瀟洒な墓石のもとに、ついこの間まで自分の前で欠伸していた、世界の憲法学の泰斗が埋葬されてゆく。父の死と重なったこともあり、佐々木に強い印象を残したのは間違いない。イェリネックの晩年様式を代表する「憲法変遷論」に、佐々木が本気で取り組むに至る決定的な契機は、おそらくこの体験であったろう。
------

と推測されています。(p235)
しかし、佐々木が「大きな一枚岩に名前だけが刻まれた瀟洒な墓石」を見た、というのはちょっと変な話ですね。
イェリネックは死の直前まで大学で講義をしていて、12日の死去の三日後に埋葬された訳ですから、本当にそのような墓石があったとすれば、その手配があまりに手際良すぎます。
同じページにある石川氏が撮影したらしい墓石の文字は判読不能ですが、ウィキペディアに載っている写真を見ると、この墓石には二つの金属製のプレートが嵌め込まれていて、上の方に、

Georg Jellinek
1851-1911
Camilla Jellinek
1860-1940

下の方に、

Barbara Jellinek
1917-1997

とあります。


Barbara Jellinek は二人の息子で、行政法学者であった Walter Jellinek の娘のようですね。

Walter Jellinek(1885-1955)

私もドイツの墓事情など全く知りませんが、自然石の一枚岩の墓というのは意外にモダンな感じがしますし、祖父母と孫娘という組み合わせも少し珍しい感じがするので、あるいはこれは孫娘が祖父母の墓を建て、孫娘が亡くなった後、その遺族が孫娘の名前を刻んだプレートを追加したのではないですかね。
ま、詳しい事情は分かりませんが、埋葬式の時点では「大きな一枚岩に名前だけが刻まれた瀟洒な墓石」は存在せず、佐々木もそれを見ていないと考えるべきでしょうね。

>筆綾丸さん
>「責任ある日本国民に告ぐ」
講談社も社名を百年前の「大日本雄辯會講談社」に戻した方が良さそうですね。

>キラーカーンさん
>「古きよき時代」
樋口陽一氏を中心とする「立憲主義」を声高に叫ぶ憲法学者のグループの中でも、石川氏の懐古趣味は突出していますね。
『立憲非立憲』のオビにあるように、確かに石川氏は「異彩を放つ憲法学者」ですが、憲法学界のリーダーたる資質には若干の疑問を感じます。

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの以下の投稿へのレスです。

アジのたたき(by cookpad) 2016/06/26(日) 13:04:28(筆綾丸さん)
小太郎さん
http://cookpad.com/
ご紹介の文庫の帯文にある、「責任ある日本国民に告ぐ」や「渾身の書き下ろし解説」という表現は、アジ(agitator)のたたきのような塩梅ですね(塩は赤穂の塩)。どちらかというと、私はアジのひらきのほうが好きです。

「弟子の大石義雄(1903-91年)」が「家老の大石良雄(1659-1703)」を踏まえた命名だとすれば、「佐々木惣一(1878-1965年)」は主君の浅野長矩(1667-1701年)になるのかもしれません。江戸城本丸松の廊下(現皇居東御苑内)に於ける、上野介の訓戒は下の如くで、激昂した内匠頭が刃傷沙汰に及び、後日、昼行燈を佯りつつ、内蔵助が遺恨を果たすとは、お見事(江戸地誌『続江戸雀』より)。
「政治は固より憲法に違反してはならぬ。而も憲法に違反しないのみを以て直に立憲だとは云えない。違憲では無いけれども而も非立憲だとすべき場合がある。立憲的政治家たらんとする者は、実に此の点を注意せねばならぬ」
注)いまひとつ論旨がすっきりしないのは、古文書の誤読かもしれない。

-----------
バークは後年、ヨーロッパ全体の秩序について、英国の主導権を前提としつつも、独立諸国家間の水平的な関係を主張する「ヨーロッパ・コモンウェルス」論を展開している。あくまで多様な国家の間の調和を重視する点に、バークの秩序観の根本を見てとることができるだろう。その前提には、自由の精神という共通文化があったのである。(『保守主義とは何か』47頁)
-----------
宇野氏は、EUの萌芽を遠くバークの「ヨーロッパ・コモンウェルス」論に求めているような感じがしました。ドイツ主導のEUに保守主義者バークは反対したでしょうが。

追記
ネオコンを遡るとトロツキストに行きつく(140頁)、とは知りませんでした。奇妙な出自なんですね。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160623-00000000-jij_afp-int
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0
NHKBSワールドニュースの回し者のようで気が引けるのですが、オーストラリアABCが「スーフィー音楽家」の暗殺を報じていて、スーフィズムの生命力には驚きました。

郷愁としての憲法 2016/06/26(日) 22:12:41(キラーカーンさん)
>>「憲法考古学」
石川氏にとっては、日本国憲法制定後の国内外情勢で「憲法が汚された」と感じており、
憲法制定前や「大正デモクラシー」時代の「古きよき時代」への

「復古」なくして「憲法再生」なし

と言う心境かもしれません。

>>最新刊、『保守主義とは何か─反フランス革命から現代日本まで』(中公新書)
個人的には、同じ中公文庫の最新刊である『元老』伊藤之雄に興味があります。
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「我国に在て基軸とすべきは一人皇室あるのみ」(by 伊藤博文)

2016-06-27 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月27日(月)08時41分44秒

エドモンド・バークを基準にしたら、日本に保守主義者はいませんでした、で話は終わりそうですが、宇野氏は「しかしながら、だからといって近代日本にはまったく保守主義は存在しなかったといえるだろうか」(p171)との問題意識のもと、「憲法起草者である伊藤が、自らのつくり出した明治憲法体制の「保守」に最大の関心と情熱をもった人物であったとしてもおかしくない」として、伊藤博文に言及します。
宇野氏の伊藤博文像は瀧井一博氏の研究に依拠しているようですが、

------
 伊藤はこの木戸のすすめでローマの故地を訪れる。ローマの古(いにしえ)の歴史を振り返りつつ、日本の課題が文明国としての制度的枠組みを整備することにあると認識したとき、伊藤はそれが時間を要するものであることを実感したという。瀧井によれば、この瞬間こそ、急進的な改革官僚であった伊藤が、漸進的な改革政治家に変わった瞬間であった。
------

のだそうで(p173)、なかなかドラマチックですね。
さて、上記に続けて、宇野氏は次のように述べます。

-------
保守主義の担い手
 しかしながら、伊藤にとって困難もまた明らかであった。欧州諸国において憲法政治には歴史があり、今日多くの国々で自明の原理とされている。これに対し、「憲法政治は東洋諸国に於て曽て歴史に徴証すべきものなき所にして、之を我日本に施行するは事全新創たるを免れず」(枢密院での講演、『伊藤博文演説集』)。
 日本を含む東洋の国々にとって、憲法政治はまったく新たな試みであった。そのような試みをゼロから打ち立てることの難しさを、伊藤は強く認識していた。
 さらに伊藤は、そもそも憲法政治にはその国の精神的な「基軸」となるものが必要だが、はたして日本にそのような「基軸」があるかを問題にする。「抑欧州に於ては憲法政治の萌芽せる事千余年独り人民の此制度に習熟せるのみならず、又た宗教なる者ありて之が基軸を為し、深く人心に浸潤して人心此に帰一せり。然るに我国に在ては、宗教なる者其力微弱にして一も国家の基軸たるべきものなし」(同前)。かつて隆盛した仏教も今日では衰退に向い、神道もまた人々の人心をよく掌握できていない。結論として伊藤は「我国に在て基軸とすべきは一人皇室あるのみ」と結論づけるが、その皇室はあくまで伊藤のデザインした明治憲法体制のなかに位置づけられるべきものであった。
-------

私の当面の関心は宗教にあるので、宇野氏の問題意識とは別に、この部分にちょっと注目したのですが、私自身は江戸時代中期には日本の世俗化はほぼ達成されていると考えているので、まあ、伊藤が仏教も神道も「微弱にして一も国家の基軸たるべきものなし」と認識していたことは当然だと思います。
ごく少数の例外を除き、伊藤のみならず、明治維新の動乱を生き残って「明治憲法体制」を作り上げた国家指導者の大半の宗教認識はこのような醒めたものですね。
では、津地鎮祭訴訟や愛媛玉串料訴訟の大法廷判決で、現代日本の最高の知的水準にあると思われる人々がほぼ一致して認識している強大な「国家神道」とは何だったのか。
明治憲法制定前は「微弱」だった神道が、国家、あるいは伊藤が「我国に在て基軸とすべきは一人皇室あるのみ」と評価する皇室と結びついた結果、たちまちにして化け物のように強大な存在に転じたのであろうか、といった疑問も生じるのですが、これはまた後で検討します。

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石川健治教授の「憲法考古学」もしくは「憲法郷土史」

2016-06-26 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月26日(日)10時01分23秒

講談社学術文庫で佐々木惣一(1878-1965)の『立憲非立憲』が復刻されましたが、これはおそらく石川健治氏の強力な推奨によるものなのでしょうね。
書店で手に取ってみて、正直、佐々木惣一の本文はどうにも古くさい感じがしたのですが、とりあえず石川氏の「解説」を読むために購入してみました。

『立憲非立憲』
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062923668

巻末の31ページにわたる「解説」は、

------
一九一六年一月

 いまから一〇〇年前、一九一六年の新春を期して、三本の言論の矢が放たれた。それぞれの仕方で大正デモクラシーを演出すべく、あたかも示し合わせたかのように。
 一つは、東京帝国大学法科大学で政治学・政治史を講じた、吉野作造の論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」である。【中略】
 いま一つは、京都帝国大学文科大学で哲学・哲学史を講じた、朝永三十郎の著作『近世に於ける「我」の自覚史─新理想主義と其背景』(東京宝文館、一九一六年一月)。【中略】
 そして、ほかの二人に比べても一層華々しかったのが、京都帝国大学法科大学で行政法を講じていた、佐々木惣一の言論活動であった。『大阪朝日新聞』は、一九一六年の元旦第一面を、ひとり佐々木のためだけに提供した。本書の標題にもなった論説「立憲非立憲」がそれである。【中略】
-------

と始まっていて(p223以下)、「三本の言論の矢が放たれた」という、いかにも石川氏らしい華麗で躍動的なレトリックが見事です。
朝永三十郎(1871-1951)はノーベル賞を受賞した物理学者・朝永振一郎(1906-79)の父親ですね。
この後、「三者の連環」「ハイデルブルクの契り」「イェリネックの影」「『立憲非立憲』の成立過程」「その後の佐々木惣一」という石川氏らしいロマンチックな小見出しに従って物語が展開します。
一番ドラマチックなのはやはり佐々木惣一のドイツ留学時代で、ハイデルブルクにおける三人の交流が詳細に描き出されています。
ま、石川氏の華麗なレトリックの魅力もあって、決してつまらない訳ではない、というか結構面白いのですが、「解説」を読み終わった後でも、百年前の佐々木惣一の著書を復活させる現代的意義がどこにあるのか、私にはよく分かりませんでした。
私の見るところ、石川氏がやっているのは「憲法考古学」ではないですかね。
石川氏自身はもちろん自身の研究に重要な現代的意味があると思っていて、例えば清宮四郎の「違法の後法」という八十年前の論文が、ものすごい理論的射程を持っていて、現代の難問を解決する偉大な力があるのだ、と力説するのですが、私はバッカじゃなかろか、と思っています。

「苦しまぎれにやった」(by清宮四郎)─「窮極の旅」を読む(その35)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae3ac8c2d691fa04bb1adb15a675d757

まあ、時代は全く変化しているのですから、清宮四郎の古い論文を読んだところで現代的課題は解決できないのは明らかであり、石川氏が清宮四郎に関してやっているストーカー的研究は、現代的意義は特にない「憲法考古学」じゃないですかね。
「憲法考古学」が言い過ぎだとしたら、「憲法郷土史」と言い換えても良いと思います。
佐々木惣一や清宮四郎は、当時の日本においては秀才中の秀才で、ヨーロッパに留学して当時の最先端の学問に触れ、それぞれの才能を精一杯生かして立派な学問的業績を上げた人たちですが、評価の視点を日本ではなく世界に広げてみれば、当時においても所詮は学問的に遅れた辺境地域の二流・三流知識人ですね。
その学問がいかに形成されたかをどんなに詳細に再現しても、結局は郷土の偉人の顕彰以上のことはできないと思います。

>筆綾丸さん
新書では物足りなくなって、宇野氏の論文集『政治哲学的考察─リベラルとソーシャルの間』(岩波書店、2016)を読み始めました。
硬い文章ですが、こちらの方がむしろ分かりやすい箇所も多いですね。
レスは後ほど。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

Remain(護憲派) vs. Leave(改憲派) 2016/06/24(金) 16:31:50
小太郎さん
------------
来週発売の新刊「保守主義とは何か」の見本刷りが届く。食卓に置いておいたら、小2の次男が読んで(眺めて?)いる。「なかなか面白いよ」とのこと。どのへんがと聞いたら、「出てくる名前が面白い」。小2も推薦、ぜひご期待を。
------------
早熟な小学2年生に敬意を表して、早速、購入しました。

ザゲィムプレィアさん
ありがとうございます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%85%9A_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9)
ヨークシャーは白薔薇、労働党のシンボルは赤薔薇ということなんですね。トーリー党に対して、ホイッグ党の流れを汲む自由党はほとんど消滅状態のようですね。

EU離脱派(Leave)の勝利に刺激され、日本でも憲法をめぐって、Remain(護憲派)と Leave(改憲派)の対立に拍車がかかるかもしれないですね。

http://www.bbc.com/news/politics/eu_referendum/results
国論を二分するほど大きな問題でも、Turnout(投票率)は72.2%で、約30%は投票に行かない、というのは面白い現象です。日本の国民投票でも、ほぼ同じような結果になるかもしれないですね。

T・S・エリオットいわく 2016/06/25(土) 23:03:34
宇野重規氏の『保守主義とは何か─反フランス革命から現代日本まで』を読みました。
チェスを連想させるのでチェスタトンは面白く、オークションのようなオークショットは面白く、エリの夫を連想させるのでエリオットは面白く、ハイエナのようなハイエクは面白い。これらが、小学2年生が「出てくる名前が面白い」と感じた理由ではあるまいか。

--------------
 興味深いのは、エリオットが英国の文化をサブカルチャーとして位置づけていることである。彼にとって、英国教会がローマ・カトリックから独立したことは、いわば英国文化がヨーロッパのメインカルチャーから離脱したことを意味した。その意味で、英国文化はまさしくサブカルチャーであった(この場合の「サブカルチャー」はもちろん、現代日本でいう「サブカルチャー」とは異なる。あくまでヨーロッパのメインカルチャーに対するサブカルチャーとしての英国文化と意味する)。
 この場合、この離脱が良かった、あるいは悪かったと評価するつもりはないとエリオットは強調する。また、サブカルチャーが必ずしもメインカルチャーに劣るともいわない。ただ彼は、メインカルチャーから離れることでサブカルチャーが損なわれると同時に、メインカルチャーもまた構成要素を失うことで損なわれたと述べるのみである。ここにヨーロッパと英国の関係についての、彼のニュアンスに富んだ評価を見てとることができるだろう。(76頁~)
--------------
T・S・エリオットがEU離脱の国民投票を論じているようで面白いですね。

--------------
 ハイエクはこのような法観念の下に「法の支配」を強調した。ハイエクによれば、法の支配が発展したのは十七世紀イングランドである。ただし、興味深いことに、ハイエクはその起源を中世ヨーロッパではなく、古代ギリシアにおける「イソノミア」に見出す。この言葉は「デモクラシー」よりも古く、デモクラシーが「民衆による支配」を意味するとすれば、イソノミアは「市民の間の政治的平等」を指すものであった。
 この言葉は十七世紀イングランドに導入され、やがて「法の前の平等」や「法の支配」といった言葉に置き換えられていく。人民は恣意的な国王の意志ではなく、法によって支配されるべきである。この観念の定着によって、はじめて英国における近代的自由が発展していったというのが、ハイエクの思想史観である。ハイエクの思想史では、デモクラシー(民主政治)より、はるかにイソノミア(法の支配)が重視された。ハイエクの見るところ、権力による恣意的な立法の危険性は民主政治ではむしろ大きくなる。個人の自由を守るのは、権力を拘束する上位のルールを重視する「法の支配」の伝統であった。(92頁)
--------------
フランスではラテン語起源のエガリテがエガリテとして現代まで続いているのに、イギリスではギリシア語起源のイソノミアがイソノミアとして残らず、なぜ「法の支配」という理念に置き換えられたのか。ハイエクを読めばいいのでしょうが、宇野氏の説明を読むかぎりでは、その論理過程がよくわかりませんでした。
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宇野重規『保守主義とは何か』

2016-06-24 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月24日(金)09時55分4秒

宇野重規氏の最新刊、『保守主義とは何か─反フランス革命から現代日本まで』(中公新書)を読んでみましたが、前半の

------
序章 変質する保守主義─進歩主義の衰退のなかで
第1章 フランス革命と闘う
 Ⅰ エドマンド・バークの生涯
 Ⅱ 英国統治システムへの自負─帝国の再編と政党政治
 Ⅲ 『フランス革命の省察』
第2章 社会主義と闘う
 Ⅰ T・S・エリオット─「伝統」の再発見
 Ⅱ ハイエク─知の有限性と懐疑
 Ⅲ オークショット─「人類の会話」というヴィジョン
------

までは面白かったですね。
よく整理された丁寧な分析がなされていて、宇野氏は本当に頭の良い人だなと思いました。
ただ、

-------
第3章 「大きな政府」と闘う
 Ⅰ アメリカ「保守革命」の胎動
 Ⅱ リバタニアリズム─フリードマンとノージック
 Ⅲ ネオコンの革命─保守優位の到来
-------

に入ると、宇野氏の頭脳ではなく、対象のアメリカの「保守主義」自体が相当に混乱したものなので、一応の整理としては参考になる、程度の印象でした。
そして、

-------
第4章 日本の保守主義
 Ⅰ 丸山眞男と福田恆存
 Ⅱ 近代日本の本流とは
 Ⅲ 現代日本の保守主義とは
-------

は、「バークの定義に立ち戻るならば、近代、そして現代に至るまで、日本に本当に保守主義が存在したのかは疑問が残る」(p189)という、まあ、バークを基準にしたらそうなるでしょうね、という感じのミもフタもない結論に終わっていて、あまり面白くありませんでした。
マイケル・オークショット(1901-90)は全く読んだことがなかったので、これを機会に少し読んでみたいですね。

>筆綾丸さん
>宇野重規氏は童顔なんですね。

ご本人はツイッターアカウントのアイコンに石川啄木を使っていますが、確かにちょっと似ていますね。
また、ムンクの「叫び」にも似ている感じがします。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

神の属性 2016/06/23(木) 13:32:48
小太郎さん
トクヴィル『平等と不平等の理論家』を眺めていますが、どうでもいいことながら、宇野重規氏は童顔なんですね。
communist は communion(聖体拝領)と語源は同じですから、中国共産党も日本共産党も宿命的なまでに神と親和的(或いは近親憎悪的)なんでしょうね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%A8%BC%E4%BA%BA
ワールドニュースでドイツのARDを見ていると、VWの株主総会の雛壇にNOTARの席がありましたが、これはいわゆる公証人ではなく、日本の会社法でいう検査役のことなんでしょうね。ウィキにはサウジアラビアの例があって、これはスンニ派諸国に流布しているものなのか、サウド家のアラビアに限られる例外なのか、知りたいところです。

ザゲィムプレィアさん
ブラックホールの内部観測の不可能性はある意味で神に似ていて、「質量、スピン、電荷」という物理量は「不変、偏在、永遠」という神の属性(attribute)と相似かもしれないですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%BA%E3%83%9C%E3%83%A9
すでにヒズボラ(神の党)という組織があるので、中国共産党の党名変更は権利侵害になるかもしれませんね。もっとも、権利侵害は中国共産党の得意技のひとつですが。南シナ海が古来より中国固有の領海であるのと同じく、アッラーより神のほうがずっと古い、と。
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「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」(by ヴォルテール)

2016-06-22 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月22日(水)10時41分33秒

昨日の投稿で、宇野重規氏の『民主主義のつくり方』(筑摩選書, 2013年)についてちょっとイヤミっぽい言い方をしてしまいましたが、これは私が妙に大きな期待を持って読み始めたからで、普通の読者はたぶん良い本だと評価するものと思います。
宇野氏は平明な言葉で深い内容を語ることのできる人で、例えば『共和国か宗教か、それとも』の冒頭では、次のようにフランスの十九世紀をまとめていますね。(p7以下)

-------
序章 「宗教的なもの」再考─シャルリ事件を超えて

前著からのコンセプト
 本書は、二〇一一年に刊行した前著『社会統合と宗教的なもの─十九世紀フランスの経験』の続編である。前著では論じられなかった思想家や文学者をとりあげ、新たなメッセージを発することを目的としているが、基本的なコンセプトにおいて変更があるわけではない。
 前著の序章で、私たちは次のように述べている。「フランス革命に続く一世紀は、宗教をはげしく批判することで逆説的に宗教がはたしてきた役割を問い直し、その機能を新たに作り直そうとした時代である。と同時に、一度は断ち切った人々のつながりを、新たに作り直すことを自覚的な課題とした時代でもあった。このようなフランスの経験は、人々をこれまで結びつけてきた紐帯が解体するなか、新たな社会統合の原理を見いだせないでいる日本社会にとっても示唆するところが大きいだろう」(前著、一六頁)。
 フランス革命はカトリック教会を大きな標的とする革命であった。結果として、革命によって生まれたフランス共和国は、教育や社会的相互扶助など、かつてであればカトリック教会がはたしてきた役割を、自ら担うようになる。さらには世俗性や脱宗教性を意味する「ライシテ」の原則を国是としたように、世俗的共和国であることを自らのアイデンティティとした。その限りにおいて、宗教を公的空間から徹底的に排除することが十九世紀フランスの歴史的課題であったといえる。
 ところが、その思想や学問をつぶさに見ると、印象は一転する。もっとも鮮やかであるのは、社会学者・哲学者のオーギュスト・コントであろう。神学や形而上学の時代から、実証的な科学の時代へ。人類の歴史における不可逆の変化を大胆にも強調したコントは、やがて自ら「人類教」なる宗教を唱えることになる。このコントの例に見られるように、宗教を排除したフランス社会は、実はそれに代わる精神的な基礎を一世紀にわたり模索し続けたのである。それはあたかも、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と語ったヴォルテールの言葉を忠実になぞるかのようであった。【後略】
-------

昔、清水幾太郎について調べていたときにオーギュスト・コントも少し読んだことがあるのですが、その時は「人類教」とか何言ってるんだろ、頭がおかしいのかな、程度の感想しか抱けなかったのですが、大きな時代の変化の中で位置づけるとコントも面白い人ではありますね。
ま、さすがに現代日本においてコント的「人類教」の布教は無理とは思いますが。

今日、宇野氏の『保守主義とは何か─反フランス革命から現代日本まで』(中公新書)が書店に並ぶようなので、さっそく読んでみるつもりです。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/06/102378.html
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共産党と「神」

2016-06-22 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月22日(水)10時01分50秒

>筆綾丸さん
>中国共産党はほんとに「神」が好きなんですね。

政教分離に関する判例を読んでいると、日本共産党もホントに「神」が好きだなあ、という妙な感想を抱きます。
共産党を名乗る以上、当然に無神論者のはずですから、神社など愚民が愚神を礼賛しているだけ、「前衛」である我々には無関係と笑って完全無視するか、あるいは靖国・護国神社のような「天皇制」と特に関係の深い神社に絞って攻撃するといった選択肢もあったはずですが、日本共産党はそんな妥協はしません。
一番最初の津地鎮祭訴訟の場合、原告の共産党の市会議員は当初、共産党の弁護士さんが集まった自由法曹団の協力を得られず、独力で訴訟を追行していたそうですが、もしかすると当時の自由法曹団には、田舎神社の地鎮祭などどうでもよい、みたいな雰囲気があったのかもしれません。
しかし、その後、自由法曹団は北海道砂川市の空知太(そらちぶと)神社のような、僻地のどーでもいいような神社にも熱心に攻撃をかけて違憲の大法廷判決を勝ち取りましたね。

砂川政教分離訴訟

また、靖国神社の場合、内閣総理大臣の公式参拝に反対する夥しい数の訴訟が提起されましたが、その種の裁判闘争において示された、靖国神社の復活を絶対に許してはならぬ、「結界」に閉じ込めておかねばならぬのだ、という共産党関係者の決意の強さは、なんだかその祭神の無限の力を信仰しているような感じもしてきます。
一瞬たりとも油断したら、あの偉大なお方が復活するぞよ、みたいな感じですね。

>キラーカーンさん
>西川伸一著『裁判官幹部人事の研究「経歴的資源」を手がかりとして』

内閣法制局がそれほど注目されていない頃に、『知られざる官庁・内閣法制局』(五月書房、2000)を出した人ですね。

西川伸一Online

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

神と薔薇とガルガンチュア 2016/06/21(火) 16:35:40(筆綾丸さん)
小太郎さん
ご引用の文章に、「・・・裁判所切っての酒豪でも知られた人であった。酒席の後は、必ず後輩が二、三人でご自宅まで抱えてお届けしたという伝説が残っている」とありますが、酒豪というのはどんなに酒を飲んでも乱れない人というイメージがあるため、これではたんに酒癖が悪いだけではないかと思い(私は酒癖の悪い奴が嫌いなので)、つい意地悪な文を書いてしまいました。

ザゲィムプレィアさん
ありがとうございます。
-----------
スピンの新しい測定方法を、銀河系の中心にある巨大ブラックホールであるSgr A*の光度変動の測定結果に適用したところ、a*=0.44±0.08と、多くの研究者の予想に反するかなり小さな値が得られました。これは自転速度に換算すると光速の22%に相当します。(JAXA)
-----------
We measure between zero (not spinning) and one (maximally spinning).において、なぜ最大値が1なのかと思いましたが、これは光速という上限を意味すると考えればいいのですね。また、One of the black holes was spinning with the dimensionless number of 0.2.において、One of the black holes とは、14太陽質量の方なのか、8太陽質量の方なのか、光速に換算すると何%くらいになるのか、不明ですが、BBCの科学特派員ジョナサン・アモスも、そんな細かいことは書いても仕方ない、とやめたのでしょうね。

「これらのブラックホールの性質は、質量、スピン、電荷という3つの物理量だけで完全に決まります」(JAXA)ともありますが、なんだか凄いことですね。BBCの記事には、・・・gargantuan black holes - ones that are many millions, even billions, of times the mass of our Sun.と、太陽質量の数十億倍のブランクホールの検出可能性への言及もありますが、こんなガルガンチュア級ブラックホールでもわずか三個の物理量だけで完全に決まるというのは、信じられないような話ですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%96%87%E6%88%A6%E4%BA%89
今日のNHKのBSワールドニュースでBBCの放送を見ていると、英国議会において殺害された女性議員の追悼演説があり、保守党議員は白薔薇を、労働党議員は赤薔薇を、それぞれ左胸の上に一輪ずつさしていましたが、中世の薔薇戦争を踏まえたものなのか、わからぬながらも、興味深い風景でした。

http://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1006258.html
中国のCCTVは純中国産スパコンが世界一になったことを伝えていましたが、名前は太湖之光「神威」です。有人飛行船「神舟」といい、中国共産党はほんとに「神」が好きなんですね。いっそのこと、「神党」に党名変更すればいいのに。

追記
http://www.rfi.fr/europe/20160620-royaume-uni-jo-cox-hommage-david-cameron-chambre-commune-jeremy-corbyn
rfi の写真は Jo Cox の下院の席に捧げられた紅白のバラで、les députés portaient en signe de deuil une rose blanche à la boutonnière(下院議員は追悼の徴として白バラを襟のボタン穴にさした)とあるのですが、BBC の説明と違うようです。保守党と労働党のバラの花はあきらかに別様式でした。BBC は、たしか、the white rose for Yorkshire, and the red for Labour と言ってました。なぜ Yorkshire が保守党を意味するのか、わからなかったのですが。

(無題) 2016/06/21(火) 22:16:04(キラーカーンさん)
ザゲィムプレィアさん
>>無次元数
ありがとうございます

>>裁判官の人事
西川伸一著『裁判官幹部人事の研究「経歴的資源」を手がかりとして』
があります。
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宇野重規『民主主義のつくり方』

2016-06-21 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月21日(火)09時58分48秒

ライシテの勉強で宇野重規・伊達聖伸・高山裕二編著『共和国か宗教か、それとも 十九世紀フランスの光と闇』(白水社、2015)を読み、宇野重規氏はなかなか面白いなと思って『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社メチエ、2007)を読んだら、これも良い本だったので、更に『民主主義のつくり方』(筑摩選書, 2013年)を読んでみたのですが、この本は若干微妙ですね。
前半のプラグマティズムの見直し云々はスラスラ読めたものの、後半、日本各地に散在する新しい民主主義の芽を探す、みたいな話になった途端、なんだかビジネスノウハウ本のような雰囲気も漂ってきました。
まあ、登場するのはそれなりに頑張っている人たちなのでしょうが、前半の理論的な部分と後半の実践的(?)な部分のつながりがチグハグで、釈然としませんでした。

『共和国か宗教か、それとも』
『民主主義のつくり方』

>筆綾丸さん
私も裁判官の人事のことなど全く知らないのですが、最高裁判所調査官が唯一の出世コースということではないはずですね。
ウィキペディア情報ですが、仁分百合人は最終的に高等裁判所長官になったそうなので、まあ、栄達を極めたと言って良い人ではないでしょうか。
ちなみに仁分百合人は関根小郷(最高裁判事、1905-93)の後任として民事局長兼行政局長となり、その後任が中村治朗(最高裁判事、1914-93)とのことなので、1910年あたりの生まれではないかと思いますが、そうだとすると可部恒雄(1927-2011)とは17歳ほど年が離れていますね。

最高裁判所事務総局

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

als ob ふたたび 2016/06/19(日) 14:03:02
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E4%BD%93%E6%A4%9C%E6%A1%88%E6%9B%B8
実物の死体検案書を、なぜか、数回見たことがあります。
死亡場所の記載は必須ですが、「死亡した施設の名称」として、「最高裁判所首席調査官室内」(東京都千代田区隼町4番2号地先)とは最高裁の威厳にかけて書けず、鴎外の als ob ではありませんが、仁分百合人はまだ生きている「かのように」鄭重に扱われ、救急車で移送された最寄りの病院の医師により正式に死亡が確認され、この場合は、死体検案書ではなく死亡証明書が発行され、死体検案書の文字は二重線で消されます。死亡場所は、たとえば東京大学附属病院内のような、死に場所としてごく尋常な名称が記されたのでしょうね。
あのアル中はそれほどまでに首席調査官になりたかったのだよ、あさましいもんだね、とノンキャリアの事務官たちの間で、しばらく酒席における話題の首席になったが、やがて話頭にのぼらなくなった。首席調査官室で死ねなかったことは、死んでも死にきれぬという凄絶な怨念を建物に残したらしく、霊感の強い女性職員などは、ときどき大法廷に彷徨う妙な気配を感じると訴えたが、厳粛な理性の場においては、少数の珍妙な反対意見のように軽く無視されてしまった。
「可部さんのような後輩の温かい手に抱えられて」という文章は、おそらく、役人の淡々とした事務処理を暗示しているように思われ、それは(法)医学的にも正しかったのでしょうね。可部氏の首席調査官時代を考えると、これは1984年2月20日から1987年5月28日までの、或る日の出来事ということになりますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B4%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%A8
三島の『宴のあと』では、艶福家の環久友(元ドイツ大使)は、「雪後庵」の厠で脳溢血を起こして倒れるのですが、夫人の強い要望により、「自宅」で倒れて死亡したものとして処理されます。蛇足ながら、厠という表現には官僚への冷笑があり、さらに言えば、雪後庵という名称は雪隠に通じ、保守党御用達の高級料亭など雪隠の如きもので、つまり、日本の政治は便所の中でなされる、という三島一流の言葉遊びなんでしょうね、おそらく。

キラーカーンさん
ベルリンの壁崩壊の数年後、ブランデンブルク門の下を歩いたことがありますが、ちょうど落日時で、ヴァーグナーのゲッターデメルング(神々の黄昏)のようだな、と思いました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%B3%E8%A7%92%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%BC%A6%E7%90%86%E8%AB%96
量子力学のスピンに関係すると思われるのですが、わかりません。超弦理論でいう9(+1)次元は、わからぬながらも、まだ自然な感じがしますが、非整数次元などは想像すらできません。宇宙にしてみれば、人間如きに理解されてたまるか、といったところですが。
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最高裁判所首席調査官室に死す。

2016-06-19 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月19日(日)09時52分12秒

泉徳治氏の「可部恒雄さんの思い出」には一箇所だけ妙なことが書いてありますね。
「三 首席調査官時代のあれこれ」の冒頭です。(p5以下)

------
 裁判に関して先に述べたことは別として、可部さんの首席調査官時代で私が一番驚いた出来事は、仁分百合人氏の来訪であった。仁分氏は、可部さんが司法研修所付時代に司法研修所教官、可部さんが行政局付時代に民事局長兼行政局長を務められた人であるが、裁判所切っての酒豪でも知られた人であった。酒席の後は、必ず後輩が二、三人でご自宅まで抱えてお届けしたという伝説が残っている。可部さんが四階にある行政調査官室で我々と雑談をしていた時、三階の首席調査官室の事務官が可部さんを迎えに来た。仁分さんが可部さんを訪ねて来られて、首席調査官室のソファーに座られた途端に息を引き取られたというのである。可部さんは、「そうか」といって、静かに三階に降りていかれた。仁分さんも、可部さんのような後輩の温かい手に抱えられて、ある意味、仕合わせだったのではないかと思うのである。
------

「仁分百合人」は「にふん・ゆりと」と読むのでしょうか。
名字も名前も珍しい方ですが、「裁判所切っての酒豪」あたりでそれなりのストーリー展開を予想したものの、首席調査官室で死んでしまった、というのは本当に驚愕の事態ですね。
泉氏は割と淡々と書かれていますが、事務官が医者でもないのに死亡を認定してしまい、可部氏もその報告にあまり驚かず、また医者の手配を指示する訳でもなく、「「そうか」といって、静かに三階に降りていかれた」というのはずいぶん変な話です。
まあ、おそらく泉氏が書いていない事情がいろいろあってそのような対応になったのでしょうが、入室できる人が極めて限定された閉鎖的空間で訪問者が頓死し、しかも関係者が特に驚いていないという状況だけを考えると、殆どミステリーの世界ですね。
ちょっと話を膨らませれば「最高裁首席調査官室殺人事件」みたいなタイトルで、浅見光彦シリーズの二時間ドラマ程度にはなりそうです。

>筆綾丸さん
>アララギが何を指すのか
ご紹介のサイトを見ると、アララギ派については特別な事情がありそうですが、一般的にはアララギ=野蒜の古名なんですね。
私はそんなことすら知りませんでした。

>ホーキング博士
1942年生まれだそうで、けっこう長生きな方ですね。


>キラーカーンさん
>「キリスト教民主主義政党」

ドイツキリスト教民主同盟(CDU)などプロテスタントでもカトリックでも良い訳ですから、ある意味、いい加減な政党ですね。
以前、筆綾丸さんに紹介された佐藤伸行著『世界最強の女帝 メルケルの謎』(文春新書、2016)を読んで、メルケルなど実際には無神論者ではなかろうかと思いました。

「物理学者メルケルの言語ゲーム」(筆綾丸さん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8228

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

チェックポイント・チャーリー 2016/06/18(土) 12:38:57(筆綾丸さん)
小太郎さん
http://www.ctb.ne.jp/~imeirou/soumoku/a/araragi.html
加部氏の「悪の芽」という詩的な言葉に異質なものを感じましたが、なるほど、アララギ派の歌人でしたか。アララギが何を指すのか、昔も今も、私にはわからないのですが。

優秀な最高裁調査官が藤林の珍奇な追加反対意見をどう見ていたか、知りたいところですが、いまとなっては不明でしょうね。石川健治氏には、「写経」などはどうでもいいから、そのあたりの事情を追究してほしいものだ、と思いますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%96%E3%83%89
NHKのBSプレミアム『寒い国から帰ったスパイ』(1965)を見ていると、冒頭に、ベルリンの Checkpoint Charlie が出て来たのですが、もしかすると、シャルリ・エブドの Charlie は冷戦下の検問所の名前(NATOのフォネティックコード)を意識したものではあるまいか、と思いました。そう考えると、JE SUIS CHARLIE というスローガンもずいぶん奇妙なものに感じられますね。世界をライシテとイスラムに分断するための検問所を、ベルリンではなくパリに立てるべく、私は立ち上がるのだ、というような。
この映画で面白かったのは、私は神は信じないけれども歴史は信じる、と女が言うと、なんだ、君はコミュニストか、と男が言うところで、1965年当時、マルクスの唯物史観はそんなふうに揶揄されていたのか、ということでした。現在、こんな会話が成り立つ国はまだあるのかどうか。 

007のホーキング 2016/06/18(土) 13:14:02(筆綾丸さん)
http://www.bbc.com/news/science-environment-36540254
二度目の重力波検出の記事で、おおよそのことはわかるつもりですが、
---------------
One of the black holes was spinning with the dimensionless number of 0.2.
We measure between zero (not spinning) and one (maximally spinning).
---------------
という、ルイジアナ州立大学のゴンザレス教授の話は理解不能です。

http://blog.livedoor.jp/motersound/51945322
ブラックホールの蒸発を唱えたのはホーキング博士ですが、ジャガーの宣伝には驚きました。次は『007』に出演ほしいですね、できれば悪党の親玉として。
ボンド君はまだアストンマーチンなんかに乗ってるのかね、とか、女王陛下は御年90だ、君臨すれども統治せずと言ったって、もう草臥れたろう、とか、前から何遍も言っているように神は存在しない、とか、あのシンセサイザーの音で聴いてみたいな。

ベルリンの思い出等々 2016/06/19(日) 01:43:30(キラーカーンさん)
>>小数点の次元
 「スピン」の話なのでしょうか・・・

>>脱キリスト教化

記憶モードですが、欧州への旅行の際、入国審査で「宗教は」と聞かれて
「無宗教」答えてはいけませんと旅行ガイドに書かれていたと思います。
(「仏教」と応えておくのが無難とされていました)
理由として、

無宗教≒共産主義者

と思われかねないとされていました。
と言うことなので、「キリスト教民主主義政党」というのが欧州各国にあったのでしょう。

1989年の12月に旅行でベルリンにいました。
「おのぼりさん」として、ベルリンの壁を鑿ととんかちで壊してきました。
その時はチェックポイントチャーリーではなく、フリードリッヒシュトラーセ駅から
通過ビザで東ベルリンに入り、その日の夜行でプラハに抜けました。

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可部裁判官の「釣合いの感覚」

2016-06-18 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月18日(土)11時05分48秒

泉徳治氏(元最高裁判事)の「可部恒雄さんの思い出」(『判例時報』2135号、2012)は、

------
一 スモン和解
二 判決へのこだわり
三 首席調査官時代のあれこれ
四 画歌文集「旅情」
五 チップス先生さようなら
六 そして、可部さんさようなら
------

という構成です。
四の冒頭を少し紹介してみると、

------
 可部さんは、昭和二七年四月、初任地の福岡地裁に着任し、翌二八年、同地裁判事佐藤秀氏の薦めで、当時八女に本部のあった「やまなみ短歌会」に入会し、終生同会で短歌を続けられた。
 昭和二〇年一〇月に、広島の焼け跡の、昔電車通りであった所を通っていた時に、「トタン葺の小さな本屋が出ておりまして、そこに、戦後復刊第二号の『アララギ』が出ておるのを見て、本当に飛びついて買った」と記しておられるから、青年のころから短歌の世界にあこがれておられたのであろう。
【中略】
 可部さんは、平成一二年一月一四日の宮中歌会始の「召人」に選ばれた。ご題は「時」。可部さんは、次の歌を詠進された。

 病める日も清(さや)けき時もともにゐて妻と迎ふる新しき春

 披講による朗詠の間、緊張した面持ちで起立しておられる可部さんのお姿を、私はテレビで拝見していた。私は、平成一一年六月二日の調査官出身者による可部さんの叙勲祝賀会等で、ご夫妻の仲むつまじさを目の当たりにしてきており、可部さんの誠に素直なお歌を拝聴して、思わず顔がほころぶのを禁じ得なかった。
-------

とのことで(p6)、この一作だけで歌人としての才能を判断することはできませんが、召人の立場にふさわしい歌ではありますね。
また、『旅情』は「可部さんの歌と散文、奥様の誠に見事な玄人はだしの写生画が収められている」画歌文集だそうです。
ついで、「五 チップス先生さようなら」も冒頭から引用してみると、

-------
 可部さんは、昭和五四年三月の最初の訪英の際、ケンブリッジに足を伸ばし、ジェイムズ・ヒルトンの名作「チップス先生さようなら」の舞台となったパブリック・スクール「ブルックフィールド校」のモデルといわれるリース校を訪れ、その思い出を「法曹」平成一二年六月号に寄稿しておられる。私も、この作品なら研究社の小英文学叢書で読んだことがある。可部さんは、四五年間にわたる裁判所在職は自分の半生というより一生であるというに近いとして、人生のすべてをブルックフィールド校と共に過ごしたチップスの姿にご自分をなぞらえておられる。そして、チップスが何より重んじたのは、この人生において、何が大切であり、何が然らざるかに対する「釣合いの感覚」、人生において事の軽重を見誤らぬ"sense of proportion"であるということを紹介しておられる。
 可部さんは、最高裁判事の六年一〇か月の間に、一二件の個別意見を書かれているが、大法廷判決での反対意見一件を例外として、他はすべて補足意見である。補足意見は、多くの場合、同僚の裁判官を説得して多数意見を形成した上で、多数意見に更なる説明を加える趣旨で書かれるものであるから、個別意見の中では最も理想的なものであると思う。論客ぞろいの第三小法廷にあって、可部さんが全件で多数意見に加わっておられるということは、可部さんの「釣合い」の感覚と安定かつ精緻な法律解釈が、多数の裁判官の同調を得た結果ではなかろうかというのが、私の解釈である。私が事件の関係で先例となるべき最高裁判例を探そうとすると、可部さんが加わった判決に遭遇することしばしばであった。
------

とのことで(p7)、可部氏が主観的に<何より重んじたのは、この人生において、何が大切であり、何が然らざるかに対する「釣合いの感覚」、人生において事の軽重を見誤らぬ"sense of proportion">なんですね。
そして、客観的にも<可部さんの「釣合い」の感覚と安定かつ精緻な法律解釈が、多数の裁判官の同調を得>ていたにも拘らず、同調が得られなかった唯一の例が愛媛玉串料訴訟大法廷判決のようですね。
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「私の記録の読み方が足りませんでした」(by 某最高裁判事)

2016-06-18 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月18日(土)09時27分28秒

国会図書館サイトで「可部恒雄」を検索したら7件しか出てきませんでした。
その中で入手が容易だったご本人の「性急な法曹一元論を排す─ある元キャリア裁判官の思うこと」(『論座』64号、朝日新聞社、2000)と、可部氏と同じく最高裁判事を務めた泉徳治氏の「可部恒雄さんの思い出」(『判例時報』2135号、2012)を読んでみましたが、両方とも面白いですね。
前者には編集部のつけた、

------
本誌〔2000年〕八月号の「再生のアジェンダ・司法を社会の中へ」で対談した矢口洪一・元最高裁長官と中坊公平・元日弁連会長は、それぞれの立場から司法改革の中心課題に「法曹一元」の実現をあげた。こうした主張に対し、スモン薬害訴訟での和解実現で知られる可部恒雄・元最高裁判事は、自らの経験に基づきながら、いまの「法曹一元論」には重大な欠陥がある、と反論する。
------

という前置きがあり、その後、

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原子雲の下に生き残って
医者、弁護士、そして裁判官
法服を着た裁判官には上司も部下もない
「世間知らず」への疑問
途はすでに開かれている
似而非なる法曹一元
世界に誇れる清廉と公正
-------

という、これもおそらく編集部がつけた小見出しに沿って議論が展開して行きますが、その三番目、「法服を着た裁判官には上司も部下もない」から少し引用してみます。(p58以下)

------
 法曹一元を唱える人から、キャリア裁判官は「上司」である裁判長や所長、あるいは最高裁の顔色ばかり見て、良心に従った判断をしていない、という批判がなされることがある。しかし、これはおよそ実情からかけ離れた言い分である。
 ひとたび法服を来た裁判官には、一般社会でいう上司と部下という区別がない。裁判官と裁判官との間を規律するものは、先輩と後輩という関係のみである。裁判所の中で、私はこのことを、あらゆる機会に公言してきたが、一度も、そして誰からも、異論を差しはさまれたことはない。本来、弁護士志望だった私は、前述のような経緯で判事補に任官したが、その後、嫌気もささずに仕事に邁進できたのは、この自由闊達な雰囲気があったればこそである。
 私は最高裁の調査官室に前後三回にわたって勤務したが、先輩格の調査官が若い訟廷部付の判事補にやり込められて、それで格別問題の起こらないのが同室の研究会であった。
 法廷で証言を聞き、記録を読んで事実認定に力を尽くす。それが裁判官(トライヤル・ジャッジ)の仕事である。
「記録を読んでいない者には合議に参加する資格がない」。これは、ある最高裁判事が審議の席上で、不用意な発言をした先輩裁判官に向かって発された言葉である。それを伝え聞いて、私は強い戦慄に似たものを感じた。
「言いたいことを言え。ただし、一人前に仕事をしたうえで言え」「合議に際しては先輩に対しても遠慮はいらない。ただし、記録を読んでからにしろ」。そういう雰囲気の中で私は育てられ、そしてそれを後輩に伝えようと努力してきた。
 最高裁の調査官として、ある事件について主任裁判官とかなり激しい議論をしていた時のことである。そのご意見が記録に照らして誤りであることを具体的に指摘した私に対して、裁判官は「私の記録の読み方が足りませんでした」と言って、頭を下げられた。調査官として現にお仕えしている最高裁判事からそのようにされて、私は内心の感動を禁ずることができなかった。事実の認定は裁判の生命であり、それにかかわる者の間に上下の区別はないのである。
 裁判官の命を受けて事件の調査にかかわる立場の調査官にしてこうである。いわんや第一線の裁判官においてをや。
------

最高裁調査官の世界など普通の人にはなかなか伺い知る機会はないので、貴重な証言ですね。
特に<裁判官は「私の記録の読み方が足りませんでした」と言って、頭を下げられた>には驚きました。
そして、この部分を読んで、私は改めて津地鎮祭訴訟大法廷判決における「裁判官藤林益三の追加反対意見」の奇妙さを連想しました。
同意見には同一性保持権を無視した違法な引用があり、また引用に際して出典を明示しないという別の著作権法違反もありますが、このような史上稀なる失態が生じたのは、藤林が他の四裁判官との反対意見を纏めた後、時間に追われて調査官と全く相談しないまま同意見を書いたからでしょうね。

「結論が先で論理は後」(by 藤林益三)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/609e5e14290bde3ad9fbe30d3c5325fd
「裁判官藤林益三の追加反対意見」の執筆時期
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脱キリスト教化とナチズム

2016-06-17 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月17日(金)11時52分15秒

6月11日の投稿で、辻村みよ子氏が『比較憲法』(岩波書店、2003)において、

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 ドイツでは,前述のように,公立学校において宗教教育を正規の授業科目とすることが定められており,「宗教の授業は,国の監督権を害さない限りにおいて,宗教共同体の教義にそって行われるものとする」とされる(基本法第7条3項).実際にも,キリスト教の宗教教育が必然的なものと解されてきたため,もともと教育における国家の宗教的中立性を確保することは困難である.これに対して,フランスでは,公教育の中立性を確保するための真摯な努力が続けられている.
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と書いていることに触れ、ついでに若干のイヤミも言いましたが、まあ、ドイツだってドイツなりに「真摯」だからこそ、あえてキリスト教の宗教教育を残しているのじゃないですかね。
パリ周辺部に相当遅れたとはいえ、ドイツでも啓蒙主義の荒波を受けて社会の脱キリスト教化はそれなりに進行しており、20世紀に入って脱キリスト教化がひとつの頂点に達した時点で登場したのがナチズムですね。
久しぶりにエマニュエル・トッドを少し引用してみます。(『新ヨーロッパ大全Ⅱ』、藤原書店、1993、p38以下)

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歴史的経過の問題─脱キリスト教化とナチズム

 一八九〇年から一九一四年までの間、反ユダヤ主義は無視できない勢力を持っていたが、支配的ではなかった。汎ゲルマン主義民族主義の片隅に巣食う過激分子という格好であった。まだ現実には自律性を持っていなかったのである。一八九〇年から一九一四年の間、反ユダヤ主義の候補者の得票率は二%から三%にすぎなかった。それと一九三二年七月三十一日の選挙で民族社会党が獲得した三七・四%の得票とは、比べものにならない。反ユダヤ主義イデオロギーの勢力伸長の各段階は、ドイツの脱キリスト教化の進展速度を考えると理解できるようになる。宗教実践の衰微は一八七〇年から一八八〇年にかけてプロテスタントの労働者世界で始まる。そして一八八〇年頃には中間階級にも及び始める。しかし一九一四年の時点で、脱キリスト教化はプロテスタント・ドイツそれ自体においてもまだ完了から程遠かった。ルター主義は弱まったが、死んではおらず、とりわけブルジョワ階級に残っていた。宗教の衰微は社会民主主義と自民族中心的民族主義という二つのイデオロギーの成長を引き起こした。しかし一九一四年にはドイツはまだ道の半ばにあったにすぎない。脱キリスト教化が完成し、農民、ブルジョワ、あるいはホワイトカラーという新たなカテゴリーといった中間階級全体が不信仰へと立ち至るのは、一九一八年から一九三〇年までのことである。この時、そしてこの時のみ、一国のイデオロギー化がその頂点に達することができる。ルターの神がついに消滅し、宗教的不安がさらに重くたちこめた雰囲気の中で、時代そのものが世界の終末の様相を呈して来る、そのような時に、権威と不平等の理想の究極の実現たるナチズムが勝利するのである。一九二九年の経済危機は、家族的価値が権威と不平等の理想を生み出している国で、中間階級が伝統的宗教の心を安らげる保護膜からこぼれ落ちるまさにその瞬間に起こったが故に、人種主義型の政治危機を引き起こすことになったのである。以下のような数字によって、この時間的経過の一致を検証することができる。プロテスタントの「堅信式」の件数は一九二〇年に八〇万八千件だったのが、一九三〇年には四四万七千件に落ちた。宗教的信仰の消失の直接的結果たる出産率が落ち、そのため出生率は一九一八年に二五%だったのが、一九三〇年には一五%となっている。
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トッドが挙げた数値を根拠に「ルターの神がついに消滅」と評価できるかはともかくとして、脱キリスト教化が急速に進展した後にナチズムが登場したことは明らかだと思います。
戦後、(西)ドイツの憲法体制がナチズムへの反省から新たに構築されたことを否定する憲法学者はいないでしょうが、信仰の自由についても、「真摯さ」が足りないから政教分離を徹底させなかったのではなく、むしろドイツなりの「真摯さ」の結果として国家と宗教を徹底的に分離せず、公教育の中立性を徹底的に追求しなかったのではないか、即ち意図的な「不徹底」こそがドイツなりの「真摯さ」の現れなのではないかと思うのですが、この点はまた後で検討したいと思います。

政教分離論議におけるドイツ出羽守の不在(その2)
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『トクヴィル 平等と不平等の理論家』

2016-06-17 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月17日(金)10時23分10秒

>筆綾丸さん
>ヴェズレーとサンデマン
サンデマンは名前も知りませんでしたが、その後継者のアメリカでの伝道はあまり成功しなかったようですね。
後世への影響力という点ではウェズレーはすごいですね。
それにしてもプロテスタントの系統図は無限に分岐して行きますから、なかなか覚えられません。
せめて宗派ごとに芸術的特色でもあればよいのですが、それは殆どなくて、理屈の違いだけですからねー。


>大覚醒
たまたまライシテの勉強の続きで宇野重規氏の『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社メチエ、2007)を読んでいたところ、大覚醒への若干の言及がありました。
もっともトクヴィルがアメリカを訪問した十九世紀前半の第二次大覚醒運動の方ですが。

サントリー学芸賞選評(鹿島茂氏)

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

神の場 2016/06/15(水) 11:46:37
小太郎さん
靖国神社大学(仮称)設立運動が現実化したら、国内的(vs.立憲主義者)にも国外的(vs.中国政府)にも大騒ぎになり、そうか、こんな条文があったのか、とメディアの世界では憲法9条よりも憲法89条の方が問題になるかもしれないですね。

https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Sandeman_(theologian)
サンデマン(1718-1771)とウェズレー(1703?1791)の関係に言及したウィキの説明によれば、青山学院大学や関西学院大学の教祖ヴェズレーとサンデマンの間には、大覚醒(The Great Awakenings)という最大公約数があったのですね。どのような思想か、知りませんが。
His work was widely read, and influenced a great many independent clergy throughout England. The Letters drew heated responses from theologians such as John Wesley and John Brine who were more closely aligned with Hervey's views.

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ファラデーは、宗教的な信条から、宇宙は空虚な空間ではなく、神の存在にあまねく満たされているのだと確信していた。このことをはじめ、弱小宗派が標榜する変わった信条をいろいろと持っていたせいで、からかわれることも多く(「わたしは、キリスト教のなかでも、とても小さく、しかも軽蔑されている宗派に属しているのでね」と、彼はため息交じりに口にしたことがある)、そのうち彼は自分の考えを他人には話さないようになった。(『電気革命』103頁)
--------------
メソジスト派の宗祖ヴェズレーも、はじめのうちは、軽蔑されていたのでしょうね、たぶん。
ファラデーは宗教信念に基づいて「力の場」を物理的実在とし、マクスウェルがそれを方程式化する、という過程を考えると、大覚醒(The Great Awakenings)の後世への影響は凄かったのだな、と驚かされます。物理学が「場」に目覚めたのだ、と。

小太郎さん
また重なってしまいました。

神学の迷宮 2016/06/15(水) 13:19:26
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%90%8C%E7%9B%9F
ウィキに、ドイツキリスト教民主同盟(Christlich-Demokratische Union Deutschlands)の宗教的根源として、
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キリスト教民主同盟は欧州連合憲章に記されている神に関する事項の定着、保証に尽力する。そのためにキリスト教の象徴を公共空間に目に見える形で保持すること、ならびにキリスト教の祝祭日を保持することに尽力するとされている。
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とありますが、連邦憲法裁判所の多数意見や少数意見と、「キリスト教の象徴を公共空間に目に見える形で保持すること」という支配政党の党是(?)などを考えると、まるで神学の迷宮のようで、何が何だか、わからなくなりますが、案外、こういうのがゲルマン好みの世界なのかもしれないですね。

https://de.wikipedia.org/wiki/Christlich_Demokratische_Union_Deutschlands
ドイツ語では、für die Bewahrung christlicher Symbole im öffentlichen Raum となっていて、「目に見える形で」という言葉はないですね。
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ドイツにおける信仰の自由(その2)

2016-06-15 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月15日(水)11時44分54秒

行政地方裁判所・行政高等裁判所は「十字架を単にヨーロッパ的伝統の表現だとしたり格別の信仰的意味を持たない護符だと」したそうですが、連邦憲法裁判所の多数意見は、そんな見方は「十字架を冒涜」するものであって、「十字架はキリスト教信仰の堅い核心を象徴するもの」と判断するのですね。
裁判官というより堅固な宗教的確信を抱いた教会関係者の発言のような感じもしますが、しかし、十字架の冒涜は許せないと息巻く多数意見の裁判官が出した結論はというと、「宗派学校を除く義務教育学校」に十字架を取り付けてはならない、というものなんですね。
ちょっと妙な感じがしないでもありませんが、とりあえず引用を続けます。(p63以下)

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 これに対して、教室に十字架を掲げても信仰の自由を侵害することにならないと説く少数意見は、多数意見のように十字架のキリスト教神学的な意味から出発するのは間違いだ、とする。

「キリスト教の生徒が教室の十字架を見て、多数意見が十字架の意味として言うような印象を持つことも、あるかもしれない。だが、信心深くない生徒については、そうは言えない。その生徒から見れば、教室の十字架はキリスト教の信仰内容を象徴する意味をもつわけではなく、キリスト教的特徴をもつ西洋文化の諸価値を伝えたいというキリスト教的共同学校の狙いを象徴するもの、それどころかその生徒が信じないで背を向け、もしかすると打倒しようとしている宗教的信念を象徴するものにすぎない」

 ドイツのカトリック教会は、違憲の結論に強く反発している(憲法学者にも、多数意見を批判する者が少なくない)。しかし、それは、教会の立場からすれば十字架が本来もつべき意味を「冒涜」(多数意見)するという、逆説的な立場に立つことになる。
------

少数意見の最後の方は何だかずいぶん物騒な話になっていますね。
もう少し詳しい分析が欲しいのですが、これで終わってしまっていて、議論はイスラム教徒の女性がスカーフ着用のまま教員としての職務を行うことの是非に移ります。
それにしても十字架の「冒涜」に関するねじれ具合は面白いですね。
ドイツの判例の動向も興味深いのですが、フランスのライシテについてやっと少し理解が進んだ段階なので、暫くは手を付ける余裕がありません。
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