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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その25)─「地頭を免職し、これを廃止するようにとの要望」(by 関幸彦氏)

2023-10-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者は、「地頭職の停止を要求」(長村祥知氏)、「地頭職改補の要求」(野口実氏)、「地頭を解任するよう要求」(呉座勇一氏)といった表現を用いておられるので、「廃止」まで要求したとする関幸彦氏の見解は珍しい感じがします。

長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da

流布本の亀菊エピソードは、

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 又、摂津国長江・倉橋の両庄は、院中に近く被召仕ける白拍子亀菊に給りけるを、其庄の地頭、領家を勿緒〔こつしよ〕しければ、亀菊憤り、折々に付て、是〔これ〕奏しければ、両庄の地頭可改易由、被仰下ければ、権大夫申けるは、「地頭職の事は、上古は無りしを、故右大将、平家を追討の勧賞に、日本国の惣地頭に被補。平家追討六箇年が間、国々の地頭人等、或〔あるいは〕子を打せ、或親を被打、或郎従を損す。加様の勲功に随ひて分ち給ふ物を、させる罪過もなく、義時が計ひとして可改易様無〔なし〕」とて、是も不奉用。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec7ed809036d4fd2ce63e21e96d32b82

というもので、重ねて「改易」とあり、後鳥羽院の要求はあくまで地頭の交替であることが明らかです。
また、『吾妻鏡』承久三年五月十九日条も、

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武家背天気之起。依舞女亀菊申状。可停止摂津国長江。倉橋両庄地頭職之由。二箇度被下 宣旨之処。右京兆不諾申。是幕下将軍時募勲功賞定補之輩。無指雜怠而難改由申之。仍逆鱗甚故也云々。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とあるので、長江・倉橋両荘の地頭職の「停止」を求める後鳥羽院に対し、義時は「難改」、改めることは困難と応えていますから、これも地頭職の「廃止」ではなく、交替と読むのが素直だろうと思います。
他方、慈光寺本の亀菊エピソードは、

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 其由来ヲ尋ヌレバ、佐目牛西洞院ニ住ケル亀菊ト云舞女ノ故トゾ承ル。彼人、寵愛双ナキ余、父ヲバ刑部丞ニゾナサレケル。俸禄不余思食テ、摂津国長江庄三百余町ヲバ、丸ガ一期ノ間ハ亀菊ニ充行ハルゝトゾ、院宣下サレケル。刑部丞ハ庁ノ御下文ヲ額ニ宛テ、長江庄ニ馳下、此由執行シケレ共、坂東地頭、是ヲ事共セデ申ケルハ、「此所ハ右大将家ヨリ大夫殿ノ給テマシマス所ナレバ、宣旨ナリトモ、大夫殿ノ御判ニテ、去マヒラセヨト仰ノナカラン限ハ、努力叶候マジ」トテ、刑部丞ヲ追上スル。仍、此趣ヲ院ニ愁申ケレバ、叡慮不安カラ思食テ、医王左衛門能茂ヲ召テ、「又、長江庄ニ罷下テ、地頭追出シテ取ラセヨ」ト被仰下ケレバ、能茂馳下テ追出ケレドモ、更ニ用ヒズ。能茂帰洛シテ、此由院奏シケレバ、仰下サレケルハ、「末々ノ者ダニモ如此云。増シテ義時ガ院宣ヲ軽忽スルハ、尤理也」トテ、義時ガ詞ヲモ聞召テ、重テ院宣ヲ被下ケリ。「余所ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計ヲバ去進スベシ」トゾ書下サレケル。義時、院宣ヲ開テ申サレケルハ、「如何ニ、十善ノ君ハ加様ノ宣旨ヲバ被下候ヤラン。於余所者、百所モ千所モ被召上候共、長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍頸ヲ被召トモ、努力叶候マジ」トテ、院宣ヲ三度マデコソ背ケレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/631429bc62ffdd914e89bfb7e34289f8

というもので、亀菊が後鳥羽院から長江庄を「充行」れた「院宣」を得ると、亀菊の父「刑部丞」が「庁ノ御下文」を持参して「此由執行」しようとするも、「坂東地頭」は、たとえ「宣旨」が下ろうと、「大夫殿(義時)ノ御判ニテ、去マヒラセヨト仰ノナカラン限ハ」出て行かないと言って、「刑部丞」を追い払います。
この経緯からすれば、「庁ノ御下文」は「坂東地頭」に退去を命ずる権限を認めた文書となりそうです。
ついで、後鳥羽院が「医王左衛門能茂」に「又、長江庄ニ罷下テ、地頭追出シテ取ラセヨ」と命令し、能茂はこの命令を受けて「坂東地頭」を「追出」そうと試みますが、やはり拒否されます。
その後、後鳥羽院が義時に「余所ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計ヲバ去進スベシ」との「院宣」を下し、「院宣ヲ開」いた義時は、「加様ノ宣旨」が下ろうとも、「於余所者、百所モ千所モ被召上候共、長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍頸ヲ被召トモ、努力叶候マジ」と拒否します。
このように「院宣」と「宣旨」が混在する慈光寺本の亀菊エピソードは、そもそも亀菊がいかなる権原、いかなる「職」を得たのかもはっきりしません。
まあ、領家職と考えるのが普通でしょうが、領家職であれば、一般論としては幕府が任ずる地頭職と矛盾する訳ではないので、「刑部丞」と藤原能茂がいかなる資格・権限に基づいて「坂東地頭」に退去を命ずることができるのかが分かりません。
この点、岡田清一氏の見解を検討するに際して、少し考えてみたことがあります。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その14)─「院宣ヲ三度マデコソ背ケレ」の意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7036189167f93251c0bb68d653b080c6

慈光寺本の亀菊エピソードを合理的に解釈するため、仮に亀菊が後鳥羽院から地頭職を得たとすると、二つの地頭職が正面から対立することになり、新しい地頭が古い地頭を追い出す、といった話にもなるのかも知れませんが、前提があまりに無理筋です。
また、関氏の表現を借りて、亀菊が領家職を得たこととは別に、後鳥羽院が地頭職「廃止」の「院宣」を出し、それを「式部丞」と能茂が「執行」しようとしたのではないか、「摂津国長江庄」の地頭職を「去進スベシ」との「院宣」は、交替ではなく、地頭職の「廃止」要求であって、それが三度出され、義時は「院宣ヲ三度マデコソ背ケレ」という態度を取った、と解釈することも可能かもしれません。
しかし、その場合でも、最初から義時に要求しなければ無意味であり、「式部丞」と能茂の行動は無駄足であることが分かり切っていたはずですから、これも無理筋ですね。
関氏が「地頭を免職し、これを廃止するようにとの要望」と書かれた理由は分かりませんが、流布本でも『吾妻鏡』でもなく、慈光寺本の解釈として、そのように考えられた可能性は相当ありそうですね。
ただ、慈光寺本の合理的解釈はあっさり諦めて、慈光寺本の記述を真面目に検討すること自体に意味があるのかを問う方が良いのかもしれません。
慈光寺本作者は「国王ノ兵乱十二度」・「十二ノ木戸」の人ですから、慈光寺本の記述は万事に適当であり、いい加減です。
そして慈光寺本作者を藤原能茂と考える私は、亀菊エピソードに「医王左衛門能茂」が登場することを重視すべきだと思います。
即ち、亀菊エピソードは能茂が承久の乱の発端当初から後鳥羽院の信任を得て重要な役目を果たしていたことをアピールすることが目的であって、このような創作自慢話を真面目に検討する意味はないと考えます。

「国王ノ兵乱十二度」・「十二ノ木戸」の人
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/15eee017cc56d552fbcf5492a1fdfeed
コメント
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