学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

桃崎有一郎氏に捧げる詩と歌

2020-08-30 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月30日(日)10時54分53秒

桃崎氏は1978年生まれだそうですが、前回投稿で引用した部分の中で、

-------
身近な例でたとえよう。携帯電話も、携帯音楽プレーヤーも、液晶タッチパネルも、前からあった。しかし、Apple という会社が iPod という携帯音楽プレーヤーに大画面の液晶タッチパネルを付け、携帯電話を付けたら iPhone になった。それはスマートフォンという新ジャンルを生み、携帯電話の主流になった。それを大型化したら iPad になり、タブレットPCという新ジャンルを生んだ。個別の機能はどれもあったのに、あの組み合わせで特別な価値が生まれ、人類の生活が変わり、それなしの生活は考えられなくなった。
-------

といった記述は世代の違いを感じさせますね。
1960年生まれの私は、まだ携帯電話が存在していなかった「古代」の出来事も記憶していて、あれは大学に入学して間もない頃だったか、姉とJR、じゃなくて国鉄の山手線・大塚駅で待ち合わせをしていたところ、姉が大幅に遅刻し、私は事情も分からぬまま、結局二時間待ち続けたことがありました。
当時、携帯電話がありさえすれば、ササっと連絡を取り合って、待ち時間を無駄にするようなことはなかったですね。
携帯電話も出始めの頃にはトランシーバー(死語?)のように巨大でしたが、あっという間に小型化して価格も安くなり、桃崎氏の世代にとっては、携帯電話は「前からあった」当たり前の存在なのでしょうね。

携帯電話
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%90%BA%E5%B8%AF%E9%9B%BB%E8%A9%B1

「古代」を知る私の感覚からすると、携帯電話・携帯音楽プレーヤー・液晶タッチパネルこそが「人類の生活が変わり、それなしの生活は考えられなくなった」革新的な新技術であり、iPod・iPhone・iPad などは、「新ジャンル」と呼ぶにはあまりに大袈裟な、一段下のレベルの応用商品のように思われるのですが、このあたりの感覚はなかなか共有が難しそうですね。
また、私にとっては「Apple という会社」はあくまで革新的なパソコンの会社です。
パソコンが一般消費者の手に届くようになった頃、マックはウィンドウズパソコンより遥かに洗練されていて、私は友人・知人にマックの素晴らしさを吹聴する自主的なマック伝道師だったのですが、そんな私もいつしか背教者となり、ウィンドウズ派に改宗してしまいました。
さて、『武士の起源を解きあかす』を無理やり十七文字で要約すると、

 挑発と 発情の末 武士生まれ

てな感じですかね。
桃崎氏は語彙が豊富で、大変な文章家だとは思いますが、比喩についてはもう少し勉強された方が良いのではないかと思います。
「東京出身の若手研究者が京都の大学に就職するのに、かなり似ている」は、何度読んでも変ですね。

 誰一人 分からぬ比喩が 得意技

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03aca1d14f09d2480c211382ce26db93

また、"創発"云々の箇所については、各務支考の「歌書よりも軍書に悲し吉野山」にならって、

 理論よりも 例えに難あり 桃崎山

という感想を抱きました。

「吉野の歴史と文化」(吉野町公式サイト)
https://www.town.yoshino.nara.jp/kanko-event/meisho-kanko/rekishi-bunka/

「創発」と「マッシュアップ」については、結局、桃崎氏自身が混同していて、読者には訳の分からぬ説明になってしまっているのではないでしょうか。

 てふてふが一匹 創発とマッシュアップの間の海峡を 渡つて行つた

 マッシュ・ミシュ ムッシュ・メッシュで モッシュして
  アップアップの ムッシュ桃崎

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/05e989045d282d79e897da8e3c60051a

更に駄句を二つばかり。

 iPod iPhone・あいみょん iPad

 無国籍 創発料理 桃崎亭
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「創発」と「マッシュアップ」の関係

2020-08-28 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月28日(金)13時08分43秒

私も別に桃崎氏の著作のアラ探しをしたい訳ではなく、豊富な新知識が得られるからこそ同氏の著書を次々と購入しているのですが、それにしても説明の仕方がもう少し何とかならんのかな、と思う部分が多いですね。
例えば、『武士の起源を解きあかす 混血する古代、創発される中世』(ちくま新書、2018)の副題に含まれる「創発」は目新しい表現ですが、この表現に直接関係する「第一〇章 武士は統合する権力、仲裁する権力」の冒頭部分は難解ですね。(p269以下)

-------
武士は古代の部品のマッシュアップ

 以上で、武士成立の経緯とメカニズムには、最低限の見通しがついた。
 国造の時代から何世紀もかけて形成された、古代の郡司富豪層の地方社会に対する支配的な地位と、彼らの濃密なネットワークに、血筋だけ貴い王臣子孫が飛び込み、血統的に結合して、互いに不足するもの(競合者を出し抜くための貴さと地方支配の力)を補い合った。そして秀郷流藤原氏は蝦夷と密着した生活から、源平両氏は伝統的な武人輩出氏族(将種)の血を女系から得て、傑出した武人の資質を獲得した。武士とは、こうして【貴姓の王臣子孫×卑姓の伝統的現地豪族×準貴姓の伝統的武人輩出氏族(か蝦夷)】の融合が、主に婚姻関係に媒介されて果たされた成果だ。武士は複合的存在なのである。
 こうして見ると、武士の本質は融合(統合)にある、といえそうだ。武士は"武装した有力農民""衛府の武人の継承者"など、一つの集団が発展した産物ではない。違う道を歩むはずだった複数の異質な集団が融合して、どの道とも異なる、新たな発展の道を見出したのが武士だ。
 武士を生み出した右の三つの要素のうち、極めて貴い王孫子孫の出現は平安初期まで遡るし、伝統的な現地豪族と武人輩出氏族は倭国の時代まで遡る。つまり、どれ一つ取っても、単体では中世的でない古代の所産だ。しかし、それらが融合して生まれた武士は、古代のどこにも存在しなかった中世的存在なのである。
-------

ここまでは非常に分かりやすい説明です。
しかし、問題はその次です。(p270以下)

-------
 このように、既存の要素がいくつか結合して、どの要素にもなかった新たな性質が生まれることを"創発"という。武士とは"古代の要素から創発された中世"なのである。
 身近な例でたとえよう。携帯電話も、携帯音楽プレーヤーも、液晶タッチパネルも、前からあった。しかし、Apple という会社が iPod という携帯音楽プレーヤーに大画面の液晶タッチパネルを付け、携帯電話を付けたら iPhone になった。それはスマートフォンという新ジャンルを生み、携帯電話の主流になった。それを大型化したら iPad になり、タブレットPCという新ジャンルを生んだ。個別の機能はどれもあったのに、あの組み合わせで特別な価値が生まれ、人類の生活が変わり、それなしの生活は考えられなくなった。このように、既存の完成品やサービスを組み合わせたり組み替えて、新しい何かを生み出す手法を"マッシュアップ"という。
 武士はそれと似ている。古代の技術と部品のマッシュアップで、武士という新ジャンルが生まれ、日本人の生活が変わり、一九世紀まで武士なしの社会など考えられなくなった。
-------

うーむ。
この文章を読んだ人の多くは「創発」と「マッシュアップ」がどう繋がるのか悩んで、多くの人は「武士は古代の部品のマッシュアップ」と「武士とは"古代の要素から創発された中世"」が同じ意味だろうから、従って「創発」=「マッシュアップ」と思うのではないですかね。
しかし、一般的な用法では「創発」と「マッシュアップ」はずいぶん異なる概念ですね。
「マッシュアップ」はIT業界で使われることが多いようですが、「コトバンク」を見ると、

-------
【ASCII.jpデジタル用語辞典】
もともとは2つ以上の曲をリミックスして1つに合成するという意味の音楽用語。転じて、APIが公開されているWebサービスを別のサービスと組み合わせて新しいサービスを生み出す手法のことをいう。GoogleマップのAPIが公開されたことによって、それを利用したマッシュアップ・サービスが次々に登場して話題を集めた。


などとあって、まだまだ熟した概念ではなさそうですね。
「創発(Emergence)」はもう少し学問的な概念で、ウィキペディアでは、

-------
創発(そうはつ、英語:emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。


などとありますが、これもまだ新しい概念で、生物学・情報工学、更には組織論などの分野ごとに異なった用法で用いられているようです。
ま、それはともかく、単なる手法である「マッシュアップ」と「創発」は全然異なる概念であることを確認してから桃崎氏の文章を読み直すと、何を言っているのか全く理解できません。
まあ、それでも「創発」の方は桃崎氏の武士論に応用できそうな可能性は感じますが、単なる「手法」である「マッシュアップ」、そして iPod・iPhone・iPad など短期間でクルクルと変遷する商品は、武士の発生のような超長期的変動とはおよそ無関係としか思えません。

>筆綾丸さん
私もその記述を見て、前回投稿を書きました。
仏教にヤバい部分があることは歴史研究者はみんな知っていますし、一般人でもオウム事件以降はある意味常識になっているのに、何で「それを読んだとき、私は自分の信仰心を仏教に向ける気が完全に失せたものだ」などと大発見をしたように書けるのか、本当に不思議です。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

桃栗三年柿八年面壁九年 2020/08/27(木) 11:58:16
小太郎さん
桃崎氏の仏教理解は、以下の記述でよくわかりますね。
---------
証拠を見たければ、多くの宗派で根本経典として重視される『法華経』の最終巻(巻二八)「普賢菩薩勧発品」の末尾を読むとよい。『法華経』を馬鹿にする者は、罰として究極の苦痛を受けると書いてある。それは、地獄の業火に焼かれるとか、無限の労役を強いられるという類の生ぬるい死後の罰ではなく、生きながら、常軌を逸した身体的な苦痛を与えると書かれている。それを読んだとき、私は自分の信仰心を仏教に向ける気が完全に失せたものだ。
仏教は、〈仏教の敵は絶対悪なので、いくらでも苦しめ〉という考え方を卒業できなかった。仏に他人の死や不幸を願って実現するなら、それは仏が仏敵=絶対悪と判定した結果なので、殺戮ではなく善行だ、と。(『「京都」の誕生』150頁)
----------
随所に変な語がちりばめてある、こんなガキっぽい駄弁を云々しても仕方ないけれど、「自分の信仰心を仏教に向ける」とは妙な表現です。対象不明のアモルフな「自分の信仰心」なるものがア・プリオリにあって、それを仏教やキリスト教やユダヤ教やイスラム教に向けたり向けなかったりするものなのか。不思議な宗教観であるが、では、この人は現在、やむにやまれぬ疼くような「自分の信仰心」を何に向けているのだろう。神仏ではなく中世の朝廷ですかね。

桃崎という姓は、桃栗三年柿八年という俚諺に由来するのではあるまいか。つまり、桃は柿より先に成る、だから偉いんだ、と。
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「東京出身の若手研究者が京都の大学に就職するのに、かなり似ている」(by 桃崎有一郎氏)

2020-08-26 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月26日(水)11時45分4秒

>筆綾丸さん
>「徳治三年六月廿日 阿闍梨」の下にサンスクリットで署名

小松茂美『天皇の書』は手元にないので確認できませんが、後宇多院の書はどれも気合が入っていて、精神状態の充実ぶりを示していますね。
桃崎氏が何を根拠に「後宇多は、日々の政治をこなせる精神状態ではなかった」などと言われているのか理解に苦しみますが、どうも桃崎氏には仏教に対する嫌悪感があるようで、その仏教も桃崎ワールドの中では「菩提を弔う」とか「自分の死後の安楽」を願うといったシミジミした分野に矮小化されており、従って仏教に耽溺中するような人間はそれだけでダメ、「退廃」的という評価につながっているようです。
ま、後宇多院に関する記述は、桃崎氏よりウィキペディアの方が遥かに学問的ですね。

後宇多天皇(1267-1324)

桃崎氏の著書を続けて三冊読んだところで、無駄にエネルギッシュ、というか脂(あぶら)ギッシュな桃崎氏の文章に辟易して、『室町の覇者 足利義満 朝廷と幕府はいかに統一されたか』(ちくま新書、2020)と『武士の起源を解きあかす 混血する古代、創発される中世』(ちくま新書、2018)はもう少し涼しくなってから読もうかなと思っていましたが、毒を食らわば皿までの心境で、この二冊も追加購入してみました。
前者は一応「第三章 室町第(花御所)と右大将拝賀―恐怖の廷臣総動員」まで読んでみたものの、賛同できかねる記述が多く、いったん休むことにしました。


そして、『武士の起源を解きあかす』を読み始めたところ、こちらは古代に弱い私にとっては新鮮な情報が多く、旧来の説に対する批判もそれなりに鋭い感じがしました。
ただ、私自身の予備知識が少なすぎるので、感想をまとめるとしても相当先になりそうです。

-------
武士はいつ、どこで、生まれたのか?七世紀ものあいだ日本を統治してきた彼らのはじまりについては、実ははっきりとした答えが出ていない。かつて教科書で教えられた「地方の富裕な農民が成長し、土地を自衛するために一族で武装し、武士となった」という説はでたらめで、都の武官から生まれたという説は確証がなく、学界は「諸説ある」とお茶を濁す。この日本史における長年の疑問を解消するために、古代と中世をまたにかけ、血統・都鄙・思想に着目し、武士の誕生の秘密を明らかにする。


それと、同書には一箇所、全く意味不明の部分がありました。(p236)

-------
 以上から、新参者の王臣家が坂東で、急速に溶け込んで支配的地位に上り詰める仕組みは、おおよそ見えてきた。地方では卑姓の豪族が、何十世代もかけて独自の秩序を形成・運営し、その間に、何重にも重なる濃密なネットワークが隅々まで張り巡らされてきた。その熟成した地域社会に、受領や任用国司として、ぽっと出の貴姓の王臣子孫が飛び込んで来る(東京出身の若手研究者が京都の大学に就職するのに、かなり似ている)。
 この、本来なら排除されるべきよそ者が、その既成の社会に受け入れられ、溶け込み、同化させてもらえたのは、彼らが持つ唯一の価値ある財産=貴姓を手土産にしたからだ。地方豪族の婿になり、彼らの孫を貴姓にする形で、王臣家は自分の貴姓を彼らに与え、ギブ・アンド・テイクの関係で融合し、しかもそうした融合は何世代もかけて何重にも結ばれた。八分の七も現地豪族の血が流れる藤原秀郷は、その最も典型的な成功例だ。
 鳥取氏ら現地豪族は、藤原魚名の子孫に女系から自分たちの血を何度も注ぎ込み、実質上その血統で埋め尽くしつつ、姓だけは父から受け継がせて貴姓を保った。その結果完成したのが、看板だけ藤原氏で実質的に現地豪族である"藤原秀郷"という作品だった。
-------

「自分たちの血を何度も注ぎ込み」といった桃崎文体が鬱陶しいのはともかくとして、「東京出身の若手研究者が京都の大学に就職するのに、かなり似ている」というのはどういう意味なのですかね。
「卑姓の豪族が、何十世代もかけて独自の秩序を形成・運営し、その間に、何重にも重なる濃密なネットワークが隅々まで張り巡らされてきた」のが「京都の大学」で、そこに「ぽっと出の貴姓の王臣子孫」=「東京出身の若手研究者」が「飛び込んで来る」ことはあるでしょうが、しかし、「東京出身の若手研究者」が「既成の社会に受け入れられ、溶け込み、同化させてもらえ」るための「手土産」とはいったい何なのか。
「東京出身の若手研究者」は「ぽっと出の貴姓の王臣子孫」が「持つ唯一の価値ある財産=貴姓」に相当する財産を何か持っているのか。
立命館大学に五年間の任期で講師になっていたという桃崎氏の経歴に照らせば、あるいはこれは慶応ブランド(?)なのかもしれませんが、実業界ならともかく、そんなものが学問の世界で役立つとも思えません。
さっぱり分からぬ。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

デカダンな王権 2020/08/23(日) 17:24:58
小太郎さん
小松茂美『天皇の書』(文春新書)で、後宇多の書を見てあらためて感動するのは(170頁~)、「徳治三年六月廿日 阿闍梨」の下にサンスクリットで署名していることで、歴代天皇の書の中で唯一の例かどうか、知りませんが、極めて珍しいものなのでしょうね(本書には、残念ながら、梵名=金剛性とあるだけで、サンスクリットの説明はないのですが)。

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・・・タントリズムの性的ヨーガのさいの女神で、狐の精ともいわれる荼吉尼天を祭り、(中略)「法験無双の仁」といわれた文観が後醍醐のために度々修した「大法秘法」は、(中略)後年、立川流中興の祖といわれたような異様なものがあったのは事実としてよかろう。
・・・密教の法服を身にまとい、護摩を焚いて祈祷する現職の天皇の姿は異様としかいいようがない。まさしく後醍醐は「異形」の天皇であった。極言すれば、後醍醐はここで人間の深奥の自然ーセックスそのものの力を、自らの王権の力としようとしていた、ということもできるのではなかろうか。たしかに後醍醐は「異類異形」の人々の中心たるにふさわしい天皇であったといえよう。(網野善彦『異形の王権』)
----------
桃崎氏がデカダンスなどという頓珍漢な語を用いたのは、『異形の王権』の影響を受けて、後宇多も怪しげな性的遊戯に耽溺したのだろう、と思っていたからではあるまいか。そうとでも考えなければ、厭世がなんでデカダンスになるのか、意味が全くわからない。
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「一方、後宇多は、日々の政治をこなせる精神状態ではなかった」(by 桃崎有一郎氏)

2020-08-22 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月22日(土)21時58分5秒

>筆綾丸さん
桃崎有一郎氏の『京都を壊した天皇、護った武士』(NHK出版新書、2020)は、微に入り細を穿った記述とものすごく荒っぽい記述がまだら模様に出て来て、実に奇妙な本ですね。
筆綾丸さん御指摘の「厭世生活」に「デカダンス」とのフリガナが振ってある部分は後者の代表例です。(p146)

-------
後宇多法皇の厭世生活〔デカダンス〕の場と化す大覚寺殿

 一方、後宇多は、日々の政治をこなせる精神状態ではなかった。父・妻・子に次々と先立たれ、心が折れていったのだ。まず嘉元三年(一三〇五)に父の亀山法皇を喪い、二年後の徳治二年(一三〇七)に寵姫の遊義門院を喪った段階で、後宇多は出家して大覚寺殿に入った。大覚寺殿には、亀山法皇の亀山殿や、後二条の内裏だった二条高倉殿の一部が移築された。そして翌年に後二条が没した結果、同時に治天の地位を失ったこともあって、後宇多は政務への意欲を失い、邦良の皇位継承だけに現世的執着を見せ、あとは父・妻・子の菩提を弔うことと、自分の死後の安楽のために、仏道修行にのめり込んだ。
-------

うーむ。
「父・妻・子に次々と先立たれ、心が折れていった」かどうかは相当問題ですが、それを置いても、父・亀山院の死を遊義門院・後二条天皇の死と同列に扱うのは全く無理ですね。
崩御直前の亀山院(1249-1305)は昭訓門院(西園寺実兼女・瑛子)が産んだ最晩年の末子・恒明親王(1303-51)を溺愛し、多大な遺産を残したばかりか、僅か三歳のこの幼児を後二条天皇(1285-1308)の皇太子に立てようと目論みます。
後宇多院(1267-1324)は三十六歳下のこの異母弟を皇太子にしたいなどとは露ほども思っていなかったのですが、亀山院に迫られて、立太子を了解する旨の書面の提出を余儀なくされます。
そして亀山院はその遺勅の執行を昭訓門院の兄、西園寺公衡(1264-1315)に託して崩御するのですが、崩御により父の呪縛を脱した後宇多院は遺勅の遵守を断固拒否し、公衡を勅勘に処して、その知行国である伊豆・伊予や左馬寮等を召し上げます。
あわてた公衡は鎌倉幕府に泣きついてなんとか取りなしてもらうという悲喜劇が続くのですが、この経緯を見れば、後宇多院は亀山崩御を「やっと死んでくれたか」と喜びこそすれ、それで「心が折れ」たなどという事態はおよそあり得ません。

帝国学士院編纂『宸翰英華』-亀山天皇-
三浦周行 「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」
森茂暁「西園寺公衡」
森茂暁「皇統の対立と幕府の対応-『恒明親王立坊事書案 徳治二年』をめぐって-」

また、後宇多院が遊義門院の死去を受けて出家したことは事実ですが、後宇多院の仏教信仰は恐ろしいまでに高度で、密教の奥義を自ら極めるだけでなく、受法した諸法流を自らの許に統合し、新たな法流を創設しようとしたと言われるほど本格的です。
後宇多院が「父・妻・子の菩提を弔うことと、自分の死後の安楽のために、仏道修行にのめり込んだ」という桃崎説は、仏教史研究者からは鼻で笑われるであろう俗説・珍説の類ですね。

藤井雅子「後宇多法皇と「御法流」」
横内裕人 「仁和寺と大覚寺─御流の継承と後宇多院─」

私も後宇多院の密教信仰についてあれこれ考えていたのは二十年ほど前で、最近の研究状況は知りませんが、自称「中世朝廷の専門家」の桃崎氏がこれほど低レベルな認識であることは本当に悲しいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

菜の花や 月は東に 日は西に 2020/08/21(金) 15:09:24
----------
摂関政治の最盛期、一〇世紀後半に源信が現れてから、宮廷社会で浄土教が大流行した。浄土教は、阿弥陀如来の救いにすがって極楽浄土に往生しようという、他力本願の教えである。浄土教の成仏は、極楽浄土という安楽な場所の永住権であり、他力本願なので面倒な修行抜きに成仏が約束されているとあって、大流行した。(中略)
白河院やその後の天皇・上皇・皇族らが、白河地域にこれでもかと絢爛豪華な巨大寺院を造営したのは、立派な寺を造れば造るほど、阿弥陀様に必死にすがったことになり、極楽往生が確実になると信じられたからだ(それは、他力本願という教えと完全に矛盾しているのだが)。(中略)
現世の政治を見つめる天皇の京と、死後の極楽往生を見つめる法皇の白河地域、という役割分担が明らかだ。「京都」では、“この世の生活のためにある京"と“あの世の生活のためにある白河"が、鴨川を境に綺麗に役割分担していたのである。(『「京都」の誕生 武士が造った戦乱の都』88頁~ )
---------
ふむ。
阿弥陀如来の極楽浄土は西方にあるのであって、鴨川を隔てて、なぜ、この世の京が西に、あの世の白河が東にあるのか、理由がわかりません。浄土教の思想としては、本質的な問題だと思うのですが。

追記
桃崎氏は、同書136頁以下で、元木泰雄氏の「京武者」という、ありもしない幻の概念を鋭く批判していますね。『中右記』の「京武者」なる語は、史料上、一例しかなく、普通の日本語力があれば、「南京大衆」の対語で、在京武士の意味だと解するしかない、と。おそらく、桃崎説が正しい。
「京都を中心とする学界の一部で、「京武者」は大いに流行った」(137頁)
新型コロナの流行で有名になった語を用いれば、「京武者」は京都盆地で発生したクラスターで、郊外に飛び火する前に潰しておくべきだったのでしょうね。

追記の続き
「院政的な(反知性主義的で野放図な)政治」(194頁)という表現をみると、桃崎氏が反知性主義(Anti-intellectualism)の意味を理解できていないことがよくわかりますね。
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「私は中世朝廷の専門家として断言できる」(by 桃崎有一郎氏)

2020-08-20 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月20日(木)09時01分52秒

『「京都」の誕生 武士が造った戦乱の都』(文春新書、2020)も読んでみましたが、こちらは「殿下の乗合」事件の詳細な分析など、興味深い指摘が多いですね。

-------
平安京が「京都」に転生するために武士の力が必要だった!?
「京都」を舞台に行われた権力闘争と土地開発の歴史を
気鋭の歴史学者が、大胆に描く。


ただ、平清盛の御落胤説は、きちんとした論証になっているのか疑問を感じました。
この点、「第三章 武士代表となる平氏」には、

-------
 父の忠盛は、四位に昇り、内昇殿(天皇が住む内裏清涼殿の殿上の間に昇る資格)を許され、刑部卿(刑事裁判を司る役所の長官。ただし形骸化)に昇っただけでも、激しく非難された(後述)。それからたった一世代で太政大臣として位人臣を極めるなど、破格の出世という言葉でさえ生ぬるい、意味不明というしかない結末だった。あの段階であの昇進を可能にした要因は、功績や努力ではあり得ず、血統しかないと、私は中世史の専門家として断言できる。その血統に該当するのは<白河院の落胤>説以外にない。
 なお、重要なので繰り返すが、その落胤説が真実かどうかを、判定する術はない。私が主張しているのは、それが真実だと当時信じられた、ということだけである。この落胤説には第六章でまた詳しく触れるので、具体的な証拠はそちらで挙げよう。
-------

とあり(p124以下)、私は第六章も読んでみましたが、後白河院と二条天皇の父子対立の状況下で清盛が両者から尊重された経緯を考えれば、桃崎氏の挙げる「具体的な証拠」は、むしろ落胤説を否定する方向にも働くように感じました。
ま、それはともかく、『平安京はいらなかった』及び『「京都」の誕生 武士が造った戦乱の都』と比較すると、『京都を壊した天皇、護った武士』はずいぶん荒っぽい記述が目立ちますね。
例えば、幕府を「ばらばらに解体」し「転覆」させる計画でも「鎌倉幕府を倒すための戦争」ではないという難解な禅問答の後、桃崎老師は、「順徳の兄の土御門上皇は、戦争に反対していたので処分を免れたが、父と兄に義理立てして、自ら望んで土佐に流され、後に京都に近い淡路に移された」と言われていますが(p71)、ここは「淡路」ではなく「阿波」ですね。
『増鏡』にも、

-------
 中の院は初めよりしろしめさぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院はるかに移らせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらんこと、いと恐れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日土佐国の幡多といふ所に渡らせ給ひぬ。去年の二月ばかりにや若宮いでき給へり。承明門院の御兄に通宗の宰相中将とて、若くて失せ給ひし人の女の御腹なり。やがてかの宰相の弟に、通方といふ人の家にとどめ奉り給ひて、近くさぶらひける北面の下臈一人、召次などばかりぞ、御供仕うまつりける。いとあやしき御手輿にて下らせ給ふ。道すがら雪かきくらし、風吹きあれ、吹雪して来しかた行く先も見えず、いとたへがたきに、御袖もいたく氷りてわりなきこと多かるに、

  うき世にはかかれとてこそ生まれけめことわり知らぬわが涙かな

せめて近き程にと東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。


とあります。
土御門院が阿波に滞在し、崩御したので、その皇子は「阿波院の宮」と呼ばれますが、これが後嵯峨天皇ですね。

「巻四 三神山」(その1)─阿波院の宮

また、桃崎老師は大宮院の母の「四条貞子は、四条隆親の妹だった。つまり、四条隆親は、後嵯峨から見て正妻の伯父であり、そして姻戚関係によって西園寺家の一派だった」(p105)と書かれていますが、北山准后・四条貞子(1196-1302)は隆親(1203-79)の妹ではなく、七歳上の姉です。
四条貞子は百七歳という尋常ならざる長寿の人で、『増鏡』には「北山准后九十賀」などの詳細な記述があります。
それと、閑院流の西園寺家と魚名流の四条家は同じ藤原氏でも全く系統が違うので、四条隆親が「西園寺家の一派」というのも奇妙な表現ですね。
四条家が西園寺家と密着して繁栄を極めた家、という意味なら理解できない訳ではありませんが、普通の言語感覚があれば、それを「西園寺家の一派」とは呼ばないでしょうね。

北山准后の老後とその健康状態(その2)

>筆綾丸さん
>第三部の冒頭に、後宇多法皇の厭世生活(デカダンス)の場と化す大覚寺殿、
>とあるのですが、厭世はペシミズムというのであって、デカダンスとは別の概念です。

私もこの表現は非常に気になりました。
「私は中世朝廷の専門家」と豪語される桃崎老師は、少なくとも鎌倉時代に関しては、「現実と演出の落差(ギャップ)」が大きいようですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

儀礼と権威? 2020/08/19(水) 09:56:50
小太郎さん
桃崎氏は、『京都を壊した天皇、護った武士』においても、承久の乱に関して同様のことを言ってますが(69頁)、実朝暗殺については、以下のとおりです。
----------
その究極の巨大儀礼の最中に、実朝は甥の公暁に襲われ、斬り殺された。これもまた、幕府史上最大にして、日本史上最大級の不祥事だった。この事件は大きな教訓を証明した。どれほど立派な儀礼を行っても、本人の人格的な威厳がそれ相応に追いつかなければ、その分不相応は簡単に露見し、最大級の恥をかかされる、と。
最近まで、儀礼を専門とする歴史家は、〈儀礼は権威を表現する〉と信じて疑わなかった。しかしこの事件は、それが机上の空論だと証明している。儀礼は、権威ある者が行う場合だけ、権威を表現する。これが真実だった。小物が大イベントで自分を飾ると、現実と演出の落差(ギャップ)が人々の反感を増幅させ、本人をますます小さく見せ、最悪の場合は命を縮める。適切な規模に調節された儀礼だけが、人の権威を適切に表現でき、その意味で身の丈に合った振る舞いが必須だった。実朝は命と引き替えに、そう教えてくれたのだ。(64頁~)
----------
これが実朝暗殺の教訓だそうで、いつもなら、馬鹿馬鹿しくなって読むのをやめるところですが、もう少し我慢してみます。
後鳥羽院や実朝は氏の身の丈に合わないのではあるまいか、という気がします。実朝の横死を「最大級の恥」というのは、たぶん、空前で絶後の形容でしょうね。
「教訓を証明する」とは、ふつう、言わないですね。「儀礼は、権威ある者が行う場合だけ、権威を表現する」は、無意味なトートロジーです。「本人の人格的な威厳」も、よくわからないですね。

追記
「第二部??天皇家の迷走がもたらす京都の拡張」は、よく知らないことなので、面白く読めました。
第三部の冒頭に、後宇多法皇の厭世生活(デカダンス)の場と化す大覚寺殿、とあるのですが、厭世はペシミズムというのであって、デカダンスとは別の概念です。もう少し外来語の勉強をしてほしいですね。
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「それは、しばしば鎌倉幕府を倒すための戦争だと思われているが、そうではない」(by 桃崎有一郎氏)

2020-08-18 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月18日(火)21時17分31秒

桃崎有一郎氏の「劇場都市」という表現がとても気になったので、同氏の近著で何か新たな展開があるかなと思って『「京都」の誕生 武士が造った戦乱の都』(文春新書、2020)と『京都を壊した天皇、護った武士 「一二〇〇年の都」の謎を解く』(NHK出版新書、2020)を購入してみました。
前者は平家で終わっているので、鎌倉時代も扱う後者を先に読んでみたのですが、読後感は些か微妙ですね。

-------
京都拡大をめぐる、不都合な史実とは!?
京都・武士・天皇と聞くと、「武士が、天皇と京都を脅かしてきた」歴史が想像されるかもしれない。しかし、事実はまったく逆だ。京都を危険に晒してきたのは、後鳥羽・後醍醐ら一部の天皇であり、その復興は源頼朝から信長・家康に至る武士がつねに担ってきた。いったいなぜ、武士は京都を護り、維持してきたのか!? 天皇と京都をめぐる一二〇〇年の「神話」を解体し、古都の本質へと迫る意欲作!

https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000886252020.html

同書にはいくつか疑問を感じましたが、今年の五月から六月にかけて、長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2016)等を素材に承久の乱について少し検討してみた関係で、桃崎氏の承久の乱についての見解が特に奇妙に思われました。
従来、多くの研究者は後鳥羽の目的を討幕だと考えていたのですが、最近は長村氏を始め、義時追討説が有力です。
この点、桃崎氏は、

-------
 後鳥羽は幕府の解体を狙っていた。実朝は後鳥羽に従順で、実朝を通じて幕府を支配できると後鳥羽は目論んでいたが、今の幕府を率いる北条政子・義時姉弟は、実朝ほどお人好しでなく、後鳥羽の思い通りにならない。後鳥羽は、源氏将軍の断絶を機に、幕府をばらばらに解体する方向へ追い込み、団結を失った武士の支配者になろうとしていた。
 しかし、幕閣は果断だった。政子・義時は弟の時房に大軍を預けて上洛させ、朝廷を威圧して将軍後継者の提供を迫ったのである。この威嚇に朝廷は折れ、後継者を摂関家の九条家から提供した。左大臣九条道家の子の頼経で、まだ二歳(満一歳)の乳児だった。
 もっとも、後鳥羽上皇の腹の虫は納まらない。彼はなおも幕府転覆計画を諦めず、裏で陰謀を進めたらしい。その犠牲となったのが、大内守護の源頼茂だった。実朝の横死からわずか半年後、そして頼経が鎌倉へ下るために京都を発った半月後の承久元年(一二一九)七月一三日、後鳥羽は配下の武士に大内守護の源頼茂を襲わせ、自害させた。
 後鳥羽は、「頼茂が謀叛を企てたので未然に殺した」と弁明した。しかし、前後の状況はすべて、それが真っ赤な嘘だったことを示している。後鳥羽は、二年後の承久の乱で、京都に駐在中の御家人を味方に誘って呼び出し、応じなかった伊賀光季を殺させた。恐らく源頼茂も、後鳥羽の幕府転覆計画に誘われ、渋ったので殺された可能性が高い。
-------

ということで(p66以下)、「後鳥羽は幕府の解体を狙っていた」「幕府をばらばらに解体する」「幕府転覆計画」といった表現からすれば、桃崎氏は旧来の倒幕説に立っているように見えます。
しかし、この後、次のような記述が出てきます。(p68以下)

-------
 承久三年(一二二一)、後鳥羽上皇はついに、戦争を決意した。それは、しばしば鎌倉幕府を倒すための戦争だと思われているが、そうではない。後鳥羽は、幕府を解体して武士を温存し、自分の支配下に組み入れることを望んだ。邪魔なのは、執権北条義時の一派だけだ。後鳥羽は「幕府を討て」ではなく、「北条義時を討て」という命令を下した。
-------

うーむ。
近時有力な義時追討説については、後鳥羽が勝利した後の戦後構想として何を目指していたのか、という観点から分析すると、意外に曖昧な主張が多く、例えば近藤成一氏の見解は倒幕説と紙一重のようにも思われます。

「後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識となっているとはいえ…」(by 近藤成一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d370925b84000e9314bd5a7fea4683e

しかし、桃崎氏のように「しばしば鎌倉幕府を倒すための戦争だと思われているが、そうではない」としながら、後鳥羽は「幕府を解体して武士を温存し、自分の支配下に組み入れることを望んだ」と言われると、何がなんだか全然理解できません。
幕府を「ばらばらに解体」し「転覆」させる計画なのに、それが同時に「鎌倉幕府を倒すための戦争」ではないという論理はあり得るのでしょうか。
というか、これは日本語として成り立っているのでしょうか。
分からん。
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「儀礼という演劇の劇場として使われることを最重要の目的の一つとする都市」(by 桃崎有一郎氏)

2020-08-17 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月17日(月)09時52分53秒

ちょっとくどいようですが、桃崎有一郎氏の著書のタイトルについて、改めて考えてみます。
『平安京はいらなかった』(吉川弘文館、2016)の「中世からは見えない中世京都─プロローグ」は、

-------
平安京と日本中世史

日本という国に、あのような平安京などいらなかった。
いや、もちろん誰かが必要と信じたからこそ造られたのだが、それは幻想というべきか、一種の妄想にすぎない。平安京は最初から無用の長物であり、その欠点は時とともに目立つばかりであった。細かいニュアンスを省いて、誤解を恐れずに大雑把に極論すれば、それが本書の主張である。
 では、なぜ不要な平安京が造られ、なぜ一〇〇〇年以上も存続したのか。<平安京・京都とは何だったのか>という日本史上の重要問題は、すべてこの疑問から始まると、筆者は考えている。
-------

と始まっています。(p1)
著者の考えでは、不要なのはあくまで「あのような平安京」ですね。
そして「実用性なき平安京」(p54以下)、「大きすぎた平安京 "平安京図"という妄想」(p110以下)について繰り返し説明が続いた後、「内裏の適正サイズと大内裏の中世的"有効活用"─エピローグ」では、

-------
劇場都市・平安京

本書では、平安京が、造営当初から一貫して実用性を欠き、未完成で、そもそも過大〔オーバーサイズ〕な都市であったことを述べた。その設計思想では理念が優先し、実用性は二の次であり、平安京はいわば"住むための都市"や"都市民が使うための都市"ではなかった。それは最初から"秩序を見せる都市"であり、つまり"秩序を目に見える形で人々が演じる都市"であって、要するに劇場として作られた都市であった。そのような、儀礼という演劇の劇場として使われることを最重要の目的の一つとする都市を、本書は"劇場都市"と呼んで、概念化したい。
-------

とあります。(p261)
桃崎氏は終始一貫「平安京が、造営当初から一貫して……そもそも過大〔オーバーサイズ〕な都市であったことを述べた」だけであり、平安京がそもそも不要であったとは言われていない訳ですね。
だったら書名の「平安京はいらなかった」は変ではないか、というのが普通の日本語能力を持った読者の感覚ではないかと思います。
桃崎氏は「あとがき」において、

-------
 本書を成すにあたり、直接・間接にご支援を下さったすべての方々に、深甚の謝意を表したい。何よりまず、最後まで付き合って下さった本書の読者に、最大の感謝をささげたい。そして執筆時間と環境を与えてくれた高千穂商科大学、常に学問的刺激を下さる同僚の教員諸兄、教育や研究に惜しみなく支援を下さる職員諸氏、とりわけ本書の書名に悩む筆者に、親身で有益なアイデアをくれた学生諸君に、特に感謝したい。
-------

と書かれているので(p268)、書名の決定には高千穂商科大学の学生の協力があったそうですが、まあ、その「親身で有益なアイデア」とは、要するに「平安京はいらなかった」というような極端で刺激的な書名の方が売れますよ、ということなのでしょうね。
確かに私のように、こんな書名は際物だから避けよう、と思う人よりは、鬼面人を驚かす表現に乗せられてついつい買ってしまう人の方が多いでしょうから、商業的には合理的な決定ではあるでしょうが、学者としてはもう少し矜持というか誇りというか慎みを持っていただきたいものだな、と個人的には思います。
ま、それはともかく、「劇場都市」概念は非常に興味深いですね。
桃崎氏がこの概念を形成するにあたって参考にした文献等は特に出ていませんが、ある程度は想像できます。
そして私などは平安京が「劇場都市」であることを極めて高く評価したいのですが、桃崎氏は上記のように否定的なニュアンスを感じさせる記述をされている一方で、その後には若干意味の取りにくい、微妙な記述が続きます。
ま、そのあたりは別の著書で書かれているかもしれないので、桃崎氏が最近立て続けに出されている一般書を少し眺めてみようかなと思います。
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「承久の乱で後鳥羽院上皇は幕府に敗れ、佐渡に流された」(by 桃崎有一郎氏)

2020-08-16 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月16日(日)11時32分20秒

某図書館で桃崎有一郎氏の『平安京はいらなかった』(吉川弘文館、2016)を見かけ、そういえば数年前にかなり話題になったのに、タイトルが際物っぽい感じがして読まずにいたな、と思って借りてみて読んだところ、意外なことにタイトル以外は本当に良書でした。

-------
平安京は本当に必要だったのか―。朝廷の壮大な理念が優先され、住む側にとっては不便きわまりなかった都市。儀礼を演じる劇場として巨大化した“理想の都”は、ついに天皇でさえも空間を持てあまし、やがて縮小をくり返しながら中世京都へと脱皮していく。「使いにくさ」に目を向け平安京を捉え直した、“千年の都”の本質に迫る刺激的な一冊。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b251580.html

実は私、桃崎氏の「建武政権論」(『岩波講座日本歴史中世2』、2014)に、

---------
 後醍醐の思想には、復古(延喜・天暦の治=醍醐・村上朝の聖代復帰)と宋学の影響が指摘されている。大内裏造営や皇朝十二銭以来の銭貨発行計画、『建武年中行事』著述など、後醍醐の理念が復古を含んでいたことは疑いない。それは歴史の流れに対する逆行として消極的に評価されることがあるが、中世の「延喜・天暦」は具体性を欠く聖代の代名詞という側面があり、後醍醐自身は醍醐・村上朝の具体的な再現ではなく、<聖代の再来>を標榜したに過ぎないのだろう。彼は現実の歴史を考慮せずに<天皇は唯一絶対の君主であるべき>と考え(実際そうであったことはほとんどない)、その実現こそ聖代の到来と考えた。そこで後に醍醐朝と並ぶ聖代として想起されるために自ら死後の追号を後醍醐と定め、醍醐の父宇多にちなんで自身の父に後宇多の追号を贈ったのである。
-------

と書いているのを見て(p48)、桃崎氏もいい加減な人間だなと思って、警戒していました。

「後宇多天皇の追号」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/528ce15258a832c6d2ddc3e8dedd4bdb
「親子二代連続でちょっと変な王権」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3b01f880f7029510f5189748b53f9201
「後宇多・後醍醐は不仲?」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/169961108f543a91e2588c2b6c103431
「寵愛」 or 「旧院御素意」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c908dd02829f09b0444d8ef73e82c8eb

『平安京はいらなかった』は、最後まで読んでも律令国家にとって平安京が不要だったとは書いておらず、平安京は大きすぎたと繰り返し言っているだけで、羊頭狗肉とは言いませんが、羊頭豚肉くらいの変なタイトルではあります。
ま、平安京はデカすぎたという指摘自体は今まで多くの研究者が言っていたこととはいえ、古代から中世にかけて、先行研究を丁寧に踏まえつつ、時に自己の鋭い知見を付加して、一貫した説明を行った点は桃崎氏の大きな功績ですね。
文章も決して独善的ではなく、キビキビとスピード感に満ちた明晰な文章であって、好感が持てます。
内容的には、「表1 大内裏焼亡・再建期間一覧表」(p194以下)に信西の大内裏再建についての記述がなく、「大内裏を諦めなかった男・信西─選択と淘汰の大内裏再建」(p221以下)との整合性があるのか、気になりました。
また、本当に細かいことですが、「承久の乱で後鳥羽院上皇は幕府に敗れ、佐渡に流された」(p220)にはちょっと笑ってしまいました。
言うまでもなく、後鳥羽院が流されたのは佐渡ではなく隠岐ですね。
ま、どんなに校正を繰り返しても、この種のミスは出てしまいますが、ただ、地名とは別に、「後鳥羽院上皇」という表現も妙な感じです。
あるいは何か特別な意図があるのかな、とも思いましたが、他にこうした表現はなく、これも単なるケアレスミスのようですね。
なお、「〇〇院上皇」ではなく「〇〇院天皇」という表現は、森鴎外が「図書頭森林太郎」としての公的な立場から執筆した「帝諡考」に出てきますね。
「帝諡考」では、「院」のついた天皇は「冷泉院天皇」「後鳥羽院天皇」「順徳院天皇」「後深草院天皇」「亀山院天皇」「後水尾院天皇」という具合に全て「〇〇院天皇」と書いてありますが、これは刊行が大正10年(1921)という微妙な時期だからですね。

図書頭森林太郎「帝諡考」を読んでみた。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/36dfdf5724528abe3c3ad61176554895
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清水克行氏『大飢饉、室町社会を襲う!』

2020-08-16 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月16日(日)08時26分52秒

>筆綾丸さん
>石原氏の後小松「王家」に関する記述

石原氏の「王家」と「天皇家」の用法は独特ですね。
ま、定義を明示して一貫した用法で用いていますので別に問題はありませんが。

称光天皇(1401-28)と小川宮(1404-25)は天皇家の長い歴史の中でも屈指の莫迦兄弟ですが、小川宮の「蹂躙」事件が起きた応永二十七年(1420)は応永の大飢饉が発生した特別な年であって、時代背景を考えると小川宮の莫迦さ加減が一段と引き立ちますね。
この時期の世相は清水克行氏が『大飢饉、室町社会を襲う!』(吉川弘文館、2008)で詳細に描かれています。

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慢性的な飢餓に直面し生と死の狭間で生きていた室町人。満腹感を得るため新米より古米を尊重し、出産では母親の生命も脅かされ、ようやく生まれた赤子も「間引き」や人身売買に…。そこに巨大飢饉が襲いかかったとき、人びとはどうしたのか。現代にも通じる飢餓と飽食の残酷な構造をえぐりだし、室町時代の実相を描き出す。中世社会の雑学も満載。


同書の「いま、飢饉を考える─プロローグ」から少し引用してみます。(p1以下)

-------
 おそらく、現在、日本人にもっとも名前の知られている室町時代人は"一休とんち話"で有名な一休宗純(一三九四~一四八一)ではないだろうか。"とんち小僧"のエピソードは後世の創作によるものだとしても、実在の一休もドクロの杖を持って正月の京の町をねり歩いたり、森侍者という女性との赤裸々な情交を詩に詠んだり、とかく破天荒な逸話にことかかない人物である。
 そんな彼も二〇代半ばまでは、煩悩をかかえながら悶々と修業の日々を送る一人の若き禅僧にすぎなかった。それが大きく転回することになったのが、応永二七年(一四二〇)の夏の一夜の出来事だった。当時二七歳であった彼は近江国堅田(滋賀県大津市)の湖畔に浮かべた小船のうえで、カラスの鳴き声をきっかけに豁然として悟りの境地にいたる。【中略】
 このとき、なぜ一休はカラスの鳴き声を聞いて悟りを得たのか、また、彼の到達した悟りの境地がいかなるものであったのか、もちろん私には知るよしもない。ただ、歴史研究者の立場から見たとき、彼が大悟した応永二七年の夏というのは、ほかならぬ室町社会にとって最大規模の「危機」のときであったことに思いがいたる。この年、応永二七年という年は、室町時代において寛正元~二年(一四六〇~六一)の寛正の大飢饉と並ぶ大飢饉、応永の大飢饉が起きた年だったのである。本書では、一休もその人生の節目で遭遇した、この応永の大飢饉を主題にして、その前後数年間の出来事をドキュメンタリー風に追いかけてみたいと思う。
 おりしも室町幕府は、四代将軍足利義持(一三八六~一四二八)の治世──。この時期は、三代将軍義満(一三五八~一四〇八)が南北朝内乱を克服するなかで築き上げた室町幕府の基盤はさらに確固としたものとなり、目立った戦乱なども見られない、室町時代を通じても最高の政治的安定期だった。また政治の安定にともなって、経済構造の基本であった荘園制もこの時期に再編成が進み、武家勢力と公家・寺社とのパワーバランスが維持されることで、在京する荘園領主たちもとりあえず安定的な収入がふたたび保障されるようになっていた。応永の大飢饉は、そうした日本中世史上でも希有な相対的安定期にいた人々を一気に恐怖の底に陥れた衝撃的な大災害だったのである。このとき、地方の荘園では餓死者があいつぎ、田畠は荒廃。一方で都は難民であふれかえり、行き倒れた人々の死臭が市街に充満。やがては、それに追い打ちをかけるように疫病が蔓延し、一般庶民のみならず、名のある公家たちまでもが次々と命を落としていった。そんな目を覆わんばかりの修羅場が、応永二七年から二八年にかけて、じつに足かけ二年も続いた。
-------

まあ、「蹂躙」事件が起きたのは正月ですから、まだ大飢饉は本格化はしていませんが、既に数年来の天候不順が続いており、また、前年には「応永の外寇」という大騒動もあった時期です。
こういう時期に莫迦兄弟は互いに莫迦の度合いを競い合っていた訳で、後光厳流が絶えてしまったのもやむを得ないところがありますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

大納言典侍 2020/08/14(金) 12:00:21
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朝子・房子そして藤子も、天皇が典侍に子を産ませたわけではなく、子を生んだ女房を家格にしたがって典侍に任じたわけである。つまり、女官が配偶の役割を果たしたというよりも、配偶を女官として待遇したとみた方がよいのかもしれない。(『戦国時代の天皇』90頁)
---------
末柄氏は、配偶と言って配偶者とは言わず、しかも、女官と配偶の関係について慎重に述べています。
ところが、石原氏は、「大納言典侍と呼ばれていた称光天皇妻室」「大納言典侍の亭主たる称光天皇」(『北朝の天皇』121頁)などと、妻室・亭主という語を無造作に使用しています。
石原氏の後小松「王家」に関する記述は、軽い文体のせいか、セブンイレブンで週刊文春を立ち読みしているような味わいがあります。
本郷和人氏『日本史ひと模様』の謳い文句に、今こそ「学問としての日本史」と「エンタメとしての日本史」を繋ぐ努力が必要なのだ、とあって、石原氏も同じ思いなのだろう、たぶん。

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小川宮は龍樹寺宮と追号され、泉涌寺の末寺の永円寺にて葬送の儀が執り行われた。(『中世天皇葬礼史』134頁~)
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皇太弟でありながら諱が後世に伝わらず、しかも、追号に寺の字が入るというのも、かなり異常なのでしょうね。龍樹(ナーガールジュナ)もふざけているとしか思えません。
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「後小松天皇の困った二人の息子」(by 久水俊和氏)

2020-08-13 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月13日(木)10時37分33秒

>筆綾丸さん
>小川宮(1404~25)という狂人

細かいことですが、小川宮については石原比伊呂『北朝の天皇』の書き方が少し気になりました。(p122)

-------
 称光天皇については似たような奇行がいくらでも確認される(詳しく知りたければ、各種通史類を紐解いていただきたい)。ただし、後小松「王家」における個性的な男子は称光だけではなかった。称光には小川宮という弟がいたが、こちらはこちらで悪目立ちする人物だった。
 小川宮については、プレゼントされた子羊にいきなり暴行しはじめるという、動物虐待のエピソードが有名であるが、彼にはドメスティックバイオレンスの前科もある。それは応永二七年(一四二〇)正月のこと。折しも正月儀礼真っ盛りのシーズン。この日も「御薬」という儀礼(お屠蘇のようなもの)があって、それが始まろうとするタイミングで、なぜか小川宮は、突如として妹を蹂躙しだしたのである。史料に「蹂躙」と書かれていて、それ以上の詳細はわからないのだが、髪を引っ張り、引きずり回して足蹴にする、といったイメージだろうか。そこに居合わせていた母親の日野西資子以下はただ「啼泣」するだけだったという。ちなみに啼泣とは涙を流して泣くことである。
-------

「プレゼントされた子羊にいきなり暴行しはじめる」とありますが、実際には撲殺なので、異常さの度合いがずいぶん和らげられていますね。
また、「御薬」は「お屠蘇のようなもの」で間違いではありませんが、それなりに厳重な儀礼です。

供御薬儀(みくすりをくうずるぎ)
「くうずるぎ」

この供御薬儀において小川宮は妹を「蹂躙」した訳ですが、これも石原氏はずいぶん慎重な解釈をされていますね。
比較のために久水俊和氏の『中世天皇葬礼史』を見ると、

-------
後小松天皇の困った二人の息子

 足利将軍家による強力な支援により、後光厳流流儀の牙城を築きあげ、盤石かに見えた後光厳流「天皇家」だが、後小松天皇の病弱な二人の息子から歯車が狂い始める。後小松には、光範門院資子との間に躬仁(のち実仁)王と諱不明の小川宮と呼ばれる二人の息子がいた。
 躬仁は、親王宣下を受けた翌年に父後小松の譲位を受け即位し、称光天皇となった。しかし、称光は病弱でありながら暴力的という、名君とはほど遠い人物であった。近臣や女官たちをムチで打ち付けたり、弓矢で射たりとやりたい放題の乱暴者であり、そのうえ被害妄想癖もあり、懐妊した女房の密通を疑ったりもした。【中略】
 しかし、残念ながら皇子を儲けることはなく、生来の病弱さから体調を崩し、年を追うごとに悪化していった。
 そこで、弟小川宮を皇太弟とすることで、後光厳流「天皇家」の継承策を図った。だが、小川宮も兄に劣らず粗暴であり、後見役の勧修寺経興も困り果てるほどであった。ちなみに、勧修寺邸は小川殿ともよばれており、小川宮の名はこの小川殿にて養育されたことによる。
 称光と小川宮の兄弟仲は険悪であり、兄がかわいがっていた羊を頼み込んで譲り受けたはいいが、即座に撲殺するというという【ママ】エピソードがその不仲を物語る。また、酒癖も悪く、正月に泥酔し、妹を犯しにかかり、母資子たちから引っ剥がされるという失態も演じている。さらには、どうやら女官との女性関係のもつれから、またもや泥酔して童か女性に変装し、武器を携え内裏に乱入しようと企て、後見役の経興と父後小松を困らせている。
-------

ということで(p133以下)、普通は「蹂躙」を久永氏のように解釈しているのではないかと思います。
ま、どっちにしろ、ろくでもない兄弟であることは間違いありません。
ところで、小川宮の死去の状況はかなり怪しいですね。
この点、石原氏は、

-------
 小川宮の精神もやはり不安定だった。そして身体も虚弱だった。妹をしばき倒した日からおおよそ五年後の応永三二年(一四二五)二月十六日、小川宮は夜になって突然苦しみ出した。医師が大慌てで駆けつけたが、そのときはすでに手遅れで、そのまま帰らぬ人となった。わずか二二歳。後小松は二人の息子に何かと苦労させられ、そして先立たれたのである。
-------

としています。(p122以下)
しかし、「身体も虚弱だった」というのは何か史料的な根拠があるのですかね。
羊のエピソードといい、僅か十七歳で泥酔して妹を「蹂躙」しようとしたことといい、小川宮は身体的には無駄に元気一杯だったような感じがします。
久水氏は、

-------
 ところが、小川宮は立太子を翌月に控えながら、応永三十ニ年(一四二五)二月に二十二歳の若さで急死する。乱暴者ではあったが、兄とは違い病弱ではないことから、さんざん手を焼かされた後見役の経興による毒殺が疑われるほどであった。
-------

とされていて(p134)、まあ、証拠はありませんが、確かに状況的には極めて怪しいですね。
積極的に殺そうとするかどうかはともかく、小川宮が死んでくれてよかった、と思った人は多かったでしょうね。

>Librétto とは、一体、何語なのか。
>山川出版社は、日本史には強いけれども外国語には弱い、ということかな。

山川の「世界史リブレット」シリーズにも「Librétto」とあるようですね。
一般的にはともかく、教科書の世界では山川の存在は傑出していますから、どのような認識でいるのか、気になりますね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

羊たちの沈黙(映画) 2020/08/11(火) 13:27:08
小太郎さん
『戦国時代の天皇』を入手しました。
----------
雅親は、結果として最後の勅撰和歌集になった『新続古今和歌集』が編まれた際、二十代前半で五首の入集を果たしていた。同集に入集した者のなかで最も遅くまで生きたのは雅親であったから、雅親は最後の「勅撰歌人」(勅撰和歌集に詠歌が収められた歌人)だといえる。(10頁~)
----------
中世史に詳しい人でも、最後の勅撰歌人は誰ですか、と問われて、はい、飛鳥井雅親です、と答えられる人は少ないでしょうね。

小川宮(1404~25)という狂人の注に、「称光の飼養する羊をもらいうけながら即時に撲殺」(16頁)とありますが、どうでもいいようなことながら、称光天皇は羊のミルクを飲んでいた、ということなんですかね。あるいは、羊の鳴き声を楽しんでいた、と。

蛇足
日本史リブレットのカバー表にLibréttoとあって、e の上にアクサン・テギュが付いてますが、イタリア語 libretto はフランス語になってもアクサン記号は付きません(英語は勿論のこと、スペイン語やポルトガル語でも同じです)。つまり、Librétto とは、一体、何語なのか。山川出版社は、日本史には強いけれども外国語には弱い、ということかな。

追記(訂正後)
散らし書き『正親町天皇の年賀状』(58頁)は、解読文と対比させながら、どうにか全文を読むことができました。
ただ、著者は文末(下図の最後)を「かしく」と読んでますが、これは「かしこ」ではないでしょうか。
『後土御門天皇女房奉書』(45頁)において、上図の文末と下図の文末の相違を見れば、そうなるように思われます。著者は上図と下図の文末をともに「かしく」と読んでますが、上図は「かしこ」、下図は「かしく」ではないでしょうか。
なお、散らし書き『後奈良天皇消息』(61頁)は、解読文と対比させても、半分くらいしか読めませんが、文末(下図の最下段)は「かしく」で、『後奈良天皇消息』(65頁)の文末も「かしく」ですね。

追記の追記
上の追記は、たんに私が無知なだけで、この時代の消息・奉書等の文末はすべて「かしく」であって、「かしこ」などありえない、ということでしょうか。
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勅撰和歌集の終焉

2020-08-10 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月10日(月)10時00分29秒

山川出版社の「日本史リブレット」シリーズの一冊、末柄豊著『戦国時代の天皇』は本文が僅か112ページの小著ですが、内容的には決して入門書ではなく、専門的な研究者にも示唆が多いだろうと思われる本ですね。
文学への目配りもきちんとされていて、勅撰和歌集の終焉について、次のような解説があります。(p8以下)

-------
 幕府の衰退と朝儀の衰微とが連動していたことは、中世最後の大嘗会となった後土御門天皇のそれが、まさしく応仁・文明の乱の直前に行われたという事実によって象徴される。大嘗会が挙行された一四六六(文正元)年十二月十八日から七日ののち、畠山義就が上洛を遂げている。【中略】
 後土御門の大嘗会は、かろうじて応仁・文明の乱から逃げ切ることができたが、巻き込まれて息の根を止められてしまったのが勅撰和歌集である。【中略】
 一四六五(寛正六)年二月、後花園上皇は、足利義政の提案にもとづいて勅撰和歌集をつくることを決定し、和歌および蹴鞠を家業とする飛鳥井雅親を編集の責任者である撰者に任じた。雅親を頭首として、編集を担当する和歌所が設置され、後花園・後土御門・義政をはじめ、公武の有力者から材料として一〇〇首ずつの詠歌を提出させるなど、作業は着々と進められた。一四六七年(応仁元)年四月十七日には、義政が弟の義視をともなって和歌所を見学しており、作業は佳境を迎えていた。
 ところが、五月中旬、播磨国(兵庫県)など各地で戦いの火ぶたが切られ、同月二十六日には京都でも東西両軍の争いが始まる。京都における戦闘は市街戦の様相を呈し、多くの寺社や貴族の邸宅が放火や略奪の惨禍に遭った。六月十二日、西軍の一色義遠が自邸に火をかけた際、和歌所が置かれた飛鳥井雅親の邸宅も類焼してしまう。【中略】
 撰者の雅親は自家の所領がある近江国柏木郷(滋賀県甲賀市)への避難を余儀なくされ、事業は立ち消えになる。大嘗会は、一六八七(貞享四)年、東山天皇の即位に際して再興され、明治以降に大きな変容を遂げながら現代におよんでいるのに対し、勅撰和歌集は二度と編まれることはなかった。
-------

私の勅撰和歌集への関心は京極派の風雅和歌集で終わってしまっていて、室町期のことは全く無知だったのですが、応仁の乱の勃発がほんの少しだけ遅れていれば、古今集以降、連綿と続いた二十一代集にもう一つ追加されていたことは確実だった訳ですね。

飛鳥井家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E5%AE%B6
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珣子内親王ふたたび

2020-08-10 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月10日(月)09時39分57秒

前回投稿で引用した「大嘗会や勅撰和歌集が応仁・文明の乱によって途絶えたことを先にみたが、南北朝の内乱でいち早く断たれたものとしては、皇后や皇太子といった制度があげられる」(p77)に続く部分、たまたま今年の二月に少し検討した珣子内親王の名前が出て来ますね。

-------
 中世における皇太子の存在は、一三四八(貞和四)年に崇光天皇の皇太弟となった直仁親王が最後であった。直仁は、一三五二(正平七)年に南朝がいったん京都を制圧した際にその地位を廃され、以後皇太子が立てられることはなくなる。そして、一六八三(天和三)年に霊元天皇のもとで朝仁親王(のち東山天皇)の立太子が行われるまで、およそ三三〇年のあいだ不在が続いた。
 皇后についても、後醍醐天皇が京都に帰還した一三三三(元弘三)年に中宮に立てられた珣子内親王(後伏見天皇の娘)が最後になる。一三三七(延元二)年に珣子が女院の号を宣下されて新室町院になると、以後、一六二四(寛永元)年、後水尾天皇の後宮に入った徳川和子(のち東福門院)が中宮に立てられるまで、二九〇年近くも絶えてしまった。
 これらの不在も、東宮職・中宮職などの組織を整備し、皇太子・皇后の地位にふさわしい待遇を行うことが困難だという、経済的な理由によるものであった。【後略】
-------

後伏見院皇女・珣子内親王(1311-37)の母は西園寺公衡の娘・寧子(広義門院、1292-1357)なので、珣子は光厳天皇(1313-64)・光明天皇(1322-80)の同母姉ですね。
後醍醐が持明院統の珣子を中宮に立てるというのは些か奇妙な感じがしますが、この点については三浦龍昭氏が「新室町院珣子内親王の立后と出産」(『宇高良哲先生古稀記念論文集 歴史と仏教』、文化書院、2012)という論文を書かれています。
三浦氏は、

-------
 これまで後醍醐天皇については、彼の強烈な個性が注目を集め数多くの研究が蓄積されており、また建武政権をめぐっても森茂暁氏の一連の論考を始めとして多くのことがすでに明らかになっている。本論では、後醍醐天皇皇女(幸子内親王)の母珣子内親王の立后とその背景、そして彼女の出産をめぐる祈祷史料の分析などを通じて、建武政権期における政治状況について新たな一断面を描き出すことを目的としたい。
-------

ということで、珣子内親王の立后の検討を試みられるものの、三浦氏は、

-------
この問題を考える上で参考となりそうなのが遊義門院姈子の事例である。後深草の皇女であった姈子は、弘安八年(一二八五)八月、後宇多朝において后位についているが、これは立后の原則が全くあてはまらない異例のものであった。このような立后が行われた理由について、伴瀬明美氏は「持明院統に対する配慮(ないし懐柔策)」と解している。また三好千春氏は、皇位の継承と関連して、「天皇「家」のうち、天皇位は大覚寺統、后位は持明院統で折半する構図がここで現出している。本来は一対で王権を構成するはずの地位を、「二つの天皇家」が分割・保持することで、本命である皇位継承の攻防戦にとりあえずの折合いをつけた結果の姈子立后だったのではないだろうか」と論じられている。以上の指摘を踏まえると、今回の珣子内親王の立后も、父後宇多法皇のやり方に倣った後醍醐天皇の配慮(懐柔策)と考えられないだろうか。
-------

という具合いに、遊義門院に関する伴瀬明美氏と三好千春氏の先行研究に全面的に依拠されています。
しかし、遊義門院について以前からそれなりに熟考し、伴瀬・三好論文も検討済みだった私は、遊義門院は珣子内親王の立后には全然参考にならないと思って、その旨を論じました。
しかし、珣子内親王の立后そのものにはあまり触れないうちに、他の論点がいろいろ気になってきて、結局、きちんと纏めないままに終えてしまいました。
ま、機会があれば、もう少しすっきりした形で論じたいと思います。

二条良基を離れて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91ecab544e96e7299adab407b4b94ca6
三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その1) ~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f733ba40d8e3f29a3e37d779a2304137
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ec36c7d3bfda33efdc10b81911eb255
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61c79f96b44457894268ac8aab823d10
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/451545f9a06ffcb47decb7852eff1cfc
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b07826c5e0793f9459319d63f3099f45
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cdc2c396262ac0da5481ec383fdb6ec5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ba29eebcfe587bb836dfc166c642603
再々考:遊義門院と後宇多院の関係について(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18af00a5ef28c16a1d00e19454e7975a
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「時間・空間および人間を分節化して社会の秩序を可視化する契機を与える」(by 末柄豊氏)

2020-08-08 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月 8日(土)11時03分55秒

末柄豊氏の『戦国時代の天皇』(山川日本史リブレット、2018)を読んでみましたが、これは良書ですね。
落ち着いた明晰な文章はとても読みやすく、後進の研究者の手本になりそうです。

-------
南北朝以降の朝廷は、室町幕府の支援なくしては成り立ちえないものになっていた。それだけに、応仁・文明の乱によって室町幕府が衰退の道を進んだことは、朝廷にも大きな試練を与えた。そして、朝廷という組織を安定的に存続させるため、天皇は難しい舵取りを余儀なくされたのである。少なからず残されている天皇自身の手になる文書や日記を読み解くことによって、彼らの意識や思考のありようを探り、戦国時代の天皇が何をいかにして守ろうしたのかについて考えてみたい。


最終章の「禁裏と朝廷」で、末柄氏は、

-------
 戦国時代が天皇にとって厳しい時代になったのは、朝廷を経済的に支えてきた室町幕府が衰退したことに一番の理由があった。それによって、天皇の身位を再生産する儀式の遂行さえ困難になり、数多の儀式が途絶してしまった。さらに、儀式を担うべき廷臣や地下官人も窮迫したことで儀式の困難さが増した。天皇の日常生活こそ一定の水準が維持されていたものの、朝廷の諸活動はいちじるしい縮小を余儀なくされたのである。
 それでも、途絶えがちではありながら、改元や正月の節会などの限られた儀式を行い、消息宣下という略式の形態をとることがほとんどではあったが、官職位階の任叙を果たし続けた。朝廷の存在意義が時間・空間および人間を分節化して社会の秩序を可視化する契機を与えることだとすれば、かろうじて活動を維持し、その存在意義を証明していたといえる。
-------

とあっさり書かれていますが(p109以下)、「朝廷の存在意義が時間・空間および人間を分節化して社会の秩序を可視化する契機を与えることだとすれば」は含蓄の深い表現です。
末柄氏の別の著書・論文を見れば、この表現についてのもう少し詳しい説明がありそうですね。
さて、上記引用に続けて、

-------
 天皇が苦闘しながら維持につとめた戦国時代の朝廷は、彼らが規範として意識したであろう平安・鎌倉時代の朝廷に比して、きわめて小規模なものになっていた。最上位の貴顕として、天皇や摂関家のほかに、上皇(院)や女院が複数存在し、それに連なる貴族・官人たちが京中に横溢し、総体として朝廷を構成していた平安・鎌倉時代の状況とくらべると、戦国時代の朝廷においては、天皇の御所である禁裏の占める割合が突出して大きい。朝廷と禁裏とが徐々に等価に近づき、いわば裸の禁裏になりつつあったといえる。
-------

とありますが(p110)、朝廷の縮小は二段階で生じていて、最初は南北朝時代ですね。
少し戻りますが、

-------
 戦国時代が朝廷にとって縮小の時代であったことは論を俟たないが、これは戦国時代にいたって突如あらわれた状況ではない。既に南北朝時代に朝廷は急速な縮小を経験していた。この縮小は、室町幕府の助成によっていったん食い止められたが、応仁・文明の乱による幕府の衰えは、朝廷をかついてない状況におとしいれることになる。大嘗会や勅撰和歌集が応仁・文明の乱によって途絶えたことを先にみたが、南北朝の内乱でいち早く断たれたものとしては、皇后や皇太子といった制度があげられる。
-------

ということで(p77)、鎌倉時代は二段階縮小の前ですから、戦国時代の朝廷にとっては「規範として意識したであろう平安・鎌倉時代の朝廷」という位置づけになる訳ですね。
まったく当たり前の話ですが、つい最近、石原比伊呂氏と久永俊和氏は室町時代の貴族社会の人間関係の延長で鎌倉時代も眺めているのではなかろうか、という疑念を抱いたこともあり、ちょっと安心しました。

>筆綾丸さん
>「二〇二〇年二月一一日 芝大門のやきとり屋にて 久水俊和」(あとがき)

『北朝の天皇』の「あとがき」は「二〇二〇年五月 全世界的な外出自粛状況により執筆に専念せざるをえない自宅にて 著者」ですから、二つの「あとがき」は僅か三か月で世界が激変してしまったことの記念碑でもありますね。 

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

焼きとり屋の007 2020/08/06(木) 18:16:35
小太郎さん
「西洋からの輸入概念である「貴族」とは本来騎士という武装者」だとすれば、いわゆる軍事貴族(武家貴族)という用語は同義語反復だ、ということになるのでしょうね。

『中世天皇葬礼史』を拾い読みしました。
「二〇二〇年二月一一日??芝大門のやきとり屋にて??久水俊和」(あとがき)には、思わず吹き出してしまいましたが、中世天皇の葬礼を扱った本のあとがきの日付が建国記念日というのはなかなかのシニシズムで、しかも、「戎光祥選書ソレイユ」の光は陵墓(黄泉の国)には届かないのだ、というオチまでついていることになりますね。本書がソレイユ・シリーズの七番目(007)というのは単なる偶然で、残念ながら、スパイ映画のようなスリリングな味わいはありません。

付記
焼きとりの「焼く」は荼毘と同義ですね。
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「西洋からの輸入概念である「貴族」とは本来騎士という武装者」(by 榎原雅治氏)

2020-08-06 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月 6日(木)12時18分46秒

榎原雅治氏(東大史料編纂所教授)の『室町幕府と地方社会』(岩波新書、2016)を読んでいたら、「公家」と「貴族」という表現に関して興味深い指摘がありました。
前提として、榎原氏は室町期の公武の交流について、次のように書かれています。(p85以下)

-------
 公武の交流を端的に示すのは婚姻である。『太平記』は高師直が前関白二条道平の妹を盗み出して側室にしたことを記している。これは犯罪的行為をともなったものとして批判的に描かれているが、公武間の婚姻自体はやがて珍しくなくなる。
 たとえば北朝の太政大臣洞院公賢の側室の一人は尊氏の近習波多野氏の娘だった。後光厳朝に仕えた勧修寺経重の娘は山名義理(紀伊・石見守護)の妻となって教清(のちの美作守護)を生んだ(『仁和寺文書』)。細川頼之、山名氏清の妻はともに中納言持明院保冬の孫娘だった(『尊卑分脈』)。義満の時代に伝奏を勤めた広橋仲光の妻は阿波守護細川家の出身であったらしい(『兼宣公記』)。同じころの右大臣今出川実直の妻は安芸守護武田氏、大納言中山親雅の妻は美濃守護土岐氏の出身だった(『尊卑分脈』『薩戒記』)。同様の例は時代が下ればさらに増える。
 以上は守護クラスの大名と公卿クラスの公家の通婚であるが、朝廷で文書作成や財政の管理にあたる実務系の官人たちを見ると、武家との間に独自の通婚関係が結ばれていた。
-------

そして実務官人と土豪・国人クラスの通婚の事例を挙げた後、榎原氏は、

-------
 地方の中小武士たちもこの時代には奉公衆として、あるいは守護の家臣として在京する時間が多かったので、京都の人々との接点は多かっただろう。公卿に昇ることのない実務系の公家たちは、こうした武士たちと縁組みの関係を作っていたのである。
 こうした状況は、当時の社会の中に、公家、武家を貫く家格意識が生まれていたことを示している。これは婚姻だけにとどまらない作用を及ぼす。
-------

とし(p84)、更に、

-------
 再び花の御所に目を向けてみよう。義教の時代、花の御所の中の常御所では二十人ほどを集めて、月例の連歌会が開催されていた。そこには山名時熈、赤松満祐らの大名たちに交じって二条持基、一条兼良、三条西公保らの公家も加わっていた。また歌作に長けていない大名たちもその場には同席し、また終了後の宴会では正親町三条実雅、高倉永豊ら将軍側近の若い公家たちが会の介助をしていた。まさに公武一体の社交サロンである。
 連歌会は後その外に出かけて行われることもあった。【中略】
-------

という具合いに公武間の文化的交流の様相を描きます。
そして、榎原氏は次のようにまとめます。(p85)

-------
 このように大名と公卿たちの間では、婚姻だけでなく、文化的な場でも交流が進んでいたのである。日本史では「貴族」という言葉は「公家」と同義で用いられることが多いが、西洋からの輸入概念である「貴族」とは本来騎士という武装者を指している。そのことからすれば、日本においては上層の武士を含めて「貴族」ととらえることは許されるだろう。家格を同等と認識する公武の人々が、婚を通じ文化を共有するようになったのがこの時代である。公武をつらぬく貴族社会が成立したといっていいだろう。
-------

石原比伊呂氏の所謂「儀礼的昵懇関係」も、公武のトップだけの特殊な現象ではなく、公武社会全体のこうした状況が背景になっている訳ですね。
ところで、公武間の通婚は鎌倉時代にもそれなりにありましたが、事例は比較的鎌倉前期に多く、通婚する家系も実際上かなり限定されている感じですね。
京都という空間に公家も武家も居住するようになった室町時代は通婚の範囲と文化的交流の頻度は拡大しますが、公武を貫く一体化した「階級」が形成されたかというと、そこまでは行かないように思います。
戦国時代に公家社会が著しく縮小した後、近世に入って若干の回復はあるものの、武家との文化的差異はむしろ強調され(「禁中並びに公家諸法度」等)、「階級」としての一体性は形成されないまま近代を迎える、といったことになるのでしょうか。
「階級」などと柄にもない表現を使ってしまいましたが、室町以降は「公家」「(上層)武家」を総称して「貴族」とするのは、やはり若干の無理がある感じですね。
ま、榎原氏も「公武をつらぬく貴族社会」がずっと継続されると主張されている訳ではないでしょうが、「西洋からの輸入概念である「貴族」とは本来騎士という武装者を指している」としても、日本史で「貴族」を「武装者」限定で使うのは無理があり、結局は「日本史では「貴族」という言葉は「公家」と同義で用いられることが多い」という状況が今後も続きそうですね。

>筆綾丸さん
>石原比伊呂氏は、名前からして女性かな、と思ってました。

わはは。
私は「hero」から来ているのかな、などと想像していました。
ま、珍しいお名前ではありますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

緋色の聖心 2020/08/05(水) 22:06:02
小太郎さん
石原比伊呂氏は、名前からして女性かな、と思ってました。また、後柏原天皇の即位儀の喩えが、なぜサグラダファミリア(Sagrada Familia)なのか、と思いましたが、聖心女子大学(University of the Sacred Heart)の准教授なので、フロイト理論を援用するまでもなく、Sacred が Sagrada を喚び寄せた、ということなんでしょうね。
アガンベンの Homo sacer の sacer は sacred の語源ですが、『実在とは何かーマヨナラの失踪』(講談社選書メチエ)を読んで、アガンベンの思考方法が少しわかりました。

久水俊和『中世天皇葬礼史』がアマゾンから届いたので、読んでみます。
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少し反省:石原比伊呂氏『北朝の天皇』について

2020-08-05 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月 5日(水)20時40分52秒

石原比伊呂氏の『北朝の天皇』について否定的な書き方をしてしまいましたが、ツイッター等で検索してみると、同書にブチブチ文句を言っているのは私くらいで、概ね評判が良いようですね。
私の言語感覚では「儀礼的昵懇関係」は若干引っかかるのですが、例えばキリュー氏(木下竜馬氏、東大史料編纂所助教)は、『足利将軍と室町幕府 時代が求めたリーダー像』(戎光祥出版、2017)に関連して、

-------
将軍以上に北朝天皇たちがクズ揃いで、皇統は混乱、朝廷組織もグダグダ。そんな天皇家と朝廷を支える室町将軍を描く本書は、「天皇はなぜ続いたのか」という問いを考える素材にもなるのでは?「成熟した儀礼社会」における「儀礼的昵懇関係」というタームも、他の君主制と比較する上でおもしろい。


と言われていますね。
ま、私も『北朝の天皇』の中で分量的には僅少な鎌倉時代について多少の疑問を抱きましたが、他の部分は内容ではなく表現が気になるだけ、要するに自分と趣味が違うというだけの話ですね。
歴史愛好家であっても武家社会に比べたら公家社会に興味を持つ人はほんの僅かですから、石原氏の文体も新しい読者を開拓するための工夫の現れかもしれず、ブチブチ文句を言うのはちょっと大人げなかったようです。
奥付を見ると石原氏は1976年三重県生まれ、東京都立大人文学部卒業、青山学院大学大学院博士課程修了で、現在は聖心女子大学現代教養学部准教授だそうですね。


>筆綾丸さん
>本郷氏は、清濁併せ呑むというか、

濁流に自ら飛び込んで流されているのかもしれないですね。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

日本史の定説を疑う 2020/08/04(火) 16:08:08
小太郎さん
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784299005465
立ち寄った本屋さんに、こんな本があって、ちょっと驚きました。共著者の伊沢氏は、昨年、呉座氏と不毛なケンカをしていましたね。
本郷氏は、清濁併せ呑むというか、学界と在野の橋渡し役というか、本流歴史学と俗流歴史学の調停者というか、いまや、独特の道を歩んでいますね。

喉に刺さった小骨 2020/08/05(水) 13:29:39
執念深くググっていると、中近世の古文書に以下の文言を見つけました。
以此旨可有洩御披露候
以此旨可令洩申入給
現在では、洩の字は、機密を洩らす・小便を洩らすなど、良い意味ではあまり使われないけれど、昔は、お伝えする・言上する・進上する、くらいの意味で使われていたようで、「えい」と音読みにしたのではあるまいか。もらす、と読んでも構わないのですが。
『猿図』の送り状にある「宜令洩申賜候」に御披露を補って「宜令洩御披露申賜候」とすれば、庁務法眼御房に対して、天台座主覚恕法親王に猿の絵を御披露くださるようお願い申し上げます、ということになり、意味が通ります。したがって、「宜令洩申賜候」は「宜しく洩せしめ申し賜ひ候」と読めばいいのだろう、と思われます。
僭越ながら、大岡越前守忠相に倣って言えば、これにて一件落着、となるような気がします。
なお、上記の二例は、
此の旨を以て御披露洩あるべく候
此の旨を以て洩せしむべく申し入れ給ふ
となるのでしょう。
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