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高義母・釈迦堂殿の立場(その5)

2021-02-28 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月28日(日)12時02分55秒

ということで、釈迦堂殿の母・無着の人生はある程度追えますが、釈迦堂殿の方は少し難しいですね。
こちらも生年を建治元年(1275)頃と仮定して、その人生を時系列で整理してみると、

-------
建治元年(1275)頃 金沢顕時の娘として誕生
弘安六年(1285)  霜月騒動で母方の祖父・泰盛、殺される
          父顕時も出家、下総国埴生庄に移る
永仁元年(1293)  四月二十二日、平禅門の乱。二十七日、顕時鎌倉に戻る
年次不明      足利貞氏の正室となる
永仁五年(1297)  高義を生む
正安三年(1301)  三月二十八日、父顕時死去、五十五歳
年次不明      母・無着、京都に移る 今小路に居住 資寿院を創建
文保元年(1317)  六月、高義、二十一歳で死去
同年        十二月十五日付の「静念の御房」宛の大仏貞直書状あり
          この日までに無着逝去か
年次不明      高義のため、鎌倉浄妙寺の隣に延福寺を建立
暦応元年(1338)  九月九日死去
-------

といった具合です。
延福寺云々と死去については山家浩樹氏「無外如大と無着」の注4に従いました。

-------
 無着の娘釈迦堂殿は、足利貞氏に嫁ぐ。貞氏の室は、他に上杉清子が知られるが、出自から釈迦堂殿にあたる人物が正妻で、一時家督を嗣ぎながら早生した高義は、釈迦堂殿の子と考えられる(千田孝明氏「足利氏の歴史」『足利氏の歴史』所収、栃木県立博物館、1985年、など参照)。『稲荷山浄妙禅寺略記』(浄妙寺蔵、『鎌倉』 六四に翻刻)では、清子を正室とし、側室で高義の母「仁和寺殿契忍大姉」は、高義のため、鎌倉浄妙寺の隣に延福寺を建立し、暦応元年(1338)九月九日に死去したという。釈迦堂殿と仁和寺殿契忍大姉は同一人物であろうが、詳細は未詳である。貫達人・川副武胤氏著『鎌倉廃寺辞典』(有隣堂、1980年)延福寺の項参照。

http://web.archive.org/web/20061006220942/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai-02.htm

釈迦堂殿の母・無着の場合、安達泰盛の娘として非常に恵まれた娘時代を送り、金沢顕時の正室となって女子(釈迦堂殿)を生んでから三十代前半くらいで霜月騒動に遭遇していますが、釈迦堂殿は十一歳くらいで霜月騒動の混乱に巻き込まれ、おそらく顕時と一緒に下総国埴生庄に移って、華やかな鎌倉を遠くから眺める生活が続いたものと思われます。
結婚の時期が高義を生んだ永仁五年(1297)の前年とすると二十二歳くらいとなり、当時の武家社会の女性としては若干遅い感じもしますが、建治元年(1275)出生という推測自体があくまで一応のものなので、生年はもう少し遅れるのかもしれません。
ただ、そうだとすれば霜月騒動までの恵まれた少女時代は更に短くなります。
また、母・無着の死去の時期は分かりませんが、無着が亡くなったことにより資寿院の管理の問題が生じたとすると「静念の御房」宛の大仏貞直書状の日付、文保元年(1317)十二月十五日をそれほど遡らないのではないかと思います。
とすると、母・無着と息子・高義の死去はかなり近く、あるいはともに文保元年、釈迦堂殿が四十三歳くらいのときの出来事かもしれません。
もちろん、以上の事実から釈迦堂殿の人生観・世界観を窺うことは困難ですが、少なくとも若年の頃から自分が安達泰盛の孫であることを強く意識せざるを得なかったであろうことは確実です。
無着にとって、そして釈迦堂殿にとって安達泰盛はいかなる存在であったのか。
歴史学の世界で安達泰盛や霜月騒動が本格的に論じられるようになったのはかなり遅く、多賀宗隼氏の「弘安八年「霜月騷動」とその波紋」(『歴史地理』78巻6号、1941)を嚆矢とするも、それほど活発に論じられた訳ではなく、網野善彦氏の研究を経て、現在最も有力なのは村井章介氏の見解(『北条時宗と蒙古襲来』、NHK出版、2000)かと思います。
弘安改革を主導した理念の政治家で、蒙古襲来を契機に国政における幕府の位置づけを大きく変えようとしたものの、旧来の御家人の利益を固守する平頼綱らの勢力に敗北した人、というのが現在の大方の評価ではないかと思いますが、鎌倉後期に生きた人々にとっては、この種の理念の政治家はなかなか分かりにくい存在であった可能性が高そうです。
ただ、娘の無着や孫の釈迦堂殿は、霜月騒動の内情について相当に詳しい知識を持った上で、世間がどのように言おうと、安達泰盛がしっかりした理念を持った優れた政治家であったとの誇りをもって生きていたのではないかと私は想像します。
そして、そうした安達泰盛に関する知識や安達泰盛の理念が、娘・孫によって多少理想化されていたかもしれない形で尊氏や直義に伝わった可能性も相当高いのではないか、と考えることも、一応の合理的な推論の範囲ではないかと思います。

安達泰盛(1231-85)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E6%B3%B0%E7%9B%9B
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高義母・釈迦堂殿の立場(その4)

2021-02-27 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月27日(土)13時18分5秒

無着の上洛時期について金沢貞顕の六波羅探題就任との関連があるのでは、と書きましたが、無着以外でも貞顕周辺の女性たちはかなり上洛していますね。
小川剛生氏の『兼好法師』(中公新書、2017)によれば、次のような状況です。(p34以下)

-------
京鎌間を往復する人々
 【中略】
 さて金沢文庫古文書に見える氏名未詳の仮名書状のうち、かなりの数がこの時期の当主や一門に仕える女房のものらしい(女性は原則署名しない)。ところで金沢流北条氏の僧侶・女性は、貞顕の在京を好機に上洛する者があり、寺社参詣や遊山を楽しんでいる。剱阿も嘉元元年(一三〇三)九月から半年余り在京し、貞顕夫妻の歓待を受けた。実時の娘で、貞顕には叔母かつ養母でもあった谷殿永忍〔やつどのえいにん〕は、一門女性の中心的存在であった。この谷殿が嘉元三年から翌年にかけて上洛、貞顕の妻妾らをも率いて畿内を巡礼している。貞顕は剱阿に「さてもやつどのの御のぼり候て、たうとき所々へも御まいり候」(金文四七四号)と言い遣るが、女性たちの書状ではもちきりの話題で、「さても御ものまうで〔物詣〕、いまはそのご〔期〕なき御事にて候やらん」(金文二九八三号)、「なら〔奈良〕うちはのこりなくをが〔拝〕みて候し、きやう〔京〕にはとりあつめ四五日候しほどに、ゆめ〔夢〕をみたるやうにてこそ候へ」(金文二八五一号)といった具合である。なお奈良下向では谷殿が「御あつらへものゝ日記」(金文二七四九号)を忘れず携えたことを報告しているが、留守の人たちが希望した土産物リストらしい(かつての海外旅行を髣髴とさせる)。周囲含めて賑やかな女性であるが、谷殿の話題が目立つのは、彼女宛ての書状が多数剱阿にもたらされたからである。さらに倉栖兼雄の「母儀尼」も上洛して来た(金文五六一号)。当時の上層の人々、女性も意外に行動的であった。
-------

無学祖元の弟子という無着の立場は同時代の女性の中でもかなり特殊なので、その出家の時期や出家の動機については、必ずしも当時の女性の一般的な出家と同列に扱うことはできません。
出家すれば世間的な規範からは自由になれますから上洛も可能ですが、しかし、安達泰盛の娘である以上、平禅門の乱までは不自由な生活を強いられたでしょうし、娘(釈迦堂殿)と足利貞氏の結婚や高義の出産などにも無関係という訳にはいかなかったでしょうから、やはりその上洛は貞顕の六波羅探題就任後と考えるのが自然ですね。
もちろん無着の上洛の理由は、谷殿永忍などとは違って物見遊山ではありませんが、貞顕が六波羅探題という要職にあったことは無着の在京生活にも多大な恩恵を与えたでしょうね。
資寿院の創建にも貞顕の物心両面での援助があったのではないかと私は想像します。
なお、「貞顕夫妻の歓待を受けた」「貞顕の妻妾らをも率いて畿内を巡礼」とありますが、この「妻」は貞顕の正室である北条時村の娘ではなく、在京中の夫人「薬師堂殿」ですね。
「薬師堂殿」は勧修寺流吉田家の人らしく、永井晋氏は貞顕の男子の一人・貞冬の「冬」は吉田定房の弟冬方の偏諱で、貞冬の母が「薬師堂殿」ではないかと推定されています。(『人物叢書 金沢貞顕』、p19)。
ついでながら吉田定房の正室は四条隆顕の娘で、『徒然草』の社会圏と『とはずがたり』の社会圏がかなり近いことについては以前触れたことがあります。
また、谷殿の物見遊山の旅には案内役として後深草院二条がいても不思議ではないですね。
昔はそんなことを言うと小説の世界になってしまうな、と思っていたのですが、早歌関係の史料を見れば「白拍子三条」と金沢貞顕に直接の面識があったことは明らかです。
「西禅寺長老」宛ての文保二年三月十二日付の大仏貞直書状は西禅寺の外護者であった小串範秀を間接的な名宛人としているのではないかと思われますが、小串範秀も早歌の世界ではなかなかの有名人で、ここでも後深草院二条との接点がありそうです。

四条隆顕の女子は吉田定房室
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/018001665f2510c0b5e3f3363a6afb19
四条隆顕室は吉田経長の従姉妹
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25a8703d016d35481d7f649f76bf941c
五味文彦氏『「徒然草」の歴史学』再読
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ad095c508bdc2589e396484540913d33
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高義母・釈迦堂殿の立場(その3)

2021-02-26 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月26日(金)18時15分4秒

旧サイト『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』で荒川玲子氏の「景愛寺の沿革-尼五山研究の一齣-」(『書陵部紀要』28号、1976)やバーバラ・ルーシュ氏の「無外如大の場合」(『もう一つの中世像』所収、思文閣出版、1991)、原田正俊氏の「女人と禅宗」(『中世を考える-仏と女』所収、吉川弘文館、1997)、そして山家浩樹氏の二つの論文に即して無外如大についてあれこれ考えていたのは2001年の春です。
以来、早くも二十年の月日が経ってしまいましたが、無外如大は時々話題になるので多少は情報の更新をしていたものの、無着については全くノータッチでした。
今回、釈迦堂殿の母である無着を中心に据えて再考してみたところ、無着は上杉清子や赤橋登子などの尊氏周辺の女性の生き方を考える上で本当に参考になる女性ですね。
(その2)で無着と釈迦堂殿の生年をそれぞれ建長五年(1253)頃、建治元年(1275)頃と推定してみましたが、この当たらずといえども遠からず程度の推定に基づいて無着の人生を時系列で整理してみると、

-------
建長五年(1253)頃 安達泰盛の娘として誕生
年次不明      金沢顕時(1248生)の正室(後室?)となる
建治元年(1275)頃 女子(釈迦堂殿)誕生
年次不明      無学祖元の弟子となる
弘安六年(1285)  霜月騒動で父・泰盛を始め一族郎党滅亡 顕時出家、下総国埴生庄に移る
永仁元年(1293)  四月二十二日、平禅門の乱。二十七日、顕時鎌倉に戻る
永仁二年(1294)  十月、顕時、引付四番頭人に補任される
永仁四年(1296)  正月、顕時、引付三番頭人に補任される
年次不明      女子(釈迦堂殿)が足利貞氏の正室となる
永仁五年(1297)  女子(釈迦堂殿)が高義を生む
正安三年(1301)  三月二十八日、顕時卒去、五十五歳
年次不明      京都に移る 今小路に居住
          資寿院を創建
文保元年(1317)  十二月十五日付の「静念の御房」宛の大仏貞直書状あり
          この日までに逝去か
文保二年(1318)  三月十二日の「西禅寺長老」宛ての大仏貞直書状あり
-------

といった具合です。
安達泰盛の娘として生まれ、結婚相手も北条一族の名門、そして男子には恵まれなかったものの二十代で子供も出産していますから、弘安六年(1285)の霜月騒動までは本当に恵まれた人生ですね。
しかし、霜月騒動で父親を始め家族・一族郎党は殆ど皆殺しとなり、以後、平禅門の乱までの八年間は夫とともに逼塞を余儀なくされたものと思われます。
無学祖元の弟子となったのは霜月騒動の前か後かは分かりませんが、無学祖元は弘安二年(1279)に来日し、弘安九年(1286)九月三日示寂なので、時期はかなり限定されますね。
出家の時期は顕時と一緒かもしれませんが、女性で無学祖元の弟子というのは相当に珍しい存在であり、親族の菩提を弔うといった一般的な女性の出家理由とは動機が異なるように感じます。
さて、平禅門の乱の直後に顕時は鎌倉に戻り、幕府の要職に就任しますが、正安三年(1301)に五十五歳で卒去となります。
無着が京都へ移った時期は分かりませんが、顕時卒去の翌正安四年(乾元元、1332)、貞時が六波羅探題南方として上洛するので、これに同行したのかもしれません。
そうだとすれば、この時、無着は五十歳くらいですね。
この年齢で鎌倉から京都に移り、資寿院を創建した訳ですから、無着は単なる個人的な信仰を超えた目的を持ち、それを実現する強い意志を持った知的な女性と考えてよいと思います。
三十代頃に苦難の時期があったけれども、それを乗り越えて五十歳を超えて新天地である京都に向かい、無学祖元の弟子という誇りを胸に理想の禅院を作ろうとした極めて知的な女性、というのが私の想定する無着像です。
文保二年(1318)三月十二日の「西禅寺長老」宛ての大仏貞直書状に見られる「今小路禅尼之素意」という表現は明らかに「今小路禅尼」が死去していることを示しており、前年十二月十五日付の「静念の御房」宛ての大仏貞直書状も「今小路禅尼」の死去を前提とするものと読むのが自然ですから、仮に没年が文保元年(1317)とすれば六十五歳くらいとなりますね。
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高義母・釈迦堂殿の立場(その2)

2021-02-26 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月26日(金)12時39分11秒

無外如大と無着の履歴が混同されて出来上がった「安達千代野」については、ウィキペディアの記事がよく纏まっていますね。

安達千代野
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E5%8D%83%E4%BB%A3%E9%87%8E

鎌倉の海蔵寺には「底脱の井」がありますが、リンク先サイトはこの井戸にまつわる千代野伝説を丁寧に紹介しています。

鎌倉海蔵寺の「底脱の井」にまつわる話。
https://www.visiontimesjp.com/?p=3678

また、岐阜県関市の松見寺も千代野ゆかりの寺として有名で、同寺の公式サイトには、

-------
松見寺は、岐阜県美濃地方屈指の由緒ある禅寺である。鎌倉時代中期に室町幕府初代将軍足利尊氏公の祖母に当たる俗名千代野が広見の里に草庵を訪ね、ここで禅の修行をつみ大悟(悟りをひらく)し、鎌倉に帰ったのち、再度広見の地を訪ねて開山となり、以降古くより「千代野寺」としても多くの人に親しまれている。
 現在も境内には、歴史を偲ばす「開山お手植えの大杉(関市天然記念物)」が悠然とそびえている。
https://shoukenji.1net.jp/achievements.html#contents

などとあります。
さて、山家氏は「無外如大の創建寺院」(『三浦古文化』53号、1993)を書かれた五年後に「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』301号、1998)を書かれ、無外如大と無着の履歴の混同を解明されました。
つまり前者の時点では山家氏自身も無外如大と無着を混同されていた訳ですが、後者を読んでから前者を読むと、無着の後半生も割と明瞭に浮かび上がってくるように感じます。
特に興味深いのが次の史料です。

-------
 鎌倉時代の資寿院を伝える史料に、次の二通の文書がある(7)。

資寿禅院の事、くわんれい仕候へきよし、かしこまり候てうけ給候ぬ、かやうの事ハ、はしめても思たちたく存候に、かくのことく御計のうゑハ、本木松木嶋事、ゆめ/\しさいあるましく侯、御心やすくこそおほしめされ侯ハめと申させ給へく侯、あなかしこ/\
  文保元※十二月十五日   貞なを(花押影)
  静念の御房
         申させ給ヘ

資寿禅院事、任今小路禅尼之素意、有御執務、可被致御祈祷候、恐々謹言、
      文保二年三月十二日 散位(花押)
     西禅寺長老         ○右の花押に同じ

如大の死後と思われる文保元(一三一七)年、大仏貞直は、資寿院の外護者となり、翌年、西禅寺長老の管轄のもとに置いている。今小路禅尼は、如大を指すのか、その後継者か、明らかでない。
 如大が資寿院に寄進した本木松木嶋の保証をしている点から推測すると、大仏貞直は、このとき在京していたのであろう。貞直は、元応二(一三二〇)年頃、関東で引付頭人となるが、それ以前の活動は明らかでない。この頃、大仏惟貞が六波羅探題南方に在職しており、あるいは惟貞に従っていたのかもしれない。

http://web.archive.org/web/20061006213232/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai-jiin.htm

山家氏は「今小路禅尼は、如大を指すのか、その後継者か、明らかでない」とされますが、資寿院を創建したのは無外如大ではなく無着ですから、ここに登場する「今小路禅尼」は無着でしょうね。
「任今小路禅尼之素意」とあるので、文保二年(1318)の時点では無着は亡くなっていたものと思われます。
今小路は京都の地名なので無着は京都に居住していた訳ですが、いつの時点で鎌倉から京都に移ったかというと、夫の金沢顕時が正安三年(1301)三月二十八日に五十五歳で亡くなり、翌乾元元年(1302)七月七日に貞顕が六波羅探題南方として上洛しているので、貞顕の上洛と一緒か、その少し後あたりでしょうか。
貞顕は父・顕時の側室である遠藤為俊女の子なので無着は実母ではありませんが、二人の関係は悪くはなく、資寿院建立にも貞顕の援助があったものと想像されます。
ところで貞顕は延慶元年(1308)十二月に六波羅南方を辞し、鎌倉に戻りますが、同三年(1310)六月二十五日、六波羅北方として再度上洛します。
そして、正和三年(1314)に六波羅北方を辞して十一月十六日、鎌倉に戻り、翌四年(1315)七月十一日、連署に補任されます。
この貞顕の動向と上記の二つの文書を照らし合わせると、貞顕は資寿院の保護を在京の大仏貞直に依頼していた、ということではなかろうかと思います。
無着はさすがに安達泰盛の娘だけあって、視野が広く、行動力に富んだ極めて知的な女性のような感じがします。
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高義母・釈迦堂殿の立場(その1)

2021-02-25 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月25日(木)10時39分28秒

私は以前、足利貞氏の正室・釈迦堂殿と側室・上杉清子が、高義遺児と尊氏のいずれを足利家当主とするかをめぐって対立していたと考えていたのですが、この点も根本的な誤りだったかもしれないな、と思うようになりました。

「釈迦堂殿」VS.上杉清子、女の闘い
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91b1aecdbf8e51163dbf3e675bda3a57

高義の母・釈迦堂殿は金沢顕時と安達泰盛娘の間に生まれていますが、生年も不明で、金沢貞顕(1278-1333)の異母姉かそれとも妹かも分かりません。
ただ、母親の安達泰盛娘についてはそれなりに経歴が分かっています。
この女性は法名を無着といいますが、無着については山家浩樹氏に「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』301号、1998)という論文があります。

http://web.archive.org/web/20061006213421/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai.htm

有名な禅僧は男ばかりというマッチョな禅宗世界において、無外如大(1223~98)という尼僧は例外的にかなり有名な人なのですが、しかし、室町期に無着との混同が始まって、近世になると無外如大の経歴は「ひとりの人物の伝として成り立たちえない」(山家氏)ものになってしまいます。
上記論文において、山家氏は無外如大と無着の経歴を丁寧に分析され、無外如大は上杉氏の関係者だったのではないかとの仮説を立てられました。
この点、従前から四条家に関心を持っていた私は、無外如大は足利義氏の娘で、四条隆親に嫁して隆顕を生んだ女性ではないか、と想像して、無外如大の周辺を少し調べたことがあるのですが、結局よく分かりませんでした。
そして、四条隆顕の母は割と早く亡くなったらしいことも分かってきて、私の四条隆顕母=無外如大説は「妄想」だったかなあ、と思いつつ、まだあきらめきれないのが現状です。
ま、それはともかく、無外如大ほどの有名人ではないにしても、無着も無学祖元の弟子であり、寺院を建立するなどして禅宗の発展に貢献した女性です。
その履歴は夢窓疎石(1275-1351)の署判する貞和五年(1349)六月十一日付「資寿院置文」(相国寺慈照院所蔵)という文書に記されていて、これは信頼性の高い史料です。
そして、そこには、

-------
資寿院本願無着比丘尼
 城奥州禅門息女
 金沢越州禅門<恵日>後室
 仏光禅師御小師
釈迦堂殿者無着息女
    浄妙寺殿
  足利讃岐入道殿内房
-------

と記されています。
つまり、京都松木嶋の地に資寿院を創建した無着の父は「城奥州禅門」安達泰盛、夫は「金沢越州禅門恵日」、即ち顕時で、娘が「足利讃岐入道」貞氏(1273-1331)の後室で「釈迦堂殿」と呼ばれた女性であることも明確です。
また、山家氏は、上記論文の注(4)において、

-------
 無着の娘釈迦堂殿は、足利貞氏に嫁ぐ。貞氏の室は、他に上杉清子が知られるが、出自から釈迦堂殿にあたる人物が正妻で、一時家督を嗣ぎながら早生した高義は、釈迦堂殿の子と考えられる(千田孝明氏「足利氏の歴史」『足利氏の歴史』所収、栃木県立博物館、1985年、など参照)。『稲荷山浄妙禅寺略記』(浄妙寺蔵、『鎌倉』 六四に翻刻)では、清子を正室とし、側室で高義の母「仁和寺殿契忍大姉」は、高義のため、鎌倉浄妙寺の隣に延福寺を建立し、暦応元年(1338)九月九日に死去したという。釈迦堂殿と仁和寺殿契忍大姉は同一人物であろうが、詳細は未詳である。貫達人・川副武胤氏著『鎌倉廃寺辞典』(有隣堂、1980年)延福寺の項参照。

http://web.archive.org/web/20061006220942/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai-02.htm

とされています。
さて、無着と釈迦堂殿の生年は未詳ですが、

安達泰盛(1231-85)─無着─釈迦堂殿─足利高義(1297-1317)

という関係なので、安達泰盛と足利高義の生年の差・66年を三等分して、無着が1253年頃、釈迦堂殿が1275年頃の生まれとすると、まあ、当たらずといえども遠からずかな、という感じがします。
無着は金沢顕時(1248-1301)の「後室」なので釈迦堂殿の生年はもう少し後ろにずれるかもしれませんが、高義の生年(1297)を考慮すると、無着の父・安達泰盛が殺された霜月騒動(1285)の後とは考えられないですね。
そして、霜月騒動が無着と釈迦堂殿の人生に多大な影響を与えたことは間違いありません。
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「貞顕は、生まれながらの嫡子ではなかったのである」(by 永井晋氏)

2021-02-24 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月24日(水)12時25分31秒

『足利氏と関東』についての他の不満に比べるとそれほどの不満でもないのですが、清水克行氏が「妾腹の二男坊」という表現を繰り返す点も、私にとってはプチ不満です。
リンク先の2014年6月18日付産経新聞記事は清水説を素直に要約したものになっていますが、タイトルがすごいですね。

-------
【夫婦の日本史】足利尊氏、政権取った「妾腹の次男坊」

 足利尊氏は、実に謎の多い人物である。後醍醐天皇の呼びかけに応じて鎌倉幕府を倒したものの、のちには天皇に背き、室町幕府を開いた。強気と弱気が交錯し、躁鬱気質の診断を下す歴史家もいるほどだ。
 だが最新の研究では、彼の言動を複雑なものにした最大の要因は、その出自と若き日の結婚問題にあったとする見方が提示されている。
【中略】
 「青年時代の尊氏については分からないことが多かった。若いころ苦悩の日々を送ったことが、のちに“武門の棟梁”と仰がれる、彼の器量の大きさと、行動の不可解さにつながったともいえるのではないか」
 関東の中世史に詳しい清水克行・明治大教授は話す。
 その後の尊氏と登子が、どのような夫婦生活を送ったかは、不思議なほどに伝わらない。しかし、登子は尊氏と死別後も京都で一門の中心にあり、孫の義満の成長を見届けて亡くなった。実家や北条一門を滅亡に追いやった夫のことを、どのようにみていたのだろうか。


「その後の尊氏と登子が、どのような夫婦生活を送ったかは、不思議なほどに伝わらない」とありますが、登子は暦応三年(1340)に二男の基氏を生んだりしていますから、「実家や北条一門を滅亡に追いやった夫」とそれなりに仲良く暮らしていたのでしょうね。
ま、それはともかく、鎌倉時代の「特権的支配層」(細川重男氏の用語)の中でも、嫡子の地位は別に血統で全てが決まる訳ではなくて、候補者の資質・才能も重要な判断材料ですね。
一番重要なのは「家」の存続ですから、たとえ正室の生んだ長男であっても、頭がそれほど良くなかったり体が虚弱だったりすれば、嫡子からはずれることは普通にあったはずです。
私もそうした事例を網羅的に挙げるほどの知識はありませんが、例えば高義の母である釈迦堂殿が後ろ盾にしたであろう異母兄(または弟)の金沢貞顕も、決して血統だけで嫡子になった人ではありません。
永井晋氏の『人物叢書 金沢貞顕』(吉川弘文館、2003)によれば、

-------
 金沢貞顕は、弘安元年(一二七八)に北条顕時と摂津国御家人遠藤為俊の娘(入殿〔いりどの〕)との間に誕生した(「遠藤系図」)。顕時は三十一歳、実時の嫡子として順調に昇進し、鎌倉幕府の評定衆を勤めていた。母方の遠藤氏は、摂津国と河内国にまたがる大江御厨を本領とした一族である。大江御厨には良港として知られた渡辺津(大阪府大阪市東区)があった。渡辺は「国衙の大渡」の辺りを意味すると考えられている(『新修大阪市史』)。遠藤氏は、この湊を管理する渡辺惣官を勤めていた。また、摂関家とのつながりも深く、為俊は摂家将軍九条頼経の時代に鎌倉に下り、幕府の奉行人を勤めた。金沢氏と遠藤氏とのつながりは、為俊が鎌倉に下向した後に生まれたものであろう。貞顕の同母兄弟には文永十年(一二七三)に誕生した兄甘縄顕実、生年未詳の兄式部大夫時雄(生年不詳~一三〇四)がいた。
【中略】
 北条顕時の正室は安達泰盛の娘で、顕時と正室との間には足利貞氏の正室となった女子(釈迦堂殿、生年不詳~一三三八)が知られるのみである。顕時の長子は、文永六年(一二六九)に誕生した顕弁である。顕弁の母は『金文』一四号に「弁公母儀」と見えるが、出自は明らかでない。他にも母未詳の兄左近大夫将監顕景(生年不詳~一三一七)、正宗寺本の北条系図にみえる式部大夫顕雄がいた。ただ、顕雄の名は正宗寺本にのみ見えるので、貞顕の周辺で式部大夫殿(唐名は李部)という場合は同母兄弟の時雄を指すと考えてよいだろう。
 北条顕時追善供養のために起草された諷誦文は、貞顕が三人の兄を超越して家督をついだと記している。貞顕は越後六郎を通称としたことから、五人の兄がいた可能性がある。現在確認されている貞顕の兄のうち、僧籍にあった顕弁を除く顕実・時雄・顕景の三人が超越の対象になったと考えてよいであろう。貞顕は、生まれながらの嫡子ではなかったのである。
-------

とのことで(p4以下)、「摂家将軍九条頼経の時代に鎌倉に下り、幕府の奉行人を勤めた」という遠藤為俊の経歴は上杉家の祖・重房と似ていますね。
北条顕時の場合は正室に男子が生まれなかったという点で足利貞氏とは事情が異なりますが、遠藤為俊女を母とする同母兄弟の中では貞顕より五歳も上の顕実が嫡子とならず、「貞顕が三人の兄を超越して家督をつい」でいます。
この点、永井氏は、

-------
 この時代の家督の選び方には、長幼の順を重んじた理運と、当人の才能を重んじた器量がある。貞顕が甘縄顕実・式部大夫時雄・左近将監顕景の三人の兄を超えて家督を嗣いだと意識する以上、器量によって選ばれたと考えてよいであろう。
-------

とされていますが(p17)、五歳上の同母兄・甘縄顕実も決して無能な人ではなく、貞顕ほどではないにしても幕府でそれなりの役職に就任しています。
また、文化面でも早歌の隆盛に大いに貢献しているような人物です。
こうした兄を「超越」したということは、貞顕の「器量」がよっぽど優れていたことを示していますね。
とすると、足利家において尊氏の「器量」はどのように評価されたのか。

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その2)
「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その5)

>筆綾丸さん
>森田公一とトップギャラン『青春時代』(1973)
ずいぶん懐かしい名前です。
ユーチューブで久しぶりに聞いてみましたが、ちょっと気恥しくなるような歌詞ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
2021/02/23(火) 14:44:58
「青春時代の真ん中は 道に迷っているばかり(阿久悠)」
小太郎さん
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/seishun.html
青春といえば、漱石の『三四郎』や鷗外の『青年』はともかくとして、森田公一とトップギャラン『青春時代』(1973)とともに、萩尾望都の名作『トーマの心臓』(1974)を思い出します。
そして、春に関連して言えば、以前、直義と師直の「直」には、フロイトのheimlich(親密な)≒umheimlich(不気味な)のようなものがあると述べましたが、直冬と師冬の「冬」にも同じようなものがあり、なぜ、かくも諱の一字を同じうするのか、と昔から疑問に思っています。
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「八方美人で投げ出し屋」考(その7)

2021-02-23 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月23日(火)12時40分0秒

「薄明のなかの青春」の一番の問題は、清水氏が近代的・現代的な家族観・結婚観・「青春」観で中世人を見ている点ですね。
例えば「青春」は明らかに近代的な概念です。
少し検索してみたところ、依岡隆児氏(徳島大学教授、比較文学)に「旧制高校からみた「青春」概念の形成」という論文があり、

-------
 本稿は、旧制高校が日本の近代化において「青春」概念を定着させる役割をはたしたことを、ドイツとの関係を中心に明らかにすることを目的としている。着眼点は、青春があって旧制高校でそれが広まったというよりも、むしろ旧制高校ができて、それに合わせて青春が加工・形成されたとみる点にある。
【中略】
 ここではこうした旧制高校を、近代以前の日本にはなかったとされる「青春」を容れる「器」とみなし、日本の近代において「青春」がいかに形作られていったか、そしてそれがいかにドイツからの影響を受けていたかを明らかにする。
 ドイツとの関わりを中心にしたのは、青春の概念が旧制高校で根付くのは、大正から昭和にかけてと考えられるが、それには当時入ってきたドイツ文化の影響が大きかったからだ。ドイツの教育制度などを参考にし、外国語、特にドイツ語が重視されたばかりではなく、教養主義や青春小説が流行し、ドイツ人講師たちと「学生」(旧制高校生は「生徒」ではなく「学生」と呼ばれた)たちとの全人的交流が展開された。こうした旧制高校的なドイツ文化受容が日本の「青春」の概念化にある種の傾向をもたらしたと考えられる。そこでここでは、旧制高校において人気だったドイツの小説・戯曲に注目した。

https://repo.lib.tokushima-u.ac.jp/ja/113610

といった議論が展開されています。
もちろん中世武家社会にも知識と経験に乏しい若い世代は存在しますが、そうした存在に相応しい表現としては、例えば「若武者」があります。
京都から船上山に向かって進軍した当日に久我縄手であっさり殺されてしまった名越高家などは「若武者」の代表格ですね。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/415a9f71066ce2245de4749fd995e5ae
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e87381cb1d9254070905e3a1d3e5fe82

「青春」という表現を使えば、「多感な年頃」「中途半端」「人格形成」「先行きは不透明」といった名詞や修飾語も直ちに動員され、最終的には「婚姻前不安〔マリッジブルー〕」にまで行き着きます。
近代的な学校教育の下での「青春」を経て形成された清水氏自身の「人格」や価値観が、清水氏が描くところの尊氏の人間像に流れ込んでしまっているような感じですね。
もちろん、同じ人間なのだから、喜怒哀楽、いずれについても現代人が中世人と共有できる点はありますが、しかし歴史研究者としては、彼らが現代人とは全く異なる価値観を持った存在かもしれない、という緊張感を失ってはいけないと思います。
特に家族観・結婚観はおよそ現代人とはかけ離れていて、一夫多妻制や妻妾同居など、イスラム社会はともかく、普通の現代日本人にはなかなか想像しにくい事態ですね。
更に尊氏の場合、妻の赤橋登子の家族・一族を皆殺しにした人で、現代であれば単なる殺人鬼・サイコパスです。
また、赤橋登子だって、そんな夫と離縁せず、義詮(1330生)を生んだ十年後に基氏を生んだりしている訳ですから、現代的な夫婦の感覚では相当に気持ち悪い存在で、こちらも尊氏同様にサイコパスですね。
ま、多くの歴史研究者は、彼らがおよそ現代的な家族観・夫婦観で扱えるような対象ではないことを了解していますから、二人をサイコパス夫婦などとは考えませんが、清水氏の発想を突き詰めていったら、次の世代の歴史研究者からは真面目にそんなことを言い出す人が出てきそうです。
さて、私の清水説批判の弱点としては、清水氏が強調される仮名の問題、そして父・貞氏が若年の高義には当主の座を譲ったのに尊氏にはそうしなかった、という問題が残ります。
前者については、高義の遺児を擁する釈迦堂殿、そしてその背後に控えていたであろう釈迦堂殿の異母兄(または弟)の金沢貞顕への配慮で一応の説明はできそうですが、貞氏の方は健康状態との関係が不明なので、なかなか分かりにくいところです。
ただ、討幕を決意して以降の尊氏は足利家をきちんと統率しているように見えるので、正式には当主ではなかったとしても、実質的には相当前から家政を掌握していたと考えてよいのではないかと思います。
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「八方美人で投げ出し屋」考(その6)

2021-02-22 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月22日(月)12時03分44秒

亀田俊和氏の『観応の擾乱』(中公新書、2017)を足利直冬を中心に据えて読み直してみたのですが、直冬はなかなか難しい存在ですね。
そして『太平記』は本当に煮ても焼いても食えないテキストだなあ、と改めて感じました。
また、尊氏が庶子の直冬を嫌っていた訳ではないとすると、清水克行氏が描く足利尊氏の「薄明のなかの青春」も、ますます奇妙な物語になってきますね。
(その5)で引用した「尊氏と登子の婚姻が義詮誕生の直前であったとすれば、直冬の母「越前ノ局」なる女性は、尊氏が登子と婚姻を結ぶ直前に、尊氏と「一夜通ヒ」の性愛関係をもったことになるだろう」に続いて、清水氏は次のように書かれています。(p30)

-------
 本来なら日の目をみることのない"妾腹の二男坊"の境遇から、兄の不慮の死によって足利家の家督後継者に祭りあげられ、周囲から北条一族との婚姻までお膳立てされてゆく過程で、二十代前半の尊氏の胸中にはいかなる感慨があったのか。いまは推測する手立てはない。しかし、想像をたくましくすれば、直冬の母との一夜限りの関係は、自身の意向とは無関係に運命の階段を上らされていく尊氏が、婚姻前不安〔マリッジブルー〕のなかで表わした、自身の運命へのささやかな抵抗であったのかもしれない。しかし、そうした若き日の焦燥のなかで犯した一夜の過ちの代償は、あまりに高く、この後、彼を生涯にわたって深く苦しめ続けるのである。
-------

史料に基づいて「推測する手立てはない」にも関わらず、「想像をたくましくす」るのが清水氏の常套的な思考パターンですね。
そして、「若き日の焦燥のなかで犯した一夜の過ちの代償」といった具合に、実際には「若き日の焦燥」という単なる「推測」に別の「推測」を重ねているだけなのに、前の「推測」がいつの間にか事実に転化してしまうのも清水氏の思考パターンの特徴です。
さて、尊氏の家族関係について、細川重男説に従って尊氏と正室・赤橋登子との婚姻時期を尊氏の叙爵前後とし、時系列に従って整理すると、

元応元年(1319)頃 赤橋登子を正室に迎える
元亨三年(1323)頃 加子基氏女を側室とする
正中元年(1324)頃 加子基氏女、竹若を産む
嘉暦元年(1326)頃 「越前局」に「一夜通ヒ」(?)
嘉暦二年(1327)頃 「越前局」、直冬を産む
元徳二年(1330)  赤橋登子・義詮を産む

となります。
若くして有力な北条一門・赤橋家から正室を迎え、正室になかなか子供が生まれないためか側室も迎え、時々は正室・側室ではない女性とも「性愛関係」を持つということですから、足利家が「特権的支配層」(細川氏の用語)の一員であったという点を除けば、なんとも平凡な「ごく普通の鎌倉御家人の家族」(p26)ですね。
以上は尊氏と正室・赤橋登子との婚姻時期について細川説に従った場合の話ですが、この種の人的関係の相場観は「鎌倉政権上級職員表」(『鎌倉政権得宗政権論』)をまとめた細川氏の判断が信頼できますね。
ということで、清水氏が描く「薄明のなかの青春」とは異なり、尊氏は兄・高義の死を受けて若くして足利家の嫡子となったのであって、決して「日陰の身」(p24)ではなく、「十年以上にわたって中途半端な立場におかれ続けていた」(同)訳でもなく、「十代から二十代前半にかけての多感な年頃に尊氏がおかれた中途半端な立場は、その後の彼の人格形成に少なからぬ陰影を与え」(p25)た訳でもなさそうですね。
また、竹若の母との関係は「小さいながらも彼が初めて築いた家族」(同)ではなく、赤橋登子との婚姻は「先々代家時の二の舞はもうごめんだ。そう考えて、足利家内外の何者かが仕掛けた弥縫策」(p28)ではなく、それが「おそらく足利家の執事であった高師重あたりの画策」(同)ということもなさそうです。
そして、「義詮誕生四年前の嘉暦元年(一三二六)には、これまで無位無官で放置されてきた尊氏の弟直義が、突然、二十歳で初めて従五位下・兵部大輔に叙任されている(『公卿補任』)。こうした直義の急な昇進なども、同時期の尊氏と登子との婚姻による足利氏と北条氏の接近によって初めて実現したもの」ではなく、義詮の誕生の「その陰で、加子氏の娘と、それ以前に尊氏と彼女とのあいだに生まれていた竹若の運命が暗転」(同)した訳でもなく、「尊氏は北条一族との婚姻により、家督後継者としての座を確かなものとしたが、その地位は、青春の日にみずからが築こうとした小さなひとつの家族の犠牲のうえに成り立つものだった」(p29)訳でもない、ということになります。
つまり、清水氏が描いた「薄明のなかの青春」は殆どが単なる妄想ということですね。
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「尊氏が庶子の直冬を嫌っていたと書かれているのは、『太平記』だけなのです」(by 亀田俊和氏)

2021-02-21 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月21日(日)10時45分36秒

昨日は珍しく投稿を休んでしまいましたが、これは亀田俊和氏の「新説5 観応の擾乱の主要因は足利直冬の処遇問題だった」(『新説の日本史』所収、SB新書、2021)を読んで、直冬について考え直さなければいけないな、と思ったからです。

-------
『新説の日本史』
第2章 中世 亀田俊和
 新説4 承久の乱の目的は鎌倉幕府の打倒だったのか
 新説5 観応の擾乱の主要因は足利直冬の処遇問題だった
 新説6 応仁の乱の主な原因は将軍の後継者争いではなかった

https://www.sbcr.jp/product/4815609054/

亀田氏は「直冬をどのように処遇するのかについて、直義の方針に高師直が異を唱えたことが、観応の擾乱の直接的な契機になったと、私は考えています」(p80)とされた上で、次のように書かれています。(p88)

-------
 従来、尊氏は直冬のことを、実子であるにもかかわらず異常なほど嫌っていたと考えられてきました。私もかつてはその通説を信じていて、尊氏は、「義詮と直冬を東西に配して全国統治をするという直義のプラン」に反対だったと考えていました。
 しかし、現在では考えを改めています。尊氏は直冬を嫌ってはいませんし、このプランにも反対していないのです。
 実際、尊氏が庶子の直冬を嫌っていたと書かれているのは、『太平記』だけなのです。もちろん、観応の擾乱では敵対関係になるわけですが、少なくとも尊氏と直義が対立関係になる前は、尊氏が直冬を嫌っていたという確かな証拠はありません。むしろ義詮と直冬がほぼ同じ官位を得ていたことからも、尊氏がこの二人を同等に扱っていたのは間違いないと思います。
-------

『観応の擾乱』(中公新書、2017)とは全然違うではないか、と思って同書を確認すると、

-------
 河内国四条畷の戦いが高師直の圧勝で終わった後、紀伊国で南朝軍が蜂起した。直義は、養子直冬を紀伊に遠征させ、反乱を鎮圧させることにした。直冬の初陣である。
【中略】
 直冬は、養父直義の期待に見事に応えた。しかし、実父尊氏はまったく喜ばなかった。ようやく渋々認知して尊氏邸への出仕は許したが、その扱いは仁木・細川といった家臣並みだった。
 また執事高師直も主君である将軍尊氏に同調して、直冬を冷遇したらしい。後述するように、師直は義詮を尊氏の後継者とすることに晩年の政治生命をかけていた気配がある。観応の擾乱の主原因の一つである、直冬の問題がここに醸成されたのである。
 尊氏が実子直冬をここまで嫌った理由については、尊氏の正妻赤橋登子が直冬を忌み嫌ったなどの諸説があるが、史料的に裏づけることはできない。ともかく生理的に嫌っていたことは確かであるようだ。
-------

とあるので(p39以下)、尊氏が直冬を嫌っていなかったというのは亀田氏自身にとってもつい最近の「新説」という訳ですね。
「生理的に嫌っていたことは確か」からの急転直下の改説なので、正直、ちょっとびっくりしたのですが、この「新説」が正しいとすると、高師直は尊氏も同意していた「義詮と直冬を東西に配して全国統治をするという直義のプラン」を破壊した訳ですから、尊氏の怒りを買うのは当然です。
また、後に摂津打出浜の戦いに敗れた師直・師泰兄弟に対して尊氏が極めて冷酷で、「上杉修理亮」(能憲または重季)による高一族の惨殺を事実上黙認したことも、もともとお前らが起こしたトラブルではないか、といった気持ちの現れと考えることができそうです。
ということで、この「新説」に従うと、今までうまくピースが嵌らないように思えていたジグソーパズルがけっこう綺麗に仕上がるような感じがするので、おそらく正しいのでしょうが、もう少し考えてみたいと思います。
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「八方美人で投げ出し屋」考(その5)

2021-02-19 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月19日(金)10時09分56秒

大河ドラマ『足利尊氏と関東』の第Ⅰ部「足利尊氏の履歴書」第一節「薄明のなかの青春」は、「妾腹の子」「兄高義の死」「最初の妻と子」「赤橋登子」と回を重ねて、いよいよ「一夜の過ち」となります。
本当にドラマチックなタイトルですね。(p28以下)

-------
 やがて元徳二年(一三三〇)には、尊氏と登子とのあいだに嫡男義詮が生まれる。しかし、その陰で、加子氏の娘と、それ以前に尊氏と彼女とのあいだに生まれていた竹若の運命は暗転することになる。登子との婚姻以前、加子氏の娘が尊氏の正室であったか側室であったのかは明らかではないが、いずれにしても登子との婚姻により彼女の地位は側室に確定する。そして義詮誕生により、竹若の地位も尊氏の庶長子に貶められてしまうことになる。尊氏が鎌倉幕府に反逆したとき、すでに竹若は鎌倉の足利本邸におらず、伊豆山走湯権現の伯父のもとに預けられていたとされるが、これなども、この時点で、もはや竹若が足利家から遠ざけられてしまっていたことを物語っていよう。尊氏は北条一族との婚姻により、家督後継者の座を確かなものとしたが、その地位は、青春の日に自らが築こうとした小さなひとつの家庭の犠牲のうえに成り立つものだったのである。
-------

前回投稿で書いたように、私は尊氏と登子の婚姻時期は元応元年(1319)十月の尊氏叙爵の前後と考えます。
そして婚姻後も正室・登子になかなか子供が生まれない状況のなかで、加子氏の娘が側室となり、正中元年(1324)前後に竹若を産んだものと想像します。
「義詮誕生により、竹若の地位も尊氏の庶長子に」確定しますが、それは加子氏の娘が側室となった時から想定されていたことで、別に「竹若の運命」が「暗転」した訳でも、竹若が「貶められてしま」った訳でもないと私は考えます。
それにしても、側室というのは婚姻関係の一つの形態ですから、「将来に対する展望が開けぬまま、当初、尊氏は加子氏との婚姻関係を築くことを真剣に模索していたようだ」(p26)と「登子との婚姻以前、加子氏の娘が尊氏の正室であったか側室であったのかは明らかではない」との記述に整合性があるのでしょうか。(反語)
また、「青春の日に自らが築こうとした小さなひとつの家庭」は奇妙に現代的、というか今では少し時代遅れになってしまった感もある、戦後民主主義の世代が夢見た理想のマイホームみたいな感じがしますが、尊氏がそんなものを願った史料的根拠は何かあるのでしょうか。(反語)
もっというと、中世においてそもそも「青春」があったのかも疑問です。
中世武家社会においては、男子は元服の前後で子供から大人へと社会的地位は一変し、女子も子供を産める年齢になったらいきなり大人扱いされて結婚を強いられ、男女ともに「青春」など存在せず、現代の「青春」に相当する年代の若者は単に知識・経験が乏しい大人にすぎないと私は理解していたのですが、最近の歴史学界では私のような考え方は古風に過ぎるのでしょうか。(反語)
ということで、私は第一節の「薄明のなかの青春」というタイトルが既に全面的に誤りと考えます。
ま、それはともかく、続きです。(p29)

-------
 そして、もうひとつ、尊氏の家族関係でいえば、後々まで彼を苦しめることになる悲劇の種がこのときに蒔かれることになる。南北朝内乱の風雲児、足利直冬の出生である。『太平記』によれば、直冬は尊氏と「越前ノ局」という女性のあいだに「一夜通ヒ」で生まれたとされている。そのため、どうも尊氏は直冬を一夜の過ちで生まれた子ども、もしくは本当に自分の子どもかどうかすら疑わしい男と考えていたらしい。結果、尊氏は生涯にわたり彼に父親としての愛情を示すこともなく、終始、冷たくあしらい続ける。これにより叔父直義の養子とされてしまった直冬は、胸中に尊氏に対する強い憎悪の念を秘め、やがて実の父を死ぬまで追いつめる運命を背負うことになる。
 この過酷な運命の子、直冬の生まれ年は伝わっていないが、応永七年(一四〇〇)に七十四歳で死去したという「足利将軍家系図」(『系図纂要』)の記載をもとに逆算すれば、彼は嘉暦二年(一三二七)に生まれたことになる。これに従えば、直冬は尊氏二十三歳のときの出生で、義詮より三歳年長だったということになる。尊氏と登子の婚姻が義詮誕生の直前であったとすれば、直冬の母「越前ノ局」なる女性は、尊氏が登子と婚姻を結ぶ直前に、尊氏と「一夜通ヒ」の性愛関係をもったことになるだろう。
-------

うーむ。
直冬が「嘉暦二年(一三二七)に生まれた」とすれば、「尊氏と「一夜通ヒ」の性愛関係をもった」のはその前年となりそうですが、それは「尊氏が登子と婚姻を結ぶ直前」なのでしょうか。
「悲劇の種」「過酷な運命の子」といった清水氏の安物メロドラマ的な言語感覚はともかくとして、この「直前」の用法は一般的な時間感覚とも相当にずれているように感じます。
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「八方美人で投げ出し屋」考(その4)

2021-02-18 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月18日(木)20時28分25秒

ということで、尊氏と赤橋登子の婚姻時期について検討してみます。
まあ、別にこれは中世史研究者の多くが注目する重大問題という訳ではありませんが、清水克行氏が第一節「薄明のなかの青春」で描いた尊氏像が正しいのか、それとも単なる妄想なのかを判断する材料としてはそれなりに重要ですね。
まず、清水氏の見解を確認すると、清水氏は小見出しを「赤橋登子」とした上で、次のような推論を展開されます。(p26以下)

-------
 ところが、周囲の環境がそれを許さなかったようだ。尊氏は、最終的に北条一族の赤橋氏から赤橋登子を正室に迎えることになる。尊氏について書かれた伝記のなかには、登子との婚姻が尊氏の元服直後であるかのように記述している文献もあるが、その婚姻がいつのことであったのか、じつは明確な史料は存在しない。登子とのあいだの第一子、義詮が元徳二年(一三三〇)、尊氏二十六歳のときに生まれていることを考えれば、彼と登子の婚姻は、元服直後というよりは、それから十年近く経ってからのことだったのではないだろうか。
-------

実は清水氏の主張自体、ちょっと理解しにくい不整合があります。
清水氏は「尊氏は十五歳になると、当時の慣例にしたがい元服し、元応元年(一三一九)十月に朝廷から従五位下・治部大輔の官位を与えられている(『公卿補任』)」(p24)とされているので、「彼と登子の婚姻は、元服直後というよりは、それから十年近く経ってからのこと」となると、元徳元年(1329)頃となりそうです。
しかし、清水氏は上記部分に更にいくつかの推論を重ねた上で、

-------
 義詮誕生四年前の嘉暦元年(一三二六)には、これまで無位無官で放置されてきた尊氏の弟直義が、突然、二十歳で初めて従五位下・兵部大輔に叙任されている(『公卿補任』)。こうした直義の急な昇進なども、同時期の尊氏と登子との婚姻による足利氏と北条氏の接近という事態によってはじめて実現したものと思われる。
-------

とされており(p28)、「嘉暦元年(一三二六)」と「同時期」であれば先の記述とは三年ずれます。
「それから十年近く経ってから」ではなく、七年ですね。
ということで、何だかよく分からないのですが、細川重男氏の見解を紹介した上で、改めて考えてみたいと思います。
呉座勇一氏編『南朝研究の最前線』(洋泉社、2016)所収の「足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?」において、細川氏は次のように書かれています。(p95以下)

-------
足利家における尊氏の立場

 尊氏に高義という異母兄があったことは近時特に注目され、高義についての研究が深まっている(清水:二〇一三)。金沢顕時の娘を母とする高義が父貞氏の嫡子、尊氏が庶子であったことは明らかである。
 だが、高義は尊氏十三歳の文保元年(一三一七)に二十一歳で早世した。尊氏は二年後の元応元年十月、十五歳で叙爵、治部大輔に任官している。
 同母弟の直義が、嘉暦元年(一三二六)に叙爵し兵部大輔に任官していることから、尊氏は叙爵時点では貞氏嫡子の地位が定まっておらず、嫡子確定は、子息の義詮が生まれた元徳二年(一三三〇)六月をそう遡らない時期との見解が近年出されている(清水:二〇一三)。
 だが、義詮の母、すなわち尊氏の正室は赤橋家出身の登子(一三〇六~六五)であり、登子は尊氏の一歳下、義詮誕生時には二十五歳である。尊氏と登子の婚姻を義詮誕生の直前とすれば、登子の婚姻は二十代中ごろとなり、当時の女性の婚姻年齢としては遅すぎる。
 例えば、北条時宗が安達義景(一二一〇~五三)の娘(貞時の母。一二五二~一三〇六)と婚姻した時、時宗は十一歳、義景の娘は十歳である。前述のごとく、赤橋家は得宗家およびその傍流に次ぐ家格であり、登子が二十歳過ぎまで婚姻しなかったとは考えがたい。
 また、直義の叙爵年齢は二十歳であり、これでも鎌倉末期の御家人としては十分に早く、足利氏の家格の高さを示すものではあるが、尊氏より五歳も遅い。尊氏との間に嫡庶の差があることは明白である。登子の兄赤橋守時(十六代執権。一二九五~一三三三)の叙爵が十三歳であることを考慮すれば、尊氏の叙爵年齢は赤橋家嫡子に准ずると言える。
 私見では、尊氏は十五歳での叙爵時点で足利氏の嫡子に定められており、登子との婚姻も叙爵の前後と考える。
 尊氏は祖父家時と同じく北条氏を母としなかったが、叙爵年齢や赤橋登子との婚姻からすれば、北条氏・鎌倉幕府の側は、家時同様に足利家嫡子として処遇したと言うことができる。尊氏が鎌倉幕府から離反した理由を、北条氏との関係の薄さに求める見解もあるが、足利氏の鎌倉幕府における地位はすでに安定しており、ことさらに強調すべきではない。
-------

清水氏の見解自体に不整合があるので、細川氏も若干困惑されたかもしれませんが、「尊氏と登子の婚姻を義詮誕生の直前とすれば、登子の婚姻は二十代中ごろとなり、当時の女性の婚姻年齢としては遅すぎる」という細川説は説得的ですね。
仮に「義詮誕生の直前」、即ち元徳元年(1329)ではなく三年前の嘉暦元年(1326)としても、登子は二十一歳ですから、やはり遅すぎますね。
結論として私は清水説は誤りだと考えますが、清水氏が自説の根拠のひとつとした仮名の問題、即ち元服時の尊氏の仮名が「三郎」ではなく「又太郎」であったことをどう考えるか、という問題は残ります。
この点は細川氏も特に言及されておられませんが、元応元年(1319)の時点では、高義遺児の存在を考慮して、尊氏は「中継ぎの嫡子」として扱われた可能性もあるのかな、と思います。
細川説に従って尊氏と赤橋登子との婚姻を元応元年(1319)頃とすると、義詮が生まれるまで十年ほどの時が流れることになりますが、まあ、これは普通にあることですね。
そして、竹若の誕生について、「逆算すれば、竹若は一三二〇年前後には誕生していたことになる」という清水氏の勘違いを修正して正中元年(1324)頃と考えれば、加子基氏の娘は「最初の妻」ではない可能性が高いですね。
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「八方美人で投げ出し屋」考(その3)

2021-02-18 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月18日(木)12時33分19秒

「妾腹の子」に続く小見出しは「兄高義の死」ですが、この部分は二年前に少し検討しました。

「尊氏の運命、ひいては大袈裟ではなく日本の歴史を大きく変える不測の事態」(by 清水克行氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/71b81690120a880e7c1589183c634df0

リンク先の投稿で【後略】とした部分は、

-------
兄高義がわずか十九歳で家督を継承しているのに対し、尊氏が足利家家督の座に就くのは、父の死後、ようやく彼が二十七歳になってからのことだった。幼少期、"日陰の身"におかれていた尊氏の境遇は、必ずしも兄の死によって劇的に変化したわけではなく、その後も彼の存在は十年以上にわたって中途半端な立場におかれ続けていたのである。
-------

となっています。
「日陰の身」云々は、昭和どころか戦前の通俗大衆小説のようなチープな言語感覚ですね。
さて、次の小見出しは「最初の妻と子」です。(p24以下)
この部分に関しては細川重男氏の批判があり(『南朝研究の最前線』所収、「足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?」)、私は細川説が正しいと思いますが、まずは清水説をそのまま紹介します。

-------
 尊氏は十五歳になると、当時の慣例にしたがい元服し、元応元年(一三一九)十月に朝廷から従五位下・治部大輔の官位を与えられている(『公卿補任』)。このとき尊氏が従五位下・治部大輔という官位を与えられたという事実をもって、尊氏が足利家の家督後継者として確定されたとする見解もあるが、後述するように、この数年後、尊氏がまだ従五位下であるときに、弟である直義にも従五位下・兵部大輔という官位が与えられている。とすれば、このとき尊氏が叙爵・任官されたこと、それ自体を即座に家督後継者の地位と結びつけることはできないだろう。
 むしろ、その一方で彼の元服の際の仮名(通称名)が「又太郎」であったということは無視できない。なぜなら、代々足利家の嫡男は「三郎」を名乗るきまりになっていたからだ。このきまりは厳密に守られ、先祖家氏は嫡男からはずされたことで、仮名を「三郎」から「太郎」に変えているほどである(家氏については、百十五頁参照)。兄の死後にもかかわらず、尊氏が「又太郎」と名づけられている事実は、このとき依然として彼が家督継承者としては微妙な地位にあったことを示しているのだろう。十代から二十代前半にかけての多感な年頃に尊氏がおかれた中途半端な立場は、その後の彼の人格形成に少なからぬ影響を与えているように、私には思えてならない。
-------

この後、清水氏は「こうした不安定な立場にあったときの尊氏の心の慰めになっていたもののひとつが、和歌の世界であった」(p25)として、歌人としての尊氏をほんの少し論じますが、この部分は別途検討します。
そして「最初の妻と子」についての具体的な説明となります。

-------
 そして、彼のもうひとつの心の支えとなったのが、小さいながらも彼が初めて築いた家族であった。尊氏には生涯六男四女、計十人の子女がいたことが確認できるが、その「長男」(『太平記』)となったのが竹若とよばれる男の子であった。系図『尊卑分脈』によれば、竹若は、足利家の庶流、加子基氏の娘と尊氏のあいだに生まれた子どもである。竹若は、伊豆山走湯権現(現在の静岡県熱海市)に住んでいたが、鎌倉幕府滅亡時、母の兄で密厳院別当の覚遍に匿われて、山伏姿で抜け出し、都を目指したとされる(『太平記』)。このとき竹若という幼名を名乗っていた以上、元服前であったことはたしかだが、山伏姿に変装して逃亡したとすれば、まったくの乳幼児であったとは考えにくい。おそらく当時十歳前後にはなっていたのではないだろうか。だとすれば、逆算すれば、竹若は一三二〇年前後には誕生していたことになる。尊氏がまだ十代後半頃のことである。
 竹若の母の父、加子基氏は足利泰氏の末子で、足利一族の庶家にあたる人物である。この頃、尊氏は足利家の後継候補の一人であったとはいえ、先行きは不透明で、実体は妾腹の二男坊であることを考えれば、その妻には加子氏ていどの身分の者こそがふさわしい。将来に対する展望が開けぬまま、当初、尊氏は加子氏との婚姻関係を築くことを真剣に模索していたようだ。そして、もしその路線が順調に維持されていたとすれば、尊氏も加子氏も竹若も、ごく普通の鎌倉御家人の家族として、ごく普通の人生を送っていたのかもしれない。
-------

うーむ。
いろいろ奇妙な記述が多いように感じますが、まず、竹若が鎌倉幕府滅亡時(1333)に数えで「十歳前後」だとしたら、「逆算すれば、竹若は一三二〇年前後には誕生していたことになる」訳ではなく、「一三二四年前後」であり、尊氏は「まだ十代後半頃」ではなく、「二十歳頃」ですね。
それと、「尊氏は加子氏との婚姻関係を築くことを真剣に模索していたようだ」とありますが、「真剣に模索していた」ことを根拠づける史料の存否を問うのは酷だとしても、そもそも竹若は、直冬などとは異なり尊氏も正式に認めていた子ですから、加子基氏の娘は正室ではないだけで、尊氏との間の「婚姻関係」は存在していたのではないですかね。
また、当時の「ごく普通の鎌倉御家人の家族」は一夫多妻だと思いますが、「彼のもうひとつの心の支えとなったのが、小さいながらも彼が初めて築いた家族」といった表現は何だか現代の一夫一婦制の「婚姻関係」を前提としているような感じで、これも奇妙ですね。
このように清水氏の叙述は、清水氏自身が大きく貢献された歴史学の最新の成果と、陳腐でチープなメロドラマのシナリオみたいな部分がまだら模様になっていて実にヘンテコなのですが、仮に加子基氏の娘が「最初の妻」でなかったら、そのヘンテコさは更に増大します。
そこで、尊氏と正室・赤橋登子との婚姻の時期が問題となってきます。
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「八方美人で投げ出し屋」考(その2)

2021-02-17 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月17日(水)10時06分27秒

清水克行氏の描く尊氏は「病める貴公子」、即ち精神的に複雑に屈折した血統エリートですが、私は恵まれた環境で結構のびのびと育った教育エリートではないかと思っています。
『人をあるく 足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)の構成は、観光案内のような第Ⅲ部を除くと、

-------
 転換する尊氏像―「天下の逆賊」から「病める貴公子」へ

Ⅰ 足利尊氏の履歴書
 一 薄明のなかの青春
 二 尊氏と後醍醐
 三 室町幕府の成立
 四 果てしなき戦い

Ⅱ 歴代足利一族をめぐる伝説と史実
 一 異常な血統?
 二 義兼の遺言
 三 泰氏の「自由出家」事件
 四 祖父家時の切腹
 五 父貞氏の発狂

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b122516.html

となっていますが、特に第Ⅱ部はドロドロの血の世界ですね。
ただ、例えば「父貞氏の発狂」については、本当に「発狂」といえるような状態だったのかについて、私は極めて懐疑的です。
清水氏は『門葉記』という仏教関係の史料に「物狂所労」との表現があることから、これを「精神錯乱の病気」とし、貞氏は「明らかに発狂の徴証のある人物」、「彼については精神疾患の事実を認めるほかない」と断じる訳ですが、祈禱の効果を強調したい側の一方的記録に基づいてここまで言うのは軽率ではなかろうか、と私は思います。
そもそも「精神錯乱の病気」の人が、いったん「隠居」した後、「再び足利家の家督の座に復帰し、家政をとりしきっている」状態を十五年続けることができるのか。
私も精神医学の専門的知識など全くありませんが、素直に考えれば貞氏の「物狂所労」は憂鬱で無気力な状態が長く続いた程度の話ではないかと思います。

「尊氏の運命、ひいては大袈裟ではなく日本の歴史を大きく変える不測の事態」(by 清水克行氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/71b81690120a880e7c1589183c634df0

さて、第Ⅱ部の「異常な血統?」以下の話はひとまず置いて、尊氏個人に関する第Ⅰ部をもう少し具体的に見て行くと、「一 薄明のなかの青春」は「妾腹の子」という陰気な小見出しで始まります。(p20以下)

-------
妾腹の子
 【中略】
 ただ、尊氏の場合、出生地すら不明であるというのには、わけがあった。あまり一般には知られていないことだが、じつは彼にはひとりの兄がおり、尊氏は誕生の時点では足利家の後継者になる予定ではなかったのだ。
 尊氏の兄、高義は、尊氏より八歳年長で、永仁五年(一二九七)に誕生していた(『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」)。母は、北条一族中の名族である金沢顕時の娘で、のちに釈迦堂殿と称せられる女性だった。足利氏の当主は代々北条一族の女性を正室に迎えていたが、貞氏もその例外ではなく、金沢北条氏の娘を正室とし、そのあいだに生まれた高義を当初は嫡男としていたのである。
 これに対し、尊氏の母、上杉清子は、後世の文献には足利貞氏の「室」(正室)と記されているもの(「稲荷山浄妙禅寺略記」)もあるが、実際には上杉家は足利家の家臣筋で、彼女は貞氏の「家女房」(『尊卑分脈』)とも称される側室であった(おそらく彼女の生んだ尊氏がのちに足利家の当主になるにおよんで、後世、彼女が貞氏の正室と認識されるようになってしまったのだろう)。貞氏と清子のあいだには尊氏出生の二年後に、のちに尊氏の片腕として活躍する直義(初名は「高国」とも「忠義」ともされるが、本書では「直義」で統一する)も生まれているが、あくまでふたりは側室の子であり、また二男・三男であることから、当初は足利家の家督とは何の縁もない立場におかれていたのである。また、尊氏を生んだとき、父貞氏は三十三歳、母清子は三十六歳という、当時としては十分な壮年に達していたが、それもすでに足利家には高義という立派な跡取りがいたことを思えば、さほど不思議でなことではない。尊氏・直義兄弟は、両親がすでにもう若くない年齢になって生まれた妾腹の二男・三男坊であり、そのまま何事もなければ、彼らが歴史に名をとどめることも決してなかったはずの存在なのであった。
-------

清水氏は高義が「尊氏より八歳年長で、永仁五年(一二九七)に誕生していた」ことを発見され、尊氏と直義が二歳違いであることも確定されていますが、自身の最新の業績を誇示せずに実にさりげなく記す点、いかにも立教のシティボーイらしいお洒落な感覚が伺えますね。
ただ、清水氏の描く「妾腹の子」「側室の子」「妾腹の二男・三男坊」への否定的なイメージはかなり現代的な感覚であって、血統を維持するために複数の妻が存在するのが当たり前だった中世人の感覚とはかなりズレがあるように思われます。
特に上杉家の場合、家祖・重房が宗尊親王に伴って東下してきた勧修寺流の中級貴族の家柄であり、その文化的水準は極めて高く、親戚を通じて京都情勢にも詳しくて、「足利家の家臣筋」の中でも別格の存在です。
従って、清子を系図に記す場合には「家女房」とならざるを得ないとしても、足利家の中で、清子は決して軽んじられていた存在ではなかったはずですね。

「釈迦堂殿」VS.上杉清子、女の闘い
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91b1aecdbf8e51163dbf3e675bda3a57
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「八方美人で投げ出し屋」考(その1)

2021-02-16 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月16日(火)11時11分12秒

『臥雲日件録抜尤』享徳四年(1455)正月十九日条に登場する「松岩寺冬三老僧」がいかなる人物であるかはかなり明確となり、そしてこの記事の尊氏エピソードが信頼できそうなことも分かりましたが、尊氏が毎年、年頭の吉書で書いていたという文言は難解ですね。
清水克行氏は「天下の政道、私あるべからず。生死の根源、早く切断すべし」とされていますが(『足利尊氏と関東』、p44)、原文は「尊氏毎歳々首吉書曰、天下政道、不可有私、次生死根源、早可截断云々」となっていて「次」がありますから、「天下政道、不可有私」と「生死根源、早可截断」は必ずしも一体として読む必要はなさそうです。
清水氏の場合、後者の「生死根源、早可截断」から「どうも勇気があるというよりは、元来、彼には生死に対する執着が希薄だったようだ」、「自身の命への執着が薄い」という具合いに一種の自殺願望を読み取っておられますが、これは「生死」を尊氏個人の「生死」とすることを前提としています。
しかし、本当にそうなのか。
むしろ、ある種の哲学的思考の表明と読む方が自然であり、また、尊氏に臨済禅の素養があることを踏まえると、禅に特有のパラドキシカルな表現の可能性も考慮に入れる必要がありそうです。
かくいう私自身には禅の素養が全くないので、現時点ではこれ以上の分析はできませんが、それでも清水氏の、既に紹介した、

-------
 また、尊氏は自身の命への執着が薄いというだけではなく、親族や腹臣であっても状況次第では意外に冷たく突き放すところがある。実子である竹若や直冬への対応はすでにみたとおりであるし、この後、弟直義や執事の高師直との関係がこじれたときも、苦楽をともにしてきたわりには、面倒になると案外あっさりとこのふたりを切り捨ててしまっている。ふだんは相手によらず無類の愛着を示しておきながら、状況次第では簡単に見切ってしまう、やや無節操ともいうべき傾向が、尊氏の対人関係にはままみられる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea0333130fe14c47391316eb21ce5401

という評価、そしてこれに続く、

-------
 そう考えると、夢窓礎石が指摘した三点にわたる尊氏の人間的魅力については、それを度量の広さ、と評することもできるが、裏を返せば、すべてにおいて無頓着、ということもできる。よくも悪くも"無私"の人というべきだろうか。その場、その場では周囲に気を使い、適当に他人にいい顔をみせるのだが、それはとくに深い思慮があってのことではなく、状況が暗転すると、簡単にすべてを放り出してしまう。八方美人で投げ出し屋─、だれのなかにも大なり小なりある、こうした傾向が尊氏の場合、少しばかり強かったのかもしれない。
 このような、みずからを明るく周囲に調和させようと努める一方で、内に虚無主義〔ニヒリズム〕を抱える彼の性格が、はたして彼の生まれもっての性格なのか、周囲の環境によって育まれたものなのか、明確にはわからない。【後略】
-------

という評価は、いくら何でもあんまりではなかろうか、と思います。
「尊氏毎歳々首吉書曰、天下政道、不可有私、次生死根源、早可截断云々」の内容を私は正確には理解できませんが、「天下政道、不可有私」だけでも、尊氏が「天下政道」のあり方に強い責任感・使命感を持っていて、自身の責任・使命を果たすためには「私」に拘泥してはならない、という信念を抱いていたことが伺えます。
清水氏は「よくも悪くも"無私"の人というべきだろうか」とシニカルに評価されますが、私は尊氏の「無私」の精神は文字通りに受け止めるべきではないかと考えます。
また、「生死根源、早可截断」からも、私はその内容を正確につかめないものの、そこに尊氏の「深い思慮」を感じます。
そもそも「すべてにおいて無頓着」な人が、毎年毎年、吉書で自己の信念を表明するとも思えません。
率直に言って、「とくに深い思慮があってのことではなく、状況が暗転すると、簡単にすべてを放り出してしまう。八方美人で投げ出し屋」、「みずからを明るく周囲に調和させようと努める一方で、内に虚無主義〔ニヒリズム〕を抱える彼の性格」という尊氏評は、尊氏という複雑な鏡に映った清水氏自身の姿なのではないか、と私は思います。
例えば『臥雲日件録抜尤』享徳四年(1455)正月十九日条の尊氏エピソードにしても、清水氏はこれが「松岩寺冬三老僧」という人物が語った話であることを明示していません。
このエピソードの信頼性をはかる上で、これを語ったのは誰で、その人が尊氏とどのような関係にあるのか、は極めて重要であり、論文であればその点についての本文ないし注記での説明が必須となるはずです。
もちろん『足利尊氏と関東』は一般書なので、この書に限れば特にそのような説明はなくともよいのですが、清水氏は何か別の論文等でこの点を明確にされているのでしょうか。
それをされていないのであれば、「八方美人で投げ出し屋」は清水氏に相応しい評価ではなかろうかと思います。
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「彼の子息で禅僧となった松蔭常宗は、嵯峨の善成邸に蓬春軒、のちの松厳寺(松岩寺)を開いた」(by 赤坂恒明氏)

2021-02-15 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月15日(月)10時07分29秒

ついでなので、小川剛生氏『二条良基研究』(笠間書院、2005)の「附章 四辻善成の生涯」から、四辻善成の親族関係を少し見ておきます。
歴史学の研究者で四辻善成に興味を持っている人は少ないでしょうが、国文学の世界では『河海抄』の著者として有名な人です。
ちなみに『河海抄』を始め、『源氏物語』の古注釈書は『水原抄』(源光行・源親行)、『細流抄』(三条西実隆)、『山下水』(三条西実枝)、『岷江入楚』(中院通勝 )、『湖月抄』(北村季吟)といった具合に水っぽいタイトルが多いですね。

源氏物語研究の水分
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/53728bd65df1659c9ce5633243cffb50

小川論文は、

-------
一 はじめに
二 四辻宮家の成立
三 廷臣としての善成(1)
四 廷臣としての善成(2)
五 源氏学者としての善成(1)
六 源氏学者としての善成(2)
七 歌人としての善成(1)
八 歌人としての善成(2)
九 歌人としての善成(3)
十 おわりに
-------

と構成されていますが、第三節の冒頭から引用します。(p558以下)

-------
 善成は、尊卑分脈の一本の注記より逆算すると、嘉暦元年(一三二六)の生である。父は善統親王の男、尊雅王(田中本帝系図・尊卑分脈)。母は未詳。
 善成の係累についての史料は極めて乏しく、系譜にも疑問が多い。殊に父王には殆ど事績が伝わらず、僅かに善統が亡くなる前年に所領を譲られた「四辻若宮」という人物がおり、元亨三年(一三二三)までは生存していて、これが尊雅王と考えられるだけである。但し善統は八十五歳の高齢で没したというから、果たしてその実子かどうかも疑われてくる。
 系譜上は善統─尊雅─善成となっているが、尊雅と善成はともに岩倉宮忠房の実子であった可能性がある。忠房は弘安末年(一二八七)頃の生で、嘉暦元年には四十歳前後である。善統の最晩年には岩蔵宮との相論も決着し、忠房は後宇多院に頗る愛されその猶子となって立身していたから、もし善統に跡を継ぐべき王子がいなければ、忠房の男が四辻宮の継嗣に立てられることはありえなくはないのである。【中略】
 なお、兄と伝えられるのが、禅僧無極至玄(一二八二-一三五九)である。しかし四十四歳も上であるから善統の子かも知れない。臨済宗夢窓派に属し、天龍寺第二世住持となった。善成も禅宗に帰依し、中納言の時、春屋妙葩より法名を授けられたことが河海抄巻二〇、寺習の「きせいたいとくになりて」の注、中書本系統の一本に加えられた裏書に見えている。
 智泉聖通(一三〇九-一三八八)は十七歳の姉である。石清水八幡宮の祠官善法寺紀通清に嫁した。その女には足利義詮の寵を受け、義満・満詮を産んだ従一位良子、後光厳院の後宮に入り、後円融院の生母となった崇賢門院仲子がいる。このため聖通は晩年公武の尊崇を受けた。曇華院の開基である。
-------

小川氏は善成の父・尊雅王には「殆ど事績が伝わらず」とされていますが、赤坂恒明氏の『「王」と呼ばれた皇族』(吉川弘文館、2020)には若干の追加的情報がありますね。
ま、それでも僅かではありますが。
尊雅王は生年も不明ですが、善統親王は貞永二年(天福元、1233)生まれ、無極至玄は弘安五年(1282)生まれなので、その間をとって正嘉年間(1257~59)くらいの誕生でしょうか。
ただ、仮に1258年生まれとすると、1326年生まれの善成は尊雅王が六十九歳のときの子となり、あり得ないことではないとしても若干不自然な感じは否めません。

「絹本著色無極志玄像」(『文化遺産データベース』サイト内)
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/278423/2

十七歳上の姉・智泉聖通は足利義満(1358-1408)と後円融院(1358-93)の外祖母で、この関係が今谷明氏の義満皇位簒奪説のひとつの根拠となりましたが(『室町の王権』)、今では今谷説の支持者は殆どいない状況ですね。
さて、善成は青年期はそれほど恵まれた境遇でもなかったようですが、二条良基の庇護を受け、更に義満との関係で最終的には従一位・左大臣となります。
その経歴はなかなか興味深い点が多いのですが、足利尊氏との直接の関係は殆どないので、小川論文の紹介はこの程度にとどめておきます。
なお、赤坂恒明氏の『「王」と呼ばれた皇族』には、

-------
 四辻善成は、官位を上昇させ、ついには従一位・左大臣という高位・高官にまで昇った。これは、彼が足利義満の母方の大叔父であったためでもあったろう。
 左大臣に任じられた後、善成は、さらに親王となることを望んだ。しかし、この希望は叶えられず、応永二年(一三九五)八月、左大臣を在任一ヵ月余りで辞退して出家し、嵯峨に移り住んだ。
 彼の子息で禅僧となった松蔭常宗は、嵯峨の善成邸に蓬春軒、のちの松厳寺(松岩寺)を開いた。松厳寺は、明治時代に天龍寺の境内に移転し、天龍寺の塔頭として現在に至っている。
-------

とあります。(p223)
「蓬春軒」は赤坂著で初めて知りましたが、それが松厳寺(松岩寺)となった経緯を含め、もう少し調べてみようと思います。

-------
『「王」と呼ばれた皇族 古代・中世皇統の末流』
日本の皇族の一員でありながら、これまで十分に知られることのなかった「王」。平将門の乱を扇動した興世(おきよ)王、源平合戦を引き起こした以仁(もちひと)王、天皇に成り損ねた忠成王など、有名・無名のさまざまな「王」たちの事績を、逸話も織り交ぜて紹介。影が薄い彼らに光を当て、日本史上に位置づける。皇族の周縁部から皇室制度史の全体像に迫る初めての書。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b487640.html
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