投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月28日(木)22時01分20秒
猪瀬千尋氏は「[表] 舞御覧における仮名記、御所作、舞、一覧」(p113)において、康保三年(966)の大内裏での「侍臣舞」から応永十五年(1408)の北山第での「行幸」まで、14の「舞御覧」を一覧表に整理しています。
そして、「後白河院五十御賀から足利北山第行幸までの九つの「舞御覧」のうち、その六つまでに行事を記録した仮名記が残されている」(p111)そうですが、その初例である「安元御賀記」は安元二年(1176)に行われた「後白河院五十御賀」の記録で(p106)、筆者は四条隆房(1149~1209)、即ち後深草院二条の母方の祖父・四条隆親(1203-79)の更に祖父ですね。
四条隆房
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E6%88%BF
次いで正元元年(1259)の北山第における「大宮院一切経供養」には「行幸記」という仮名記があるそうですが、猪瀬氏が引用されているように『増鏡』にも若干の記述があります。
「巻六 おりゐる雲」(その8)─大宮院、一切経供養
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d35e1fccb4e8e45d7f2797836ac6635f
その次の文永五年(1268)の「後嵯峨院五十御賀」については後で検討するとして、弘安八年(1285)の北山第における「大宮院九十賀」は「北山准后九十賀」の誤りですね。
これは猪瀬氏のケアレスミスで、本文(p112)では猪瀬氏も「北山准后九十賀」としています。
北山准后こと四条貞子(1196-1302)は西園寺実氏(1194-1269)の正室で、大宮院(後嵯峨天皇中宮、1225-92)と東二条院(後深草天皇中宮、1232-1304)の母であり、また四条隆親の姉でもあります。
この女性は弘安八年に大宮院の主催で「九十賀」をしてもらった後、更に十七年生きて正安四年(1302)に百七歳で亡くなったという驚異の御長寿で、『続史愚抄』という江戸時代の史書には、これほど長命な人は遥か昔の武内宿禰以来だ、みたいなことが書いてあります。
四条貞子(1196-1302)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E5%AD%90
ま、それはともかくとして、肝心の文永五年(1268)の「後嵯峨院五十御賀」について、猪瀬氏は、
-------
年号/西暦 文永五 一二六八
場所 富小路殿
行事名 後嵯峨院五十御賀
日程 試楽のみ
仮名記 文永五年院舞御覧記
御所作(楽器) 不明
青海波 花山院家長(16)花山院忠季
陵王 四条隆親男
納蘇利 四条隆親男
胡飲酒 近衛家基(8)
-------
としているのですが、「文永五年院舞御覧記」(『続群書類従』巻第五百二十八、管弦部二)を見たところ、著者・執筆時期不明、内容も欠落が多いようで、信頼性の高い同時代史料とは言い難いですね。
その冒頭には、「一院の舞御らんの事 内裏の舞御覧のゝちこの事有」とあるだけで、場所も書かれておらず、これだけでは「富小路殿」と特定はできません。
従って猪瀬氏が別の史料で上記記述を補っていることは明らかですが、それが何かは明記されていません。
ところで、『増鏡』「巻八 あすか川」には「後嵯峨院五十賀試楽」の長大かつ詳細な記述がありますが、場所については「冷泉殿にて舞御覧あり」と記されていて、富小路殿ではありません。
「巻八 あすか川」(その1)─後嵯峨院五十賀試楽
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/516dab82b9ece210bbbd258cf04d5a02
「巻八 あすか川」(その2)─「二条大納言経輔」の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4831a8acf5a6dffb71133e2a9281e1c
「巻八 あすか川」(その3)─「陵王の童も、四条の大納言の子」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e774c169862151c1bd9cf00697464171
そして「後嵯峨院五十賀試楽」の煩瑣な記事がやっと終わった後、今度は「富小路殿舞御覧」の長い記事が続きます。
「巻八 あすか川」(その4)─富小路殿舞御覧
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfa7af54134ac031a3daa1e82e4d01bb
ということで、『増鏡』を参照する限り、文永五年には二つの「舞御覧」が連続してあって、猪瀬氏はそれを混同しているのではないかと疑われるのですが、実は『増鏡』の記述にも、その信頼性について若干の問題があります。
猪瀬千尋氏は「[表] 舞御覧における仮名記、御所作、舞、一覧」(p113)において、康保三年(966)の大内裏での「侍臣舞」から応永十五年(1408)の北山第での「行幸」まで、14の「舞御覧」を一覧表に整理しています。
そして、「後白河院五十御賀から足利北山第行幸までの九つの「舞御覧」のうち、その六つまでに行事を記録した仮名記が残されている」(p111)そうですが、その初例である「安元御賀記」は安元二年(1176)に行われた「後白河院五十御賀」の記録で(p106)、筆者は四条隆房(1149~1209)、即ち後深草院二条の母方の祖父・四条隆親(1203-79)の更に祖父ですね。
四条隆房
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E6%88%BF
次いで正元元年(1259)の北山第における「大宮院一切経供養」には「行幸記」という仮名記があるそうですが、猪瀬氏が引用されているように『増鏡』にも若干の記述があります。
「巻六 おりゐる雲」(その8)─大宮院、一切経供養
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d35e1fccb4e8e45d7f2797836ac6635f
その次の文永五年(1268)の「後嵯峨院五十御賀」については後で検討するとして、弘安八年(1285)の北山第における「大宮院九十賀」は「北山准后九十賀」の誤りですね。
これは猪瀬氏のケアレスミスで、本文(p112)では猪瀬氏も「北山准后九十賀」としています。
北山准后こと四条貞子(1196-1302)は西園寺実氏(1194-1269)の正室で、大宮院(後嵯峨天皇中宮、1225-92)と東二条院(後深草天皇中宮、1232-1304)の母であり、また四条隆親の姉でもあります。
この女性は弘安八年に大宮院の主催で「九十賀」をしてもらった後、更に十七年生きて正安四年(1302)に百七歳で亡くなったという驚異の御長寿で、『続史愚抄』という江戸時代の史書には、これほど長命な人は遥か昔の武内宿禰以来だ、みたいなことが書いてあります。
四条貞子(1196-1302)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E5%AD%90
ま、それはともかくとして、肝心の文永五年(1268)の「後嵯峨院五十御賀」について、猪瀬氏は、
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年号/西暦 文永五 一二六八
場所 富小路殿
行事名 後嵯峨院五十御賀
日程 試楽のみ
仮名記 文永五年院舞御覧記
御所作(楽器) 不明
青海波 花山院家長(16)花山院忠季
陵王 四条隆親男
納蘇利 四条隆親男
胡飲酒 近衛家基(8)
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としているのですが、「文永五年院舞御覧記」(『続群書類従』巻第五百二十八、管弦部二)を見たところ、著者・執筆時期不明、内容も欠落が多いようで、信頼性の高い同時代史料とは言い難いですね。
その冒頭には、「一院の舞御らんの事 内裏の舞御覧のゝちこの事有」とあるだけで、場所も書かれておらず、これだけでは「富小路殿」と特定はできません。
従って猪瀬氏が別の史料で上記記述を補っていることは明らかですが、それが何かは明記されていません。
ところで、『増鏡』「巻八 あすか川」には「後嵯峨院五十賀試楽」の長大かつ詳細な記述がありますが、場所については「冷泉殿にて舞御覧あり」と記されていて、富小路殿ではありません。
「巻八 あすか川」(その1)─後嵯峨院五十賀試楽
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/516dab82b9ece210bbbd258cf04d5a02
「巻八 あすか川」(その2)─「二条大納言経輔」の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4831a8acf5a6dffb71133e2a9281e1c
「巻八 あすか川」(その3)─「陵王の童も、四条の大納言の子」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e774c169862151c1bd9cf00697464171
そして「後嵯峨院五十賀試楽」の煩瑣な記事がやっと終わった後、今度は「富小路殿舞御覧」の長い記事が続きます。
「巻八 あすか川」(その4)─富小路殿舞御覧
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfa7af54134ac031a3daa1e82e4d01bb
ということで、『増鏡』を参照する限り、文永五年には二つの「舞御覧」が連続してあって、猪瀬氏はそれを混同しているのではないかと疑われるのですが、実は『増鏡』の記述にも、その信頼性について若干の問題があります。