学問空間

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辻浩和氏『中世の〈遊女〉─生業と身分』へのプチ疑問

2018-05-31 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月31日(木)20時02分27秒

辻浩和氏の『中世の〈遊女〉─生業と身分』(京都大学学術出版会、2017)は以前書店で手に取って『とはずがたり』と『増鏡』に関連する部分だけをざっと眺めてはいたのですが、両書の解釈に直接影響を与える記述はないなと思って、そのままにしていました。
そして、つい最近、『史学雑誌』で細川涼一氏の書評を読み、また同書が「第12回女性史学賞」に続いて「第35回日本歌謡学会志田延義賞」を受賞したとのニュースを聞いて、さすがにそろそろ読まねばなるまいと思って通読してみたところ、評判通り非常に良い本でした。

『中世の〈遊女〉─生業と身分』
http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?isbn=9784814000746

同書の概要は著者の「第12回女性史学賞受賞のご挨拶:受賞作『中世の<遊女>-生業と身分について』」に簡潔にまとめられています。

http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/4659/1/AA12781506vol2pp3-16.pdf

また、ネットで読める書評としては『週刊読書人ウェブ』での小谷野敦氏のものが参考になります。

http://dokushojin.com/article.html?i=1505

ということで、同書の紹介と賞賛は他に譲るとして、私が自分の狭い関心の範囲から抱いたプチ疑問を少し書きます。
「第八章 中世前期における〈遊女〉の変容」の「第一節 居住の変容 (一)京内の「遊女」と本拠地への執着」には次のような記述があります。(p313)

-------
 さて、以上のべたように、本拠地居住の重視が今様の正統性という芸能の論理によって支えられているとすると、今様の衰退によって本拠地居住はその必要性を減ずると考えられる。歌謡史研究の成果に拠れば、今様の衰退は後白河執政期から段階的に進展するが、一三世紀後半にはその衰退が決定的となり、儀式以外の史料に見えなくなるとされている(17)。そしてまさにこの時期、「遊女」の都鄙往反が史料に見えなくなるのである。
-------

そして注(17)を見ると、

-------
(17) 新間進一「『今様』の転移と変貌」(『立教大学日本文学』五、一九六〇)、同「今様の享受と伝承」(『日本歌謡研究』一四、一九七五)、植木朝子編『梁塵秘抄』(角川ソフィア文庫、二〇〇九)。衰退の原因はよくわかっていないが、白拍子や早歌などの流行に圧されたことは間違いない。外村久江『鎌倉文化の研究』(三弥井書店、一九九六)、沖本幸子『今様の時代』(東京大学出版会、二〇〇六)等参照。
-------

となっています。
しかし、まず白拍子については著者自身が、

-------
 遊女・傀儡子を指す呼称が鎌倉中・後期に変化するのとは対照的に、白拍子女の呼称には目立った変容が見られない。これは、中世後期に至っても芸能としての白拍子が残存し、白拍子女が芸能性を保持し続けるためであろう。この点に、遊女・傀儡子と白拍子女との展開の違いが表れている。実際、鎌倉中期以降「白拍子」は「遊君」「傾城」「好色」とそれぞれ対になって所見する場合が多く、白拍子女と「遊女」とは基本的に区別され続けたものと考えられる。
-------

といわれており(p330)、今様と密接に結び付いた「遊女」と白拍子は競合・敵対する存在ではないはずです。
また、同書において早歌と外村久江氏の『鎌倉文化の研究』への言及はここ一箇所だけなので、著者に早歌に関する独自の見解があるのかは知らないのですが、私が理解している限り、早歌は鎌倉で生まれた武家好みの非常に男性的な芸能で、作詞・作曲・歌唱を担当したのは全て男性であり、唯一の例外が私がしつこくこだわっている「白拍子三条」ですね。
従って、マッチョな早歌も今様、そして「遊女」と競合・敵対するような芸能とは思えません。
ということで、今様の「衰退の原因はよくわかっていないが、白拍子や早歌などの流行に圧されたことは間違いない」といわれても、ちょっと理解できないですね。
ま、私は注(17)で引用されている文献のうち、外村久江氏の『鎌倉文化の研究』以外は読んでいないので、他の文献、特に沖本幸子氏が書かれたものをあたってみてから再考したいと思います。

「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/668f1f4baea5d6089af399e18d5e38c5
早歌の作者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f49010df5521cc5aa7d50c242cec62c6
「撰要目録」を読む。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff69e365c35e0732e224f451e70fbc8f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d40419fb4040d03777431b35d63a54a7
「白拍子三条」作詞作曲の「源氏恋」と「源氏」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a90346dc2c7ee0c0f135698d3b3a58fd
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『増鏡』執筆の目的についての予備的検討(その3)

2018-05-28 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月28日(月)15時01分16秒

小川剛生氏の『兼好法師』(中公新書、2017)にも金沢貞顕の簡明な紹介がありますが、ここでも早歌への言及はないですね。
少し引用すると、

-------
金沢貞顕という政治家

 金沢文庫古文書の全貌が明らかになるにつれ、金沢貞顕は中世でも最も輪郭鮮やかな武家政治家の一人となった。とはいえその印象は必ずしも颯爽としたものではなく、「書物や茶事を愛する文化人で、周囲に細やかな配慮を払う一方、決断力には欠け、また幕閣内での昇進にのみ汲々とし、保身を事とする小人物」といったところか。幕府と運命を共にしたため、彼の日常が取り上げられて批判的に語られることもあるが、結果論的な人物評はいささか酷であろう。
 貞顕の書状は、家督承継直後から、正慶二年(一三三三)三月、実に幕府滅亡の二ヶ月前までの三十余年間に六百五十通ほどが残存している。ただし、残存状況には時期的な偏りがあり、貞顕が六波羅探題として京都にあった期間が最も多い。探題は北方・南方の両頭制で、貞顕は南方ついで北方をあわせて十年間務めた。
 貞顕の官位昇進は順調で、左衛門尉・東二条院蔵人となった後、永仁四年(一二九六)四月左近将監に任じて叙爵した。いわゆる左近大夫将監である。そして乾元元年(一三〇二)七月六波羅探題南方となり上洛した。二十五歳である。
-------

といった具合です。(p32以下)
「永仁四年(一二九六)四月左近将監に任じて叙爵した」とありますが、永井晋氏の『金沢貞顕』によれば、貞顕は同年四月十二日に従五位下に叙され、四月二十四日に右近将監に補任され、翌五月十五日に左近将監に転じたとのことで(p15)、小川氏の記述は少し違っているようですね。
ま、そんな細かいことはともかくとして、左近大夫将監となったことで貞顕の通称は「越後左近大夫将監」となります。
この時点で貞顕自身は越後守ではありませんが、父親の顕時(1248-1301)が弘安三年(1280)に越後守となっているので、それにちなんだ通称になった訳ですね。
これだけの材料があれば、早歌関係で「越州左親衛」と呼ばれている人物を金沢貞顕に比定する外村久江説は間違いないと思うのですが、誰か歴史研究者が太鼓判を押してくれないかなと願う今日この頃の私です。

「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c6f654a75b33f788999dc447bda1e48

さて、小川著で興味深いのは、上記引用部分の少し後にある次の記述です。(p35以下)

-------
京鎌間を往復する人々
【中略】
 さて金沢文庫古文書に見える氏名未詳の仮名書状のうち、かなりの数がこの時期の当主や一門に仕える女房のものらしい(女性は原則署名しない)。ところで金沢流北条氏の僧侶・女性は、貞顕の在京を好機に上洛する者があり、寺社参詣や遊山を楽しんでいる。釼阿も嘉元元年(一三〇三)九月から半年余り在京し、貞顕夫妻の歓待を受けた。実時の娘で、貞顕には叔母かつ養母でもあった谷殿永忍〔やつどのえいにん〕は、一門女性の中心的存在であった。この谷殿が嘉元三年から翌年にかけて上洛、貞顕の妻妾らをも率いて畿内を巡礼している。貞顕は釼阿に「さてもやつどの御のぼり候て、たうとき所々へも御まいり候」(金文四七四号)と言い遣るが、女性たちの書状ではもちきりの話題で、「さても御ものまうで〔物詣〕、いまはそのご〔期〕なき御事にて候やらん」(金文二九八三号)、「なら〔奈良〕うちはのこりなくをがみ〔拝〕て候し、きやう〔京〕にはとりあつめ四五日候しほどに、ゆめ〔夢〕をみたるやうにてこそ候へ」(金文二八五一号)といった具合である。なお奈良下向では谷殿が「御あつらへものゝ日記」(金文二七四九号)を忘れず携えたことを報告しているが、留守の人たちが希望した土産物リストらしい(かつての海外旅行を髣髴とさせる)。周囲含めて賑やかな女性であるが、谷殿の話題が目立つのは、彼女宛ての書状が多数釼阿にもたらされたからである。さらに倉栖兼雄の「母義尼」も上洛して来た(金文五六一号)。当時の上層の人々、女性も僧侶も意外に行動的であった。
-------

ということで、確かに「かつての海外旅行を髣髴とさせる」賑やかな旅行の様子が伺えるのですが、こうした鎌倉の「意外に行動的であった」女性や僧侶たちが寺社巡礼の名目で畿内各地を遊びまわるに際して、やはりそれなりに武家社会の人々との交際に慣れた案内者であって、現地有力者との円滑な交流を演出する能力を持った存在も必要ではなかったかと思います。
とすると、鎌倉で平頼綱の正室クラスの最上流女性と親しく交わり、京都はもちろん奈良や伊勢などにも知己の多い後深草院二条など、まさに適役だったのではなかろうか、などと思われてきます。

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『増鏡』執筆の目的についての予備的検討(その2)

2018-05-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月27日(日)09時58分27秒

ちょっと間が空いてしまいましたが、またボチボチと書いて行きます。
さて、永井晋氏の『金沢貞顕』(吉川弘文館・人物叢書、2003)に早歌への言及がないことは以前書きました。

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その4)

金沢貞顕(1278-1333)について論じたより新しい論考としては森幸夫氏の「十二代連署・十五代執権 金沢貞顕」(『鎌倉将軍執権連署列伝』、吉川弘文館、2015)がありますが、森氏も早歌については特に触れていません。
森氏が貞顕の文化的活動について書かれている部分を少し引用してみると、

-------
 乾元元年(一三〇二)七月、貞顕は六波羅探題南方に任命された。二十五歳。金沢流北条氏では最初の就任である。【中略】
 貞顕は南方探題時代、公家たちから借用した『たまきはる』『百錬抄』『法曹類林』など朝廷の歴史や法律などに関する様々な本を書写・収集している。このような活発な文化的活動は、官僚組織も未熟で、探題本人が六波羅の政務を強力に主導せねばならなかった、北条重時時代(一二三〇~一二四七年)には思いもよらぬことである。これらの書写・収集活動は政務の参考書を獲得するための貞顕の努力とも評価できるが、六波羅の政務は官僚たちが担っており、当時の探題が重時時代のような激務ではなかったことを逆に物語っている。徳治二年(一三〇七)から翌延慶元年(一三〇八)にかけて、興福寺衆徒の強訴事件が起きるが、幕府の裁定を踏まえ、興福寺と直接交渉し事態を収拾させたのは奉行人斎藤基任・松田秀頼の両名であった(「徳治三年神木入洛記」)。貞顕は六波羅の職務を官僚たちに任せておけばよかったのである。
-------

という具合ですが(p171以下)、森氏が例示する三書のうち、『たまきはる』は「政務の参考書」としては余り役に立たない女房の日記ですね。

たまきはる

永井晋氏の『金沢貞顕』には、

-------
 現在のところ、貞顕が六波羅探題として上洛した後に最初に書写校合した写本は、乾元二年(一三〇三)二月二十九日の奥書をもつ『たまきはる』である。この本は藤原定家の姉健御前〔けんごぜん〕の回想録で、建春門院・八条院の御所での日常を詳しく記している。
-------

とありますが(p57以下)、『たまきはる』は古典の上級者向けの書物であって、貞顕の並々ならぬ教養を感じさせます。
岩波の新日本古典文学大系では『たまきはる』は『とはずがたり』と一緒になっていますが、これは単に分量的に両書を一冊に纏めるのが好都合だったからではなく、内容にも共通性があって、『たまきはる』は愛欲エピソード抜きの上品な『とはずがたり』みたいなものですね。
とにかく、古典的教養に乏しい人がいきなり『たまきはる』を書写するというのは無理があり、貞顕が鎌倉にいる間に相当の古典的教養を積んでいることは間違いありません。
ま、私は「白拍子三条」こと後深草院二条が若き日の金沢貞顕と交流があったと考えるのですが、こう考えると金沢貞顕が京都に来て最初に書写した本が『たまきはる』であることも自然な感じがします。

「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)
「白拍子三条」作詞作曲の「源氏恋」と「源氏」
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕
金沢貞顕の妻と子

ところで、貞顕は永仁元年(1293)四月の平禅門の乱で平頼綱が滅ぼされ、父・顕時(1248-1301)が鎌倉に復帰した翌永仁二年(1294)十二月に十七歳で左衛門尉となり、同時に東二条院蔵人となります。
東二条院蔵人といっても実際に京都で東二条院に仕えた訳ではなく、多分に形式的な資格に過ぎませんが、それでも貞顕が、その政治的経歴の出発点では持明院統を支える側であったことは事実です。
しかし、三十年後の元亨四年(1324)、貞顕は後宇多院を利する非常に偏った政治的決定をしたとして花園院から厳しく非難されるようになります。
その決定が後に花園院の抗議を受けて覆されることからも貞顕が極端な大覚寺統寄りの立場にあったことが伺えるのですが、このような貞顕の変化がどのように生じたのか、そこに後深草院二条とその周辺の者の関与がなかったのかが私の新しい問題意識です。

>キラーカーンさん
私には古代史と中国史の知識が乏しいので、公卿みたいな基礎的な概念を突かれると弱点が目立ってしまいますね。

>筆綾丸さん
>高橋昌明氏『武士の日本史』
幕府概念の極端な拡張論者である高橋氏が幕府概念に極端に禁欲的な渡辺浩氏をどのように評価しているのか、ちょっと興味があります。

「幕府」概念の柔軟化
幕府の水浸し
「六波羅御所こそ鎌倉将軍家の本邸」

※キラーカーンさんと筆綾丸さんの下記三つの投稿へのレスです。

駄レス 2018/05/24(木) 01:38:12(キラーカーンさん)
小太郎さん
ご丁寧な回答ありがとうございます。

>>参議は厳密には公卿ではないけれども公卿並みに扱う
黒板伸夫氏の『摂関時代氏論集』には参議の範囲について
1 参議の官にあるもの(一般的な用法の「参議」)
2 「1」+大納言+中納言
3 「2」+大臣
の三種類の用例があったようです。

>>平安中期にはその定員を一六人としたので「十六之員」
ということは、当時、内大臣は文字通り「数の外の大臣」だったということですね

資格喪失というパラドックス 2018/05/25(金) 12:08:12(筆綾丸さん)
https://www.iwanami.co.jp/book/b358701.html
高橋昌明氏『武士の日本史』を、あまり期待はせずに読み始めました。

藤井七段は弱冠15歳にして、新人王戦(6段以下)、加古川青流戦(四段以下)、YAMADAチャレンジ杯(五段以下)、各棋戦の出場資格を喪失しているというのは、前代未聞のパラドックスであって、すでに「神武以来(このかた)の天才」を凌駕しましたね。将棋内容も凄いので、今年度中にタイトルを取るような気がします。

ナントカの日本史(中世史) 2018/05/26(土) 16:15:33(筆綾丸さん)
--------------------
 はるか後代の話だが、『徒然草』を書いた吉田兼好は、武は「人倫に遠く、禽獣に近き振る舞い」であり、「好みて益なきこと」と断じている。(『武士の日本史』61頁~)
--------------------
小川剛生氏の『兼好法師』という画期的な書が上梓された後でも、高橋昌明氏は「吉田兼好」と書くんですね。うーむ。

---------------------
 幕府は、征夷大将軍を首長とする武家の全国政権で、鎌倉・室町・江戸の三つしかない。それが日本人の常識である。ところが、政治思想史の渡辺浩氏が、鎌倉・室町の両武家政権が存在していた同時代、それを「幕府」と呼んだ例はないといい、江戸時代も、寛政年間(一七八九~一八〇一年)以前の文書に幕府の語が現れるのは珍しく、一般化したきっかけは、江戸後・末期の後期水戸学にあるとしている。(70頁)
---------------------
渡辺浩氏の例の説を無批判に引用していて、「日本中世史」の専門家なのに、「幕府」理解に関しては、この程度なのか、と思いました。読むのはやめようかな、とも思いますが、折角買ったので、もうちょっと読んでみます。それにしても、「ナントカの日本史(中世史)」というタイトルはよく見かけますね。

追記
やはり、半分ほどで飽きてしまった。
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公卿について

2018-05-22 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月22日(火)21時57分48秒

>キラーカーンさん
確認するまでもないことでしたが、おっしゃる通り、参議になった時点で公卿ですね。
参考までに『日本史大事典』(橋本義彦氏執筆)を引用しておきます。

-------
公卿
 摂政・関白以下、参議以上の現官および三位以上の有位者(前官を含む)の総称。中国の三公九卿に由来し、大臣を公に、大納言・中納言・参議を卿に充てたという。狭くは大臣以下参議以上の議政官をいい、平安中期にはその定員を一六人としたので「十六之員」とか「二八之臣」とも称されたことが記録にみえるが、三位以上の前官および非参議をも含めて公卿と称することがしだいに一般化し、「公卿補任」に記載される範囲全体に及ぶようになった。鎌倉時代以降、公卿の員数はますます増大したが、一方、家格の形成にともない、公卿に昇る上流廷臣の家柄もしだいに固定し、江戸時代には、その家柄に属する廷臣の総称として、公家とほぼ同じ意味にも用いられた。上達部、卿相、月卿、棘路などの異称もある。【参】和田英松『官職要解』講談社学術文庫
-------

ご指摘を受けて直ぐに変なことを書いてしまったと思ったのですが、たまたま5月15日の投稿<「弘安の御願」論争(その9)─「弘安の御願」はそもそも存在したのか?>で引用した『国史大辞典』の「公卿勅使」の項に、

-------
伊勢神宮に朝廷から差遣される使には恒例祭典の例幣使(四姓使)と皇室・国家・神宮に事があった場合の臨時奉幣使があり、後者のうち格別の大事に際しては三位以上の公卿または参議が充てられた。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4c870df53572c5ecfcd8822326ceb6e7

とあったので、参議は厳密には公卿ではないけれども公卿並みに扱う、といった用法もあるのかな、などと考えたのですが、これも公卿の普通の定義で理解できる記述でした。

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

ちょっとした疑問 2018/05/21(月) 01:28:46
お久しぶりです

>>その年の十二月に従三位となって公卿の仲間入りです
とありますが、
>>正月十三日任(元蔵人頭)。右中将如元。
とあるので、参議任官(宰相中将)となった時点で公卿ではないでしょうか。

追伸
五段昇段パーティーを七段昇段パーティーに無理やり変えた人がいるそうですが、
この昇段ペースでも、一〇〇〇段がやっとで一二三九段には到達できないようです。
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『増鏡』執筆の目的についての予備的検討(その1)

2018-05-21 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月21日(月)13時10分37秒

他人への批判はともかく、『増鏡』にしか存在しない記事の解釈について、オマエはどう考えるのか、莫迦のひとつ覚えで登場人物と後深草院二条の人間関係を追って行くだけなのか、と問われると、さすがにそれではまずいだろうなと思っています。
では何を基準とすべきか。
この点、現在の私は『増鏡』執筆の目的が基準となるだろうと考えています。
旧サイトでは『増鏡』の作者と成立年代についてはそれなりに検討しましたが、作者については、昨年末以来の『増鏡』の読み直しを踏まえて、やはり後深草院二条で間違いないと思います。
従来の通説であった二条良基説は曾祖父・二条師忠の描かれ方だけで失格、小川剛生氏の修正説(丹波忠守作、二条良基監修)は、丹波一族の医師が無能で幼い世仁親王の病状診断を誤り、親王を殺しかけたという春宮灸治の場面だけで失格です。

「巻八 あすか川」(その18)─春宮の灸治と土御門定実
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/baa3418590f48ba4bdd2fc42981da81f

そもそも『増鏡』作者が序文において語り手を「八十(やそぢ)にもや余りぬらんと見ゆる尼」と設定していること、『とはずがたり』が他の史料を遥かに凌ぐ膨大な分量で引用されていることの二点だけで『増鏡』作者が『とはずがたり』作者と同一人物ではなかろうかと疑うのに十分であり、そのように仮定すると、従来、作者の意図が分からなかった多くの奇妙な記述について合理的な説明が可能となります。
「男もすなる歴史物語といふものを、女もしてみむとてするなり」と考えた女性が中世に存在していたとしても全然不思議ではありません。
『とはずがたり』が知られていなかった時代はともかく、その出現以降も後深草院二条が『増鏡』作者候補にあがらなかったのは、女に歴史物語が書けるはずがない、という国文学者・歴史学者たちの頑迷な思い込みに過ぎません。
さて、旧サイトでは『増鏡』の成立年代についてリンク先のように考えてみたのですが、『舞御覧記』との関係は再検討を要するものの、それ以外は現在でも妥当だと思っています。

第四章 『増鏡』の成立年代
http://web.archive.org/web/20150831083007/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/2002-zantei04.htm

『増鏡』の作者・成立年代をそれなりに熱心に検討した旧サイトで欠落していたのは、『増鏡』作者が何の目的でこの歴史物語を書いたかについての考察でした。
『増鏡』は、

(1)後鳥羽院の物語
(2)中間部分(前半:後嵯峨院の物語、後半:後深草・亀山院の物語)
(3)後醍醐天皇の物語

の三部に分かれますが、正嘉二年(1258)生れの後深草院二条を作者と考えると、(1)は作者が生まれる前の遠い過去、(2)の前半は作者の幼年・少女時代に少し掛かり、後半は作者が四十代までの期間で、華やかな宮廷生活と出家後の全国各地へ旅行を行なった期間が含まれます。
『増鏡』執筆時には(1)(2)は過去の記録ですが、最も分量の多い(3)は鎌倉幕府滅亡へ向かう時代の変化をほぼ同時代史として叙述しており、特に最末期は歴史の劇的な変動を活写するルポルタージュのような趣きもあります。
旧サイトでは私は『増鏡』作者の執筆目的を確定することができなかったのですが、今回、金沢貞顕の周辺を少し丁寧に調べたことにより、後深草院二条は時代の傍観者だったのではなく、(3)の時期にそれなりの政治的役割を果たした「行動する歴史家」であり、『増鏡』は政治的目的を持つ文書なのではなかろうか考えるようになりました。

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片山杜秀氏のことなど

2018-05-21 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月21日(月)10時44分42秒

>筆綾丸さん
>『プライムニュース』
髪がきれいにセットされていて、黒縁の眼鏡をかけているので、何だか写真で見るトッドとは別人のような雰囲気ですね。
冒頭だけ聞いてみましたが、内容は近著で書いていることの要約みたいですね。

>『平成史』
片山杜秀氏には以前ちょっと嵌ったのですが、竹内洋・佐藤卓己編『日本主義的教養の時代』(柏書房、2006)所収の「写生・随順・拝誦 三井甲之の思想圏」等、片山氏お得意のファシズム・右翼モノに少し期待して自分で実際に関連史料を読んでみたら、片山氏は実りのない畑で農作業をしている方のような印象を受けました。
それで暫く御無沙汰していたのですが、ご紹介の本は後で読んでみます。

「シールズ」 or 「スィールズ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9dce55040668eed8badd8baef99dda2f
『アカネ』における三井甲之と土屋文明の交錯
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b2d2d3ce8fdcef0df71d3b9403d5e614

>キラーカーンさん
>参議任官(宰相中将)となった時点で公卿ではないでしょうか。
基礎の基礎について変なことを書いてしまったようですが、念のため、『国史大辞典』あたりを少し見てみます。

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

閑話ばかりで 2018/05/20(日) 17:03:26(筆綾丸さん)
このところ、閑話ばかりで恐縮ですが。

http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/day/d180518_0.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%91%A0%E9%BA%97
金曜日の『プライムニュース』に、トッドが出演していました。
同時通訳者二人のうち一人の「通訳」がひどすぎ、理解不能な日本語でした。もう少しまともな通訳者を使ってほしいものです。ゲストの三浦瑠麗氏は、『国家の矛盾』を読んだことがありますが、頭の良い人ですね。

https://www.shogakukan.co.jp/books/09389776
『平成史』を読み終えましたが、勉強になったような、ならなかったような感じです。

ちょっとした疑問 2018/05/21(月) 01:28:46(キラーカーンさん)
お久しぶりです

>>その年の十二月に従三位となって公卿の仲間入りです
とありますが、
>>正月十三日任(元蔵人頭)。右中将如元。
とあるので、参議任官(宰相中将)となった時点で公卿ではないでしょうか。

追伸
五段昇段パーティーを七段昇段パーティーに無理やり変えた人がいるそうですが、
この昇段ペースでも、一〇〇〇段がやっとで一二三九段には到達できないようです。
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「母忠子をめぐる父後宇多上皇と祖父亀山法皇との複雑な愛憎劇」(by 兵藤裕己)

2018-05-19 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月19日(土)20時52分50秒

昨日、「「関東伺候廷臣」の処遇について後嵯峨院が「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官、かうぶりなどはさはりあるまじ」と言ったという話は『増鏡』にしか出てきません」と断定的に書いてしまいましたが、私も別に史料を遍く渉猟した上で、このような結論に達した訳ではありません。
それどころか、怠慢にも一般向けの歴史書をパラパラ見ているだけなのですが、例えば遠藤珠紀氏(東大史料編纂所助教)は『現代語訳 吾妻鏡 別巻 鎌倉時代を探る』(吉川弘文館、2016)所収の「京下りの人々 1 官人」において、

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 さらに京からの下向が増えるのは、六代将軍宗尊親王の時代である。建長四年(一二五二)、時の治天後嵯峨院の皇子宗尊親王が下向した。下向に当り、後嵯峨院は供奉の人々に「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官(つかさ)、かうぶりなどはさはりあるまじ」(『増鏡』「内野の雪」)と仰せたという。すなわち鎌倉での奉公も、京都での奉公同様に評価し昇進にも差支えない、ということである。これ以前には、関東にいて伺候していないことを理由に昇殿を止められた人物もおり(『明月記』寛喜三年七月三日条など)、いささか雰囲気も変化したのだろうか。宗尊親王には、藤原(花山院)長雅・源(土御門)顕方・源(土御門)顕雅以下、多数の公卿・殿上人たちも随行した。その子孫たちも鎌倉での活動が確認される。
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と書かれています(p146)。
私の狭い知見の範囲でも遠藤氏は非常に緻密な論文を書かれる人なので、仮に後嵯峨院の「関東伺候廷臣」に対する人事方針に関して『増鏡』以外に史料があるならば、必ずここで言及されるでしょうね。
ところで建長四年(1252)、宗尊親王と一緒に関東に下り、以後は廷臣の筆頭格として『吾妻鏡』に頻出する土御門顕方という人物がいますが、『公卿補任』でこの人の経歴を辿ると、最初に登場するのが建長四年(1252)で、

参議正四位下 <土御門>源顕方
正月十三日任(元蔵人頭)。右中将如元。十二月四日叙従三位。故内大臣定通公男(実故大納言通方卿四男)。母家女房。
〔建長三年正月廿二日補蔵人頭。元正四位下右近衛中将。〕

となっています。
『公卿補任』には土御門顕方の年齢が書かれていませんが、中院通方(1189-1239)の子に北畠雅家(1215-74)・中院通成(1222-1286)がいて、顕方はその弟なので、おそらく後深草院二条の父、中院雅忠(1228-72)と同年輩と思われます。
土御門顕方と中院雅忠の祖父は源通親(1149-1202)であり、二人は従兄弟の関係ですね。
土御門顕方は建長四年、鎌倉に行った時点では殿上人ですが、その年の十二月に従三位となって公卿の仲間入りです。
この後も建長六年(1254)に権中納言、正嘉二年(1258)に従二位、兼右衛門督、正元二年(1260)に正二位、文応二年(1261)に中納言、弘長二年(1262)に権大納言と官職・官位とも順調に昇進しています。
そして弘長三年(1263)に権大納言を辞し、以後は散位ですが、文永三年(1266)に鎌倉を追放された宗尊親王に従って京に戻ると同年十二月五日「聴本座」とのことで、これは後嵯峨院による慰労の意味が籠められているのかもしれません。
この後、土御門顕方は文永五年(1268)十二月十七日「出家(籠居山科辺)」とのことで、廷臣としての人生を殆ど宗尊親王に捧げた感がありますが、鎌倉滞在中の昇進ぶりを見ると、確かに京都での奉公に劣ってはいないようですね。
劣っていないどころか、極官の権大納言に昇進した際には『公卿補任』にわざわざ「其身在関東」と記されており、関東にいる者を権大納言にするなんて、という周囲の羨望や嫉妬、非難の声が聞こえてきそうな雰囲気です。
こうした異例な処遇を認めたのは後嵯峨院以外に考えられませんから、『増鏡』の「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官、かうぶりなどはさはりあるまじ」という人事方針は確かに存在したのでしょうね。
ということで、僅か一例を見ただけですが、『増鏡』のこの記述は信頼できそうです。
おそらく遠藤氏や他の研究者も、『増鏡』の記述が実例に反していないことを確認した上で『増鏡』を引用されているのでしょうね。
さて、『増鏡』は『源氏物語』のような優雅な文体で描かれ、およそ歴史的重要性の感じられない煩瑣な儀式の描写や「愛欲エピソード」に満ち溢れている歴史物語であり、現代の歴史研究者にとっては非常に扱いづらい史料です。
厳密な史料批判の訓練を受けた研究者にとって、『増鏡』だけに依拠して歴史叙述を行なうのは落ち着かない気持ちがするはずで、おそらく多くの研究者は『増鏡』以外の確実な史料を探し求め、『増鏡』はあくまで補助的な史料として扱いたいと考えているはずです。
しかし、『吾妻鏡』が宗尊親王追放劇で終わって以降、武家社会には一定の歴史観に基づく編纂史料は存在せず、他方、公家側の日記類もいたずらに細部のみ詳しく、それも時期によって残された史料の量と質に偏りがあり、結局のところ鎌倉時代後期の歴史の流れをそれなりに分かりやすく説明してくれる史料は『増鏡』以外に存在しません。
ということで、どんなに他の史料を探し求めても入手できず、『増鏡』以外に手がかりとなる史料を得られない場合が多々あるのですが、その際に『増鏡』をどのように解釈すべきかは非常に悩ましい問題となります。
その点、例えば世間では堅実な実証的研究者と思われている森茂暁氏は、意外なことに『増鏡』の取扱いについては異様なほど大胆です。

『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2b59444914a0703c0d05ca3e4cb2b225
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fa66061f66ed71ab9b43beec1ff4c7ed

また、兵藤裕己氏の最新刊『後醍醐天皇』(岩波新書、2018)の「第1章 後醍醐天皇の誕生」における後醍醐天皇の母に関する叙述を見ると、

-------
 後宇多天皇は、正応元年(一二八八)一一月、後宇多天皇(上皇)の第二皇子として生まれた。諱を尊治という。
 母は、談天門院の院号を贈られた五辻忠子。参議五辻忠継の娘であり、内大臣花山院師継の養女として入内した。忠子は、尊治のほかに二男一女をもうけたが、やがて亀山法皇の寵愛を受け、尊治は幼少期を法皇御所の亀山殿で過ごすことになる。
 亀山殿の地には、のちに足利尊氏によって、後醍醐天皇の鎮魂を意図して天龍寺が創建された。天龍寺は、幼少期の尊治が母(および祖父法皇)と過したゆかりの地に建立されたのだが、母忠子をめぐる父後宇多上皇と祖父亀山法皇との複雑な愛憎劇が、尊治(親王宣下は正安四年<一三〇二>)を皇位継承者として浮上させる一つの伏線となったことは、村松剛氏による評伝にくわしい。
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といった具合で(p14)、兵藤氏は村松剛氏の『帝王後醍醐─「中世」の光と影』(中央公論社、1978)に全面的に依拠しているのですが、この村松著は『増鏡』(と『とはずがたり』)に全面的に依拠しています。
ということで、鎌倉後期の歴史叙述は未だに『増鏡』への依存度が極めて高いのが現状ですね。

村松剛「忠子の『恋』」
http://web.archive.org/web/20150918011501/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/muramatutakeshi.htm

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『増鏡』にしか存在しない記事の取扱い─「愛欲エピソード」の場合

2018-05-18 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月18日(金)10時48分7秒

「弘安の御願」論争からひとまず離れて、『増鏡』にしか存在しない記事の信憑性をどのように判断するか、という一般論を少し検討してみます。
先に私は、『増鏡』にしか存在しない記事で、その内容が面白いものは基本的に『増鏡』作者の創作と考えるべきだと書きましたが、これを文字通り適用すると、私は現代の「抹殺博士」になってしまいます。
例えば「関東伺候廷臣」の処遇について後嵯峨院が「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官、かうぶりなどはさはりあるまじ」と言ったという話は『増鏡』にしか出てきませんが、多くの歴史研究者がこの『増鏡』の記述を信頼し、その土台の上に様々な議論をしています。
従って『増鏡』に描かれた後嵯峨院の発言が創作であれば、多くの研究者の議論は砂上の楼閣となってしまいます。

「巻五 内野の雪」(その12)─宗尊親王
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df97ebd9ddfd84fc306d7efd834631af

ま、重要なのは「関東伺候廷臣」の処遇のような政治的な話ですが、検討の順番として、先に「愛欲エピソード」の取扱いについて考えてみます。
『増鏡』には(『とはずがたり』を除く)『増鏡』以外の史料で基礎づけることができない多数の「愛欲エピソード」が存在しますが、何故か後嵯峨院の皇女については、例えば「弘安の御願」の直前に出てくる名前も分からない後嵯峨院姫宮と四条隆康の密通、そして流産による姫宮の急死のエピソードなど、「愛欲エピソード」が目立ちます。
このうち、名前なき後嵯峨院皇女の場合、肝心の姫宮の名前は分からないとしても、四条隆行・隆康父子の名前には相当のリアリティが感じられます。
後深草院二条なら四条家、それも隆親とは別系統の家の不祥事には特別な関心を持つはずで、秘密情報の入手も可能と思われるので、まあ、これは事実を反映しているのではないかと私は思います。

「巻十 老の波」(その15)─後嵯峨院姫宮他界
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cff81b83b5579beabef9fe74b37293da

また、月花門院の場合、二十三歳の若さで亡くなっていることは事実であるので、堕胎の失敗による急死という話もそれなりにリアリティが感じられます。

「巻八 あすか川」(その8)─月花門院薨去
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fefb8903614166d0eee9c4963c36217

ついで五条院の場合、亀山院の女性関係が多彩で大変な子沢山だったことは『増鏡』以外の、例えば「本朝皇胤紹運録」のような系図からも伺えるので、異母妹との間に姫宮が生まれたこと自体は、まあ、ありそうな感じがします。
ただ、姫宮が「宮の御母君をば誰とか申す」と聞かれると「いはぬ事」とのみ返事をしたという話は些か出来すぎで、創作っぽい匂いも感じられます。

「巻十 老の波」(その4)─五条院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2763b18b7676761c25266abb46aba941

一番問題となるのは後深草院と前斎宮の密通ですが、私はこれは後深草院のイメージを貶めるための作り話ではないかと考えています。
『とはずがたり』では自身を御所から追放した東二条院への憤りは伺われるものの、それを容認した後深草院への非難が存在しないばかりか、最後まで後深草院を慕って、その葬列を裸足で追いました、みたいな綺麗ごとに終始しているのですが、実際には後深草院二条は後深草院に恨みを抱いていたと考えるのが自然です。
そこで復讐の意味もあって、『増鏡』作者は亀山院を称揚するエピソードを創作する一方で、後深草院を貶めるための工夫もしており、その一例が前斎宮エピソードではなかろうかと私は考えているのですが、この点は『増鏡』作成の目的に関係するので、別途検討する予定です。

「巻九 草枕」(その6)─前斎宮と後深草院(第一日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e25b0fbfedcc25a407c202e61e161ddf
「巻九 草枕」(その7)─前斎宮と後深草院(第二日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c7c9e9918899aa55f64744b59d9a3bf9
「巻九 草枕」(その8)─前斎宮と後深草院(第二日の夜)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7aee4690e5603b5bda8b5c5d5736bd5
「巻九 草枕」(その9)─前斎宮と後深草院(第三日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a58f07bed7b0300dbac5204ce193a25
「巻九 草枕」(その10)─前斎宮と後深草院(第三日の夜)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b66ecfbbbb8585e29499abc8f9d4725
「巻九 草枕」(その11)─前斎宮と西園寺実兼・二条師忠(前半)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a4a9cc3e7d2b0873f824e27bff3f0000
「巻九 草枕」(その12)─前斎宮と西園寺実兼・二条師忠(後半)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac8642bb8d6f5b41db85c5fc6abcb3ad

このように、『増鏡』にしか存在しない記事で「愛欲エピソード」タイプの面白い話はそれぞれの個別事情、特に登場人物と後深草院二条との人間関係を見て行く必要があると思います。

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「弘安の御願」論争(その11)─『増鏡』作者が想定する読者層との関係

2018-05-17 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月17日(木)22時22分4秒

後深草院二条の祖父・四条隆親(1203-79)も確か公卿勅使になっていたはずだなと思って少し検索してみたら、阿哈馬江(Ahmadjan)氏の『日本の親王・諸王 』というサイト内に「伊勢使王表」がありますね。
これを見ると寛喜三年(1231)十月に「權中納言藤原朝臣隆親」が「止雨祈願」のために発遣されていますが、時期から考えてこれは「寛喜の飢饉」への対応ですね。

http://www.geocities.co.jp/Berkeley/6188/tukahi/tukahif121.html

さて、私は平泉澄の第一命題、即ち「弘安四年蒙古襲来の際に、亀山上皇か後宇多天皇かいづれか御一方が、身を以て国難に殉ぜん事を大神宮へ祈らせられたといふ御逸事」の存在自体を疑う立場ですが、仮に私のこの考え方が正しいとしても、『増鏡』作者が読者に対して、亀山上皇と後宇多天皇のどちらが「身を以て国難に殉ぜん事を大神宮へ祈らせられた」ものと読んでくれるように期待したのかは別問題です。
この点、私はやはり亀山上皇なのだろうと思います。
『増鏡』作者がいかなる読者を想定して『増鏡』を執筆したかは別途検討する予定ですが、武家社会の動向について相当な分量の記述があることから見て、公卿勅使という制度を知悉しているような京都の貴族層だけを対象としているのではなく、もう少し広い範囲、少なくとも上級武士層は含まれるものと考えてよいと思います。
そうした読者を念頭に置いた場合、平泉澄がいうように「只虚心に読み下すときには自ら新院を受けると解せられる。古来上皇説のみ多く伝へられたといふ事実が実に之を証する」と思われます。
また、大宮院との関係についての龍粛の考察は説得的です。

龍粛「弘安の御願について」
http://web.archive.org/web/20150429002156/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-ryou-susumu-kouannogogan.htm

そして、私は「かの異国の御門」の「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」という誓いが「我が御代にしもかかる乱れいで来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」に対応するものと考えますが、「かの異国の御門」に対応する「日本の帝王」は誰かというと、これは「治天の君」である亀山上皇ですね。
この時期の後宇多天皇(十五歳)は亀山上皇の保護と指導の下に、将来は優れた「治天の君」となれるように修行中の「治天の君」見習いのような存在です。
この点は今谷明氏の、

-------
 殉国捨命の祈主が天皇か上皇かなどは、戦後のマルクス主義史家にとってはどうでもよい問題なのであろう。しかしながら、国家的祈願の主催者が上皇か天皇かは、王権や国制史にとっては重大問題である。
 先述のように摂関や時宗も独自の祈祷体系を保持しており、当時はどの権門も自ら願主として各寺社に祈祷を行うことができた。院や天皇の祈祷もその限りでは相対的なものであったことが知られる。
 しかし弘安四年六月、来襲報知直後の各寺社の祈祷は仙洞議定による院宣を以て発令されている事実(『弘安四年日記抄』)から判るように、国家的祈祷体系の頂点に立つのはあくまで国王たる亀山上皇であって、関白兼平や執権時宗は決して願主にはなれないのである。ここに宗廟の大神宮への捨命殉国の祈願が上皇によりなされたことは、この祈祷体系のメカニズムを象徴する意義があるといえよう。
 俗に言われる如く、中世の天皇は神主(司察)として生き残ったのでは決してない。神官司祭を動員し、祈祷を行わせる願主の頂点として、執政上皇の王権が発揮されたのである。

http://web.archive.org/web/20150429140826/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-imatani-junkokuno-gokigan.htm

という見解も参考になります。
旧サイトで検討したように今谷説にはいくつかの疑問がありますが、「国家的祈祷体系の頂点に立つのはあくまで国王たる亀山上皇」という今谷説の基本部分は重要だと思います。
このように『増鏡』作者が想定する読者層との関係を考えて行くと、『増鏡』作者は公卿勅使という制度に詳しい上級レベルの読者に対しては、「まことにやありけん」がどこに掛かっているのか考えてみなさいよ、と謎かけする一方で、通常レベルの読者に対しては、亀山院が立派な人だったという印象を与えたいと思って「弘安の御願」エピソードを書いたのではないかと思われます。
『増鏡』を「只虚心に読み下すときには」、後深草院は幼い頃から身体は虚弱で性格は陰湿そうな感じがするのに対し、亀山院は身体は壮健、性格は剛毅で、実に「日本の帝王」たるにふさわしい人物であるように描かれています。
こうした観点からは、「弘安の御願」エピソードは「巻八 あすか川」の春宮灸治や内裏火災のエピソードと共通のグループに分類できそうです。

「巻八 あすか川」(その18)─春宮の灸治と土御門定実
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/baa3418590f48ba4bdd2fc42981da81f
「巻八 あすか川」(その19)─内裏の火災と円助法親王
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4de832958d81d6cdb165dc7dc4c4f079

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「弘安の御願」論争(その10)─結論

2018-05-16 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月16日(水)11時27分56秒

東大の「国際総合日本学ネットワーク」サイト内のインタビュー記事で、松方冬子氏(史料編纂所准教授)は、

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私の先生の先生は岩生成一という台北帝大にいたオランダ語を読む先生です。平泉澄は戦争中に国史学科、今の日本史学科を牛耳っていた先生で、その先生はドイツに留学して帰ってきてから皇国史観になったらしい。昔は普通の人だったのに、帰ってきておかしくなったと。だから留学なんかするものじゃないのだよ、留学はするのはよくないことだよ、と、私は学生の時に先輩に言われました。先生にも言われたし。

http://gjs.ioc.u-tokyo.ac.jp/ja/interviews/post/20170303_matsukata/

と言われていますが、1895年生まれの平泉澄が24歳の時に書いた「亀山上皇殉国の御祈願」を読むと、平泉が留学前に既に十分変な人だったことは明らかですね。

http://web.archive.org/web/20150702191658/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-hiraizumi-kiyoshi-kameyamajokou-junkokunogokigan.htm

「弘安の御願」論争は平泉が八代国治を批判した後、八代が反論しないまま間もなく死去したので、平泉らの上皇説が勝利したかのような漠然とした印象を残して事実上終息してしまったのですが、歴史学者としてはそれなりに有能な平泉澄の八代説批判には鋭い点があるものの、自説の積極的根拠はというと、

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 この上皇の御性格を以て、弘安四年の未曾有の国難に遭遇せさせ給ふては、必ずや「誠にこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべきよし御手づから書かせ給」ふて、大神宮に祈らせるゝに相違ない。そは個人心理の考察よりして何人も是認すべき所である。かくて予の上皇説はこゝに深き心理的根拠を得たのである。この一項は実に予の上皇説の骨髄である。
 或は言ふかも知れない。右に挙げた「世のために」の御歌は弘安元年のものであつて弘安四年には何等の関係もないと。予は答へる、弘安元年にさへ既にこの御精神でないか、それが国家の運命の危急存亡に迫つた弘安四年にどうして捨命殉国の御祈願とならないで已まうかと。この関係を認めないならば、予の上皇説は著しく其力を失つてくる。或は半崩壊するかも知れない。しかしながら、もしこの必然の理路をしも認めないならば、そは明かに人格の否定であり道徳の瓦解であり、ひいて歴史研究の意義の大半を喪失せしむるものである事を覚悟しなければならない。
-------

といった具合で、「予の上皇説」の「深き心理的根拠」、「予の上皇説の骨髄」はもともと文学的感性に乏しい平泉の硬直的な和歌解釈であり、説得力はありません。
また、『続門葉和歌集』に載る通海の和歌の詞書について、

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 この詞書は年代を明記せず、また御願の趣をはばかって書いていないために甚だ不徹底であるが、「その御祈が命に関係したもの」であり、この歌は「通海が公家の捨命殉国の御祈願を読み奉つた後に於て、自ら感慨に堪へずして私に国運の隆昌と、玉算の長久とを祈り奉つたもの」と解せられるから、もし「この通海の歌の詞書に見ゆる公家の御祈が捨命殉国の御祈願であり、而して公家が上皇を指し得る事となれば、全体を綜合して、これは弘安四年に通海が院宣を奉じて伊勢に参向した折の事と解せられ」るであろうことは、平泉博士が詳細に考察を加えられたところである。

http://web.archive.org/web/20061006194023/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-kojima-shosaku-kouannogogan.htm

と平泉澄に賛成してしまう小島鉦作も、和歌の解釈があまりに硬直的であり、文学的感性に乏しい点は平泉と共通です。
上皇説・天皇説のいずれが正しいのか、更にそもそも平泉澄が「然らば予輩はいかにして上皇説を確立するか。予は茲に三氏の論文と予の研究とによつて得たる命題数個を捉へ来つて、之を一つの論理的系列に配したいと思ふ」と前置きして設定したところの第一命題、即ち「弘安四年蒙古襲来の際に、亀山上皇か後宇多天皇かいづれか御一方が、身を以て国難に殉ぜん事を大神宮へ祈らせられたといふ御逸事」が存在したのか否かの判断材料は『増鏡』以外にありません。
「弘安の御願」論争に現代的意味は乏しいとしても、『増鏡』にしか存在しない記事の信憑性をどのように判断するか、という一般論に引き直せば、これは十分検討に値する問題ですね。
ま、私は、『増鏡』にしか存在しない記事で、その内容が面白いものは基本的に『増鏡』作者の創作と考えるべきだと思っています。
前斎宮エピソードなどの『とはずがたり』との関係をひとまず置くとしても、『増鏡』作者が記事の素材となる史料を勝手に面白く改変した例は沢山あります。
例えば、古来、『増鏡』有数の名場面とされている承久の乱に際しての北条義時・泰時父子の「かしこくも問へるをのこかな」エピソードは、『五代帝王物語』における別の時点での北条泰時・安達義景の「かしこくも問へるをのこかな」エピソードの焼き直しです。

『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9
「巻二 新島守」(その6)─北条泰時
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105

また、『増鏡』は『弁内侍日記』という後深草天皇に仕えた女房の記録を何度か引用しているのですが、幼帝を中心とする親密な関係者しか登場せず、他に参照すべき史料があり得ないようなエピソードを引用するに際して、『増鏡』作者は『弁内侍日記』に存在しない「津の国の葦の下根の乱れわび心も浪にうきてふるかな」という歌を勝手に追加しています。

「巻五 内野の雪」(その9)─弁内侍(藤原信実女)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ccb2bd809899fcfd234c134aab2e658d

こうした『増鏡』作者の基本的態度に照らすと、「弘安四年蒙古襲来の際に、亀山上皇か後宇多天皇かいづれか御一方が、身を以て国難に殉ぜん事を大神宮へ祈らせられたといふ御逸事」の存在自体が疑わしいと考えるべきです。
そして、「弘安の御願」の場合、一番最後に置かれていて、全ての論争参加者が無視している、

-------
かの異国の御門、心うしと思して湯水をも召さず、「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」とぞ誓ひて死に給ひけると聞き侍りし。まことにやありけん。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffdd12bf41310b5a6c470aafa47a4577

という記述の存在が決定的だと思います。
旧サイトで検討した際、私は「まことにやありけん」を、公卿勅使が「経任大納言」であるのに「伊勢の勅使のぼるみち」から歌を送ってきたのが「為氏大納言」となっている点に掛けたものと考えてみました。
しかし、「日本の帝王」による「我が御代にしもかかる乱れいで来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」と「かの異国の帝」による「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」という誓いは、その語彙に共通・類似する部分が多いだけでなく、一国の「帝王」が、かたや「日本」が滅びることを防ぐために自分の命を神に捧げると決意し、かたや「日本」を滅ぼすために「日本の帝王」に生まれ変わることを決意して実際に死んでしまったという具合に、極めて明瞭な対応関係があります。
従って、「まことにやありけん」は、

-------
大神宮へ御願に、「我が御代にしもかかる乱れいで来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」よし御手づから書かせ給ひけるを、大宮院、「いとあるまじき事なり」となほ諫め聞えさせ給ふぞ、ことわりにあはれなる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e6a966f476cd5f30390c4b2ad108ab8

に掛かっていて、「かの異国の帝」の話が「まことにやありけん」なのだから、「日本の帝王」の話も本当なのかどうか、よく考えてごらんなさいね、と読者に謎を掛けているのではないかと思います。

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「弘安の御願」論争(その9)─「弘安の御願」はそもそも存在したのか?

2018-05-15 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月15日(火)14時59分26秒

旧サイトでの私の関心は「弘安の御願」場面における中御門経任の描かれ方に集中しており、この場面を含め、経任は『とはずがたり』と『増鏡』の両書にまたがって奇妙な描かれ方をされているから、これは『とはずがたり』と『増鏡』の作者が同一人物であることの証拠だ、と結論づけて、それで満足していました。

私の考え方(2002年暫定版)「第二章 『増鏡』の作者」
http://web.archive.org/web/20150831071838/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/2002-zantei02.htm

要するに私は八代国治が提起した「弘安の御願」論争の核心部分を回避していたのですが、今回、改めてこの問題を考えてみたいと思います。
そこで、まず基礎の基礎、即ち「公卿勅使」とはそもそも何なのか、というと、『国史大辞典』によれば、

-------
 伊勢神宮に朝廷から差遣される使には恒例祭典の例幣使(四姓使)と皇室・国家・神宮に事があった場合の臨時奉幣使があり、後者のうち格別の大事に際しては三位以上の公卿または参議が充てられた。これを公卿勅使といい、王・中臣・忌部・卜部の四姓も副従した。初見は聖武天皇天平十年(七三八)五月遣唐使の平安を祈って右大臣正三位橘諸兄らを派遣したときで、孝明天皇文久元年(一八六一)五月までに疑わしい二回を含めて百二十五回を数える。勅使発遣の儀や奉幣式はほぼ例幣の儀と同様であるが、勅使は単独参内し、天皇に拝謁、白紙の宣命を拝受、勅語を賜わる。神前にては宣命の奏申は幣物奉納後に行い、のち勅命によって焼却するなどを異にする。宣命の草案は中世以来高辻家より作進されたが、正保四年(一六四七)と天和二年(一六八二)の両度は宸作。宸筆宣命は一条天皇寛弘二年(一〇〇五)十二月を初見として明治まで七十九回に及んでいる。→伊勢例幣使(いせれいへいし)
【参考文献『江家次第』一二(『(新訂増補)故実叢書』二、『治承元年公卿勅使記』、『正応六年七月十三日公卿勅使御参宮次第』、『二所太神宮例文』、神宮司庁編『神宮要綱』】(鈴木義一)
-------

というものです。
また、龍粛の「弘安の御願について」「六.公卿勅使」によれば、

-------
 弘安四年閏七月ニ日、天皇が親しく神祗官で公卿勅使経任を神宮に差遣せられたことは、諸記録に見えていて一点の疑いはないのであるが、当時、経任が捧げた宣命が伝わらず、且つその宣命の成立した曲折も明らかでなく、ただ発遣の儀式ばかりが勘仲記に載せられているに過ぎないので、その宣命に如何なる意味があったかは、全く不明である。
 伊勢公卿勅使の捧げる願文は、いわゆる宸筆宣命である。これは内記が起草して宸筆をもって清書されることが通例であるが、また勅草の場合もあって、その際は起草も清書もともに宸筆である。弘安の場合にはそのいずれであったかは徴すべくもないが、この後、正応六年に同じく蒙古来襲に対する御祈りとして、伊勢公卿勅使に籐原為兼が任命されたことがある。【中略】弘安のおりでは僅かに勘仲記ばかりで、しかも宣命の成立についてはただ次の数字に現わされているに過ぎない。
 朝間有御浴殿事、宸筆宣命御清書程也、勅草御侍讀無祗候之儀
〔朝の間に御浴殿の事あり、宸筆の宣命御清書の程なり、勅草に御侍読は祗侯の儀なし、〕
 この文章には多少解釈の困難なところがあるけれど、「勅草御侍讀無祗候之儀」とあるより見れば、この宣命は勅草であり、且つその時には侍読が祗候しなかったのである。もし増鏡の御願がこの宣命であったならば、大宮院との関係がここに見えそうにも思われる。また公卿勅使の捧げるものは宣命であるが、宣命の外に願文と呼ばれる形式のものもあって、増鏡にいう御願は宣命であるか願文であるかは明らかでないが、もし願文の形式のものとすれば、経任の捧げたものとは別のものとなる。

http://web.archive.org/web/20150429140838/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-ryou-susumu-kouannogogan-2.htm

とのことです。
まあ、弘安四年の場合、『勘仲記』の僅かな記述以外に史料がないので詳しい事情は分かりませんが、公卿勅使は古くからのしきたりで厳格に手順が定められている制度であって、宣命ないし願文の内容は、仮に十五歳の後宇多天皇に何らかの特別な意向があったとしても、天皇個人の判断で自由に作文できるようなものではなさそうです。
また、「弘安の御願」の内容については、八代国治が『弘安四年日記抄』の「希代之御願」という表現と密接に関連のあるものと主張したのですが、龍粛が「希代」は単なる形容詞であると反論した後、小島鉦作は、

-------
 前掲の『日記抄』の文において「希代之御願」という語は、これだけで独立しては解せられない。「公卿勅使有臨幸被発遣之、希代之御願也」と連続して一つの文を構成するものである。しかしてこれは神祗官に臨幸あらせられて、御願を奉告せしむべき公卿勅使を発遣せられたという、勅使発遣の形式、換言すれば、その儀式の次第が希代であったという意味であって、決して御願の主旨を暗示するものではない。すなわち希代は儀式にかかわるもので、御願にかかわるものではないのである。故に『一代要記』にはこのことを記して「自官庁行幸于神祗官、此儀希代之例也」云々といっているのである。
 先規を重んじ先例に則ることは、当時の公家の儀式の原則であって、いやしくも新儀をひらき、あるいは異例によろうならば、宮廷の公卿等がこぞって特筆大書するのは、一般の風習であって、多くの記録に明証がある。この場合は『日記抄』七月二日の条にも記されているごとく、延久元年及び建久六年の先例によって、特に神祗官に行幸されて、公卿勅使を発遣せられたことを指すものに外ならない。

http://web.archive.org/web/20061006194023/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-kojima-shosaku-kouannogogan.htm

と主張し、私はこれは正しいと思います。
要するに「希代」は宣命ないし願文の内容とは全く関係がないということになります。
さて、上記のように公卿勅使は古くからのしきたりに縛られた非常に厳格な制度ですから、仮に亀山上皇説に立ったとしても、上皇が公卿勅使に自己独自の願文を持たせて、ついでにこれも神宮に奉納してくれ、などと頼める性格のものではないことは明らかです。
そこで、上皇説の場合、公卿勅使とは別個独立に上皇が使者を送ったと考えることになります。
この点、栢原昌三が紹介した『通海参詣記』という史料があって、醍醐寺の通海という僧侶が院宣を賜って院使となったことが記されています。
この『通海参詣記』については八代が軽率に偽書説を唱えてしまいましたが、平泉澄と小島鉦作が反駁し、この論点に限っては八代の敗北は明らかです。
しかし、通海という僧侶が院宣を賜って院使となったことが正しいとしても、通海が賜った願文の内容が『増鏡』の「弘安の御願」と結びつくかは別問題です。
平泉澄は『続門葉和歌集』に、

-------
「公家の御祈の為に太神宮へ詣うでゝ、宸筆の御告文を読み奉るとて、伊勢の国は常世の浪の敷浪寄する国なり、人の命も長かるべしと御託宣ありける事を思ひ出でゝ、
 やそちまで祈る心は伊勢の海や常世の浪の数にまかせて、」

http://web.archive.org/web/20150702191658/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-hiraizumi-kiyoshi-kameyamajokou-junkokunogokigan.htm

という通海の歌があることから、この歌の詞書の「命」と「弘安の御願」の「誠にこの日本のそこなはるべくは、御命をめすべきよし」が結びつくと主張するのですが、まあ、牽強付会としか言いようがありません。
また、小島鉦作は『通海参詣記』の緻密な、あるいは緻密すぎる読解から、亀山院は通海の他に「院公卿勅使」も発遣していたとして、通海は「院公卿勅使に対して、内法より御祈を修すべき御使として大神宮に参向したもの」とし、結局、後宇多天皇の発遣した公卿勅使(中御門経任)の他に、亀山院が「院公卿勅使」を発遣し、更に通海も発遣して、結局、この時期の伊勢への朝廷からの使者は三本立てだった、という説を唱えています。
まあ、この説は使者の人数の点ではそれなりに論理的なのですが、肝心の願文の内容については論理的な説明は一切なく、安易に平泉澄に追随しており、これまた牽強付会と言わざるをえません。
従って『通海参詣記』が偽書ではないとしても、また、伊勢神宮への使者が何人であろうとも、「弘安の御願」の内容とは結びつきません。
結局、「弘安の御願」の内容については『弘安四年日記抄』・『通海参詣記』・『続門葉和歌集』いずれも参考にならず、『増鏡』以外に史料は存在しないと言わざるをえません。
ということで、「弘安の御願」の存在それ自体も、唯一の史料である『増鏡』を信頼できるかどうかにかかってきてしまいます。
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「弘安の御願」論争(その8)─「勅として…」の歌の作者

2018-05-14 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月14日(月)13時30分15秒

公卿勅使が「経任大納言」なのに「伊勢の勅使のぼるみち」から歌を送ってきたのが「為氏大納言」だ、というのは『増鏡』を通読した人なら誰でも不審に思う奇妙な記述ですが、この記述が何かを示唆しているのではないかと疑って、改めてこの時の公卿勅使について諸記録を調べてみると、公卿勅使に選ばれたのは間違いなく中御門経任であって、二条為氏ではありません。
ただ、公卿勅使の中御門経任が伊勢に向かって出発したのは弘安四年(1281)閏七月二日です。
ところが、「七月一日(閏脱カ)おびたゞしき大風吹きて、異国の船六万艘、兵のりて筑紫へよりたる、みな吹き破られぬれば、あるは水にしづみ、おのづから残れるもなくなく本国へ帰りにけり」ということで、中御門経任が伊勢に出発する前日に、既に客観的には決着が付いてしまっていました。
もちろん情報伝達のタイムラグがあって、大風により敵軍が相当な打撃を受けたという鎮西からの知らせは閏七月九日に最初に京都に到達し、ついで十一日に続報があって大勝確実となり、諸人が大喜びしたのだそうです(『弘安四年日記抄』)。
他方、中御門経任は初報と続報の間、十日という微妙な時点で京都に戻って来ます(『勘仲記』)。
とすると、戦勝に興奮冷めやらぬ期間はともかくとして、少し時間が経過して諸人が落ち着きを取り戻した後になると、中御門経任が公卿勅使として果たした役割について若干の疑問を抱く人も出てきたはずです。
なにより中御門経任自身が、古くからの公卿勅使の慣例に従って天皇に拝謁して宣命を拝受し、勅語を賜り、諸人の期待を背負って勇躍伊勢に向い、神前で宣命を奏申する大役を恙なく果たした後、京都に戻ってみたら、既に自分が出発する前日に勝負が決まっていたというニュースを知って、ハラホロヒレハレという脱力感を味わったかもしれません。
まあ、中御門経任には気の毒ですが、結果的に些かコミカルな展開になったことは否めません。
そうだとすると、前回投稿で書いたような事情でもともと中御門経任に好意を持っていなかった『増鏡』作者は、「勅としていのるしるしの神風によせくる浪ぞかつくだけつる」という歌の作者を、公卿勅使でも何でもなかった二条為氏に代えることによって、経任ってホントに役立たずだったよね、経任が行く前に「神風」は吹いてしまっていたのだからね、というシニカルな評価を下したのではないかと私は考えます。
また、そもそもこの歌は『増鏡』以外にどこにも記録されていないので、私はこの歌の作者は中御門経任でも二条為氏でもなく、『増鏡』作者が勝手に作った歌だろうと考えます。
なお、中御門経任が公卿勅使として出発する前に既に「神風」が吹いてしまっていることは「弘安の御願」論争に参加した全ての人が分かっていたはずですが、誰も触れていません。
唯一、「愛国百人一首」の関係で「弘安の御願」論争の周辺にいた川田順のみが、

-------
○勘仲記によれば中御門經任等公卿勅使は弘安四年閏七月二日京都を出發し、同十一日に帰京せられたのであつた。すなはち勅使發向の前日すでに豪古勢は神風によつて覆滅してゐたのであるが、當時の通信方法迅速ならざりし為め朝廷には二日か三日か、しばらくの間は大捷利を御承知なかつたのである、公卿勅使も伊勢への旅行の往還いづれかで初めて聞知されたものなることは、明らかだ。依而、為氏の一首も「のぼる道より」帰洛の途中よりとしてある。

http://web.archive.org/web/20151001010914/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-kawata-jun-aikoku-hyakunin-isshu.htm

と書いていますが、まあ、誰でも気づくことであって、論争参加者は議論の格調が下がるのを避けるために敢えて触れなかったのだろうと思います。
細かいことを言うと、川田順の「當時の通信方法迅速ならざりし為め朝廷には二日か三日か、しばらくの間は大捷利を御承知なかつた」という記述のうち、「二日か三日か」は性急に過ぎて、閏七月一日の大風の翌二日に使者が鎮西を出たとしても、京都への到着は九日ですから一週間かかっていますね。
また、更に細かい話ですが、公卿勅使の中御門経任が帰京したのは十一日ではなく十日です。
『勘仲記』の閏七月十一日条に「晴、公卿勅使昨夕帰路、今日参内、殿下御参内、仙洞評定」とあり、経任は十日に帰って十一日に参内しています。

さて、以上の私見は旧サイトでも概ね同内容で書いていたのですが、論争の中心である「弘安の御願」の主体が誰か、後宇多天皇なのか亀山上皇なのかについては特に検討していませんでした。
この点は今回改めて考えたことがありますので、次の投稿で書きたいと思います。

私の考え方(2002年暫定版)「第二章 『増鏡』の作者」
http://web.archive.org/web/20150831071838/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/2002-zantei02.htm
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「弘安の御願」論争(その7)─老尼が登場する意味

2018-05-13 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月13日(日)13時26分3秒

それでは『とはずがたり』と『増鏡』の作者を同一人物、即ち後深草院二条と考える私の立場から「弘安の御願」の場面を検討したいと思います。
後深草院二条(1258-?)が亀山院(1249-1305)と直接の面識があることは『とはずがたり』に詳しく、『増鏡』の「持明院殿蹴鞠」の場面でも「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」として登場する後深草院二条と亀山院の交流が『増鏡』より少し上品に描かれています。

-------
御かはらけなど良き程の後、春宮おはしまして、かかりの下にみな立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過ぐる程に、まらうどの院のぼり給ひて、御したうづなど直さるる程に、女房別当の君、また上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七つ、紅のうち衣、山吹のうはぎ、赤色の唐衣、すずしの袴にて、銀の御杯、柳箱にすゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなどのたまふ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9da95b5daaaca1845c2e80637a4ee1d1

また、後深草院二条は大宮院(1225-92)とも直接の面識があり、『とはずがたり』の前斎宮エピソードでは、

-------
「まことにいかが御覽じはなち候ふべき。宮仕ひはまた、しなれたる人こそしばしも候はぬは、たよりなきことにてこそ」など申させ給ひて、「何ごとも心おかず、われにこそ」など情あるさまに承るも、いつまで草のとのみおぼゆ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1676461dba8de5ff30afeac5e7b9326a

という具合に、三十三歳上の大宮院が暖かく声をかけてくれた言葉に、十七歳の後深草院二条は「いつまで草の」などとシニカルな感想を述べたりしています。
更に中御門経任(1233-97)は、

-------
 さるほどに、四月の祭の御桟敷の事、兵部卿用意して、両院御幸なすなどひしめくよしも、耳のよそに伝へ聞きしほどに、同じ四月の頃にや、内・春宮の御元服に、大納言の年のたけたるがいるべきに、前官わろしとて、あまりの奉公の忠のよしにや、善勝寺が大納言を、一日借りわたして参るべきよし申す。神妙なりとて、参りて振舞ひまゐりて、返しつけらるべきよしにてありつるが、さにてはなくて、ひきちがへ経任になされぬ。さるほどに善勝寺の大納言、故なくはがれぬること、さながら父の大納言がしごとやと思ひて、深く恨む。当腹隆良の中将に、宰相を申すころなれば、この大納言を参らせ上げて、われを超越せさせんとすると思ひて、同宿も詮なしとて、北の方が父九条中納言家に、籠居しぬるよしを聞く。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25a8703d016d35481d7f649f76bf941c

という具合に、耄碌した四条隆親(1203-79)を使嗾して四条隆顕(1243-?)の大納言の職を奪い、ちゃっかりその後釜を占めた悪辣な陰謀家として『とはずがたり』に登場します。
従って、後深草院二条が『増鏡』の作者であれば、『増鏡』作者は弘安の役当時の公家社会の動向を自らの経験として知っているのみならず、「弘安の御願」場面の主要登場人物も個人的に熟知していることになります。
そうであれば、この場面において、『増鏡』作者に記憶の混乱だとか、まして「経任」をうっかり「為氏」と書き間違えたなどというケアレスミスは一切なく、『増鏡』作者は、その曖昧な記述に読者が混乱するであろうことを承知の上で、完全に意図的にこの場面を構成していることになります。
そして、『増鏡』作者は決して自己の意図を隠しているのではなく、むしろ読者に非常に親切なヒントを与えて、私がこの場面で本当に言いたいことを想像してごらんなさいよ、と謎かけをして楽しんでいるのではないかと思います。
そのヒントがこの場面の最後に出てくる、

-------
かの異国の御門、心うしと思して湯水をも召さず、「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」とぞ誓ひて死に給ひけると聞き侍りし。まことにやありけん。
-------

という一文ですね。
「弘安の御願」論争の参加者は全員がこの一文を無視していますが、確かに「かの異国の御門」、即ち元の皇帝フビライ(1215-94)が「日本の帝王」に生まれ変わって日本を滅ぼす身となりたいと願って自ら食事を断ち、死んでしまいました、などという話はあまりに荒唐無稽、あまりに莫迦莫迦しく、真面目に受け取ることはできません。
「まことにやありけん」(本当なのでしょうか)と聞かれたら、「ホントのはずがないでしょう」としか答えようがありません。
では何故、この奇妙なエピソードが「まことにやありけん」という老尼の感想とともにここに置かれているのか。
そもそも『増鏡』の「序」に登場する語り手の老尼が現われる場面は、「巻十一 さしぐし」で「久我大納言雅忠の女」が「三条」という名前で登場する場面を始めとして、非常に奇妙な記述が多く、私はこれを『増鏡』作者が、表面的な記述の背後にある何かを読者に伝えたいと考えていることのサインだと思っています。

『増鏡』序
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3fa1e30b4a776483854c53ea7e6f9aca
『増鏡』序─補遺
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9323efa6ef04bb9fc49ec314813ddc23

「弘安の御願」の場面でも、『増鏡』作者は形式的には「かの異国の御門」のエピソードのみを対象としている「まことにやありけん」を、別の話題にも掛けているように思います。
その第一は公卿勅使となったのは「経任大納言」であるのに、「伊勢の勅使のぼるみち」から歌を送ってきたのが「為氏大納言」となっている点です。
果たしてこれは「まことにやありけん」。

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「弘安の御願」論争(その6)─「まことにやありけん」

2018-05-12 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月12日(土)15時07分38秒

長々と「弘安の御願」論争を紹介してきましたが、発端の八代国治から龍粛・栢原昌三・平泉澄・小島鉦作、そして辻善之助を含む「愛国百人一首」周辺の学者たちを経て、戦後では恐らく唯一の参加者である今谷明氏まで、全ての論争関与者が『増鏡』にしか存在しない記事に基づき、その曖昧模糊たる土台の上に議論を積み重ねてきたことは理解していただけたと思います。
さて、私はこの論争の土台である『増鏡』の記事自体を根本的に疑うべきであろうと考えます。
『増鏡』は後鳥羽院の物語と後醍醐天皇の物語を二つの大きな山場とし、その中間部分を加えて全体が大きく三つの部分から構成されていますが、中間部分は後嵯峨院の物語と、その息子である後深草院・亀山院兄弟の物語の二つに分けることができます。
そして第一部(後鳥羽院の物語)と第三部(後醍醐天皇の物語)は概ねドラマチックで格調が高く、第二部も前半(後嵯峨院の物語)は、現代人から見れば若干退屈な場面もありますが、それなりに優美な格調の高い物語といえます。
しかし、第二部の後半(後深草院・亀山院兄弟の物語)には「巻九 草枕」の前斎宮エピソードを始め夥しい数の「愛欲エピソード」が登場し、その多くは『とはずがたり』を引用しています。
しかも『増鏡』が一方的に『とはずがたり』を資料として引用するのではなく、『とはずがたり』のエピソードに『増鏡』独自のエピソードを付加するなど、両者は複雑に交錯しています。
加えて、とりわけ元寇の時期は『とはずがたり』の時間の流れが史実とずれている上に、『増鏡』と『とはずがたり』の時間の流れも数年単位で大幅にずれており、『増鏡』に描かれている場面が何時の出来事なのか確定できない例が多数あります。
このように『増鏡』の「弘安の御願」の場面は、『増鏡』の中でも特に史実との整合性が取りにくい部分に置かれていることに、まず注意する必要があります。
ついで、学者たちが「弘安の御願」論争で論じている場面の前後にも注目する必要があります。
論争の発端となった八代論文では、

-------
弘安も四年になりぬ、夏頃後嵯峨院の姫宮かくれ給ぬ、○中略 その頃蒙古起るとかやいひて世中さはぎたちぬ、いろいろさまざまに恐しう聞ゆれば、本院新院はあづまへ御下あるべし、内、春宮は、京にわたらせ給ひて、東の武士ども上り候べしなど沙汰ありて、山々寺々御いのりかずしらず、伊勢の勅使に経任大納言まいる、新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて、真読の大般若経供養せらる、大神宮へ御願に、我御代にしもかゝる乱出できて、誠にこの日本のそこなはるべくは、御命をめすべきよし、御手づからかゝせ給ひける、大宮院いとあさましき事なりと、猶聞えさせ給ふぞことはりにあはれなる、されども七月一日(閏脱カ)おびたゞしき大風吹きて、異国の船六万艘、兵のりて筑紫へよりたる、みな吹き破られぬれば、あるは水にしづみ、おのづから残れるもなくなく本国へ帰りにけり、○中略 さて為氏の大納言、伊勢の勅使にてのぼる道より申しおくりける、
 勅としていのるしるしの神風によせくる浪ぞかつくだけつる
かくしづまりぬれば、京にもあづまにも、御心どもおちゐてめでたさかぎりなし、

http://web.archive.org/web/20150429140843/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-yashiro-kuniji-hottanno-ronbun.htm

という具合に、『増鏡』の引用に際して「中略」としている箇所が二つありますが、最初の「中略」には、

-------
後堀河院の御むすめにて、神仙門院と聞えし女院の御腹なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり。御かたちもたぐひなくうつくしうおはしまして、「人の国より女の本をたづねんには、この宮の似絵をやらん」などぞ、父みかども仰せられける。御乳母隆行の家におはしましける程に、御乳母子隆康、忍びて参りける故に、あさましき御事さへいできて、これも御うみながし、にはかに失せさせ給ひにけるとぞ聞えし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cff81b83b5579beabef9fe74b37293da

という四条隆行・隆康父子が関係する「愛欲エピソード」が存在しています。
また、二番目の「中略」には、

-------
石清水の社にて大般若供養のいみじかりける刻限に、晴れたる空に黒雲一村にはかに見えてたなびく。かの雲の中より白き羽にてはげたる鏑矢の大きなる、西をさして飛び出でて、鳴る音おびたたしかりければ、かしこには、大風の吹き来ると兵の耳には聞えて、浪荒く立ち、海の上あさましくなりて、みな沈みにけるとぞ。なほ我が国に神のおはします事あらたに侍りけるにこそ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64aa1ca44847b09c6082f8bb49f2bf37

という石清水八幡の霊験譚が存在しています。
八代は、前者については「弘安の御願」に全く関係しない上に著しく品位を欠くものとして、後者については宗教的権威への祈願として「弘安の御願」と共通するものの、その内容があまりに荒唐無稽であるために引用を避けたものと思われますが、八代は更に、元寇に関係する後続の記述も省略しています。
即ち、八代が引用した部分の直後には、

-------
かの異国の御門、心うしと思して湯水をも召さず、「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」とぞ誓ひて死に給ひけると聞き侍りし。まことにやありけん。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64aa1ca44847b09c6082f8bb49f2bf37

という記述がありますが、八代はこれを全く無視しています。
八代としては、この部分は「弘安の御願」とは関係なく、また内容も荒唐無稽であるとして省略したものと思われます。
しかし、「日本の帝王」による「我御代にしもかゝる乱出できて、誠にこの日本のそこなはるべくは、御命をめすべきよし」と「かの異国の帝」による「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」という誓いは、その語彙に共通・類似する部分が多いだけでなく、一国の「帝王」が、かたや「日本」が滅びることを防ぐために自分の命を神に捧げると決意し、かたや「日本」を滅ぼすために「日本の帝王」に生まれ変わることを決意して実際に死んでしまったという具合に、極めて明瞭な対応関係があります。
そして、後者には「まことにやありけん」という感想が付されているのですが、これは誰が語っているかというと、『増鏡』の冒頭に登場し、『増鏡』本文にも時々顔を出してくる語り手の老尼です。

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「弘安の御願」論争(その5)

2018-05-11 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月11日(金)11時39分34秒

「弘安の御願」論争については川添昭二氏のまとめ(『蒙古襲来研究史論』、雄山閣、1977)を途中まで紹介しましたが、これは旧サイトに全文載せています。

川添昭二「『弘安の御願』をめぐる論争」
http://web.archive.org/web/20120929020305/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-kawazoe-shoji-moukoshurai-kenkyushiron.htm

繰り返しになりますが、大正七年(1918)に八代国治が後宇多天皇説を提唱すると、直ぐに龍粛が反論します。
『増鏡』の記事に照らし、御願の主体は大宮院と格別に親しい存在でなければならないが、それは亀山院だ、というのが龍の反論の中心です。
また龍粛は八代国治が自説の根拠とした『弘安四年日記抄』の「希代(之御願)」も単なる形容詞であって、格別に深い意味がある訳ではないと主張します。

龍粛「弘安の御願について」(前半)(後半)
http://web.archive.org/web/20150429002156/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-ryou-susumu-kouannogogan.htm
http://web.archive.org/web/20150429140838/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-ryou-susumu-kouannogogan-2.htm

ついで栢原昌三が亀山上皇説に有利な『通海参詣記』という史料を紹介します。

栢原昌三「弘安の御祈願と通海権僧正」
http://web.archive.org/web/20110728113121/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-kayahara-shozo-kouanno-gokigan.htm

この二人の批判に接した八代は、大正八年(1919)に再び自説の正しさを論証するのですが、率直に言って龍粛への反論は説得力がなく、また、栢原昌三が提示した『通海参詣記』の法楽社の記事を不用意に疑ったため、平泉澄に介入の材料を与えてしまいます。

八代国治「弘安の御祈願に就て」
http://web.archive.org/web/20110728110037/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-yashiro-kuniji-hanron.htm

平泉澄は「八代、龍、栢原三氏の傑れた研究にかなり満足してゐる予輩は、三氏によつて提供せられた史料以外に別に新史料を漁らうともせず、それどころか三氏提供の史料も多くは三氏の論文で拝見するに止めて、一々其原本を査検するに至らなかつた」などと偉そうにしゃしゃり出てきて八代説を批判するのですが、『通海参詣記』偽書説への反論を除き、その批判の大半は的外れです。

平泉澄「亀山上皇殉国の御祈願」
http://web.archive.org/web/20150702191658/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-hiraizumi-kiyoshi-kameyamajokou-junkokunogokigan.htm

八代は平泉に再々反論はしないまま大正十三年(1924)に死んでしまったのですが、その後、昭和三年(1928)に小島鉦作の「通海権僧正事蹟考」が出て、八代の『通海参詣記』偽書説は完全に否定されます。
ただ、『増鏡』の曖昧な土台の上に緻密な形式論理を重ねた小島鉦作は、後宇多天皇の公卿勅使に加えて亀山院が院公卿勅使として二条為氏を発遣し、更に通海権僧正も発遣、都合三人が伊勢神宮に発遣されたと結論付け、議論はずいぶん複雑なものになってしまいます。

小島鉦作 「大神宮法楽寺及び大神宮法楽舎の研究-権僧正通海の事蹟を通じての考察-」
http://web.archive.org/web/20061006194023/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-kojima-shosaku-kouannogogan.htm

ところで、以上の論争とは別に、昭和十七年(1242)に「愛国百人一首」なるものが企画され、その一首として『増鏡』の「勅として祈るしるしの神風に寄せくる浪はかつ砕けつつ」が採用されます。

愛国百人一首
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%9B%BD%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96

ただ、『増鏡』の記述の曖昧さは関係者を悩ませ、「日本文學報國會」の委嘱によって選定委員の一人となった川田順は、

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 勅使は經任大納言と書き、次に、何のことわりもなしに為氏の大納言伊勢の勅使にて云々とあるゆゑ、この為氏は經任の誤りにあらずやと、筆者なども従來迷つてゐたのであつた。それで今囘「百首」選定の節、皆で辻博士の説を質したところ、後宇多天皇の勅使として經任、亀山上皇の御使として為氏が遣はされたといふ史實を教へられ、疑問は氷釋した。(筆者はさう了解したが、聴き誤りであつたならば、辻博士にすまない。)とにかく増鏡の叙述ぶりは不精確である。

http://web.archive.org/web/20151001010914/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-kawata-jun-aikoku-hyakunin-isshu.htm

などと悩んだそうです。
さて、戦後になると、「弘安の御願」の主体が誰であるか、などという問題は歴史学者の関心から離れてしまうのですが、今谷明はあっさりと亀山上皇説に立った上で、

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 殉国捨命の祈主が天皇か上皇かなどは、戦後のマルクス主義史家にとってはどうでもよい問題なのであろう。しかしながら、国家的祈願の主催者が上皇か天皇かは、王権や国制史にとっては重大問題である。【中略】
 しかし弘安四年六月、来襲報知直後の各寺社の祈祷は仙洞議定による院宣を以て発令されている事実(『弘安四年日記抄』)から判るように、国家的祈祷体系の頂点に立つのはあくまで国王たる亀山上皇であって、関白兼平や執権時宗は決して願主にはなれないのである。ここに宗廟の大神宮への捨命殉国の祈願が上皇によりなされたことは、この祈祷体系のメカニズムを象徴する意義があるといえよう。
 俗に言われる如く、中世の天皇は神主(司察)として生き残ったのでは決してない。神官司祭を動員し、祈祷を行わせる願主の頂点として、執政上皇の王権が発揮されたのである。

http://web.archive.org/web/20150429140826/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-imatani-junkokuno-gokigan.htm

などと主張しています。
しかし、今谷説も『増鏡』の曖昧な土台の上に独自の論理を積み重ねたもので、戦前の議論と「砂上の楼閣」的な虚弱さを共有しています。
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