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流布本も読んでみる。(その2)─実朝暗殺

2023-03-15 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p50以下)

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 大膳大夫広元、「加様〔かやう〕の時は、御装束の下に為被召〔めされたら〕んに苦しくも候まじ」とて、唐綾威〔からあやおどし〕の御著背〔きせ〕(なが)一領進〔まゐ〕らせたりけるを、文章博士、「何条〔なんでふ〕さる事可有」とて留〔とどめ〕奉る。広元、頻〔しきり〕に「昼さて有ばや」と申けるを、仲章、「必〔かならず〕秉燭〔へいしよく〕にて仕〔つかまつる〕事なり」とて、戌の時とぞ被定〔さだめられ〕ける。若宮へ参著、車より下させ給けるが、細太刀の柄の、車の手形に入たりけるを知せ給はで、打をらせ給ひぬ。人、浅猿〔あさま〕しと見奉る程に、仲章、「苦しく候はじ」とて木を結添てぞ進らせける。劉皇王と云ひし人、遠く道を行けるに、車の轅〔ながえ〕折れたりけるを不覚〔さとらず〕して、再び帰る事を不得。先車の覆へすは、必後車の戒むる所也と知ながら、諫不申〔いさめまうさざり〕ける文章博士、一業所感の衆生なればやと哀なり。是耳〔これのみ〕ならず、黒き犬、車の前を横様に走り通る事有けり。是も左有べし共覚へぬ不思議也。
 去程に、若宮の石橋の辺に近付せ給ふ時、美僧三人、何〔いづ〕くより来共もなく、御後に立添ひ進せけるが、左右なく頸を打をとし進らす。一太刀は笏〔しやく〕にて合せ給ひぬ。次の太刀に切伏られ給ふ。又、次の刀に文章博士仲章、被切にけり。次の刀に伯耆前司師範、疵を蒙りて、翌日に失ぬ。前後に候ける随兵・供奉〔ぐぶ〕の輩〔ともがら〕には、「如何なる事ぞや」と周章〔あはて〕騒ぐ。敵〔かたき〕は誰共不知。暗さは暗し。上を下にぞ返しける。訇〔ののし〕る声、恀〔おびただ〕し共疎〔おろか〕也。
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公卿による実朝暗殺場面は諸書で異なりますが、松林氏の補注(p152以下)を孫引きすると、

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前田家本 「次にいづくよりともなき女房の、中の下馬の橋の辺より、うす絹きたりけるがニ三人ほど走りたりとぞみえし。いつかよりけむ、薄絹うちのけ、ほそみの太刀をぬくとぞみえし。大臣殿を切たてまつる」。

六代勝事記 「秉燭の後、奉幣事をはりて退出の所に、変化の賊ありて主人をきることいなづまのごとくきりて、つじ風のごとくにさりぬ」

吾妻鏡 「及夜陰、神拝事終、漸令退出御之処、当宮別当阿闍梨公暁、窺来于石階之際、取剣奉侵丞相(実朝)。其後、隨兵等雖馳罵于宮中、<武田五郎信光進先登>無所覓讎敵。或人云、於上宮之砌、別当阿闍梨公暁討父敵之由、被名謁云々」。

愚管抄・巻六 「夜ニ入テ奉幣終テ、宝前ノ石橋ヲ下リテ、扈従ノ公卿列立シタル前ヲ揖シテ、下襲尻引テ、笏モチテユキケルヲ、法師ノケウサウトキント云物シタル、馳カゝリテ、下ガサネノ尻ノ上ニノボリテ、カシラヲ一ノ刀ニハ切テタフレケレバ、頸ヲウチヲトシテ取リケリ。(中略)一ノ刀ノ時、親ノ敵ハカクウツゾト云ケル。公卿ドモアザヤカニ皆聞ケリ」。
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といった具合です。
松林氏は『増鏡』『神皇正統記』『北条九代記』の関係個所も引用されていますが、これらは時期が遅くて史料的価値は劣りますね。
なお、前田家本は現在では流布本から派生していることが明らかになっているので、これも時期は遅くなります。
さて、慈光寺本には実朝暗殺の詳しい叙述はなく、従来、流布本は主に『吾妻鏡』を参照したのだろうとされてきましたが、両者を比較してみると、『吾妻鏡』には源仲章・「伯耆前司師範」殺害記事がないなど、異同も相当にあります。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma24a-01.htm

従って、流布本が『吾妻鏡』を利用したとは断定できず、逆に『吾妻鏡』が『六代勝事記』などとともに流布本を参照した可能性もありますね。
また、『吾妻鏡』にも、大江広元が「自分は成人した後、目に涙を浮かべたことはありませんが、今は何故か落涙を禁じ得ません。これはただ事ではありません。きっと何か訳があります。東大寺供養の日に右大将軍(頼朝)が出掛けられたときの先例に従い、御束帯の下に腹巻を着けて下さい」と言ったけれども源仲章が拒否した、という有名なエピソードが出てきますが、流布本と比較すると、これも両者に異同があって、流布本が『吾妻鏡』を一方的に参照したとは言い切れず、逆の可能性もありますね。

「私は泣いたことがない」(by 中森明菜&大江広元)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd8e2c752fc97439861694a8f43c1eb3

ま、それはともかく、続きです。(p51以下)

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 是は、若宮の別当公暁の仕業〔しわざ〕なりと云出されて、三浦平六左衛門尉承て、彼坊中を捜しけれ共、逐電して見へ給はず。立合〔たてあふ〕者、少々被討ぬ。疵を蒙者もあり、召捕らるゝ者も多し。此別当と申(は)、故左衛門督頼家の御子、四歳にて父にをくれ給ひて、賤き身なし子にて御座しを、祖母の二位殿、哀れみ給ふて養立て、若宮の別当になし、今年十九年にぞ成給ふ。此両三年、御所中に化物有けり。女の姿にて常に人に行あふ。「如何にもして(入)所を見よ」とて見せけれ共、足早く身軽して如幻〔まぼろしのごとし〕。行衛を見たる者なしと聞しが、今こそ此人にて有けりと被知ける。
 其後、若宮別当とて、所々にて多く被打、被搦取けれ共、実〔まこ〕とは少なし。一説には、三浦平六左衛門尉子息、若宮の児〔ちご〕成し間、其を頼みて、若宮の後ろを山越に、西の御門へ被越けるが、正月廿七日の夜、竟〔きはめ〕て暗さは暗し、大雪さへ雨〔ふり〕たりければ、山の上より転〔ころび〕落て、西の御門なる小屋の上へ落懸りたりけるを、家主さはぎ、盗人と号して打殺けるを、其夜、犬共集りて終夜〔よもすがら〕引散す。明る朝見けれ共、其の身体慥〔たし〕かならず、唯此人の仕業ざ成けりとて静りける。
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公暁は泥棒と間違えられて殴り殺され、死体は野良犬が食い散らかしたので、翌朝になって検分しても本人かどうか分からなかったというのですから、なかなか悲惨な最期ですが、ここは『吾妻鏡』とはずいぶん違いますね。
『吾妻鏡』によれば、公暁は実朝の生首を持って、後見である備中阿闍梨の雪下北谷の宅に行き、食事する間もその生首を離さなかったのだそうです。
そして、三浦義村の子息・駒若丸(光村)が門弟となっていた縁を頼り、義村の許に使者を派遣して、「今、将軍はいなくなった。私が関東の長になるのだ。速やかに取り計らうように」と告げます。
すると義村は、使者には「私の屋敷に来てください、迎えの兵士を出しましょう」などと言いつつ、使者が去った後、北条義時に事情を知らせると、義時から直ちに誅殺せよとの命令を受けたので、一族を集めて相談します。
そして、長尾新六定景を討手に指名し、定景は雑賀次郎以下五人の郎従を率いて公暁がいる備中阿闍梨の宅に向かいますが、公暁は義村の使者が遅いのでしびれを切らし、鶴岡八幡宮の裏山に登り、義村邸に向かうと、その途中で定景一党と遭遇し、首を取られてしまいます。
定景が公暁の首を持ち帰ると、すぐに義村は義時の邸にその首を持参し、義時は出居でその首を見て、その際には安東忠家が指燭を持っていたが、北条泰時は「まだはっきりと公卿の顔を見たことがなく、なお疑いが残る」と言ったのだそうです。
まあ、生首が二つ登場する『吾妻鏡』の方がリアルな感じはしますが、逆に些か作り話めいた感じもしないでもありません。
ただ、公暁の死に関しては、流布本が『吾妻鏡』に依拠していないことは明らかですね。

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