学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

『中世王権の音楽と儀礼』へのプチ疑問(その2)

2019-02-28 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月28日(木)22時01分20秒

猪瀬千尋氏は「[表] 舞御覧における仮名記、御所作、舞、一覧」(p113)において、康保三年(966)の大内裏での「侍臣舞」から応永十五年(1408)の北山第での「行幸」まで、14の「舞御覧」を一覧表に整理しています。
そして、「後白河院五十御賀から足利北山第行幸までの九つの「舞御覧」のうち、その六つまでに行事を記録した仮名記が残されている」(p111)そうですが、その初例である「安元御賀記」は安元二年(1176)に行われた「後白河院五十御賀」の記録で(p106)、筆者は四条隆房(1149~1209)、即ち後深草院二条の母方の祖父・四条隆親(1203-79)の更に祖父ですね。

四条隆房
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E6%88%BF

次いで正元元年(1259)の北山第における「大宮院一切経供養」には「行幸記」という仮名記があるそうですが、猪瀬氏が引用されているように『増鏡』にも若干の記述があります。

「巻六 おりゐる雲」(その8)─大宮院、一切経供養
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d35e1fccb4e8e45d7f2797836ac6635f

その次の文永五年(1268)の「後嵯峨院五十御賀」については後で検討するとして、弘安八年(1285)の北山第における「大宮院九十賀」は「北山准后九十賀」の誤りですね。
これは猪瀬氏のケアレスミスで、本文(p112)では猪瀬氏も「北山准后九十賀」としています。
北山准后こと四条貞子(1196-1302)は西園寺実氏(1194-1269)の正室で、大宮院(後嵯峨天皇中宮、1225-92)と東二条院(後深草天皇中宮、1232-1304)の母であり、また四条隆親の姉でもあります。
この女性は弘安八年に大宮院の主催で「九十賀」をしてもらった後、更に十七年生きて正安四年(1302)に百七歳で亡くなったという驚異の御長寿で、『続史愚抄』という江戸時代の史書には、これほど長命な人は遥か昔の武内宿禰以来だ、みたいなことが書いてあります。

四条貞子(1196-1302)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E5%AD%90

ま、それはともかくとして、肝心の文永五年(1268)の「後嵯峨院五十御賀」について、猪瀬氏は、

-------
年号/西暦 文永五 一二六八
場所 富小路殿
行事名 後嵯峨院五十御賀
日程 試楽のみ
仮名記 文永五年院舞御覧記
御所作(楽器) 不明
青海波 花山院家長(16)花山院忠季
陵王 四条隆親男
納蘇利 四条隆親男
胡飲酒 近衛家基(8)
-------

としているのですが、「文永五年院舞御覧記」(『続群書類従』巻第五百二十八、管弦部二)を見たところ、著者・執筆時期不明、内容も欠落が多いようで、信頼性の高い同時代史料とは言い難いですね。
その冒頭には、「一院の舞御らんの事 内裏の舞御覧のゝちこの事有」とあるだけで、場所も書かれておらず、これだけでは「富小路殿」と特定はできません。
従って猪瀬氏が別の史料で上記記述を補っていることは明らかですが、それが何かは明記されていません。
ところで、『増鏡』「巻八 あすか川」には「後嵯峨院五十賀試楽」の長大かつ詳細な記述がありますが、場所については「冷泉殿にて舞御覧あり」と記されていて、富小路殿ではありません。

「巻八 あすか川」(その1)─後嵯峨院五十賀試楽
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/516dab82b9ece210bbbd258cf04d5a02
「巻八 あすか川」(その2)─「二条大納言経輔」の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4831a8acf5a6dffb71133e2a9281e1c
「巻八 あすか川」(その3)─「陵王の童も、四条の大納言の子」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e774c169862151c1bd9cf00697464171

そして「後嵯峨院五十賀試楽」の煩瑣な記事がやっと終わった後、今度は「富小路殿舞御覧」の長い記事が続きます。

「巻八 あすか川」(その4)─富小路殿舞御覧
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfa7af54134ac031a3daa1e82e4d01bb

ということで、『増鏡』を参照する限り、文永五年には二つの「舞御覧」が連続してあって、猪瀬氏はそれを混同しているのではないかと疑われるのですが、実は『増鏡』の記述にも、その信頼性について若干の問題があります。
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『中世王権の音楽と儀礼』へのプチ疑問(その1)

2019-02-27 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月27日(水)12時49分3秒

猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』(笠間書院、2018)はまだ途中ですが、一箇所、少し気になる点がありました。
それは第四章の「舞御覧」に関する記述です。
私は元弘元年(1331)の後醍醐天皇北山行幸を記録した「舞御覧記」という史料に少し興味を持っていて、この行事を含む「舞御覧」全般についての猪瀬氏の分析は大変参考になりました。
ただ、猪瀬氏作成の「舞御覧」の一覧表(p113)には『増鏡』に出てくる「富小路殿舞御覧」という行事が含まれていません。
これは何故なのか、というのが私の疑問です。

「巻八 あすか川」(その4)─富小路殿舞御覧
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfa7af54134ac031a3daa1e82e4d01bb

あまりにマニアックな話ですので、最初に関係する部分を少し丁寧に紹介しておきます。
「第四章 歴史叙述における仮名の身体性と祝祭性─定家本系『安元御賀記』を初発として」の構成は、

-------
  はじめに
一 「宮廷誌」論と「北山第行幸仮名記」
二 舞御覧の特質
三 仮名によって音〔こえ〕はおぎなわれる
四 仮名は儀礼を祝祭し、日記の文脈を「語り」へと変える
五 仮名は儀礼と儀礼をつなぐ
  結語
-------

となっていて、第二節は次のような内容です。(p111)

-------
二 舞御覧の特質

 すでに小川剛生によって「宮廷誌」は一代一度の儀礼が多い点が指摘されている(前節参照)。特に顕著なのが、御賀に代表される、天皇の行幸をともない、複数日に渡って舞、船楽、蹴鞠、三席(歌会、作文、御遊)などが行われる儀である。あとに述べるが廷臣とその子息による舞楽が骨子となるために、しばしば「舞御覧」の名で称される儀礼である。以下、御賀や複数日の臨時行幸といった儀礼の上位概念として「舞御覧」の用語を用いるが、ここで考えたいのは舞御覧においてたびたび「宮廷誌」が作成されている事実である。次項 [表] に掲示したのは平安~南北朝時代に行われた舞御覧をまとめたものだが、後白河院五十御賀から足利北山第行幸までの九つの「舞御覧」のうち、その六つまでに行事を記録した仮名記が残されている。また仮名記が残らない北山准后九十賀においても、『とはずがたり』の描写が、実際の記録次第に基づいて構成されている点など、『御賀記』に似た一種の「宮廷誌」風の内容になっている。
 なぜ舞御覧において「宮廷誌」が作成されるのか、その理由を理解するためにも舞御覧という儀礼の特質を明かす必要がある。[表] に示した儀礼の史料分析によって得られた結論を以下に三点挙げたい。
 一点目に、まず舞御覧(特に御賀)が行なわれる季節は、ほとんどが春、旧暦の三月の初旬、つまり花の盛りの時期であるということである。[表] の一覧からも、それは明らかであろう。これは延喜年間に行われた二度の御賀(宇多院四十御賀、五十御賀)に拠っているためと考えられる。
 二点目は、舞楽である。舞楽そのものは堂供養や朝覲行幸においても行われるが、普段は地下の楽人を中心として行う。それが、舞御覧においては、舞人楽人の多くが廷臣とその子息によって構成される。特に廷臣による舞を「侍臣舞」と呼び、康保三年(九六六)十月に行われたものを初例とする。侍臣舞のうち、左舞の青海波においては「垣代」と呼ばれる特殊な奏法がとられる。舞者二人のまわりを演奏者が円を描きながらまわるもので、これも通常は地下楽家が四人ほどで舞うのだが、舞御覧においては二十~五十人規模でおこなわれることが多い。
 また、左舞の胡飲酒、陵王、そして右舞の納蘇利は童によって演じられることが多い(参考として [表] に、舞御覧おける各所作を示した)。彼らは面を付けず、かざしに季節の花をゆいつけて舞う。童舞は舞楽におけるクライマックスである夕刻に行われる。そのため舞の次第を変更して童舞を先立てることもあった。童舞に対する賛辞の言は、漢文日記においても筆が尽くされる部分で、一連の儀礼が舞御覧と称されるゆえんともなっている。
 三点目は御所作(天皇による楽器の演奏や郢曲の所作)が見られることである。舞御覧における御所作は累代楽器(天皇の一代一度の儀礼でしか使用されない楽器)によって行われる特別なもので(本書第一章参照)、童舞とならんで漢文日記において特筆される場面であった。記録上で最初に注目されたのは、白河院六十御賀における鳥羽天皇の催馬楽である。藤原忠実は当時、十歳であった天皇の奏楽を「非其程人所為」としている。舞御覧の一であり「行幸記」として仮名化された大宮院一切経供養では、後深草天皇と春宮時代の亀山が合奏を行っている。「希代珍事為、定先規歟」とされ、また『増鏡』は亀山の御所作を「まだいと小さき御ほどに、みづら結ひて、御かたちまほ美しげにて、吹きたて給へる音の、雲井を響かして、あまり恐ろしきほどなれば、天つ乙女もかくやとおぼえて」(巻六「おりゐる雲」)とする。この演奏は北山准后九十賀において後宇多天皇と煕仁親王(伏見)の合奏に引き継がれるとともに、後に後嵯峨、後深草、亀山という上皇、天皇、東宮による三合奏という形で訛伝され、足利義満は恐らくこれにならい、応永の舞御覧において義満、後小松、義嗣の三合奏をおこなっている[表]。
 このように舞御覧においては御前での侍臣舞や童舞、御所作など、様々な儀礼が行われ、それに連なる人々のいでたちもまた色彩豊かなものであり、一種の王権スペクタルが形成されていた。
-------

以上、[表]は省略しましたが、第二節の全文です。
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「いかに珍しい文献を夥しく引こうと、たくさんの注を付そうとも、本書は論文集ではない」(by 阿部泰郎)

2019-02-26 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月26日(火)11時39分10秒

前回投稿で名古屋大学大学院教授・阿部泰郎氏に対し若干の不遜な言辞がありましたが、私は別に阿部氏との間で特段の確執がないのはもちろん、そもそも阿部氏と面識すらありません。
ただ、以前、阿部氏の『湯屋の皇后 中世の性と聖なるもの』(名古屋大学出版会、1998)という本を購入し、その「あとがき」に「本書は論文集ではない」とあるのを見て、「舐めとんのか(怒)」と思ったことはあります。

名古屋大学大学院文学研究科附属人類文化遺産テクスト学研究センター
『湯屋の皇后 中世の性と聖なるもの』

同書については小谷野敦氏が「「聖なる性」の再検討」(国際日本文化研究センター『日本研究』29号、2004)で批判されていますが、これは日文研サイトで読めますね。
少し引用すると、

-------
 というのは、一九九八年に刊行された阿部泰郎の『湯屋の皇后中世の性と聖なるもの』(名古屋大学出版会)があり、これがいかにも学術書らしく見えたために、門外漢の私は、「中世においては議論は成立している」と判断してしまったのである。ところが近頃ようやく腰を据えて阿部著を読みはじめると、確かに、佐伯著その他先行研究に依拠せずに、人も知らない珍しい資料を用い.、詳細な注も付いているが、その本文はあまりに文学的なレトリックと、時に飛躍や想像に頼っており、改めて「中世の聖なる性」が本当に学問として成立しているのかどうか、疑問を抱き始めたのである。阿部著は、その「あとがき」に、「本書の何処においても、私は、〈聖なるもの〉とは何か、を決して定義しようとしなかった。そういう点からすれば、いかに珍しい文献を夥しく引こうと、たくさんの注を付そうとも、本書は論文集ではない」と記されている。当時のの書評はみなこの断言に驚き、これを引用している。三田村雅子は「大胆にして、不敵な言挙げである」とし、「聖なるものの内容を定義して、その内容から聖なるものの顕現を説こうとするいわゆる『論文』の言説が、いかに枠組みに縛られ、学問という『おもだたしい』制度に守られた予定調和的な物言いになってしまっているか。【ママ】もっとも本質的なものから目を背けて営まれてきたかを、阿部はさりげなくつきつける」としている。だが田中貴子は、阿部への書簡形式の書評で、この本は一つの「物語」でしかなく、「今まであなたのお仕事を正面切って批判した人がほとんどいないのは、みなが『阿部ワールド』にのめり込んでしまうからなのです。でも、それは研究者として不幸なこと」と書いている。私は田中に同意したい。しかし、阿部著に限らず、「聖なる性」をめぐる従来の諸説に、「物語」でないもの、学問的批判に耐えうるものが、本当にあったのだろうか。


といった具合です。
気色の悪い文体で描かれた「阿部ワールド」は一般人には近寄りがたい奇妙な世界ですが、「阿部ワールド」を絶賛する三田村雅子氏にもなかなかの水準の「論文」が多いですね。
今から十年ほど前、私は高岸輝氏の『室町絵巻の魔力』(吉川弘文館、2008)をきっかけに今西祐一郎・松岡心平・三田村雅子・小川剛生等の国文学界の著名学者の論文をまとめて読んだことがあります。
その結果、国文学の世界は本当に莫迦ばっかりだなと思ったのですが、その中でも三田村雅子氏の存在感は大きく、私の狭い知見の範囲では、「阿部ワールド」と「三田村ワールド」は国文学界の莫迦の双璧ではないかと思います。

喧伝とは?
紫の上と北山院の共通点
「水際立ったやり方」
The Great Mother
「足利義満の青海波」
渦巻く人
組曲「北山」

>筆綾丸さん
最近の呉座氏は「陰謀論」退治に熱心ですが、四十代は学者として極めて重要な時期なのに、あんなくだらないことをやっていていいのかな、と余計な心配をしたくなります。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

帰朝報告(於 洛外の日文研) 2019/02/25(月) 13:31:36
小太郎さん
面白そうな本ですね。
私も、昔は、両統迭立を1260年前後まで外挿してぼんやりしていた時期があり、猪瀬千尋氏の記述もなんとなくわかります。

呉座氏は、ベストセラー作家兼予言者として、善男善女を惑わす妖言を真面目腐ってばら撒いているようですが、かりに、応永期や応仁期の都で数十年間過ごし、タイムマシンに茣蓙を敷いて帰朝したバリバリの「中世帰り」だとしても、無意味なアナロジーで鬱陶しい話です。

http://dokusaisha-movie.jp/
『ちいさな独裁者』は、見終わって、なんともイヤーな気分になりました。
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猪瀬千尋氏『中世王権の音楽と儀礼』

2019-02-25 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月25日(月)10時25分45秒

ツイッターで猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』(笠間書院、2018)の存在を知り、税別8,500円と若干高価なため購入すべきか迷っていたところ、たまたま近くの図書館が所蔵していたので借りてみました。

-------
【本書は日本中世の王権の中で、音楽が果たした役割について考察したものである。音楽が持つ特質を権力性、身体性、宗教性の三点ととらえ、三つの特質が事象としてあらわれる場である儀礼を分析の中心とする。その考察の方法は、注釈と書誌学的分析にもとづいて、時代のものの見方に即した「読み」を提示する、日本文学研究において一般的な方法である。ただし扱う資料は、従来の文学作品の枠にとどまらず、仮名日記や漢文日記、故実書や唱導、図像や楽器についても視野におく。儀礼と儀礼を形づくる諸資料の分析を通して、文学?歴史?思想が連関する、音楽の文化的動態を解明することが本書の目的である。…序章より】

http://kasamashoin.jp/2018/02/post_4101.html

上記サイトの著者紹介に「1984年生。2013年名古屋大学大学院文学研究科博士課程修了。名古屋大学大学院文学研究科附属人類文化遺産テクスト学研究センター研究員。博士(文学)」とあり、阿部泰郎の弟子かと思って少し嫌な予感がしたのですが、「あとがき」を見ると、猪瀬氏は学部は立命館だそうですね。
「本書は二〇一三年に名古屋大学へ提出した学位論文にもとづいて」おり、「審査にあたっては、主査を阿部泰郎先生とし」、「修士課程から今日にいたるまで学問と接していられるのは、指導教官である阿部先生のおかげ」(p424)だそうですが、文体には阿部泰郎の気色の悪い爬虫類的なクネクネ文体の影響は全くなくて、ごく普通ですね。
猪瀬氏はもともと科学哲学をやりたかったそうですが、「志望していた大学の理学部と教養学部の試験についに通らなかったあとで、それまで何の接点も見なかった文学部へ入」ったとのことで(p423)、数学も物理も全然ダメな人が多そうな古典文学の世界では稀有な存在のようです。
ま、まだ序章と第一章を読んだだけなのですが、一箇所、ちょっと変なところがありました。
「第一章 琵琶の時代の特質」で、

-------
笙「キサキエ」、横笛「青竹」「小水龍」「柯亭」、筝「鬼丸」「伏見」「神智作」、琵琶「玄上」、和琴「鈴鹿」といった楽器が、天皇の一代一度の儀でしか使用されていないことがわかる。
-------

という記述(p26)に付された注27に、

-------
(27) これら一部の楽器が特別の儀礼でしか用いられなかったことは、玄上所作の回数からもわかる。【中略】
 しかしだからこそ例外は重く見る必要がある。時に、玄上が二度、一代一度の儀以外で用いられている。一例は元享三年(一三二三)の御楽であり、この意義については本書第二章でのべる。そして、もう一例が文応元年(一二六〇)の後深草院拍子合である点は注目される(なおこの御遊では筝・鬼丸も用いられている)。後深草は三曲のうちの一つも伝授なしで玄上を二度奏するなど、他の天皇と異なり、玄上奏楽の規範を破っており、持明院統の正統の楽器として、玄上を位置づけようとする意図があったのだと推定される。
-------

とありますが、後深草院は寛元元年(1243)生まれ、同四年に践祚、正元元年(1259)に父・後嵯峨院の命で弟の亀山天皇に譲位しています。
文応元年(1260)は譲位の翌年で、上皇ではあるものの年齢は僅かに十八歳。
そして、この時期は朝廷の全てを「治天の君」後嵯峨院が指導していて、持明院統・大覚寺統の対立など全く存在せず、それは文永九年(1272)の後嵯峨院崩御後の話です。
仮に文応元年に後深草院が「玄上奏楽の規範を破っ」た例が極めて特異な事象であったとしても、当該時点で後深草院に「持明院統の正統の楽器として、玄上を位置づけようとする意図」があったとは考えられず、あくまで後嵯峨院の指示、あるいは了解の下に行われた行為ですね。
ま、この点は些細な誤解で、『中世王権の音楽と儀礼』全体の評価に影響するような話ではありませんが。

後深草天皇(1243-1304)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B7%B1%E8%8D%89%E5%A4%A9%E7%9A%87
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呉座勇一氏と松沢裕作氏による我田引水の力量比べ

2019-02-23 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月23日(土)23時43分3秒

>筆綾丸さん
>雲英は明治のキラキラネーム

「雲母」だったら「きら」と読めますが、「雲英」で「きら」は難読、というか知らなければとても無理ですね。
ご紹介の「日本姓氏語源辞典」サイトの説明に「吉良の異形。愛知県西尾市一色町一色中屋敷にある浄土真宗の安休寺の僧侶による明治新姓」とありますが、私もこれに気づいてツイッターで「雲英」についてあれこれ書いていたところ、近世文学に詳しい方から早稲田大学名誉教授で近世文学・俳諧の研究者に雲英末雄という人がいることを教えてもらいました。
ウィキペディアを見ると、雲英末雄(きら・すえお、1940-2008)は「愛知県幡豆郡一色町(現西尾市)生まれ」とあるので、雲英晃顕(宇野三郎、1930-2008)と共に「浄土真宗の安休寺の僧侶」一族である可能性は極めて高く、ほぼ同世代の二人は兄弟もしくは従兄弟くらいの関係かもしれないですね。

雲英末雄

>呉座氏の了見
日経記事には、

-------
困窮と孤独という悲観は「内に向かえば自殺、外に向かえば、秋葉原や(大阪教育大付属)池田小で起きたような無差別殺傷事件につながる」。

「応仁の乱の前後で宗教組織が勢力を伸ばした。不安な社会情勢のなか、来世の救済を約束して若者を中心に支持を集めて武装に走った」。こうした歴史からはオウム真理教事件を想起するという。

とありますが、現代の社会情勢を自分の専門とする時代の事象に強引に結びつけて類似性を強調するという手法は松沢裕作氏の『生きづらい明治社会』と共通ですね。
呉座氏の我田引水の巧みさは松沢氏に劣るとも優らない感じがします。

-------
新しい年号の時代が5月に始まる。少子化問題や国と地方に積み上がる借金。次の時代に引き継がれる負の遺産も多い。「今まで目をつぶってきた問題がどんな結末になるのか。悲観論者なので、少し心配している」
-------

とのことなので、二人は陰気な性格と将来に対する展望の欠如も共有されているようですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「キラキラネーム(徒然草第116段)」 2019/02/22(金) 15:21:52
小太郎さん
https://name-power.net/fn/%E9%9B%B2%E8%8B%B1.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A9%E3%82%AD%E3%83%A9%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%A0
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure100_149/turedure116.htm
雲英は明治のキラキラネームということになるのでしょうね。

https://ttcg.jp/human_yurakucho/movie/0532000.html
明日は、『ちいさな独裁者』を観に行こうかと考えていますが、予告をみると、黒澤明の『影武者』を意識しているような気がします。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40872830U9A200C1CR8000/
三週間前の記事ですが、なぜ、こんな比較をするのか、呉座氏の了見がよくわかりません。
コメント (1)
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「コミンフォルムの評論を朝鮮戦争との関係で考えたことはなかった」(by 宇野三郎こと雲英晃顕)

2019-02-21 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月21日(木)13時08分44秒

>筆綾丸さん
『NHKスペシャル 朝鮮戦争~分断38度線の真実を追う~』は1990年当時の研究水準が概観できて、なかなか便利ですね。
朝鮮戦争勃発以来、最初に攻撃したのが北朝鮮側か韓国・アメリカ側か、などという今では滑稽に思える論争が延々と続いていましたが、さすがに1990年頃には終息していたようです。
同書を少し引用してみると、

-------
 日本共産党は朝鮮戦争について、かつてはアメリカ帝国主義が引き起こしたものとしてきたが、一九八八年に出版された『日本共産党の六五年』では立場を変えている。「五〇年六月二五日、朝鮮を南北に分断する三八度線で軍事衝突が起き」と書いた後、北朝鮮と韓国の言い分を並べている。一見、中立的だが、「こうして全面的な内戦が始まった。朝鮮民主主義人民共和国の軍隊は韓国軍の不意を突いて急速に進撃し、三日後の六月二八日、ソウルを占領……」と述べ、朝鮮戦争がアメリカの侵略で始まったものではないこと、韓国側は戦争の用意がなかったことを、かなりはっきりさせている。
 『日本共産党の六五年』では、コミンフォルムの日本共産党批判と朝鮮戦争との関連については触れられていないが、この点について日本共産党社会科学研究所の宇野三郎所長は、こう説明する。
「コミンフォルムの評論を朝鮮戦争との関係で考えたことはなかった。共産党としてはこれまで、朝鮮戦争をアメリカの反共政策との関係でみていた。一九五〇年の六・六(日本共産党)追放はアメリカが朝鮮戦争を進めるためのステップであると長い間考えてきた。それが、朝鮮戦争は金日成が仕掛けたものであることがどうも正しいという理解に達し、党史を書き変えるにあたって六・六理論をいかに克服するかで精いっぱいであった」
「いわれてみれば、スターリンの当時の極東戦略として、朝鮮半島と日本が切り離されたものとして考えられたとは思えないし、日本共産党批判が朝鮮半島での武力南進と関連づけて考えられていることも妥当のように個人的には思える。しかし証拠はない」
「当時の文献や記録された談話には、野坂や徳田が、このコミンフォルム評論を、スターリンの意図が朝鮮半島と合わせた日本での武力革命の推進にあると読んだことを示すものはないと思う。『日本共産党の六五年』で朝鮮戦争とコミンフォルム評論を結びつけて論じてないのは、決して意図的に隠したというようなものではなく、思い及ばなかったにすぎない。一つの研究課題を負わされた感じではある」
 世界共産主義運動は国際連帯を重んじてきた。結果的にそれがソビエトの一国社会主義や、ソビエトや中国の大国主義、さらには社会帝国主義に変質したのかもしれないが、ともかく一つの国の社会主義革命をみんなが連帯感を持つように求められた。一九六五年には中国を訪れた日本共産党の宮本書記長らに、毛沢東が、当時燃え盛っていたベトナム戦争に関連し、アメリカ軍の基地になっている日本でベトナム支援のためにゲリラ闘争をやれと、要求したと伝えられている。
-------

ということで(p221)、宇野三郎のような頑迷な日本共産党の御用学者ですら認識を改めざるをえない状況だった訳ですね。
さすがに今では開戦責任論争は雲散霧消し、2月3日の番組でも一顧だにされていませんでしたが。
どうでもよいことですが、ウィキペディアを見たところ、宇野三郎は実家が寺で、本名は雲英晃顕(きら・こうけん)という立派な名前だったそうですね。
まあ、この絢爛豪華な名前では仏教色が強すぎて共産党員としては些か重荷だったのでしょうが、それにしても宇野三郎とはずいぶん平凡なパーティーネームを選択したものです。

宇野三郎(1930-2008)

>教会内での銃撃戦というのは初めてみました

私は筆綾丸さんからお聞きした『ハイドリヒを撃て!』で見た覚えがあったので、あれっと思いましたが、筆綾丸さんは御覧になっていなかったのですね。
『ハイドリヒを撃て!』は何だか古臭くて後味の悪い映画でした。

『ハイドリヒを撃て!』と『ダンケルク』
Bildung für Nazis(筆綾丸さん)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

HHhH 2019/02/21(木) 12:01:57
小太郎さん
29年前のNHKスペシャルの再放送があれば、ありがたいですね。

http://hhhh-movie.asmik-ace.co.jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%89%E4%BD%9C%E6%88%A6
一昨日、日比谷シャンテで『ナチス第三の男』を観ましたが、登場人物(ヒムラー、レーム、ハイドリヒ・・・)がすべて英語を話すという倒錯的な言語表現に、西欧人は違和感を覚えないものなのかどうか。ヒトラーの「我が闘争」は、「My Struggle」ではなく「Mein Kampf」と言ってましたが。
ハイライトは、プラハの聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂におけるレジスタンスとナチスとの銃撃戦で、教会内での銃撃戦というのは初めてみました。

https://en.wikipedia.org/wiki/HHhH
原作『HHhH』は、Himmlers Hirn heißt Heydrich(=Himmler's brain is called Heydrich)の abbreviation ということです。
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「(レベジェフ将軍は)どこまでも抜け目のない老人であった」(by 饗庭孝典)

2019-02-20 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月20日(水)11時11分29秒

朝鮮戦争に入りこんだらすっかり補給線が伸びきってしまいました。
そろそろ撤退の時期ですが、その前に昨年末、内田力氏の論文を読んで以来の疑問には一応の決着をつけておこうと思っています。

内田力「一九五〇年代の網野善彦にとっての政治と歴史」へのプチ疑問(その1)

>筆綾丸さん
先日の番組に比べると29年前のNHKスペシャルは非常に優れた内容ですね。
まだまだ事実関係の解明が不十分だった時期で、例えばソ連関係では、

-------
壁厚いソビエト軍関与の実像

 グラスノスチの結果として、いまではKGBの文書保管所やスターリンの政敵だった政治家に関する資料が保管されているレーニン図書館特別保管所も公開された。この肯定的な流れが続けば、いずれは朝鮮戦争の資料も公開されることになろう。それまでは生存者の証言が、唯一の頼りだ。
 解放直後の北朝鮮でソビエト占領軍の政治担当責任者として駐在し、金日成の擁立に大きな役割を果たしたというレベジェフ少将がモスクワに健在だった。九〇歳になるレベジェフ将軍は耳も達者で言葉も明晰、しかも肝心のところにくると話を外したり、雑談の中でこれはというおもしろい話があってもカメラが回ると途端に内容が変ってはぐらかされたりという具合で、したたかな老人であった。【中略】
 朝鮮戦争が始まる前の金日成の秘密訪ソに触れるかと心待ちにしていたが、出てきたのは発表済みの公式訪問であった。どこまでも抜け目のない老人であった。
-------

といった状況だったそうですが(『NHKスペシャル 朝鮮戦争~分断38度線の真実を追う~』、日本放送協会、1990、p115以下)、それでも幾多の工作に関わったレベジェフの人物自体に妙な味わいがありますね。
29年前のNHKスペシャルを製作した饗庭孝典氏は、

-------
1956年東京外国語大学英米科卒業、NHK報道局入局。国連広報局出向を経て、NHKアジア総局をはじめ、サイゴン、シドニー、ニューデリー、ソウル、北京の各支局勤務の後、解説主幹。1993年NHK退職、同年より99年まで杏林大学社会科学部教授、2004年まで早稲田大学法学部講師。現在、東アジア近代史学会副会長。


という経歴の方ですが、2016年に亡くなったそうですね。

>坂井孝一『承久の乱』
今は余裕がなくて、本郷和人氏の著書とともに暫く先送りします。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

神南記念日 2019/02/18(月) 12:18:24
小太郎さん
野暮な話になりますが、NHKにはもうちょっと「学問的」な番組を作ってもらいたいですね。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24323110W7A201C1000000/
「これでいいぜ」と寺田が言ったから十二月六日は神南記念日

最高裁大法廷判決を門前で聞いて、三宅坂(隼町)在住の柔術師範代・柔万智蔵が詠じた駄歌のひとつですが、二日遅らせて十二月八日にすればよかったものを、とかなんとか呟いていたそうです。
(愚注)神南は、勿論、NHK本局の換喩(metonymy)ですが、幹部職員が背後の代々木公園で拾い集めた神南ならぬ残んの銀杏をサラダに混ぜてお祝いした、という含意でもあります。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO41322070V10C19A2MY9000/
本郷氏は、和田義盛をダシにグチってますが、見苦しいですね。

-----------------
 ・・・研究の進展によって、朝廷と幕府の関係は対立の構図だけでは捉えられるものではなく、後鳥羽が目指したのも執権北条義時の追討であって倒幕ではなかったことが明らかになってきた。高校日本史の教科書も、後鳥羽は「北条義時追討の兵をあげた」「義時追討の命令を諸国に発した」と叙述し、「倒幕」「討幕」という表現は少なくなっている。(坂井孝一『承久の乱』「はじめに」?頁)
・・・・実朝も上洛して後鳥羽や順徳、御台所の兄坊門忠信ら院近臣たちと対面し、和歌談義に花を咲かせ、朝幕の友好関係を進展させることも夢ではない。いわば、実朝による「幕府内院政」である。(同書96頁)
-----------------
こんな記述をみて、これは駄目だな、と坂井氏の本を読むのはやめました。
北条義時だけを芟除したいのであれば、のんびり東下りした押松の代わりに、もう少し賢そうな暗殺者を仕向ければよかったんじゃないの、と思いますね。いま一歩のところで始皇帝暗殺に失敗した荊軻とか、物の見事にトロツキー暗殺に成功したラモン・メルカデルとか、ほかにいただろうに。
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マシュー・B・リッジウェイ『朝鮮戦争』

2019-02-16 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月16日(土)13時38分17秒

すっかり朝鮮戦争の泥沼に嵌ってしまい、マッカーサーがトルーマン大統領に罷免された後、その地位を継承したリッジウェイの回想録、『朝鮮戦争』(熊谷正己・秦恒彦訳、恒文社、1994)を読み始めたところです。
リッジウェイは本当に明晰な頭脳の持ち主ですね。

Matthew Ridgway(1895-1993)

>筆綾丸さん
いえいえ。
念のため製作責任者の名前を確認しておこうと思って youtube を見たら、既に

「NHKスペシャル 朝鮮戦争 秘録 ~知られざる権力者...」は A-PAB による著作権侵害の申し立てにより削除されました。

となっていました。
筆綾丸さんに教えていただかなかったら全く手がかりがありませんでした。
チラッと見た印象では、当該文書は、

-------
50年の初夏に朝鮮戦争が勃発し、半年たったクリスマスイブ、国連軍の司令官マッカーサー元帥はワシントンに暗号電を打った。「原爆投下の標的候補地を優先順に挙げる」
 ウラジオストク、北京、旅順……。並んだのは北朝鮮軍に加勢する中国と、背後から支えるソ連の都市名。翌春には、この中ソを核でたたく計画を具体化させ、承認を得ようとした。トルーマン米大統領の反対で現実にはならなかったが、北朝鮮が核の脅威を肌で感じるには十分だった。


と朝日新聞が書いている「暗号電」とも微妙にずれるような感じがするので、もう少し調べてみます。
ちなみに「陸軍参謀本部G3のボルテ将軍」は Charles L.Bolte(1895-1989)ですね。


>好事家さん
前回投稿では少し戯画的な書き方をしてしまいましたが、三代目と抱き合うことのできる文在寅大統領らのグループがこのまま南北統一路線を進めれば、近い将来に統一朝鮮と日本の間の軍事衝突もあり得るのでしょうね。

※筆綾丸さんと好事家さんの下記投稿へのレスです。

お礼 2019/02/15(金) 14:01:20(筆綾丸さん)
小太郎さん
ありがとうございます。NHKスペシャルの背景がよくわかりました。
最近のNHKの質はかなり低下していて(とくに、ニュースがひどい)、あまり見ないようにしてますが、ほとんど詐欺のような内容ですね。

お礼 2019/02/16(土) 01:26:44(好事家さん)
小太郎さん、
ありがとうございます。
バイクで群馬に行った時の写真です。
現地では徳川将軍家=新田の支流を強調。
しかし太田市役所観光課で萩や名古屋に比べて太田市、知名度低い。
担当者?????
鎌倉幕府滅亡の出発点=太田市、室町幕府滅亡の出発点=名古屋市、江戸幕府滅亡の出発点=萩市。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0009792.jpg
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「マッカーサーから陸軍参謀本部G3のボルテ将軍宛ての個人的書簡」

2019-02-14 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月14日(木)22時16分35秒

2月3日のNHKスペシャル「朝鮮戦争 秘録~知られざる権力者の攻防~」に出てきたマッカーサーの原爆投下目標の件、朝鮮戦争に関する最新の論文を片っ端からチェックしなければならないのかな、などと思っていたのですが、近くの図書館でたまたま手に取った29年前の本に回答が出ていました。
しかもそれは饗庭孝典・NHK取材班『NHKスペシャル 朝鮮戦争~分断38度線の真実を追う~』(日本放送協会、1990)であって、29年前のNHKスペシャルの担当者が纏めた本ですね。
同書の「第六章 核が準備された」に、

-------
マッカーサーは中ソ攻撃のために核使用を考えていた

 しかし、マッカーサーは全く違うことを考えていた。彼は中国共産党がアジアでの政治不安の根源であり、この機会に徹底的に巻き返し、蒋介石の大陸復帰を実現しようと考えていたようだ。
 マッカーサーの回顧録は、原爆使用問題についてきわめて短く、控え目にしか書いていないが、それでも「敵の主要補給路の全部にまたがって放射性廃棄物、つまり原爆製造の際の副産物を投下し、朝鮮を満洲から遮断する」と述べている。一二月二〇日付の、マッカーサーから陸軍参謀本部G3のボルテ将軍宛ての個人的書簡が残っているが、そこには「戦略空軍の原爆攻撃の目的は、極東におけるソビエト軍の潜在的戦争能力をなくすことにあるとすれば、次のような通信、潜水艦基地を含む都市が目標となる」として、

 ウラジオストック 2 /ウォロシロフ 1 /ハバロフスク 2 / 旅順 1/
 北京 1/ 大連 2/ ドレンスク・サハリン 1/ コムソモルスク 2

 など、ソビエトのシベリア、極東地方と、中国東北部にある二一の都市の名を並べ、そこに投下する原爆の数を示している。一部の研究者は、マッカーサーが北朝鮮の背後にある中ソを攻撃するため二六個の原爆を要求したと書いているが、文面からすると二六個必要だというのではなく、使える原爆の数の問題もあるだろうから、攻撃すべき都市に優先順位をつけ、そこを破壊するのに必要な原爆の数を示したものである。マッカーサーはこれらを全部たたかなければだめだと主張しているのではなく、メモの中でも「これらは連合国の情報機関や現地の日本人引き揚げ者の話を聞いてまとめたものであり、現地視察や航空偵察の成果を取り入れ修正すべきだ」としている。このメモはまた、これらの都市のほか、中ソ軍の上陸集中地点に四個、空軍拠点の飛行場攻撃に四個が必要だとしている。
 マッカーサーのこのメモが正式文書としてどこまで上がったのか不明だが、トルーマンや軍首脳がこれを取り上げた記録はない。むしろ原爆は、国連軍が中国軍の攻撃で朝鮮半島から追い落とされるような事態になったら、それを防ぐため、または完全撤退を無事に遂行するために使用を認めるとした。トルーマンの核政策を示すものといえよう。
-------

とあります。(p184以下)
2月3日の番組内容と細部まで一致するので、この文書で間違いないですね。

NHKスペシャル「朝鮮戦争 秘録~知られざる権力者の攻防~」
原爆?(筆綾丸さん)
マッカーサーの暗号電

さて、今回のNHKスペシャルの制作責任者は、当該文書が、

(1)「マッカーサーから陸軍参謀本部G3のボルテ将軍宛ての個人的書簡」であって、
(2)「戦略空軍の原爆攻撃の目的は、極東におけるソビエト軍の潜在的戦争能力をなくすことにあるとすれば」と仮定した上の議論であり、しかも、
(3)「使える原爆の数の問題もあるだろうから、攻撃すべき都市に優先順位をつけ、そこを破壊するのに必要な原爆の数を示した」だけで、「マッカーサーはこれらを全部たたかなければだめだと主張しているのではなく」、
(4)「これらは連合国の情報機関や現地の日本人引き揚げ者の話を聞いてまとめたものであり、現地視察や航空偵察の成果を取り入れ修正すべきだ」という暫定的性格の文書であり、更に、
(5)「正式文書としてどこまで上がったのか不明」

だという事情を熟知しながら、そのような説明を一切せず、視聴者が内容を判別できない態様で文書をチラッと見せるという手法を取った訳で、放送倫理的にどうなのだろうかという疑問が生じます。
それにしても、最新の研究成果なのかと思ったら29年前の番組の焼き直しだと分かって、些か拍子抜けの心境です。

>筆綾丸さん
学校群制度で没落するまでの日比谷高校は旧制高校みたいな雰囲気だったのかもしれないですね。
もっとも、

-------
The ratio of boy and girl at the school was 3:1, which was delicate but heartless arrangement. Such ratio gave us consciousness of the opposite sex. We tried to enjoy the pair dance like folk dance under such abnormal combination. The frustration might increase our mental energy of inflation
男女の比率が3対1というのも非情な組合せだったと思う。異性を意識しないようで意識するような人数比で、フォークダンスときなど困った。あの頃のフラストレーションもまた精神のインフレーションのエネルギーとなっていたのかも知れない。


という事情は戦後ならではでしょうが。
様々な可能性を秘めた優秀な生徒を教えるのは大学での講義やゼミとは別の楽しみもあったはずで、次田氏にとっても充実した時期だったのでしょうね。

次田香澄(1913-97)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

霞草 is appearing. 2019/02/14(木) 13:27:27
小太郎さん
日比谷高校の昔日の面影がよくわかりました。

https://www.asahi.com/articles/ASM1K51TLM1KUCVL009.html
小林寛三氏の「囲碁・将棋論争」は、藤井聡太くんと仲村菫ちゃんに読ませたいですね。

---------------------
For me one is as bad as the other. The class in the afternoon starts soon, and Mr. Tsugita (of ancient writings) is appearing. The teacher usually requires us to answer literal analysis of ancient words one by one.
どっちでもいいけど。もう午後の授業が始まるよ。午後は次田先生の授業だから、また品詞分解を当てられるぞ。
---------------------
日比谷高校といえども、『とはずがたり』は教材にはならなかったでしょうが、香澄先生が生徒に慕われていたことがわかりますね。『坊ちゃん』の赤シャツとは違い、文字通り、霞を食うような浮世離れした雰囲気を纏っていたのかもしれず、そんな仙人じみた香澄先生が、「あやしうこそものぐるほしけれ」とかなんとか呟きながら、ドロドロした愛憎劇のヒロインの研究をしていたのかと思うと、なにやら味わい深いものがあります。(is appearing は、状況が目に浮かぶような秀逸な表現です)

霞草
http://www.hana300.com/kasumi.html

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日比谷高校の次田香澄先生

2019-02-13 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月13日(水)11時29分50秒

>筆綾丸さん
>ゲル研究の世界的権威と中世女流日記の権威は、どこでどう結びつくのか。

次田香澄の『とはずがたり 全訳注(上・下)』(講談社学術文庫)は至るところ線を引きまくり、ボロボロになるまで繰り返し読んだので、本当に懐かしい名前です。
ただ、個人的には次田はあくまで国文学の人という位置づけだったので、ご指摘の田中豊一との関係にはびっくりしました。
少し検索してみたところ、次田香澄は都立日比谷高校の先生をしていたことがあり、田中はその時の教え子だそうですね。
小林寛三氏(国際大学グローバル・コミュニケーション・センター主幹研究員)のサイトに次の二つの記事があります。

「追悼:田中豊一君 余りにも早く逝ってしまった我がクラスの秀才」
「31万時間後のクラス日誌 次田香澄先生追悼「問わず語り」」
小林寛三

利根川進の「私の履歴書」にも次田香澄が登場していますね。


>好事家さん
>あの国は、なぜ法律や歴史より感情が優先するのでしょうか?(徴用工問題)。

お久しぶりです。
床屋政談レベルの話になりますが、単なる素人の私にとっても韓国の司法の動向はけっこう面白いですね。
大統領が退職後に逮捕・訴追・投獄されるのが既に慣例になって久しい韓国でも、前最高裁判所長官が逮捕・起訴されたという最近のニュースにはびっくりしました。

-------
韓国、前最高裁長官を起訴 徴用工訴訟巡り職権乱用の罪

 韓国検察は11日、韓国大法院(最高裁)が朴槿恵(パククネ)前政権の意向を受けて徴用工訴訟の進行を遅らせたとされる事件で、前大法院長(最高裁長官)の梁承泰(ヤンスンテ)容疑者(71)を職権乱用などの罪で起訴した。朴炳大(パクビョンデ)容疑者ら2人の前大法官(最高裁判事)についても、共犯として同様の罪で起訴した。
 検察によると、梁容疑者は朴前政権時代の2013年から15年にかけて、徴用工訴訟の進行を遅らせる目的で、日本企業に賠償を命じる判決が確定した場合の外交的、国際法的な問題点を強調する文書をつくり、担当判事に送るなどしたとされる。見返りに、在外公館に判事を派遣する制度の拡充など、大法院の組織運営に有利となる利益を得ようとしたとされる。


どうにも筋の悪い法律論のような印象を受けますが、あるいは文在寅政権を支える急進的な司法官僚は旧来の憲法秩序そのものへの挑戦を試みているのかもしれないですね。
東大で憲法学を講ずる石川健治教授の言葉を借りれば、「法学的にはクーデター」が進行しているのかもしれません。
このままクーデターが成功するのか、あるいは政治情勢が逆回転して文在寅や今回の刑事訴追を行った検察官らが「容疑者」となる日も近いのか。
登場人物たちにはあまり華やかさがありませんが、この「韓流ドラマ」の展開には暫く目が離せないですね。

「九六条を改正しようとする策謀は、法学的には革命の教唆」(by 石川健治)
石川憲法学の「土着ボケ黒ミサ」

※筆綾丸さんと好事家さんの下記投稿へのレスです。

ゲルと神話 2019/02/11(月) 18:09:20(筆綾丸さん)
小太郎さん
ご引用の silver_romantic さんは理系なのに、源実朝や承久の乱に関心があるのですね(2月1日)。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784022599292
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%B1%8A%E4%B8%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A1%E7%94%B0%E9%A6%99%E6%BE%84
上山明博氏『ニッポン天才伝』「ゲル科学の父 田中豊一」で、ノーベル賞候補の田中豊一が、死の直前、恩師の追悼集に寄稿したという文章を読んで、びっくりしました。ゲル研究の世界的権威と中世女流日記の権威は、どこでどう結びつくのか。
---------------------
??数年前に日本でも大ヒットした映画『ジュラシックパーク』では古代の恐竜を蘇らせますが、そのもとは恐竜の血を吸った蚊の化石です。その血の中にある恐竜のDNAがどうしても必要なのです。クローン羊も親のDNAがないとできません。今のところ人間はどのような配列で文章を書けばタンパク質のような驚くべき機能をもつ高分子ができるのか分かっていないのです。
 その解決のヒントがゲルの研究から数年ほど前に得られました。それは配列はわれわれが選ぶのではなく、アミノ酸自身に選んでもらおうというものです。まずアミノ酸を水中で自由に泳がせておこう、そうすると、お互いに好きなもの同士が傍らに寄り添って安定になるだろう、そこで、それらを数珠つなぎにすれば、その高分子は出来たときの構造を覚えているであろう、というのです。もしある分子を認識して吸着するような高分子を作りたければ、そのターゲットになる分子も一緒にスープの中に混ぜておき、そこで高分子に繫げば、そのターゲットを認識できる高分子ができるだろう、というアイディアです。
 生まれたてのひよこが最初に見た動くものをその母鶏として脳に記憶することがよく知られていますが、あの「刷り込み」が生命の誕生では分子レベルで働いていたのではないか、そう考えているのです。何年もその実験的証明に四苦八苦してきてようやくその成果が出てきたところです。(田中豊一「ゲルの研究と古事記新講」『次田香澄先生をしのんで とはずがたり』一九九九年より)(同書241頁~)
---------------------

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tamekane.html

沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峰

次田先生が生きていれば、為兼の歌を引いて、田中君、生命誕生時の分子レベルの動きはこんな感じかね、と云ったかもしれないですね。

朝鮮 2019/02/11(月) 18:22:40(好事家さん)
鈴木小太郎様
久々に投稿します。
朝鮮の話題が有ったので!
あの国は、なぜ法律や歴史より感情が優先するのでしょうか?(徴用工問題)。
教えて下さい!!
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The Coldest Winter: America and the Korean War

2019-02-11 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月11日(月)13時04分30秒

デイヴィッド・ハルバースタムの『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』(山田耕介・山田佑平訳、文藝春秋、2009)の上巻を読んでみました。

-------
ハルバースタム、最後にして最高の作品

本書はヴェトナム戦争報道でピュリッツァー賞を受賞し、アメリカのヴェトナムとの関わり合いを描いた名著『ベスト&ブライテスト』で知られるデイヴィッド・ハルバースタムにとっては二十一冊目、そして最後の著作である。十年がかりでまとめた草稿を何か月もかけて手直しし、最後の手を入れて完成させた五日後、カリフォルニアでの自動車事故で不慮の死を遂げたからである。二〇〇七年四月、著者七十三歳のときだった。

1945年の時点では世界最強だったアメリカ軍は、その僅か五年後の朝鮮戦争開戦時には、急激な予算・人員削減で本当にボロボロ、張り子の虎状態だったのですね。
軍事面での詳細は他書で補う必要がありますが、ハルバースタムが生々しく描き出した当時のアメリカ政府内部の動きは本当に興味深いものがあります。
脇役の一人、「封じ込め」政策の立案者であるジョージ・ケナン(1904-2005)がトルーマン政権内で徐々に影響力を失って行く過程を見ると、外交理論家ないし歴史学者としての才能と、外交実務を切り回す能力はなかなか両立しないようですね。
少し引用してみると、

-------
 ケナンはベトナム戦争反対の主要人物に名前を連ねたが、そのおよそ十五年前には朝鮮戦争で三十八度線を越えて北を目指すのに慎重だった。そのことから、かれを尊敬する人のなかにも、かれはハト派というだけでなく、単純な外交政策用語でいう「軟弱」という印象があった。だが、ケナンは冷徹な究極の現実政策の人だった。ベトナムで米軍の使用を望まなかったのは、反植民地主義の時代にアメリカの政策に戦場で挑んでくる土着武装勢力に共感したからではなく、かれら(かれらの国といってもいい)は世界の枠組みのなかでアメリカ人の生命と資金を費やす価値があるほどの重要性はない、ましてやこれは負けることはほぼ確実な戦争である、と考えたからだった。
 かれは、わが国が武力を使えそうもないところに使おうとすれば、ろくなことは起きないと確信していた。ベトナムや中国のようなところはわが国の圏(権益)外であり、それはちょうどわが国に近いところ、なじみのあるところほどソ連の圏外であるのと同じである。かれの見解によると、現に二大国の派手な言辞にもかかわらず世界は知らず知らずのうちに力の均衡が形成されている。それは長期的にはアメリカに有利である。ケナンにとって力とは(皮肉にも、スターリンにとっても同様に)必要があればただちに軍事力に転用できる工業力のことである。わが国に大いに影響する唯一の世界は工業諸大国の世界である─それはもちろん、主として北の、白人の世界であり、日本はアジアで事実上唯一の重要な国である。ケナンが北朝鮮の侵攻に対処することに賛成した理由は唯一、世界の枠組みのなかでかれが日本に与えた重要度のためで、共産化された統一朝鮮の出現はアメリカ軍がわざわざこれを阻止するまでもないが、日本人を不安にするだろうと信じたからであった。北朝鮮軍の越境の二日後、かれは駐米イギリス大使に韓国は戦略的に重要ではないが、「その保護の象徴的な意義はとくに日本には非常に大きい」と語っている。ジョージ・ケナンの実像は世界を非情きわまりない目で見た冷徹な男だった。
-------

といった具合です。(p281以下)
全てが終わった後からみれば、ケナンの認識の明晰さは同時代人の中で傑出していますが、当時の政治過程を時系列で追って行くと、ケナンの認識を政策として実現するのは困難、というか全く無理だったでしょうね。

>筆綾丸さん
>「Tai--tao ?」は、位置からすると、青島(Qingdao)かもしれませんね。

なるほど、そうですね。
ユーチューブの映像は個人が勝手にアップしているものでしょうが、見直したら全体が35分に短縮されて、原爆投下に関する部分も26分55秒からになっていますね。
この番組について、

-------
スターリン、毛沢東、金日成だと金日成が一番人間的にマトモと思えるという凄まじさ。

とツイートしている人がいて、確かにそうだなと笑ってしまいました。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

青島? 2019/02/10(日) 11:45:59
小太郎さん
なるほど、瀋陽市ですか。
一昨年、大連、旅順、瀋陽、長春と訪ねたので、ちょっと土地勘ができました。
「Tai--tao ?」は、位置からすると、青島(Qingdao)かもしれませんね。
NHKが該当文書の全文を読みやすく公開してくれるとありがたいですね。
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マッカーサーの暗号電

2019-02-07 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月 7日(木)20時58分35秒

>筆綾丸さん
ありがとうございます。
39分15秒くらいからですね。


"Lhakden" は Mukden(瀋陽)のようですが、残り二つは私も読めません。

瀋陽市

少し検索してみたところ、朝日新聞の2018.6.11付記事に、

-------
50年の初夏に朝鮮戦争が勃発し、半年たったクリスマスイブ、国連軍の司令官マッカーサー元帥はワシントンに暗号電を打った。「原爆投下の標的候補地を優先順に挙げる」
 ウラジオストク、北京、旅順……。並んだのは北朝鮮軍に加勢する中国と、背後から支えるソ連の都市名。翌春には、この中ソを核でたたく計画を具体化させ、承認を得ようとした。


とありますね。
朝鮮戦争関係の一般書をいくつか見たものの、直接にこの資料に言及しているものは見当たらなかったので、今一つ位置付けが分かりません。
もう少し調べてみようと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
(したらば掲示板への移行時に文字化けしています)

原爆? 2019/02/07(木) 13:11:25
小太郎さん
https://www.youtube.com/watch?v=vDly88AM6-I
NHKスペシャルを YouTube の停止画で見ると、以下の通りでした。
----------------------
Vladivostok???????? 2 (ウラジオストク)
Voroshilov??????????1 (ヴォロシーロフ)
Khabarosk?????????? 2 (ハバロフスク)
Port Arthur???????? 1 (旅順)
Peking??????????????1 (北京)
Dairen??????????????2 (大連)
Dolensk Sakhalin????1 (ドリンスク・サハリン)
Komosomolsk???????? 2 (コムソモリスク)
Blagoveshchensk ?? 1 (ブラゴヴェシチェンスク)
Mikhaïlovka???????? 1??(ミハイロフカ)
Lhakden ??????????? 2 (?)
Sovetskaya Gavan????1 (ソヴィエツカヤ・ガヴニ)
Harbin??????????????1 (哈爾浜)
Irkutsk???????????? 1 (イルクーツク)
Chita?????????????? 1??(チタ)
Ulan Ude????????????1??(ウラン・ウデ)
Petropavlovsk?????? 1??(ペトロパブロフスク)
Nakhodka????????????1 (ナホトカ)
Tai--tao ???????????1 (?)
Avtem???????????????1 (?)
kuibyshevka???????? 1 (クイビシェフカ)
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ナレーターは26都市と言ってますが、21都市26発ですね。都市の数が多すぎるのは、あくまで候補地ということですか。ただ、同一場所に一発落とせば充分なことは広島・長崎で実証済みのはずで、5都市が2発になっている理由がわからないですね。これは原爆ではなく通常の大型爆弾ではないか、という疑問が湧いてきますが、本文全文がわからないのでわかりません。
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NHKスペシャル「朝鮮戦争 秘録~知られざる権力者の攻防~」

2019-02-05 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月 5日(火)14時38分39秒

一昨日、2月3日のNHKスペシャルで朝鮮戦争をやっていましたが、マッカーサー解任の原因となった原爆投下計画について、ウラジオストクも攻撃目標だったとしていて、ちょっとびっくりしました。
番組では原爆投下目標の地図を見せたのは一瞬でしたが、旧満州とソ連本土では話が全然違ってきますから、どのレベルの計画だったのか、マッカーサーが本気でウラジオストクにも原爆を落とすつもりだったのかについて、もう少しきちんと説明してほしかったですね。

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2回目の米朝首脳会談の焦点の一つとなる朝鮮戦争の終結。1953年に休戦協定が結ばれたが、依然として“戦争状態”が続く朝鮮半島。アメリカ・ソ連・中国といった大国の思惑が複雑に絡み合った戦争は、なぜ始まり、なぜ終結できずにいるのか。NHKは、その謎を解く手がかりとなる秘密文書を入手。見えてきたのは、当時の権力者たちの野望や謀略が戦争を泥沼化させていく軌跡だった。朝鮮戦争の知られざる歴史をひもとく。


ここ暫くやっている日本共産党の「五〇年問題」や火焔瓶闘争・山村工作隊などは、それだけを見れば「革命ごっこ」の下らない話のように思えますが、同時期に朝鮮戦争が展開されていた訳ですから、あまり軽く見ることはできないですね。
スターリンにしてみれば、発端のコミンフォルムによる野坂「平和革命」路線批判も、日本の同志たちよ、もうすぐ朝鮮半島で戦争が始まるんだから「ボーっと生きてんじゃねーよ!」という警告だったはずです。
「軍事」路線も、武器はチャチだったとはいえ、社会不安の醸成には相当に成功した訳で、朝鮮半島の動向次第では日本での新たな展開も充分にありえたのでしょうね。

>筆綾丸さん
鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』をパラパラ眺めてみましたが、悲憤慷慨パターンの典型ですね。

松岡正剛氏の悲憤慷慨(その1)
松岡正剛氏の悲憤慷慨(その2)
神仏分離をめぐる悲憤慷慨の連鎖

鵜飼著に学問的価値は特にありませんが、「ルポルタージュ」としてはそれなりの出来で、まあまあの売れ行きは期待できるのでしょうね。
本郷和人氏は毎日新聞の書評で、タリバンのバーミヤン大仏破壊について「同様の行為を明治の日本人も行っていたのだ」(p12)という鵜飼氏の見解に賛同して、

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 さらに驚いたのは、法令と廃仏毀釈の関係性である。ぼくは水戸学の影響下にあった明治政府が、仏教の否定を推進したのだとばかり思っていた。ちがう。政府はあくまでも神と仏の分離を促しただけなのだ。それを受けた人々の側が、率先して寺院の破壊に向かったのだ。
 なぜそうした動きが生まれたか。著者は豊富な事例をもとに、次の四つを挙げる。1権力者(たとえば地方自治体の首長など)の(中央への)忖度(そんたく)、2富国策のための寺院利用(本堂の木材を小学校建設に転用するなど)、3熱しやすく冷めやすい日本人の民族性、4僧侶の堕落。
 ぼくはこのうち、4を憎んだ民衆が寺院を襲う3の状況にとくに戦慄(せんりつ)を覚えた。ぼくたちはタリバンによるバーミヤン大仏の破壊を非難してやまないが、150年前のぼくたちの先祖は同じことをしていたわけだ。
 この本を読んで、今一度、宗教に思いを馳(は)せてみたい。


と言われていますが、私は賛成できません。

「タリバン・イスラム国の偶像破壊と廃仏毀釈の相違」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

裏のルート? 2019/02/04(月) 10:28:27
小太郎さん
鵜飼秀徳『仏教抹殺』は、以前、書店で少し立ち読みしてやめたのですが、本郷氏の絶賛を読んで、うーむ、読んでみるか、と思っています。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40733460R30C19A1EA2000/
「正規のルート」の記事の翌日(1月31日)に、こんな記事があったので、日経の「正規のルート」に対して、レゼコーとAFPは「裏のルート」を使ったのかな、と思いました。
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鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』

2019-02-03 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月 3日(日)20時04分7秒

昨日の日経新聞の読書欄で、本郷和人氏が鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(文春新書、2018)を激賞されていますね。

日本史ひと模様 戸田光則 家の存亡を懸けた廃仏毀釈

本郷氏は廃仏毀釈の「ムーブメントがかくも熾烈を極めたものであったことに度肝を抜かれた。この時の破壊がなければ、仏教芸術の国宝(建築物、仏像、絵画など)は、なんと現在の3倍の量になったはずだという」と、私にはそれほど驚かなくてもよいように思われる事情に驚かれた後、

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 それ以上に驚くべきは、政府の法令と廃仏毀釈の関係性である。勤王・佐幕を問わず、幕末の人々に多大な影響を与えたのは水戸学である。この政治思想は神道を重んじていて、それゆえに水戸藩では、葬送も僧侶ではなく神官の手に委ねることが既にあった。そうした水戸学の影響下にあった、明治政府が、仏教の否定に精勤したとばかりぼくは思っていた。いや、ちがう! 政府はあくまで神と仏の分離を促しただけなのだ。それを受けた国民の側が、率先して寺院の破壊を行ったのだ。
 なぜそうした動きが生まれたか。著者は自ら足を運んだ豊富な事例をもとに、次の4つの理由を挙げる。①権力者(たとえば地方自治体の首長など)の(中央への)忖度、②富国策のための寺院利用(本堂の木材を小学校建設に転用する等)、③熱しやすく冷めやすい日本人の民族性、④僧侶の堕落。
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と述べられ、ついで①の例として藩主の菩提寺を含め、廃寺を徹底した松本潘のケースを詳しく紹介されています。
私は松本藩についてはきちんと調べたことがないので、後で鵜飼著を確認してみるつもりですが、それにしてもこの四分類はちょっと奇妙ではないですかね。
特に③は他と並べてよいものなのか。
また、例えば藩主の菩提寺は残したものの、相当徹底した廃寺を行った富山藩などはどこに分類されるのか。
富山藩で廃仏毀釈をリードした林太仲には①の中央への忖度は特になく、銃砲を整備するために金具を集めるということを名目にしたので、②の変形でしょうか。

「藩士の守旧思想を破壊して、進取の志気を鼓舞せん為めに」 (by 岡田重家氏)
「有耶無耶の間に自然消滅になりました」 (by 岡田重家氏)
林太中(はやし・たちゅう)について
母方はオランダ外科医の長崎家
「広沢兵助と近かった」(by 安丸良夫)は本当なのか?
「真宗貴族」との階級闘争

まあ、鵜飼著を読んでもいないのにあれこれ言うのは避けますが、アマゾンの書評等を見る限り、従来の研究水準を超える何かがあるようには思えません。
「ルポルタージュ」としては面白いのかもしれませんが。

>筆綾丸さん
日経記事の「正規のルート」という表現は、ちょっと莫迦っぽい感じがしますね。
拘置所に拘束されているゴーン元会長と「正規のルート」を外れて面会したら建造物侵入で犯罪になってしまいます。
「正規のルート」以外はありえないのに、あまりに大袈裟ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

お礼 2019/02/02(土) 12:51:45
小太郎さん
ご丁寧にありがとうございます。よくわかりました。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2019/01/102526.html
無関係な話で恐縮ですが、元木泰雄氏『源頼朝 武家政治の創始者』を100頁ほど読んで、草臥れました。年のせいか、昔のような根性がなくなりました。

源頼政の最期について、
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 ・・・平氏の追撃を受けて、頼政らは木津川の河原で、そして以仁王も南都(興福寺)を目前にしながら光明山の鳥居の前で落命した。(50頁)
---------------------
とありますが、頼政は平等院の門内で七十過ぎの皺腹を掻っ切り、頸は石に括りつけられて宇治川に沈められたのであって、木津川ではないですね。木津川畔で斬首された平重衡と勘違いしたのかな。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yorimasa.html
 埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける
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『伊藤律回想録』(その5)─「徳田は党報告もロクに書けない愚者、伊藤律はスパイ」(by 安斉庫治)

2019-02-02 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月 2日(土)11時32分57秒

続きです。(p22以下)

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 これにはまた、安斉庫治の問題が絡んでいた。一九四九年、中国人民解放軍は北京を平和裡に解放したが、その後徳田と野坂は党本部経済調査部代理部長・安斉庫治を特使として北京へ派遣した。彼は昔の東亜同文書院出身で、中国語が達者だった。彼は中共中連部に日共の"内部情報"を勝手に語った。「徳田は党報告もロクに書けない愚者、伊藤律はスパイ」などという内容で、宮本顕治と野坂を讃美したのが主な内容だった。中国在留の日本人も多くは「国際派」に傾いていたが、安斉に協力した人々、なかでも横川次郎ですら安斉の「飛ぶ鳥も落とす」(横川の話)越権行為と傲慢さに反発して徳田や岡田に告発した。前後三回、幹部・工作員全体会議で安斉の査問が行なわれた。しかし彼は明白に答えなかった。この査問は私の北京到着前であったが、徳田が私に語ったところでは、安斉は「聞き捨てならないことを耳にしたので、中連部に報告した」とのみ説明し、その内容を明らかにしなかったという。その内容のひとつは、恐らく戦争末期旧満洲国で投獄された満鉄調査部の発智善次郎が、検事から聞いた話だったろう。日本人検事はゾルゲ・尾崎を告発したのは伊藤律だと、とくとくと語ったとの噂が、在華日本人の間に広く流れていたからである。
 徳田は中連部長・王稼祥に対し、安斉が中連部に話したすべての内容の報告を正式に求めた。しかし、「その必要なし」─これが徳田の要求に対する書面回答であった。徳田は激怒した。毛沢東との単独会見の時に直接話して解決すると言った。しかし徳田はその機会なくして世を去った。野坂と西沢は中連部に同調して事あるごとに安斉を庇った。日共機関の工作員は一律に中共中央委員並みの待遇を受けていたが、ただ安斉だけは、煙草代などが上積みされ、時には日本の家族へ送るドル紙幣も支給された。
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このあたりは伊藤律が獄中から生還しなかったら永遠に歴史の闇の中に消えて行った話でしょうね。
ま、ここも一般人にはチンプンカンブンの内容なので渡部富哉の注記を引用しておきます。

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◆安斉庫治(一九〇五~一九九三)  満鉄本渓湖事務所の見習いとなり、東亜同文書院に入り中国共産主義青年団に加入、王学文、尾崎秀実の指導をうける。三二年逮捕、三七年八月出獄、三九年蒙古の満鉄包頭〔パオトオ〕調査事務所に入り、蒙古の古文書調査にたずさわり政府顧問となる一方で、関東軍に作戦を提言。ゾルゲ事件で検挙されたが釈放、四二年満鉄事件で検挙されるも直ちに釈放されるなど不可解な点がある。戦後「労農通信」編集局長、日共調査部員、五〇年一月出国して北京に密航、北京機関での活動が評価され五八年第七回大会で中央委員、第八回大会で幹部会委員候補となる。のち脱党。
◆横川次郎  宇都宮高等農林教授。満鉄事件に連座して敗戦を迎え、北京の日共在外代表部の成立と同時に夫人とともにその活動に参加した。横川と伊藤は戦前に農業問題の研究者として顔見知りの間柄であった。
◆発智善次郎  満鉄本社調査局総務課勤務。関東軍憲兵隊がデッチあげた満鉄事件に連座し、四三年七月検挙され、四四年二月奉天第二監獄にて発疹チブスにより獄死した。
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渡部は横川次郎の生没年を明記していませんが、少し検索してみたところ、経志江氏の「大連日語専科学校の研究」(日本経済大学アジアパシフィック経済研究所『日本経大論集』44巻2号、2015)という論文(PDF)に、横川次郎の妻・辰子の経歴に付随する形で横川の経歴も載っていて、それによると横川は1901年生まれ、89年北京で死去だそうですね。

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14) 1908年に生まれ、学生時代は英文学を専攻、日本語雑誌『人民中国』と『人民画報』の日本語専門家。「横川辰子女史の葬儀」(小池晴子『中国に生きた外国人-不思議ホテル北京友誼賓館』径書房、2009年、115-121頁)、横川次郎『我歩過的崎嶇小路-横川次郎回憶録』(新世界出版社、1991年)によると、夫、横川次郎と1936年に旧満州に渡り、以後、中国で生活した。新中国が成立後の1961年、夫とともに外文局の「専家」として『人民中国』や『人民画報』の改稿に携わった。1999年5月9日、91歳で北京で亡くなった。横川次郎は、1901年福島県で生まれ。1924年に東京帝国大学法学部を卒業して宇都宮高等農林学校の教授となった。1936年に大連にわたり、満鉄調査部第1調査室の主査となった。戦後は中国東北地区の日本人民主連盟に参加した。新中国が成立してからは東北統計局、北京人民大学分校、四川省農業庁を経て1961年に夫人と一緒に日本語雑誌『人民中国』と『人民画報』の「専家」となった。山内一男「横川次郎氏の逝去を悼む」(『中国研究月報』495、中国研究所、1989年5月、41頁)によると、1989年4月12日、88歳で北京で亡くなった。

https://jue.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1422&item_no=1&page_id=4&block_id=80

また、発智善次郎と満鉄事件については、渡部の下記記事が参考になります。

尾崎秀実の関東軍司令部爆破計画」は実在したか (第三回)
http://chikyuza.net/archives/25080
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